一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第二十五号] 一橋におけるアジア研究の学流 一橋大学経済研学部教授 深沢 宏
はじめに
ご紹介いただきました深沢でございます。本日は偉い先輩のお集まりの会にお呼びいただきまして大変光栄に存じますが、同時に恐縮しております。どうぞよろしくお願いいたします。
本日私がお引き受けいたしましたテーマは「一橋におけるアジア研究の学流」という題でございます。そう申しましても、一本にきちっとまとまった学流があるわけではございません。従来の先生方のそれぞれが身に付けられた学問上のディシプリンや、研究の関心のあり方や、さらには当然のことでありますが、それぞれの先生の個性が加わりまして、そこに幾つかの流れが見られるわけであります。それを大別いたしますと、根岸佶先生と、私の恩師であられました村松祐次先生の中国経済社会の研究というのが一つの流れとしてございます。もう一つは、現在亜細亜大学に現役で勤めておられます板垣与一先生の東南アジアの政治経済論という流れがございます。三番目に、経済研究所におられまして、三年ほど前に停年で退官され、現在津田塾大学に勤務されております山田秀雄先生のイギリス領植民地の経済史という流れがございます。そして、四番目に、去年の七月ごろこの会でお話をされましたが、二年前に経済研究所を停年でおやめになり、現在青山学院大学にお勤めの石川滋先生の、アジアの全域にわたる経済学的な研究があります。
大別すると四つほどの流れが見られるわけです。なお、一橋大学の社会学部において長い間東洋社会史を担当し、四年前に退官され、今年五月に亡くなられた増淵龍夫先生もおられました。中国の古代史の研究で実に画期的なお仕事をなさいました。増淵先生は上原先生の門下であられまして、根岸、村松両先生とは直接の学問上の系列関係はございませんでしたけれども、私などは印象的に申しますと、やはり根岸、村松両先生の学問の流れに相当近い線を進んでおられたという印象を持っております。後ほどまた増淵先生のご研究に簡単に触れることにいたします。
私自身は村松祐次先生の門下に出た者でございます。一九五三年に学部を卒業して、大学院に進みます時に、先生に勧められて、インドの勉強をしないか、中国の勉強は後になっても文字文化が共通であるからできるけれども、インドは早いうちに言葉を習っておかないととても取りつけない国である、インドの勉強をしたまえと勧められまして、それでインドの勉強に入ったものでございます。学問の流れから申しますと村松先生の門弟に当たるわけですが、研究対象としている地域はインドの亜大陸に移っておりますので、中国の研究をしている者ではございません。そういぅ事情がございますけれども、やはり学問の流れとしましては、根岸、村松両先生の中に立っておりますので、このお二人の先生の学問について主として申し上げ、その後で板垣先生、山田先生、石川先生のご研究の傾向や動向に簡単に触れることにしたいと思うわけであります。
明治以来日本の大学、あるいは高等教育機関における学問の発展というものは大体そういう傾向を持っていたわけでありまして本学だけのことではございませんけれども、東京高等商業学校以来現在に至るまで、本学は非常に圧倒的に西洋学を導入し、紹介し発展させるという、学問上の使命を持ってきた学校でございます。商業学や経済学、あるいはその他の社会諸科学でかなり先駆者的に西洋の学問を日本に導入した先生方が次々に出てこられた学枚であります。従いまして一橋におけるアジア研究と申しますのは、やはり本学の学問の流れから申しますと、相当に風変わりなと申しますか、言ってしまえば傍流の分野でございます。当然でありますけれども、一橋大学が全体としてアジァ研究大学のような学校になってしまうと、これは本学の歴史に反するわけでありまして、学校の一隅で少数の人がささやかにアジアの研究をしてきたし、今もしているという点に意味があるわけであります。むしろ一橋のような学校で、少数ではあるけれどもこれまで非常に優れたアジアの研究者があらわれて、それぞれが先駆者的な業績をお残しになったということが、むしろ驚くべきことであるというふうに、私どもは理解しているわけであります。そのような、全学的に見ればかなりマイナーな分野の勉強をしてきた者の一人としてこういうお話を申し上げるのですということを、あらかじめご承知いただきたいと思います。
先年、『一橋大学学問史』という、本学の学問の流れをずっとトレースしたものを百年史編集委員会が出しました。私もその中で「東洋経済事情」という一章の大部分を書きましたので、今日のお話は大体『学問史』に書いたことのダイジェストのようなものになります。あらかじめご承知おき願いたいと思います。
私の話には三つ項目がございまして、第一に根岸先生、第二に村松先生、第三番目に、その他のアジア研究の流れということになっております。
一、 根岸佶先生の中国研究
まず根岸佶先生の中国経済社会の研究という項目から始めたいと思います。根岸先生は、ご存知の先輩方も大勢おられると思いますが、十二年はど前に九十七歳のご高齢で亡くなられました。ちょうど日清戦争の終わった年、一八九五年に東京高等商業学校にお入りになりました。そして、本科における研究テーマは日中貿易論、専攻部におけるそれが中国交通論というわけで、早くから中国に対する強い関心をお持ちになっていました。一九〇〇年に義和団事件が北京近郊で起きますけれども、その直後に高等商業学校専攻部の学生のときに、中国に渡り、事件の起きた後を回られて、ついでにご自分の研究資料を買ってこられたという経験をお持ちでした。私ども学生のころは根岸先生はとっくにど停年になっておられました。一九三五年に停年になられて一九四〇年まで非常勤でお勤めになりました。
私どもが学部・大学院の頃、根岸先生はときどき学校にお見えになって、村松先生の研究室にあらわれたり、図書館で本を借りられたり、それから月一回ずつ、アジアだけではございませんけれども、広い意味の歴史関係の方が集まる研究会がありましたが、そこに必ずご出席になって非常に元気にお話をしておられました。そういうときにしばしば義和団事件直後に中国に行かれたということを伺っておりました。
一九〇一年に専攻部を卒業されまして、そのころ義和団事件の賠償金で建てられた上海の東亜同文書院に教授として就任され、そこに七年間教鞭をとられ、一九〇八年までおられました。その間ご自分でも活発に中国の商業経済の実態調査をされました。その調査の記録を、書物というよりはむしろ資料を集めたものですけれども、『清国商業総覧』という題の五冊の本として当時刊行されました。同時に、東亜同文書院の学生を大勢手分けして、中国の各地方の都市を回らせ、中には農村にも入らせて、経済状態の実地調査をさせました。様々なギルドや会館を回って規約等を書き写させてくるという仕事をされたわけです。こうして学生が集めてきた資料、文書等をまとめて、『支那経済全書』十二巻として、東亜同文書院の在任中にお出しになりました。
私自身の研究の分野は中国を離れておりますので、『清国商業総覧』ですとか『支那経済全書』というのは全部拝見したわけではございませんで、飛び飛びに幾らかめくって見ただけですけれども、先ほど申しましたように、各地方のさまざまなギルドや、同郷団体や、合股と呼ばれる商事組合などの規約を写し取ったものとか、それらの運営の仕方を聞き取ったものとか、契約書の写し、そういう文書類が実にたくさん集められ、収められたものであります。
今日でも、清朝末期や、中華民国の初めのころの中国の経済状態、経済史の研究をするに当たっては根岸先生が編さんされた資料集が大変に貴重な文書史料になっているという話であります。
一九〇八年に帰国され、東京高等商業学校の専攻部に設けられていた「東洋経済事情」という講座を担当されることになりました。その四年前、日露戦争の始まった年にこの講座が開かれました。いよいよ中国関係が日本にとっても非常に緊迫した重要な問題になってきたときに、学校の方で「東洋経済事情」という講座を設けて、最初の四年間は本学の先輩で、三井物産の芝罘支店長をしておられた方に非常勤で講義を担当していただいていました。その方がおやめになった直後に根岸先生が呼び戻されて、専攻部の講座の担当教官となられたわけであります。それから十二、三年たちまして一九二一年に、東京商科大学に昇格した直後に、定員のつかない科目でございましたが、東洋外交史という科目も設けられて、それも根岸先生が担当されるということで、二つの科目を同時に担当しておられたわけです。その後一九三五年に停年規定によりまして ― あの当時は確か六十歳の停年規定だったと思います ― 一度学校をおやめになりました。それから五年間は非常勤で、東京商科大学学部にお勤めになっておられたわけです。ところで、一九〇八年に帰国されましてから亡くなります間の六十年近い先生の学者としての生涯を振り返ってみますと、非常にはっきりと前半と後半で活動形態が違うということに気がつきます。
大体前半の二十二、三年間、正確には一九三一年に満州事変が起きたころまででありますけれども、最初の二十年間はどちらかと申しますと、根岸先生は非常に実際的な、実践家的な活動をしておられます。朝日新聞社の記者を兼任されたり、中国問題の論説委員をされたり、東亜同文会という外務省の外郭団体の仕事に大いに精を出されました。外務省のさまざまな企画に参加されたり、ワシントンの軍縮会議には中国問題の専門顧問として参加されるというわけで、日本における中国関係の世論の喚起、指導、日本政府の対中国政策の立案等に積極的なかかわりをお持ちになったというのが一九三〇年ごろまでの先生の活動の仕方であり、その間新聞に論説等をずいぶんお書きになったようであります。
ところがそのころになりますと、日本の中国政策が大変露骨に乱暴になっていきます。先生の意図や関心とは食い違うような結果になったということが主な理由だったのだろうと思いますけれども、実践的な活動から身を引かれ、書斎の人になられました。そういうわけで一九三一年頃、五十歳代の半ばぐらいから以降、八十歳くらいまでの二十数年間にわたって、実に精力的にご研究の業績をどんどんと発表されました。普通は、研究活動をそろそろやめるよぅな年頃から精力的に業績を発表されるようになったのです。こうして、一九三二年から、八十歳近くになられた一九五三年まで、この二十年ほどの間に論文を七本、単行書を六冊公表しておられます。そして一九五三年に出された『中国のギルド』という最後の本で、それまでの研究の業績が認められ、日本学士院賞を授与されました。そのころ私どもは学生でしたのでよく存じています。
この二十年の問にお出しになった六冊の本のうち三冊は同業組合、ギルドに関するお仕事です。もう一冊は、家族と親友たちが集まり、お金を出し合って運営する商事組合、合股に関する研究です。他の高は、買弁制度に関する研究です。外国の企業が中国に進出するのに、どうしても中国側の接点のところで、信額できる有力な中国人の商人に依存しなければやっていけないというわけで、買弁と呼ばれる制度が十九世紀中ごろから起きてくるわけでありますが、その買弁制度に関する研究が一冊あります。もう一冊は『中国社会における指導層』と題しまして耆老紳士の研究です。農村部における比較的に言って年配の方で経済的にも豊かであり、地域民衆の信望も受けているような耆老紳士に関する本が一冊あるわけであります。
従いまして、先生が東亜同文書院時代以来ずっと一貫して関心を持ってこられた中国経済社会に関する研究と申しますのは二つはギルド、同業組合の研究、もう一つは合股、商事裡合の研究、もう一つは、耆老紳士ですとか、買弁ですとかいう特定の社会集団、中国人の代表的な指導層に関する研究という、大体三つの分野にまたがっています。
先生の学者としての生涯の後半にお出しになられた六冊の本を、私ども学生のころ村松先生に勧められて何冊か読みました。今回も何冊か拝見しました。それらを一覧しますとはっきりとした三つの特徴ないしは傾向が見られると思います。
まず第一は、これらの研究はすべて二十世紀前半の中国の、先生が実際に経験され、見聞もされた中国社会を対象としているわけでして、決して、いわゆる歴史的な研究ではございません。けれども、根岸先生には歴史的ないしは歴史学的な関心が強く伺われまして、書物の至るところで随時課題とされている制度なり事態なりがどれくらい古くまでさかのぼれるのかを問われ、しばしば古代までさかのぼって、そういう制度や事態の淵源に言及しておられます。時代的に出来るだけさかのぼり、立体化して物を見てみようという関心の強い先生であられました。そういう傾向が一つ見られるわけであります。
もう一つは、これは先生が生涯研究の課題とされた対象そのものですけれども、どの本にも繰り返し述べられておりますことは、中国人には三つの基本的な社会生活の枠組みがあるということです。その一つは、家族及び宗族と言われる、家族を拡大したような一種の血縁共同体です。もう一つは、郷党ですとか、同郷団体とかと呼ばれる地縁共同体であります。もう一つは、ギルド、同業団体、会館、合股というような目的団体、言うところのゲゼルシャフトでございます。
大きく分けると経済生活をその中で営んでいる三つの制度組織があって、しかも、その中で特に家族・宗族という血縁共同体が最も重要でかつ影響力が強く、結局のところ同郷団体という地縁共同体も、あるいはギルドや合股という目的団体でさえも、中国人が作るおよそすべての社会組織には常に血縁共同体が下敷になっているか、それをモデルにして、その上に組織が成立しているという点を繰り返し強調しておられるわけであります。そこで経済生活を営んでいるその組織の中の、中国人の人と人との関係を律している社会原理のようなもの、それを根岸先生は、中国の伝統とか中国人の伝統とお呼びになって、中国を理解し、あるいは中国人と何らかの政治上、経済上の接触、かかわりを持とうとするときに、この中国人の伝統を無視しては決してうまくいかないということをしきりに強調しておら
れるわけであります。
もう一つの傾向は、これも一連の書物において繰り返し強調される点でありますが〕中国の研究というのは結局のところ中国人の研究でなければならないということです。人の研究をしなければ、その国の制度や機構を幾ら調べてみてもよくわからないということで、中国人の研究をしなければならないということを繰り返し言っておられます。
ギルド、合股、買弁の制度の研究にしても、その制度の枠組みや、その機能だけを説明するにとどまらず、そのような枠の中での中国人の物の考え方、中国人の行動の仕方、例えば恩讐に非常に敏感であり、恩義には厚く報いるけれども恨みを持つと大変に恐しい民族であるとか、そういうことを繰り返し言及されました。要するに、中国人の行動様式のパターンのようなものに非常に強い関心と注目を向けられました。根岸先生のお仕事は、優れて中国人の国民的性格、国民性と呼ばれるものの研究を指向していたように思われます。
以上、歴史的な関心を強く持たれたということ、共同体、特に血縁共同体の重要性を強調されたということ、それから中国の研究は結局中国人の研究であり、中国人の国民的性格の研究をしなければならないと強調されたこと、この三つの特徴が根岸先生の著書には伺われるように思います。
対象とされたのが主として二十世紀前半の中国の経済関係の諸制度の研究でありながら、ー方では歴史的に奥行きを持たせるような考え方をされ、他方では制度を内側から律しております血縁的、地縁的な社会原理を探究し、その原理に基づく中国人の思考様式、行動のパターンを追究するという、根岸先生の基本的な学問的関心なり傾向が一体どこから由来したものか、実は私よく存じません、直接伺ったこともありません。しかし、後になりまして村松先生が時折り言っておられましたのは、根岸先生には三浦新七先生の影響が相当強かったのではないかということであります。一橋における歴史学の研究だけではなく、中国という地域の研究においても、三浦先生は強いガイディング・スピリットと申しますか、指導的な役割りをお持ちになっておられたようです。三浦先生ご自身、「シナ古代の団体意識」という論文を一九四三年に学校の『研究年報』に書いておられます。儒教が成立してくる頃の、非常に古い時代の礼や法という概念を使われて、中国人の団体意識の特徴を明らかにしようとする論文であります。三浦先生ご自身は西洋文明史の研究者であり、西洋諸民族と東洋の、特に日本民族との国民的性格の比較研究ということを生涯の課題にされたわけでありますが、その一環として、このように中国にも関心を向けておられました。根岸先生が、歴史的な展望をずっと持たせようという傾向を示され、そして中国の研究は結局のところ中国人の研究でなければならないと主張されていることは、あるいは三浦先生の影響が強かったのかもしれないと思われます。
同時に、戦後一九五〇年ころから、ソーシャル・エコノミックス、エコノミック・ソーシオロジトンあるいはビへイビオーラル・サイエンス、つまり社会経済学、経済社会学、行動科学というような名前で、社会科学の新しいディシプリンがアメリカの経済学者や社会学者の間で発展して来ましたけれども、そういう考え方を根岸先生はもっと非常に早くから実際に中国研究において生かしておられたわけであります。根岸先生の学問の内容そのものがまさに行動科学であり社会経済学であったと申せます。もちろん理論学の問題として研究されたわけではなく、実際に中国の経済社会を分析される際の視角ないしは方法が、後になってアメリカあたりで発展してくるこういう社会科学の分野と非常によく似ていたという気が最近しきりにいたしております。
根岸先生のお話は一応そこまでにいたしまして、第二番目に、村松先生の学問という題に移らせていただきます。
二、村松祐次先生の中国研究
根岸先生の門下からは数人の中国研究者が出ましたが、学校の方へお残りになったのは村松祐次先生でございました。「東洋経済事情」という講座を継承されました。一九三三年に学部を卒業になり、すぐに補手、副手等におなりになりましたけれども、お体の丈夫な先生であられたものですから、しょっちゅう兵役に呼び出されるというわけで、最初の八年ぐらいは兵役に行ったり帰ってこられたりを繰り返し、そういう事情もあって、根岸先生が停年後五年間非常勤講師として引き続き学校の教壇にお立ちになったのだろうと思います。村松先生は戦争から帰ってこられて本格的な研究に取り組まれるようになりましてから後、非常に精力的にお仕事をされまして、根岸先生が発展されましたところの中国の社会経済学的な分析、中国人の経済生活がその中で営まれたところの社会的、制度的な枠組みの研究、そういう研究視角、研究関心をそのまま継承されたわけであります。
それと同時に村松先生のお仕事を根岸先生のお仕事と比べますと、内容的にかなりはっきりした点で二つの違いが見られるように思います。
第一は、違いと言っては必ずしもいけないのですが、根岸先生の場合にははっきりとは打ち出されないで、潜在的に非常に強く見られた歴史学的な研究方向が、村松先生のお仕事の中には非常にはっきりと前面に出てくるという点でございます。この点は、村松先生のお兄様が、やはり学校で西洋文明史及び西洋経済史の先生をしておられたといぅ事情や、同時に三浦先生が白票事件の後学長になられたり、あるいは学長引退後もしょっちゅう学校にお見えになって、講義をお持ちになり、ゼミナールもお持ちになり、そして戦後も暫らく学校で講義をお持ちになりました。そのような事情があって、村松先生の場合もっとはっきりと三浦先生に代表される歴史学の影響を受けておられたように私どもは理解しております。ともかく、歴史的な関心の方向が非常にはっきにと表に出てくるという点に、根岸先生の学問が潜在的に持っていた傾向が具体化してまいります。この点はのちほど改めて申し上げます。
もう一 つは、これはかなり違う点だと思うのですが、根岸先生は亡くなられるまで実践家的な関心が強かったと思います。学校に戻られて二十数年の間、新聞、あるいは外務省の仕事や、そういうところで日本の対中国政策の立案、あるいは中国問題に関する世論の喚起、指導に積極的に活躍されたということは、その後学者としての行動形態からは影をひそめますけれども、最後まで潜在的には強い実践的な関心をお持ちになっていたようであります。しかし、村松先生は根岸先生のこのような実践家的な傾向からは、初めから離れておられまして、いわばもっと覚めた目で、あるいはもっと客観的に距離を置いて中国社会を観察されました。村松先生は私たち門下生に対しても、研究の基本的態度として、対象から少し距離を置かなくてはいけないということをよく言っておられましたが、ご自分でも、かなり覚めた目で中国の経済社会を観察し分析されたということが、根岸先生と大分違う点ではないだろうかという気がいたします。
まず第二番目の点でございますけれども、中国経済社会に対する見方も大分違っていたようでした。村松先生の最初の著書は、一九四九年に出版された『中国経済の社会態制』でございました。一九四九年と申しますと、丁度中国共産革命が一応成功し共産党が権力を奪取したときでありますが、この本の内容は革命のことを扱ったものではありません。革命前の中華民国時代の中国の経済社会を対象にしたものであります。この本の中で先生は革命前の中国人の農業生活、商業生活、工業活動がそこで営まれたところの、農業における土地制度、合股を中心とする商業組織、それから工業組織、そういう農業、商業、工業の組織を、中国経済の内部態制と呼ばれました。そしてその周囲で、あるいはそれと密接に絡まりながらそれに対して枠として規制していた外側の態制(政府、村落、宗族、ギルド)を取り上げ、それを中国経済の外部態制と呼んで、その二つの態制のそれぞれに非常に緻密な分析をされました。根岸先生がお書きになった本の後の方に参考図書目録が出ておりますけれども、その目録を見る限りにおいては、恐らく根岸先生自身は利用されなかったであろうと思われるような研究資料、例えば戦争中に満鉄の調査部が行いました華北農村慣行調査や、日本の社会学者や経済学者が実際に中国各地の農村に入って聞き取り調査をしたその報告書ですとか、そういうものを村松先生はふんだんに使われて、その当時の中国経済社会の研究水準としては恐らく抜群の概念工具を用意され、精密な分析を加えられたのであります。そこで、根岸先生がしきりに強調された共同体論、中国のあらゆる経済組織は血縁関係、宗族関係をモデルにし、あるいはそれを下敷にしてその上につくられているというあの共同体論を、村松先生はあからさまにではございませんけれども、相当はっきりと批判しておられます。
中国の実態調査等を詳細に見ていくと、五人ないし六人ぐらいの小さな家族、これは血縁共同体として、中国でもどの社会でも核のようになっていて緊密な結合力で結ばれているわけですけれども、そういう家族を越えたところを見てみると、宗族といっても幾つかの州にまたがってメンパーが分散しているわけで、そういう宗族のまとまりといぅものはおよそ見られない。もちろん都会に行くと同郷団体というのがいろいろあって、そこに特定地方の出身者が集まって会館組織をつくり、様々な相互援助をしているわけですが、それもその町に住んでいる同郷人が全員加入しているわけではなく、要するに任意加入であり、何らかの個人的な便益を求めてそこに参加しているのが普通であって、地縁共同体という性質のものではなかったのではないのかということをしきりに指摘しておられます。また宗族についても町へ行きますと、たとえば同じ苗字の人たちが集まってそこに会館をつくり、クラブをつくっているわけだけれども、これもまたさっきと同じようなことで・血縁関係があるからそこに集まっているわけではない。たまたま苗字を同じくしている人たちが幾らか集まって親睦会のような社交的な団体をつくっているという性質のものであって、決して血縁共同体が基盤になって強固なコミュニティを形成しているというものではなかったようである。むしろ家族を越えたさまざまな組織における中国人の行動様式というのは、もっとはるかに私人的、個人的な行動原理、私人的な利害関心によって貰徹されており、中国社会はそういう社会であろうということを繰り返しこの書物の中で論じ、かつ論証もしておられるわけです。その際、村松先生は、潜在的には、一方で日本の社会を強く意識しておられ、他方で近代西欧の経済社会を比較の対象にしておられ、そういう日本とも非常に違い、かつ西欧近代ともずいぶん違う中国の、組織における人間の独特なあり方を観察し、分析しておられたわけであります。したがって組織に対する忠誠心ですとか、あるいは共同体的結合力ですとか、そういうものが中核にあって、それを基盤にして中国人のさまざまな社会経済組織が成立しているわけではないということを繰り返し強調しておられます。さらに、家族といえども、中国では例の財産の均分相続という制度、男の兄弟は全部平等に財産を分けてしまうという制度を通して常に分割、細分化の可能性を含んでおり、現にそうやって家族の財産が分れていくという制度になっていたものですから、家族の一人一人の構成員の間でさえも、どちらかというと個別主義的な、あるいは個人主義的な心意と傾向が顕著に見られるということを論じておられます。したがって共産革命が起き、権力を奪取したその時点で、革命が成功したわけではなくて、中国人のそういう私人主義的な、個人主義的な傾向を克服して集団化し、集産化していくというのが社会主義建設の方向である以上は、中国の共産主義革命というのはいかに大きな克服すべき社会的課題を背負っているかということを最終的には問題として論じておられる、そういう仕事をされたわけであります。
ご存知のとおり、マックス・ウェーバーは『宗教社会学論集』という大きな論文集を出して、その中の一つに『儒教と道教』という一冊の本を書いています。これは西欧近代の資本主義社会の成立過程、及びそれを担った小さなブルジョアたちの精神構造なりエトスというものをー方に置きながら、それと中国の社会、あるいはインドゐ社会がいかに違うかということを比較対照した大変興味深い本で、私どもちょうど学部の三年生のときに村松ゼミナールでそのドイツ語のテキストを半分ほど読んだことがございます。その二、三年前に先生の本が出たわけですが、その本をお書きになった時には、先生はまだ『儒教と道教』を読んでいなかったと申しておられました。しかし、結果的に見ますと、ウェーバーの中国社会の分析の仕方、あるいは観点と、村松先生の見方は非常に近いということを私どもは発見し、大変驚いたことがございました。
つまり、ウェーバーは、中国だけではなく、インドにおいても、アジア全域においても・あるいは前近代のヨーロッパにおいても広く見られた社会制度・社会心意として、家産主義、パトリモニアリスムスという概念をしばしば使っております。要するに公私の区別がはっきりしていない、というよりも公的なものも繰り返し私化されていく、パブリックな社会組織であっても、その中ではプライベートな原理が優先し、結局そっちの方へ、そっちの方へと動いていくような社会制度ないしは社会心意を家産主義という言葉で把握するわけです。フユーダリズムとは違うもう一っの社会制度であり体制概念であると言うわけですが、村松先生の中国社会の分析は、ウェーバーなどが家産主義と呼んで把屋しようとしたその見方と非常によく似ていたのではないかというふうに、後になって私どもなどは考えているわけであります。
一方では日本、他方では近代ヨーロッパというものを意識し、明示的にはそういう比較はなさいませんけれども、しかし非常にそれを考えながら、同時にそれらと比べた場合の中国の社会の特性なり特殊性なりを鋭く摘出し、かつ分析されたお仕事をまずお出しになったわけであります。もちろんそこでは、日本の戦後間もなくの唯物史観の影響を強く受けた中国研究の主流があって、中国の現段階を半封建的であるとか半植民地的であるとか、そういう段階概念で把握しようとし、すべてをそれにかけて説明し理解しようとした学問の傾向がありました。村松先生はそれに強く反発し、抵抗を感じ、抗議もなさったという面もありました。そういうヨーロッパの歴史的な発展過程から抽出された段階概念などでは到底把握できないような、非常に固有のものが中国にはあって、それが中国人の社会制度、組織化の基盤にあり、一人一人の行動のパターンを律しているのだということをしきりに強調されたわけであります。
そうやって一九四九年に処女作を公表されまして以降 ― ついでに申し上げますと、先生はいまから九年前に六十三歳で亡くなられました ― 村松先生のお仕事は一見しますと二つの方に進んでいくようであります。
一つは、一九四九年の革命以後、共産主義になっていくわけでありますが、その前の共産主義運動ないしは共産主義思想の中国的特性は何か、あるいは権力を握ってから後の農地改革、地主制度の廃止や土地の集団化、そして工業化政策はどのような問題に直面しているのか、同じことですけれども、社会主義的な政策や制度が中国の末端社会に導入されるに当たって、その導入普及の過程はどうなっているのか、どういう問題に直面しているのか、つまり村松先生が最初の本で明らかにされたような、中国の社会的及び制度的な特質というものは、社会主義路線の建設過程でどのような影響と変容を受け、どのような抵抗をしていくのかという一連の問題に強い関心をお持ちになりました。
そしてこの分野で三十本ほどの論文や講演をお残しになりました。
もう一つの方向は、先ほど申しましたように、根岸先生が潜在的に持っておられ、それを村松先生が具体的に打ち出された、歴史的な、或いは歴史学的な関心と研究、この分野であります。
この分野について、一つには、一九〇〇年の義和団事件の政治的、経済的、及び社会的な背景、あるいは先行諸条件を非常に克明に研究された論文を五本お出しになりました。これらの論文は亡くなられてから、巌南堂という出版社の尽力で、『義和団の研究』という一冊の書物にまとめて公刊されました。
この分野のもう一つのお仕事は、十九世紀の中ごろから革命前までの百年近い期間にわたって、特定の地域に関してですけれども、中国の地主制度の研究であります。日本国内の国会図書館や東洋文庫、あるいはアメリカのハーバード大学の図書館等に、だれも利用できないで埋没していたような手書きの地主文書を多数発掘され、それらを非常に丁寧に判読され、読解されて、これらを素材とした地主制度に関する十五本の長大な論文をお書きになり、そのうち最初の八本が一冊にまとまって『近代江南の租桟 ― 中国地主制度の研究 ― 』という題で一九七〇年に出版されました。租桟というのは、地主と小作人の間に介在して、地主のかわりに地代を徴収し、それから納めるべき税を納め、残ったものから手数料を取って、残りを地主に渡すという地代徴収機構のことですけれども、この研究がその年の日本学士院賞の対象になりました。
こうして、一見しますと二つの方向に分かれていった先生のお仕事でありますけれども、先生ご自身の言葉によりますと、決して二つの別々のことをやっているわけではないので、自分の中国研究の表裏両面であると理解してもらいたいというわけで、村松先生にははっきりとしたある種の歴史観がございました。つまり、歴史的世界には全くの断絶というものはあり得ない。人間がすっかり入れかわってしまえば別ですけれども、同じ中国人が日々生活をしていながら一九四九年でバチッと前後に分かれて全然連続がないということは絶対にあり得ない。したがって、表面上の激変や変革の背後の深層部には、絶対に変わらないと言ってもいいような非常に強い連続性、継続性がある。その継続性、連続性を見ながら、どこがどう変わったのかを見るのでなければ、歴史の勉強はできないのだということをしきりに言っておられました。
普通、日本で歴史の研究をしている人たちの中には歴史的世界を、何々段階、何々時代というふうにばらばらに分けまして、時代から時代へと移り変わっていく、変化していく面にだけ注目する人がわりと多いのですけれども、村松先生はその点大変にユニークであられて、変わるものの底にあって変わらないものを見なくてはいけないということをしきりに主張しておられました。
さらに申しますと、村松先生が根岸先生から受け継いだ講座は「東洋経済」あるいは「東洋経済事情」という講座でありました。したがいまして何々史という名前の付いた講座ではないということもあって、先生は自らを、プロのヒストリアンというふうには意識しておられなかったと思います。つまり、プロの歴史家というのは、歴史的世界を古代、中世、近世、現代というふうに幾つかの時代に分けて、そのいずれかの時代の専門家になり、終始その時代の中に沈潜してしまい・その時代に関しては非常に精緻な細かい研究をするわけですけれども、その後の時代、あるいはその前の時代までは必ずしも関心が回らない、あるいはそこまでは仕事が伸びないという傾向がありますが、そういう歴史家としてほど自分のことを考えておられませんでした。自分の歴史的な方法はあくまでも地域の社会、中国社会を研究するための一つの方法であり、中国社会を時間的に立体化してみようという方法である。現代の中国をよりよく理解するために自分はそれをずっと時間的に引き延ばして研究してみようとしているわけであって、何々時代の専門というわけではないのだということを、私も個人的に何回か伺ったことがございます。そういうお仕事をされ、ご退官後十年間の仕事の段取りなどもいろいろ用意しておられたのですけれども、九年前に六十三歳で亡くなりました。村松先生のお話は一応そこまでといたします。
次いで、増淵先生ですけれども、西洋経済史の上原専禄先生の門下から出られました。そして恐らく三浦先生に勧められたのではないかと思いますが、早くから中国の古代社会経済史の研究を専攻され、二十数年前に『中国古代の社会と国家』という本をお出しになりました。これは文字通り、洛陽の紙価を高からしめたお仕事でして、影響力の大変に大きなご研究でした。もちろん根岸、村松両先生と直接の師弟関係はございません。むしろそれぞれが個性の非常に強烈な先生方でしたので、そういう先生方の学問を何らかの系列関係において措定するということは到底できないことであります。が、それにもかかわらず増淵先生もしきりに中国史における様々な事柄は、中国という固有の場において中国人自身の尺度によって理解し測るべきであって、たとえば奴隷制であるとか、封建制であるとかといぅ、外部でつくられた概念モデルを持ってきて、それでもって中国の歴史上の出来事や、あるいは時代の特性を理解し把握しようとすべきではない。そういう外側からの基準やレッテルを持ってきて中国のことを推し測ろうとするのは間違っているということを、私も何度か個人的に伺いました。そういうところを拝見いたしますと、やはり学問の流れとしましては、根岸先生が始められ、村松先生に継承されたところの中国の社会経済学的な研究、ないしは社会経済史的な研究をずっと古い時代に引き延ばして研究されたような印象を私などは現在に至るまで持っております。
それと同時に、根岸先生と村松先生とでは中国の社会に関する見方が大分違っておられたということと関連して、一体増淵先生はどちらに近かったのかと考えますと・大きな世代の相違、個性の相違にもかかわらず、どうも村松先生よりは根岸先生に近いような中国社会観を持っておられたのではないかという気がいたします。ただし私は増淵先生とは師弟関係にありませんので、先生の学問の紹介は、学内に適任の方がおられますので、その方たちがいずれ別の機会にもっと詳しくご紹介になるだろうと思います。
三、その他の学流
その他のアジア研究の学流ということで、先はどの板垣先生、山田秀雄先生、石川先生のお仕事を簡単にご紹介申し上げます。
まず、太平洋戦争の前までは、日本にとってアジア・東洋というものは、大体常に中国を意味していたと理解してよろしいかと思います。それ以外に南の方から西の方へずっとアジアの国々が広がっているわけですけれども、そういうところは戦前は、言語学や宗教学の対象にはなりましたけれども、経済学や社会科学の対象には到底なりませんでした。そういう地域は、大体欧米諸国の植民地であったという事情もございまして、研究の対象に入ってこないというのが日本の社会科学の特徴であったと思われます。ところが太平洋戦争の四年間あたりを境にして、日本人の、アジアについてのホライゾンが非常に拡大しました。格段と広まったということは全く否定できないわけでして、そのまま現在まで続いております。あの戦争と敗戦体験、アジア諸民族の独立を境といたしまして、中国だけではなしに、今日東南アジア、南アジア、あるいは酉アジアと呼ばれるような地域もまた中国と並ぶほどの重要な意味を持つものとして、アジアに関心を持つ日本の社会科学者の間で研究対象として定着してきたわけであります。ところで、アジアの南側の方の地域に関して、一橋で本格的な研究を開拓されたのは板垣与一先生であられました。
先生は中山伊知郎先生の門下でもともと理論経済学のご専攻であって、学校では経済政策、あるいはそれと関連する分野の担当をしておられたわけですが、太平洋戦争の少し前に、すでに東南アジア全域の調査旅行をしてこられました。それから戦時中は主としてマレーからインドネシアの方に滞在しておられたという事情もありまして、戦後にかけて東南アジアの様々な指導者、特にインドネシアとの間に、強いかかわりを持っておられたわけであります。もちろん中山先生の門下でございますから、根岸、村松両先生の学問の流れとはずいぶん異なる傾向が見られます。地域が異なるだけではありよせん。その地域社会なり地域の国民の経済社会の特性を明らかにしようという社会経済学的な関心よりは、むしろ、かなり別の政治経済学的な視角をお持ちです。要するに東南アジアの諸民族の第二次世界大戦以降の動きを律している起動力は何かというとナショナリズムであると規定され、しかもこれらの民族は戦前大体は欧米諸国の植民地であったという歴史的経験を背負っているところから、このナショナリズムには植民地ナショナリズムという性格が備わっていると規定されます。そしてそれぞれの経済構造もまた植民地的な二重構造という性格を持っていると規定されました。したがって、かかる構造上の性格を克服し、真に統合された国民経済をいかにして建設するかということが、東南アジアの諸民族が抱えている非常に深刻にして重大な課題であるというふうに理解され、そこから経済協力ですとか、ASEANの地域内統合や、域内協力関係など非常に手広く研究しておられたし、今も続けておられます。そして二十年ほど前に『アジアの民族主義と経済発展』という有名な本をお出しになりました。板垣先生のお仕事はその後の日本の東南アジアの研究者に大きな影響を及ぼされました。そういう仕事をされて、今日に至るまで現役で活躍しておられます。私も個人的によく存じあげているのですけれども、直接の師弟関係はございませんので、板垣先生のお仕事についてもどなたか別の方がもっと詳しく別の機会に紹介されるであろうと思います。
山田秀雄先生は経済研究所にずっとおられて、三年ほど前に停年でおやめになりました。山田先生は高島善哉先生の門下であられます。戦時中に学部を出られて、東京商大の東亜経済研究所にお入りになり、そして戦時中のある期間マレーにも滞在しておられたようであります。高島先生の門下でいらっしゃいますから、まずもってイギリスの資本主義がお若いころからの関心であって、中でもイギリス資本主義が対外的に帝国主義的に拡大していったそのプロセスを追究し、そして植民地にされた国々の経済史、特にそこにおけるさまざまなプランテーションの発展ですとか、あるいはそこで手に入れた利潤や富をイギリス本国に持ち帰っていく「流出」のメカニズムですとか、そういうことを手広く研究されました。対象としては当時の英領マラヤ、英領インド、それからアフリカの方々にあったイギリスの植民地であります。そういうアジアからアフリカに及ぶ非常に広大な地域のイギリス領植民地を研究対象とされ、精力的にお仕事をされました。
これらの地域の植民地としての経済史については、やはり山田先生は日本でパイオニアとしての役割りをお持ちになり、この分野の書物や論文を発表されているわけです。但し、私も個人的には存じ上げておりますけれども、山田先生のお仕事については別の機会にどなたかがもっと詳しく紹介されるであろうと思われます。
最後に石川滋先生でありますけれども、確か一九四一年の御卒業だと思いますが、高橋泰蔵先生のゼミナールで理論経済学を勉強されました。戦後の或る期間を香港に勤務され、中国経済、東南アジア経済に関心を深められ、その分野で多くの業績を挙げられて、今から二十数年前に本学経済研究所に帰ってこられました。根岸先生、村松先生とも個人的に親密な立場に立っておられました。板垣先生とも非常に親しくしておられますが、しかし石川先生の場合は、このような先生方の学問の流れとは随分違うように思われます。別個の独自の学流を開かれたと申せます。つまり、経済学で発表されたさまざまな概念工具や、統計学の技術をふんだんに応用されて、経済学上の概念にかかってくる限りでのさまざまな国の経済現象、特に日本、中国、東南アジア、インドの経済現象を多様な角度から分析され、そしてかかる経済の発展現象を相互に比較されて、英語や日本語で数多くの論文や書物を発表して来られました。やはり先に紹介しましたどの学流に立っておられるというわけでもなく、先生ご自身非常に独自の学流を自ら樹立されたというふうに理解した方がよろしいと思います。ただ、昨年七月ごろ石川先生ご自身がこの会にど出席になって、「一橋の中国・アジア研究をめぐって」という題でお話しをしておられます。そのときの講演がこの会から公表されておりますので、詳しくはそちらの方をご覧いただくとして、以上、本学におけるアジア研究の学流の簡単なご紹介を終わらせていただきます。
おわりに
今日お話ししましたように「一橋におけるアジア研究の学流」と申しましても、決して一本ではなく、それぞれの先生方の身に付けられたディシプリンや、関心や、あるいは個性やがあって、ピタッと一つの流れになっているわけではありません。当然のことだろうと思います。大別しますと四つないしは五つほどの研究の流れがあるということを申し上げました。数から言いますとそんなに大勢はおられなかったのですけれども、その分野、分野で大変に偉い先生方が次々あらわれ、日本におけるアジア研究にそれぞれの分野で大きな影響を及ぼされました。その結果として大学院レベルでもお弟子さんを随分養成されました。もちろん学問の影響はほかの学校で育った人や、ほかの研究機関にいる方や、あるいは外国人に対しても及びますので、測り知れないわけでありますが、今日紹介申し上げました先生がたの直接の門下として育った人たちの多くは、大体のところほかの大学やほかの研究機関に出て活躍しておられます。その意味で本学のアジア研究の流れはだんだんと全国的に拡散していっております。そのこと自体非常に結構なことなのでありますけれども、どうも巨匠たちが次々と本学を去られた後の本家本元の学内の方では、最近少し手薄になってきているのではないか、小粒になってきているのではないかという印象はどうも否定できないように思います。そういう分野をもう少し強めなくてはいけないということを近ごろ感じているわけであります。余り申しますと支障がございますのでこの辺でやめますが、もう少しスタッフをふやし、充実しなくてはいけないということを感じております。
以上でございます。ご静聴ありがとうございました。
(昭和五十八年十一月十七日収録)
深沢 宏 昭和六年生れ
昭和二十八年三月 一橋大学経済学部卒業
昭和三十年三月 一橋大学大学院修士課程修了
昭和三十一年七月−三十五年一月インドに留学、ラクナウ大学大学院にてPh・D取得
昭和三十七年三月一橋大学博士課程単位修得
現在 一橋大学経済学部教授
主要 著書 『インド社会経済史研究』(昭和四十七年、東洋経済新報社)
共 著 The Cambridg Economic History of lndia,
2vols,Cambridge University Press,1983〜84
翻 訳 『ヒンドゥー教と仏教』(マックス・ウェーバー著、昭和五十八年、日貿出版社)