一橋の学問を考える会
「橋問叢書第二十二号」

   一橋と文学     文芸評論家  瀬沼茂樹

   はじめに

 一橋と文学の関係は非常に深いんですけれども、それを御存知ない方が多いと思います。
御存知の方もいらっしゃるでしょう。非常に古い昔の話からしていこうと思います。一橋の文学と言っても、学問を考えるなんていうようなむずかしいことではなくて、近代文学史をやっている者として途中で出会った一橋関係の人たちの話を御紹介するにとゞまります。このほかにも、もし文学について一橋との関係を考えるならば、英文学とか、仏文学とか、ドイツ文学とか、たとえば私たちの時代で言えば、内藤濯先生とか、吹田順助先生だとか、斉藤勇(タケシ)先生とかいうような人たちがあって、そして最近亡くなった海老池俊治さんまで続いている英文学の系統とかいうものを考えることも、また学問の考え方として必要だと思うんですけれども、
私は、私が文学史を勉強しているかたわらで、一橋の人がその中に登場してくるのを拾い上げてお話しする。したがって文学史にもならないんですけど、本当ならもっといるはずです。
というのは、俳句、短歌にはたくさんいるはずですけれど多すぎて、これは私にはわからないです。それで新体詩どまりとなります。

   近代文学草創期と一橋人

 一橋の人間が近代日本の文学の創造に関係したのは意外に古くて草創のときからであった。
草創のときというのは厳密に言えばいろいろ議論がございますけれども、尾崎紅葉の硯友社の設立に関係している。

 しかも山田美妙とか石橋思案とかと共に硯友社を創立した同人がおります。

 それは丸岡九華です。本名は丸岡久之助。一橋の学生時代に大学予備門の生徒だった尾崎紅葉と関係して、そして硯友社をつくるわけです。明治十八年二月に紅葉、美妙、思案、
九華、こういう人たちが硯友社を創立した。そのときに創立同人の仲間としているわけです。

 硯友社のことは、それぞれ福田清人、伊狩章という人の研究がありますので一般的な説明はいたしません。
 ただちょうどその当時、大学の予備門に紅葉や美妙や思案が学んでいた。大学の予備門と一橋とは向かい合わせだったわけです。付き合いがあるわけです。外語がすぐそばにある。その当時から関係があって、丸岡九華は初めは大学予備門の学生なんですけれども一橋にかわるわけです。
 それは久我順之助という同級生も同時位にかわります。この人も硯友社の創立同人に関係あるんですけれども、事績がちょっと見たところではわかりませんのできょうはお話しいたしません。学生時代に硯友社を組織して、そして硯友社の文筆活動をやったわけです。

 丸岡九華は卒業すると実業界に入って文筆を絶ってしまいます。そのために学生時代のものがわれわれの文学史に目にとまるわけです。草創時代ですからことに目にとまるわけです。稿本に「初蛙」という思い出があるんです。その「思い出」は研究資料として大事なものですが、これは『早稲田文学』の大正十四年六月、七月、大正十五年四月に三回に分けて「硯友社活動の追憶」という題で発表しております。「初蛙」の全体の構想はわかりませんけれども、大体のところは『早稲田文学』に発表した部分によって悟ることができるわけです。

 それによりますと、丸岡九華は明治十五年、十六年ごろに漢詩文中心の「文友会」というのを組織して、そして毎月集まって批評したり発表したり、遠足したり、昔の呑気な文人らしい生活をしていたわけです。それが演説を主旨とした「凸々会」を組織して、また一年足らずで硯友社に変わるわけです。つまりそういうわけで硯友社を起こした詳しいことが「初蛙」 の 「硯友社創立時代の思い出」に書かれております。硯友杜というのは、初めに文章の発表、楽しみをする関係からして『我楽多文庫』を回覧雑誌として出します。その内容から文学史に入っていくわけです。

 『我楽多文庫』は初め、手で写した筆写本を回覧する。それから、印刷して非発売本に成長する。それから、発売時
代があって、後に¶我楽多』を取って『文庫』時代がある。大体十八年五月から二十二年十月まで約五年間続いています。初めの筆写本は、古書の蔵書家として有名な慶応の勝本清元(故人)が二冊持っている。現在二冊残っているわけです。後は復刻本が出たりなんかして、非売印刷本から後は複製本ができたりして大体の内容を知ることができます。

 九華は初め大学予備門に学び、外語のフランス文学科に学んでいた久我順之助と一諸になって一橋に移ります。そして『我楽多文庫』に、九華やいろんな名前を使って小説を発表する。あるいは詩を書いていた。
小説には男女学生の風俗を書いた「散浮花」、探偵小説に「移春檻」があり、戯文、美文でありました。本領は新体詩でありました。
硯友社の詩人として知られています。

 日本の新体詩は、皆さんも御承知だと思いますが、東大派の外山正一・矢田部良吉、井上哲次郎が明治十五年七月に出した『新体詩抄』に始まることになっています。これもいろいろと学問上はむずかしい問題が起こりますが『新体詩抄』に始まると申します。これに対抗して山田武太郎(美妙)が『新体詞選』というのを明治十九年八月に出します。四六版半裁くらいの詩集を出します。この詩集には大体『我楽多文庫』の筆写本時代に書いたものが集めてあるわけです。皆さん御承知だと思うのは、美妙の『戦景大和魂』というのです。中身を言えば御存じのはずです。「敵ハ幾万アリトテモスベテ烏合ノ勢ナルゾ」、あの軍歌です。あれが『新体詞選』に載っています。九華も『新体詞選』に十編ばかり載っています。大体『我楽多文庫』に発表したもので、『新体詩抄』が大体軍歌調が多かったように、『新体詞選』も軍歌調が多かったんです。これはわれわれの研究の結果として、外山正一たちがアメリカに留学した当時ちょうど南北戦争の終わった後であって、その南北戦争の影響を受けて軍歌調が入っている。したがって山田美妙の『新体詞抄』の方も西南戦争その後の自由民権運動も関連して軍歌調の影響を受けています。

 九華は、「士卒の夢」「仏国革命歌」「仏国皇帝ルイ十六世断頭台の段などというようなフランス革命に関係のあるものを書いています。フランス革命詩のようなものは、ちょっと中身を簡単に言ってみますと、「国ノ光モ自由ノミ、民ノ声モ自由ノミ、天ノ我等ヲ作リシハ、人ノ上ナル人モナク、人ノ下ナル人モナシ」というような文句です。どこかで聞いたことがある言葉です。つまり福澤諭吉の『学問ノススメ』を口写しにしたようなのを詩に写しています。こういう種類の叙事詩が多くつくられています。九華はその後も公売本の『我楽多文庫』に「東西四季ノ弁」というような、上野付近の四季を写した七五調の歌、あるいは九華の仕事として今日先駆を勤めたものとしては劇詩があるんです。当時戯曲はシェークスピアもみんな劇詩の形をとっているわけです。芝居というものは劇の詩、詩形を調えた芝居でやるべきものだというのが普通の人の考えであったわけです。九華はその劇詩をつくった最初の人と認められています。普通は北村透谷の「蓬莱曲」などを言うんですが、それより早く「狂フ風、狂フ花」というようなロマンチックな悲恋の物語を三幕五場の芝居につくっています。わが国で最初の劇詩としてその名を忘れることができないんじゃないかと思います。先駆者 ― 初めてやる人はいろんな形をやってみるものですが、九華もいろんな詩の形をやって先駆者らしい面目を施しました。卒業してから高田商会に入って筆を絶ちました。紅葉の批評によると「この人は小説も書けば新体詩も書き、すでに素人ではない」と評しています。とにかく近代文学史上草創期にわが一橋の関係者がいたということは、久我順之助の名前とともに忘れられないのではないかと思います。

 もう一つ、皆さん御承知のとおり二葉亭四迷があるわけですが、二葉亭四迷は外語が東京商業学校と合併になったときにやめます。籍は東京商業学校に暫くあったけれどもやめましたから、ここにはお話を略します。

 丸岡九華に次いでー橋出身の詩人として詩史の上で記録されているのは、明治四十五年に「夜の葉」を出した森川葵村です。本名勝次。これは御承知の方がいるんじゃないかと思います。一橋の学生であった時代に『文庫』という投書雑誌に投書して、明治の詩人として有名な河井酔茗たちに知られて、明治四十年に河井酔茗が起こした詩草社の同人となって、いろいろな批評を書いたりなんかします。処女詩集『夜の葉』は六部百十四編からなる詩集です。だれでもそうなんですが、習作期の詩というものは、つまり学生時代の詩ですが、どうしても他人の影響から抜け切れない。葵村の場合には、デェメール、ブレーク、ヴェルレーヌ、エドガーアラン・ポーなどの詩の影響を受けて、そっくりの、この詩はここからきたなとわかるような詩を発表しております。イェーツの詩を象徴詩に学び、またアーサー・シモンズの「ロンドンの夜」を訳出して『倫敦紅燈集』を出しています。これみんな学生時代です。シモンズの象徴詩の影響を受けていることが大いにわかります。詩句や詩想にはシモンズの影響からきたものがはっきりわかります。日本では蒲原有明、北原白秋、上田敏の「海潮音」などの影響を受けています。葵村が東西の詩人の模倣を残したとしても、いま申しましたように、習作時代のだれでも、私たちも、真似ることは学ぶことですからそこから始めているわけで、決してとがめだてして言っているわけではないんですが、そこから出て独自性をだんだんと発揮していくわけです。この意味で葵村は日本では三木露風の感化が著しく、たとえば「声」という詩がありますが、「ホノ白キ蠱(マジ)ノ手ヨ ワガ胸二何ヲタヅネル」というような詩があります。これは露風の有名な、「アア君ガ白キ手ノ猟人ヨ 君ガ手ハ何ヲカ探リシ」といった詩の影響だと思うんですが、こういうように、処女詩集『夜の葉』は独創性が乏しい。他人の詩の模倣が多いんですが、しかし近代詩が育っていく上でこのような西洋の詩人や同時代の人から感化を受けて象徴詩の成立ということの上に大きな貢献をしている。重要な一歩を残しているということはやはり強調しておいていいんじゃないかと思います。

 葵村は一橋を出ると三井物産に入って詩筆を絶ちます。独自性を十分に発揮できるまでに至らないうちに詩筆を絶っています。しかし『夜の葉』は東西の詩人がどういうふうに日本の詩人に影響を与えて、そして独自性を生んでいく
かということを示す一つの手本として、日本の詩の歴史の上で大事な作品だと言われております。森川葵村は晩年には秋田に疎開して、戦後の昭和四十年に『雪の言葉』というのを久し振りに自家出版して、そして死にました。しかし私は『雪の言葉』を見ておりませんのでどういうものかわかりませんが、とにかく一橋出身の現代詩人として森川葵村が最初に詩の歴史に名前をとどめる者ではないかと思います。

 三人目は、森川葵村より少し遅れて、詩人らしい詩人として出てくる北村初雄です。お父さんが三井物産の横浜支店長北村七郎で、その長男です。中学生の時代から三木露風の教えを受けて、中学を卒業するに当たって、『吾歳と春』という詩集を記念に出します。それに師であった三木露風の序文が付いていて、初雄が中学から一橋へと育っていく過程がわかる。青年らしい青年である。「香ばしい青年」だというふうに言われています。いままで挙げてきた二人に比べて、北村初雄はナイーブな情感で青春を生かして歌った詩人として一般の詩史の上で名前が大きい。自然と生命とを呼吸して驚き、そして全我を傾けてその記録をしていくという意味でなかなか意味があったんじゃないかと思います。三木露風や永井荷風や堀口大学なんかに教えられた痕跡が見られます。しかしこの処女詩集は早くから先輩詩人の間に知られた詩歌でした。一橋に入ってからはフランスのポール・フォール、マーテルリンク、リルケなど近代詩に親しんで、外務省にいた柳沢健に師事して、合同して『海港』という詩集を大正七年に出しています。
どうも詩の話というのは話しにくいし書いて見せないとわからないんですが、とにかく『海港』には「落葉の羅針」というような十一編の詩を出している。彼は詩人らしい感性を持っていることを表明しました。

 大正九年に第二詩集の 『正午の果実』を自家版で出します。これが有名な詩集でして、最初の 『吾歳と春』なんかなかなか手に入りませんけど、『正午の果実』は時として手に入ることがあります。詩をつくることを自分の生きることと結び付けて詩の中に自分を打ち込んでいった。青春は人生の春であるとともに一つの生き方であるということを、従来の伝統的な歌い方から離れて、また幻滅の悲哀だとか若老の嘆き、そういうものから離れて、快活に明るく、青春の希望や太陽というようなものに飾られている青春を歌った。西洋の詩に現われる子供らしい憧れも歌った。まさに『正午の果実』は空想のおもむくままに、いかにも青春の若々しい生命を歌っているという意味においてわれわれの感動を惹くものであります。

 大正十一年に一橋を卒業した記念に早稲田の方から、第一の詩集『吾歳の春』と第二の詩葉『海港』とをあわせて『正午の果実』をもう一度出版しています。それは流布本で比較的に手に入りやすい本です。「コノ明瞭(アキラカ)ヨ コノ素直サヨ 眼二見エヌ一色ガ 光ヲ越工 己レヲ現ハシテイク ソノ力 色ハ融ケ 色ハ溢レル 生々シサヨ」というような詩があります。つまり青春の生命の喜びを素直に明瞭に歌った詩がおもしろいものが多いんです。北村初雄は一橋を卒業すると三井物産に入ります。大正十年のことです。しかし間もなく、多分結核にかかったのだと思うんです。翌年二十五歳の若さで死にます。『樹』という自家版の遺稿集が出ています。それには柳沢健や日夏耿之助の序文が付いています。『樹』を見ますと、いままで青春を素直に朗らかに明らかに歌っていた北村初雄が、だんだん詩を内観的に見るようになって、いわゆる内部生命に向かっているということが認められて成長のあとがはっきりしてくるわけです。惜しい若き詩人を失ったものと、私たちは後輩としてこの北村初雄の死を悼みたいと思います。もぅ少し命があったらば一家をなした大きな詩人となっていたかもしれない先輩を、われわれは持つことができたんだろうと思います。

 私の気の付いた、私たちよりも前の一橋の文学者は、丸岡九華、森川葵村、北村初雄の三人の詩人です。恐らく和歌や俳句についても多勢あるには違いないんですが、何しろ和歌や俳句は出身を調べると、一流の歌人や俳人についてはわかりますけれども、なかなか簡単にわからないので、それを調べるというのは大きな仕事になると思います。1011

もしここでやれば、あるいはそういうのが出てくるかもしれませんが、御承知のとおり俳句と和歌は結社があって、結社の間の争いが大変であって、なかなか素直に人の歌を認めることをしないし、相互に、おれの方がいいということをやっていますから、なかなかむずかしいんです。私は一文学史家としてそこまで手が届かない。つまり、詩歌、歌や俳句の中から一橋の筆者を探し出して、その人たちの値打ちを皆様に御報告するだけの余裕というか力がない。ここまでは私たち以前の話です。

   昭和年代に於ける一橋の文学 ― 特に伊藤整について

 さて私たちの時代についての話をさせていただきます。私たちは関東地震の年に一橋の予科に入りました。ですからー橋のここにあった旧校舎は、九月に来てみると焼け残っているところだけしかみられません。本科はバラックに、したがって予科は江古田に移っていた時代です。いまの組織と違って一橋会があって予科会、本科会があって、予科会には学芸部、本科会には文芸部があったわけです。私たちは一橋の文学を大正デモクラシーの中で受け継いだわけです。予科で、一橋予科会雑誌を文芸雑誌にしてしまって、そして八号事件というものを起こします。みんなに弾劾されたわけですが、しかし結局はずるずるべったりでその伝統が残って後へ引ついで行きますし、本科では上級生が、「一橋の鐘」を出していたのを、その「一橋の鐘」を『早稲田文学』や『三田文学』に対抗する『一橋文芸』にしよぅということを言って、『一橋文芸』を誕生させます。私たちの同級生、佐倉潤吾・刈田儀衛(筆名葛川篤)、二人とも故人になりましたけれども、三人組で一橋から文学者を生もうという運動を起こします。これは一橋がその当時総合大学化しよぅとしていたのと、一橋におけるデモクラシーの運動と結び付けようとした者だと、私たちは身勝手ですが、考えます。私たちの時代の思い出を話していると手前びいきになってしまいますので、私はそういう二人の友達も亡くなっ
ていますから、そういう話は私の書いたものの中にもありますから、それに譲って、私たちと同期生、同年ぐらいのところから出てきた二人の詩人、作家の御紹介をすることになるわけです。

 一人は、御紹介するまでもなくかの有名なる伊藤整であります。もう一人は北町一郎であります。北町一郎は昭和七年卒業ですから私たちより三年ぐらい遅いんですが、まだ丈夫です。しかも現在の文壇の中で一緒に働いています。文壇にはむずかしい著作権の問題がありますが、著作権保護同盟の理事として私たちと一緒に働いています。これは財団法人です。日本人には人の知恵をただで借りるという悪習があります。それを外国人並みにちゃんと著作権は著作権として守る。弁護士の相談は ― すべて人の知恵を借りたときには有料だという考え方を植え付ける運動をやっているわけです。

 北町一郎は本名は会田毅、また別名簇劉一郎というむずかしい名前を付けております。在学中から詩歌の運動をして、昭和三年には詩集「手をもがれている塑像」をすでに出版しています。しかし私は見ていません。短歌の方面では革新運動をやっています。つまり伝統短歌に対する新興短歌の運動が盛んになった。大熊信行さんや大塚金之助さんがアララギ派からかわって、最近出した詩集の後の方を見るとなっている。そういう新興短歌の方の一つの担い手として活躍しています。そして学校を卒わると同時に、いまはなくなった、
都河(つかわ)龍のつくった『婦女界』という雑誌の編集部に入り、後に編集長になって、やがて『婦女界』に小説を発表します。私の記憶している限りでは大体がユーモア小説です。それから野球小説もあります。実はこの会に来る前に北町氏に会って、自分で自分の経歴を紹介してもらおうと思っていたんですが、だんだん遅れて、最後にこの間の会合に出てこなかったものですから聞くすべを失いました。昭和の初めに起こした文学運動の中でいま残って文壇に活躍しているのは、北町一郎と私だけになってしまったわけです。北町一郎は詩歌、小説の方で、私は半分学者に足を突っ込んだような評論家の仕事をやっています。

 ここで伊藤整の話をするわけですが、あと十五分ぐらいの間にやるというのは大変むずかしいですが、できるところまでやってあとはまたの機会にすることにしたいと思います。

 伊藤整は私と比べて年が一っ下です。私は辰年ですが彼は巳年です。小樽高商を出て二年間小樽中学で先生をして、そしてお金をためて一橋に入ってきます。一橋へ入ってきたときは私が卒業する年で、私とちょうど一年間学校で一緒になって、ゼミはフランス語の内藤濯さんのプロゼミナールに入っています。

 伊藤の出発点はやっぱり詩であったわけです。伊藤は小樽高商に入って小樽にいる時代に、いま小樽市の一部になった海村に住んでいたんですが、『雪明りの路』というのを大正十五年に、学校でもらったボーナスで自家出版したんです。そして詩人としてその名前が一部の人たちの間に知られます。詩集にはそのほかに『冬夜』というのがあります。昭和十二年出版です。この『雪明りの路』と『冬夜』を結んで『若い詩人の肖像』という自伝小説がありますが、北国で詩を書き始めたことから文学に入って行って、その詩を彼の文学の原型として、そして伊藤文学の将来をつくり出していく態をなしています。

 詩人としての伊藤整はどうだったのか一口に批評してみよといわれるとこれは大変むずかしいんですが大体アーサー・シモンズやイェーツに学んで象徴派の影響を受けるわけです。さっき話した詩人たちも象徴派の影響を受けていますが。自然主義の盛んなころに象徴派が出てきます。その象徴派の影響を受けてサンボリズムの運動です。シンボリズムの運動です。アイルランドではない北海道という日本の北辺の地の美しい雪の明りの中でどういうふうに自分を耕したか。自分の情感を支持したか。吹雪や雪解けや、一度に萌え出る若草や、蛙の声や落葉松の葉や、海や、秋の空や、村人の生活や、北国の乙女たち、そういう北海道の現実を煮詰めた。前の三人はみんな文語詩ですが、口語詩でつくった。自由詩の運動の中に育っていきます。そして、詩とは情感が純粋に結晶したものだというのが伊藤の考え方の中心にあります。伊藤の自由詩はそういうようにして、北国の風土や自然の中で自分を純粋に耕して北国の民話や、青春のさまざまな思いを純粋に歌い込んでいった。そしてこのころの象徴詩とかイマジズムの詩というのがありますが、それは人間の心の内部にある潜在意識に関係を持っている。潜在意識の奥深く入って人間の心の底に潜んでいる何ものか、あるいは人間を人間たらしめているものは何かを詩の直感によってつかんでいくというむずかしい仕事をやっていったと思うんです。近代詩人の新しい生き方であって、D・H・ロレンスやフロイトやジェームズ・ジョイスの『ユリシイズ』がやったところを歩いた。つまり二十世紀文学と言われるものの方向に一歩進めた。

 私たちの運動を言えば、私たちの運動はまだ自然主義の運動、あるいは白樺派の運動が残っていたんですが その自然主義の運動や白樺派の運動を抜け出て次の世代。日本の文学運動で言えば新感覚派の運動。川端康成や横光利一たちの新感覚派の運動。そういう新しい詩の運動、新しい文学の運動に向かったわけです一方ではマルキシズムの盛んな時代です。彼の小樽高商では小林多喜二が上級生にいたわけです。小林多喜二のマルキシズムの運動を片方に置いて、そして片方にフロイトの運動をみる。簡単にいえば人間をマルクスによって外部から攻略するか、フロイトによって人間を内部から極めるかという二つの方向の対立の中に立たされた時代です。彼はフロイトによって内部から行く運動に行きました。そして新心理主義と命名されて、まず理論家として彼は名前を挙げます。

 そして作家としては『街と村』というのを昭和十四、五年ごろに、『幽鬼の街』と『幽鬼の村』との合本で出し
ます。ふるさとのことを書いて自分がマルクスと対決した近代人の悩みを奥深く追求している、そういう半分詩的な散文であらわした『街と村』で注目されるようになります。それから、『青春』とか『典子の生き方』とか、あるいはイギリスのローレンス・スターンの『トリストラム・サンディの生涯と意見』という十八世紀の小説に倣って、『得能五郎の生活と意見』、その続編である『得能物語』と題する小説を書いて注目されました。

 太平洋戦争時代の日記が新潮社から三冊になって、来月くらいから出ます。その太平洋戦争時代の日記は太平洋戦争が始まると同時に記録としてつけ出したんですが、それの裏側にある、或いは内部にある人間の生活、それが『得能五郎の生活と意見』。つまり空地を耕作したり、物を買い込んだり、町歩きの形から戦争のだんだん緊迫していく太平洋戦争の始まるところまで書いてあるわけですが、その太平洋戦争の始まる時代の小説と裏腹として読んでいただくとありがたいと思うんです。

 戦後は『小説の方法』という評論と『鳴海仙吉』という長編小説とで出発します。『小説の方法』は、日本と西洋の小説の違い。両方の形式としての違いを明らかにします。有名な「仮面紳士」と「逃亡奴隷」という言葉が出てきます。「仮面紳士」というのは、イギリス人は紳士のような顔をして暮らしているけれども内面にはさまざまな慾望や罪を背負っているんだ。だから仮面をつけて生活しているんだという意味から来ているわけです。西洋の本格小説はそういう「仮面紳士」の所産である。ところが日本の文学は「逃亡奴隷」の文学だ。日本の社会からはじき出されて、そして文壇という世界に逃げ込んだ奴隷のような自主性のない人たちの文学だ。それが私小説なんかにだんだん結実していくんだという新しい小説理論。伊藤の公式、伊藤の理論ができ上がるわけです。ただそれだけではありませんけれども、同時代の平野謙と対立して、平野謙の公式に対して伊藤整の理論というところから、理論家としての伊藤の独自性のあり方がわかります。そんなにむずかしい本ではないので、ただ伊藤は一人合点の言葉で書いているところがあって、客観的に読むにはむずかしい。大学で文学概論の教科書に使われていますから。皆さんお暇なときには、文庫に入っていますから、日本の文学の理論的な新しい理論を立てたんだという一つのものとして見ていただきたいと思います。

 『鳴海仙吉』は、戦争中の『得能五郎』に匹敵するものです。ただ『鳴海仙吉』はジェームス・ジョイスの『ユリシイズ』のマニエルをもって書いていますから、詩や戯曲や小説や講演や感想や何かが一編の小説にまとめられております。これは皆さんもよく御承知の、戦後民主主義における、文壇におけるマルキシズムの進出に対する伊藤整の、自分の新心理主義と言われた、外から人間を攻略するか、内から人間を攻略するか。人間の本質は何か、人間を究める。文学は人間学ですから、人間とは何ものか。どういう存在であるか。複雑な存在の根本を究める問題で、それを内面から究めるのをさまざまな形のジャンルの小説を使って書いた、わが国におけるジェムス・ジョイスの『ユリシイズ』に匹敵するものだと言ってもいいんじゃないかと思うんですが、そう言ったらドナルド・キーンに、ジョイスの方がもっと深い思想があるというふうに攻撃されましたけれども・ドナルド・キーン氏の深い思想というのは恐らく神に結びつく思想だと思います。神に結びつく内在神の信仰に結びついたから深いということも言えますけれども、内在神の信仰の問題のほかに、そういう人間を内部的に突き進んでいく究めていく。そういう問題としての文学が生まれてきたんじゃないかと思います。

 伊藤は御承知のとおり、ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を訳します。レディ・チャタレイズ・ラバー。レ
ディだから貴族の夫人と鉱夫との情事がとりあげられます。『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳で、刑法第百七十五条によってわいせつ文書の出版とみなされて、いわゆるチャタレイ事件に巻き込まれます。これは戦後間もないことでGHQの存在していたころ、GHQの翻訳権を通さないで、つまり著作権の問題に引っかかってくるんです。それでァメリカとイギリスとの対抗があって、GHQから問題を出されたような気配があるんです。あんまりこんなことを言っては裏話を暴露することになっていけないんですが。チャタレイ裁判で伊藤は奮斗します。つまり表現の自由の問題と検閲の問題。簡単にここで言えるとすれば、伊藤が自分で書いている『裁判』という小説があります。第一審の模様をそっくり書いてあって、そのころまだいまよりもっとある意味では自由であって論戦が戦わされた。その論
戦のありさまが書かれているわけです。伊藤はその当時東京工業大学の教授ですが、わいせつ文書で訴えられても第一審は無罪、二審以下十万円の罰金ですけど、東京工業大学は伊藤を抱き抱えていて放さなかったわけです。

 『チャタレイ夫人の恋人』をお読みになった方がいらっしゃると思いますが、チャタレイ夫人の恋人が鉱夫ですから、鉱夫の英語が出てくるので非常にむずかしいんです。これもさっきからしばしば言ってきたことですけれども、現代の一方の考え方は、人間の内部から調べていけばその根本に絶対なるものにぶつかる。その絶対なるものは神であるかセックスであるか。人間を人間たらしめているものが何であるかという問題にぶつかってくるわけですが、そ
ういう意味でセックスを思想としてそれを考える手段として、人間が生物である以上は当然ぶつかるわけです。それをどこまで表現する自由があるかという問題とぶつかるわけです。『チャタレイ夫人の恋人』をお読みになった方はわかると思いますけれども、このごろはやっているセックス小説とは大変違うわけです。このごろ週刊誌をお読みになっている方がいらっしゃって、露骨なセックス描写の小説なんかお読みになっている方がいらっしゃるかもしれないけれども、現代の性文学は青年を描いているんですが、あるいはもう少し露骨な老人の問題に関係している、そういうセックス小説があるわけですが、それとは意味が違って、セックスを描くにしても、人間を考える上において男性と女性と存在する以上は、セックスを考えないで人間を考えるわけにいかないということが、そういう根本の問題に立ち入っていこうとするところがあった。
 これから簡単にしてしまいます―『裁判』をお読みになるとわかりますが、裁判で知ったこと。それからチャタ
レイに遭った、工業大学で英語の教授をやりながら知ったこと。つまり社会と個人の問題。組織と人間の問題。その中にある人間の自由の問題、管理社会の問題。そういうものを後で伊藤整は考えざるを得なくなってくる。それを人間の本質から考えていった作家であると思います。

 最後の三部作が残っていますが、『氾濫』『発掘』『変容』ですが、伊藤はチャタレイ裁判によって有名作家になった。流行作家になった。そうしたらそれにしたがって生活の仕方が膨張していく。交友や家族やなんかもいろんな欲望が出てくる。また、僕もよく知っているんですけれども、遠い縁人が頼っていろいろと都合のいいことを持ち込んで来る人がいる。そういうような氾濫状態になった人間の生き方を書いているものです。つまり流行作家となって生活の膨張、それに伴う家庭関係の変化。交友や知人の氾濫状態を『氾濫』に書いている。
 次の『発掘』は生前には本にしなかったんですが、私が代って本にしました。それは老人になって健康問題になってきて、最後の心配は癌の問題ですが、肺癌という死病につかれた実父の問題。それから岳父の老衰、私生児の自動車事故というようなさまざまな要素を書きながら、その品行上の罪と罰がどういうふうな帳尻になってくるかということを追求した小説です。

 『変容』は、僕よりもう少し若いお年寄りの方が、忘老年とは何かという問題について追求していく。岩波文庫で最近出ましたから御覧になれると思います。彼は六十五ぐらいで死ぬんですが、自分の晩年に窺い知った老年の問題を、生の姿を変えていく形としてだんだん老年になってくる。本当の人生の姿というのは老年になって本当にわかるのではないか。老年の栄光、老年の新鮮な意味を追求したことにあると思います。

 彼は一方において、理論家としまして『小説の認識』とか『求道者と認識者』というような文学理論を立てています。それから、『日本文壇史』十八巻を書きます。『日本文壇史』十八巻は九巻ぐらい出版してありましたが、後の九巻は彼の原稿を整理して十八巻に整理しました。それは明治四十二年ごろまでですから、私は、伊藤をイギリス文学との関係で日本の漱石だというふうに考えていますから、その漱石の死ぬ年(大正五年)までの六巻分を書き足しました。それで二十四巻になっています。これは講談社から出ています。

 彼には晩年にもう一つ大きな仕事があります。それは『若い詩人の肖像』 で自分の青春時代を書いたとともに、『年々の花』という小説を書いて、父親が日露戦争に出征して二〇三高地で負傷して帰ってきてから死ぬまでの経歴をたどった。これは戦争中の作品と交錯してきますから、そこで新しいそういう戦争の問題を父親に借りて考えたと言ってもいいと思います。そういう『年々の花』という小説があります。他に僕が傑作だと思う「火の鳥」もあります。

 これで大体伊藤整のやってきた仕事のあらましを非常に粗く、私流に勝手に、あんまり十分整理もできないでお話ししたわけです。

 さて戦後になりますと一橋も文壇人を生み出し、まだ現役で働いている五人がいます。一人は、昭和五十年に自殺した村上一郎です。昭和十八年の卒業です。それから、桶谷秀昭。昭和三十年卒業です。この二人は評論家として活躍しています。この二人はほぼ同じルートから出てきて、いわゆる安保闘争期と言われる中から、自分をどういうふうに解放していくか。その苦労を書いています。私はこの二人を組織的に勉強していませんから、ただこういう二人がまだいるんだということを御紹介するにとどめます。

 あと三人の作家がいます。これは言うまでもなく昭和三十年卒の石原慎太郎と昭和三十一年卒の城山三郎と近年登場してきた田中康夫です。石原慎太郎は、戦後世代の反抗的なアンモラルな心情を表面から突きつけた『太陽の季節』で、芥川賞になり、太陽族という流行語を生んだ。そういう青春小説に出発して一種の社会小説に手をつけ、自民党の代議士になっています。

 城山君は、海外商社員の生活を書いた 『輸出』及び総会屋という視点から、企業の裏側、企業悪を書いた 『総会屋錦城』などで直木賞、文学界新人賞をもらって出てきて、今や盛に経済小説や実業家を採り上げ、その方のベスト・セラーで知られています。田中君については改めて申上げるまでもないでしょう。

 村上は死にましたけれども、一人の評論家と三人の作家はいま現に盛に仕事をしていますし、これは戦後のことですから、桶谷君にでも頼んで戦後の総括をやってもらったらいいんじゃないかと思います。

 私の粗っぽい文壇史の勉強に見られた一橋の文学者、一橋と文学との関係は以上の通りですが、「一橋の学問を考える会」には別に関係がない思うんです。そういう変わり者がいたということを御報告して終わります。
                                           (昭和五十八年六月十六日収録)




瀬沼 茂樹 明治三十七年(一九〇四年)生まれ、東京。、鈴木忠直(本名)、
        昭和四年(一九二九年)東京商科大学卒。
        現在文芸評論家、日本近代文学館専務理事(元大正
大学教授)(文学博士)

 主要著著 昭和八年「現代文学」(絶版)(「昭和の文学」として河出書房より、また冬樹社より)、
        同二十四年「近代日本文学のなりたち」(河出書房)、
        同三十四年「評伝島崎藤村(実業之日本社)(後、筑摩書房)「近代日本の文学−西洋文学の                 影響」(社会思想社)、
        同三十五年「現代文学の条件」(河出書房)、
        同三十八年「近代日本文学の溝造」全2巻(集英社)、
        同四十一年「戦後文学の動向」(明治書院)、
        同四十五年「夏目漱石」東京大学出版会)、
        同四十六年「伊藤整」(冬樹社)、
        同四十七年「展望・現代日本文学」(集英社)、
        同四十九年「明治文学研究」(法政大学出版会)、
        同五十年「作家の素顔」(河出善房)、「戦後文壇生活ノート」(上下)(河出書房)、
        同五十四年「日本文壇史」(十九一二十四巻)(講談社)第三十回読売文学賞受賞、
        同五十五年「大正文学史」(講談社)(現代日本文学全集のうち)但し近く独立刊行される。
 
 随  筆
 昭和四十六年「仮面と素面」(冬樹社)
       昭和四十八年「龍の落し子」(時事通信社)