一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第二十三号]   福田徳三の社会政策論    一橋大学社会学部教授 菅 順一


    まえおき

 初めにお断りを申し上げさせていただきます。本日はあらかじめ「一橋社会政策論の伝統」という論題を与えられておりましたので、一橋におきます社会政策とその関連領域の研究教育に携わってくださいました歴代の諸先生の学問的な業績を、明治期から大体昭和の二十年代くらいまで概観する予定でおったのであります。しかし時間的に非常に無理なことがわかりましたので、きょうは勝手でございますが、お配りしたほんの目次程度のレジメに書きましたように、福田徳三先生だけを中心にして伝続形成の出発点だけにとどめさせていただくことを、御了承いただきとうございます。それ以後のことは、私のような抽象論でも、もしもう一度やれという御意向がございましたらば、改めて次の伝統の継承発展過程を、扱わせていただいてもよろしいのでございますが、きょう一度でこりたという方も多いかも知れませんので (笑)、その辺は適当にどうぞよろしくお願いいたします。

 次に前置きといたしまして、一橋におきます社会政策という講義の発端、最初の担当者ということから話させていただきたいと思うのであります。この社会政策という名称の講義は、東京高商が東京商大に昇格しました大正九年に設けられまして、その最初の担当者は福田徳三先生であったのであります。ただし社会政策という科目に実質的に相当します講義内容のものは、これよりもずっと以前から、経済学とか経済政策、あるいは工業政策という講義の中で、実質的に講義されていたと見られるわけであります。特に明治三十五年には、専攻部の講義の中に工業政策が設けられており、関一、佐野善作、福田徳三の三先生が分担担当しておられたのであります。その後工業政策は主として関先生一人が担当されることが多かったようでありますが、大正二年に関先生が辞任されましてから以後は、やはり福田先生が跡を継いでおられます。

 関先生の工業政策といいますのは、大著『工業政策』上下二巻(上巻は明治四十四年、下巻は大正二年に刊行) の下巻を見ますと、全巻とも労働問題と社会政策に関する著作であります。実質的に後半部分は完全に社会政策の講述であったということであります。そのほか一般にわが国の工業政策に関する初期の労作を見ますと、大抵工業労働者問題を扱うのが通例となっておりました。そういう意味で社会政策とは工業政策の中からやがて独立して別個の領域を形成するようになってくるのが、一般的な沿革であったのであります。

 このようなわけで、一橋における社会政策並びにその前身としての工業政策の担当者という意味でも、また後から申し上げますが、日本の社会政策論の本格的学説の開拓者という意味でも、福田社会政策論というものを伝統形成の代表者として取り上げさせていただきたいと思うのであります。

 そこで中に入りまして、私といたしましては、福田先生の社会政策論の発展段階を三つの時期に分けて紹介、検討いたしたいと思います。


    (1) 生産政策的社会政策論

 第一は、私流の表現でありますが、生産政策的な社会政策論という時期であります。福田先生は、明治三十一年から明治三十四年に至る間留学なさっておられましたが、ドイツでは主として歴史学派のカール・ビユツヒァーとルヨ・ブレンターノに師事されたのであります。当面の主題である社会政策論に関しましては、この時期はブレンターノの生産政策的な社会政策論の祖述者であったと見られるのであります。

 そこでまずルヨ・ブレンターノの簡単な解説から始めなければならないわけでありますが、それにはもう少し他のドイツの社会政策学者の輸入をも含めまして、日本におきます社会政策論の端緒をごく簡単に一瞥しておいた方が、後からの説明に便利かと思いますので、そのような紹介をちょっとここで挿入させていただきたいと思います。

 日本の社会政策論は何よりもまずドイツ歴史学派を中心にして、一八七二年(明治五年)にドイツで設立されました「社会政策学会」の忠実な模倣という形で、成立したのであります。特にその代表的なものはグスタフ・シュモラー アドルフ・ワグナーらの「分配政策」的な社会政策論であったわけであります。それは国家的な手段による労働者保護とか労働保険によりまして、富や財産の分配の不平等を緩和し、そして社会の調和を図ろうとする立場であります。そういう分配政策的な理論が明治二十年代の前半から明治三十年前後にかけて、金井延、桑田熊蔵らの諸先生の手で本格的に移植されました。これが日本の学会の主流をしばらくの間形成していくわけであります。

 これに対してルヨ・ブレンターノらの立場というのは、労働組合による自由主義的な社会改良論であります。つまり労働組合により労働条件の自主的な改善を図り、それに基づきまして労働の生産性とか労働の能率の向上を図っていく、という「生産政策」的な社会政策の解釈であります。これは明治三十年前後から、高野岩三郎、福田徳三の諸先生により導入されたものであります。

 このように日本の社会政策学派とは、内部に若干の思想傾向上のニュアンスの差を含みながらも、明治二十九年にはやはりドイツ流の先例にならい、「社会政策学会」という名で大同団結いたしまして、社会科学関係の最古の総合学会を発足させることになったのであります。

 以上の解説を前提にしまして、まず主題であります第一期の福田先生の社会政策論に戻りますと、この時期の代表作は、ブレンターノ・福田合著『労働経済論』で、明治三十二年に公刊されております。これはドイツ留学中に日本語で日本で出版されたものであります。この合著の中で展開された学説は、高賃金と労働時間の短縮が労働の能率に及ぼす生産的な効果を持っていることを説く、プレン夕ーノの理論であったわけであります。もっと直裁に申します
と、この合著の内実はブレンターノ自身のドイツ語で書きました著作―表題は日本訳して申し上げますが、『労賃と労働時間の労働能率に対する関係について』の改訂二版、一八九三年(明治二十六年)刊―の一部和訳にはかならなかったものであります。

 その内容をもう少し具体的に紹介いたしますと、この合著においては、一方ではスミス、マッカロック、シーニアー、ロッシャーなどの学説史的な展望を行いまして、高賃金と短時間労働が高能率と生産性の上昇に導くことを学説の面から論証しております。他方では、シュルツェーゲーバニッツによるイギリス綿業の実態分析、あるいはアメリ力とヨーロッパの各種工業の実情に関する比較研究を前提にして、労働条件の改善が生産力や国際競争力の妨げにはならないことを、実態的資料から実証しておられるわけであります。つまりこういう論理の面と実証の面で説かれた内容は、いずれも日本の社会政策学会の主流であった金井、桑田両先生たちの分配政策論とは非常に対照的に、社会政策を生産政策的に理解する立場が先駆的に日本に輸入された、そういう特色をここに見出し得るものであったわけであります。簡単でありますがこれが第一期のものであります。


    (2) 「生存権」の社会政策論

 第二期の福田先生は、明治末期から大正初期にかけまして、「生存権」の概念に関する論文とか講演を数多く発表されておるのでありますが、大正五年に新しく生存権の社会政策というものを明白に提唱されるようになったのであります。それを発表されましたのは、金井延の東大在職二十五周年を記念いたします論文集『最近社会政策』(大正五年刊)でありますが、この書物は、いわば学会の総力を結集して出版された桧舞台のようなものであったのであります。その場において福田先生は、金井延によって開拓された伝統理論の終焉と、社会政策論の第二期の到来を宣言されるにいたったのであります。福田先生はその論拠といたしまして、ウィーンの社会主義的な法学者アントン・メンガーのいう労働者のための「三つの社会権」を、援用されたのであります。

 すなわち、一つは「労働権」。すべての人に労働をする権利を保障するということであります。次が「労働全収権」。価値を生産するのは労働者なので、労働者の生産したすべての労働の成果は、労働者のみで収得すべきである、という権利を意味するものであります。それともう一つが「生存権」。これは後で説明いたします。この三つの社会権のうち、社会政策の哲学は「改良の哲学」でなければならないという観点から、生存権だけを社会政策の哲学に、福田先生は結び付けられたのであります。では、なぜ三つの社会権の中から、社会改良の哲学として生存権だけを高く評価されたのかということであります。

 福田先生の解釈によりますれば、労働権というものも労働全収権というものも、単に二つの「階級的」な主張にとどまっている。社会主義的な「社会の改造」ということを行わない限り、そういう権利は実現されることができないものである。これに反して生存権の承認とは、「いかなる権力関係にも順応」し得るものであるし、社会の作り直しを要せず、単に社会改良を加えれば足りるものである、という論法をとられたわけであります。このような論理で社会変革的な二つの、労働権、労健全収権というものを退けられまして、資本主義的な権力のもとでの社会改良を目指す社会政策とは、いかなる権力関係にも順応し待る生存権の哲学に立つべきである。こういうふうに言われたのであります。

 この生存権の社会政策を構想されました意義は、先進諸国におきます各種の新しい社会政策手段の発展に対応し得る新しい理論を構築しようとするものであったと言い得るのであります。福田先生の言葉で言わせていただきますと、これはすでに明治四十五年三月大阪高商で行われました社会政策学会地方講演会―ときどき地方へ行って講演会を
やったわけであります  − におきまして、「生存権の理論」という講演をなさっておられますが、その中で言われている言葉を引用させていただきます。

 「生存権の理論はいまだ確定せる学説となれるにあらず。しかれども早晩一個の学説として立つべきものならん。現に英国のごときにおいて、養老年金、労働保険、最低賃金などの諸制度が着々と実施せらるるは、明らかに社会権としての生存権の根拠を確かむるものなり」と、こういう言い方をなさっておられるのであります。実際の問題としてイギリスにおきましては、国民保険法が一九一一年(明治四十四年)、無拠出の老齢年金法が一九〇八年(明治四十一
年)、最低賃金法が一九〇九年(明治四十二年)に成立するなど、新しい社会政策手段が相次いで花を開いていたのであります。福田先生の理論は、この新しい世界的な傾向に対応いたしまして、自己の理論的体系の中にこの新興の政策手段を包摂しようとするものと見てよいと思うのであります。

 伝統理論が終焉だと言われた意味は、いま申し上げたような新しいいろいろな社会政策の登場している状況のもとで、日本の伝統的な社会政策論の主流は、もはやそういう新しいものの説明原理たり得なくなっていたと見られるからであります。

 たとえば、まず伝統理論でも説明できた部分から申し上げますと、社会政策学会の明治四十年の大会では、労働者保護の中心であります「工場法」を共通論題として、金井延、桑田熊蔵、田島錦治の三先生の報告があり、つづいて共通討議が行われたわけであります。その際にはドイツ伝来の国家主義的なといいますか、あるいは分配主義的な社会政策論を前提にいたしまして、社会の調和を目指すという見地から、工場法の意義が理論的に基礎づけられております。しかも明治四十四年に日本最初の工場法が成立をしたのでありますが、その成立へ向かっての政策的な提言も、伝統理論で行うことができたわけであります。しかし伝統理論は工場法のみの説明原理に終わっていたのであります。

 その例として、たとえば明治四十四年の社会政策学会の大会でありますが、これは「労働保険」を共通論題として行われました。報告者は高野岩三郎、桑田熊蔵、粟津清亮の三先生でございますが、報告者はいずれも、この当時の日本においては労働保険を行なうための前提、つまり自助の精神が未発達であるとか、相互共済の組織がまだ成熟していないとか、将来に向かって備えるという保険の思想が日本ではまだ全く未発達であることなどを指摘しまして、この段階においていきなり国家的な社会保険を実施するのは時期尚早である、という説明をこぞってしておられるのであります。

 日本でもやがて大正十一年、健康保険法の成立を迎えようとしているときに、明治末期の伝統理論においては社会保険さえもその理論的な枠内に包摂し得ないような状能等あったわけであります。工場法以外に関する社会政策の新しい説明原理の出現が期待されておりました状況のもとで、福田先生の社会政策論はこのような第二期の到来という現実の要請に回答しようとする意義を持っていたものと、言ってよろしいと思うのであります。

    
    (3) 「闘争」の社会政策論

 次の時期が、「闘争」の社会政策論であります。生存権の社会政策論の発展といたしまして、福田先生はやがて第三番目の「闘争」の社会政策論へ到達されるのでありますが、この両者の間には密接な理論的関係があると私は思うのであります。つまり第二期の「生存権」の理論のうちにすでに次の時期への萌芽が見出されるといいうるのであります。

 それは、先ほど申し上げた金井記念論文集の大正五年のあの論文の中で、すでに見出される有名な表現にあらわれているのであります。その言葉とは「生存権の社会政策は私法をことごとく公法化しようとするものではない。今日
までの社会政策は主として公法上の手段によったけれども、いまからは私法の範囲にも指を染めてこれを社会政策化せざるべからず」というような一つの文章であります。この部分はときどき引用する方もあるのですが、この中で特に「私法の社会政策化」とは一体何のことかということを、正確に解釈している方はこれまでほとんどおらないと言ってよいのであります。私流の解釈でございますが、この理解のためには福田先生が明治の末期から生存権論の分析と並びまして、実は「労働協約論」というものに関します論文や講演を、繰り返し行っておられた点を、もう一度重要視する必要があると思うのであります。

 福田先生は、先進国におきます十九世紀の終りから二十世紀の初めに至る労使関係の変化を、「労働契約から労働協約へ」 の移行として特徴づけておられるのであります。つまり労働者個人と使用者とが個別的に労働条件や雇用条件の契約を取り結ぶのが、労働契約の時代なのであります。そういう時代から労働者が労働組合へ団結しまして、労働組合と使用者とが団体交渉によって集団的な協定、つまり労働協約というものを取り結ぶ時代へと変化してきた、ということを指摘されるわけであります。

 これと私法の社会政策化との関連をどう見るのかということでありますが、これについてはいま申し上げたのと同じ表題で、福田先生は大正二年四月に「労働契約より労働協約へ」と題する講演を行っておられますので、その中の言葉から引用させていただきます。そこでは、工場法とか労働保険法などは「公法上の力によって私法の足らぬところを捕ったものである」と規定されておるのですが、同時にこれまでの社会政策は主として「公法上の手段」だけを行うものであって、その際「労働契約という私法上の原則」はそのまま無修正で前提にされてきたと見なされております。これに対して「労働協約主義」とは「これまでの原則の根本的修正」であり、「私法の社会政策化」であると規定されるのであります。そして「今日の私法を根底から覆えして労働協約をも法律上の原則として認める」ことが「生存権の社会政策」であるとも言われるのであります。したがって私法の原則が生存権の否定、私法の社会政策化が生存権の承認ということの論理は、新たに労働協約主義並びにその法承認としての労働基本権の合法化とか調停仲裁制度などを、福田先生は自己の体系の中に包摂しようと意図しておられたことを、物語っていると思うのであります。

 そこで、このような労使関係の歴史的な変質を、より明確に「闘争」の社会政策論という形で理論化いたします試みは、先生の著書の「社会政策と階級闘争」(大正十一年刊)の中で体系化されております福田先生はこの労作の中で、人間の社会的な協同生活は、「社会」というもの、それからその中にできた「国家」というものの中で営なまれるが、社会と国家のいずれにおいても、「財産対労働」とか、「非人格性対人格性」という闘争突関係が内在しているというのであります。



 図面を付けておきましたが、そこでは社会の中に存在し、国家の「外囲」に肉薄する社会運動が←印で示されております。これは労働の平等化のための運動であり、あるいは人格性を擁護する運動としてとらえられております。これに対して、これまでの国家とは財産あるいは非人格の擁護者であり、国家はその「外因」を権力と法律で財産本泣に固めてきた。そこで社会のうちに存在する社会運動が、労働の平等化とか人格性の貫徹のために、→印のような格好で国家の外囲を打ち破って、その中に「滲入」しょうとする運動となる。また財産擁護本位であった国家の内部においても↓印のように労働の闘争が起こって、それは国家の外囲を拡張してその外部に「滲出」しょうとする運動となっていく。こういう滲出・滲入の運動が内外呼応して、国家の外囲を拡大して、それを弾力化していくようになる。したがっ
て社会政策とは人格対非人格、労働対財産の闘争関係をできるだけ広範に国家という容器の中に包擁しようとする政策である、と理解されるのであります。言いかえますと、社会政策の任務は、権力と法律で固められてきた国家の外囲の非弾力性を撤去して、人格性を求める社会運動を国家という容器に包摂しょうとする政策である、と規定されることになったわけであります。

 こういうような階級闘争の滲入・滲出を国家の容器の中に包擁させるという新しい理論こそ、大正後半期の急激な社会情勢の変動に、社会政策論を対応させようとする福田先生の新しい構想にほかならなかったと思うのであります。第一次大戦後には、社会運動と社会主義思潮が疾風怒涛のごとく高揚し、それに対応しようとする政府のアメとムチの社会政策、特に社会運動対策がいろいろとられたわけであります。たとえば、治安警察法の改正(大正十五年)。労働組合法案の流産(大正九年から昭和六年まで)。治安維持法の制定(大正十四年)。労働争議調停法の成立(大正十五年)。労働関係の行政を統一的に扱う官庁として内務省社会局の設立(大正十一年)。協調会の結成(大正八年)。健康保険法の制定(大正十一年)。これらが、いま申し上げた具体例であります。

 こういう社会的な大変動のもとにおきまして、日本の社会政策学会の内部での思想的な対立も調整しがたいまでに深刻化したのであります。たとえば、大正八年の学会大会が、「労働組合」を共通論題として行われておるのでありますが、ここで桑田熊蔵氏とか、友愛会(日本の労働組合の先駆的な組織)の設立者であります鈴木文治氏などの主流派は、内務省案のような自由主義的な労働組合法案の線に沿って、労働組合の合法化、あるいは労働協約の保護、治安警察法の改訂を主張しておるのであります。これに対して高野岩三郎氏(このころかなり思想的な変化を遂げつつあり)、さらにその門下の森戸辰男氏らの新しく台頭した急進派があるわけであります。こういう左派は階級協調論の無効と、革命主義の徹底を主張するようになっておったのであります。

 この大正八年の学会大会における福田先生の発言は、主流派に接近してまいりまして、「健全なる労働運動を助長すべき」労働組合を肯定なさっておるのであります。もう一つ、これに続きまして大正十三年の社会政策学会の大会も、「労働組合法問題」を共通論題して開催されておりますが、報告者の中で福田先生と永井亨氏は、自由主義的な労働組合法の即時制定を主張したのであります。これに対しもう一人の報告者である高野岩三郎氏はその門下の急進派とともに、資本家と労働者との利害は「永遠に一致せず」という信念を述べ労働組合法を上から急いで合法化するよりも、あくまでも下からの自主的な労働運動を助長していくことが先決であると、反論しているのであります。
このような思想上の対立の激化が、大正十三年の学会大会を最後に、伝統のある日本社会政策学会を長い休眠状態に導く主要な契機となったのでありますが、こういう激動下の社会情勢に直面して、原理的な分裂をしてしまった社会政策学会の動揺期に際しまして、福田先生の「闘争」の社会政策論は、やはり労働組合法とか労働協約制など、新しい労働運動とか社会運動に対する社会政策の説明原理を、模索しょうとする試みにほかならなかったと思われるのであります。それは滅びゆく伝統理論のもはやなし得るところではなかったわけでありますし、また新興の急進派にとってはイデオロギー的に拒否されるだけのものであったのであります。しかし福田先生の社会政策論は、常に新しい社会政策的な現実に対応しようとする新しい理論の開拓者として、先駆的な役割りを果たしたものと評価してよいと思うのであります。

 以上、一橋の伝統形成をあつかうというよりも、むしろ結果的には日本の内部での指導的役割を担われた学問的な業績を述べる方に重点が傾いてしまった感じがするのでありますが、一応理論的なことはこれで打ち切らせていただきます。


    
   

 今まで主として福田先生の社会政策論ということで・比較的抽象的で純粋理論的な側面を中心に、その発展課程を描く作業をしてみたわけでありますが、福田先生の社会政策論は単に抽象論という領域にとどまったのではないことは、いうまでもないところであります。すでに申し上げたように、福田理論は現実政策への対応をつねに含んでいたという意味ばかりではなく、さらに福田先生は、日本とか先進諸国の社会政策や労働運動の実態解明、賃金や労働条件の現実分析、経営社会政策とか企業内福利施設の実情などの紹介、検討も繰り返し行われているのであります。

 それから、特に先生の著書の『社会運動と労銀制度』(大正十一年)に収録されておりますように、先生は「賃金形態」(つまりローワン法がいいかとか、ハルゼー法がいいかとかの)賃金形態の大規模な「日本最初」と言われている実態調査活動さえ行っているのであります。これは農商務省の出しました「工場通覧」に基づき、九百四十二通の調査質問票を郵便で会社に配布したり、また大阪高商、神戸高商、東京商大の学生たちと、大阪市役所社会部調査課を使って、百七十六通の直接調査質問も実行しております。その成果は大正十年の「賃金制度並びに純益分配制度」という共通論題のもとで行われました学会大会で発表され、福田先生は延々三時間にわたる大報告を行っておられます。
それは大正十年の学会大会記録『賃銀制度並純益分配制度』(大正十一年刊)には、わずかに「報告要領」しか掲載されていないのですが、前述の『社会運動と労銀制度』には全文が収録されておるのであります。この意味で、福田先生は社会政策の実態分析の先駆としての学績も、別個に評価し得る面を持っておられると思うのでありますが、本日は社会政策論という理論的な次元を中心に取り扱った次第でございます。非常に抽象的なことを申し上げましたが、長い間御清聴ありがとうございました。


    質 疑 応 答

 ― 私どもも学生時代に福田先生の社会政策という問題についてのお話は伺ったわけでございますが、明快に解説していただきましてありがとうございました。ただわれわれが聞きましたところの福田先生の社会政策論もそうですし、社会政策学会そのものの動きの中でも、どうもそうじゃなかったかと思えますのは農業問題です。地主、小作の問題、それから工場労働者の問題というのが、それぞればらばらに取り上げられて、福田先生にしても農業問題についての関心というのは薄かったように思うのでありますけれども、経済の、あるいは経済社会の推移というものを大観してみますと、大体中世的なヨーロッパで言えば農奴制、あるいは日本で言えば小作制と申しますか、農奴制、小作制的な体系の中から資本主義が勃興してきたというのは、農奴制、小作制という体系が崩れてきて、農業労働者自身も地主によって全く規制された決まったことだけやってくることの中から、働く者自身が自分の創意と工夫をある程度用いる余地を持って働くことができるというような体系に、ヨーロッパの社会でも動いてきた。そういう中から農業労働者から工業労働者の中へ転換する者ができ、工業労働者といっても農業労働者から転換したものだった。そういう体制の中で資本主義経済というものが、新しく近代的な工業が発展する起源を持ったわけでありますから、経済の推移の中では、どちらかというと中世的な農業中心社会というものから近代産業社会へ転換するというこの過程を考えてみると、農業労働者と工業労働者を全く切り離した形でものを考えていくというのはおかしいわけで、この連関を考えながら経済社会の進展、推移というものを考えなくちゃいかんのじゃなかったかと思うわけであります。その辺の関心がどうもわりあいに薄かったんじゃないかというふうに思われるんですが、その点いかがでしょうか。

  御指摘のとおりであろうと思いまして−ただ福田先生ばかりではなくて、一般にそういう点の関心が薄かったということは事実であろうと思いますが、この社会政策学会の活動の中で申しますれば、一つは関税問題をめぐる大会が明治四十一年にございます。それからもうー度小農保護問題を扱っている大正三年の学会大会がございます。

 まず関税政策についての大会は、農業保護関税がよろしいか、工業関税がよろしいかということで、かなり意見が争われている、そういうようなことがございました。

 それから、小農保護問題というのは、これはシユモラーとか歴史学派以来の伝統でありまして、保守的で忠義心に富む社会的な安全弁をつくる、という中間層保護思想であります福田先生はこの大会では、経済的存立の不可能な小農の保護反対論をとっておられますが、部分的にはこういうような機会に、農業問題を主題に検討されたこともあったわけです。けれども全体として労働問題と言えば工業の問題というように扱っていたということは御指摘のとおりで、反省の必要があると思います。

 ― きょうのお話は福田先生の伝統形成者のお話でございます。私は、伝統継承者といいますか、後の方々というよぅなことになってちょっと話題がそれて申しわけないんですが、私の頭にありますのは中山伊知郎先生と左右田喜一郎先生なんです。福田先生の御弟子であるかと存じますが。

 私は実は中山ゼミナールの者でございます。中山先生の戦後の御活躍の中にはきょうのお話と非常に密着したことがたくさんあって、福田先生の思想が中山先生の中に生きていたということを折に触れて、書物、論文によって、あるいはじかに − ときどき労働協会の会長室にお邪魔していたんですけど ― 感じたのでございます。

 Tの生産政策という感じは常に中山先生の戦後の中労委の御活躍でも労働協会の御活躍でも、あるいはそういうこ
とから離れまして、所待倍増計画より数年前に賃金倍増論ということを中山先生はやられていて、それがその後の所得倍増の源流の一つになってくるわけですけど、あのときも先生から伺ったことがあるんですけど、それをいま生産政策的ということと並んでくるのでございます。

 Uの生存権。これの、たとえば最低賃金制の問題について中山先生は非常に御関心を持っておられて、私も直にー私はどっちかというと、だんだんその後の状況の中では賃金、物価の悪循環論なんていうような意識で先生にかみついていたことがあるんですが、最賃制を非常に重視しておられたというようなこともございますし、社会保険の問題についてもいろいろ言っておられたと思います。

 Vの闘争でございますが、まさに中労委の御活躍は、私法の社会政策化といいますか、そういう御感じが中山先生に相当濃厚におありになったと私は感じております。公法化とまではいかないんでしょうけど、労働協約の問題なんかについて、先生の『経済社会学』という本がございますが、これは(1)、(2)、(3)というのを全部含んで、それの近代化ということが、福田先生時代から戦後の時代へというような本になっていると思いますが、あの本は先生のそういう実践的な御活躍の結集でございます。あれは英語の本になりますときには、それを普遍性を持たせるための翻訳に大変な苦労をされたということを覚えています。そういうことを先生がしばしば述懐されていました。日本語で書かれるときは、日本人同士なら当然通用する表現をやっているわけなんです。外国人に直訳しても絶対わからないだろぅ。わからせるといいますか、先生の思想の普遍性というような御感じまで高められるつもりで翻訳、あれは外国人が訳したものですけれども、そのままじゃだめだということであられたような。あれやこれやで中山先生が福田先生の継承者として、単に純粋経済学とか数理経済学だけじゃなくて、こちらの方面でも継承者であられたんじゃないかというような感じを私なりに持つんです。

 それから、左右田先生につきましても、たとえば最後に実態調査という、神奈川県で社会政策の研究所を主催されていろいろやって、いまでもその後身は残っているはずでございますが、左右田先生はただ観念的な哲学者でなくて、やはり一種の社会政策を追究しておられたというふうに存じますので、形成者と継承者との関係について一言何か御感想をしていただければと存じます。

  どうもご高見ありがとうございました。実はそういうことを考えておったのでございますが十分に用意できませんで―。中山先生のことはうまく三つのものがそれぞれ当てはまるようないろいろな御活躍のことを非常によくお教えいただいてありがたく思います。

 左右田先生のことは、横浜の社会問題研究所での活躍についても存じておりましたし、確か山中篤太郎先生もここでイギリスの労働組合運動史を研究されたのが始めだと思います。それから左右田先生は社会政策学会でも「経済政策の帰趨」という講演を、大正四年の学会大会で講演なさっておられまして、学会での活躍もなさっておられます。そういう意味で非常にいいお教えをいただきました。もしこの先の伝統をつなぐ話をせよということでございましたらば、次回には入れさせていただきたいと思っております。

 伝統の継承ということになりますと、同じく主役に関先生がおられますけれども、やはり福田先生と並ぶもう一つの流れは上田貞次郎先生の流れではないかと思うのでございます。イギリスのチャーティズムやフェービアンとか、あるいは労働運動史、産業革命史とか、あるいは日本の人口論の研究とか、いろいろございまして範園が広いのですけれども、社会政策学会の中での活動も少なくありませんでした。たとえば、ILO第一回会議のワシントン条約締結のときに、政府顧問としてあちらへ渡られまして、あのときには八時間労働制についても、日本は特殊国待遇を要求したわけですが、それさえも日本では批准できないというので、上田先生は条約案の重要性を朝野に警告するため、雑誌に新聞にくりかえし筆をとり、学会大会でも講演を行うなど御活躍になりました。あるいは労働保険をめぐる学会大会では、大勢は時期尚早論であったのに対して、上田先生とか本学の石川文吾先生とかは、むしろ日本にはそういう自助とか共済の思想がないからこそ、早く社会保険を上から強制的に実施すべきなんだという早期実施論の発言をしておられます。このほか、「小工業」をめぐる学会大会でもドイツ流の旧中間層維持政策に反対なさっている例がございます。福田先生はわりあいと理論的な方とすれば、イギリスとか日本の実態的な分析という一つの別の流れをつくられたのが上田先生ではないかと思います。それぞれの継承ということになりますと、福田門下の井藤半禰先生が理論的な方を継がれ、そして山中篤太郎先生が上田門下として実態的な分析を継承されたわけでございます。そういう二つの大きな流れが伝統的に現在でも伝わってきているという漠然とした考えは持っていたのでございますが、十分に用意できませんで申しわけございませんでした。

  福田先生の社会政策の起こりがあって、その後井藤先生、あるいはその他にどんな影響があるか一言だけ簡単に御説明願えますか。

  井藤先生への理論的な影響と申しますと、また抽象論で恐縮でございますが、この「闘争」のと私が名付けました社会政策論は、たとえば日本の大河内一男先生であるとか、あるいは平田富太郎先生であるとか、こういう方の解釈では、福田先生は何か資本主義の否定と社会化のための理論を説いたんだというふうに説明しておるのであります。そういう傾向のものがドイツの社会政策論の上でも、社会民主党系の人々によって主張されておりまして、それと近いんだということが言われておるのでありますが、私はその解釈には反対であります。福田先生の一貫した思想傾向は社会主義に対抗して社会「改良の哲学」を求めていくのであるとか、社会改良というのは「現状の固執」ではないけれども「現状の転覆を否認する」ものであるとか、明言しておられます。闘争の政策であるというような表現
も、むしろそれは破壊主義的なものへの主張ではなくて、源流を求めるとすると、これは非常にむずかしくなるのでありますが、井藤先生がやがてドイツから大量に輸入されるドイツの新しい歴史学派に次ぐ社会政策論の代表的なもので、通称社会学的な社会政策論という名前で呼ばれておるものと思われるのであります。それは二十世紀への移り変わりとともに社会学の領域でジンメルなどが形式社会学という一派をつくり始めまして、従来のコント、スペンサー流の総合的な社会学ではなくて、社会学独自の領域、いわゆる特殊社会学というようなものをねらっていくわけであります。そのためにいままで種々の社会科学で研究されていない領域というものを探しますと、結局人間が社会的に結合される「形式」、つまり支配と服従とか、競争あるいは代理とか、そういうような人間の社会的に結合される相互関係の分析をするところに社会学の独自の領域があるというのであります。この影響を受けまして、ドイツの社会政策論もやがてマックス・ウェーバーなどの内部からの批判もあり、歴史学派の倫理的な社会政策論という色彩のものが否認されたのに対応しまして、新たに形式社会学の武器を使い、社会政策をきわめて抽象的、形式論的な形でとらえることになるのであります。

 たとえば、社会政策というのは「社会関係の維持強化」のための政策である、という具合であります。井藤半彌先生の社会政策の定義は「社会の基本関係の発展」であるという抽象的な言い方をなさっているわけでありますが、福田先生もそれと同じような形で、社会政策とは「社会のために、社会の力によりて行うところの政策である」というような、わかったようなわからないようなことを ー 失礼ですが―書いておられるわけであります。この「社会に対する政策」という言葉遣いは、形式社会学の影響を受けたドイツの社会政策論の中で、たとえばアドルフ・ギュンターの理論とほとんど同じであります。そういう前例から見まして、むしろ福田先生は非常に新しい理論をすぐに取り入れられる方なので、もうすでに二十世紀の移り変わりとともに出てきましたドイツ流の新しい社会学的社会政策論の傾向を眼中において、この闘争の社会政策論を理論的に構想されようとしていたのではないか、というふうに私は解釈するのであります。この社会学的理論が第一次大戦後に非常に盛んになりまして、それが井藤先生の留学後全面的に日本に紹介されるようになってくるのであります。

 それから、上田先生の系統と申しますと、やはり山中先生の日本の労働組合法案の研究とイギリスの労働組合法の制度的な発展の研究などは、上田先生の直接の影響であろうと思うのでございます。さらに上田先生が始められました日本経済研究会とか日本経済調査室というものがございますが、これが山中先生の指導のもとにずっと戦後まで続いておりまして、この調査室におきまして例の日本の人口問題研究が行われました。そして第ー次大戦後におきます日本の失業者の分析から、日本独自の「潜在失業」という研究が出てまいりまして、それが戦後の山中先生門下の研究にもずっと受け継がれてくるのであります。これが他方における実態的な社会政策研究の別の流れを、形成してきたと考えておるのでございます。

  福田先生は昭和五年にお亡くなりになられました。昭和六年が満州事変。それからファッショ化に行き、それから戦争、敗戦。農地解放、その他アメリカ的なあれが相当入ってきた。これは大変想像的になって恐縮な質問なんですけど、もし福田先生が生きていらしたら、この非常に変化した、これに対してはどうでございましょうか。福田学説というものに立っていまの時代に対してどんなふうなお考えになっていかれたのでしょうか。大変難問ですけれども、学者的な立場から何か御感想ございますか。

  非常に独想的なのと、非常に思いつきの早い先生のようでございますので、私どもにはどこに行かれるのかちょっと見当がつかないので (笑)、弱りました。

 − 井藤先生は、私どもよく学生時代わからなかったんですけれども、財政学原理は左右田哲学の影響を大変受けて
おられますけれども、福田先生の方からは、福田、左右田とそういう系列で影響を受けられた、直接的なものはございますか。

  井藤先生のドイツ留学中の社会政策の先生は、シュモラーの後継者であるハインリッヒ・ヘルクナーという、シュモラーが死んだ後社会政策学会の会長になられる方であります。そこへ留学されておりまして、直接福田先生と深い理論的な関係は余りないと思うのですけれども、広い意味でのドイツ流の社会政策論をずっとおやりになったという学問的な流れや学風の一致はあると思いますが。また先ほど述べましたドイツの社会学的社会政策論と福田理論との近似性という私見が、もし解釈上正しいとするならば、この点での井藤先生との何らかの理論的関連も生じうると考えます。

  中途半端な御質問で恐縮なんですけど、私、昭和十二年の卒業でございまして、井藤先生の講義を伺ったのが十年だったですか。その時分から、もちろん体制がそういう時代でしたから、かなり全体主義的な思想といいますか、学説を展開しておられたような気もするんです。これは私の感想でございます。その後私ども社会に出ちゃってそういう学問に触れていなかったんですが、その後の井藤先生というのはあの時分と変わらず、多少お変わりになっていたんですか。あるいは終戦後敗戦という事実で井藤先生の思想などは変化なさったわけですか。

  先はど申し上げましたように、具体的内容がない抽象的な理論が基礎にありますので、余り戦争協力的な主張に直接結び付くようなことをおっしゃっておりませんでしたし、普遍主義的な理論は戦後にも受け継がれておりました。

 木村元一先生がこちらで財政学のことについてお話しくださったときに「社会価値説」ということを話されたと思ぅのですが、個人的な価値が先か、社会的な価値が先かというようなことを言われましたときには、社会的な価値を優先させるという思想は、財政学でもお持ちでしたし、社会政策においても基本的な「社会理想論」としては、それは基本的には「個人主義」と「普遍主義」というふうに分けられますが―井藤先生は普遍主義的な立場をとっておられました。それは戦前も戦後も、ある程度抽象的な理論でございますので、相変わらずそのまま継承されておられました。

 形式的な社会政策という授業のそれ以後の継承者だけ申し添えますと、大正九年に東京商大へ昇格した以後の社会政策の講義の担当者は福田先生と申し上げましたが、それから以後であります。大学昇格以後、社会政策の講義は総論的な第一部と、各論的な実際問題を扱う第二部とに分れるようになりまして、一部は福田先生と藤井悌先生が担当されました。二部の方は工場法の立役者でした岡実工務局長とか永井亨氏が非常勤で来られておられました。それから、若くて亡くなられました緒方清先生が二部を兼担したりしておられましたが、昭和三年には社会政策の総論の方は井藤半彌先生に移りまして、それから緒方先生が第二部の方を担当しておられました。緒方先生は昭和九年に亡くなられましたので、それ以後上田門下の山中篤太郎先生が緒方先生の跡を継がれ、それからは井藤、山中両先生の並行講義の時代に入っていきます。それがずっと戦後の新制一橋大学にいたるまで続きますが、昭和二十九年より井藤先生門下の私、大陽寺が社会政策と労働問題の講義にだんだん入ってまいります。昭和三十三年に井藤先生が御退官になりましてから以後、最近はずっと社会政策は私、労働問題の方は昭和四十年の山中先生御退官後、現在は津田真澂先生―東大の隅谷三喜男先生の門下であり、日本労働協会で中山伊知郎先生の薫陶も受けられました ― が担当者となっております。私はどちらかというと抽象論の方でありまして、津田先生は実態的な領域で詳しい方であります。一応昔からの二つの流れが何とかそのまま継承されているような状態であります。担当者だけのことでございますが、それだけ申し添えます。
                                             (昭和五十八年七月七日収録)