キャプテン・オブ・インダストリーの精神
                                             清明会常務理事 中 島 俊一
   申酉事件と籠城事件の真意

 昭和六年の中島でございます。四年ばかり前にやめになりました重野吉雄君が主催しておりました黎明会でいろ
いろお手伝いなどをいたしておりまして、本日の皆様方にも御面識のある方が大ぜいいらっしゃいます。
                                                                         実はきょうは増田先生にご講演をお願いすることになったわけでございますが、学問の流れというものを考えてい
く場合、ときにはそれを考え、中からは当然過去の反省とあるいは現在に対する批判というようなものが起こり得る
ことがあるかもしれない。
また同時に、産学協同というところに一橋の学問の大きな特徴があるわけでございますから、そういう産業界の学問に対する要求、こういうようなものを学校に反映するという問題に関しましては、増田さん一人でお考えになるよりは何か話の引き出し手があった方がいいかもしれないというようなことで、新井俊三さんの御命令がこざいまして、私が対談の相手役という形で引き出されたわけでございます。
諸先輩のおられますところをまことに僭越でございますけれども、よろしく御協力いただきたいと思います。
 
 そこで何を引き出すかということでありますが、これは私自身の漠然とした感想をただ申し上げてみたのでは皆さんに対してまことに申しわけのない次第でございますので、一橋がその「歴史」を出しましたものの中に『一橋五十
年史』という出版物がございます。これは大正十四年に出ております。この『一橋五十年史』は創立以来、大正十四
年に至る経緯を書いておりますが、これには一橋の学問がその間にどういうふうに展開したかという問題については
余り触れていません。ただ私は、我々にとって共通の問題を導き出すという考へ方から、この『一橋五十年史』に大体目を通しまして、大変感激いたしました。

そこで本日、増田先生にもお願いしたいわけでありますが、一橋の建学の精神、あるいは一橋の学問の土台というようなものは、『一橋五十年史』の中に書いてあるように、そもそもの商法講習所としてスタートした一橋の歴史が五十年の間に、明治四十一年から四十二年にわたって起こりました有名な申酉事件、次に昭和六年の籠城事件という二つの事件をいわば山といたしまして、一橋が何を主張し、何を守ろうとしたか、この何を主張し、何を守ろうとしたかということが恐らく一橋の学問の原点じゃないかというふうに考えたわけでこざいます。

 いまの申酉事件と籠城事件は、ここにいらっしゃいます皆さんにはいまさら申し上げるまでもないことでございま
すが、私、如水会の井ノ頭支部に関係をいたしておりますので、この間昭和十年代以降の方々に、申酉事件とか籠城事件というものがどういう意味を持っているか知っているかということを質問いたしましたら、どうも余り的確な認
識を持っておられない様子なのでごく簡単に申し上げます。
 
 申酉事件は、われわれの先輩の商科大学設立の建議に対して、一橋にすでにありました専攻部を廃止して商科大学というものを帝国大学の中に設けるという文部省の考え方に対して反対をし、専攻部を守るために起こった事件で、全員総退学というような、いわゆる有名な「悲風惨憺天日曇る、明治四十二年云々」という書出しで始まる「校を
去るの辞」を起こした事件でございます。

 籠城事件は、昭和六年に、今度は逆に予科並びに専門郡を廃止するという文部省案に対して、反対して立ち上がった事件でございます。
 したがいまして、先きの事件は、いわば一橋の頭切りというものを目的にしている。後の事件は足切りというもの
を目的にしておりますが、ともにこれは文部省、政府の方針は、大学というものは総合大学であるべきだという固定
観念に対して、一橋に商業の大学を築こう、商科大学を築こう、あるいは商料大学の体系を守り、そこで一貫して学
問していく体系を守っていこうという精神です。こうした一橋の考えに対して、文部省は常に弾圧を加えました。こ
ういう問題であるわけです。

    一橋の建学の精神

 そこで、この二つの事件を通じて何を守ろうとしたかということになりますと、一橋の学問は、これは商法講習所
以来すでにそうなのでありますが、われわれの経済生活、社会生活の実態の中から起こってくる学問認識の要求を汲み上げていくところに、一橋の学問精神があったのではないか、これを守ろうとして闘ったのが、二つの事件だったんじゃないかと考えるわけでございます。
 
 このことからテーマをさらに絞りまして、増田先生に伺いたいのは、第一の問題は、一橋の学問とは何かというこ
とです。帝国大学、あるいは東大が法科大学をつくったというようなそもそもの目的は、国家の政治的な要求、ある
いは国家統治の要求から官史を養成する、また商科大学をつくるということ自体の目的の中にも、商業行政というも
のを遂行させるに足る行政官をつくっていこうということが、文部省の基本的な考え方の中にあったようであります。
 それに対して、商科大学を一橋がつくろうとするその根本の考え方は、むしろ現実の社会の動きの中から興起してくる学問認識というものを精密化して、これをさらに実際社会に適応して産学協同の実を挙げた上で社会の進展に寄
与する、こういうことが目的だったように思われるわけです。この辺のことにつきましては私は先ほど感激したということを申し上げましたけれども、明治四十二年四月二十二日「商科大学に関する意見書」というものを当時の一橋の同窓会の先輩たちが起草いたしまして、小松原文相(小松原英太郎という有名な事件の相手方の主役であります)に提出したわけであります。この意見書は非常に委曲を尽くしておりまして、『一橋五十年史』の中にありましたものをコピーしたわけでありますが、これで数えてみますとおよそ七千字を超える文言になりまして、一橋に設ける商科大学の学問のシステムはどういう形でなければならないか、どういう性格のものでなくてはいけないかということを申しております。
 
 要点だけ申し上げさせていただきます。

 現今における大規模かつ複雑なる世界的大企業を統括経営するに足るべき知能を養成するということに、一橋大学の目的はある。したがって、商業大学の目的というものは企業家を養成することにあることをうたい、その中での学
問の制度カリキュラムを定め、専攻部というものがその中でさらに一部分を深く追究していくところに目的があるので、帝国大学の目的とするものとは根本的に違うということをうたっているわけでございます。
 この内容は、文部省に提出したものでございますから余り大きなことは言っておりませんが、

 この時代の背景には一橋大学の学問の目的は、キャプテン・オブ・インダストリーをつくることにあるとしている。これは、茂木啓三郎先輩も常々おっしゃっておられることでありますが、キャプテン・オプ・インダストリーを養成するのが大学の目的だということをほかの文書、あるいはほかの談話の中では明確に打出しております。したがって、その頃の学生は、まさにキャプテン・オブ・インダストリーに燃えていたわけであります。この言葉もだんだん後になりますと、その意味が明確を欠いてまいりまして、こういうふうに組織が大きくなれば、キャプテンではなくてゼネラル・
ォブ・インダストリーでなくちゃいかんじゃないかという話もあります。しかしこれはキャプテン・オプ・インダストリーでよろしいわけで、この当時これを日本語に訳したものは「実業界の統帥」あるいは「商工業の統帥」という言葉を使っております。企業家を養成するということは、商工業の統帥を養成することにある。これは非常に明確な意識でございます。こういうものから出発するところに、一橋の伝統的な建学の精神があったんじゃないかと、私は解釈するわけであります。

  一橋の学問とは何か

 これに関連いたしまして問題を三つにしぼって増田先生のご意見を伺いたいのであります。いまの、実業界の統帥を養成する、産学協同なんだという言葉の中に、一橋の学問というものは、いわば自然発生的な形で学問認識の要求が起こってきた。これを取り上げていくのが先づ第一に一橋の学問精神の基本になるんじゃないか。したがって、単純な言葉で、言葉の本来の使い方と違うかもしれませんが、私はこれを「ゲネアロギッシユ」な学問性格というものが、一橋大学の学問の特徴となるのではないか、こういうふうに考えるわけであります。「ゲネアロギー」というのは普通「系譜学」とか「系図学」と言いますので、これではどうもピンとこないわけでありますが、「ゲネシスのロギー」、
「ロゴス・ゲネシス」は発生であり、あるいは創成であります。物事がもうすでに実態がつくり出されている。実態のつくり出されているものに論理的な意味づけと関連づけと、それから整理をすること。これを「ゲネアロギー」といってよろしいんだろうと思いますが、こういう性格が一橋の学問の一番大きな特徴になるんじゃないか。
 
 申酉事件の当時に、一橋に大学をつくってくれという要求に対して、これを退けて帝国大学の中に設けるんだとした考え方は、国家統治の役に立つ人物を養成するんだという、いわば上から頭ごなしにおろされてきたところの学問要求であったと思うのです。さらに、これからまた発生してくる学問のための学問というような考え方、こういうような考え方がむしろ明治政府の−いまになったら少し違ってくるかもしれませんが−考え方の根本にあった。この考え方に対して常に反対して、実態の社会の動き方の中から出てくるところの学問要求というものにこたえていこう、これを組織化していこう、これを論理化していこう、こういうところに一橋の学問があったんじゃないかという問題でございます。
   

   四学部並立は問題がないのか


 第二に、これは籠城事件がこれを象徴しているように思うのでございますが、一橋のいわゆる学問制度の体系が、
予科、専門部があり、その上に本科、大学学部がある。しかもこの学部の構成は、予科、専門部から入る一部分の人、あるいは高商から入る一部分の人、こういう人々で構成されて一橋の大学学部というものは成り立っていたわけでございます。この形の中で文部省は予科、専門部を取り払おうとした。
 
 これはやはり申酉事件と同じように学問制度を統一するという基本認識から一橋大学、あるいは当時の東京商科大学を、帝国大学の一部分に吸収して合理化しようという底意があったと言われているわけですが、こういうものに
対して一橋は反対してあの籠城事件を起こした。あの籠城事件の経緯の中には、先ほど申しました意見書のようなものはございませんので、どれだけこのことが意識されていたかどうかわかりませんが、こういう予科から大学を一貫
して一つの商業関係、あるいは経済関係の学問を充実して追究していこうという姿勢の中には、これは教育心理学的なカリキュラムの要求、教育心理学的にそういう若い時代からある科目については基本的な予備的知識としてまずそこで培う。あるいはいまはそういうものじゃないかもしれませんが、そろばんや簿記とかというものは若い時代に早くやってしまう。これを共通の土台にした上で、特別な自らの専門とするものを専攻していこうというような体系、
こういう体系が教育心理学的なシステムとして意味が深かったものじゃないか。
 
  したがって、このことから、現在の一橋の学問のシステムの中に、六・三・三制の教育体系にそのまますっぽりと
入り込み、大学は大学として独立しているという現在の形をもう一歩昔に返す --これは私の単独な意見ですが−
ことも一つの意味合いがあるんじゃないか、あるいは研究の余地があるんじゃないかと思うのは、一橋に一橋高等学校を付設するというような考え方を実現することも研究に値するんじゃないか。
 
 それから、本学の学問の体系も、いま四つの学部が並立する形になっておりますが、われわれの時代には、三年間で十数科目の必修科目さえ取れば後は自由選択でどのような文科的な科目も、法律的な科目も、哲学的な科目も、あるいは経済学的な科目も自由に取ることができた。こういうものの中から、多彩な、いわばお互いの専攻する、興味の対象はある程度違っていても、また違っていれば違っているなりに、協力できる人間関係というものができていたのではないか。この辺がいまの学校の体系の中でどういうふうに考えられているのか。これが問題の第二点であります。

  
   現在の一橋は社会の要求に応−えられるか


 第三点は、これは学問そのものが学問として発展して行く上では、当然論理的な発展の方向(註)というものがあ
るわけでありまして、したがってそれから各科目の類別の体系が展開してくるということになるわけであります。
 こういう展開は現在すでに行われております。行われておりますけれども、これは最初設問いたしました第一問に返りまして、こういう一橋の「ゲネアロギッシュ」な学問要求というもの、したがって、社会の実態の要求というものに一橋の現在の学問体系、あるいは四学部分立の体系というものが即応できている形になっているのかどうか。
この辺についてもひとつ伺わせていただきたいところでこざいます。二番目、三番日の問題につきましてはお話が進展した後で、私は周辺の人事担当の役員の方、その他学校の先輩のそうした方々のご意見なども承っておりますので、そんなものもあるいはご参考になれば申し上げさせていただきたいと思いますが、長くなりますのでいまの三つの点に関連いたしまして、お話の中でお答えいただければ大変幸いだと思います。


(註)
 一般に人文科学、ないし社会科学の「学」としての論理的方向には、
(一)、学問のザイン(Sein)を問うもの。その存在性、現実性を明らかにするものとしての学問分化が行なわれる
 と思われる。経済学、経営学、統計学、金融理論、保険理論等々。
(二)、学問認識のミュッセン(Mussen)を問うもの。その必然性を明らかにするものとして経済諸学の数理化、エ
 コノメトリックスなどは正にこの方向である。
(三)、学問認識のゾルレン(Sollen)、当為性又は可能性を問うもの。哲学的、歴史学的、政策学的探究は深くこれ
 にかかわって来る。
 
  このような論理性による学問分化の方向は、一橋の学問においても当然追求さるべきであるが、それが社会生活
 の基盤から全く遊離して欧米学者説の祖述に止るような、増田さんの用語による「だとさ学」に堕することは探く戒
 むべきものと思う。