一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第十一号]  一橋の中国・アジア研究をめぐって   一橋大学名誉教授  石川 滋


     背景としての二つの学問的流れ

 ただいま御紹介にあずかりました石川でございます。「一橋の中国・アジア研究をめぐって」ということでお話し申し上げることになりまして、非常に大それたことであるというふうに感じているわけであります。一つは、テーマ自身が大きい話でございますし、もう一つは、私以外にこのテーマで話をしていただくのにふさわしい方もおいでだと思います。どうしてもということでありますので、結局、最終的に決心いたしましてやってきたわけであります。

 私どもがやっておりますところの、中国を含めましてアジア地域の経済分析は、アジア地域の発展途上国の社会、経済がどのようなメカニズムで発展していくのか。そのようなメカニズムの中にどのような政策介入の余地があるのか。そのようなことを明らかにすることをねらいとしております。学問の分業では経済学の新しい分野に、経済開発論、経済発展論というのがございますが、この視点から研究を進めているわけであります。一橋の内部で申しますと、経済学部に関係の講座がありますし、経済研究所には日本・アジア経済研究部門というところでそういうことをやっております。一橋大学の学問の伝統とのかかわりで申しますと、その中にあった二つの流れが一つに収斂いたしましたところに、このような研究が進んでいるわけであります。

 二つの流れと申しますのは、第一は、一口にいって、根岸佶先生、村松祐次先生の流れでございます。これは、一国の経済社会を制度、組織、並びに人を通して把握しようという研究であります。舞台としておやりになりましたのは中国でございますけれども、方法的には遥かに広い拡がりを持ちますところの経済学の一つの流れでございます。

 もう一つは、一国の経済を統計数量的に把握される国民所得循環の構造として押さえる、その基礎の上にマクロ経済的な分析を試みていこうという戦後の経済研究所において発展いたした研究であります。この場合には、主として
材料となりましたのは日本経済でありますが、これもやはり日本経済研究の枠を越えて、世界の他の地域に関する研究に拡がりを持ってきたわけです。

 いま一つの特徴を申し上げますと、アジアには中国のほかにたくさん国々がございます。たとえば南アジアのインドを中心とした人口稠密な旧開国地域であるとか、ASEAN諸国のような小さな新開国で、外国貿易、外国投資への依存度の高い国々とか、さまざまな国がございます。そういう広い地域をやりますと、往々にして研究が多元的になる。方法的にも多元的なアプローチになり易いのですか、しかし一橋の中国・アジア研究では幸いにして、そのよぅな弊害に陥ることなく、中国もインドも同じアプローチで、進むということが可能になりつつあるわけです。

 一橋のアジア研究は、以上のような特徴によって、国内というより国外、とくにアジア諸国で知られてまいりました。中国の学界においてもアジア研究からだけではないと思いますが、今日では一橋大学という名前は有名でございます。

 このような大きい問題をお話しいたしますのはなかなかむずかしいのでありますが、しかしきょうは、いま申しました二つの学問の流れがそれぞれどのような内容のものであるかということを初めにお話ししました後で、現在の一橋の中国・アジア研究がその二つの流れをどのように摂取して、どのような展開を示しているかについて要点的にお話し申し上げることにしたいと思います。

 ちょっとその前に、いいおとしましたが、一橋のアジア研究の流れの中には、村松、根岸先生のはかに板垣先生という偉い学者がおられまして、ヨーロッパの経済政策思想の研究を土台として、アジア地域の民族主義運動、経済開発政策の研究で貢献されました。それから、私と同僚でございました山田秀雄君という学者がイギリスの資本主義発展とのかかわりで、アジア地域の植民地化がどのような進展をみせたかについて一連のすぐれた業績を出してきました。このような話も恐らくはしなければならないと思いますが、時間を限られていますので、大変失礼かとは存じま
すが、話を省略させていただきたいわけであります。もう一つおことわりしておかねばなりませんが、私の話は一橋のアジア研究といっても経済研究所の立場からのそれになります。その点、経済学部の方からみると偏りがありましょう。


     根岸佶先生の偉大な業績

 そこで根岸、村松先生の流れについてですが、初めに根岸先生は、皆様御承知のように昭和四十六年に九十七歳の高齢でお亡くなりになりました。この先生がなされましたギルド研究を中心とする中国の社会経済の研究の業績は偉大なもので、一橋が誇り得る大学者であります。しかもこの先生の非常に大きい特徴は、主たる著書が七十歳を越えた後においてなされたということでございます。私は根岸先生のゼミナリステンではございませんで、学生時代に「東洋経済事情」という先生の講義の、これは一九〇八年から三十二年にわたって続いておりますが、その最後の時期の講義をお聞きしたという因縁がございます。それから、たまたま私は戦後十年間鎌倉材木座に住んでおりまして、近くの逗子小坪にお住いの根岸先生からしばしば個人的な薫陶を受けることができました。

 根岸先生によりますと、中国の民衆の生活活動を取り巻いている社会的な枠組みは、一つは家族、その次は郷党、その次はギルドという三つの次元にわたっていますが、中国の民衆はその枠組みの中で経済社会生活を営んでいたわけであります。根岸先生の研究はその三つの側面のそれぞれについてその制度的実態と内面的メカニズムを明らかにすることに向けられました。いまの学問の流れから申しますと、これは制度学派的なアプローチと申していいかと思います。中国研究が中国通の独占物であった時代に、突然平地に巨峰がそびえるように、社会科学の枠にしっかりのっとった大きい研究が生まれたわけであります。

 その研究の中で、とくに大きな業績はギルド研究であります。ギルドというのは必ずしも定義は明確ではございませんが、具体的には、中国の大都市に必ず見受けられます同郷団体、同業団体(あるいは同職団体)、さらにはそれらが集まって組織した各都市の商工業連合会などを総称するものです。これらの組織のおどろくべき緻密な研究が行われて、その中で中国社会経済の動くメカニズムが探究されたわけでございます。根岸先生は私に対して、自分の終生の目標は − ギールケというドイツの偉い学者がおりまして、ドイツ団体史というのを書きましたが ー それと同じものを書くんだということを言っておられました。それは八十歳をお越えになった後だと思いますが、それは果たされませんでしたけれども、そのようなねらいで、小坪の家で日夜机に向かって筆を運んでおられたのであります。

 戦後最初にお出しになりました書物がここにございます。それは昭和二十六年、日本評論社から出ました『上海のギルド』 であります。根岸先生の講義をお聞きになりました方は、『支那のギルド』 (一九三〇年)という博士論文を御存じだと思いますが、これはその後のギルド研究の新しい蓄積を御発表になったものです。戦後出版事情の大変悪い時代で、文部省の科学研究費の中の研究成果出版助成費をえてはじめて出版できるようになりました。私はその補助をえますのに少し動き回ったことがございました。


     村松先生の清末の社会経済構造の研究

 次に根岸先生のお弟子で、その学風を継がれました村松先生のことをお話し申し上げたいと思います。根岸先生に比べ村松先生が対象とされた研究領域は、依然として中国ですが、その中味ははるかに広くなっています。そして一国の社会をそのように広く研究する際の分析的な枠組みをつくることにも大変功績があったわけです。

 それは、終戦後間もなく、東洋経済新報社から出版されました『中国経済の社会体制』という本に結集しております。それはやはり、根岸先生と同じ中国人の生活を規制している制度枠をいろいろな側面から、一番狭いところでは企業の組織、農村の階層関係、それから、もう少し広くなりますと板岸先生のギルドが出てまいりますが、更に市場秩序、それらと国家との関係、あるいは政府の役割といった側面から体系的、総合的にとらえる枠組みを整備するという作業をなさいました。このような枠組の準備にさいして、白票事件以降一橋にお戻りになりました三浦先生の影響があると思います。

 もう一つは、充分に調べてはいないのですが、ドイツの制度学派、歴史学派の影響があるのではないかと思います。
戦後間もなくの頃ですが、私にシュモラーの書物を渡されて、それを私に読め、読めと言っておられた時期があります。その辺りの枠組みが、ある形で入っているのではないかと思いますいずれにしても、この枠組みは立派なものであります。

 その枠組みの中でひとつ今日の観点からおもしろいと思いますのは、いま申しましたような制度的な枠組みというのは、要するにある国の個人や団体が社会活動、経済活動をいたします際の、いわばルールのようなものでありますが、そのルールに従って活動した結果が、スポーツでありましたならば採点表になってあらわれてくる。そのスコアを見て分析する方法がもう一つ必要なんだというようなことを言っているわけです。これは今日のマクロ経済分析と同じでありまして、その枠組みもこのような社会制度的アプローチに融和した形でくっつけられたというのは、非常に偉いことだと思います。

 村松先生の仕事は、伝統中国のほか、中華人民共和国以後の現代中国の動きにも向けられ、中国の伝統がどう変っているのかに深い関心が払われてまいりました。そのさいの研究方法も以上と変らぬわけですが、そこではスコアの変化に大きい注意が向けられています。その方面の著作もたくさんあります。しかし村松先生の御仕事は、特に
晩年でございますけれども、そのような広がりを持つ反面として非常にシャープに一点に凝集してまいりました。その方面でわれわれとして誇り得る世界的な業績が清末社会経済構造に関して出てまいりました。

 私はたまたま一九五八〜九年にハーバード大学にいましたさい、村松先生と数ヵ月間留学生活を共にする機会をえました。そこには、ハーバード・エンチン・インスティチュートというのがございまして、そこに中国の書籍が収められておりますが、村松先生はそこで「魚鱗冊」という名の清末の地主文書をかなりの数発見されました。その文書の吟味の中からその研究が次第に結実していったわけであります。この御仕事は、要するに清末の揚子江下流域における農業地帯で、いままで全然知らなかったわけではないのですが、実態の明瞭でなかった一つの社会階層、あるいはグループがあって、それらが清末の中国の農村社会を動かすところの決定的に重要な役割りを果たしていたということの歴史学的な発見を伴う研究であります。そして具体的には「租桟」という一つのビジネスのオフィスを経営して、それを通してそのような役割を演じている。租桟は長江の下流デルタにおいてはここかしこに多数存在していることも明らかになったのです。租桟の経営者は地元地主でほとんどみな紳士の肩書を持っている。役人の試験を受けて通らなかったけれども、いい成績を残したということで地方紳士になるわけですが、当然官との関係がつよい。清末の当時あの一帯は非常に富裕な地域でありまして、不在地主がふえているが、かれらは小作料の取り立て、及び取り立てた小作料の中から政府に対して税金を納入する仕事を租桟に依頼した。租桟は小作紛争の処理にもあたった。そのことによって長江下流のかつての地主秩序というのがますます強固になっていったというようなことであります。アジァの他の諸地域にもしばしば同じような役割りを営むところの階層がある。たとえばインドでありますと、ザミンダリという収税請負人が巨大な田地を事実1自分の支配下に収めて、農村経済、あるいは農村社会の運営上大きい役割りを示してまいったことを知っております。そのような事実の中国についての発見を村松先生はなさった。

 その研究は『近代江南の租桟』という書物にまとめられまして出版されました。これは学士院賞を受けられました。このような業績は、めったに出るものでなく、大変貴重なものだと思います。その後も研究が続きまして、単行論文がかなり出ましたし、それからさらに村松先生の頭の中にはまだまだたくさん書き残すべきものがあったと思いますが、不幸にして定年数週間前にお亡くなりになりました。根岸先生のように高齢を享受することができましたならば、大変な仕事が残ったと思います。
二人の先生について申し上げましたことを多少締めくくりますと、一国の経済を見るときに、企業者、手工業者、労働者といったものがどのような市場的な秩序、あるいはどのような組織の中で働いているかということを見ることがきわめて重要であるということでありまして、そのような視点から一橋のアジア研究に強い影響を与えてまいりました。

 御承知のように、現在の経済学主流をなしております近代経済学は、市場が高度に発達している社会を仮定して、その中での経済諸量の関係について研究いたしております。つまり市場秩序については価格メカニズムが完全にワークする。企業者、労働者、家計はすべて合理的であるという仮定を持っておりますので、経済学者自身がこういう市場秩序の特質性を問題にし、あるいは組織の特質性を問題にするということは非常に少ない。最近になって少し、そのような点の反省が出てまいりましたけれども。しかしわれわれが一たん低開発諸国に目を転じて経済分析を行なおうということになりますと、そういう近代経済学の仮定は限られた範囲でしか通用しないわけであります。

 しかし、一橋には幸いにしてこういう偉い先生がおいでになりまして、市場秩序に目を向けなければいけない、経済の組織、その中での人の行動様子に目を向けなければいけないということを強調されましたので、私どもは比較的短距離でそういう研究の実質に踏み入ることができたというふうに申し上げていいと思います。両先生の業績を一橋
のアジア研究ということに引っかけて要約いたしますとそういうことが言えると思います。

 
     一橋の経済研究所と実証的研究

 その次に、一橋の経済研究所の研究について申し上げます。御承知のように経済研究所の前身は東亜経済研究所でございます。私は当時一橋の学生ではありましたが、上田先生、あるいは当時このことに一生懸命になっておられました増地庸治郎先生等々個人的にも存じ上げておりましたので、かなり詳しく当時の様子は知っております。一橋の経済研究所の学風は実証主義に基づくところの研究でございますが、その学風は、上田先生の学風でもあったと考えています。上田先生の人口論研究に始まる日本の経済問題の研究は、日本の経済学の流れの中では本当に初めての実証主義の研究でありますし、経済研究所にも必ず影響を与えたに違いないと思うのであります。

 しかしその本格的な展開は、昭和二十=年に官制の改正がございまして、経済研究所ということに改名する。昭和二十三年に中山伊知郎所長、昭和二十四年に都留重人所長が登場いたしました、その後でございます。なかんずく一橋の経済研究所がそのような時期に実証研究の学風に基づいて業績を挙げてきたということは都留所長の非常に大きい功績だというふうに思います。都留先生はハーバートで育った。日本の支配的学風とはほとんど独立にハーバードであのようなアメリカ的な学風によって育てられ、それで帰ってまいりましてから、日本の経済学研究の新しい方向を身をもって示したというところにあるというふうに思います。

 いまのことはもう少し具体的な説明が必要でございますが、この二点にわたって経済研究所の仕事とのかかわりでそのことを御説明申し上げます。

 第一点は、一橋の経済研究所のこれまでの最大の業績として、日本の国民所得の明治以降の長期系列推計が行なわれ、その成果をほぼ完了するに至ったということがありますが、それを始めたのはやはり都留所長の業績でございます。
どういうことかと申しますと、日本の経済学研究は、私ども学生時代を振り返ってみてもそうでありますが、ほとんど欧米の偉い学者の説を祖述することにありました。ハイエクとかケインズとか、いろいろな名前が挙がりましても、みんな日本の学者は違った人種であるかのごとくこれを感じ、その学説を祖述するに一生懸命でした。しかし何も神様が啓示によってつくったのがその学説ではありません。ある一つの問題意識があって、それを仮説化し、その仮説を実証材料によってテストするところに理論ができ上がった。そのテストをするには厳密には統計材料がないといけないが、それは直観的把握によったところもある。

 ところで、そういった理論的な貢献を自分自身でやろうとすると、統計資料が必要であります。特に、三十年代以降の経済学の流れの中心となる国民所得分析、それから戦後になっては成長論分析に問題意識を仮説化し、それをテストしようということになりますと、どうしても国民所得統計が備っていないといけない。ところが日本には、私も存じておりますが、戦時中に国家資力の研究ということで、国民所得研究が行なわれたが、それは方法的には不充分なもので、それを本格的に整備しなければいけない。その上で、そしてそれが本当に困難なのですが、明治以降の長期の国民所得系列をもたなければならない。

 およそ以上のような考えにもとずいて、国民所得推計を新しくできた経済研究所の最重要事業とし、それに総力を挙げようということを都留さんは考え、中山先生がそれをバックアップしたというところにその後の二十年、三十年の経済研究所の活動があって、その点が経済研究所の名声を国際的に確固たるものにしたというわけであります。

 第二点、都留先生の実証主義に関する考え方はもう少し進んでおりまして、経済分析は単なる仮説検証とそのための実証資料の整備だけでは充分でない。仮説をつくり出す原点となる問題意識こそが最重要であり、そのためには経
済学者はまず全力をこめて現実の経済問題に対決することが必要である。

 その考え方は、昭和二十五年にでました「経済研究」という日本では今日すでに評価の確立いたしました経済学雑誌が一橋の研究所から出ておりますが、その発刊第一号に都留先生が書かれた発刊の辞に反映している。そこでは、われわれは経済学研究じゃなくて経済研究をやるんだ。経済学研究であってはならないということが書かれています。 そのジャーナルのタイトルも、経済学研究ではなくて「経済研究」ということにいたしました。

 いま二つの点にわたって、経済研究所出発点における特徴のある行き方をお話しいたしたわけでありますが、それからもうすでに三、四十年たちました。その間研究所の行動は、その後拡大し業績も多岐にわたっていますが、まとまった形での業績の最たるものに日本の一八八五年から一九四〇年に至ります国民所得の推計だと思われます。その実質的な作業は、十年前に退官なさいました大川一司先生を中心とするチームが担当いたしました。そのチームは外見からして時に軍団にもたとえられますが、大川先生の統率力のもとに研究所の若いスタッフが動員され、さらに学外からも関連の学者が参加して、日本ではおそらく始めての大がかりなチムワークの下に仕事が行なわれました。その成果の刊行は未だに続いているわけであります。昭和三十二年から三十八年にかけましては、アメリカのロックフェラー財団が支援しました。その六年間経済研究所の建物の中に大きい作業室がございまして、沢山の女子アルバイトを使って統計表の転記を行ない、絶えずそろばんや電動計算機を動かして集計その他の統計作業が行われておりました。何よりも徹底していますのは、こうした統計作業の素材になります調査報告、その他文献は一切合切残りなくすくい上げ、その一つ一つを吟味してふるいにかけるといったことです。国民所得の回転の各局面の間、またそれぞれの局面の構成部分間の整合性に大変な苦労があったことはいうまでもありません。

 たまたまこの仕事の成果は東洋経済新報社の創立七十周年の記念出版ということで、昭和四十二年いらい全十三巻にわけて刊行中ですが、あとまだ二冊残っているということが、大川先生が退官されて十年になりますが、頭の中に残された気がかりなことのようにうかがっています。ここには『国民所得』という一冊をもって参りましたのでこれをお回しいたします。


     経済研究所のアジア研究の業績

 時間もありませんので先を急ぎますが、国民所得推計の作業が一段落しました後で、日本経済を中心といたしまして、経済研究所では新しい研究の分野が登場してまいりました。それは幾つかの流れに分かれて進んでいます。

 その一つは、国民所得の統計というのは非常に抱括的な経済の把握方法でありますけれども、しかし経済を全部カバーするわけではない。企業レベルの経済活動の諸資料、また金融面で仕事が残っております。そのような側面に光をあてて実証作業を進めよう。これはすでにかなりの数のタイプ印刷の出版物で中間的な成果が発表せられております。

 それから、数量経済史というような新しいジャンルが出てまいりました。いままでの歴史というのは記述的な歴史でございましたが、いまの新しい経済史の流れは、それに定量的な形を与えて主観的になりがちな歴史的な動きの判断をチェックしよう。そこでちょうど一八七八年以降の日本経済の成長を国民所得統計の整備を通して明らかにするという仕事が行なわれたのに比肩するような形で、徳川時代の当初から、物価・賃金の動きであるとか、人口の動きであるとか、あるいは農業生産の動きであるとか、さまざまな経済活動の諸側面を定量化していこうという、そういう数量的規定を与えるという意味で数量経済史と言っておりますが、このような研究がかなり進んでおります。いままでは日本経済の発展は明治維新とともに始まったというふうに考えられておりましたが、実は徳川時代の発展、特に
徳川時代後期における発展が著しい。その延長線上に明治維新以降の発展があったという考え方がむしろ有力になりつつあります。

 それから、三番目は、日本の経済発展というのは植民地の経済発展を抜きにして考えられないであろう。特に本世紀に入って後そうである。そういう意味で「日本帝国」の発展という枠でこれまで日本国内に限定されて進められてきた研究を拡げよう。朝鮮、台湾、それから旧満州国、そういったものを含めまして研究が進んでおります。もう一っ、これは直接にアジア研究とかかわりが強いのでございますが、日本の経済の明治以降の発展が、現代の低開発諸国の経済発展に対して参考になる点があるのではないか。日本の経済も戦前、特に一八〇〇年代においては厳しい生活水準、消費水準のもとで開発の苦しい営みをつづける開発途上国であったが、一九四〇年代までにとにかく一応の成長をし、特に戦後においてはこのような高度成長に転じた。その間のさまざまなできごと、あるいはそのような局面の転換をもたらしましたさまざまな要因は、必ず現代の低開発国に対して参考になる点があるはずである。そこで、従来日本の研究のために日本を見ていたわけでありますが、視点を変えて、低開発国のためにどのような参考価値があるかという視点で見たならばどのようなことがあったのかということを見ようという流れでございます。これは数としては従来の日本研究をいたしておりましたスタッフを巻き込んで、かなり大きいものになっております。

 いま四点挙げましたが、その一つ一つで新しい業績が次々に出つつあるというのが日本アジア研究からみた一橋の経済研究所の活動の現況でありますし、幸いなことに、一橋の名前はこの経済研究所のそのような活動によって高まった面もございます。アジア研究の立場からの締めくくりをいたしますと、いま日本研究の新しい動きとして四点を申し上げましたが、その中の第四番目。日本の経験を低開発諸国開発のために役立たせるというようなことは、直接的にアジア研究に役立つ話であります。いまそれを別としまして、この経済研究所において培われました実証主義の伝統は、アジア研究における非常に貴重な研究態度として残されたわけでございます。なかんずく国民所得推計につきましては、これはどこの国の経済でもそうでありますが、経済を数量的に把握しようという場合には、どうしても欠くことのできない、いわば基礎的な枠組みであります。

 アジア諸国の研究をいたします際も、数量的把握を志す限りにおいて、それが必要な限りにおいては国民所得の推計というものが行なわれなければならない。幸いにして大くの国々は国民所得推計が国家統計局によって行なわれ、それが公表されております。しかし中国についてはそれがない。中国の研究をするにはどうしても国民所得の回転を中心とした中国経済の数量的な構造把握が必要であるといったようなことがありまして、それが始められました。歴史としては経済研究所の国民所得推計よりもう少し早く、また独立して始まりました。それは日本のそれに比べれば本当に小規模な作業であり、またそれほどぴしっとした数学的な把握ができたわけではありませんが、それにしてもこの仕事の成果として、刊行されました英文の出版物はいまだに各国の中国経済分析に引用されるわけです。

     
     二つの流れを収斂した中国・アジア研究の現況

 最後の項目でございますが、われわれのところで行なわれておりますアジア研究が、以上のような二つの流れをどのように収斂して進んでいるかということについて述べます。これに参加しております経済研究所の部門には、清川雪彦氏という理論、統計にもすぐれた秀才がおります。それに参加いたします人々として、労働経済学をやっております尾高煌之助など中堅的な学者がたくさんおりますので、後は安心でございます。関連して申しますと、経済学部には、中国関係では中兼和津次氏という新進気鋭がいて、「東洋経済事情」 の講義を担当しています。根岸・村松先生の後継たるにふさわしい秀才であります。

 もう一つ、板垣先生時代から始まったアジア研究会というのが全学的にございまして、大学院生以上のアジア研究に関係するものが参加して、月に一遍ずつ発表しあい、相互に切磋琢磨しています。

 さて、このような仕事から具体的にどのようなことがなされたかということについてちょっと触れたいと思います。

 第一は、中国の国民所得推計それ自身は、先はど申しました。それを基礎としてマクロ経済的な分析が行なわれる。最近では、中国は統計をかなり発表するようになりましたが、建国直後を除いて中国は統計を公表せず、統計なしに中国経済の分析を行なわなければならない状態がつづいたのですが、この統計不足の時代には一部の執筆者や旅行者が非常に印象的にうけとったできごと、あるいは傾向を全体の中での位置ずげもせず、誇大に評価するということがありました。そのことが客観的な判断を誤らせるということがございます。

 私どもはそのようなある傾向、あるできごとが、全体の中でどのようなウエートを占めるか。全体のメカニズムの中でどのような部分にそれが働いているかをチェックすることをマクロチェックと申していますが、以上のマクロ経済的研究はそのための大きい手段を提供する。最近統計が発表されるようになって、マクロ経済的な分析は容易になりましたが、こういったやり方できたえられていますので、発表統計を充分に吟味して、これまで充分明らかでなかった中国経済の構造を明らかにしてみようといった仕事は、やはり一橋の中で手をつけ易い。そのような仕事の中からわかってきたことを二、三述べてみます。

 第一に、中国の経済は依然として経済全体として低開発のようです。たとえば一人当たり国民所得は二百六、七十ドルの水準しかないとか、あるいは人口の都市化比率、これはわずか一三.四%しかない。これは現在の低開発諸国の中でも、なかなか探し得ないくらい低開発国であります。しかしそれにもかかわらず、重工業ないしは近代工業の部門を取り出しますと、とても低開発ではない。巨大な潜在力を持った工業国家であります。そのような矛盾した姿がここにあるわけでありますが、経済全体がこれから先どういうふうになるかということをみると、そこには幾つかのネックがある。なかんずく大きいネックは、農業がうまくいかない。農業がうまくいかないということは、土地ヘクタール当たりの生産性の増加という意味では非常に大きい成果を挙げましたが、農業の就業者一人当たりの労働生産性、労働者一人当たりの生産額という意味では、一九五〇年代、中華人民共和国が発足いたしましたときからほとんど上昇していない。そこで食糧の生産高の何パーセントが農家から市販されて非農業の人々に渡るかという食糧供出率をとってみますとこれは一九五〇年代において、驚くなかれ一五%たらずでありました。最近はっきりしたところを見ますと一五%から、さらに一四%から一三%ぐらいに下がっているわけです。農業の自給性というのはますます強くなっているわけです。このような自給農業のもとでどのような工業化が図られるかということは、その困難は想像に余りあるわけであります。

 第二は、製造工業の方ですが、先ほども重工業について申しましたような重工業の巨大なセクター(部門)ができた。その点はいいのでありますが、そこに向けられた集中的な投資の効率がきわめて悪い。それも一九五〇年代から比べてますます悪くなっている。ですから重工業を建設するために全投資資源の巨大な部分が集中されるわけでありますが、それが挙げる効果がますます小さくなるという現状がございます。これをどうかしないといけない。これは一つには制度の問題でございます。社会主義制度としてソ連から五〇年代に学んだ、計画化や国営企業の制度が非常に大きい原因がありそれを変えることが、新政権の一つの理想になっていますが、しかしそれだけでなしに、中国の経済構造が初期条件として厳しく、制約を受けている面もあったわけです。

 それから、国防上の出血という要因についても思いを至さなければならない。その国防的な要因でありますが、とくに中国の文献が「第三線建設」と言っているものがあります。中国政府は一九六〇年代の半ばからソ連の国防的な
脅威を痛感するようになり、北京と広州を結ぶ直線上の西側の奥地建設のために、利用可能な国定投資の資金の半分を一九六五年から七七年にかけて、注ぎ込んだ。ですから能率が悪いというのも、そういう困難な国際条件のもとにあったということをも念頭に置いて評価しないと正しい評価にはならないというふうに思います。経済のシステム改革はいま、東ヨーロッパのスターリン死後における経済改革の線に沿うて市場メカニズムをできるだけ導入するという方向で進んでおります。しかし御承知のように、新聞にしばしばありますように、それはなかなか成功しない。

 というのは私どもの検討したところから申しますと、ある意味では当然である。根岸、村松流の経済社会構造の分析でいいますと、中国には東ヨーロッパにないようなさまざまなものがある。中国の一人あたりGNPは二百六十からせいぜい三百ドルぐらいのものでありますけれども、東ヨーロッパはアルバニアを別にいたしますと一番低いのがポーランドで二千ドル、一番高いのは東ドイツで六千ドルであります。これは経済構造の大きな差異があることを示唆しています。

 また中国独自の制度という点では、特に農業の分野で村を枠といたしますところの伝統的な共同体システムを利用して、人民公社の制度ができた。そのコミュニティの仕組みを利用いたしまして、御承知のような労働集約的な灌漑事業、治水事業が行なわれたというようなことがあります。いま急いで東ヨーロッパなみに市場メカニズムを入れることを企てますと、六千ドルと二、三百ドルの違いから出てまいりますところの経済構造の違いがすぐにさまざまな障害となってあらわれ、中国がせっかく独自の仕組みを活用することによって進められた中国の農村の建設を挫折させてしまうことになる。そのようなことが言えると思うのでありますが、私の申しましたことはあたっているかどうかわかりませんけれども、少なくともほかのところから出てこないような問題意識が一橋のアジア研究の中にはあるわけです。

 それから、インドについて私どもの非常に関心を持っておりますことは、中国との構造の非常に親近性であります。いま申しました農業がアキレス腱になっているとか、特に重工業のところに資源を集中的に投資しながら、そこが能率が悪いといったことは全く中国と同じであります。そして、その前段階にあります構造的な初期条件と非常に似ておる。

 ASEAN諸国に関連いたします問題では、まだいろいろな申し上げたい新しい着眼がわれわれのところで行なわれておるものとしてございますが、大分時間も過ぎましたので、これはもし御質問があればということで、私の第三番目の話は終わらせていただきたいわけであります。


     一橋における学問の比較優位

 最後に、一橋の学問ということで二点ほど感想を述べさせていただきたいと思います。
第一点は、一橋の学問というようなものがあるだろうかということについての感想でございます。私は、学風というようなものはあるが、学問研究の成果について、一橋の学問というようなものは成り立ちにくいのではないかと思っています。学問というものは客観的なものであり、一橋の中しか通用しないような結論であっては困る。その結論は広く国内、あるいは国際に出しまして、そこで共通の学問的な財産として評価を受けるようなものでなければならない。一橋は少しずつその方向に進みつつある。

 一橋の学風ということについて申しますと、これはございます。具体的に申しますと、さっきの実証的な学風というのはそうであります。あるいは制度学派的なアプローチというのがそうでございまして、中国・アジア研究でいえば制度学派的なアプローチは根岸先生、松村先生によって培われましたが、その背後には三浦先生、上田先生、それ
から上原先生等々の大きい学問的なバックがございます。

 そういうアプローチが、一橋に若い学者がやってきますと、絶えず教えられ刺激を得ます。そういうのが一橋で学問するさいのいわば比較優泣となることであります。

 それから、経済研究所に参りますと、ここには厖大な日本経済の実証研究の資料があります。それに伴ってコンピューターがございます。それから、実証研究のやはり作風というものがございます。さっき申しましたが、外からやってきますものは、経済研究所に参りまして、その徹底した資料探し、探しました資料の徹底した確保ぶりというものにはびっくりいたします。その中で培われた研究者はそのような実証研究に強い。外国に持っていっても強い。こういうのも比較優位でございます。そういうことが一橋ではできるということは、一橋の学問として尊重しなければならない。しかし、あらわれてきた成果が、たとえば村松先生の成果が一橋の学問であるというふうに言うと、これは困ります。

 それから、私どもは一橋におりまして、諸先輩とくに如水会を通じましてその多大の学問研究の援助を受けております。これは感謝して余りあるところでございます。それに関連して思うのですが、百年記念募金図書というのは時に評判がよくないように承っています。しかし私はかねがね、ほかの大学と比べましての一橋の一つの特徴が、原則として教官研究費を自分で使わないで、どんぶり勘定にいたしまして本を買っている点にあると考えています。現在の国立大学の予算制度では大学の運営費は人件費を除きますと、あとはほとんどみな教官研究費から出ております。教授は一人一年間五十万とか百万とか、助教授は幾らとかで積上げられた予算で運営いたします。ところがほかの大学では、教官研究費が研究室に分配されまして、研究費で何を使ってもいい、そういたしますと、えてして自分のために使い切りたい。それを図書で買いますと、その図書は最後には図書館に収めなければならない。一橋の場合は、個人に分配される研究費はほとんどありません。全部図書館に入ります。そこで、たとえば経済研究所の図書館というのは、これは一研究所の図書館でありますが、経済学の文献をあれほどそろえている研究所は、日本の国内でも非常に珍しい。さらには日本経済統計文献センターというものができまして、ここでは明治以降の統計資料をもっぱち収集しております。こういったものにつぎ込まれる。ですから本はもうすでにかなりあります。

 私、言い忘れましたが、アジア研究につきましても、一橋の経済研究所というのは、いまアジア経済研究所等々たくさんの本を持っているところがありますが、それに次いで一橋の研究所はたくさん本を買っている。

 それから、われわれ本館と言っておりますが、大学の図書館、これは諸先輩が、自分の書斎のために本を買うのではなくて、大学のために本を買っておこうということでやってこられたんだというふうに痛感することがございます。
明治の半ばからの貴重な統計資料、調査書等々がたくさんあります。これはさすが一橋だ、歴史のある大学だ、というふうに感じます。そういうことでありますので本がほかの大学に比べると一橋はたくさん持っております。しかしはじめに申しました一橋の比較優位は、このような図書の集積からも助長されていることを強調したいのです。そして、これはますます助長しなければいけない。そういう意味で百周年募金図書で本の金をいただきましたことは大変ありがたいことでございました。私どもは、そのような意味で大変感謝していることを御理解いただければ幸でございます。

 御清聴ありがとうございました。

    
      [質 疑 応 答]

 田中 私どもの会社のことで少し考えついた点ですけれども、非鉄金属、特に銅の精錬所を現在中国でつくりつつあるわけです。上海から五時間ぐらい汽車で行ったところでございます。それの実際問題につきまして、私は隠居ですから何も知りませんけれども、ときどき若い人たちの言うのを聞いておりますと、いろんな問題を持ってきまして、非常に困ることがある。それはまことに徹底した縦割りであるということであります。日本の政府の特徴も縦割りがどうも行き過ぎているということをよく言われるようですけれども、その程度たるやとても比較にならんほどの全くの ″悪縦割り″といいますか、そういうものであるというように聞きまして、それは社会主義を持ち込んできて現在の政府をつくり上げていることによるものであろうか、あるいはまた長年の中国の歴史のいたすところの、まだ余風が残っていてそういうふうなことになっておるものであろうか。そのようなことを考えておるのですけれども、何かその点につきましてお話しいただけますか。

 石川 中国に「条々塊々」という言薫がございます。条々というのは縦割りの弊害をいうのでございますが、あわせて塊々がありますのは地方、地方でブロック化して全国的な統一のある政策が行なわれにくいことをいいます。この両方が現在の行政システムの中では最も大きいむずかしい問題です。そのような弊害が生じた原因ですが、条々の方は現在の計画経済の仕組みが極度に中央集権的な物動的なそれになっていることに関係があります。そのほか中国が非常に大きい国でございまして、縦割りで中央の威令を通すというような仕組みをちょっとでも怠りますと全国がばらばらになるようなこともございます。

 塊々の方は比較的最近の出来ごとで、条々の行きすぎのために地方の積極性が著しく低下してきたので、それを改善するため全国各省に財政上投資政策上のー走の自主権を与えた。ところがそれは地方の積極性を高めたが、じきにそれを通りこして地方割拠を産み出した「条々塊々」はこのように集権的な計画経済のシステムのほか、中国が大変な大国であることに由来しています。中国の新政権は御承知のように市場的な経済システムの改革を求めていますが、「条々塊々」の弊害も、経営上の決定権を企業に与える、その企業が全国的な連合体を結成するといった方向で解決するほかないといっています。

                                           (昭和五十七年七月五日収録)