一橋大学ホームページより2001・05・22 [四大学連合クリック
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[橋問叢書 第十号]一橋の学問を考える会(s57=1982・06・28)

        経済を考える場 ― 一橋と蔵前 ― 東京工業大学名誉教授・国際事情研究センター所長  矢島鈞次

一橋の学問的遺産を残した人々

 ただいま御紹介いただきました矢島でございます。
 今日は一橋と蔵前の問題、特にそれぞれの学風について、限られた私の視野ではございますけれども、率直な考えを申し上げさせていただいて、そして今後皆様に一橋と蔵前の関係を改めてお考えいただきたいという趣旨で参上した次第でございます。

 一橋の学問を考える会」では、いままでの講師の先生方はほとんど全部と言っていいはど一橋直系で、一橋で教鞭をとってこられた先生ばかりでございます。私は、ごく短い一年ほど、上田辰之助先生のプロゼミの担任をしただけでございます。そのほかは一橋で教鞭をとることは一時限もしたことのない、全くの外様でございます。ですから当然のことながら従来の諸先生のお話と私の話とは、つまり、内から見るのと外から見るのとでは、一橋の学問に対する評価も自ら違ってくるかもしれません。しかしそれにもかかわらず、私は一橋で学びまして、そして蔵前で教鞭をとり得たことは、私にとっては大変に幸いなことであったと考えております。

 先回、この会合で、篠原三代平さんが、特に戦後の問題に限って、一橋の経済学というものを考えたい、戦前を顧みることは回顧的になるので避けたい、戦前はほとんど輸入経済学であったけれども戦後は独自のオリジナリティを持った創造的な経済学ができたという主旨の御発言をなさっておられますけれども、私は必ずしもこの意見には賛成ではございません。私の考えておりますことは、今日の一橋のあるのは戦前の一橋の学問的なべースがあったが故に、この遺産の上に今日の一橋がかろうじてあり得るというような厳しい評価を、外部から見ておりますとせざるを得ないわけでございます。

 それで当時のことを私なりに整理をしてみたいと思います。

私どもの時代は学部が昭和十五年から十七年の九月までの半年短縮の時代でございました。昭和十六年は、変則的に二回卒業という事態を迎えた時代でございます。にもかかわらず京都には京都学派というものが存在をいたしました。それは御承知のように・西田哲学の流れを汲みます田辺元博士、西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高。こういうような哲学者がキラ星のごとく京都大学に輩出をいたしました。そして京都学派と呼ばれるにふさわしい哲学の山脈を形成したことは私どもの記憶に新しいところでございます。それから後、私一時東京学芸大学に奉職をいたしました。そのときに奇しくも学長に高坂正顕先生が就任をなさいました。高坂先生と京都学派の問題について話し合いをいたしてみましても、いささかも京都学派の哲学の山脈は衰えを見せていないということをつくづく痛感させられたことがございます。

 同じように。あの当時単科大学でありながら総合大学的な広さと深さを持っていた大学が、一橋大学であったと思います。そして、特にあえて名前をつけますならば、「近代経済学派」と申しますものが、近代経済学を不滅のものに位置づけましたものが、御存知の中山伊知郎先生の『純枠経済学』という書物です。それからその後出版されました中山先生の経済学の諸著作が、今日の日本の経済学のまさにコーナーストーンを形成した、こういう具合に申し上げてもよろしいと思います。

 と同時に、また一方におきましては杉本栄一先生が非常に精力的に近代経済学とマルクス経済学との接合点を探究なさいました。それが『近代経済学の解明』という名著となって公刊されたわけです。またその当時、若くして亡くなられました鬼頭先生がケインズの『貨幣論』を日本で初めて手がけられて、地道に研究をなさっておられた姿というのも、これまた非常に貴重なものです。決して一概に輸入経済学という言葉では片付けられない厳しさというものが鬼頭先生の姿勢の中には見て取ることができましたし、講義の端々にもケインズ哲学というものに没入なさろうとす
る鬼頭先生のすさまじい姿から、私は学者としての尊さというものを感じ取ったわけです。

 それから、また高島善哉先生が、アダム・スミスとリストを中心とした考え方の根底を、経済社会学的な観点
から―ということはある意味においての高島先生なりの哲学を基底に据えて―スミスを見て、それからリストを分析するということをなさったわけです。

 それから、いまなお御壮健で活躍しておられます板垣與一先生も『政治経済学の方法』という名著をお出しになりました。主にこれはドイツ経済学を基底に据えられまして、そしてドイツの哲学、それから政治、社会というものの中から政治経済学の方法論という、極めてベーシックな本をお出しにおなりになったわけでございます。このときの一橋近代経済学派というのは、決して技術論に堕さないで、あくまでも本質論を追究していくという姿勢に終始したところに、私には非常に印象深いものがございます。

 まだそのほかにも、ぜひ言及したい先生はたくさんおられます。

 それから、「会計学派」と仮に名付けておきたいと思いますが、吉田良三、太田哲三両先生のほかに、たとえば私どもの学生時代には高瀬荘太郎学長がおられました。高瀬先生の会計学というものを、私、授業で取らしていただきまして、借方が右か左かということのわからない私が会計学にある興味を持ったのは、高瀬荘太郎先生の「暖簾の研究」でした。グッドウィルの研究の部厚い本を読ましていただいたときでございます。なぜ私の興味を引いたかといいますと、昨今の公認会計士の試験とか税理士の試験とはおよそ違いまして、この当時の一橋会計学派には哲学があったと思います。高瀬先生は御存じのようにフランス社会学に非常に造詣の深い方でございました。こういうお考えが高瀬先生の会計学の中にもきちんと行間に織り込まれているということを敏感に読み取ることができたというように考えられます。

 同じように山中篤太郎先生の中小企業論にいたしましても、決して現実の事の動きのみにとらわれませんで、高瀬先生同様にフランス社会学の非常に重厚な基礎というものをしっかり据えられておられますが故に、山中先生の中小企業論が現行の中小企業論、つまり統計にのみ偏するような中小企業論とは違った重みと深さを私どもに与えてくれたものと考えているわけです。

 三番目に、「社会哲学派」を挙げてみたいと思います。これは多くの先生方によって述べられておりますので、ここではごく簡単に申し上げますと、たとえば左右田喜一郎先生の左右田哲学、その流れを発展的に創造されました杉村広蔵先生のドイツ西南学派、杉村先生からは特にカントを中心といたしましたものの考え方を経済を考えるグルンドに据えるという非常に厳しい姿勢を見て取ることができます。それから、また私どもずいぶんお世話になったのですが、太田可夫先生がイギリス経験哲学について徹底的な究明をなさる、そしてそれを著書にお著わしになる、こういうあり方でした。

 それからまた、村松恒一郎先生が、ドイツ・ルネッサンス時代のものをブルクハルトの翻訳を通じて非常に深く究明をされておられました。私は村松先生の授業を、学生が二人か三人であったと思いますが、一年間無欠席で聞いたことがございます。なぜ村松先生の講義を二、三人なのに聞かざるを得なかったかと申しますと、私どもは聞くのが楽しみだったからでございました。そしてナポレオンの大陸封鎖の問題だけについて一年間お話しがございました。それは今日といえども忘れることのできない授業でございました。こういうようなことで、近代経済学派、会計学派、社会哲学学派、こういうように分けることが、その当時の一橋の学派としてできると思います。

   上田辰之助先生のこと

特に私がゼミの先生として選びましたのが上田辰之助先生でございます。多くの一橋の方々、それから私の同期の諸君を含めて、上田先生は商業英語の先生だとお考えになっておられる方が非常に多いのでございますけれども、私は、上田先生は商業英語という科目の枠を通じて、実に深い思想というものをわれわれに講義を通じて教えてくださったと感じます。上田先生のお考えと申しますのは、皆様御存知のように、中世の聖トマス・アクィナスの経済哲学を中心にいたしまして、ヨーロッパ中世の有機的社会職分論というものを打ち出された非常に優れた業績をお持ちの先生でございました。たとえばギリシァ、ポリスの生成からローマの問題、それから中世の問題に論が至ります場合も出てまいります。それらの場合、その引用の文献はすべて原資料でございます。原資料主義ということは東大の山中謙二先生がつとに唱えられておられたものでございますけれども、上田先生が、ギリシァ、それからローマ時代及び中世の時代にわたりまして非常に原資料を綿密に読み込んで、本をお書きになったということについては、今日まで上田先生の業績を、あれから何十年もたちますけれども、超える人がまだ出ておりません。最近、京都大学で、聖トマス・アクィナスの大著『神学大全』 の翻訳が進められておりますけれども、上田先生のこのお考えをまだ超える人が日本に出ていないということを第一に申し上げたいと思います。

 第二番目に申し上げたいのは、上田先生はイギリス経験哲学の研究にも非常に大きな力を注がれまして、ホップス、ロック、ヒユーム、ベンサム、ジェームス・ミル、ジョン・スチュアート・ミル、アルフレッド・マーシャル、ピグー、ケインズというようなところにまで深く踏み込まれまして、特にオーガスチン文学、例を挙げますとデュフォーであるとか、スウィフト、ドクター・ジョンソンというような時代の文献を十分に読み込まれました。そして英文でこのオーガスチン以来の経済の問題を書いておられます。そして英文学者の多くの方々にこれを贈られたわけでございます。多くの、たとえば福原勝太郎先生を初めとして、むしろ上田先生の英文で書かれました本の意味を十分に読み取るのに困難なほど・非常に高度な内容を持ったものであるということを、福原先生は折りにふれてしみじみと述懐されておられました。したがいまして、いま世の中でもてはやされております大塚史学の創設者、大塚久雄先生の、たとえば『ロビンソンクルーソー物語』というのは、これは上田先生が戦前から戦後にかけておやりになりました業籍のほんのごく浅い一部分でしかないということをここではっきりと、学問の厳しさということを前提にいたしまして申し上げておかなければならないと思います。

 それから、シェークスピアの問題などについても非常に造詣が深かったのでございます。当然キャソリックの問題だけで終わるものではございませんで、ルターの問題であるとか、カルビンの問題とかに関連のある皆様御存知のマックス・ウェーバーの問題であるとか、それからマックス・ウェーバーを読む場合には必ずマックス・ウェーバーの学問のベースになっているのがトレルチの神学の問題であるわけです。トレルチの神学のサポートがなければ、マックス・ウユーバーの理論というものは一つの体系をなさないということをはっきりと言われたのも上田先生であったわけです。当然、ウェルナル・ゾンバルト、それからルジョ・プレンターノという人々の著作についても徹底的に読破されまして、イギリスの問題についてはマックス・ウェーバーは十分に知っていない、ルジョ・ブレンターノの方がイギリスの問題については非常に深い認識を持っているというお話なども、私どもがこの本を読まされ、そして先生からいろいろな批判を受けるときに、先生の意見としてこういう感想をいただいたのです。

 ですから上田先生の体系というのは、中世の有機的社会職分論の問題であるとか、オーガスチン文学、特にイギリス経験哲学をベースに持ったオーガスチン文学時代の研究であるとか、それから中国の問題、中国論を私がもともと やり始めましたもとは、中国の二宮尊徳と言われておりました梁漱溟(りようそうあい)の研究を始めてはどうかという上田先生のご指示があったからです。上田先生の中国研究については全く世間に知られておりませんが、坪上大使(前タイ国駐在大使)、長谷川如是閑氏、平野義太郎氏などの方々と日華学芸懇話会を設立され、当時としては公正中立な中国研究者の集りとして注目を集めたものでした。そして亡くなられます直前には、井原西鶴の問題に非常に深い興味をお持ちになりまして、欧米のいろいろな経済人の考え方と井原西鶴の商人道の考え方を比較して一つにまとめたいという念願をお持ちでございましたけれども、志半ばにして一万余枚のカードを残したまま先生は静かに去ってしまわれたわけでございます。

 したがいまして上田先生は、私どもが学生時代に多くの私の友人から聞かされました商業英語の先生ではございませんで、まことに深い経済哲学、つまりヨーロッパを理解するにはギリシァ哲学とローマ法とそれからキリスト教という三条の琴線を押さえない限りヨーロッパを本当に理解することはできないということを繰り返し言われたのでございます。私が後にヨーロッパで生活をするようになりましたときに、このことがどんなに事実でもって証明されたかということは、私の身にとっては非常にありがたい限りであったというように考えております。

   一橋法学派と米谷先生

 次に、一橋法学派について、私見を卒直に述べさせていただきたいと存じます。北京大学で当時東大教授・兼子一先生(故人)が、一橋法学などできる筈がないと、よく私にいわれました。これは決して兼子先生を非難する意味ではありませんことを前提におききとり下さい。一橋の法学は所詮東大法学の出店なのだよ、といわれるたびに私は若輩でしたが、常に反論いたしました。

 民法の吾妻先生、行政法の田上先生、外交史の神川先生、国際法の横田先生、それぞれ斯界の第一人者としてご立派な方々ばかりです。だが、慶応大学で「慶応法学」の確立を目指して峯村光太郎先生が頑張っておられるのと同様、米谷隆三先生が一橋法学の確立にかけられた熱情は、授業を受けた学生一人一人に強い共感の念をよびおこしたという事実を無視してはならないと思います。この米谷先生をなぜ戦後一橋が追放なさったのか、私は部外者ながら今日でも釈然と致しません。米谷先生は成蹊大学に移られ、その研究によって学士院恩賜賞を授与されました。{一橋法学」が米谷先生によって大きな根っこが植えられたことが立証されたことになります。不勉強にもその後の一橋法学の動向を私はよく存知ません。

   学問の細分化と統合化

 このように考えますと、一橋の学問の基礎は、むしろ戦前から戦後の昭和二十年代、つまり非常に厳しい日本の時代の中で形成をされてきた。そしてその遺産の上で現在の一橋大学はかろうじて大学としての命脈を保っているのではなかろうかというのが外部から拝見いたします一橋大学の現状ではなかろうかと考えています。この点について間違いがあれば、私は直ちに改めたいと思います。

 と申しますのは、戦後は当然のことながら従来とは違いまして、学問の分野にも数学的思考の導入を含んで、最近ではコンピューターを導入し、経済の予測を行なうとか、ORの問題とか、いろいろな新しい分野というものが開けてまいりました。と同時にまたそれぞれの学問の分野というものが包括的ではなく、非常に専門分野に細分化されまして、そして細分化によってそれぞれの専門家が育ってくるということになりました。これは時代の学問の流れとしてやむを得ないのかもしれません。しかしながら細分化というものが行われる以上は、これの統合化というものが当然一橋の学問としてなければならないと考えるわけでございます。しかし今日は、まだその時期が熟さないで、いまその過程の中にあるのかもしれません。ですから一概に私がここで現在の一橋の学問の細分化の問題についてとやかく批判を申し上げることは差し控えたいと思います。しかしながら私は、一橋出身でありながら外に出て行った人々、仮に名前を挙げさせていただきますならば、いま京都大学におられます宮崎義一氏、それからイデオロギーの問題は抜きにいたしまして、名古屋大学におられます水田洋氏、こういう外に出て行かれた方々は、やはり一橋のよき伝統を受け持たれて、学問の細分化の中にあって、むしろ統合化の動きを図るという見方に立って経済学を広い視野から分析をされ、オリジナリティをもった統合的セオリーを出しておられます。こういうことを考えてみますと、私は、一橋のいまの細分化というものと、それから一橋から外で仕事をやっておられる方々の学問のあり方とが、実は意外に外に出られた方々が一橋のよき伝統、つまり哲学を持った学問を継承しておられるのではなかろうかというのが私の率直な考え方です。

   蔵前と一橋の共通性

 ところで話を一転いたしまして、私は如水会の会員であると同時に蔵前工業会の会員でもございます。恐らくこうしたケースは私が初めてであるかもしれません。来年の三月、小林晴雄教授が東京工業大学を定年になられます。そうすると彼が、そういう如水会会員であると同時に蔵前工業会の会員として、両方の会員になられるのではなかろうかと考えております。そこで蔵前工業会の問題についても、私が今日申し上げたい結論のために幾つかの点を申し上げたいと存じます。

 一橋大学ははゼミナール中心だとよく申されますが、事実そのとおりでございます。しかしながら蔵前、いまの東京工業大学のあり方もまさにそういう形を踏んでおります。もっと詳しく申し上げますと、一年生から三年生までは、人文社会の教室を中心にしたゼミの形式をとっております。そして何をしゃべってもよろしいという総合講義という講義がそれぞれ低学年と高学年に一コマずつ配備されております。これは社会現象を総合的に見て、判断できる手かりを与えることが目的でございます。そして人文社会の教官を中心にして一年から三年までゼミの形式がとられているということ、そしてそれに語学とか実験というものも常に人文社会の教官のゼミを単位にして語学の組み分け、それから実験の組分けなどがすべて行われていたわけです。そして四年生になりますと、それぞれ各専門の研究室に配属をいたしまして、そして現在は大学院大学でございますから、ほとんど大部分の学生がマスターコースまでは進むという形でございます。この各研究室単位で1ということは違った意味でのゼミ形式でございますが、それで大学院のマスターの二年を経過する。つまり前後六年になりますけれども、前半は人文社会の教官を中心にしてゼミ形式が構成されて、そして英語のクラス分けも実験のクラス分けも、すべてこういう人文社会の教官のゼミ単位によって決められているということ、それから、四年からマスターの一年、二年はそれぞれの研究室において専門のゼミが行われる。したがって、一橋だけが何もゼミ、中心の徹底したシステムではございませんで、蔵前のあり方というものもまさにこういう形をとっていたわけです。

 違いますのは、助手というシステムがございまして、助手の中には助教授、教授となっていく助手と、それから他大学へ出ていく助手と二通りの助手がございます。それから技官というものが専門職として存在をいたしまして、これは助手以上の技術を持っております。そして、頭が助手であるといたしますと手足が技官という構成が研究室にはそれぞれできております。特に技官は、技術が優秀であるということで、企業に次から次へと引き抜かれていくという状況が起こりましたし、一時下火になりましたが、また最近技術の問題が見直されてまいりますと同時に、技官がどんどんと企業に引き抜かれていくという形をとってきているというのが現状です。

 ところで、蔵前も、それから一橋も、京都大学も、実は官僚、つまり主流派からはずれたという反骨精神というものを持ったカラーの大学であることにおいては共通をいたしております。ですから、京都大学、一橋大学、東京工業大学というのは反東大という意味におきましては、つまりそれは反官僚という意味におきましては、非常な共通分母を持っているわけです。ただ問題は、蔵前の場合は、人ではなくして物を対象にして考えるという指向が非常に強いことは学問の性質上やむを得ないわけです。人間よりもまず物、つまり技能とか技術、こういうようなものに重点を置いていくという考え方はこれは当然あるわけです。東京高等工業、昔は東京職工学校と申したわけでございますが、この東京職工学校の一番最初の校長が正木という方でございました。この方は後にハワイ大学の講師か何かになって出て行かれました。それから今日の蔵前の基礎をつくりましたのが大変な経営的手腕を持っておられました手島先生という方でした。いまでも手島記念賞というものを設けて、年に一遍は優秀な著書ないしは論文に対し⊂手島記念賞を贈るというシステムになっております。ただこの職工学校時代におきましても、欧米の技術教育を導入する。そしてそれには、ただ旋盤の使い方が非常にうまいとか、配管の手法がうまいとか、そういう単なる技術だけではなくして、まず二つのことが重要でありました。それは基礎になるものをきちんと押さえる、そのために物理とか、純粋化学、こういうものをまず基礎として徹底的にたたき込む、数学という基礎をたたき込む、と同時に人文社会というものを重視するという行き方が、実は東京職工学校時代からずっとあったのです。

 そして戦後になりまして、和田小六という大変優れた学長を迎えることになりました。そこで一般教育といたしまして、技術に振り回される人間ではなくして技術を使いこなす人間を養成するということで、そのためにはどうしても人文社会という学問分野を単なる一般教養とかではなくして、それぞれの、たとえば機械であり、電気であり、物理であり、化学と同じウェー卜に置いて人文社会の科目をカリキュラムの中に位置づけていくシステムをとったわけです。そして確かに昔は、東京高等商業学校の時代と同じように東京高等工業の時代は、つぶしがきいて物づくりが
非常にうまい、煙突があるところには必ず蔵前の人間がいる、工場長が出世のとまりであるとよく言われたのです。
しかしながら最近の動きを見ておりますと、和田小六学長が提唱されましたものが次第に蔵前の中に根付いてきました。昨年十月に退官されました斉藤進六学長は、東京工業大学は単科大学である、単科大学ではあっても総合大学的な内容を持った単科大学である。ここで養成される人間は総合的な総合人、総合的に物の判断ができ、そして技術を十分に身につけた人材を養成していく単科大学である、我々は胸を張ろうじゃないかとはっきりと言われたわけです。

 これには幾つかの経違がございます。二、三代前の学長で、いま長岡技術大学の学長をやっておられます川上正光学長が、かつて私に相談されたことがございます。それは、東京工業大学にも経済学部をつくって、あるいは文学部をつくって総合大学に持っていこうという考え方もあるけれどもどうだろうかというご意見でした。そのときに私は言下にこれを否定いたしました。東京工業大学というのは、昔は工学部だけでございました。それが理学部と工学部に分かれたわけでございます。二学部制の単科大学でございます。単科大学には単科大学のよさがある。その単科大学の中で、総合大学と同じだけのものをこの単科大学の器の中に盛り込んで、それを消化のできるような形に持っていくのが最も望ましいのではないですかと、私はその時学長に申し上げたわけです。いずれにいたしましても、こういうようなことで、ずいぶんあっちへ行ったり、こっちへ行ったりという試行錯誤はございましたけれども、現在は蔵前工業会の母校である東工大は単科大学、そして総合大学の内容を十分に単科大学の中で消化して、やっていくという形をとることがはっきりと決められたわけです。

 二番目は、大学院大学というこれは技術の問題からくるーつの要因ですが、一橋と蔵前と比べる場合に必ずしもこれは適切ではございませんが、技術的なサイドからの要請において大学院大学というものがほぼ定着化の方向に向かっていったということです。

 ここで問題になりますのは、土光敏夫さんとか茅誠司さんとか、そういう方が東京高等工業、つまり蔵前から出ているじゃないか、あれはどうしてだという問題でございます。私ども考えますのに、土光さんも茅さんも初めは東京高等工業学校の物の考え方で、人間よりもまず物をつくる、物をつくる哲学、つまり技能であるとか技術というものを重視をしてこられたと思います。したがって、土光さんや茅さんを御覧いただきますとおわかりになりますように、非常に人間関係というのは弱いわけです。ところが企業の中で、経営の中で非常に苦労なさって人間関係というものを身につけていかれますけれども、では、テクノロジーとしての人間関係というものをうまく使っていくことを土光さんや茅さんという方は、幸いにも持っておられないわけです。では何だというと、あの御両人を一つの サンプルとして申し上げますと、人間的に非常に素朴なるリーダーと申し上げた方がいいのではないかと思います。素朴なリーダーですから、みんな裏がないから安心する。安心できるというところに土光さんや茅さんがリーダーとしての技能と申しますか、そういうものを発揮できる。こういうところがあると私は思います。土光さんや茅さんが、人よりも物という物づくり哲学から人間関係に入っていって、しかも人間関係そのものが成熟はしないで、未熟なマネジメントになる。これが要するに素朴なリーダーとして茅さんや土光さんを生んでいる一つの要因だと思います。そして学生時代クラブ活動でわずかに培われた人間関係というものを原点にしながら、今日土光さんや茅さんがやっておられる、こういう分析を実はしているわけです。

   相互の学問的補完関係を

 私が、一橋に厳しく蔵前に甘いようなことを申し上げましたのは、これは私が一橋を愛するが故でございます。ここで私が最後に申し上げたい問題がございます。一橋と蔵前とは決して敵対関係ではございません。たとえば、私や、
いま教鞭を取っておられます小林靖雄先生、この二人だけしか一橋出身者は東工大にはおりませんけれども、前には、レオナルド・ダ・ビンチの研究者でおられました加茂儀一先生が長い間教鞭を取っておられました。加茂先生は後に請われて小樽商科大学の学長になられて行かれたわけでございます。それから、作家の伊藤整さんが英文学の教授として蔵前で長い間教鞭を取っておられました。したがって蔵前と一橋との関係というものは敵対関係にないことはもちろんのこと、決して無縁な関係にあるわけではございません。そして加茂先生が残されました論文、未定稿がございます。このレオナルド・ダ・ビンチについての未定稿が小学館から発売されることになりました。これについて一橋の人々の御協力 ― 一橋出身で小樽商大の学長までおやりになられました加茂先生の研究出版について、一橋の方々にお願いがございますのは、両方の大学にかかわりを持って、そして一橋で学んだ加茂先生の意図というものを十分にお汲み取りいただきたく思います。会社でお買い上げいただくなりして、加茂先生というお人柄をしのぶという
上から見ても、非常にありがたいと考えているわけです。

 ここで私が問題として申し上げたいのは、実は一九七八年三月にロックフェラーのファンデーションによりまして、国際産業政策会議というものがアメリカで開かれました。これが発端になりまして、ロックフェラー財団、リリィ・ファンデーション、メロン・ファンデーション、デュポン・ファンデーション等々のサボー卜によりまして、一つの大きな研究のプロジェクトをつくるということになりました。それがいわゆる「一九八〇年代プロジェクト」と呼ばれるものでございます。日本では全く知られておりませんけれども、この「一九八〇年代プロジェクト」に参加したのは、たとえばクーパーであるとか、キッシンジャーであるとか、ブルメンソールであるとかというような政界、財界の ― 学界が入っていないのがせめてもの幸いでございますが ― 人々によってアメリカ側は「一九八〇年代プロジェクト」というものを完成いたしました。そしていまレーガン政権もその路線に従って、国際産業政策を着々と進めているところでございます。内容をごく簡単に申し上げますと、アメリカは一九九〇年代半ばごろまでに、従来型の重化学工業を中心とした産業構造、つまり自動車、家電、造船等々の日本がいま得意としている産業、これを仮に従来型重化学工業を中心にした産業構造と規定をいたしますと、これを一九九五年ぐらいまでには何とかアメリカが主導して世界の産業構造を先端技術型の重化学工業という産業構造に持っていきたいというプロジュクトをこしらえたわけです。ですから、日本電気(NEC)の超LSIに非常な関心を示す、それから電電公社の光ファイバーを中心とした優れた技術の開放を執拗に迫ってくるということにもなります。それから勘ぐりますならば、今度のIBM問題、FBIと三菱電気及び日立とのああいう問題もまさに一九八〇年代プロジェクトの大きな一つの流れの中に位置づけて考えると、実に明確になってまいります。質の違った貿易摩擦であることにご注目いただきたいと思います。

 私が東工大で経済を教えておりましたときに、一般の経済ばかりでなく、応用化学の分野で、それからまた電気の分野で、それから機械の分野で別個に経済の講義をやってくれという非常に強い要求が出されてきました。つまり蔵前としても経済というものの理解がなくして、エンジニアとして立っていくことができないのだという考え方になってきたということです。私が定年になってまる二年過ぎますので、その後の推移を聞いておりませんけれども、少なくともその当時の段階においては、各学科が、おれのところで経済学の講義をやれというような要求が非常に強かったわけでございます。前の学長も、経済、国際環境について、エンジニアにそれをひとつ是非たたき込んでくれという要請が行われておりました。

 ですから私は、一橋と蔵前というものは決して相反するものでも、相対立するものでもないと考えております。むしろ相互補完の関係にあると思います。ところが残念ながら現状では蔵前と一橋というのは全く関係がない。亡くなられた小泉明学長が大岡山にこられました。どこへ行かれたのですかと伺いましたら、図書館長をやっておりましたので図書
館の問題でというお話でございました。そうではなくして学問の本質に迫るレベルで、蔵前の持っていないものを一橋が補完し、一橋の持っていないものを蔵前が補完するという形で、今後は歯車を合わせて、車の両輪として一橋と蔵前が学問を立てていく、一つの新しく、かつ東大のまねの出来ない体系を立てていくことが大事な問題ではなかろうかと思っております。

 最近、私は一橋のカリキュラムの内容を寡聞にしてよく知りませんけれども、技術の問題について一橋大学がどれだけ御関心をお持ちになって、経済学とか、商学とか、法学とか、会計学とかが、一見無縁なように見えます技術ないしはテクノロジー、ないしはサイエンスという問題をお取り上げになっているのか。こういうところも一つお考えをいただきまして、新しい時代は一橋と蔵前の相互乗入れの時代でなければならないと考えております。

 実は蔵前側としてはもうすでに、経済学というよりも経済なり国際事情というものに貪欲なほどの要求を持っております。たとえば大学を卒業した者が一橋大学の大学院の経済学部に入学をする、また東大の経済学の大学院に入学をする、三菱商事に勤めては鉄鋼の販売を行う、三和銀行の如きは蔵前閥ができております。毎年六人から七人ずつお採りいただきまして、これが十何年続いておりますので、百名近くのエンジニアとしてのメンバーが三和銀行に入っております。そしてそれが決してコンピューターの問題をやっているわけではございません。窓口で預金ないしは審査、貸し付けという作業をどんどんやっております。また最近では弁護士になると挑戦をする人間も出てまいりましたし、ついに外交官試験に通りまして、いま外務省に外交官の卵として勤めている人間もいるわけです。

 私は一橋の学問のあり方というものは、必ずしも篠原氏が申されるような形で、エコノミスト賞を取ったとか
の問題ではないと思うのです。日本のこれからの、アメリカの大きな世界戦略の波の中において、日本が対応していくためには一橋のいまの姿勢でいいのか、いまの蔵前の姿勢でいいのかということを、両方に関わった関係上、特に
訴えたいのです。そしてどうか、一橋と蔵前とが両輪になって相互補完の態勢というものを二日も早くとっていただきたいというのが、私がこの席に出てお話し申し上げたかった結論でございます。
どうも御清聴ありがとうございました。


   [質疑応答]

韮沢 矢島先生、本当にありがとうございました。もう胸のすくようなお話でございました。特に先生が、一橋に残っている方々ではなくて、よその大学に行った一橋出身の経済学部の教授の方々がオリジナリティを発揮していらっしゃるという点などは、胸がすくような思いでした。特に蔵前の方は、お話しのように経済学のことも政治問題にしても、非常な関心を持っている、工学の方はもとよりそれをやっておられるということで、強い感銘を受けました。
それに比べて私自身も、工学の方は全然だめなほうですけれども、一橋の方はこの点について果たしてどうでしょうか。蔵前ではすでに大学院がある上に、さらに東大なり一橋なりへ来て勉強するというわけですが、その点では私もかねてから、一橋も科学技術の方面をもっと勉強しなければいかんと思っているわけです。

 そこで質問ですけれども、一橋の中に科学技術のものを取り入れるべきだとお考えでしょうか。大学院などでそういうものを手がけていく必要があるというようにお考えでしょうか。私個人としては、当然必要じゃないかと思うんですけれども。

矢島 これは、まず科学と申しますか、技術と申しますか、従来の商品学とは違った意味における基礎的な講座をつくっていくことは、これは何も専門的なエンジニアになるわけではございませんので、そういうような講座をつくっていくことは幾らでも可能だと思います。と同時に、また一橋の方からも、蔵前の方は経済ないしは法律というものの考え方を求めているわけでございますから、双方が交流をいたしましたら、蔵前の方は一橋の学生諸君にわかりやすいような形で、それぞれ応用化学なり、最近の電子システムの問題なり、それから材料工学の問題なり、社会工学の問題なり、そういう問題についての教養的な講座を蔵前側としても受け持つことはやぶさかではないだろうと思います。と同時にまた一橋の方としても、蔵前がいま要求をいたしております経済の問題とか国際関係の問題などについて、あるいは文学の問題について御出講いただくという相互交流ができればいいと思うのです。決して技術の問題だからむずかしいということで決めてかからないで、一橋の学生にも十分理解していただいて、社会に出ても、サービスエンジニアリングないしはそういうような形のいろいろなお仕事の上において技術を見る目、技術を考える目というものを養うだけの力はつけ得るという確信を私は持っております。ですからそういうことをひとつ韮沢さんの方から御提案をいただければまことにありがたいと考えております。

遠藤 私は蔵前工業会の事務局長をやっております遠藤でございます。本日は飛び入りさしていただきまして、ありがとうございました。

 実は高邁なる学問の話ではなくて、ちょっと次元を落としまして蔵前工業会と如水会の問題で私なりの考えの一端を申し上げまして、お願いしたいのでございます。
昔、大正の中ごろには商工懇談会というのがございまして、お互いに交換でいろいろ名士の方が出られまして懇談会をやっておりました。戦争が近くなりまして、それが中止になり、以来数十年途絶えております。いま現在何が行われているかというと、商工囲碁会というのがございまして、春秋二回、二、三日前にも蔵前で一橋の方がおいでになって囲碁会をやりました。勝ったり負けたり、おまけに、おまえは何目勝ったと、ただそれしか話さないので、もう少し経済の話を(笑)如水会の方から聞いたらいいんじゃないかと思うんです。はなはだ次元が低くなりましたが、商工囲碁会ばかりではなく、もっと次元の高い懇談会で皆様方のお知恵を拝借したらもっとよくなるんじゃないかと思いまして、ひとつお願いしたいのでございます。

服部 先ほどお話に出ました加茂儀一さんは、中山伊知郎君より神戸で一つ下だったと思います。東京の方へ転校して参りまして、一橋へ入られました。私、洋書の輸入をやっているのですけれども、そのころからダ・ビンチの本を読んでおられまして、恐らくダ・ビンチ研究者としては、研究年度の長さという意味では、加茂さんは日本で指折りの人ではないかと思っております。在学中、それから学校を出られましても、加茂さんは始終店に来られました。
卒業してから気象庁の職員養成所の先生をやっておりました。その後ずっと私と懇意にしておりました。ところが先生は、『植物文化史』とか『栽培植物文化史』とか、『家畜文化史』とか『家畜系統史』とか、また別に「榎本武揚の伝記」とか、商業系統と全然離れた研究もしくは著書を出しておりましたものですから、神戸の方の同級生からは、どうも話がしにくいというわけで離れておりました。私は特別に商売の関係もあるし、それからあの人の友達である、たとえば東京医科歯科大学の学長をしておりました岡田正弘さん、有斐閣の社長をしております山川四郎さんと同級でございます。そういうことがありましたものですから自然に懇意になっておりました。

 加茂さんは人柄が非常によかったものですから、皆から好感を持たれたんですが、自分の好きなことしかやらなくて、義務づけられることが非常に嫌いなものですから商業系統の人とは自然に離れていたわけでございます。葬式に行きまして、非常に盛大な葬式でしたけれども、神戸の人はほとんど姿を見ずというかっこうでございました。亡くなった後でもいろいろ心配をしておりましたが、ときどき加茂さんの友達に電話をしたりしていました。加茂さんの
家に電話しても通じないのでございます。この間ある人と会って話したのですが、奥さんも楽しい生活を送っておられるというお話しでございました。子供さんは皆健在でございます。加茂さんは何をやりましても、話がどこに行くかわからないぐらいに横道に入る先生でございました。そのかわり資料がきわめて多い。あれほどいろんなことを知っている人は少ないくらいでした。
きょう加茂さんのお話が出まして、長い間の知り合いでございますので、本当にありがとうございました。厚く御礼を申し上げたいと思います。

 もう一つ、東京工業大と一橋との提携の問題でございますけれども、これを本当に私は歓迎しております。コンピューターの問題がございますが、コンピューターに関係して少しわかるだろうかと聞きますと、微積分をやっていなくちゃだめだとおっしゃるんです。微積分やらないとコンピューターはわからない。コンピューターのことについて深く入ろうとしますと、コンピューターの間違いを発見しなくちゃならない。それについてはよほど高度な学問がいるんだけれども、もうそんなものやれないと引導を渡されているわけです。ところがいまの大学の初年度においてそういう方面の学問をおやりになれば、コンピューターについてどう扱うか、どういうふうに商売していくか、どういうふうにそれが発展していくかということについて見当がつくし、それの仕事ができます。それを無視してはこれからの実業界では立っていかないんじゃないかと思います。一橋の大学において数学をうんとやってもらいたい。そういう意味でこの会合に一橋の数学の渡辺先生のお弟子の久武雅夫先生にでも来てもらってお話を願って、数学の初歩でもいいからそういう方面の指導を受けるとかしてもらいたい。それから、そういうことを一橋の方の学問系統の中に織り込んでもらいたい。そして一橋と蔵前とが結びついていく上について、何といっても数学なり物理なり、そういう方面の科学がわかりませんと、これからの経済界に立っていけなくなります。

矢島 いまのことでちょっとお話し申し上げたいのは、加茂先生が蔵前の人文社会学科に引っぼってこられた方々には、京都大学からはこの間文部大臣をおやりになりました永井道雄さん、それから川喜田二郎さんなども加茂さんが引っぼってこられたわけです。これだと思う人材は、学閥には全く関係ございません。どこからでも引っぱってくるわけです。北大もいますれば、慶應大学も、早稲田もいれば、東洋大学もいれば、どこでもいいのです。要するに、この人材だと思った人を引っぼってくるという呼び込み、引っぱり屋が、実は人文社会学を形成しているわけであります。江藤淳氏を引っぱってきたのもわれわれでございます。いろいろ江藤淳氏についての人間的評価は分かれるところでございますけれども、それなりに彼を私どもは評価したわけです。

 加茂さんは、実は小樽商大の学長をなさいましたときにも、銀座のバーよりも立派な数寄屋づくりのサロンをおつくりになりました。加茂さんはそういう具合に引っぱり屋でございますから、優秀な数学者がいると思ったら引っぱり込んできたわけです。そして、アメリカに留学させるから小樽商大に少なくとも長い間いてくれよという条件で引っぱってきて、そして約束どおりアメリカに留学させて、いまでも教鞭をとらさせている、実はこういうような方でございました。ですから、東工大には神戸高商とは違いまして、加茂さんに対する評価は非常に高いわけです。その未定稿がやっと出版先を見つけまして、今度小学館から出版されるということになりました。蔵前としては全力を挙げて、なるべくその出版社に迷惑のかからないようにそれから御遺族にも何がしかのものがいくようにと思っているわけです。一橋の方々にも、もし志ある方々には御協力いただきたいというのが私ども蔵前の人文社会のメンバーとしての気持なのでございます。

 二番目の問題は、服部さんは数学の話を出されましたけれども、数学という話を出しますとエンジニアリングの問題は一歩も進まなくなるわけです。線形代数等々ができればそれに越したことはございませんが、そうでなくても、
われわれが経済人として最低限度大体こういうものなんだという概念及び技術というもの、ないしはサイエンスというものを避けて通るのではなくて考える、ないしはこちらから積極的にアプローチしていく、そういう自信と、それからそういう見る目というものが経済人になるべき一橋の学生諸君の中に定着化すればいいと思うのです。ですから、初めから数学ということになりますと、皆はもうそれで生理的反応を起こすということになりますので(笑)まず、たとえば材料というものがある、材料というのは一体何だというようなところから始めていいのではないでしょうか。
いま世界中で資源戟争、たとえば石油の問題ばかりでございませんで、最近はレアメタルの問題、特に中国あたりでは、先ほども田中さんとお話し申し上げていたんですが、レアーアースというのは一体何にどれがどういう具合に使われるというようなことがわかりますとずいぶん自信がついてくるわけです。

 それから、いまはシステム・エンジニアリングということを申しますが、一体システムというのは何だ、たくさん
のエレメントをコンポーネントして、経済的にも最も効率があってパフォーマンスの高いもの、そういうものをつくっていく。そうすると一つ一つの部品と申しますが、そういうエレメントをつくっていく企業もあるわけです。スペースシャトルという大規模システムの中にもたくさんの日本のエレメント、部品というものがビルトインされているわけです。

 そういうものについての認識というものを、あれはエンジニアのやる仕事だという具合に避けて通らないで、私どもの問題として好奇心を持ってそれに取り組んでいくそういうべースを大学の中で、教育の中で与え、そしてまたそれにさらに取り組みたいという人は数学もどんどんおやりいただく。ちょうど具合いいことには、久武先生の弟さんが東工大の理学部の先生でいらっしゃいます。そういう先生に解説をお願いするとか、今の東工大の学長松田武彦先生は経営にも大変くわしい方ですから、学長間の話も十分に通じ合える条件と環境も熟していると思います。

 ですから、決してできないわけではございません。さらにそれ以上にやろうという方には、たとえばエンジニアリングのための、ないしは電子システムのための数学というものをやる部分がそれから後でできてくるべき問題だろうと思うのです。まず最初は、技術はわれわれとは無縁だという考え方を取っ払うというところから始めるべきではないだろうかというのが私の考えです。
                                     (五十七年六月二十八日収録)



矢島鈞次    一九一九年九月京都府生れ。
          東京商科大学卒業。
          東京学芸大学教授・東京工業大学教授を経て
          一九八〇年東京工業大学停年退官。
          同年四月に国際事情研究センターを設立し所長となり、今日に至る。

主要著書   「新聞がふれない中国の素顔」
          「新聞がふれない中東情勢」(以上、日本経済通信社)
          「いま地球は回っているか」(共編、正・続)
          「だれが地球を壊すのか」(共編、以上、弘済出版社)