自分と歴史が繋がる喜びを感じたオフ会
(jfn-6・如水会ネットML交信より)

(1)
Sun, 13 Jul 2003
                              春山@H2社です
このネットを通じて御縁の深い小芝さん、渡邊さんから お誘いいただき、昨日12日のボート部と一橋大学の 古を訪ねる中村大先輩を囲む会に参加してきました。
実は正直申し上げると、渡邊さんから「ボート部の大先輩 の話を聞きに行きましょう!といわれても、全くピンと来な かったのです。
私は学生時代に合気道部でして、また 新入生当時は一橋マーキュリーと兼務し、宮崎県学生寮 の仲間と当時芸能界デビューしたばかりの同級生の妹 (浅香唯)のファンクラブ活動をしていて、大好きなタイガ ースは優勝した年ですから絶好調で、かつコンビニとビル空調掃除で夜勤のアルバイトをしていました。
対象が学業 でないだけの、いわゆる「五月病」でありました。
そのため、さすがにクラチャンレースに出る時間がとても 割けず、参加を見送りました。
自分でボートを漕いだ経験 もなく、ボートを漕ぐ風景も戸田艇庫も実際に見たことが ありません。
従って正直にいえば、むしろ今回は、先日私が募金をし ました兼松講堂改修&戸田艇庫改修事業がきっかけ です。
兼松講堂改修は、発起人の中心にいらっしゃる 佐藤正治先輩をよく存じ上げていますし、このネットで 如水会コンサート第一回からよびかけた経緯があります ので、私自身が心底応援し、企画の実現を喜んでいるの ですが、いつのまにか対象に戸田の艇庫も追加されて いることには、若干釈然としない気持ちを感じていました。 自分では見たことも使ったこともないし、今後もゆかりが なさそうな施設だからです。
それでも私は、募金をすることにしたわけでして、同じ やるならば、兼松講堂だけでなく、戸田艇庫にも積極的 なロジックや共鳴感を見出そうとも思っておりました。
今回の中村先輩を囲む会は、そういう意識で参加した 次第です。
さて、その土曜日の会がどうであったか、私がどう思った かを、全3回ほどのレポートにしたいと思います。
結論は題名を読めば一目瞭然ですが(笑)、拙文におつ きあいいただければ幸いです。 はるやま

2)
Mon, 14 Jul 2003
                         春山@H2社です。
前のメールで、「五月病」と書いたのは「四月病」(年度始めの 四月にだけやたらとやる気がある病気)の間違いでした。 意味が正反対になってしまいますね。すみません!

さて、今回の会でお話をお伺いした中村達夫先輩ですが、 12月クラブのホームページにある資料から御紹介します。
戦地から帰還し、焼け跡の日本の再興に尽くした世代で、 優れた経営者ともお伺いしていますが、如水会には経営者 は山ほどいらっしゃいますので(笑)、むしろこの方を語る キーワードは「世話役」でしょう。 戦前−戦中−戦後の激動の時代を生きぬいてきた中で 同期会、クラブ同窓会(ボート部:四神会)、如水会という、 一橋に関係するだけでも数多くのコミュニティやアドホックな 事業に、「偉大なる」世話役としてかかわってきた方です。
http://www.mercury.ne.jp/dec-club/toha.htm
#このページには最後に写真があります。 http://www.mercury.ne.jp/dec-club/hatou/naiyou/557.htm
#20年以上前(S56)に書かれた「世話役20年」。

さて、12日は中村さんのお話の前に、参加者は「すみだ郷土 文化資料館」にある隅田川の歴史、ボートレースの歴史や 資料を御同期の下元先輩から御案内いただきました。
江戸 後期からの浅草の文化、関東大震災、東京大空襲などの 歴史等々、淡々と展示されたこの資料館も見どころ豊かで 一見の価値がありますが、その2Fの一角にあるボートに 因んだ展示コーナーは、他大学の分も含めての様々な資料 や展示物は、ほぼ全て一橋ボート部OBを中心に収集、作成 され、寄付されたとのこと。
私はここで初めて、競技用ボート のオールの現物を見ました。オールの先の色が、各大学の スクールカラーになっていることも知りました。
#因みに一橋のカラーは赤(かなり鮮やかな赤)なのですね。
また、そもそも戸田の前に向島に艇庫があったことも、今回 初めて知りました。
参加されていた如水会の高橋さんに、 「何時から戸田に移転したのですか?」と歩きながら聞いた ところ、「オリンピックの時だと聞いているよ」とお答え戴き、 ふ〜ん、私の生まれる少し前(1964年)ごろかあと思って 高度成長期の雰囲気をイメージしていました。
ざっと資料館を見物をした後、中村さんのお話をお伺いしま した。
私はもちろん初めてお目にかかります。今回私は気軽な 一般聴衆の1人で、中村さんはボート部OBで、コミュニティの 世話役の気さくなお爺ちゃんにしか見えないわけですが、 12月クラブの先輩方と関係の深い、小芝さん、渡邊さんが、 中村大先輩に対して大変な敬意を表して、緊張して御手配さ れておられまして、その姿が印象的でした。
私も合気道部の 年配のOBや師範を囲む席では今でも背筋を正し、気配りの 糸を張り巡らしますから、第三者にはこう見えるのだろうなあ と思いました。

中村さんのお話は、小芝さんがボイスレコーダを講義録に なさるということですから、私は簡単に印象だけお伝えし ます。
まず、大変面白い、退屈しないお話で2時間強(!)の予定が あっという間に過ぎました。
延々とボート部の自慢話だとつま らないなあと警戒していたのですが、一橋のこの100年の 「一橋大学・如水会」「ボート部」「戦争・事変」「社会」という 4つの軸でトピックスを並べた年表を参考に、戦前−戦中の 学生気質から世俗との接点などからはじまって、各代の学長 の方針や人柄、著名なOBのエピソードや批評などなど、 上質な落語のような軽妙な語り口でわかりやすく語っていただきました。
具体的にどのような部分が面白かったか。

全体のまとめも 兼ねて、次のメールでこのレポートを〆ることにします。 明日になってしまうかもしれませんが、どうか御容赦を。
                                                                  はるやま

(3)
Sun, 20 Jul 2003
                          春山@H2社です
すぐ書けるつもりでいたのですが、まとめるとなると結構 悩んでしまうものですね。
文章にすると中村さんの軽妙な 語り口がうまく伝わらないし、ボート部の話は山ほどでて きたのですが、決してくどくなかったのですね。
これをどう 伝えようかと、ここ数日、う〜〜んと悩んでおりました。 いろいろ考えたのですが、あまり凝らず簡潔ににいくこと にします。

さて、先週土曜日の中村先輩のお話で、印象に残った点を 私なりにまとめると、以下のようになります

1.戸田ボートコースは「幻の東京オリンピック」のために、全日本強化選手が「自ら掘った」という話  中村先輩の学生時代は一橋ボート部の黄金期で、在学中に4度全国を制覇されたわけですが、その頃、昭和15年に東京で開催されるはずだった幻のオリンピックのために、  戸田にボートコースがつくられました。なんと幅60M、深さ  2.5M、長さ 2500M(当時:その後幅は70Mに)のコースは、人手不足もあり建設会社の工夫だけでなく、近くの刑務所 から駆り出されてきた服役囚、さらに一橋ボート部員は勿論  学生も一緒にツルハシを握って掘ってつくったそうです。
 残念ながら完成した時には、すでに戦争に突入し、オリンピックは中止になっていました。自らがオリンピック選手として世界と競うはずだった水をたたえたボートコースを背に中村先輩ほかボート部員は12月に卒業を前倒しのうえ  (これが12月クラブの名称の由来)、そのまま戦地に赴くことになります。
戸田のボートコースは、昭和39年の東京オリンピックのため高度成長期のパワーショベルで造成されたものと私は思っていましたが、とんでもない勘違いだったわけです。

2.一橋を代表して東大を打ちのめし、全日本を制覇するボート部の歴史は本学を代表して何度も東大を打ちのめし、さらに9度にわたって全日本を制覇し、名実ともに「隅田に覇を唱えてきた」歴史でありました。官僚養成学校として君臨する東大に対しては、「Captain of Industry」を標榜する一橋は何かと対抗心を燃やしてしまうものですが、  商東戦の勝利の報に、ひそかに溜飲を下げ、快哉を叫ぶ本学の学生・OBの気持ちというのは昔も今も通じる面があるような気がしました。  ボート部OBの中村さんにとってはなおさらで、ボート部と一橋大学が完全に同化しているのでしょうが、部外者の私からみても、ボート部の歴史は一橋大学と当時そこに  生きた学生の喜怒哀楽の歴史にシンクロしているように思えました。

3.如水会活動の「核」となったクラブであった如水会に限らず、大学の同窓会というのは、実は直接 大学とOBが繋がっているわけではありません。クラブであったり、ゼミ(一橋の特徴!)であったり、クラスで あったりという「コミュニティ」が必ず中間に入ります。    OBにとって大学自体は卒業したらまず縁がありませんし、組織も教職員も至って淡白ですから、大学と繋がることなんて、研究者になるか国立や小平に住んでいない限りはまずありえないわけです。ところが、ボート部だとか合気道部だとか、小平祭だ一橋祭だ・・・という  コミュニティになると、OBは現役の学生と、各々のクラブのスタイルで強固に繋がります。ただそれは、  個々のコミュニティレベルであって、それから集合体に自発的に発展するには、大きなハードルが通常あるわけです。私立大学の同窓会は、大学自身がドネーションと学生集めのためにこれを主催するケースが多いのですが、国立大学の場合はこのインセンティブが薄いため、同窓会が淡白で非力なケースがとても多いと思います。  ところが、如水会はかなり早い時点から、濃厚で強力な同窓会組織になってきました。規模が丁度よいくらいに小ぶりであったこともあるでしょうが、ボート部を筆頭にラグビー部、サッカー部、テニス部、ホッケー部等々と歴史を持ったクラブOBが核となってきたこと、そして大学と同窓会全体を視野にいれた、かなり思いきった、まるで企業経営のような運営をしてきたことが根幹にあるようです。またそれは、各クラブとの繋がりを通して同窓会が大学(学生)の現実と常に繋がっているからだと中村さんのお話を聞きながら思いました。
OBが頻繁に大学を訪れ、「カネは出すけど口も出す」  (一橋新聞部「hit-u(新入生号)」より)存在として、本来まず絶望的にまとまらないはずのバラバラな大学の同窓を、まとめあげて中長期の事業を意志決定してしまう如水会の基盤をつくったのは、この人達だったのだなあと、あらためて思った次第です。

4.如水会の情報化について  中村さんの講演の後に、蕎麦屋で酒を呑みながら、  いろいろお話したのですが、その時に如水会の情報化、つまりこのネットの話題になりました。
中村さんは正直言って、12月クラブのHPなどでの活躍・貢献には感謝しているのだが、まだよくわからんのだと仰ったので、  私は、以下の2点を説明しました。  

(1)如水会ネットは創立時から、「ネットワークは行動を加速させる」(これは中さんのコピーでしたね)と考えてきました。人間は電子情報の交換だけでは満足できませんから、実際の相手に会ってみたくなりモノに触れてみたくなり、会って触れてさらに行動は加速されていくものだと思います。
(2)一方、電子情報は「飛ばし読み」ができます。正直申し上げて、何の予備知識もなく本日の中村先輩のお話を長時間聞くのは若い世代には苦痛でしょう。    

ところが、事前にHPなどで、ざっと予習をしてくると、必ずところどころに興味が引っ掛る部分がある。   私はそれを持って参加したので、お話はとても面白かった。    インターネットはそうやって世代の距離をはじめ、様々な障壁を縮めることを可能にしたと思います。
 そうすると、中村さんはウンウンと頷いて、「良くわかった。  それならばもっと如水会はカネをかけるべきだ。ここ数年の如水会のネットとかの予算はどうも中途半端で何をやりたいのかわからないと思っていたのだよ」(中村さんは企業会計のプロ)と仰いました。
さらに、いつまでも分厚い名簿を出している時代でもなかろう、女性の卒業生も増えてきたのだし、個人情報などいろいろ考えて思いきってやったほうがよい。  私達が一橋大学の100周年の紀誌編集に、当時の1億円を集めて、学内の全ての団体を対象に紀誌をつくらせたように、きっとあの時にやってよかったと思えるはずだよと仰っていました。
5.ボート部卒業生にいつも伝えていること  中村さんは、ボート部の卒業生に向って毎年言い聞かせることは2つだけあるそうです。ボートの練習の寸暇を惜しんで  勉強した偉い先輩も沢山いるけれども、大概は勉強なんかしてなかったろうから、2つくらいは覚えておけと。  

 1つは、「酒色に溺れるな」    #これは高橋さん、蒲田さんにえらくウケていました。??
 2つ目は「簿記を大事にしなさい」  2つ目について中村さんは、「一橋の卒業生は算盤が達者だ  と一般にいわれているが、意外と本当に会計を理解している人間は少ないものだ。他の何がわからなくとも、会計がわかれば、企業のほぼ全てを読み解くことができる。また、肝心な時に間違った判断をしないですむ。ボート部の連中はボートばっかりやっていて器用ではないから、せめて簿記くらいはちゃんと覚えておきなさいと毎年必ず言い聞かせている」  という話でした。
私自身、銀行で企業融資をしているとき以上に今は企業経営者として会計に向き合っていますので、自らの不勉強もあって身に染みる言葉でした。

もうちょっと気の効いたまとめをしたかったのですが まとまりない報告になってしまいました。 拙文を読んでいただき、ありがとうございます。