一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第十二号] 一橋会計学の系譜 一橋大学名誉教授 番場 嘉一郎
出席者名簿を拝見いたしますと、そうそうたる如水会員の方々がお忙しい時間を割かれて多数お集まりでございす。私の話はこれにこたえるに足る内容のものではございません。まことに申しわけないと思いますが、一橋大学の会計学者について漫談をさせていただき、責をふさぎたいと存じます。
この会合は「一橋の学問を考える会」といういかめしい名称の会合ですが、主催者である新井さんから一度出てこいと、大分お勧めがございましたが、どうもこういう会合には出不精でお引き受けを延ばしに延ばして参りました。しかし永久に延ばすということもできない。とうとう本日、罷り出た次第です。
一橋会計学の元祖・下野直太郎先生
演題は「一橋の会計学の系譜」ということにお決め頗いました。そこで高商時代、商科大学時代、一橋大学時代と順を追って、会計学の先生がどんなことを主として研究され、学校でどんな講義をされ、あるいはどんな対外活動をなされたか、こういうことをお話しして御参考に供したいと思うわけです。
一橋会計学の元祖とでも申し上げるべきは、下野直太郎先生です。下野直太郎先生は徳川時代の終り、幕末の生まれでございまして、具体的に申しますと一八六六年に生まれて一九三九年にお亡くなりになった。七十何歳の生涯でした。下野先生は一橋の先生としても、日本の会計学者としても極めて特異な存在でございました。大変がむしゃらな強情なお人柄でして自分の言うことを是が非でも押し通すという強靭無類な性格だったという。私の師匠は太田哲三先生でございます。太田先生は『会計学の四十年』とか、その後の『近代会計側面誌』とかいう自叙伝を出されていますが、これらの本を読みますと、下野先生がいかにがむしゃらな先生であったかが判る。容貌も魁偉であったが、気も強い。学校で、校長のいうことも学長のいうこともなかなか聞かない。我を通す。大学で定年制をしくと言っても、おれはまだ血気さかりだと言って定年制に反対されるという具合で人なみ外れた特異な存在であったようでございます。
私も直接お目にかかったことがございます。富浦の海の寮で偶然お会いした。どぎつい怖い顔をしていらっしゃる。そのころ日蓮宗に凝っていて、日本は世界の縮図だなんていうことを言われて、人を煙に巻いていらっしゃった。
ところで会計学の話ですが、この下野先生は、とにかく大学の会計学者らしい自分の会計理論を打ち出していらっしゃった方でございます。ここにお集りの方々の中には、商学専門部の先生であった村瀬玄先生とか星野太郎先生とかを御存じの方がいらっしゃると思いますが、村瀬先生はイングリッシュに堪能な方でございまして、終戦当時ご自分の英語力で日本の企業会計の実情をGHQにわからせることに尽力された。また頼まれて「企業会計原則」 の英訳をして、GHQに紹介するというような仕事をされた。しかし会計学の理論ということになりますと、優れた理論を展開するということはなく、どうもパッとしない先生であった。どっちかというと簿記の先生であって、会計学の理論に強い先生ではなかった。私にとっては商学専門部で簿記の教えを受けた先生でありましたから学恩を感じておりますが、簿記の先生の水準に終始されたといってよいかと思います。これに対して下野先生はとにかく一橋では最初の会計学者であって、理論の方も、自己流ではありましたけれども、なかなか鋭いものをお持ちであったと言えると思います。
動的会計学の先駆者
下野先生には「貸借対照表の本質論」という英文で書いた論文がございまして、決して恥ずかしくない貸借対照表論を展開していらっしゃる。貸借対照表は収支計算の残高の集計表である。決して財産表示ではない。貸借対照表は決して会社の財産を示すものではないという建前をとられた。それは動的会計論の先駆でした。酉独のシュマーレンバッハが大々的に立論された動的貸借対照表論と同系の考え方でございます。バランスシートには固定資産とか棚卸資産とか債権とか、いろいろな項目が載っておりますけれども、固定資産にしましても、わが社は幾らの固定資産を持っている。減価償却を差っ引いてこれだけの固定資産を持っているという金額が示されていますが、この金額は、決して決算日現在会社が固定資産としてどれだけの値打ちのものをもっているかということを示すものではない。過去における設備への投資額の未償却残高とか、かつて土地に注ぎ込んだ資金はこれこれであったというに過ぎない。ということが貸借対照表は財産表示の手段ではないという言い方の意味するところであります。
皆さんが会社のバランスシー卜を御覧になりまして、あの会社はこれだけの値打ちのある固定設備を持っているのかという見方をされたら大間違いである。土地にしましても、時価何億円という土地が帳簿上何百万円という金額になっている。その金額がバランスシートに表示されているにすぎない。貸借対照表に財産表示をしようとしたならば土地なら土地の適正時価を把捉してそれを貸借対照表に示さなければならないが、そういう金額は決して戴っていない。下野先生の若いころも、やはり財産の時価とバランスシートに記載されている金額とはだいぶ違っていたということですね。いつの時代にもインフレ的症状があったということですね。貨幣価値とか、経済財の個別的価格とかの変化が全然ないとすれば財産価値と帳簿上の金額が合致しているということになり、財産表示であるかそうでないかという議論は出なかったと思いますが、明治の時代から大正、そして昭和の今日に至るまで、いや明治前にもインフレ的状態が認められた。インフレ症状がずっと続いているということを前提としてお考えいただきますと、会社が、決算時に作る貸借対照表は決して財産表示の手段ではない。固定資産の取得原価を記録し、これに減価償却を施す。その残高を示すのがバランスシートだということになります。そこでバランスシートは収支計算の残高を集めたものであると下野先生は言われた。そしてバランスシー卜は、会社が純損益計算をするために、その必要をみたすためにつくられるものであると説く。純損益計算は損益計算書に示されるわけですが、将来の期の損益計算の基礎が決算日の貸借対照表に示される。貸借対照表の数値が会計帳簿になければ、次期の損益計算を直前期の数値と連続性を保つ形で行うことはできない。各期の損益計算が連続的ベースで行われることは、会計の適正性を保つことにとって必要である。
従って毎期の損益計算を行う上での不可欠の手段としてバランスシー卜がつくられるのだ。そういうふうに下野先生はおっしゃる。
下野先生のこの説き方は、全くその後わが国に入ってきたシュマーレンバッハの動的貸借対照表論と軌を一にしている。動態会計理論が日本を、そして欧米を風靡するに先立って下野先生は動態理論を展開されていた。人に先んじて企業会計の理論の核心をつかれていた。先見の明があったというか、損益計算、会計というものの本質を的確に理解されていたというか、さすがに一橋の先生だけあって、よく核心を外すことなしに会計の問題を議論されていたといえましょう。
財産目録の役割
貸借対照表の機能は上述のようであるとして、会社の財産を表示する手段としてはどういうものがあるか。この点について先生は、それは財産目録であるとされた。財産目録には、会社がどれだけの財産を持っているか、負債を含めまして、会社はどれだけの値打ちのプラス財産とマイナス財産を決算日現在もっているか、そういうことが財産目録に表現されるのだという。財産目録には固定資産でも流動資産でも、会計帳簿じりを持ってきて、それを明細に記載すればいいというものではない。財産を決算日現在の時価で財産目録には表示すべきである。ですから、財産目録の金額と貸借対照表の金額は合致しない、こういうことを申されたんです。
今日では財産目録は資産、負債の明細表である。こういうふうに理解されておりますので、金額が合わなくちゃいかん。こういうことが建前になっておりますけれども、本当の財産目録というのは、決算時に会社がどれだけの値打ちの財産を持っているかを表現する書類である。財産の実在と値打ちを実地に調べ挙げまして、会計帳簿を離れてつくるのが財産目録である。帳簿に基づいて明細を書いた財産目録らしきものをつくるとしましても、これは本当の財産目録ではない。このことはいまでも言えるわけでございます。
財産目録は資産・負債の明細書であるという考え方、財産の明細書として財産目録を理解する。確かにそういう概念規定もございますけれども、正しい財産目録は決算時における財産の時価を記載するものである。固定資産でも流動資産でも何でも、時価を付して明細表示をする。これが財産目録だ。下野先生はそうおっしゃっていたわけでございます。
下野先生のそういう徹底した考え方に対して、バランスシート上の資産と財産目録上の資産と金額が合わないということ、バランスシート上の負債と財産目録上の負債の金額が合わないということ、そういうことでいいのかなどという批判があったようでございます。しかし、私は本当はそれでよろしいのだと思います。下野先生の考え方が正しい。こういうふうに言えると思うのでございます。
下野先生はもちろんそういう大上段に振りかぶった会計学の理論のみを展開されていたわけでございません。簿記の方ももちろん研究をされ教えておられた。簿記に関する下野先生の大きな特色は、簿記の借方、貸方を六つの要素に分け取引の仕訳の説明をしたことがある。資産の増、資産の滅、負債の減、負債の増、資本の減、資本の増という六つを並べて、結合関係を説明された。これは六要素説とよばれていますが、これで簿記の説明をされた。この六要素説は下野先生の『簿記精理』という本に出ているそうでございます。私は現物を見ておりませんから受け売りでございますが ― 。 『簿記精理』に出ている六要素説と別個に、簿記の八要素説というものを唱えたのはその後の吉田良三先生。八というのは、六要素に対して何を二つ加えたかと申しますと、費用と収益。これは損益計算書の借方項目、貸方項目に該当するわけです。費用損失が仕訳の借方(左かた)の要素、収益が仕訳の貸方(右かた)の要素をなす。損益計算書の借方科目と貸方科目という二つの要素を加えまして八要素説というのを唱えられたのです。
太田先生の『会計学の四十年』とか『近代会計側面誌』を読みますと、下野先生が吉田のやろうはおれの考案をいじくって、おれが六要素説と言っているのに黙って八要素説を唱えた、挨拶もなしにと、怒っていたとかいうくだりが出てきますが、いまではだれでも、簿記の説明をするのには八要素説で説明するということで、吉田簿記は今日も生き生きとした生命力を保ち、受け継がれているということに相なるわけでございます。
佐野、村瀬、鹿野各先生の存在
ここで佐野善作初代学長のことにふれますが、佐野先生はむかし簿記も教えていらっしゃいました。『商業簿記教科書』なるものをお書きになっておるのでございます。この本で簿記のつけ方の説明をなさっている。これは借方、貸方を人になぞらえて説明をする擬人説です。佐野先生の簿記教科書もずい分早期の出版物です。ところでこの擬人説はアメリカのフォルソムという人の本から取られている。昔は、日本の簿記会計の本は多くは外国書の翻訳でした。福澤諭吉の『張合之法』もプライヤント及びストラットン共著の簿記書の翻訳です。福澤諭吉訳と銘打ってある。佐野先生の本もフォルソムの本を丸ごと紹介したもので、いまだったら大分問題になるんでしょうが、あのころですからそんなことは何でもない。御自分で編み出されたのではなくて、アメリカの本を日本語にうまく移した。これは悪口の一種になりますが ― 。
それから、商学専門部時代、私が教わりました村瀬玄先生。この先生は吉田先生の八要素説にさらに四要素を加え十二要素説を説かれている―。八要素説をそのまま教えるのでは金りにも芸がないというお考えだったのでしょう。十二要素説というのをご自分の商業簿記教科書にお書きになっている。
四つプラスしたというのは何かと申しますと、先ず資産というのを二つに分けまして、物財資産と債権資産(無形の債権という資産と有形の物財資産)とする。債権でない無形資産もありますから、有形の物財資産という表現にはちょっと難点がありますが、物財と債権の二つに分けて物財の増と滅。それから債権の増と滅。これで要素が二つふえる。そのほかに収益の減少。損費の減少を加える。すると要素が四つふえますので十二要素説というんですが、これはちょっと度を越した分け方という感じがいたします。
それから、高商時代の先生というか、商大時代の先生というか、会計学の先生として名をとどめたのは鹿野清次郎先生。一八六五年の生まれで一九四一年にお亡くなりになっている。下野先生は一八六六年生まれ、鹿野先生は一八六五年生まれですから一つ年上です。鹿野先生は商学専門部教授兼大学講師ということで、専門部を本拠としていたわけです。この先生は、アカウンティングを会計学と言うべきか計理学と言うべきかという訳語の問題に熱を入れた。
アカウンティングは計理と訳すべきか会計と訳すべきかの問題に執拗に拘泥し、計理と言うべきだと強く主張され、会計という用語には真っ向から反対された。太田先生は、ずいぶんつまらないことに力を入れ、一生懸命になったものだ、計理だって会計だってどっちだっていいじゃないかと批判されていますが、一橋大学の講義は鹿野先生の影響かどうか、会計という科目名のかわりに計理という科目名をずっと長く使っておりました。私が学生のころも(昭和九年卒業)、大学の会計の講義は計理という名称になっておりました。鹿野先生の主張された計理という名称がずいぶん長く、一橋には巣くっていたのですから、以て瞑すべきでしょう。
この計理という名称はやがてやめになった。東京帝国大学が、英語国のアカウンティング、あるいはアカウンタンシーという講座名称を会計ということにした。東京大学がそうしたのなら、それじゃ一橋もそうするかという事例が少なくないことは我々のよく知るところですが、この場合も東大が講座を会計としたというので、計理という名称をやめて会計にするというフンギリをつけたのでございます。いまではアカウンティングは会計ということに相場がきまっており、計理という用語は特殊な意味で時々にしか使わない。計理と書かないで、経理という表現がありますが、これは会計よりも広く、会計プラス財務、物資調達、管理という範囲の活動を意味する用語です。昔の計理士は会計士―公認会計士―になりました。会計の代替語たる計理は古い言葉になった。
計理というのはそもそもは計算の理論、会計の理論の意味でして、計算理論を縮めると計理となる。計理でなくちゃいけない、会計じゃ困るなんていうことを一生懸命主張されたのが鹿野先生。鹿野先生が、そういう言葉の論争を一生懸命にされたという歴史的事実はよく知られておりますけれども、先生が優れた会計理論を打ち出したかというと、それを立証するデータはございません。
簿記会計の知識の普及に寄与した吉田先生
次に吉田良三先生でございますが、ー八七八年の生まれでございますから、鹿野先生や下野先生よりも約十年余後の生まれです。一九四三年になくなっていますから六十何歳という比較的若いお年で亡くなられたー若くて亡くなったと言っても、生前毛なんかなかったんで(笑)相当のお年寄に見えたんですね。
吉田良三先生は、一橋の高商を出ましてすぐ早稲田大学の会計学の先生になった。途中で呼ばれて東京商科大学の先生に転じたのです。
吉田先生というと、簿記の先生ということで、多少関心のある方は知らない人はないという先生でございました。簿記一般、商業簿記、工業簿記、銀行簿記、原価計算、工業会計、会計監査。すべての領域にわたって教科書を書いていらっしゃる。教科書のライターでした。またこの教科書が非常によく売れた。東京商科大学の先生だということで、内容よりも―いや内容もよかったんですけれども(笑)、名声で売れ行きが非常によかった。教科書やその他の著書の説明が懇切丁寧でわかり易かった。それで皆が教科書として使い、著書を読んで啓蒙をうけた。教科書では売れ行き随一という先生でございました。印税が沢山入るのでお宅はもうすばらしい。簿記御殿といって羨ましがれたものだという。しかし、それほど立派でもなかったと、太田先生は先程いった自叙伝に書かれていますけれども、簿記の教科書でインカムが多かったのが吉田先生だった。
吉田先生は原価計算の研究家でもあり、「間接費の研究」という論文で、商学博士の学位をお取りになった。これは主としてドイツの学者の理論を土台にしてまとめられた論文でした。昭和初めの不況時代に、当時の商工省臨時産業合理局に財務管理委員会なるものが設置されましたが、企業の経営合理化、財務の健全化に資する会計数値を企業に整備させるために、財務諸表準則というものをつくることになった。吉田先生は太田先生とともにこの委員会に参加し、会計実務の水準の向上に寄与された。この委員会は財務諸表準則に続いて減価償却準則、あるいは製造原価計算準則といろいろな準則をつくった。すべてが昭和初年の不況に対処するための経営合理化に役立てようとするものでありました。
戦争中には陸海軍が軍需工場に統一的な原価計算をやらせた。陸海軍の原価計算基準はそれぞれ違っておりましたが、これを一本化するために製造工業原価計算要綱が作られることになり、吉田先生、太田先生がその審議・文章化の仕事に参画された。さらに多数のスタッフを動員して業種別準則、製鉄業とか紙パルプ業とか、あらゆる業種の原価計算の準則を幾つも幾つもつくって行くという仕事をやったんです。その当時方々で太田先生とか吉田先生とかを引っ張り出して、原価計算要綱の説明会、あるいは準則の説明会が催された。終戦前にはそういう原価計算の宣伝・普及活動が盛んに行われました。その宣伝、普及の講演をされている途中で吉田先生は脳溢血で倒れて、間もなくお亡くなりになった。それは昭和十八年のことでありました。
当時宣伝・普及された原価計算のフォ−ムは今日の原価計算の実務にもその骨格が残されているといえるでしょう。ただし現在の会社の原価計算の基本となっているのは、後に原価計算要綱を改修して私共の作成した原価計算基準であることを申し添えておきます。
八面六膏の太田哲三先生
次に太田哲三先生ですが、先生は一八八九年の生まれ。吉田先生に比べると十年はど後でございます。そして一九七〇年にお亡くなりになっております。太田先生は上田貞次郎先生のお弟子でございました。いわゆる白票事件のときなんかは、上田貞次郎先生を助けて、いろいろと暇っかきをしたのでございます。太田先生は、『会計学概論』、先程いった商工省財務管理委員会がつくりました 『財務諸表準則の解説』、『会計制度論』、『固定資産会計』、『金融業会計』、『工業会計及び原価計算』などという多数の優れた著書を残されています。
太田先生は、会計の本質は財産計算なんていうものではないという動的会計理論の建前をおとりになりました。会社の会計は財産の会計ではなく、拡張された金銭会計であるという。バランスシ1卜に記載されている資産、これは結局は将来の費用である。現金預金とか債権を除きますと資産は将来の費用であると主張された。動態会計理論の主張を早くからなされた。
私は商学専門部で勉強しているころ(私の専門部卒業は昭和六年です)、太田先生の会計学の講義を聴いたんです。ちようど∃ーロッパ、アメリカへの外遊から帰られた早々でございました。ヨーロッパ(ドイツ、イギリス、フランス)の文献を引いたり、アメリカの文献を引いたり、なかなか博旁証の講義をされた。私が会計学に興味を持ったのは、この太田先生の講義を聴いたことにあったといえます。
先生は、吉田先生と共に、商工省臨時産業合理局の財務管理委員会の若手委員としていろいろ活躍された。何々準則という公表文書のまとめ役は太田先生がつとめた。そして財務諸表準則、減価償却準則、資産評価準則、製造原価計算準則など遠のものを発表された。昭和十六年には企画院に、財務諸表準則等の統一協議会が設置されました。これは陸海軍の原価計算基準とか財務諸表作成基準とかいうものを一本の統一されたものにするという使命を持っていた機関でございますが、この統一協議会に参画して、製造工業原価計算要綱の作成に尽力された。この製造工業原価計算要綱のほかに、業種別の原価計算準則というものが下位の基準として次から次へとつくられた。そのうち製鉄業の原価計算準則は太田先生が主役となってつくられたものでございます。
この製造工業原価計算要綱を、当時の外地たる朝鮮、台湾も含めて、日本の各地の会社に広めなくちゃいかん。そういうことから宣伝普及を担当する本部機関として日本原価計算協会というものが昭和十六年に設置された。これは陸海軍が音頭を取り、陸海軍がバックアップして作られたものです。そこで協会は大変盛大に事業を進めることができた。協会の大活動が終戦にいたるまで続いたわけでございます。この原価計算協会は戟後、産業経理協会と名称を変更し、現在でも存在しておりますが、太田先生は初めは協会の常任委員でございましたが、後、理事長になり、会長となった。
太田先生はなかなかの活動家でございまして、雑誌類の原稿でも著書でも書くのが非常に早い。あんなによく速く書けるなあとただ感心するばかり。私なんか遅い方でございますから、本当に感心するほかなかった。『金融業会計』なんていう二、三百頁の本を一週間ぐらいで書いている。握り飯を机の上に置いてかじりながら休みなしで書いた。若いころの話ですが、そんなこともありました。
それから、遊ぶのもよく遊んだ。酒は飲まないが芸者なんか呼んで遊ぶのが好きで、酒を飲むと、その晩とか明日の朝ぐらいまでは仕事にならないが、酒を飲まずに遊んでいるんですから、あとすぐ仕事にかかれるということであったのでしょう。その真似はとても私にはできない。声はあまり良くないくせに長唄だの小唄だのを習って宴席で披露された。終戦後は、受験をして公認会計士になり、東奔西走された。ほんとうに活動的な先生でした。一時、長浜ゴムの社長を頼まれて会社の再建にあたられるということもありましたが、終戦後の本業は公認会計士でした。やがて日本公認会計士協会の会長になった。大蔵省の企業会計審議会にはながく委員として参加され、後にこの審議会の会長になるという具合で、企業会計原則の制定、改正、原価計算基準の制定、監査基準、監査準則の作成、こういうことにずっと関与されたのでございます。太田先生は頭の切れる人でした。外国の会計学書の中味はそう熟読することなしにつかんでしまう。一を聞いて十を知るという特質をもっておられた。だから学問のこなし方が速かったのでしょう。
高瀬荘太郎先生のユニークな会計理論
次に、会計学の先生として挙げるべきは高瀬荘太郎先生。一八九二年の生まれ。太田先生よりも三つぐらい後の生まれでございます。高瀬先生はグットウィルの研究で学位をお取りになりまして、学位論文たる『グットウィルの研究』という高い水準の著書をお出しになった。
高瀬先生の会計学の特色は、徹底した時価主義会計という点にあった。それもインフレ下における時価主義会計の主張ではなく、企業の経済的価値は資本市場における株式価格、ひろくは持分価格に反映されるという考え方に基づいて、そうした企業価値が貸借対照表に表現されるべきだという立場から、現在価値会計を主張されたのです。
この頃はイギリスでもアメリカでも、カレント・コスト・アカウンティング、あるいはジェネラル・パリューシング・パワー・アカウンティングがひろく実施されている。カレント・コスト・アカウンティは、現在原価会計。ジエネラル・パーチェシング・パワー・アカウンティングは貨幣購買力維持を図ろうという会計。購買力が一割下がれば一割だけ金額をふやして、いつでもスタートの時点と同じ購買力を持つ金額で、バランスシートを作り、また損益計算書にも購買力損失を反映させようというのです。
このようなインフレ会計は物財資本維持、企業維持、貨幣購買力維持を目的として行われるのですが、高瀬先生の学説はそういう目的から時価主義会計を主張されたのではなくて、経済理論上の価値を財務諸表に反映するという立場からの時価会計論であったわけです。貸借対照表には決算時における企業の価値、マーケット・バリュウによる企業の評価額が反映されなければならないとする。
会計学説としては原価主義会計が常識であったのですから、高瀬会計学説は特異なものであったわけで、高瀬さんの考え方は会計の通説を無視した議論であり、邪道の説であるとか当時言われたのですが、とにかく普通の会計学者の言わないような高瀬理論を打ち立てられた。実践会計には結び付かないかもしれませんが、そういう主張をされた高瀬先生の功績は十分に評価しなければいけない。現下のカレント・コスト会計理論に関連して高瀬先生の時価評価論に近い考え方も呈示されている折柄、高瀬会計学説の見直しというようなことも目下の経済情勢ではあって然るべことではないかと思います。
高瀬先生のお弟子として一橋大学では片野一郎教授がおられます。学界にははかにも高瀬門下はおられますが −。片野一郎教授はすでに名誉教授になっておられますが、片野教授は貨幣価値修正会計というものを一つのテーマにして研究された。高瀬先生の影響のあらわれとは必ずしもいえないが貨幣価値の変動に係わる新会計理論に取り組まれるという態度は、師匠ゆづりであるといえないこともないのではないか。高瀬先生は東京商科大学、東京産業大学の学長をなさいまして、終戦後は政界に出られ、いろいろ大臣を経験された。このことは皆さん御承知のとおりでございます。
公認会計士制度の種まきをされた岩田厳先生
次に一橋の会計学学者としてどうしても漏らし得ないのは岩田厳先生です。岩田厳さんは酒飲みでして、私が酒飲みになったのは岩田さんのせいだというふうに思っています。酒飲みは一人で飲んでもつまらない。後輩の私を連れ出して、おい飲みに行こうなんて言ってしょっちゅう一緒に飲んでいました。そのせいで私、酒が強くなったんだと思っています。
岩田さんは一九〇五年の生まれで、遺憾ながら、一九五五年にがんのために逝去された。五十歳という若さで死んでしまった。岩田さんは井藤半禰ゼミでマックス・ウェーバーの研究をされた。秀才でございますから大学に残りたい。ところが井藤半禰先生の講座の財政学とか社会政策では残す余地がない。それで太田先生に、こういう優秀な学生がいまいるが、ひとつ引き受けてくれないかということで太田先生が引き受けた。そして一橋大学の会計学の先生にした。こういういきさつがございます。太田先生陣営に岩田さんが来た。私も太田先生の門弟として勉強しっつあった。そこで二人は接近し、ずいぶんと飲んで廻った。岩田さんがいなかったらこんなにアルコールに強くならなかったと思うんですが!。
岩田さんは飛び切り優れた頭脳の持ち主だった。ドイツの文献をあさってドイツ会計学に打ち込んだ。そしてシュマーレンバッハの言っていることはこうだ。ただ単に紹介するだけでなくて、シュマーレンバッハの理論にはこういうところに欠点があるとそのクリティカル・ポイントを抜かりなく突く。ふつうではなかなかシュマーレンバッハの言っていることの欠点なんか指摘できない。ところが岩田さんは明快に、欠点はここだという指摘をされる。だから、会計学界の連中があっと驚く。そういう存在でございました。若くして死んでしまったことは惜しい限りでございます。
岩田先生は若くして企業会計審議会の第三部会長となり、監査基準、監査準則というものの制定に中心人物として従事した。いまの日本の公認会計士制度の種まき、畑つくり、これは岩田さんが一生懸命になさった。そういう頭のいい人ですから、監査制度の導入の仕方についてもただ単にアメリカの監査の理論を持ってきて、これでやろうというんじゃなくて、初めはなかなか監査なんていうものは根を下すものじゃない。ついてはこれこれこういう手順を踏んで根を下すようにしたらどうかというようなことがすぐ頭に浮かんでくるんです。自分の考えたとおり、根を下すための工作をやるということで、だんだん今日のような公認会計士の監査制度が整備するに至った。
監査の実践に関してこのように非常な功労者であったと言えます。非常によく考える人でございまして、それ
だから書いた論文の内容は物すごく立派なもので、みんなが気が付かないようなところまで掘り下げて、そして論文を書いている。なかなかできないことです。論文はずいぶん書いていますが著書というものはほとんど出さない。物を書くことは恥をかくことだなんて言って、われわれに自分の態度をよく見習って欲しい、よくよく煮詰めて、煮詰めて煮詰まったところで論文でも単行本でも書くべきものだという御説教を飲みながらよくされたものです。われわれ同時代の一橋大学の会計学の先生がわりあいに本を書かないのは岩田さんの影響だと思っています。
いま一橋の現役で会計学担当の学者が三人ばかりいますが、このうち森田君なんかは岩田さんの直系で頭はいいんですがなかなか本を書かない。これは岩田さんのインフルエンスと言ってよろしい。がんでいよいよだめだというころに、監査について書いた論文をお弟子が集めて本にし、『会計士監査』という題名で森山書店から出した。それから、『会計原則と監査基準』、これもお弟子が、これだけ論文があるからこういうふうにまとめて見たらというので、死後にまとめた本。また『利潤計算原理』(同文館)も同じく死後のものです。一橋大学には岩田さんというすばらしい会計学者が出た。惜しいことに五十歳の若さで死去されたが、いついつまでも語り草になるものと思います。
その後の会計学スタッフ
岩田さんの後を引きつぐ会計学者には、片野一郎さんあり、松本雅男さんあり、末席をけがして私。現役では森田君。森田君は岩田さんの直系ですが、片野さんの後継と見ることもできる。それから岡本活君が松本雅男さんのお弟子で、原価計算、管理会計をやっている、私のは中村忠君ですが、これは財務会計に属する色々の問題と取組んでいる。
これが一橋大学の現役でございますが、いずれもまだ五十二、三歳でございます。みな同じくらいの年齢なんです。どうも適当年齢間隔のある人事ができない。それは一橋大学の講座の定員数ということに関係するんです。なかなかいいときに採ろうとしても定員のアキがない。誰かが停年になってアクと補充する。そういうことからどうも同じような時期に二人でも三人でもとるというようなことになっちゃう。いまの現役の連中は、すでに自分たちの後継者を具体的に決めています。現役の五十何歳の連中と、そのまた後継者をあわせて六人。一橋の商学部には只いま会計学の担当者が六人はどおるというわけです。みんななかなか優秀だと思います。森田君の跡継ぎの如きは、法学部で吉永栄助君から経済法、商法を学んだ男で、これが会計学畑へ来て会計学の跡を継いだわけで会社法とか商法の計算規定にからむ企業会計の研究を得意とする。
以上が一橋大学の会計学の系譜。最初にお断りしたように、はなはだくだらない漫談に過ぎず、御迷惑だったと思いますが、以上で私の話は終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
[質 疑 応 答]
平塚 妙な質問ですけれども、このごろ中国を見てきて、中国には簿記がないというようなことを言う人があるんですが、昔は台湾に簿記があったのですから、中国に簿記はあると思うんですけれども、どうなってしまったのかよくわからない。
それと関連して、一体ソ連には簿記があるのかないのか。このごろそんなことが気になっているわけなんです。
番場 私も詳しく存じませんけれども、先般向こうの公認会計士協会のミッション(使節団)が来ました。向こうにも公認会計士制度があるといえるのではないか。日本よりも後れていることは事実ですが、こっちの方に見学に来まして、なるべく日本の制度に近いようなものを真似しようということ。中国の公認会計士がいま現にどんなふうに活躍しているのか知りませんけれども、公認会計士というものの団体があることは事実なんです。
学校の先生も、日本の先生の書いた教科書を使って会計学の教育をしているとかということは戦前からあったことですね。戦後どんな教科書をどんなふうに使っているか、詳しいことは聞きませんが、簿記がないとは全く考えられない。
それから、ソビエトでも、ソビエトの簿記はこんなふうなものだということをアメリカ人が現地のリサーチをふま
えて、紹介している。日本では片野一郎さんが「ソビエト企業の会計制度」という本を出されています。ソビエトでも、国有国営企業にやはり利潤原理を取り入れるとか、損益計算をやるとか、そういうことは絶対必要だ、原価計算も必要だということでやっているようです。簿記がないとか会計がないとかいうのはどうかと思う。共産主義の社会でも企業体制の簿記というものは必ず必要です。簿記を超えて、会計報告が必要であることは当然のこと。見に行かない私がそういうことを推測でいうのは信頼性に欠けるけれども、文献から言って中国でもソビエトでも、簿記、会計はやっていると言ってよろしいのではないか。
平塚 小室直樹という、このごろ売り出している人がいまして、その人が『資本主義中国の挑戦』という本をカッパブックスから出して、中国には複式簿記がない、だからうまくいかないんだという議論を展開しています。この間、自分が見てきて確認してきたと言って、ここで講演したんですが。
番場 日本の会計学者も向こうへ行って交流をしています。向こうの連中がこっちへ視察にも来ています。簿記・会計が全くないというのは信じられない。ただ簿記、会計のデータの利用がどんな風になっているのか。そこが問題かも知れない。
ソビエトについては、片野さんがソビエトの企業会計について書いているほか、神戸商科大学の名誉教授の阪本安一さんが『ソ連の企業と社会』(同朋舎出版)という著書の中で、ソビエトの企業会計について書かれている。そういう人を呼んで、話を聞けば、ソビエトがどういう程度にやっているかがわかりましょう。
吉永 私も太田ゼミですが、太田先生のお話がありましたが、確かにこんなに頭のいい人がと、驚いちゃって、非常に感服しておりましたが・岩田さん、番場さんもまた偉い人でありました。ところで、岩田さんの話が出たんですが、私と一緒だった畠中というすぼらしい秀才がいたのですが、ちょっと彼のことをお話し願いたいと思います。
番場 彼は余りにも若く、まだ講師にもならないうちに死んでしまったので、話から抜かしているんですが、畠中さんは、ドイツを初めとしていろんな国の簿記の基礎理論、勘定学説をくまなく調べ挙げて、これを体系化して、『勘定学説研究』といったか、そういう本にして森山書店から出しています。惜しいことに若くして死んでしまった。これは吉田良三先生の跡を継ぐべき人だった。すばらしい研究者で、その助手採用のときに、[勘定学説研究」というこんな厚い論文を提出した。審査員の一人として太田先生もこれを読んだんです。そして、これはすぼらしいと賞讃された。ただ、あの人は左翼的な考え方の人で、唯物史観というか、そういうふうな哲学の立論をする人だったです。大学の教師としてそのくらいのこと何でもないんですが、とにかく緻密で筋の通る研究で皆が驚いた。太田先生はその論文の紹介を、「勘定学説オンパレード」という表題で『一橋新聞』に書いていました……。そのぐらいすぼらしい研究学徒で、吉田先生は、彼を跡継ぎにすることにした。ところが病を得て死んでしまったのです。
その次に、英語の阿久津先生の息子さんの阿久津桂一君を残すことにした。これもまた勉強家で頭がいい。それが自分の家の湯殿ですべって、それがもとで発病して死んでしまった。吉田良三先生とはまことに弟子達が悪いと言われたのでした。畠中さんが死んで、阿久津君が死でしまった。そこで運がよかったのは岩田厳さん。畠中、阿久津の二人が生きのびていたら岩田さんも一橋の先生にスラスラとなれなかったかもしれない。その意味では運がよかった。
ライバルがいなくなって……。
服部 私、吉田良三先生の商業簿記の本を商業学校時代の教科書に使ったものです。一橋では下野直太郎先生の講義を聞いていたわけなんです。下野先生の講義はどうもわからなくて、自分勝手な話をしているというような印象を2223
を受けているんですが、それは私だけではなくて、みんなそういう印象を受けていたようです。
話は別になりますけれども、東大の経済学部が法学部から分かれまして経済学部の中へ商学科をつくったのです。商科をつくりますときに、簿記の先生、あるいは会計の先生になる人がないというので、上野道輔さんを無理にさせたわけで、上野さんはさっぱり会計がわからない。どうしたらいいだろうというので、下野先生のところへ相談に行ったわけです。下野先生からいろいろ話は聞いたけれども、1一向体系的にならないので困ったということを「金融」という雑誌に書いております。
番場 下野先生は東大の講師をやったんです。
服部 行ったけれども、気炎を上げているだけで、なかなか中身がわからない。(笑)ただ、東大へ一橋の方から講義へ行った人は、ひょっとすると下野先生が第一号かもしれないという感じがいたしますが。
番場 下野先生のような会計学の深いところを自分の思うとおり説明する先生では、聞いている学生が簿記のことはわからないと思いますよ。(笑)もっと低級な、借方はこうで貸方はこうでこんなふうにつけるんだ。記帳の練習、そういうこともやらなければとてもわかるものじゃない。バランスシ1卜は収支計算の勘定じりを並べたものだなんていうことを言ったって、簿記のことをわきまえない学生にわかりっこない。簿記を教えるには、村瀬玄さんとか星野太郎さんとか、専門部の先生方のようにしなければ…。
伝票のつけ方から、一から十まで教えるような人でないと本当のところ、聞いている学生はわからないと思うのです。下野先生のは余りにも高等理論ばかりだから。それはおっしゃるとおりだと思うのです。
服部 下野先生の教室というと、真ん中にはだれもいなくてぐるりだけはずらりといるんです。質問されると返事ができないものですから、すっかり空いている。(笑) それでも先生は、平気で講義をやっておられたということを聞いております。
番場 その通りでしょう。それで講義も一時間半ぐらいの講義で、二十分ぐらい本当のところをしゃべって、後は雑談だったというのです。そういう雑談でもしないと学生が聞いていないから、肝心のところは二十分ぐらいで終わって、後は日蓮の話をしたり、日本は世界の縮図とかなんとかということを話したり、おだてあげていたんでしょう、恐らく。そういう点では教える先生としては余りよくなかった。理論的には優れていたけれども。そういうことは言えるんです。
芦沢 きょうはいいお話を伺いまして有難うございます。番場先生は、一橋会計学の系譜の中でご自身のことは余りお話しにならなかったので非常に心残りなんですが、若いころ出された赤い表紙のご著書がありますね。
と申しますのは、学校のときはほとんど勉強しなかったんですが、兵隊に取られて主計を選びましたら、後で特に残れと言われまして、一カ月か三カ月ばかり残されて会計監督官特別教育を受けたんです。そのときに教わったのは、残念ながら一橋の先生じゃなくて中西寅雄先生でした。そこを終えてから、陸軍衛生材料省という医薬品を扱う役所に行きました。主計が私を入れて四、五人しかいないんです。その中から、いまお話しのありましたように、陸軍軍需品製造工業原価計算準則というのがありまして、それに基づいて陸軍医薬品製造工業原価計算要綱をつくれというわけです。長谷川安兵衛先生なんかの御指導を受けながら曲がりなりにもこしらえたのですが、そのときにあわてて勉強を始めたわけですが、その中で先生の書かれたものを読んで、いままで習った簿記とは全然違う感触を得まして、とってもわかりやすいということで感銘を深くした覚えがあります。
せっかく質問の機会を与えられましたので、最近疑問に思っていることを一つだけお尋ねして先生のご見解を承りたいと思います。 そのときの薬屋さんから薬を買う値段を決める基礎になるのが原価計算なんです。原価計算だけではだめで、どうしてもそこに今日で言うフェアリターン思想というものが入らないと購買力が決まらない。そのフェアリターンをどう決めるかというのに、ちゃんとうまいこと先生方がつくられた適正利潤算定要領というのがありまして、それではじき出して購買力を決めていくわけなのです。そのときにうろ覚えに頭の中に残っているのは、そのときのフェアリターンの中には借入金利子が入っていた。ところがその後、戦争が終わってから一般の企業に入ってきていろいろ仕事をしているうちに、現在のいわゆる利益と称するものは税金前の利益で、利息、いわゆる借入金利子というのは経費扱いになっているという気がするんです。それが戦争中に私の経験した要綱と現在の会計基準との一つの違いのような気がするんですが、その経緯、その考え方というものはどういうところにあるのか、ちょっとお伺いしておきたいのですが。
番場 借入金利子、他人資本利子、これはどうしても払わなくちゃならんものです。株主に払うものは配当金と言いまして、もしも利益がなければ払わないということで、配当金は利益の分配額ですが、借入金利子は利益があるかないかを計算する段階で費用の一部として収益から引くことにする。利子まで突っ込んだ費用を引いたものが株主行きの利益、あるいは内部留保の基礎になる利益であるという考え方。これはいま会計学の方では一般的なのです。
ただ、銀行など他人資本の提供者も自己資本の提供者、株主、これも会社に資金を提供する者としては対等の立場にあると考えますと、会社が挙げた利益のある部分を他人資本の提供者に分配する。それから、自己資本の提供者である
株主にも分配する。そういう立場からすると、借入金利子も利潤分配だという考え方ができる。費用と考えるのと利潤分配と考えるのと二通りあるわけです。いまは株主の立場から損益計算をするという立場をとっております。そこで利子は前もって引くので費用であるというわけです。
この考え方が一般的なんですが、進歩的な会計理論ではそうでない。借入金に対する利子も、株主に対する分配も全く同等の資本利子の性格を有する。自己資本利子と他人資本利子という区別があるだけで全く同じようなものである。その理論をもうちょっと推し進めますと、従業員、労働者のもらう給料、これも費用じゃない。そういうものを抜きにして利益を出して、そして付加価値を計算して、従業員はどれだけ分配を受けるか、資金の提供者はどれだけ分配を受けるか。こういうふうにやる付加価値計算。これこそ本当の企業の立場からする計算だ。株主本位に計算を考えているから、金貸しの方は株主よりも一段先に利子を取るという考え方になる。従業員、役員、経営者、他人資本の提供者、自己資本提供者、すべて対等だ、利益分配にあずかるんだというと付加価値計算の思想になるんです。
それで戦争中に生産費というものを計算して、そして統制価格を決めるというようなことがありましたが、その生産費の中には、利子も入っていれば自己資本の提供者に対する配当金も入っているというような計算をしたかと思うのです。配当金まで生産費の中に入れて、これが生産費だと。あとは会社が留保する積立金の基礎になる金額を載っけるというふうに、あらゆるものを生産費の中へ放り込んだ。価格統制令あたりはそういう考え方の生産費計算をしたのじゃなかったかと思うのです。いま話の幅を少々広げてしまいましたが、利子は費用であるのか、あるいは利潤分配項目であるのか。これは常に議論の対象になるんです。どっちにするか、どっちかに入れなきゃ困っちゃうのですけれども、どっちかに入れようかというのはそのときの理論の立て方なんです。
(五十七年九月六日収録)