史蹟めぐり (12月クラブ通信 第90号)
7組担当
日時 平成7年(1995年)3月13日(月)
場所 東高野山長命寺〜石神井(予科校舎跡・石神井池・三宝寺池・氷川神社・三宝寺)
早春武蔵野の史跡と古社寺を訪ねて (下線クリック写真が出ます)
夜来の雨が奇跡的に晴れ渡った朝、同好の諸兄姉44名は西武池袋線の新設駅「練馬高野台」に勢揃して、最初の訪問先真言宗東高野山長命寺に向う。本堂に上って寺僧より寺の由緒、寺宝などの説明を聞いて境内を散歩する。至る所に整然と鎮座する多数の大型の石仏さんに目をみはる一方、お堂の廊下の仏壇に整列している江戸期作の30センチ位の見事な五百羅漢さんにお目にかかる。
つづいて石神井予科校舎跡地まで歩いて、設けられた記念碑と昨秋出来上った予科校舎跡の標識柱を見学し、赤い鳥居のお稲荷さんに手を合せる。此処は大正13年から昭和8年迄、予科の校舎があった所。唯『桑海の変』の譬の通り、この辺り一帯は都営住宅の家並が幾重にも続き昔を偲ばせるものは皆目見当らぬ。中村君の解説に耳を傾け、近くの広場でエクスパート不参のため俄かカメラマン岩本が記念写真のシャッターをきる。一行は再び雑踏する狭い道路を緩歩前進。予定の時刻に「そば処中屋敷」に到着。ビールで喉をいやし、店御自慢のうどんすきで満腹になった頃、突然雷鳴数発、駿雨到る仕儀と相成ったが幸い程なく西の空に青空が顔を出して雨が止む。全くヤレヤレである。
東西に細長い石神井池の北側を西に歩いて、お目当ての三宝寺池に出る。ここは古くからの禁猟区域とされており、又、沼沢植物群落として国の天然記念物に指定されているので自然の姿が保たれている。今から518年の昔、いくさ上手の太田道澄に攻められて敢えなく落城した石神井城主豊島泰経は家重代の金の鞍をっけた白馬にうち跨ってこの池深く入水し、娘照姫も父のあとを追って命を絶ったと云う伝説がある。
この城は池の南西に東西に亘って広がる丘陵上に位置し落城と共に廃城とされ、今日では空濠と大木の自然林を残すのみで、あの名歌「荒城の月」の情景も斯様のものであろうかと昔が偲ばれる。
坂を上れば石神井郷の総鎮守氷川神社だ。ここで小憩して一息入れて真言宗三宝寺に入る。右手に立っている「守護使不入」の禁制石は今日では甚だ珍らしい標石であり、往時の寺の権威を物語っている。山門は曽て御成の門と称した。三代将軍家光が二度、ここへ立ち寄っている。又、この門の東側の黒門は幕末の英傑勝海州邸の門(もとは本所にあった)であって、彼の没後、各所を転々と移されていたが、昭和35年遂にこの寺院に落っいた由。最終の訪問先は三宝寺に隣接する曹洞宗の道場寺である。ここは鎌倉時代以降の武蔵野の豪族豊島氏の菩提寺であったがたび重なる火災で古いものは何も残されておらぬと言う。境内左手に聳え立つ三重の塔は仲々立派である。
料亭での雨宿りの時間もあって予定の時刻を若干遅れることになったが幸い全行程さしたる雨にも見舞われることなく早春の武蔵野の情緒を存分に満喫し得たのは御同慶の至りであった。