一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第十六号] 一橋のささやかな学問 一橋大学経済学部教授 渡邊 金一

或いは

 一橋の学問とその系譜 第2分冊
3 社会・歴史学
一橋のビザンツ学の研究  」


 はじめに

 いまから数年前に、ギリシアのエーゲ海に現地調査に行くに先立ちまして、パリのソルボンヌ大学にイスラム学の犬家を訪れたときの話であります。「ヨーロッパを車攻めにした日本が、今度は、地中海研究に進出か、」と、こういう彼の皮肉に対して、私、何とかやり返さなくちゃならないと思いまして、「いや、お国の大統領からトランジスターの売り込み商人と言われた私たちの首相は、それをいたく気に病んだようで、このような研究をアクセサリーとして身に付けた方がいいんじゃないか、と思ったらしい、」と、そういうふうに答えたのを覚えております。

 学問を営む者にとりまして、自分の学問研究の意味というものを問われることは、そもそも大変しんどいことであります。考えてみますと、私、一橋大学の経済学部にメンバーとして所属するようになりましてから、今年でちょうど三十年になります。その一橋大学の同僚を中心にして、地中海周辺地域のエリア・スタディというものを発足させてからちょうど今年が十年目であります。私は一九四一年に東京商科大学の予科に入学しましたから、軍隊に行った一年半ほどを除きましても、まさに人生の三分の二以上を優に一橋で過ごしたという勘定になります。となれば、この一橋で、また一橋だけで自分が歩んできた学問の道について、弁明をいずれはしなければならないはずでありました。その意味で、それについて考えてみる機会を、きょう、このようなかたちでお与えくださいました皆様に心から御礼申し上げる次第であります。

 その三十年間、私が曲がりなりにも付き合いを重ねてきたのは、学問の領域で言いますと、西洋の古代史といいますか、古典古代学といいますか、それ、及び西洋中世史と並んで、ささやかなお店を開いている、恐らく皆さんに余りなじみのないビザンツ学という学問であります。またそれを通してのビザンツという世界や、そこに住んでいるビ

ザンツ人たちであります。日本とは歴史的に何のかかわりもなかったビザンツ。一四五三年に国としても滅びてしまったビザンツ。そんなビザンツというものを、選りにも選って何でまた研究対象にするのか、というのが、何かにつけて私に発せられた質問であります。それはしごくもっともな質問ですけれども、考えてみますとそこには二つの、必ずしも同じではない含意があるように思われます。

 その一つは、ビザンツ学というものはしょせん、だれが見ても現実離れがした、たかだか物好きの興味をそそるにすぎないような学問じゃないか、というような考えと恐らくかかわっていると思います。しかし、そもそも研究領域それ自体が、領域のいかんに応じて、現実とかかわりが深かったり、あるいは、現実離れがしているというようなものかどうか。よく考えてみますと、そう自明でもないような気がいたします。いや、およそいかなる研究領域といえども、現代に生きる人間にとってそれが重要だと感ぜられる限り、それはまさに現実と深いかかわりを持った存在と言わなければならないと思います。事実、現実とかかわりが深いとみなされている学問といえども、学問として一面的たらざるを得ない限り抱えている死角というものが、いわゆる現実離れのした学問によって照らし出されるという可能性もあながち皆無とは言えないでしょう。

 もう一つの含意というのは、それにしても、どうしてまたビザンツなどという研究対象を選んだのか、という怪訝さと恐らくかかわっていると思います。だが本来、研究対象の選択もまた、選ばれた対象のいかんによって自明であったり怪訝であったりするようなものでは必ずしもないと思う。ほかの言葉で言えば、なぜその研究対象なのか、ということは本来どの研究者に対しても発せられるべき質問だと考えられます。

 こうしてあれやこれやを考えた上で、さて学問において、ある研究領域なり研究対象なりが、常識や流行といった次元による選択の場合は論外としましても、明確な自己了解と自己確信というものに基づいて常に選択されるかとい
と、そういうこともあるかもしれませんけれども、そうでない場合の方が多いような気がいたします。そしてこの後者の場合において、人は、ある研究領域ないし研究対象の持っている非合理的な魅力、非合理的とも称すべき魔力に引かれて、まずその研究に入るのでありまして、続いて始まる研究の過程の中でこの非合理性そのものがその都度合理化されていき、自分を引き込んだ非合理的な魅力というものが一体何であったか、これが当の本人にも次第に判明してくるものであります。私が今日ここでこれから申し上げることも、実はこうして私自身の中で合理化されてきた部分とかかわっているわけであります。

 ビザンツの国家と社会

  (1) ビザンツとローマ帝国
 
 さてそのビザンツなんですけれども、それについて少しお話をする必要があると思うんです。というのもビザンツという名前そのものがつまずきの石であります。そもそもビザンツ帝国なんていう名称は、国が滅びてからはるかずっと後になって第三者たよって付けられた名前でありまして、当時そういう正式の名前の国家というものがあったわけではない。存在していたのは古代ローマ帝国の中世における連続体でありまして、その中心はコンスタンティノープル、つまり三三〇年にティベル河畔の第一のローマと並んで、ボスポロス海峡のほとりで、第二のローマとして出発し、それを建てたコンスタンティヌス大帝の名にちなんで、コンスタンティヌスのポリス、コンスタンティヌスの町、コンスタンティノープルと呼ばれたものであります。ですからもしパスポートのようなものがその頃あったとすれば、その国籍欄には「ローマ人」と書かれた、そういうパスポートを持った連中が、その帝国の人々であります。

 中世のローマ帝国というものに、ビザンツ帝国と並んで、あとからつけられたとして、もう一つ問題になるものが
ある。それは、この帝国が、大ざっぱに言いまして、バルカン半島と小アジアを含んでおりましたためにつけられた、東ローマ帝国という名前でありますが、ここでもコメントが必要になってくる。それは、ローマ帝国というものが東西に分裂して、それぞれが独自な国家として発足したわけではないということであります。それは、地中海全域に及ぶようになった広大な領土を統治するために、ローマ帝国が行政上の便宜のために西と東に分けられた結果にすぎないのでありまして、ローマ帝国というものは一つしかない。ということは、当時の人々に聞いてみたらば、誰も、恐らく何のためらいもなく、そうだ、二つはないと言っただろということです。事実、その版図は東に限られたかというと決してそうではない。このいわゆる東口ーマ帝国は、中世の初期には、イタリア半島、つまり古代ローマの発祥の地に、なお厳として存在しておりました。ヴェネツィアとその一帯はもちろんそうでありますし、第二のローマもなお名目的にはこの帝国に所属しておりました。南イタリアとかシチリア島に至っては十二世紀までこの帝国の支配が続いたのであります。

 そういうふうに話してきますと、じゃローマ帝国の没落なんていわれていることは一体どうなるのか、というような声が早速聞こえてきそうなんですけれども、この、ローマ帝国の没落というものは、もとはと言えば、啓蒙主義時代の歴史家たちによって誤って提出された死亡届であります。死んだことにされてしまったにすぎないのでして、事実はどうかというと、ローマ帝国というものは死んだどころか、その首都を東方に移しながら、なお千年以上も存在するのであります。四七六年、皇帝ロムルス・アウグストゥルスはゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された、その結果、高校の教科書にもそう書いてあるように、いわゆる西ローマ帝国が滅亡したかというと、それも間違いであります。ではそれは何を意味していたかというと、別にローマ帝国というものがなくなったわけじゃないのでして、それ以後、西の方で皇帝を名乗る者が長いこと出てこなかった。こういうことだけの話にすぎない。事実、かの有名な傭兵隊長オドアケルは、コンスタンティノープルのローマ皇帝のもとに何度も使者を送りまして、自分がローマ帝国のもとで、王という資格で、皇帝の代理者として、イタリアを管理することを認めてくれと何回も懇願しています。これは単にオドアケルに限ったことではないのでありまして、かってローマ帝国が支配していたその西半分の領土で国を建てたゲルマン諸部族の長たちも、多かれ少なかれ分かち持ったビへイヴィアーなのであります。

 以上申してきましたことがすでに裏書しているのは、ビザンツがその存在そのものをもって、既成の歴史通念に対し異議申し立てを行っているということ、また、その既成の歴史通念の底にありますところの、視野を西ヨーロッパに局限し、そこで何か神がよみしたまうような歴史発展というものを見たい、読み取りたいという西ヨーロッパ中心の考え方というものにたいしビザンツが、その存在そのものをもってその本心というものをあばき出しているということであります。

 これは何も「ローマ帝国没落」に限らないのでありまして、数世紀後に西方に再び皇帝を名乗る者が現われたときの事情も、同じく、東方におけるローマ帝国の存在を抜きにしては正しく理解することができないのであります。ところが、おなじく日本の高校教科書に何と書いてあるかというと、フランク国王シャルルマーニュはゲルマン諸部族国家を統一してやがて皇帝になり、西ローマ帝国を復活させた、と、それがあたかも西ヨーロッパでなるべくしてなった歴史のコースであるかのように説明しております。だがしかし、そのシャルルマーニュにとって、寝ても覚めても念頭から離れなかったのは何かといいますと、東方におけるローマ帝国の存在であります。ほかの言葉で言えば、世界支配というものを標榜している東方のローマ皇帝に対し、自分自身が、東方の皇帝と対等の地位にあるのだという主張を貫きたい、相手方にもそれを認めさせたいという国際的な威信の問題がシャルルマーニュにはあったんです。
シャルルマーニュに先立つゲルマン諸部族の王たちがいずれも進んでコンスタンティノープルを中心とするローマ世
界帝国の権威のもとにひざまづき、その秩序の中に自らを位置づけていたのに反しまして、いまや名実ともにゲルマン的西方の第一人者となり、自分自身のそういった地位というものをはっきり自覚していた、誇り高きシャルルマーニュは、ローマ世界帝国の支配者を名乗る東方の皇帝というものが、実はキリスト教世界のギリシア的な東半分を統治しているにすぎない支配者だという点を見抜いていたのでありまして、事実、彼は、八世紀後半から九世紀の初めにかけまして、機会あるごとに東方のローマ皇帝にたいし、自分が国際的な威信においてその後塵を拝するいわれはないということを相手方に主張してやまなかった。相手もそれを認めてくれるように要求してやまなかったのであります。

 したがって、彼のいわゆる皇帝戴冠というものも、そしてまた皇帝称号というものをめぐるキリスト教世界の東と西の支配者の間のやりとりというものも1これは実は国際的なプレステージ、ランキングをめぐる問題にほかならないのであります―、両者間の格づけの文脈の中で起こっている事件であり、その一つのあらわれがシャルルマーニュのローマ皇帝戴冠と言われる事件だということになります。これは、今日の歴史学界では、キリスト教世界における二つの皇帝権の問題と言われておりますけれども、これは何もシャルルマーニュに限ったことではありませんで、それから百年以上後にオットー大帝があらわれて神聖ローマ帝国というものを建てますと、そのオットー及びかれを継ぐ神聖ローマ帝国皇帝と、東方のローマ皇帝との間で再燃することになります。そして二皇帝の問題というものが展開をみるわけであります。

 以上からもおわかりいただけるように、何はともあれ強調したいのは、その支配が世界に妥当するという看板を決して引っ込めようとしなかった東の一帝国の存在でありまして、それは中世キリスト教世界西半部にとって非常に大変な挑発(プロヴォケーション)を意味していたということであり、また、その西方が東方に対して抱いていた、い
わばインフェリオリテ・コンプレックスそのものが、実は西方自体を新しいものの創造に向かわせるバネとして作用したということでありまして、これは文化面についても言えるわけであります。つまり、この東方の帝国というものが、民族移動の混乱の続く西方と違いまして、古代から途切れない文化を事実上独占しているという事実は、西方にとって羨望の的でありました。さらにはまた、この事実の上に立って、自分だけが文化ー般を独占しているのだというこの東方の帝国の主張は、これまた酉方に対する大いなる挑発にほかならなかったのであります。

 こうして見てきますと、西ヨーロッパの歴史叙述がそのナルシシズムに浸り続ける上で、とかく都合の悪いこの歴史的存在を、自分に関係のないものとしてなんとか切り離す ― 抹殺しないまでも ― ために付けたレッテルこそ、実はビザンツという名前であったということがいささか明らかになると思います。そういう次第ですから、西ヨーロッパでルネッサンス以来つくり上げられてきたビザンツ像自体も、多かれ少なかれひずみを持たざるを得なかったわけでありますが、それをただす努力の中で、ビザンツというものが歴史上、実は特異な存在であることがだんだんわかってまいりました。

  (2)ビザンツに於ける皇帝並に国家概念―レス・プブリカ―

 たとえば、この帝国で頂点に立つ皇帝という存在の憲法上での地位がそうであります。キリスト教終末論の助けを借りてつくられたこの国の政治神学は、皇帝を、地上における神の代理人にまで祭り1げたのでありますが、それにもかかわらず帝国の現実を見ますと、この帝国の千年ばかりの歴史で、実際に統治を行った八十八人の皇帝のうち四十三人を下回らない者が革命で帝位を追われている。そのうち三十人は非業の最後を遂げているのでして、これには他のさまざまな原因もありますけれども、なかんずく血縁による帝位継承のような原則というものがこの帝国にはな
かったことと関係しております。ほかの言葉で言えば、皇帝を皇帝たらしめる権限が皇帝権そのものの内にない、外にある。換言すれば、元老院、市民、軍隊という三者ワンセットの選出によって皇帝が決まるというコンセンサスが存在しておりまして、それがいわば書かれざる憲法として、ビザンツ人の意識の中に定着していたことが、挙げられるのであります。つまり国家の頂点に立つ、絶大な権限を持つ者としての皇帝の存在というものはだれ一人否定しないながら、かかる皇帝を決める権限を持つ者は国民だというのであります。これは大変なことなんですが、事実、ビザンツではトマス・ホップスの国家契約説を思わせるような理論というものが、ビザンツの十四世紀の現実の中で、皇帝に対する意見表明として述べられているのであります。

 どうしてこういうことになったか。それを理解するためには、はるか古代ローマの昔にまでさかのぼってそこから考え直さなければならないと思います。古代ローマ人は何百年もの歴史をかけまして、独自の国家概念としてのレス・プブリカ―これが後の共和政の語源であります。レスというのは「物」であります。プブリカというのは「私(ワタクシ)されたものではない、」「公的な、」 という意味です一、即ち、公的存在としての国家という観念、ならびに、それに基づく現実の国制をつくり上げたのであります。確かに共和政国家というものは内乱に陥りました。その結果、それに終止符を打ち、国家に新たな繁栄をもたらすべきカリスマ的な指導者が必要とされたのであります。そこで生まれたのが言うまでもなくローマ帝政でありました。こうしてローマの伝統的な国制、レス・プブリカというものに、皇帝権というものが新たに継ぎ木されることになったんですけれども、この皇帝権というものは、すでに何百年の伝統をかけてでき上がったところの、公的な存在としての国家というものを自らの内に統合し尽くすことはできなかったのであります。皇帝権は結局、国制の傍らに併置された存在にとどまった。皇帝を決める権利を持つのは国民だというそのコンセンサスも、実は、ここに根差しているのであります。私たちは先ほど中世のローマ帝国にビザンツというラベルを張りまして、それを孤立化させることが、ヨコの、同時代の中世の西ヨーロッパの理解そのもののためにも、いかにマイナスかということを指摘いたしましたが、この同じ孤立化の操作というものが、今度は、古代から中世を毒するローマ帝国そのものの、タテの歴史的連続というものを、無残にも断ち切ってしまうものとして、いかに有害かを思い知らされるわけであります。

 もちろん皇帝選挙権者の内容というものは時代によって重点が変わりました。元老院、市民、軍隊というさきの三要素のうち、三世紀以降は、それに先立って指導的な役割りを演じていた元老院に代わりまして、文字どおり軍隊が、皇帝選出を独占することとなりました。長く延びた国境線の全線にわたって高まる緊張状態の中で、軍隊を率いて東奔西走する皇帝は、この時代、すべて、属州の宿営地で、兵士によって選ばれたのであります。

 だが五世紀の経過のうちでこの状態に大きな変化が起こってまいりました。中でも重要なのは、ちょうどこの時期にコンスタンティヌス大帝の建設都市、第二のローマというものが、急激に発展したことであります。三三〇年の開都式後七十年にして人口は四倍にも伸び、ニューヨークの、六八〇年から一九五〇年にいたる七〇年間の人口増加率にも匹敵する、そういう大変急激な成長ぶりでして、五世紀の初めには二十万人にも達しました。こうして、町の区域を拡大したり、それを守る新たな城壁を設けたり、水道工事を建設したりする等々の大工事が必要になったわけですが、そればかりでなく、過密化に伴って、人口流入を規制しなければならなくなったり、あるいはまた、建築物取締り規則―たとえば、日照権ならぬ海の眺望権がそれでして、余り鼻先に持っていって、海を見えなくするような家を建てることはまかりならんというような法律―を設けなければならなくなったくらいであります。そうなってみますとコンスタンティノープルというところは、中世都市どころか現在のマンモス都市を連想する方が適切だということになります。そしてまた四世紀末以来、いままで属州で転々として宿営地を移り歩いて、外敵と戦争してい
た皇帝も、その宿営地を捨てて、最終的にここを常住の地とするに至ったのであります。最大の人口を擁したと思われる六世紀の前半、最も多く人口を見積もる学者によりますと、五十万にも達したと言われているんです。当時の交通、運輸、コミュニケーションの手段というものを考えますと、これは大変なことと言わなければなりません。

 これだけのお話をした上で、先ほどの皇帝選出の問題にもう一回戻りますとどういうことになるかというと、その際主役を演ずる市民とは、実はこういった大都会に住む、五十万にもおよぶ大衆のことです。しかもそのかれらは、
これは同時代の文学作品などからわかることですけれども、なかなか一筋縄ではいかないような、したたかな連中ときていまして、並はずれて政治に熱狂し、党派の離合集散に明け暮れて変わり身が早く、おまけに他人の不幸はその本人がドジだからというような大変なモラルの持ち主でありまして、一口に言ってみると、地中海的な人間頬型とでも言うことができるような、そういう存在であります。

 その上この首都の都市計画が、これら市民に、皇帝選出という国事行為に参加する格好の場を提供していたんです。よく言われることなんですが、コンスタンティノープルでは、神は聖ソフィア教会を持っている、皇帝は聖宮殿を持っている、市民は馬車競技場を持っている、ということばがありますけれども、いま問題なのは、この馬車競技場であります。それは五万の観衆を収容できるスタンド、つまり後楽園に匹敵するような収容能力を擁していたと言われますけれども、場所的にも宮殿と背中合わせになっておりまして、そこにはロイヤル・ボックスも設けられておりました。そして新皇帝の選出に際してこの娯楽施設は、一変して、うってつけの国事行為の場となったのであります。
元老院の予備選挙で一人にしぼられた皇帝候補というものはここに入場いたします。そしてスタンドを埋める数万の市民、並びに、ロイヤル・ボックスの付近をかためる宮廷護衛兵から、承認を意味する歓呼の声を浴びることによって正式の皇帝となったのであります。

   (3) コンスタンティノープルの社会

 コンスタンティノープルの社会ということに話が及んだ以上、もう一つ触れないで済ますわけにいかないのは、この社会が、社会的上昇と社会的下降に富んだ、社会学の言葉を使えばソーシャル・モビリティ、社会的流動性に大変富んだものであったということであります。その結果ここでは、たとえば同時代の西ヨーロッパに見られたような国王、貴族、騎士、市民というような、横の身分的社会編成原理というものが貫徹しなかったんです。成り上がり者はここでは決して社会的蔑視の対象とはならなかった。社会的対流の典型であり、根源でもあるのは、皇帝そのものであります。そして国家高官も、多かれ少なかれそれに準じた社会的存在でした。皇帝のなかには、社会の最下層から身を起こした者が決してまれではなかったのでありまして、その一例として、地方の貧農のせがれの場合があります。かれは、幸運の星を求めて徒手空拳で都に上り、高官の玄関番を勤めたのを皮切りに、つぎつぎと、より有望なパトロンを求めて泳ぎ回りながら、やがて自分自身がその周りに取り巻き連中をつくり上げる。その間、有望株と見込まれてスボンサーまで付くという有様であります。そしてついには、自分の周りにつくり上げた取り巻き連中を、いわば特攻隊として投入し、皇帝に対するクーデターに成功するのです。大同小異、このようにして新しく一族の支配、いわゆる新王朝というものを開いた例は、ビザンツ千年の歴史の中で三十を下らないのです。

 いまお話ししたケースからもわかりますように、コンスタンティノープルでは社会の最下層から身を起こし、家の子郎党を擁する有力者がひしめき合って並び存していました。そのうちの何人かは、帝位を目指す大それた政治的野望というものを抱いているわけですが、かかる連中が一たん革命に成功し、馬車競技場で市民から歓呼の声を浴び、正式の皇帝になりますと、今度は、論功行賞として利権絡みのポストを、従者団のメンバーに大盤振舞いするわけです。それはどういうことを意味しているかと言えば、失脚した皇帝の取り巻き連が、いままで就いていたポストから
追われて、社会の最下層に転落することを意味する。ですからこの国で数多く行われたクーデターは、ただ単に皇帝が交代したというだけではなく、同時に大幅な社会的な、上層と下層との入れ替えが行われたということであります。
そしてそれに伴って、財産の没収と富の再配分が行われたわけであります。これが一言ってみれば、ビザンツ式の政権交代と政界浄化なのかもしれません。


   ビザンツを超えて― 海中海周辺の中世諸社会の比較、現代への歴史的展望


 以上、ビザンツの国家や社会の特質のごく一端に及んだ次第ですが、そういった指摘はなおさらにたくさん続けることができると思います。だがしかし、われわれは、それにとどまるわけには参りません。そもそもわれわれがいままで何を問題にしてきたかというと、既成の歴史概念というものが、歴史そのものの持っている大きな連関というものへの洞察を欠落させてしまった点をビザンツを取り上げることによって指摘したわけでありますから、そういう姿勢からすれば、今度は、そのわれわれが、ビザンツの中に閉じこもるということではすまされない。それでは明らかに自己撞着であります。われわれはビザンツからふたたび出まして、今度は、こうして明らかにされたビザンツというものを、より大きな歴史的な空間、歴史的な時間の連関の中に据え戻さなければならない。事実ビザンツという歴史研究の対象は、こういった歴史的関連への見通しというものを可能ならしめるような、またとない地点に置かれているのであります。

 古代末期、中世初期の地中海の全領域というものの歴史、これを広く見ますと、言ってみればそれは、定旋律と対旋律の絡み合いの中に進行する、時代の対位法音楽にも似た構造を持っております。定旋律とは、言うまでもなくコンスタンティノープルを新たな中心として存在を続けるローマ帝国のことであります。対旋律とは、移動の結果その
周辺に定住し、国家形成に向かう民族のことであります。この場合、民族移動は何もゲルマン人の独占物ではないのであります。スラヴ人もアラブ人も、いわゆるバイキングもマジャール人も、そしてトルコ人もそこに含めて、民族移動という言葉を使わなければならないと思います。その結果、今日地中海全域にわたってわれわれが見るような民族地図というものが、またそれと関連して、言語地図というものが、この時代にはぼ確定しました。そういうように、中世初期というものは、この地域全体にとって、大変重要な時代であります。

 そればかりではありません。いずれも地中海周辺に起こりましたけれども、根は一つの三大世界宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれかと、いま申しました民族が出会います。ないしは、そういう諸宗教の歴史的にでき上がってきた諸形態(1)キリスト教で言えば、オーソドックスとかカソリックとかの(1)と出会うことによって、民族ぐるみの改宗というものが起こり、この地域の宗教地図というものが、これまたこの時代に決まったのであります。したがって、ここからさまざまな、興味ある問題が生まれるということは論を待たないところなんですが、こういった大きな歴史的な関連そのものの持っている構造というものを、それとしてとらえる方法として、とりわけ比較史の方法というものが重要であると思います。もし地中海周辺地域というものを大ざっぱに、西ヨーロッパ、ビザンツ、イスラム、の三つに分けることが許されるとして、これらの三者はいずれも古代末期を引き継ぐその後継社会でして、この古代末期社会が抱えていたさまざまな社会経済的な問題というものに、三者が、それぞれ直面した、相互に違った新たな状況の中で、三者三様の対応をいたしました。またこれは、単に社会、経済的な問題だけにとどまりませんで、文化的に見ましても、西ヨーロッパ、ビザンツ、イスラムというものは、その三者がいずれも自分たちの文化遺産だと考える古代末期のヘレニズム文化というものと、これまた三者三様の形でかかわったのであります。

 こういった点の比較を通じまして、社会、経済の領域でも文化の領域でも、西ヨーロッパ、ビザンツ、イスラム、
三者間の意味深い類似現象(アナロジー)なり、並行現象(パラレリズム)なり、合流現象(コンバージェンス)なりが、はじめて明らかにされるわけであります。またそうしてこそ、この三者のそれぞれを他から区別する特質というものも、浮かび上がってくると思うのであります。中でも、三者がともに対処せざるを待なくなった大変大きな問題がある。それは大ざっばに言えば政治と宗教、もう少し詳しく言えば、国制原理と教義との間の調整の問題、あるいは政治と神学との間の調整問題、世にいわゆる正統と異端の問題です。これは、西ヨーロッパ、ビザンツ、イスラムがいずれも抱えていた大問題であります。こういった問題も、この三者の比較によって初めてはっきりできる。いずれにせよ、この同時代に隣合って存在していた西ヨーロッパ、ビザンツ、イスラムには、そのどこを取ってみても比較したいような現象が、コロゴロしている。もしこの三者のうちのどこかで大変おもしろいある一つの現象に出会ったとする。そうしますと、ほかの二者においても一体そういうことがあったんだろうか、なかったんだろうか。もしあったとすればそれは、そこでも同じような意味なり、重要性なりを持っていたのだろうか、とか、もし反対に見出せないとすれば、それは、一体それぞれの世界のどういう固有の原因に帰属させることができるであろうか、等々を問うてみたくなる気持ちを起こさせる、そういう素材がゴロゴロしているということです。

 以上が、ビザンツからふたたび抜け出てわれわれが取り粗まなければならないとしたときの、つまり、ビザンツに閉じこもらないでもう一回、ビザンツが歴史的におかれていた大きな場全体を思い出し、この全体的な関連の中にビザンツを戻してやらなければならない、といったときの、ヨコの、大きな、同時代的連関でありますけれども、もう一つの大きな歴史的な連関というものはタテの方向、つまり続く時代との関連にあると思うんです。ビザンツが抱え込みながら滅亡によって解決できずに、続く時代に引き渡した諸問題というものはたくさんあります。それはまた、ひとりビザンツに限りませんで、ビザンツの影響が色濃く残る南東ヨーロッパも等しく分かち持ったところの問題であります。これらの地域に現在まで長く尾を引き、その構造や精神的風土というものをいまもなお規定してやまないこれらの諸問題の解明のためには、しかしながら、狭義の歴史学だけではなく、ディスシプリンを異にした社会科学の諸専門領域というものがその境を越えてお互いに協力し合う、いわば学際的なエリア・スタディというものがおこされなければならない。その場合大変むずかしいのは、西ヨーロッパが、いわばその自己了解としてつくり上げた西ヨーロッパ中心の社会科学の諸概念というものの限界を見極め、それを、新しい対象にふさわしいように、新しく組みかえていかなければいけないという問題が、そこに待ち受けている点であります。きょうの話の最初にもちょっとふれましたけれども、一橋大学の関係者からなる研究チームがちょうど十年前に発足しまして、ギリシアを初めとする地中海諸地域の現地調査を過去何回か行ってまいりましたのも、実は、この課題ともかかわっておるのであります。


  三浦新七博士の遺したもの


 この話の初めに申しましたように、きょうは自分なりに理解した自分自身の学問研究の中身を少し話してみようということに決めたものでありますから、私をそこに引き入れた動機のようなものについては、いままで触れてきませんでしたし、いま考えた限りでも、別にその点で取り立ててお話しするような、動機らしき動機のようなものもないのでありますけれども、そういう直接の関係はないんですけれども、やはり重要だと思われ、また、このような場で、指摘せずに済ますことは出来ないだろうと思われることが一つございます。

 それは、一橋大学における三浦新七博士との出会いにほかなりません。それは、太平洋戦争が進行するさなか、すでに名誉教授であった博士が、「道義」という科目で、東京商科大学予科において毎週行った講義であります。当時予科生として私はそれを聴講する機会を持ったのでありますが、その内客は科目名とは何の関係もないものでありまし
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て、博士は、ヨーロッパの何人かの思想家をその属する民族の国民性のエクザンプルとして取り上げました。そして、これらの思想家の物の見方のタイプ、スタイルというものの考察を通じまして、世界史に登場する諸民族というものを、博士独自の国民性概念の座標軸の中に位置づけようとする、高度の緊張に満ちたものでありました。もとよりそれは、当時十八、九の一予科生の理解を絶するものでありましたけれども、講堂の舞台の上で、この大きなテーマと取り組んで格闘する博士の姿には、ホイジンガーの「ホモ・ル-デンス」におけるあの遊びの本質、つまりそれを演ずる者に取りつき、いかなる合理的説明をもってしても説明し尽くすことができないであろう情熱のとりこにしてしまう、あの遊びの本質というものがそこにありまして、それがまた、見る者、聞く者をその中に引きずり込まずにはおかなかったのだろうと思います。こうして私は学問というもの、そして歴史学というものに初めて出会うことになりました。それがこの歴史学であったということ。換言するならば、近代化という目的のために明治政府の手で日本にプラント輸入されまして、帝国大学の研究、教育システムとして講座化され、今日、マスコミの各種世界史モノとして再生産されているもう一つの歴史。歴史の大きな連続と連関というものを、古代、中世、近代、近世などと称して勝手な線引きで切り裂き、さらに専攻分野の名のもとに、一層細分化を進めるようなもう一つの歴史学ではなかったことの幸福を思わずにいられないんです。

 三浦新七博士のことに話が及んだ以上、もはや触れずに済ますことができないもう一人の歴史家がいます。言うまでもなくカール・ラムブレヒトであります。商業学を学ぶためにドイツに留学した、当時二十数歳の青年三浦の心を魅了しさって、その生涯を歴史学に向けさせることになるラムブレヒトこそ、無媒介的に事実に投入するだけで、おのずと歴史理解が成り立つと考えている伝統的ドイツ歴史学、帝国大学で手本とされたあの伝統的歴史学に対して原理的な異議申し立てを行ない、概念的武器を持って歴史認識を科学化すべきだとして、文化史的方法を提唱し、当時
のドイツの歴史学界全体を論争の渦に巻き込んだ異端児でありました。この異端児にして初めてうかがい知ることのできる歴史学の生命というものをラムブレヒトのもとで体得した三浦博士は、この貴重な生命の種を、国家の政策などとおよそ無関係に、自分一人の手で故国に持って帰り、一橋という学問の土壌にまいたのであります。

 「兄弟たちよ。異端の者たちが、何か貧弱な精神の持ち主であるがゆえに異端となる、などとユメ考えてはいけない。偉大な人間でなくて、どうして異端たり得ようか、」 アウグスチヌス。これで終わります。


  [質 疑 応 答]

 ― 神聖ローマ帝国は何故「神聖」と云ったのですか

 渡辺 神聖ローマ帝国というのはきょうは一言申しただけでありますが、ビザンツと対抗するような西ヨーロッパにおける統一的な政治体である。神聖というのは、中世の国家というものは何かにつけて神聖であるということを宗教的に根拠づけようとしました。そこからいわゆる中世において政治神学、本当の、神学としての神学じゃなく政治としての神学、これが出てまいります。神聖ローマ帝国という場合には、普通考えられている意味では、キリストの地上における代理としてのローマ教皇、これによって戴冠され聖別された、そういう皇帝というものを頑にいただく国家という意味で普通言われておるんじゃないかと思います。

 それから、構造的に見ましても中世の西ヨーロッパの方は読み書きできるのは教会関係の人だけでありまして、ビューロークラシーなんていうものはないわけであります。その点はビザンツと非常に違うところ。教会の人材という
ものを使うことなしに、国家運営がそもそもできなかった。それやこれやいろいろあるんじゃないかと思います。

 尚、神聖ローマ帝国と云う正式の国名はオットー一世の時にはまだなく、中世のうちにその名が確定したものであります。

  ローマ帝国が東と西に分かれた理由は何んですか。

 渡辺 要するに地中海全域にわたるような、東の方はいまのイランとの国境辺りですし、それから北の方はライン川とドナウ川。南の方はサハラ砂漠、そういう広大な地域をローマ帝国は支配していたため、三世紀以降非常に外圧が強くなって来ると、一人の皇帝というものが対処することができなくなってしまう。そのために行政上の便宜から分けて統治しました。しかしその場合でも、必ず主帝と副帝というものがはっきり分かれておりまして、後者は前者の代理という資格でやっていたわけです。それがずっと続いていくなかで、西と東は直面した状況も違ってくるわけで、そこに両者の関係にずれが出てくることは否めないんですけれども、しかしだからといって東ローマ帝国、西ローマ帝国というふうに国が二つに分かれたように考えるのは正しくない。

 ― ローマ帝国の皇帝は一人で他はその代理との事ですが両者の関係はどうなんですか

 渡辺 必ず両者間にコミュニケーションはありまして、オーソライズされているわけです、副帝が、主帝によって。もちろん、その点をめぐってもめることもあります。

 ―  三浦博士の講義の真意は当時の学生にとってなかなか難解でしたが……

 渡辺 三浦さんの話がわからないということはあたりまえだと思うんです。あの当時の日本人にはわからなかったと思うんです。どうしてかというと、あれはドイツ語で発表すべきものなんです。今日ラムブレヒトというものをもう一回見直そうという動きもドイツ歴史学界の中にあるくらいでして、ドイツの歴史家たちも、本当にラムブレヒトをわかっていたといいかねる。いずれにせよ、三浦先生の存在というものは、もっと世界的に喧伝する必要が大いにあると思います。大変な先生、どうしてああいうことになったのか。それだからこそ大変魅力があるわけなんですけど、大変な先生で、偶然の積み重なりなんていうことから生まれたんでしょう。そして今日に至っているわけなんですが。伝統なんていうのは貯金なんかと違いまして、大事に積み立ていけば伝統ができるなんていうものじゃないだろうということを三浦先生自ら示しているんじゃないかと思います。

 ― 三浦博士の「道義」と云う講義録は残っているのですか

 渡辺 先生は、半紙を四つぐらいに切ってびっちり書いてあるんです。あれが三浦文庫ができたときに、講義のメモとして図書館のどこかにおいてあるんじゃないかと思います。これ探してみる必要があると思いますけれども、しかしそれを編纂して何かをやるなんていうことは、だれかが一生を犠牲にしない限りできないと思います。

 ― 東西ローマ帝国の対立の現代版としてのモスクワ・ワシントンの対立についてお話し下さいませんか

 渡辺 大変おもしろいお言葉と思います。ただそれに全面的にお答えし、一言で何か言うことは大変むずかしいことと思うんです。唯しかし、ビザンツとソビエト・ロシアとの関係とか、ロシア・マルクシズムとの関係とかなんていう問題は、私の研究領域の中にもいささかかかわってくるような、非常におもしろい問題を含んでいると思うんです。たとえば、ビザンツにおける正統と異端の問題なんていうものは、ある意味では千年近く経過してもう一回あそこで繰り返されていることのように見えるときが時にあります。それからまた、芸術における社会主義リアリズムの問題なんていうものも、ビザンツにおけるイコンの権威性の問題というものと、問題設定の志向の点で非常によく似ている。芸術の社会的なあり方一つ取ってみても、そういうような気がするときがときどきあります。

 一 いわゆる「封建制」についてのお考えは


 渡辺 お答えになるかどうか知りませんけれども、封建制に関しては、封建制という概念を整理するだけでも、一生かかっても整理し切れないぐらいいろんな学説があるんですが、われわれの考えている封建制というもの、発展段階説の中での封建制というものについていえば、近代資本主義に先立つものとしての封建制という意味での封建性。
これは世界広Lといえどもヨーロッパにしかない。ヨーロッパ以外で唯一の非常によく似ていたところが日本である。それはしかし世界史の中から言えば例外ではないか。たんに隷属的な関係という、一般的な意味で広く解した封建制ではなくて、もっと厳密な意味で解して、ヨーロッパにあったようなかたちとしての封建制というものを頭に置いて考えれば、いま申し上げたように封建制というものは、ヨーロッパ以外で精々のところ日本ぐらいにしかあてはまらない、そういう歴史概念じゃないか。それもある程度までですが。この問題は非常におもしろいと思いますけれど、なぜそうなったのか。けんけんがくがく大変な問題が出てくると思いますけれど。

 ― 現代のロシア社会に根強く残っているギリシア正教とビザンツとの関係をご説明下さい

 渡辺 大体中世のキリスト教世界というのは、布教の中心がローマにあったか、コンスタンティノープルにあったかということで、大きく二つに分かれまして、いまのバルカン地域とかキエフのような南ロシア。つまりロシアの一部、いまのウクライナですが、あの地方は、コンスタンティノープルから布教されたキリスト教の地域でして、大体その西境がハンガリトン チェッコ辺りで、そこから西がカソリックになっているわけです。それは、歴史的にいろいろ紆余曲折を経た結果決められ、しかもその間には布教のイニシアティヴ争いというものもいろいろありました。この二つのキリスト教教会はなかなかコミュニケーションがむずかしいなかで、それぞれが独自の歩みをずっとしている中で大体十一世紀ぐらいまでに、同じキリスト教会といっても、その内容が相当違ったものができてしまったうえで、その世紀の中葉、ケンカわかれがおこり、それがごく最近までつづきました。それから、おもしろいのは、もっとその東に、これまた別のキリスト教教会がありまして、それは、ギリシア正教ともまた違う東方教会というものです。
これはいまでも残っているエジプトのコプト教会や、シリア、パレスティナ、アルメニアなどのモノフィジット教会、それからもっと東に来ちゃったのが、景教みたいな、中国に入ったキリスト教会でして、これらはみな、東のギリシア正教会から分かれていったものなんです。
おもしろいのは、日本との関係で言えば、ギリシア正教会の聖職者はもっぱらモスクワから来ているという点です。私、ギリシアに参りましたときにおもしろい体験をしたんです。それは、日本にもギリシア正教の信徒がいまして、聖職者が必要になる。どうするかというと、神学の方はギリシアのアテネ大学の神学部で勉強をして、それで今度モスクワへ行って得度をしてもらって、それで函館とかそういうところに行くんです。ただ現在の日本のギリシア正教徒は非常にお年寄りが多いらしいんです。若い人の間になかなか広まっていかないときいています。しかし、ある意味でキリスト教の一番古い伝統というものを持っているのがギリシア正教会です。そして、ロシア社会の中にギリシア教会の信徒はたくさん残っていて、信徒の数から言ったらば、ギリシア正教会の中に非常に大きいパーセンテージを占めるのがソビエト・ロシアじゃないかと思います。ただそういうことの正確な調査結果はないものですからわからないんです。

 一 ビザンツは帝政なのですか共和政なのですか

 渡辺 一口で言って、国家は皇帝のものじゃない。皇帝は国家の管理者にすぎない。共和政とどう違うのかと云うと、共和政でできた国家というものの観念は、ローマで言えば、レス・プブリカ。これはレパブリックという言葉の起原になるわけですが、レス・プブリカという言葉は、ローマで考えられた国家というものを非常によくあらわしている言葉なんです。レスというのは「物」という意味なんです。プブリカというのは 「プライベートじゃない」とい
意味なんです。そういう意味で、誰か特定の個人のモノではないところの公的なものとして、国家というものが一っ、客観的存在としてあって、それを構成しているのはローマの市民だというわけですから皇帝権というようなものとはそもそも相容れない。大統領を選んだというふうに言ってもいいと思います。帝政なんて呼んでいるんですが。
ただ厳密に大統領をいただく国家であれば、憲法があって、何ができるか、何ができないか、また任期はどれだけか、というようなことが、いろいろ明文をもって規定されている。ビサンツでは、そういうようなものがそういう形ではない。しかし歴史の中でいろいろ探してきますと、決して皇帝といえどもオールマイティじゃなかった。皇帝を文字どおり絶対君主のように考えるとそれは大変な間違いだということがビザンツについては最近の研究でわかってきた。
そういうことを理解しないとわからない歴史現象がビザンツ帝国にはたくさんあるということです。

 一 三浦博士に於ける「比較史」についてご説明願えませんか

 渡辺 三浦先生がお考えになっていたような形での比較史というものが、どう、いまの私たちが考えている比較史とつながるか。それはもう少し考えてみないとわからないんですけれども、ただ言えますことは、比較というのは、ただ寄せ集めて考えるときにすればいい方法という意味でならば、たくさんあると思います。しかしそういう比較の実態を見ますと、日本と中国と西ヨーロッパといったものを恣意的に集めてきて、同じところがあるとか、違うところがあるとか言っている。そういう意味での比較ならばたくさんあると思いますけれども、私が言っている、地中海の周辺の比較というものは、それ自体が他なくしては理解できないようなそういう関係にあった諸地域から成る世界についての比較であって、それは、どこかの大学のように、あれくらい専門化が進んでいるところで、研究領域と研究領域との間の壁が非常に大きくて、ほとんど話が通じないようなところでは、土台無理でしょう。だから、比較などといい出すときには、たとえば、上から、マルクシズムの発展段階説のようなものをあてはめて、それが比較だと言っている。一橋でもしやるとすれば、そういう比較であってはならないだろうと思います。それは、歴史の関連こそがまさに歴史の生命なんだということを小さいときから、一橋でいろんな先生から教わっているためです。そこから出てくる比較は、いまある比較とは大分毛色の違ったものじゃたかというふうに考えているんですが。

 ― 西ヨーロッパの合理主義的思考に対しビザンツ研究の立場からの歴史観は如何ですか

 渡辺 一橋には、非常に合理主義を身につけた西ヨーロッパ的な、ある意味でモダンな学風があり、その良さは確かに認めるんですが、やはり歴史なんかで言いますと、そういうものと並んで、そういう西ヨーロッパ的な物の考え方というものではつかみきれないものがあり、そのためにも、西ヨーロッパ中心の概念そのものを、もっと客観化してみようじゃないか、自他のけじめをつけてみようじゃないかという、そういう考え方も一つあったと思います。これはほかの領域ではよく知りませんけれども、少なくとも歴史学ではそういう考え方は非常にあって、それがひとつ一橋の特色というものであり、だからヨーロッパ産の概念をただくりかえしたり、自明だとするんじゃなくて、われわれはやはり自他のけじめをつけなさいということを先生たちから言われたことが何回もある。

 一 ビザンツとイスラム文化とのかかわり合いについて

 渡辺 ビザンツの東隣、南隣にあったのが同時代のイスラムです。そしてそういう関係の両者というものは、ちょっと申しましたけれどもいろいろな面でよく似ているところがある。イスラム文化というものの内容を見ますと、たとえばギリシアのプラトンとかアリストテレスとかの古典が、それなくしてはイスラム文化は成り立たないようなキーワトとしてそこに入っている。それをいまの人は自分の研究領域を純化しちゃって、実は本質的に重要性をもったものを、何か非常に違うものみたいに考える。

 ― ローマ帝国というものは分けられない、両方が入っているような感じがするが……

 渡辺 歴史の連関というものは、非常に重要、それがないと歴史学にならないんですね。たとえば、いま対立しているソビエトとアメリカ。第三者から見るとよく似ているわけです。恐らく後世の歴史家はそう書くだろうと思います。同じことなんですね。
                               (昭和五十八年一月十七日収録)



渡邊 金一  大正十三年 東京に生れる。
          昭和二十三年 東京商科大学卒業
          昭和二十八年 一橋大学経済学部専任講師。
         昭和四十年 同教授、今日に至る。

著    書 『ビザンツ社会経済史研究』(昭和四十三年岩波書店)
         『中世ロ−マ帝国―世界史を見直す―』(昭和五十五年岩波新書)
訳    書 マックス・ウェーバー【古代社会経済史』(昭和三十四年東洋経済新報社 共訳)
         ピグレフスカヤ他『ビザンツ帝国の都市と農村』 (昭和四十三年 創文社)
         ベック『ピザンツ世界の思考構造一文学創造の根底にあるものー』 (昭和五十三年
         岩波書店 編訳)