一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第二十七号] 杉本栄一著
                『近代経済学の解明』のなりたち
  一橋大学学長  種瀬 茂


     はじめに

 御紹介にあずかりました種瀬でございます。私、昭和二十三年に卒業いたしました。それからずっと国立暮らしを続けてまいりました。今回図らずも学長を命ぜられました。皆様に御支援をいただきましてありがとうございました。この席を借りまして一言御礼を申し上げておきます。

 「一橋の学問を考える会」に本日はお招きいただきまして大変嬉しく存じております。新井先輩初め御参集の皆様は一橋の学問の成果、その発展のために非常に深い関心をお寄せいただきまして、私ども大いに励みとなっている次第でございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたしたいと思います。

 それでは早速ただいま御紹介のように私は学部のときは杉本ゼミにずっとおりましたので、その杉本先生が戦後の『解明』をお書きになるときの状況をめぐって、若干お話し申し上げまして、杉本先生の経済学の特徴みたいなことをお話し申し上げればよろしいかと思います。


     杉本先生の経歴と学問の系譜

 そこで『解明』 のお話を始める前に、そもそも杉本先生がどんなふうにして経済学を研究され続けていかれたか。その特色はどんなところにあるのかということを一言イントロダクションでお話し申し上げさせていただきます。

 お配りしました略年譜を御覧になっていただきたいと思います。先生御自身を直接御存じの方がたくさんいらっしゃるので恐縮でございますが、一九〇一年(明治三十四年) に東京の下町にお生まれになったのでございますが、大正八年に昔の東京高商に入学されまして、翌年大学に昇格されて編入されたわけであります。そして学部に入りまし
たときから福田ゼミナールに参加されまして、大正十四年に御卒業になってから後、昭和四年から七年まで三年間ドイツに留学されました。ちょうどこの間、昭和五年に福田先生がお亡くなりになっておられるわけでございます。先生がお亡くなりのときはベルリンにおられました。それからお帰りになってから最初は専門部の教授でございましたが、引き続いて学部の方の教授におなりになられまして経済原論をずっと続けて、お亡くなりになるまで御担当になっておられました。

 一番大きな最初の仕事は『米穀需要法則の研究』と申します。昭和十年にお出しになりました。これが日本のエコノメトリクス、計量経済学の一番最初の研究成果でございまして、日本における計量経済学のいわば最初のスタートがこれによって切られたというわけでございます。この研究はベルリンやキールにおいでになったときにおやりになっておられた引き続きでございました。

 それから後すぐに、理論的な研究の成果として『理論経済学の基本問題』というのが昭和十四年に出版されました。この戦争中までの段階ではまだ直接マルクス経済学に言及されるということはほとんどございませんでした。そのことが初めて言及されたのは、その次に出てまいります戦後すぐの「近代理論経済学とマルクス経済学」。これは『季刊理論』という雑誌の創刊号に載った論文でございまして、これが杉本先生の経済学では非常に大きな意味を持つものと評価されましたし、その後の大きな論争の出発点にもなったのでございました。その当時の論文をまとめたものが昭和二十四年の『近代経済学の基本性格』というものでございます。

 その後、二十五年にきょうお話し申し上げます『解明』上・中巻まで二冊にして、その直後の昭和二十七年九月に突然狭心症でお亡くなりになるということになったわけでございます。お亡くなりになるときに机上で校正に向かわれておりました。岩波全書の『近代経済学史』というのが遺著となったわけでございます。この書物の校正を御自宅の二階の机の前でおやりになっているときに突然倒れられるという結果になった。非常に私どもにとって悲しみも深い書物となったわけでございます。

 大変簡単でございますが以上のような経過が杉本先生の学問的な経過ということがおわかりいただけるんじゃないかと思われます。

 そこでいまもお話し申し上げましたが、やはり先生の出発点は、福田ゼミナールでの福田先生の経済学じゃなかろうかと思います。実際先生自身が福田先生についてお書きになったエッセイがございまして、その中で福田先生から何を学んだかということを述べておられますが、その中に一番先生から学んだものは何だろうかと考えると結局学問への情熱だ。そして福田先生はいつでも学問への情熱を傾けられて不断に前進しておられた。いつでも自分の研究を前進させるという、そういう姿勢を持っておられた。これは私が一番学ばなければならないと思うし、学んできたところだ。同時に前進をしながら自分自身の新しい理論を構築していくという作業を続けておられたわけでありますが、そのことに触れて、このことはマーシャルがよく述べたあの「クールヘッド・バット・ウォーム・ハート」という言葉。「冷静な頭脳と温い心」というふうに杉本先生は訳しておられますけれど、このような精神が福田先生から学んだというふうに言っておられます。

 さてそこで、経済理論の分野でもあるいはそのはかでも福田先生のどんなところが杉本先生の中で受け継がれ展開されただろうか。実は福田先生の学問分野というのは非常に広くてほとんど経済学の全分野にわたっておられるというわけですので、そして「考える会」 の席上でもしばしばお話が出たところじゃないかと思います。そこでこの点についてはほんの一言、福田先生の学問、特に理論的な分野ではもちろん近代経済学ですけれども、その中で主としてマーシャルが中心点でありまして、マーシャルの中の特別の分野、特に福田先生は流通経済論というところを強調さ
れましたし、その展開として厚生経済学、あるいは流通の正義論というような新しい理論分野を開拓されようとしてお亡くなりになったというところじゃないかと思うんです。この理論的な体系が同時に、福田先生のあの社会政策論、『生存権の社会政策』とか、財産の支配を脱却した人格の確立ということをねらった社会政策の原理と、先ほどの流通経済論や厚生経済学の原理とが表裏一体をなしていたというように思われます。

 さて、杉本先生はこういうような福田先生の考え方の中で育って展開を図ろうとされたわけでありますから、もちろん福田先生の中心的なところそのものに理論的にそっくりそのままというようには思われません。やはりそれを展開するという作業をお考えになっておられたんじゃないかと私は思います。

 杉本先生がどういうところでその作業を展開されようとしたか。その点ではたくさんの分野があろうかと思いますけれども、やはり経済理論の分野では何といっても福田先生がご勉強になっていた段階よりも一段と進んだ理論展開がそのころは行われておりますし、また可能になってきている。杉本先生が留学からお帰りになりまして、最初に研究を展開されたのがシュンベーター批判でありまして、これはその当時すでにもう日本でも次々に展開されておりましたワルラス、パレートーの一般均衡理論体系。それに対する内在的批判を試るという作業が最初の研究でありました。

 これはどういう地盤に立ってそれを行おうとしたかと申しますと、これが福田先生のマーシャル経済学であります。マーシャル経済学を一般均衡理論的な体系の側面から見るのではなくて、それ独自の異質構造論的な把握をマーシャルの中に見出すべきだという主張を掲げられまして、こうして福田先生がお考えになっておられたよりもはるかに展開された現実分析への理論を用意しようと、そういう作業を杉本先生がまず最初に展開されたのではないだろうか。そういう意味では福田先生が不断に学問の情熱を傾けて理論の展開を図っていくということの一直線上に、新しい段階に立ってそれを遂行しようとした成果がこの一般均衡論批判。同時に異質構造論的な体系把握というような理論体系が生み出されてきたのではないだろうというふうに思います。

 ところで、もう一つの分野、福田先生が生存権の社会政策論というようなところから人格の確立というところをねらって展開されておりました。いわば人間そのものの経済学の確立、こういう問題は杉本先生はどんなふうにお考えになっておられただろうか。この点については言明されているところは少ないのでございますけれども、しかし先生がドイツに留学されていたときに大恐慌が起こりまして、それからお帰りになってから後がずっと不況の時代でございました。そういう深刻な時代の中でやはり考えなければならないということを十分お考えになっておられただろうと思うのであります。この分野では、その意味でマーシャルの経済学を超えてさらに問題を追究しなければならないんじゃないか。やはりこういうことをお考えになっておられただだろうと思うんです。それがマルクスへの接近を果たすことになってきただろうというふうに私も推測するところであります。

 つまりマルクス経済学のどういうところを学ぶかということになりますと、何と言ってもマルクスが現実の中に問題をとらえ、その矛盾を率直にとらえて解明していく。そこから新しい理論を何とかして展開すると、こういうような分野の受け取り方を、マーシャルを超えた現実分析の中に見出そ与と、こういうようなところが杉本先生のねらいの一つだったんじゃないだろうかというふうに思われます。

 ですから、一方で理論的な科学性を保ちながら、他方率直に現実問題に接近して、その困難な分野を解明していく。こういう未踏の分野を解明しようというのがねらいじゃなかっただろうか。そこで特に資本主義経済のダイナミックな発展の中にあらわれる諸問題を、特に困難な問題をどのように理論的に解くべきか、こういうことが焦点の一つじゃなかったかと推察されるところでございます。さてそこで以上のような形が杉本先生が福田先生のあの理論体系を
受け継ぎながらその内部の内面的な発展を図ろうというふうにねらっていた焦点じゃなかろうかと推測されるところでございます。


     『近代経済学の解明』について

 さて、『解明』 の話に移らせていただきます。
 それでは、『解明』というのが杉本経済学のどういうようなところをあらわしているかということについてお話し
申し上げたいと存じます。ここに持ってまいりましたのは『解明』 の初版でございますが、非常に悪い紙でザラ紙のような紙でございまして、ここに先生の自署がございまして、私当てに書いてくださいました。上中二巻ございます。
両方とも同じような非常に悪い紙でこの当時はまだまだ昭和二十五年でございますので、安いつくりの本をつくるためにはどうしてもこのような紙でやらざるを得なかったんじゃないかというふうに思います。しかし幸いにして非常にたくさんの方々に読まれるということになりまして、その点は非常にうれしく思います。一九八一年に岩波文庫に入りましてこれが全く同じものでございますが、これは今度は二冊上下という形に変えられまして出版されました。
いまでは岩波文庫で簡単に手に入るようになったので非常に便利でございます。最初に出されましたときにはいま申しましたとおり上巻、中巻、下巻と、下巻までの計画でございましたけれども、結局は下巻はほとんど先生自身でおつくりになることはできない。わずかな部分の原稿が残されたというにすぎませんでした。その点は非常に残念なのですけれども、そういう状態でそこでいままでのところでは上、中と最初付けられておりましたけれども、最近は上下と二冊ということになって出版されているわけでございます。

 さて、この『解明』でございますけれども、杉本先生はどうもなかなかお書きになるのがむずかしいらしくて筆が遅い。しかしお考えになっておられることをすでに戦後すぐ先はど指摘しましたような近代経済学とマルクス経済学との間の交流とか相互批判とか、あるいは統合とか、そういうような問題提起をされまして、非常に大きな分野にわたった総合的な視野を持った論点を提起されましたので、それがまた論争の焦点になりました。ですから、ぜひそのお考えを体系的に知りたいという要求が非常に強かったわけでございます。ところがなかなか先生がお書きになりませんので、そこでこの出版をしておりました小宮山量平さん、専門部のときの杉本ゼミ御出身でございますが、理論社をやっておられまして、そこで種瀬が先生に質問をする。質問を提起しましてそれに対して先生は答える。それを速記したらば、しゃべるんだからいいだろうと。質問があればどうしても答えざるを得なくなるから、それを速記したらどうだろうという非常にいいアイデァを出されまして、そこで私が質問事項をつくりまして、それを先生が御覧になって、一つ一つの項目に答えるということを御自宅の二階で随分長いことかかってやりまして、その速記の原稿を先生が御覧になってそれを直すというのが最初のスタートでございました。

 ここに持ってまいりましたのはそのときの1最初の質問条項は先生がお持ちになったきりなくなってしまいまして、これは最初の速記録が出てまいりましたときに私が拝見しまして、その中でなお疑問点がある、問題点があるというので、それを個条書きにしたものがこの原稿でございます。その当時の原稿用紙というのは非常に悪い仙花紙に近いような原稿用紙でございました。ここにずっといまの項目が出ておりまして、さらに問題とする質問というのを書きまして、今度は先生がこれを御覧になりまして、原稿の速記録を直すという形をたどってやっといまの書物の形ができ上がったということになったわけでございます。このときには同じゼミナールの大先輩の末永隆甫教授(*)いま神戸商科大学の教授で、元大阪市立大学の教授でございました−−にも、その質問の条項はお考えいただきまして、御相談申し上げました。そういう形でやっとこさっとでき上がったというのがこの 『解明』ということになったわけでございます。

     (* 故 末永隆甫教授は昭和16年学部卒業、十二月クラブ・メンバーです。本HP「会員氏名索引
           (しす)」の項ご参照。)

 ですから、最初のところを御覧になっていただきますとすぐおわかりになりますけれども、たとえば「序章第一節経済学の勉学態度」となっておりまして、その下に、経済学を初めて学ぶに当たってはどのような態度で勉強したらよろしいでしょうかと、質問の項目がそのまま載っているんです。それがこの書物の形式になっておりまして、それに対して先生が答えるという形をとったというわけでございます。そういう意味では非常に私自身も懐かしくこれを拝見しますとそのときの様子が思い出されて懐しさが一層深いという感じがいたします。

 さて、この書物でございますけれども、これを考える場合に杉本先生が経済学の体系をお考えになるときに何といっても念頭にあったのは、ある特定の立場で理論を構築するということは絶対にできないはずだ。さまざまな分野の理論体系があり、思想があり、そういうものを次々に自分自身の中に消化していって、その中で初めてこれこそが自分の考えだというようなことができ上がってくるはずだ。そういうお考えを表明するためにはどうしたらいいか。そこで先生の学問体系の筋道を一つの思想的な歩みとして考えたならばどうなるだろうか。

 そこでまず最初に、オーストリー学派、ローザンヌ学派の一般均衡理論体系。その次にマーシャルを先頭とするケンブリッジ学派。マーシャル、ピグー、ケインズというようなケンブリッジ学派。それから、最後にマルクス経済学というような流派をそれぞれの学問的な流れの中で思想的な地盤を同時に踏まえて、しかもそのときどきの時代的な背景が提起する諸問題にどういうふうな答え方をしているか。こういう時代的な、バックグラウンドの上で、そういうような全思想的な体系を含めた経済理論体系というのはどんなものか。こういうことを一望のもとに展望する、そういうことができないだろうか。こういうことからこの書物が構成されるということになったわけでございます。

 そこで最初は、入門のための注意書きがございまして、そこで学問はある特定の色付けを持って見てはならない。あらゆる分野の思想を消化した上で、初めて科学的な体系ができ上がる等々の非常に重要な注意書きがございまして、その後で、オーストリー学派、ローザンヌ学派の経済学の基本的な特徴、一般均衡理論体系の意義、その次に、マーシャルを初めとするケンブリッジ学派のイギリス的な経験論的、実践的な経済学の性格。そこで解決を迫まられた諸課題。それに対してどう答えたかというような問題。最後に、マルクス経済学がそれらの経済学と対応しながらどういうふうな答え方を現実問題に対してしようとしているか。特徴はどんなところにあるか。こういうことが最初に展開されまして、上巻となりました。その次に、特に現代の問題に迫まってその展開が図られているはずであって、その展開はどういう段階にきているか。これが最初の中巻でございました。

 これは主として三つの分野に分かれておりまして、ケンブリッジ学派の中ではケインズ経済学。それからマルクスの経済学、そして計量経済学、エコノミトリックスというのが最後の分野を占めています。この三つの分野で、現代の経済学の課題とそれに対する回答というのが対比されまして、そこから新しい理論的な課題とその回答は何かということの答えを出そうというのが先生の一番のねらいでございましたけれども、いよいよ最後のところで残念ながら、それが未完のままに終わってしまったというのがこの書物の実態でございます。そういう意味では、各学派のいま申しましたような理論体系を単に理論の抽象的な体系と見るのではなくて、それを支えているところの思想体系、つまりフィロソフィ、と同時にまた現実から迫まられている課題は何か。その理論体系が解かなければならない時代的な課題は何か。それに対してどうこたえているだろうか。こういうような問題に次々に回答を与えていきますと、そして現在の地点に立ってみますと、いわば思想ないしは理論の社会的な構造が一望のもとに手に入るということになるんじゃないだろうかと思うんです。その上で現実問題は何か。われわれはそれに対してどうこたえるべきか。こういう回答を出さなければならない。これが『解明』のいわば基本的な筋遠だったんじゃないかというふうに考えられます。
 残念ながら最後の部分というのがついに未完のままに終わってしまいまして、これにはほんの少しだけは最初の質問条項の中にもそれがございまして、最後のところで、近代経済学とマルクス経済学。両者がいかに経済学の正続を受け継いでいるか。それから、近代経済理論が、マルクス経済学をどのように評価し、それを摂取しようとしているか。逆にマルクス経済学が近代経済学をどのように評価し、それを摂取しようとしているか。そして最後に、現実に迫まる理論的な体系は何か。現代の根本問題にこたえるべき理論的な体系は何かと、こういうようなこれこそ質問だけでほんのちょぴっとしか先生の答えは書いてございませんで、非常に残念ながらその点は未完のままに残されたと言わざるを得ないというわけなんでございます。

 以上が、『解明』の主たる基本的な内容なんですけれども、そういう意味では一番最初に申しましたように福田先生の理論的な性格、あるいは理論的な展開の線上に立って、さらに大きな視野をそれにつけ加えて展開を図っていくという基本的な姿勢は一貫したものがあるんじゃないかというふうに思いまして、その極めて展望的な、あるいは総合的な成果が「解明』という、非常に総合的な形になってあらわれてきているんじゃないかというように私は思っているわけでございます。

 個々の理論的な分野。たとえばケインズの経済学の中での流動性選好説の評価とか、たとえばマルクス経済学における恐慌論の理論的な展開。それぞれの細かい分野でも先生独自の考え方がございまして、それぞれにいまの分野の研究の水準にとっても、非常に貴重な意味を持っているんじゃないかと、私はひそかに考えておるのでございますけれども、本日のところはそのような基本的な性格づけを御理解できればうれしく思います。細かい分野はまた機会がありましたらお話し申し上げたらと思います。


     『解明』からの展開

 さて、以上のような点を考えますと、杉本先生が未完のままに残した分野を答えなければならないというのが、いわば私たちに残されている課題ということになります。それこそ大変な重荷が、大きな責任が私どもにかかってきているということがよくわかるのですけれども、私自身がそれに対してスパッと簡単な答えを用意するというようなことはとてもとてもそのようなことはできません。それで一言でもそのことについての考えを述べさせていただきまして終わりにさせていただきたいと思います。

 私自身は杉本ゼミナールの中で戦争中昭和十八年に学部に入りましたので、先生から最初のゼミナールで習いましたのは、ヒックスの「バリュー・アンド・キャピタル」でございました。卒論を準備するのに何を勉強するかというのでさんざん苦労しましたが、シュンペーターをやれというのでシュンベーターを勉強しておりました。戦後帰って参りまして、杉本ゼミナールには二つのゼミナールが開かれておりまして、マルクスの『資本論』のゼミナールと、マーシャルの『プリンスプル・オブ・エコノミックス』。この二つのゼミナールが並行的に開かれておりまして、学生はどっちに参加してもいい、両方出てもいい。こういうようなゼミナールでございました。私も初めのうちは両方、だんだんとマルクスの『資本論』のゼミナールに参加するようになりまして、その後ずっと『資本論』の研究というようなところに進んでまいりました。しかし、杉本先生の全体系的な理解というのは、いつでもそばにいてお聞きしておりましたし、またそういうようなことこそがマルクス自身の考え方を生かしていくものだというふうに先生もおっしゃられておりました。その点では『解明』の中にもよく述べられておりまして、たとえば、学問に国境はないはずである。ソビエトとアメリカで学問が違うというようなことはあり得ないはずだ。科学は真理として一つだ。科学
研究というのはどこまでも一つの真理を求めて展開していくのがその任務というものじゃないか。ところが現状ではなかなかそうはいかない。どうもマルクス経済学と近代経済学との間で色目鏡で相手を見る。初めからレッテルを張って勉強もしない。そういうようなことではとても困るんだ。ぜひとも基本的な態度、つまり現実分析の理論的な展開を図る上で真理はーつなんだから科学的な研究の情熱をそれに傾けるべきだ。あらゆる思想分野を踏破していかなければだめなんじゃないか。こういうことが私自身の念頭にもございました。そこで杉本先生の教えの中でマルクス経済学部の内部でもそういう問題が当然考えられるべきでありますし、先生の展開の中でも一つの重要な分野としてそういうことが考えられておりました。それのーつの分野が資本主義社会の構造と発展。そこにおける不均衡過程と言われているものでございます。

 これはちょっと専門的な話になって恐縮ですけれども、資本主義的な自由競争の機構が決して一般均衡理論的な形で自動調整的に均衡状態がつくり出される。こういうのは現実にふさわしくないんじゃないか。現実に合わないんじゃないか。どうしてもそこに自由競争というような運動の中に内部の困難さがあらわれてくる。その困難さはどういぅところにどういうメカニズムであらわれてくるか。それが不均衡化過程と言われているものとして杉本先生も分析しておられまして、これはマーシャル経済学の中にもそういうような萌芽の問題が含まれているというふうに言われております。こういうような理論的な展開を現実との接点の中で追究していく。そこで新しい理論の把捉を可能ならしめる。いつでも現実に密着しながら困難な問題解決するための理論的な問題を展開していく。こういうような作業が着実に果たされていかなければいけないんじゃないかというのが現在のところ私の一つの課題だというわけでございます。

 同時に、杉本先生はこの中でも申しておりますけれども、マルクス経済学の特徴として階級関係を基礎においてと、
こういうふうなことが一般的にも言われておりますし、そのとおりであろうと思われますけれども、しかし経済学の科学としての理論が一つの階級だけで理解される。あるいはそれだけでよろしいとされる。そういうことで科学的な理論だと言えるだろうか。やはりあらゆる階級が、あらゆる人たちが、これこそ科学的な真理だというように納得できる。とことんまで理論を展開するということが必要なんじゃないか。こういうようなことを強調されておりまして、私もそのとおりじゃなかろうかと思いますし、そういう意味で現実的な問題にあくまでも現実問題に接触しながらその内部でそれを解明する理論の展開を図る。こういうような作業をいまの経済社会のダイナミックな発展の中での不均衡化過程というようなものを分析する作業で果たしていきたい。こういうふうに感じているわけでございます。

 これで一応お話を終了させていただきたいと思います。

 どうもありがとうございました。

 
      [質 疑 応 答]

  杉本先生と中山先生が学説的な論争がおありだったと承っておりますが、お差し支えなければ

 種瀬 御質問に出ました、昭和十四年の『理論経済学の基本問題』という最初の書物。理論的な書物でございますが、その中に収録されている論文がございまして、中山先生との間の均衡理論についての考え方の応酬がございます。
同時にこれはまたその後ずっと続いておりまして、たとえばきょうお持ちいたしましたが、直接論争ではございませんけれども、『一橋論叢』の昭和二十八年五月号。先生が亡くなった翌年の五月号、杉本先生の追悼号でございますが、その中に山田雄三先生が、「杉本経済学の課題」というのをお書きくださっておられます。非常に重要な論文でございまして、杉本先生の基本的な特徴をよくお書きくださっておられます。先ほどちょっと指摘しましたようなマーシャルの体系を異質構造論的にとらえるというような理解の仕方が杉本先生の一つの特徴でございます。これと一般均衡理論、つまりワルラス、パレートー流の一般均衡理論。もちろん中山先生はワルラス、パレートー流の一般均衡理論体系をその基盤的な考え方としておられまして、そして、『純粋経済学』という岩波の昔の全書の日本で初めてワルラスの体系を述べられた書物がございますが、それと杉本先生のマーシャルの理解の仕方とが相対応する形で相互にその問題を指摘し合うという形になったわけだろうと思うんです。近代経済学の内部で杉本先生のこういうような内的な形での批判は非常に珍しいんじゃないかと私は思います。

 と申しますのは、マーシャルの理解の仕方でございますけれども、通常ワルラスの一般均衡理論体系に対して部分均衡理論だというふうに理解されておりまして、基本的な、全体から見れば一般均衡理論体系に包接されるある特別の部分的な均衡理論体系にはかならないというように理解されておりますが、杉本先生の理解はちょっと異なりまして、マーシャルが社会全体としては均衡理論的に把握しているけれども、その内容の把握の仕方においては決してそうではない。経済というのは各部分がそれぞれ異質の内容を持っていて、その異質の部分、部分が相互に連関し合っている。その連関の仕合い方が決して一般均衡理論が考えているような自動調整的な均衡状態に収斂していく。そういうようには把捉すべきじゃないんじゃないか。そういうようにとらえるべきではないと、マーシャルは彼の部分均衡論の中で述べているのではないか。

 つまりマーシャルの部分均衡理論というふうに通常言われているあのマーシャルの体系は、決して単なる一般均衡理論に対する部分均衡理論というように把握すべきではなくて、もっと根本的な独特の性格を持っている。それが部分均衡理論を特に異質構造論的な体系であると、こういうように把握したわけでございまして、これはマーシャルの理論そのものに独特の分析の方法がございまして、たとえば時間分析では、短期、長期、長長期とか、あるいは各部分の構造が弾力性によって把握されるとか、弾力性概念です、そういうような様々な分析武器は、みんなこの異質構造をどのように理論的に把握するか、こういうことをねらって鍛えられた理論体系ではないかと、杉本先生がマーシャル評価をされておるんですけれども、この評価は非常に独特な評価じゃなかろうかというふうに思われます。

 『理論経済学の基本問題』の最初に収録されている諸論文が、ワルラス、パレ1トー流の一般均衡理論と、マーシャルの異質構造論的体系把握の対比。そしてワルラス、パレートへの批判と、そういう内容を持っておりまして、そこから先ほど私も最後に指摘しましたような、安定条件論を土台に置いた不均衡化過程。不均衡が形成されていく過程の過程分析。その構造とメカニズムの分析と、こういうようなことが提起されてくるわけであります。そういう意味では非常に貴重な最初のワルラス、パレートーとマーシャルとの理論的な性格づけの違いというようなことを提起されたのが、中山、杉本論争だったのではないか。そういう意味では重要なスタートじゃないかと、私は大変高く評価しているんですが。

 ― 異質構造的な均衡、不均衡というのをもうちょっと御説明願えますでしょうか。

 種瀬 たとえば、ある特定の市場、もちろん同種の市場そのものに需給関係がございまして、マーシャルの体系ですと、それが短期の場合にはある一定の市場での需給関係である価格が形成されてくる。その需給がどういうふうに変動するかによってその価格がどういうふうに変化していくかというようなことが分析される。この形成される過程のメカニズムと、それからどういうふうな変動がそこから起こってくるかということを分析するための需給、需要、供給論とか、あるいは弾力性概念というのがそれに使われているわけでございますが、同時にマーシャルはそのようなある特定の部門でのそういう運動と、それから別の部門。それぞれ商品によって違いますが、様々な部門が相互に連関を持っているはずである。これはまた連関の分析がございますが。しかしその連関は一般均衡理論のように、ある一定の部門で起こった変動が直ちに波及して、それが全休として均衡をつくり出す。ある一定の部門で起こった変化は直ちに瞬間的に波及して、そして全構造的に自動的に均衡体系が成立する。そしてその成立したのがワルラス流の一般均衡理論体系と言われているものだというふうに言われているわけですけれども、マーシャルの場合はそうではなくて、ある特定の分野に起こった変動はその部門を変化させると同時に、それぞれ連関の部門に質が異なれば異なったような変動をもたらしていく。だから全社会的に単純に一般均衡が成立するというふうに簡単には結論が出ない。ある特定の分野での変動はある分野に非常に有利に波及するかもしれませんし、他方では不利に波及するかもしれない。それらが全体として変動が収束していったときにどういう状態になるかということを見定めることがどうしても必要だ。

 それにはそれぞれの異質の構造がどういう連関を持っているかということをその連関の仕方を確かめた上で、全体としてそれが均衡への道になっているか。あるいはそれが全体としては不均衡というようなものをつくり出すような構造連関になっているか。そういうことを連関の中で確かめて見なければならない。これが杉本先生の言う異質構造論的把握と、こういうものじゃなかろうかと思います。そうしますと、一般均衡理論体系とはかなり違った構造の把握を目指していたということが言えるんではないか。こういうことなんでございます。

  それは、いまの独占とか、代替とか、反発とかいう、そういう市場を頭に置いているんですか。

 種瀬 そのとおりでございます。その分析には相互の連関にはいろんな連関の仕方がございますが、代替関係とか相互補完関係とかそのほかにも連関の仕方の分析、武器がございます。

   ただいま、先生のお話の中で杉本先生が課題として残された、ケンブリッジ学派、ローザンヌ学派、マルクス学派、こういうそれぞれの学派の違いを超えて、学問の科学性のために一つの、これを総合的に把握し解析していく立場ができ上がるんじゃないかということをお話し願ったと思うのですが、ただこの場合にいまのお話のようにこの三つの学派の立場というものを超えて、総合的に見える立場というようなものが果たして可能かどうかという問題も御一考いただいているかどうか。あるいはその問題についてどうお考えいただけるか。その辺のところをちょっと御回答いただきたいのですが。

 結局いまの三つの学派の立場というのは、これはそのものの中にはっきりあらわれているとは必ずしも言えませんけれども、それぞれ人間性理解の上の違いというようなものがそこにあると思うんです。

 ごく対照的な話でもって申し上げますと、大体ヨーロッパ人の考え方、あるいはキリスト教徒の考え方の中には、神に向かって無限に近づいていくというような人間というものは常に前を向いて進歩していくものだ、あるいは目的に向かって進んでいくものというような理解を一つの人間理解の極点に置いている考え方がある。

 もう一つは、原始仏教のお釈迦様が最初に唱えられたような、要するに人間の社会というようなものは時間的にはある程度の系列の中ではもちろん・それから、個人の中でも進歩はあるけれども、しかし進歩といったって無限に進歩するとかなんとかいうものじゃないんだと。六道輪廻というような形で循環するもので一人一人は人間としての完成、あるいは如来に近づくための努力はするかもしれないけれども、しかしそれはでき上がった構造そのものについては大きな循環過程の中にあって、それは歴史を重ねるたびに進歩を続けていくなんていうものじゃないんだと、こういう理解がある。それと同じようにいまの三つの学派の根底に置いている人間についての理解も、やはりそれぞれニュアンスを異にした変化があり、この変化の中にそれぞれの民族性格がある。そうするとこれは経済学自体は何と
言っても、それぞれそういう違った民族がそれぞれの基本的な人間理解と、その人間生活の上に立って築いていくものですから、これは違った形であらわれてくるのが当然であって、これを一つにまとめ上げてこの立場でなくちゃいけないんだというような形は必ずしもできないんじゃないかというような気もするわけですが、その辺についてひとつ先生のお考えを伺わせていただきたいと思います。

 種瀬 大変深遠なお話を承って、私自身答えられるかどうか余り自信がございません。しかし関連したことで、お答えになるかどうかわかりませんけれども、一言申し述べさせていただきます。

 マルクスは二十歳ころパリに亡命いたしまして、そこで有名なパリ草稿というのを書きまして、ここで初めて自分自身の思想体系の基盤を築いたと言われているわけです。これが疎外された労働とかいう問題を取り扱った有名な草稿としてでき上がったわけでございます。この初期のころの考え方というのは非常に貴重なもので、現在でも非常に問題の論争の焦点になって研究を続けられているところでございます。

 この初期の草稿が最初に発表されましたのが、ちょうど杉本先生がドイツにおられるころでありまして、この初期マルクスの研究は杉本先生もドイツで非常にお勉強になっておられました。特に一九二〇年代のドイツの思想的リーダーの一人であったカール・コルシュという方がおられまして、これは「マルクシズムス・ウント・フィロソフィ」― マルクス主義と哲学 ― という大きな論文を書かれまして、二〇年代のワイマールドイツにおける左翼の指導的な思想家であったわけでありますが、このコルシュとはベルリンで非常に親しくしておられまして、初期マルクスの研究もコルシュから非常によく学んでおられたわけでございます。

 ここでマルクスは根本的なこととしてどんなことを考えたんだろうかというのが一つの焦点になりますけれども、やはり先ほどからのお話では西欧的な近代市民社会における人間、独立した人格としての人間、これが本当の意味で人間たり得るのはどのような意味でどうしてなり得るか。こういうことを追究するというのがその根源だったのではないか。そういたしまして、人間そのものとは一体何かということをたずねた挙げ句の果てにそれを規定しているのは労働だ。人間が自然に働きかけて活動する。この活動の仕方こそ人間の本質を形成するものだ。これがマルクスの労働概念と言われているものじゃないだろうか。杉本先生もその点は非常に強調しておられまして、例の有名なその当時書かれました「フォイエルバッハに関するテーゼ」というのがございまして、そこで簡単なテーゼとしてマルクスの考えを要約したものでございますが、その中に真の意味の人間、あるいは人類としての人間、それが実践的な展開を図っていくのを指導することこそ哲学の課題だ。人間が実践的な活動をやっていく指導原理が、それが哲学の課題だ。単なる解釈ではだめなんだ。こういうようなことをマルクスは述べておりまして、そのことを先生は非常に強調しておられまして、それが実践としての経済学とか、実践的な原理とかいう言葉遣いでよく表明されておられたんじゃないだろうか。私自身もそれには賛成でございまして、初期マルクスの中でそういう意味での基本的な人間把握というのがずっと後までも彼自身の考え方を規定しているのではないだろうかというふうに考えております。そしてマルクスの非常によく使った言葉に、あらゆる人間的なものに関心を寄せるという言葉がございまして、これもまた先生の好きな言葉の一つでございました。

 そういう意味では西欧的なヨーロッパ的な考え方の、あるいは市民社会的な考え方の土台の上でありますけれども、その中での人間とか、あるいは人間社会とか、そういうものをどのように展開するかということが一つの大きなねらいだったし、それを目指していたんじゃないか。そういうふうな考えを私自身は杉本先生から受け継いでおりますし、そう考えていきたいと思っております者ですが、果たしてお答えになったかどうか。恐縮でございますが、それで失礼させていただきます。

  きょうの論題の延長線上の話でございますが、杉本先生のお考えの流れ、未完に終わられたその思想、それを種瀬先生、その他の後継者の方が受け継いでおられるわけですが、それは戦後一橋の学問の中でどのような展開をされておりますか。お差し支えなければ急な質問でございますが、現代的な方に関連せしめて。

 種瀬 即座にどういうお答えをしたらよろしいかわかりませんけれども、戦後の一橋の中で、杉本先生と同じような形で、近代経済学をも十分にこなしてマルクス経済学へも関心を寄せておられた先生の考え方としては都留先生がおられました。

 都留先生はもともとハーバードで、もちろん近代経済学を勉強されましたけれども、同時に先生はシュンベーターからマルクスを学ばれました。シュンペーターがドイツから亡命してハーバードに行かれたときに、そのシュンペーターのところでマルクスを勉強されました。都留先生のドクター論文は、マルクスの資本論の価値形態論「商品物神性論」というのでございます。そういう意味でマルクス経済学にも非常な強い関心を持っておられますし、都留先生の周辺では、たとえばポール・スィジィー一番の親友のお一人でしょうが―が、やはりシュンペーターの弟子で、サミユェルソン・ポール・スィジィ、都留という三人が揃ってシュンペーターのところで勉強しておられましたけれども、そのスィジイは紛れもないアメリカマルクシアンエコノミストの第一人者となった経済学者だと思います。

 都留先生はそういう意味で、両方の経済学に精通しておられますし、マルクス経済学の考え方を十分消化され、その展開を考えておられました。それが経済研究所の中にもずっと生かされてきているんじゃないかというふうに私は考えております。

 それからまた、一橋の中ばかりではなく、杉本先生のお考えを継いで御勉強になっておられる方、ほかの大学にもたくさんおられまして、私は主としてマルクス経済学を勉強してきましたけれども、近代経済学の流れの中でそれを生かして展開されておられる方。たとえば宮崎義一先生とか、あるいは伊東光晴さんとか、そういう方々が、いわば近代経済学の側面からそういう問題を展開しようというふうにやっておられる方がたくさんおられるんじゃないかというふうに思っております。

  昭和十年、卒業の一年前でございましたが、大塚金之助先生がある事件で引っ張られなさる前に、前列におりましたら、先生が突然黒板に、ディス・インタレステッド・ラブと書きまして、皆さん、経済学をやる以上はこれがわからないとだめだよ、利害関係を超越したところの愛がわからないと。経済学というものはそういう意味で解釈しなければいかんと。そのまま引っ張られて獄中においでなさいました。いま先生のお話のように、一般に経済学の前提というのはホモ・エコノミカ、経済人ですが、経済人には親子の関係も夫婦の関係もない。そういう法則でいきますけれども、そうじゃなくて、いま先生のおっしゃった本当の人間としての立場から構築した経済学と、ホモ・エコノミカで立てた経済学がございます。

 もう一つ突っ込みますと、われわれの観念としての論理体系と実在の論理体系とは、私は違うと思うのでございますが、そこでいろいろな学派ができ問題がいろいろできていると思うのでございますが、先生にお聞きしたいのは、現在のソ連並びに中共が現実なんです。ですから理論的な理想としての共産主義とはまた別のものだと思うんですが、それは観念のものだと思うんですけれども。現実としてのソ連並びに中共の中に本当の人間性が、一部あり一部ないと思うんですけれども。それと現在の資本主義。日本初め西欧諸国の資本主義の中に、人間性が一部あり一部ないと思うのでございますけれども、そういうようなものを、両面の社会経済的なものを現実の社会を貫きまして、真に人間としての経済学の立場で御覧なさいますといかがなものでございましょうか。

 種瀬 いまの問題も非常に重要な問題だと思いますけれども、私自身は直接社会主義経済学や社会主義そのものに
ついての専門家でございませんので、直接お答えすることはどうもむずかしいと思いますけれども、しかし普通の一般的な、それこそ一般市民の立場で通常のニュースソースから聞いている限り、やはり現状の社会主義というのは少なくともマルクスやエンゲルスが考えていたあの ‐ その当時はまだ全くの理想的な社会主義原理でございました。
それとは余りにもかけ離れているのではないか。少なくとも先ほどからちょっと申しましたとおり、マルクスは初期のころから考えセいた近代市民社会の中に生きた人間がその人間の本性にふさわしい社会を実現していくという本来のねらいから見れば、随分かけ離れている分野が大きいんじゃないだろうか。その点は非常に残念とも見えますけれども、その点はぜひとも将来そういうことがないような回復の道をたどってくれるようにというようなことを私は考えるのでございますが。

  大変俗な質問で恐縮でございますが、先ほど先生は、競争原理にも均衡に達し得ない問題がある。確かにそのとおりだと思います。その後で労働といいますか、人間の生き方ですか、そのお話があったのですが、現実の問題として、実は私、チェコスロバキヤと日本との経済委員会がございまして、日本側の委員長を十年はどやっております。
四、五年前に永野重雄さんを御案内して、チェコスロバキヤの大統領や首相等に全部お目にかかったのですが、そのときに先方が聞きますのは、日本は非常にうらやましい。競争原理が動いている。競争があるということが何としてもうらやましい。チェコには競争原理が働かないんだ。自分のところの体制内で何とかして競争原理を働かす方法はないものだろうかと。首相から経済閣僚みなさんから異口同音にそういう質問でございます。日本が戦後これだけ経済発展した極秘を教えてもらいたいということで、その翌年、首相自らが経済閣僚を連れて来日し、日本の近代産業を視察して帰られたんですが、それからも毎回同じように、いかにして生産性を向上するかというような問題を提起しておられます。先ほど人間の生き方、労働の本質というお話がございましたが、私は、人間本来に競争原理といいますか、自己顕現といいますか、そういうものが本性としてどうしてもあるものだというふうに思ういまして、向こうの人達と話をするときには、それを基本に話をしているんですが、そこら辺のところ、これ御意見を聞くために、現状状のそういったことをご説明したのですが−。

 種瀬 ただいまの御指摘も、非常に重要な問題の御指摘じゃないかと思っております。そして、現在ソビエトや東欧圏の経済学の中でその問題が大事な問題の一つに取り上げられております。たとえばハンガリーなんかでは、要するに現在の社会主義が中央統制約な形ですと、需要の側面での働き方というのはゼロなんです。先ほどおっしゃられたとおりの形になっているわけです。何しろ供給すれば供給しっぱなしで、それで結構だと。そういう意味では需要側の側面の働き方というのは完全に働いていない。そこで非能率であるし、非常に低いサービスしか出てこない。これは一体何かと。こういうようなことを基本原理的にも説明しなければいけませんし、それから、御存じと思われますけれど、最近の社会主義社会の経済運営の計画経済の内部に、そういうマーケットメカニズムを部分的に導入していく形での競争原理の導入というようなものが図られている。これもそれぞれ東の国の間でかなり違いがございますけれども、それが決してうまくいっていると思えない。現状はそうじゃなかろうかと思いますけれども、お話しのとおりそういう側面があるんじゃないか。それは人間の本性そのものまでさかのぼってどうかというのはなかなかむずかしいんですけれども、競争原理が働いて成果を挙げていく非常に大きな分野が進歩のためのモメントになっている。.
あるいは技術革新のインセンティブになっている。そういう分野は全く重要な分野じゃなかろうか。この点はマルクスも非常に高く評価しておりまして、シュンぺーターが言われる技術革新の問題というのも、実はマルクス自身もそのことを十分述べておりまして、技術が先進的な資本によって導入されて、それが波及効果を及ぼしていって、それがどういう結果を引き起こしてくるか。こういうような分析がマルクス自身『資本論』の中で非常によくやられてい
るところなんです。
そういうような意味での技術革新とか、あるいは進歩のためのインセンティブとかいう意味での自由競争の役割りというのは非常に大きなものがあか。ところが同時にまた一方で、それがマクロ的なメカニズムの中で働くと、思わざるところに大きな矛盾、問題点を引き出してくる、その両側面をどういうふうに結合させていくか三方のそういぅ困難を引き起こすようなメカニズムをどのように変えたり、あるいは動かしたりしていくか。それが片方の革新的な発展のモメントを生かしながら、そういうことが果たして可能か。こういうような問題をどうしても考えることがいまの社会主義社会でも問題ですし、また杉本先生は、資本主義社会の中でもそういう問題が重要な問題じゃないかと、こういうようなことが指摘されているんじゃないかと思われます。

  杉本栄一先生 略年譜

   一九〇一年(明三四年)  東京に生まれる
   一九一九年(大八年)   東京高商入学
   一九二〇年(大九年)   東京商大に昇格、同予科二年に編入
   一九二二年(大二年)   予科修了、大学本科入学、福田ゼミ
   一九二五年(大一四年) 東京商大卒業
   一九二九年(昭四年)   ドイツ等へ留学、主としてベルリン
   一九三二年(昭七年)   キール、フランクフルトにて研究
   一九三二年(昭七年)   専門部教授《経済原論》閑話
   一九三五年(昭一〇年)  《米穀需要法則の研究》
   一九三七年(昭二一年)   商大講師《経済原論》開講
   一九三九年(昭】四年)   《理論経済学の基本問題》(日本評論社)商大教授
   一九四三年(昭】八年)   《統制経済の原理》 (日本評論社)
   一九四七年(昭二二年) <近代理論経済学とマルクス経済学>(《季刊理論》第二号)
   一九四九年(昭二四年)  《近代経済学の基本性格》(日本評論社)
   一九五〇年(昭二五年)  《近代経済学の解明》(上・中巻) (理論社)
   一九五二年(昭二七年)  九・二四死去
   一九五三年(昭二八年)  《近代経済学史》(岩波全書)



質疑応答段階で新井世話人より当日ご病気の為出席されなかった望月敬之氏(昭和四年卒)より寄せられた一文の披露がありましたので次に掲載いたします。


   杉本栄一先生の学問的実践の一側面

 種瀬先生の格調の高いご講演の後に、私のような者の話を付け加えさせて頂く事は全く借越の事と存じながら、あえて皆様の貴重なお時間を頂戴しようと考えましたのは、実は杉本栄一先生が戦前のある時期においてその学問的情熱を傾けられて貴重なある一つの理論的・実践的な活動をされましたが、それが今では恐らく誰にも知られていないのではないかと存じますので、この機会に是非ご紹介申し上げておきたいと存じました事と、そして又その先生のお仕事が、この会の標榜しておられる「一橋の学問」という極めて優れた実践的特質を持つ学問の良き一面を、象徴的に発揮され世に示されたと考えられるからであります。

 それは杉本先生が昭和十五・十六年の頃、内閣統計局の高級嘱託として官庁の経済統計の整備・統合の仕事に協力された事であります。

 こゝで私事にわたって恐縮ですが、私は一橋卒業後田舎の教師をしておりました処、昭和十五年の国勢調査の計画にあたり、その企画職員の一人として内閣統計局に転ずる事になりました。当時は支那事変中でありましたから、国勢調査を単なる人口の調査だけに限らずに、産業調査を加味して、人と物の国勢調査という形で実施しようとしたのであります。

 その時の内閣統計局長は、川島武彦氏(故人)といってその前に内閣書記官として二・二六事件の時首相官邸の暴動の現場に居って事態の処理に当った方で、当時いわゆる革新官僚の一人でありました。従って当時閑職と考えられた統計局長に転ぜられると同時に、早速統計局改革案を提示され、内閣統計局を官庁統計の中央官庁に改編し、特に官庁の経済統計を集中統合して国策の基本資料を整備しようという目標を立てられたのであります。ところが当時統計局には経済関係のブレーンはおりませんでした。そこで局長が私に向って「われわれの学んだ帝大の経済学は高文試験用のもので実際には何の役にも立たない。現在経済学の中心は何といっても一橋である。一橋から適当な経済学の先生をお迎えしたいから手配してくれ」と言われたのであります。私は早速当時の学長の高瀬荘太郎先生にご相談し連絡をとりました結果、とりあえず統計局の最高顧問として高瀬先生、高級嘱託として杉本栄一先生、赤松要先生。山田勇先生(当時助手)という顧客で発足する事になりました。

 以来この陣容で経済統計に関する問題が検討されてゆきましたが、当面の問題として国民生活の実態を映すべき家計調査が現実に合わなくなったので、その改訂を立案することになり杉本先生が主査で山田先生がそれを補佐し私が局との連絡をとることになりました。

 それから杉本先生の企画立案の為の活動が始ったのですか、その活躍振りには局長以下幹部職員の全員が目を見張ることになったのであります。と申しますのは幹部職員の予想では、杉本先生の改訂案も、学者の常としての机上でのデッチ上げ程度のものであろうと考えていたようでしたが、杉本先生は立案に着手するや否や日本の北から南まで盛んに出張して勤労者の生活の実地現地調査を始められたのです。私も何度かそのお伴をしましたが、例えば東北の山村へ行くと、村長さんの家に農家の人何人かに集って貰って、イロリを囲んで生活の実情をつぶさに聞いてノートされるという調子です。もちろん鉱山へも工場へも商家などにも行かれました。当時大不況の中でしたから集った人の話がはずんだことを思い出します。

 その結果出来上った改訂案は、単純な標本抽出調査方式ではなく、具体的に全国を、産業別・地域別にタイプを設定して幾つかの地帯に区分し、いわゆる層別分割による標本調査の美事な方式で、学問的にも実際的にも非の打ちどころがない案が作り上げられたのでありました。

 又更に先生の立案にはもう一つ別の提案が付け加えられました。それはこの家計調査から得られる資料に基き現在の「消費者物価指数」に当るものを作成すべきであるというのであります。これはその当時消費関係の物価指数と考えられていた「小売物価指数」が、消費者の生活実態を見るのには不十分なので、それに代るべきものとして提案されたのであります。

 以上の「家計調査」は昭和十六年に実施に移されましたが、その結果は、その年の十二月の太平洋戦争勃発の為公表に至りませんでした。又消費関係の物価指数の方も戦争下で見送られ、戦後のインフレ期になって必要に迫られる
まで実現されませんでした。もちろん経済統計の整備統合の問題は、戦争の開始と共に、国策の中心が調査よりも現実の国力総動員に移行してゆく事となり、自然消滅の形となりました。人的にも赤松先生は軍の南方調査の任につかれ、私も南方転出を命ぜられることになったのであります。
こうして杉本先生の企画された昭和十六年の家計調査の結果は、戦争勃発によって日の目を見る事なく、「消費者物価指数」の企画も戦後の物価緊急時まで具体化されず、又経済統計の整備統合への参画も実現しませんでしたけれども、しかし現在私共が、国民消費の指標として毎月発表される統計局の「家計調査」や「消費者物価指数」を見る時、そのどこかに「一橋の学問」としての実践的な杉本経済学の余香のようなものを感じ取りうるように思うのであります。

    (望月氏略歴 昭和四年学部卒業。第一神戸商業学校、内閣統計局、丸善石油、大協和石油化学常務を経て城西大学経済学部教授、       副学長となり本年三月同学を退職。)

                                        (昭和五八年十二月九日収録)



 種瀬 茂  
大正十四年生れ。
         昭和二十三年東京商科大学卒業
         昭和四十年一橋大学経済学部教授
          現 在 一橋大学学長

 主要著書 『マルクス経済学 ― 基礎研究』
         昭和四十一年、春秋社
        『西ドイツ工業における集中』
        (共著、一橋大学独占研究資料)昭和四十四年
        『Lohnarbeit und Kapital』
         一九四酉年、南江堂
         『経済学用語の基礎知識』
         昭和四十九年、有斐閣
         『マルクス経済学の基礎知識』
         昭和五十一年、有斐閣

 翻  訳  『景気循環』
        (ミッチェル著、共訳)昭和四十七年、新評論