一橋の学風とその歴史的展開
一橋大学名誉教授 増 田 四 郎
大学史の三つの時代区分
昭和七年の増田でございます。
いま中島さんから大変壮大な全般にわたるご質問というか、問題提起がございました。
いささかまいっているんですが、これが全部答えられたら、「一橋の学問を考える会」の役割はほとんど済んでしまうとも思われます。大変うまくまとめられた問題提起でございました。
私は今日は、少し気楽な話の方がいいというので、そういう話にさせていただきます。
一橋の学問を考えて、中島さんがご指摘された第三のような問題になりますと、現状批判のようなことになり、それはそれなりに私の中にはいろんな具体的なものが目に映りますが、これはまた後で申し上げるチャンスがあればと思っております。
それはそれとして、中島さんは非常に勉強家で、いろんな本を読んで調べてこられたのですが、私は雑用で駆けずり回っておりますので、体系的に勉強してきたわけではございません。
そう言っても日ごろ「一橋の学問」ということばかり考え続けている者でございますので、日ごろ考えていることでいまの問題提起に、私なりに答えられることを申し上げるよりほか致し方ないのでございます。
ここは一橋の内輪の会で、ある意味では気楽でございますが、それこそ縁あって一橋で学ぶことになりました。
しかし、いまの一橋大学と違って、私どものころはーー皆さんもそうだったろうと思いますが、何ということなしに一橋を受けたら受かったので入った。家へ帰ったら、それはどのくらいの学校かよく知らない。私のおふくろがたまたま一橋ということを知っていまして、一橋ならいい、商科大学だからもうけるんだろうと言うわけです。
ところが私は全くもうけられない商売をこれまで続けてきてしまいました。
いずれにせよ、縁あって一橋に入って、それから学校のことに関係する一生を送ってきたわけですが、一橋だけの問題としてではなしに、たまたま歴史を勉強しているものですから、もう少し日本の近代化の中で、あるいはもう少し広げれば、当時の世界の状況の中で日本が演じた役割、その近代化の中で一橋が担った役割というようなものを少し客観的に考えてみたいというのが日ごろの念願なのであります。
第一の問題について申しますと、これをわかりやすくするためには、私はこんなふうに考えております。
一橋大学ができて百年余り。一ゼネレーションを三十年と分けて考えてみますと、草創の時期から明治期が一つの時期だろうと思います。明治のごく末から大正、昭和の戦前に至るまでの三十年余りが第二の時期。それから戦後が第三期。 この三つのゼネレーションというのは、高等教育を受ける者の意識の面でも大きな違いがありますし、制度の差もあると思うのです。いまの学生を見て感ずるのですが、大事なことは、自分が学んでいるときに自分の背中にどういうものを感じて勉強しているかということですが、その意味で、この三つの時代について考えてみると、それぞれ違ったものを感じながら学んだのではないかと思うめです。それは、われわれが習った先生方が違っているということだけではなく、学んでいる学生自身がすでに違っているような気がするのです。
日本の運命を背負う気慨
そのことから私なりの考え方を申し上げたいと思います。これはいま世界的に研究が行われているのですが、たとえばポローニア大学とか、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学とかというところに、どういう出身の学生が入ったかという研究です。
マックス・ウェーバーはカトリック系とプロテスタント系が職業学校にどういう比率で入るかということから研究を始めて、あの有名な『プロテスタソテイズムの倫理と資本主義の精神』を書いたのですが、それが日本にそのままあてはまるとは考えられませんけれども、ポローニア大学などはその点で非常におもしろい。非常に国際的に学生が出ているわけです。それに触発されたわけではありませんが、私は今日本の高等学校教育を受けた者はどういう出身者であり、どういう意識で高等教育を受けたかということに非常に興味を持っています。
第一の時期の明治の人たちというのは、やはりまだ徳川時代の影響といいますか、日常の生活倫理というようなものもあり、「家」というものもしっかりしています。そこへ笈を負うて東京まで出てきて一橋に入るというような人たちは、例外もあるでしょうけれども、大体において官吏にはならないけれども、これから勃興していく日本の運命を背負う産業活動で貢献しよう、それから、背中にはいつも日本、あるいは世界というものを考えていますし、親の顔が目に映るような子供であるわけであります。
ですからそこには、いまの連中とは違って大体において中産階級以上の地主の息子、あるいは古い商家の息子、非常にしばしば没落した地主とか、とにかくその地方の由緒ある家の子弟が多いわけですけれども、勉強の方はよくできる。それで藩とか県とかの奨学金をもらって東京に出てくる。いずれにしましても、社会的責任というものを家とか親を媒介として感じている人が多かったんじゃないかと思うのです。そこへ実際に役に立つ学問ということからスタートしているわけですから、そういう意味では非常なエリートだったわけです。
ところが帝国大学というのは、法学部と文学部が早く開かれるわけで、官僚養成または知的エリートの養成機関として近代国家をつくっていく担い手を作るという立場でスタートしていると思うのです。
帝大の文科は、哲学とか歴史学とか文学とかいろいろありますが、そういうことで最高の理論とかあるいは真理を究めようというねらいがある。もう一つは、医学を中心とした自然科学です。とにかく帝国大学というのは、日本が近代化するために上からつくった大学であったと思います。
そのことは、たとえば日本へ来た外人教師を考えてみましても、ケーベルのような哲学の偉い人も来ていますし、リースのように歴史の偉い人も来ています。自然科学ではたくさんの医学者が来ている。それから法律ではポアソナードのような人が来ていますけれども、これは法典編さんのためであって、われわれのねらうような商業経済活動ではない。そういう点からしますと、簿記や商業一般のことを教えてくれたホイットニーのような人が一橋に見えたということは非常に大きな意味を持つんじゃないか。それから、だいぶ後になりますが、われわれが習ったベルギー人ブロック・ホイスとか、ああいう人から商業実践の面で外人の教育を受けられた。これは大変ユニークなことだと思います。
しかしいずれにしましても、第一期の学校の教科課程というものを見ますと、これはよく「前垂れ学校」なんて言われましたように、一貫して実務的です。ところが学生は、全日本、あるいは世界に飛躍しようという意気込みを持つてきているのであって、ロ−カルな地域の中でどうかするというよりも、もっと気概が大きかったと思います。
小山健三の学制改革と福田徳三
そうした状況の中で、それがだれであったかということが大変興味があるんですが、とにかく高等商業になって、ほかの商業学校と多少違った教科課程が入ってきたのであります。明治二十八、九年から三十年にかけてのことでありますが、小山健三という忍藩出身の藩士で文部省の役人をされた人ですが、この人が高等商業学校の校長のときに、学制改革が行われるのです。学校の教科課程の変化が行われる。それまでは読み・書き・そろばんとか、図画まであるようなまるで中学校みたいであったのですが、この時にそういうものを廃止しまして、いままで歴史と言っていたものを商業歴史、地理を商業地理、つまり商業経済の形に変えてしまうわけです。制度の大改革です。
だれがそういうことをプロモートしたのかということを考えてみますと、『小山健三伝』の中に、福田徳三先生からの良い手紙が入っていることをみつけました。明治三十年でございます。これは大変おもしろいものです。私の言いたいことは、たくさん先生がおられてどの方もみんな偉かったのですが、明治二十九年から三十年にかけての大学への道を歩み始める一つのきっかけをなしたのは、福田先生がドイツにいて、ヨーロッパ各国、イタリアのミラノをはじめとして、ドイツのベルリン、ライプチヒ、あるいはケルンというような商業関係の学校制度を調べて、小山校長に対して良い手紙を書いたわけです。そのほかの方もおられるでしょうが、要するに、小山さんのときに一つのステップがあり、そこでより高い教科課程の学校になったと思うのです。
小山さんという人はそう長くおられたのではこざいません。明治二十八年八月から三十一年五月まで校長を務めて、文部次官になられ、後で関西のある銀行の頭取になられた。非常に実務と関係がある方です。ところが残念なことに、そのほかの校長さんというのは、例外はあるかもしれませんが、おおむね官僚で終わってしまっている。帝国大学との関係の人が多かった。そういうわけで、福田先生が向こうから送った手紙の中に出てくる考え方、その意向が、先はど中島さんのお話にあった申酉事件のときに、商科大学を設けるための意見書の中に出てくるわけです。
それはどういうことかといいますと、ドイツやイタリア、あるいはイギリスにたくさん商業学校があるが、それらは非常に実技的なものを加味したものであると同時に − 例外はライプチヒ大学、ライプチヒ大学における商学部の編成は非常に理論に走り過ぎて実際に合わない − そういうようなものでないものをケルンやミラノとかで調べて、実社会の中からどういうふうにして学問体系を打ち立てるかということをやるべきだ、というあの考え方が出てくるんじゃないかと思うのです。そういうことで、明治三十年から、申酉事件に対処するための学校の体制ができているということが、一つ言えるのではないかと思います。
画一化に対する抵抗の精神
話が飛びますが、第二期の大正から昭和前半というのは、大体われわれの世代ですけれども、何と言っても欧米のいろんな社会思想が堰を切って日本へ入ってくると同時に、一種の教養主義的な風潮が出てきたわけであります。そこでいい悪いは別といたしまして、学生たちはどんな学科を勉強するにしても、とにかく広い世界的視野でのいろいろの教養を身につける。これは明治の初めにはなかった考え方です。そういうことが大切だというふうに考えられたと思うのであります。そして、それを培った土壌が旧制高等学校の役割であり、同時に一橋で申せば予科の役割だと思います。それがいい面も非常に多かったと思いますけれども、悪い面からしますと、単に頭がいいからいろんなものをつまみ食いした教養だけの人間になってしまって、根性が明治と比べればやや弱まった。
同時に、もう一つは一橋大学についてこういうことを言っていいかはとにかくとして、しいて申せば、欧米の学問の学説過剰になってしまって実証面の研究というものが薄らいだと考えられるのではないかと思います。つまり実際の足もとの経済社会の実態を調べるということから学問が打ち立てられるべきはずのものが、そうならないで、非常に学説過剰なものとなる。一橋大学の学問はどうも学説を重んずる傾向がつよくなったのではないかという気がしています。
しかし、そうはいっても、学説をとり入れるということは大事なことには違いない。その時期には大切であった。
しかし、社会の実態を分析しないで、学説だけが先に一人歩きしているというような傾向、それをまた学生が習うというだけでは、やはり社会科学とはいえない。「経済」の学ではなく、「経済学」の学となる危険があります。
ところが第三の時期、すなわち戦後になりますと、学校制度が六・三制に変わりまして、急激に高等教育の数がふえましたと同時に、もう学生は、家とか、自分の郷土とか、自分の大学への帰属意識さえもなく、どこかの大学へ入ればよいという時期になっている。ところが、この人たちには、日本国をどうするとか、あるいは世界の中での日本はどうあるべきかとか、あるいは社会思想の中で自分はどう対処するかとか、そういう考え方はだんだん薄れてしまつた。自分一人でいわば無責任体制、孤立した個人、オリエンテーションのない人間、私はディスオリエンテーションと言っておりますが、方向がなくなった個人がいっぱい出て、あっちこっちの大学へ流れ込んでいます。
もう一つ留意したいのはーーこれがここでの問題になるわけですが−ー一橋大学を貫いている外の世界との対応の仕方の特色ということを申しますと、これは中島さんからもお話があったように、つまり画一的な制度化に対する抵抗の精神を自覚すべきだということであります。しかし抵抗するためには、抵抗の実力というか、自力がどこにあるかということをきびしく反省しなければならない。ところが幸いなことに申酉事件、寵城事件というものは、まさに自力をもって画一的制度化に対する抵抗に成功したものだと言えると私は思います。
なぜならば、先ほどのお話のように、専攻科とか本科、予料というものを守り抜いているわけです。専攻科廃止は反対だということを勝ち取っている。籠城事件のときには、予科、専門郡というものを残すことに成功しているわけです。あれをすっかり切られてしまっていたのだったら、あの段階ですでに帝国大学パターンの大学になってしまっていた。籠城事件について、どういう理念でということの記録がないとおっしゃったけれども、結果的に見ますと、予科、専門部というものを持ったのはうちと北海道大学だけでしょうけれども、ああいう事件を通じて、非常に特色のある画一化されない大学を守ることに成功したということじゃないかと思います。これは貴重な体験です。
喪われた商科時代の雰囲気
ところが戦後になって、新制大学になりますと、これは大変な勢いで画一化した大学になってきた。予科、専門部というのはなくなってしまう。そうしますと、そこでの課題は、これはまた将来の問題になりますが、予科または旧制高等学校にあたるような制度をどうつくるか。先ほど附属の高等学校をつくってはとおっしゃったけれども、そういう問題が残るんですが、現制度の中で言えば、前期二年の小平の教養課程というものをどうするかということを、伝統に即して考え直すべきときであると思うのです。
もう一つ専攻科を考えれば、大学院というものを全国から非常にユニークな優秀な人材を集める大学院にするといぅことにどう踏み切るかという問題なのです。教養課程が非常に特殊なー−特殊というのはこういうことなのです。
いまの六・三制になりますと、御承知のとおり、受験勉強で大学のランキングが起こりまして、極端には幼稚園からいい学校、いい学校と騒いでいるわけです。しかしこれは、学力のいい者は通るかもしれないけれども、人柄のいい者は必ずしも保証されていない。 、
そういうことに世の中がなってしまいますと、第二期において、古今東西の古典を読み、教養を読みあさって、おれは何をすればいいのか、いかに生くべきか、何ができるのかということを考える時間があったのですが、いまそれがない。一点でもよけいとればいいというので、試験制度が変わってしまった。そこのところが変わらないと仮定しますと、せめて一橋大学に入れば前期一年であれ、一年半であれ、あるいは二年であれ、そこは工夫の仕方ですけれども、学部のいかんにかかわらず、そういうことをじっくり考える時間的余裕をどうして与えるかということを−ー時間だけ与えたっていいものではありませんが−ーもっと考えるべきだと思うのです。
つまり、小平をいやがるというような気風ではなくて、小平こそ大切であるという気風に何とかしてできないかという問題が一つあります。
以上申し述べましたように、一期、二期、三期というふうに教育を受ける者の側の意識が変わっているということを痛感し、それへの大学側の対応を痛感するわけでどざいます。
それで話が飛び飛びになりますけれども、この間山村徳治さんという九十五歳になられる大先輩とお話する機会がありまして、私たち数人、そのとき大変感動したのであります。山村さんは、淡々と自分の昔のことを思い出してお話して下さったのですけれども、「教室で教わったことはみな忘れました、しかしあの学校の雰囲気というものには何物にも代えられないものがあった。親が何しているとか、金持ちか貧乏かということは一切問わないで、一橋といぅところは、言葉は悪いけれども、学生も先生たちも庶民的というか、みんな仲間になってくれるという雰囲気に満ち満ちていた。いい友達ができる。それが一生つき合える。」というお話でした。いまわれわれ反省しなければならない問題はこの点だと思います。
正直言って、教室で習ったことというのは、みんな忘れていいんじゃないか、乱暴な言い方をしますと。
大学というのは精神的な雰囲気と言ったら妙な言い方ですけれども、それを育てるのにどうしたらいいかという課題が次に出てくるわけです。
その点で大きな役割を果たしたと思いますのは、運動部でいえば、古い伝統のあるボート部とか、庭球部とか、文化活動で言えば、如意団だとか、国際部とか、新聞部とか、あるいは一橋文芸、ああいうことを勉強しながらとにかく学生が非常に活発にやってそこから出てくる精神というものは、教室で習ったことは忘れてしまったけれども、そこでのことは覚えている。人と人とのつき合いというのは何だということをそこで教わった。これはこれから考えなければならない大きな問題であろうと思います。
もう一つ大事なことは、予科時代におけるーー完全ではありませんけれどもーー寮生活の思い出がいい。これは反省しなければならない。改革の方に問題が進んでしまいましたけれども、三つの時期に分けて考えると、どうも私にはこのように思えてなりません。
社会科学の先駆的役割
ところがもう一つ、もっと基本的な話に戻りますと、日本の教育を考えると、蘭学以来医学は進んでいるわけですが、社会科学というものが日本の大学で本当に学問として考えられたのは、一橋の専攻科がその先駆的役割を演じたのじゃないかと思います。もちろん明治の初めにフリードリヒ・リストの翻訳があるとか、だれの翻訳があると言われますけれども、しかし経済というと、これは佐藤信淵であろうがだれであろうが、徳川時代の経済学説を見ますと、例外がありますが、大体藩の財政をどうするか、あるいは幕府の財政をどうするかということです。『吹塵録』に出ているように。
そういう治める側の人の財政学で、ドイツ流に言えばカメラ学派です。官房学的財政学。ところが経済現象とか、事業とか商業活動というものは、ヨーロッパでも、それほど高い学問とは思われていなかったので、イギリスなんかでは商業に関するいろんな教育が行われておりますけれども、福田先生などが行ったドイツでも、大体十九世紀の中ごろから社会科学が学問として起こってくるわけです。そこで、そういう官房学的、あるいはまた治める方の側のものではなくて、経済関係というものは基本的に、原理的にどういうふうにつかんだらいいか、アダム・スミスだってそうですが、もっと後になれば、そういうことが非常に理論化されてくる。
財政でも同じことです。政治でも同じことです。つまり社会科学というものが十九世紀の中ごろ、マルクス、エンルスの活躍したころから起こって来たと一応考えてよいでしょう。福田先生を初め一橋の教壇に立たれるような人たちが接触したのは十九世紀末から二十世紀初頭の社会科学が起こるときに出くわすわけです。日本では、銀行をどうしたらいいかとか、簿記をどうしたらいいかということも大事だけれども、そういうことを勉強しようとして、たとえば、左右田喜一郎先生なんか銀行業を勉強しようとして行って哲学者になられた。ほとんどみんなそうなんです。
そういうヨーロッパに接触されて、向こうの学説をきわめて純粋な形で、すばらしい形で紹介された。保険学の村瀬先生のお仕事など、あの時代としてみればまったくすばらしい業績だと思います。福田先生は歴史学派の経済学を受け入れられて、日本にそれを当てはめる。しかし先生の学問的関心は徹底して非常に実践的です。そういう向こうのちょうどいい時代に接しられたわけですが、おもしろいことに帝国大学で社会科学の外人を招いてどうしたという話は余り聞かない。帝国大学では、文科、自然科学、そういう方の人が圧倒的に多かった。このように考えますと、中島さんの問題提起にかかわってくるわけですけれども、一橋というところは日本の社会科学、つまり実際の社会の動きの中から要望を受けとめて、それを実社会と絶えず交流しながら理論と実証というものに裏打ちされた学風をつくっていくことに、そのユニークさを発揮すベレきではないかと考える。その点、帝国大学とは違うはずだと思います。
実学の土壌に育ったアカデミズム
一橋をつくるときには官僚ももちろん関係しているでしょうけれども、渋沢栄一さんにしましても、とにかく初めは実業家による発想です。一橋が申酉事件を起こす前提が出来つつあったころ、それに触発されて大倉喜八郎氏が、明治三十三年に大倉商業学校を建てるわけです。これはいわば一橋のあとを追いかけるような性格で、実際に役立つ人材をつくろうとしたものです。そして大倉は、一橋が大学になったときには高等商業学校になるという経過をたどりました。
こうみて釆ますと、ああいう一橋の気風というものは、三つの世代の違いとの関係からみて、大変おもしろい。そこで社会科学のアカデミックな面を、優れた人たちが外国へ行って一橋の土壌の中にそれを植えつけてくれた。しかしそれは、その前からある実学中心の商業学校、さらに高等商業学校というような伝統が消えてしまわないで、というかっこうになって残る。あるいは教育面ではあの商業教員養成所のようなかっこうになって残っている。つまり、そうしたものをちょうど木の枝が分かれるように自力で育ててゆく。その自力は何かというと、画一的行政に対する一種の抵抗であったわけです。その抵抗のためには、どれだけの自力をつけるかということを絶えずためされつつ大きくなった。これは語弊があるかもしれませんけれども、その点他の高商とはまるで違っているわけです。
そこで、われわれの習った商科大学というものを、その後でできました商業大学などのカリキュラムを比べてみますと、商大のカリキュラムというのはまことにユニークな特色がありました。法律の先生もうんと入っています。それから、文学、歴史、哲学の先生がたくさん入っている。数じゃなくていい人が入っているわけです。いまのように教養課程を軽んずるということになると、いいスタッフがなかなか、哲学、史学、文学で入って来ませんけれども、私どものころはその当時の一流の先生、文学では吹田順助とか内藤濯とか、あるいはもっとさかのぼればいろいろおられるでしょうが、哲学はもちろんそうです。
だからある先生は、一橋大学と名前を変えるときに、東京商科大学でいいじゃないか、いろいろなものをいっぱい含めてあくまでも単科大学でやればいいじゃないかという説を唱えられた方も大分あったのです。つまり、単科大学は表向きの文部省との関係で、実際はいろんなものを抱え込んだ総合大学ということです。学生に、何をやることが適しているかをその中で選ばせて、独自の運営をやったっていいじゃないか。だから哲・史・文はもとよりのこと、社会学もあれば、商業・経営・経済学はもちろんですけれども、法律も専攻できるようにする。そういう形でその時代、その時代の要請に適合していきいきとした実力を発揮し、画一的支配をはねのける努力をする。これがユニークな一橋の在り方だったのです。
「社会科学の絵合大学」への課題
ところが新制大学になりますと、足切りされてしまった。すなわち予科、専門部はスポッと落とされてしまった。
そのときは私も多少関係していたわけですけれども、このように考えて来ますと、申酉事件、籠城事件で守り抜いてきたものを、いまの次元でどう生かすかということが、大学にとっての大きな問題になってまいります。ところが、先ほどもちょっと批判的に言いましたが、一般的には学説中心の学風になって、ということはマルクス経済学であれ、近代経済学であれ、文献中心の講義が多いので、実証的に、いわば足にわらじをはいて日本社会や日本経済の実情を調査するという学問的気風が弱い。これはやはり考えなければいけない。そこでこの新制大学への切り変えという制度改革という状況の中でどういうふうにしたらいいかという問題ですが、私はやはりあの制度改革のときに一つの理念として掲げられました「一橋大学は社会科学の総合大学だ」という考え方を重視すべきだと思います。
つまり、キャプテン・オブ・インダストリーの精神を持ちながら、社会科学の総合ということはどうして達成できるか。これは大変な問題なんです。社会科学である以上、少なくとも政治学、法律学、社会学というものをどういうふうにして既存の経済・商業とインテグレートしてゆくか。また、時代はどんどん変わっています。世界の学界の状況も変わっているわけですから、いろいろ学問論とか、あるいは社会科学の総合を目指したような各国で苦心している編纂物の事例をいろいろと探してみました。その時は、イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの組織とか、フランスやスイス、ドイツなどの事例をずいぶん調べてみたのです。そしてその上で、うちの手持ちのスタッフでどういうことができるか。これは大変な作業でした。しかし文部省の意向もありますから、そう勝手なことはできない。しかし行く行くは真の意味での 「社会科学の総合大学」に持っていきたい。その目標をもちながら、さしあたってやれるところは何か、それは四学部と研究所。しかも研究所というのは結局実証的な研究をやるということをねらったわけであります。さらにそれに加えて、産業経営研究所というものをつくって、日本を中心に、実際の企業のケーススタディをやるというような努力をしているのですが、社会調査というようなことはまだまだ不充分だと思います。社会科学の領域で真に実証的に調査研究しなければならない分野はまだまだたくさん残っているというのが現状だと思います。
一橋大学の現状につきましては、いずれまたほかの方からお話をうかがうチャンスがあると思いますが、私の考えを率直に申しますと、一橋は実力をつけ、自力を持っておれば制度負けしないような独自の運営ができるはずの大学ではないだろうかと思います。そして一橋と相似た精神といいますか、伝統をいま持っているのはやはり、蔵前すなわち東京工大だと思います。東京工大は制度的にも内容的にもずいぶん思いきったかたちで、大きくなりました。戦後自然科学は非常に急速に拡大されまして、実際の業界との関係もどんどんとりいれ、産学協同がやりやすかったように思います。実際目に見えて成果があがっていると思います。その波に乗って東工大は、東大に対抗するような気持を持って独自の運営と発展をしめしたと思います。そういうふうに考えていきますと、こんどは社会科学の面で一橋がこれからやらなければならない問題は山ほどあると同時に、それをできるところからだんだん進めていく方向というか、理念というものをみつけなければなりません。それをまず大学の中で考えてもらい、われわれもこれをサポートすべきだと思います。
学問とレスポンスピリティー
最後にもう一つ申し上げておきますと、第一期の明治の人たちの場合にはいまの学生たちとは違って、人間の生き方というものの基本が徳川時代からずっと伝統的に、それぞれの家とか、地域社会とか、あるいは旧藩とかいうところで養われて来ている。先祖代々の家には仏教とか神道とかの宗教的な伝統があって、それが身についている。また地域社会には、社会生活の根強いしきたりがあって、それが青年の生き方を無軌道に走らさないように作用し、一種のいろいろな期待感を背負わせている傾向がある。そういうゼネレーションだと思います。
第二期のときでもまだまだそういう意識が学生の中にある。ところが第三期の新制大学になってしまいますと、それが全くなくなってしまう。第二期のときは、ある意味において非常にヒユーマニスティックなというか、リベラリスティックな気風がありますから、私どもでも、中島さんでもそうですけれども、哲学を専攻するとか、歴史を専攻するということが出来たわけです。それはやはりさきにも述べましたように、そういうものを旧制高等学校、うちで言えば予科のような、ああいう時期は乱読で、いろいろなものを読みあさって、自分は何を学ぶべきかを迷いかつ考えるチャンスがあったと思うのです。
この間、医師の会に出まして話しましたのですが、いまのお医者さんや医科大学の学長や教授の年配の人たちは、みんな高等学校時代に 『善の研究』とか『三太郎の日記』といったものを読んでいる。漱石なんかもちろんですが、中にはカントの哲学さえ読んでいる。ところがいまの学生は文科系の大学生でさえそんなものをじっくり読んでいない。まるで教養の基盤が達うんです。週刊誌か漫画を読んで、あとは教科書と専攻の学術書だけというふうである。
これはやはり、六・三制教育の失敗の側面だと思います。もちろん中には勉強しているものもいますけれども、一般論としてはそういうことです。
これは要するに 「自分を考える」チャンスがなくなったということです。受験勉強で、型にはまった青年を大量につくり出していることです。もしそうだとするならば、よけい教養課程というところを充実させる課題を背負わざるを得ないのではないかというふうに思います。ところがそれがなかなかうまくいかない。
いずれにしましても、世代を三つにわかりやすく分けてみて---まだうまくまとまりませんけれども--ー教える者も学ぶ者もこの点をよくよく考えるべきではないでしょうか。これは半分冗談な話になりますけれども、私たち、大学関係の老人たちの会に出ましていつも話が出ますのは、私たちがおそわった昔の先生は偉かったということです。
だんだん小粒になった。何か自分が小粒になったような気になってしまいますがよくそういう話が出ます。
「いまの若い者は」なんていうのは叱られるそうですから私はいいませんが、とにかく年寄りが集まるといつもそういうことを言う。それには一面の真理がある。つまり昔の先生たちは物すごいエリートで、生活様式も一般庶民とは違った生活様式の中で勉強されたということもあるんでしょうが、そればかりではなくて背に感じている一つのレスポンスビリティーといいますか、一種の責任感なり世間の期待感といったものを自分なりに忘れていない。家のこと、地域のこと、日本国のことを考えながら片方で世界中の学説を勉強している。そこで日本人であるということと世界の知識を学んだということの対応をどうするかということを考えている人がすばらしい学者になっていると思います。
つまり自然科学なら自然科学でいいですけれども、人文・社会科学ですと、外国のことを学んだだけではなくて、自分の持っているものと学んだものと一どういうふうな対応の仕方で、自分のものにしたらいいかということで苦しむ人、これが大切なのです。河上肇さんを見ても、福田先生を見ても、あれほど外国の知識を知っている人でありながら、根は全くの日本人です。日本人の根性を忘れていない。もっとわかりやすく言えば、漱石とか、・鴎外という人を見てみると、これはすごい東洋人でありながら、英文学やドイツ文学の理解がすばらしいという人なんです。そういう内的な対応の仕方で、一心に苦労しているというような人がすごく偉くなる。ところが中には、そういう苦労なしにただ向こうのものを受け売りして、何々「だとさ」というので、「だとさ学問」 で過ごしている人もたくさんいたわけですが、しかしいずれにしましても一生懸命向こうのものを受け入れている。ところがいまの人たちにはそういう内的対応の苦労というものが一般論としては弱まってきているのではないだろうかと思います。これは学問があまりにも専門化しましたから、ごく狭い領域だけで新しい学説や、そこだけの人のやらないことをやればすぐその人のメリットになる。そのことが小粒というふうに見えてくるのではないでしょうか。
ところが、逆に言いますと、学界で国際的に活躍している人を見ますと、いまの若い人の方が昔よりはるかに多い。
これは否定できない。日本ではそれほどでもないけれども、ある学問領域だと日本人の若い人がきわめて活発に活躍している。自然科学ばかりではなしに、数学であれ、経済学であれ、そういう人がこれからどんどん出てくると思います。昔流の雲の上の人みたいな大先生を余り理想化しなくてもいいのではないかと思いますが、そこのかね合いが非常にむずかしい。
というのは、日本で、私たちが大先生と思う人でも、外国の人はそんな人の名前を全然知らない。私なんかの研究で外国人が名前を知っているのは福田徳三先生ぐらいです。ほとんどの人が知らない。つまり昔は、世界に通用する大先生はあまりおられなかったということです。ところが、今の若い人は国際的に知られている人が多い。大体東洋の学問というのは死ぬまで細かいことをやるのではなくて、年取れば取るほど神韻泪茫とした方がいいという変な伝統がございますからそういうことになるのかもしれません。それはいい悪いの問題じゃない。したがってこれは、これから日本で国際的な学者、実業家、政治家をつくり出す際に、よくよく考えなくてはならぬ問題だと思います。
相互理解のための社会科学を
最後になりましたが、最近いろんな外国の学者と会って感ずるのですけれども、日本経済の発展とか社会の安定というものの原因は何かということを彼らはこのごろ追究し出しているという問題です。そうなりますと、単に統計的にグラフで、日本の経済成長はこうだとか、国民所得は何番目ということだけでは意味をなさないので、経営で言えば企業経営の基盤をなしている企業家のメンタリティ、日本の労働者のメンタリティ、あるいは機械をいじるときの几帳面さといったものは統計には出てまいりません。この間もドイツやオーストリアの学者に言ったのですが、企業の成果だけをグラフで比較したってどうにもならない。日本の社会構造全体を勉強するということから始めないとわからないのではないかと申しました。ソニーの井深大さんが、向こうの労働者を使うと不適格品が多いけれども、日本の労働者だと九〇何パーセントの製品がパスすると言っています。こういうのは、幾らまじめにやれと言ったって、人間がやる仕事ですからね、と言われたらしょうがないというのです。ところが、日本の場合にも同じ人間がやっているわけです。それがそういう成績をあげるということは一体なぜかというと、これは決して数字だけでは解決できない問題です。ソーシャル・ストラクチャーとかメンタル・ストラクチャーというものが人文・社会科学としてこれから外国人にわからせるためにも、日本の足もとを調べていかなくてはならないというまことに大きな問題になっているのです。
ところで、明治のころの商業活動のフィロソフィーとして、よくいわれることばに、「論語とそろばん」というのがあります。渋沢さんがいわれたのかも知れません。この「論語とそろばん」をいまの世界経済の段階でいいなおしてみますと、私はこれからの経済というのは、国内の企業であれ、国際的な貿易であれ、「相互依存と相互理解」だといいたい。ところが相互理解のための学問的裏付けは単なる経済学ではどうにもならない。相手を可能な限りトータルに理解するということが大切です。いままでの自分さえよければいいとか、自分の国さえよければよいというのではなくて、相互依存体制をつくるためには相互の社会の理解が必要になってくる。それは単に経済繁栄とか経済成長という問題だけではない。お互いに知ろうという目的のための社会科学の在り方を工夫しなくてはなりません。こんにちの大学教育、特に一橋は「社会科学の総合」をねらっているのでありますから、まずもってこの大きな課題にとりくむ姿勢をしめしてほしいものと考えます。
大変まとまらない話でしたが一応これでおしまいにいたします。
[質疑応答]
中島 増田さんから、現状を三つの時期に区分して、私が質問したようなことにつきましても、その区分の中に、第三期はディスオリエンテーションの時代だというようなお話がありまして、ある程度やむを得ない点が多分にあるかということになるわけでございますが、私、今席に臨みます前に、一橋の先輩で人事、採用を担当する数人の人たちと話をしてみましたところ、ほとんど共通に言うことは、昔の学生に比べて非常にまとまりのいい青年ではあるけれども、孤立主義になって相互の連関、先ほど増田先生のおっしゃった一橋の雰囲気というものの中に、お互いに溶け込み、お互いに協力し、相互依存する。あるいは相互に切磋琢磨する、こういう空気がなくなってきているんじゃないかという点が気にかかるとのことでした。
それから、いまの四学部制にしたことによって、一橋の中がそれぞれセクショナリズムになってきて、お互い同士のまとまりがなくなってきているのではないかということが懸念されるんだというような意見が出ているんですが、この辺はいかがでしょうか。
増田 それはおそらくそのとおりで、新制大学で四学部、二研究所ということになりますといきおいセクショナリズムの傾向が強まるわけですが、そこに押し寄せてくる力というのは講座制をはじめとして、ほとんど東大パターンだといえそうです。東京商大の場合には講座制というのはございませんで学科制だったわけです。
それからもう一つ、東大の法学部と違う点で一橋が非常に大きな成果を挙げたのは、ゼミナールの制度を非常に早くから採用したということだと思います。あれはいまの軽井沢セミナーなんていうのとまるで違いまして、教師と学生、学生と学生の全人格的な結びつきですから、それこそ教室で先生がどんな講義をしたか知らないけれども、先生の家で飯を食ったり、帰りにどこかでコーヒーを飲んだりということから、先生の片言隻句や癖まで覚えているというのがゼミナールのいいところで、昔は、二つのゼミナールに顔を出したり、三つ出しているようなものもいました。
そういう可能性をいま工夫するのもよいのではないでしょうか。つまりゼミナール制度を現段階でどう生かすかということだと思います。ただ、いまのように学生数も多くなり教師の数も多くなりますと、これを単科大学でやるとなると、第一、教授会もあまり多すぎて成り立たない。何百人もいますから。マイクを持って教授会をやるということでは教授会なんていうものではなくなるわけです。いまの私立大学の一部ではそういう傾向があってマイクでやっているところもあるそうですが、そうなると先生も出てこないんです。教授が学校に対してますます無責任になってしまう。
四学部はやむをえないとして、単科大学の良さを生かすためには、私はやはり教養課程の教育をどうするかということだと思います。そこで講義する人です。私ども、何かよくわからないけれども、予科時代に昔の偉い先生から聞いた講義は物すごい印象的であった。ところが毎週聞いているけど何も印象がないというのもありますし。(笑) 何かを感じとって一生生きていく。自分の生き方を考えているわけです。学生が成績だけよくて試験にパスして入っているものですから、また親は、偉い偉いというものですから、自分の心の中にアンテナを持たない学生になっているわけです。何か一言言われるたびにピッとアンテナに感ずるような学生であってほしい。皆さんのように実社会で活動しておられる方と、たとえ一時間話しても何かを感じ取るアンテナを心の中に持った学生であってほしいのです。
そういう意味からしましても、如水会館というものが来年できますと、そういう学生、アンテナを持った学生をつくる一つの場であってほしいと、前理事長にも特にお願いします。
茂木 いまのお話ですが、如水会が幸いにして経営が軌道に乗りそうな見込みが立ってきた。それをどういうことで母校と結びつけるかということで、如水会の文化活動の面を特に考えています。単にあそこで講習をするとか、そういうような会議機関だけではなしに、一っの大きな方向として如水会自体が文化活動を展開していこうということです。
いまの増田先生のお話を聞いて考えますことは、私、四年弱如水会の理事長を務めさせていただいてみて、大学の先生方の考え方がわれわれの学生時代とまるきり変わってきましたね。悪口も含めてミニ東大になってしまったということをよく言っていました。これは如水会としてミニ東大ならあの大学の存在の理由がだんだんなくなってくるのではないかと思う。文部省の圧力に対して、本当に実学の見地を守るとか、拡充するかということがわれわれの先輩の大きな方向であったんです。それが申酉事件であり、龍城事件でしょう。
果たしていま同じような事件が発生したとして、学生がそういうことで奮起するかということが非常に心配になります。そういう感じがします。
如水会としては、もう一つは支部との連携です。大平君が「地方の時代」ということを言った。如水会もただ都市圏に、あるいは東京に住んでいる人たちの便宜のために大きく貢献するだけではいけないと思うんです。余裕があれば、いわゆる支部活動をもっと活発にするような方向に、会館の運営から出た果実というものを利用すべきだということを考えているわけです。
増田 その通りだと思います。これは私どもにも責任があるんですけれども、とにかく輸入学問で社会科学というものが受け入れられて、だんだんと実際の足もとのことをやらなくとも文献的学問ができる傾向が強くなったですから。そこへもってきて社会科学が非常に分化しました。それで経済学がまるで数学みたいな領域になってしまった。
それはそれとして大切でしょうが、同時にそれが分化すればするほど「社会科学」というのは何なのかということを学校の中で議論してもらいたいと思います。
もう一つは、新制高等学校とか商業高等学校というものが昔の実を備えていればこうはならなかったんでしょうけれども、新制になってからの高等学校の教育というのはどうにもならなくなった。 あれほど一橋の力が伸びていた商業学校や高等商業学校というものは、いまや全くの女の子の学校のようになってしまった。昔は一橋にたくさん合格者を出した商業学校は、いま一般論としては大変みすぼらしい姿になっています。商業学校の教員の質の問題もあります。産業教育の基本的な考え方を変更するということは、これからの大きな課題だと思います。昔の実業教育が本当にこまったことになった。
学校がそうなりますと優秀な先生がそこに行かない。ますます坂をおりるがととくだめになっていく。これでは健全な産業構造を築くための人材があつまらない。、そういう大きな課題があります。
韮沢 それに関連しまして、一橋を発展させるためには、東京ももちろんですが、全国的規模から優秀な高校生を一橋に入れることが非常に重要だと思うのです。戦前は旧制高校が地方にありまして、一高に入れないけれども地方に行くよりは一橋の方が東京にいられていいということで、相当優秀なのが十中、四中からも入ったし、府立一商などはもちろん最優秀な者が一橋に来て、その次が地方に落ちていったと思います。
それから、東大からも、東大に残れないけれどもその次ぐらいの先生が、東京にいられるというので一橋の先生になって来られたと思うんです。そういう意味で、戦前にはとにかく一高と並ぶ生徒が一橋に入ったと思うんですけれども、戦後の新制になりますと地方の高等学校、つまり地方の官立大学というものは駅弁大学になっていますから、
一番優秀なやつがみんな東大に釆ちゃうんです。そこで一橋というのは、一橋のことをよく知っている者はいいんですけれども、どうしても若干落ちるようになっちゃうと思うんです。これを何とかできないか。
いま先生おっしゃったとおり、旧制の商業学校は、一橋は商学の総本山で、それの出身者が商業学校の校長になり、そこから優秀な生徒が一橋に来る。それがいま全くなくなっちゃったということで、何とか地方の高校から優秀な者を入れるようにする。それにはいま前理事長がおっしゃったように、地方支部の活動も必要であるし、一橋というもののPR、こんなにいい学校だということを地方によく言う必要があるのではないかと思うのですが。
増田 かといって、いま中島さんのお説のように、一橋大学が附属高等学校を持って全国から集めるということも、これはどういうような結果になるか。むしろ私は大学院を東大なんかとは全く違ったかたちで社会科学の理論と実証と兼ね備えたメッカをつくって、全国から優秀な人材を集めるというのがよいように考えます。
茂木 いまの大学の教育も訓育も国の予算で、国の学問の制度、行政の制度で縛られている。いろんなことを申し入れても、学校側でそれを文部省説得して新しい制度なり方法なりを取り上げることができないんです。そこで如水会が、わが一橋大学を特色ある大学にするためにどう働くかということが非常に問題だと思います。大きな任務があると思う。これをいま一生懸命考えているわけです。
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中島俊一 明治四十一年生まれ。昭和六年東京商科大学卒。
三菱銀行取締役京都支店長。山一証券専務。(財)清明会常務理事
増田四郎 明治四十一年生まれ。昭和七年東京商科大学卒業。
一橋大学教授、一橋大学学長を経て、現在、一橋大学名譽教授、
東京経済大学理事長、日本学術振興会会長。
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橋問叢書
[奥付]
(非 売 品)
昭和五十六年十一月十 日 印刷
昭和五十六年十一月十五日 発行
編集兼発行人 新 井 俊 三
発 行 所 一橋の学問を考える会
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