は じ め に
ただいま御紹介にあずかりました伊東でございます。本日「一橋のアメリカ経済研究」というテーマでこの席でお話しできる機会を得られましたことを、大変光栄に存じておる次第でございます。
一橋大学におきましてアメリカ経済の研究が組織的に行われるようになったのは私の所属しております一橋大学経済研究所が昭和二十四年五月に発足したときに始まると思っております。
一橋大学経済研究所は昭和二十四年五月に日本及び世界の経済に関する総合研究を達成する目的で新発足したのでありますが、創立当時の研究所の研究部門は一、アメリカ経済。二、ソ連経済。三、国民所得・再生産、四、統計学、五、古典経済の五つの部門があり、創立当初からアメ牛力経済研究部門があったわけです。
アメリカ経済研究部門の創立時期の所属教官は、都留重人教授(研究所就任が昭和二十三年九月)、小原敬士教授(昭和二十四年六月)、私、伊東政吉助手(昭和二十五年六月) で、間もなく佐藤定幸助手と本田創造助手、(ともに昭和二十九年二月)が加わりました。一橋大学経済研究所のアメリカ研究部門は、昭和五十三年度は研究所が大部門制に移行した関係で、米・欧・ソ連経済という研究部門に統合されて今日に至っているわけであります。したがいまして本日の話は、私が昭和二十五年以降長らく所属しておりましたアメリカ経済研究部門の諸先生方の研究を中心に進めることにいたしたいと思います。
アメリガ経済研究部門の主任(主任教授)は昭和二十四年以降小原敬士教授が務められておりましたが、昭和四十二年に定年退官された際に私がその後を引ぎ継ぎました。その後昭和四十九年に経済研究所に金融経済研究部門が新設されましたのでその部門主任に私が移りましたので、アメリカ経済研究部門の主任は佐藤定幸教授が引き継いだわけであります。そのような関係で私は現在大学院の経済学研究科では「アメリカ経済」と「金融経済」という二つの講義を担当しております。いま申し上げました経済研究所の部門主任という制度は、大部門制移行に伴いまして廃止されました。
経済研究所の組織と活動につきましては、藤野正三教授がこの「一橋の学問を考える会」で昨年二月
八日に「一橋経済研究所の活動と現代経済分析」というテーマで詳しくお話ししておりますので私はこれ以上触れないことにいたします。
一橋におけるアメリカ経済研究が本格的に組織的に行われるようになったのは経済研究所にアメリカ経済研究部門が設けられた以降のことですので、したがって戦後のことであります。しかし戦前におきましても東京商科大学の教官がそれぞれの専門分野からアメリカ経済に関説したものは少なくありません。私はたまたま学園史編集委員の研究所選出のメンバーでありましたのでアメリカ経済に関して昔の先生方の業績を調べたことがありますが、単行書といたしましては猪谷善一教授の『亜米利加社会経済史』(昭和十年)を挙げることができます。
アメリカ経済研究部門の初期の活動
話を経済研究所のアメリカ経済研究部門の活動に戻しまして、その初期の研究活動について少しお話ししてみたいと思います。
私が昭和三十五年に経済研究所に参りましてからの経験によりますと、アメリカ経済研究部門は創立当時の経済研究所の中では重要視されていた研究部門であったというふうに思っております。それはアメリカで大学・大学院生活を送られ、在米十年という研究歴を持っておられる都留重人教授が当時所長をしておられまして、その都留所長の影響も大きかったというふうに私は思っておるわけであります。
都留先生が一橋大学経済研究所へ教授として来られましたのは昭和二十三年九月でございます。そして昭和二十四年十一月に経済研究所の初代の専任所長になられました。それまでの所長は学部の先生が兼任しておりました。たとえば都留所長の前は中山先生が兼任所長をしておられました。専任所長は都留先生が最初であって、それは昭和二十四年十一月でございました。それから昭和三十一年十月まで都留先生が所長として研究所の発展に非常に貢献されましたことはいまさらここで申し上げるまでもありません。
ここで私が特に都留先生について申し上げたいことは、一橋大学経済研究所の前身であります東亜経済研究所に一時嘱託研究員として勤められたことがあることです。それは昭和十八年でございます。その点につきまして昭和五十三年四月十八日に如水会館において行われました「一橋大学経済研究所の歴史」についての座談会で都留先生は次のように述べておられます。
「戦争中に、昭和十八年三月二日に、中山先生より電話で研究所に入らんかというお話しがありました。それでその年の三月九日に、この如水会館で高瀬、中山両先生とお会いして、私はアメリカ研究をやりたいんだが東亜経済研究所という名前になっておりましたのでアメリカのことはできないでしょうからお断りすると申し上げましたら、高瀬先生が将来アメリカ研究の主任になってほしいというふうに考えているんだから再考してくれということで、その年の六月六日に私は中山先生をお訪ねして、研究所入りを承諾しました。それで約一年いたんです。」
この座談会は昭和五十三年四月十八日に実施されまして、その速記録が昭和五十四年四月十一日に出ております。その中からいま引用申し上げたわけであります。都留先生は嘱託研究員として東亜経済研究所に勤務しているときに兵役に服されまして、兵役から戻られたときに嘱託研究員をおやめになって外務省に任官しました。その後経済安定本部に転じて非常な功績を挙げられたわけであります。一橋大学経済研究所に再度来られましたのが昭和二十三年九月六日でございます。いま引用いたしiした都留先生の座談会のお話しの中でアメリカ研究をしたいということが述べられておるわけでございますが、実際にはアメリカ経済研究部門の主任は昭和二十四年六月に経済研究所に来られた小原敬士教授が務められて、都留先生は所長の傍ら国民所得・再生産研究部門の再生産部門主任を務められていたと記憶しております。
当時経済研究所の教官は二つの研究部門、主部門と従部門と呼んでおりましたけれども、二つの研究部門に属することを原則としておりました。ですから都留先生は主部門が再生産部門で、従部門がアメリカ経済部門であったと私は思っております。
都留先生のアメリカ研究については後で触れることにいたしまして、まず小原先生を中心とした初期のアメリカ経済研究部門の活動をかいつまんで振り返ってみることにいたします。
まず創立当時のアメリカ経済研究部門の研究業績を調べてみますと、次の諸論文が経済研究所の機関誌である『経済研究』に発表されております。論文名を挙げますと、小原敬士・伊東政吉、「アメリカにおける最近の経済集中」(一巻四号、昭和二十五年十月)、小原敬士「アメリカ独占資本の特質―独占産業の資本蓄積形態―」(二巻二号、昭和二十六年四月)、小原「アメリカにおける剰余価値率と所得分配率」(三巻二号、昭和二十七年四月)小原・伊東、「アメリカにおける資本形成」(四巻一号、昭和二十八年一月)、小原・伊東「戦後アメリカの貿易と国際収支」(四巻三号、昭和二十八年七月)。このように『経済研究』に発表されました論文だけ見ましても、当時アメリカ部門の研究活動はかなり活発であったといえると思います。私自身所属しておりましてそういうことを言うのは大変おこがましいのでございますけれども、当時新発足いたしました経済研究所の中にありまして、アメリカ経済研究部門は都留先生も交じえまして非常に熱心に研究が進められていたと、思うわけであります。
いまのは研究業績の面で若干論文だけた触れたわけでございますが、次に教育面を振り返ってみます。当時研究所の教官は学部の講義を担当しておらなかったのであります。しかし昭和二十四年度から昭和二十七年度まで研究所セミナー講義が開設されまして、アメリカ経済について申し上げますと、小原教授が昭和二十四年度「世界経済」 (アメカ及びソ連)というセミナー講義を当時助教授でありました野々村一雄先生と共同で担当されております。この「世界経済」の講義については、野々村先生のソ連経済の講義はそう回数が多くなくてほとんど小原先生がアメリカ経済のことについてお話ししていたというふうに思います。次に昭和二十五年度に小原先生が「アメリカ経済論jを担当しておけます。
次に大学院のことについて申し上げますと、昭和二十八年度から研究所の教官は大学院講義に参加をいたしました。都留教授は社会学研究科で「米国社会」を担当されました。小原教授は社会学研究科で「米国社会」、それから経済学研究科で「酉洋経済史特殊問題」を担当ざれ、アメリカ経済を中心とした講義を行ったということを記憶しております。社会学研究科の「アメリ力社会」という講座は今日まで継続いたしております。経済学研究科では昭和四十四年度に「アメリカ経済特殊問題」という講座が新設され、それ以降研究所のアメリカ経済研究部門の所属教官は大学院において、「アメリガ社会」、「アメリカ経済特殊問題」のいずれかの講座を担当するということlこなっておるわけであります。
小原敬士教授の業績
初期の研究・教育活動というのはそのくらいにいたしまして、次に非常に長い間アメリカ経済研究部門の部門主任として業績を挙げられ昭和四十九年三月二十六日に旅行先の香港リパルス・ベイ・ホテルでお亡くなりになりました小原敬士教授のことについて少し詳しく御報告したいと思います。
実は現役の教官まで含めて非常に詳しくお話ししようと思いましたが、ここに御出席の皆さん方は私どもの大先輩が多いことがわかりましたので、現役の教官はまだ現在活躍中でございますので、なるべくそういう方々の業績はここでは詳しくお話しする必要がないんじゃないかというふうに思い直しましたので、すでにお亡くなりになりました小原先生と、定年退官されました都留先生の業績についてお話し申し上げた方がよろしいかと思います。もし時間がありましたら現役の教官にも若干触れることがあるかもしれません。そういうように話しを進めさせていただきます。
小原敬士先生の略歴を申し上げますと、神戸高商を出られまして東京商科大学に進まれたわけですが、東京商科大学では金子鷹之助教授に師事いたしまして「外国経済史」を専攻されました。昭和四年に東京商大を卒業されまして、卒業と同時に横浜市立横浜商業専門学校(現在の横浜市立大学商学部の前身)に就職されまして、「海外経済事情」と「経済地理学」の講座を担当されたそうでございます。「経済地理学」につきましては本日のアメリカ経済のテーマと離れますのでその分野に関する小原先生の業唐は割愛させていただきまして、アメリカ経済の研究についてだけお話しいたします。
先生は昭和四年に横浜市立横浜商業専門学校に勤められまして、昭和五年「海外経済事情」の葦座を担当したときにアメリカ経済についての研究を始められたそうでございます。横浜市立横浜商業専門学校の付属施設として昭和八年に横浜経済研究所が設立されました。その第】期事業としてアメリカ経済の共同研究が行われたわけであります。この共同研究で小原先生はアメリカ農業経済を分担されました。機関誌『横浜経済研究所時報』が当時創刊されまして、先生もその機関誌に論文を執筆されたということでございます。この時代の先生の研究成果は『アメリカ統制経済論』(一元社、昭和十二年)という書物にまとめられております。この書物が出たのが、昭和十二年(一九三七年)ですから、ちょうどニュー・ディールが進行中に書かれたものであります。後年先生はこの書物に非常に不満を漏らしておりました。私も直接「あの本は読んでもらいたくないよ」と先生がおっしゃっていたのを記憶しております。この書物が書かれたのはニュ・ディールの進行中、まだ資料も非常に不十分であった当時のことで、先生の立場もまだ確立されていなかった時代のことですから、後年の研究の上に立った先生の目から見ればその処女作の欠陥が目についたのもある程度やむを得なかったかもしれません。先生はニュー・ディール研究をその後もずっと続けておられまして、業績を調べてみますと『アメリカの通貨金融政策』が昭和二十二年に世界経済調査会から出ております。
それからニュ!ディール研究として最も新しいものとして、『ニュー・ディールの社会経済史』ガ清明会新書として
昭和四十四年に出ております。
小原先生は横浜商業専門学校に勤めておられたわけですが、戦時中に思想問題で同校を去らなければならないという不運に見舞われましたが、その後金融経済研究所の研究主任としてその研究活動を続けられたわけであります。戦後、昭和二十二年担横浜市立経済専門学校(横浜商業専門学校が改栴)の教授職に復帰いたしまして、同校が昭和二十四年に横浜市立大学商学部に昇格すると同時に商学部教授になられました。そして同じ年の六月に一橋大学経済研究所のアメリカ経済研究部門の主任教授に迎えられたわけですが、当時確か先生は副所長のような役目をされていたのではないかと思います。それで都留重人所長とともに改組間もない経済研究所の充実と発展に尽力されたわけであります。
そのころの先生の研究はアメリカ経済学もしくはアメリカの経済思想に関するものが非常に多かったと思います。金融経済研究所在職時の仕事としてはコーリン・クラークの『経済進歩の諸条件』初版の翻訳が日本評論社から昭和二十年に出ております。この金融経済研究所時代から先生はすでにソースタイン・ヴェブレンンやアメリカの制度学派の研究に従事されておられました。その当時小原先生も都留先生もまだ一橋大学に来ておられなかったのですが、当時から小原先生は都留先生と非常に親しくしておられました。それで都留先生の影響もありまして、小原先生はアルビン・H・ハンセンやポール・サミュエルソンの著書論文にも注目するようになっております。小原先生はそれまで「経済史」を専攻されておりまして、経済地理学や海外経済事情の講義も担当されていましたが、近代経済学の研究はそうされていなかったと思います。しかしいま申し上げましたように、多分都留先生の影響も非常に大きかったと思うんですが、ハンセンやサミュエルソン等の近代経済学者の著書、論文にも非常に注目するようになりました。
「ヴェブレンを通じてわたくしが学ぶことができたことは、アメリカ資本主義の本質を、「制作者気質」(ワークマンシップ)と「商売人気質」(セールスマンシップ)との二元性において捉えるということであった。それまでのわたくしは、アメリカ資本主義の性質を考えるばあいに、ピューリタニズムに重点をおくマックス・ウェーバー流の考え方から脱却することができなかった。昭和二十三年に出した『アメリカ資本主義の形成』という書物はなお多分にそのような傾向を示していた。しかし、わたくしは、アメリカ経済史の探究をふかめていく途中で商業資本が産業資春と相並んで、経済の発展過程で積極的な役割を果していたことやアメリカの企業者が生産者であると同時に、すぐれて盗賊貴族」であったことに気づかないわけにはゆかなかった。このような二元的な考え方は、ヴェブレンをよむとともにますますふかくなった。というのは、ヴェブレンのばあいには、制作者気質と商売人気質、産業と企業の二元性がその全思想の根底を形づくっていたからである。わたくLはそのような二元論の上に立って、アメリカ経済史を見直し、そして書き直したいと思った」 (二三ページ)。
先生はヴェブレン研究でも第一人者であったと思いますが、しかし私は先生のライフワークはアメリカ資本主義の形成と発展に関する研究であったというふうに思っております。そこでアメリカ資本主義の研究についての先生の業績を振り返ってみたいと思うわけであります。
アメリカ資本主義の研究
先生のアメリカ資本主義に関する研究には、『アメリカ資本主義の分析』(東洋経済新報社、昭和二十二年)、アメリカ資本主義の形成』(時潮社、昭和二十三年)、『近代資本主義の範疇―ゾンバルト資本主義理論」』(青木書店、昭和二十三年)、『アメリカ独占資本主義の形成』(岩波書店、昭和二十八年)、『資本主義入門ーその歴史と将来一』(社会思想社、昭和四十一年) などがあります。
先生は昭和三十七年三月に『アメリカにおける産業資本形成過程の研究』 によって一橋大学より経済学博士の学位を受けておられます。
アメリカ資本主義研究の一環といたしまして先生はいろいろな翻訳をしておられますが、バラン・スウィジー共著『独占資本』 (岩波書店、昭和四十二年)、H・マクドフ 『現代の帝国主義』 (岩波書店、昭和四十四年)、S・レンズ 『軍産複合体制』(岩波書店、昭和四十六年)、E・キーフォーヴァー『少数者の手に』(廿内書店、昭和四十一年)、D・コンデ『アメリカの夢は終った』(岩波書店、昭和四十年)、H・フォークナー「アメリカ経済史」 (至誠堂、上巻昭和四十三年、下巻昭和四十四年) などを挙げることができます。
それから、先生はアメリカ資本主義に関するガルブレイス教授の分析にも非常に関心を持たれていたわけですが、ガルブレイスにつきましては翻訳が二冊あります。その一つは『大恐慌一九二九年』(徳間書店、昭和四十八年、改訂版伊東政吉共訳TBSブリタニカ、昭和五十五年) で、もう一冊は『軍産体制論』 (小川出版、昭和四十五年) であります。ガルブレイス教授の経済思想を平易に説いたものといたしましては『ガルブレイスの経済思想』 (鹿島研究出版会、昭和四十五年) があります。さらに『アメリカの財閥』(東洋経済新報社、昭和二十九年)、『ビッグビジネス論』 (丸善株式会社、昭和四十六年)も先生の独占資本主義の研究として挙げることができます。編著には【アメリカ軍産複合体制の研究』 (日本国際問題研究所、昭和四十六年)があります。
先生のアメリカ資本主義研究は、経済史、経済地理、経済思想という広範な分野からのものであり、われわれは先生の研究の集大成を期待していたわけでございますが、先生は香港で急病でお亡くなりになり、その期待がもはやみたされることがなくなったということは非常に残念に思います。ただ幸い先生は「アメリカの現代資本主義」というテーマで『世界経済評論』誌に昭和四十五年四月から講座を連載しておられます。この講座は先生の死後に出ました昭和四十七年六月号、これが第二十三回目に当たりますが・それで完結しております。最終稿は三月中旬に手渡されたということでございますので、これが多分先生の御遺稿になったのではないかと思われます。この最終稿の中で先生はアメリカ資本主義の将来について次のように述べておられます。
「現在、アメリカの社会が直面しているいろいろな社会的災厄は、アメリカ資本主義の構造や制度の奥底にその根底をもっている。それらの問題を体制の枠のなかで解決することは、いかにして可能であろうか。それが、アメリカ社会が面前にひかえている大きな挑戦である。
したがって、それらの問題を解決するための第二のアメリカ革命は、「新経済政策」やニュー・ディールとは比べものにならないくらいの深くそして広範な変革を必要とするであろう。そのためには、体制の枠を大幅に踏み越えることが必要となるかもしれない。」
これは『世界経済評論』昭和四十七年六月号の五十六ページから五十七ページの引用でございます。
先生は昭和四十二年にー橋大学を定年退職ざれまして、その後関東学院大学に転じられ現職のままお亡くなりになったわけでありますが、その研究執筆活動は非常に盛んであったように思います。昭和四十五年以降はアメリカ学会の会長の要職にあました。私は昭和二十五年以降ずっと先生が一橋大学経済研究所を定年退官されるまで、先生と同じ研究室、もしくは隣り合わせた研究室でずっと先生に師事していたわけでありますが、いま振り返ってみましても先生の業績は非常に優れたものであったし、またその著作の多いのには改めて畏敬の念を深くするわけでございます。翻訳も経済学者としては珍しく多いと思いますので調べてみたのですが、共訳書を含めますと二十冊を超えております。先生は「翻訳というのはコマ切れの時間も利用できるからいいよ」といっておられました。翻訳書も非常に多いのですが、もちろん単行書もいろいろ指摘しましたように、たくさんお書きになっております。こういうふうに優れた研究業績を残しておるわけでございますけれども、亡くなるほんの少し前にお書きになりました「アメリカ経済研究の回顧j(東洋経済『書窓』、昭和四十七年一月)を次の言葉で結んでいるのが私には非常に印象的なのであります。
「それにしても、学問の世界のなんと広くそして深く、自分の力のなんと微小なことか。すぎ去った四十年を回顧して思うことは只それだけである」(二三ページ)。
これが先生の結びの言葉でございます。私はこの言葉こそ研究一筋に貫いてこられた先生にして初めていいえた言葉ではないかと、感銘ひとしお深いものがあります。
小原先生については大体そのくらいにいたしまして、あとどうしても触れなければならないのは、都留先生の業績であろうと思います。
都留重人教授の業績
都留先生のアメリカ経済に関する業績は昭和二十年代に集中しておられます。先生の処女作は有斐閣から昭和十九年六月に刊行されよした『米国の政治と経済政策』という書物ですが、これがアメリカ経済に関する先生の処女出版であると思います。先生は昭和十八年二月から三月にかけて東大で特別講義を行っておりますが、そのテーマが「第一次大戦後の米国の政治と経済政策」であります。この特別講義の講義案を基にいたしまして出ましたのが『米国の政治と経済政策』という書物でございます。これは昭和十九年、戦時中に出た本であります。ぞの後先生は昭和二十年代に次のような書物を書いております。「アメリカ資本主義の展開』(近代思想社、昭和二十四年)、『アメリカ経済学の旅』(理想社、昭和二十四年)、『アメリカ経済の発展』(勁草書房、昭和二十六年) であります。このようにアメリカ経済に関する先生の業績は昭和二十年代に多く出ております。比較的新しいものとしては昭和四十九年に出ました鈴木圭介教授の還暦祝賀論文集、『アメリカ資本主義の成立と展開』 (岩波書店、昭和四十九年) の中の論文で「一八九〇年代のアメリカ資本主義の独占化」があります。都留先生の業績は幸い『都留重人著作集』 の第九巻『アメリカの政治と経済』(講談社、昭和五十一年)にまとめられております。この書物は先生がそれまでにお書きになりましたアメリカに関する著書、論文を編集者がうまくアレンジしてまとめましたもので、先生のアメリカ研究を知るために大変参考になります。本日この席でお話しをするために改めてその第九巻を読み直してまいったわけですが、今日読みましても、先生の執筆はほとんど二十年代であるにもかかわらず、その分析の鋭さ、みずみずしさを少しも失っていないと思います。昭和二十年代といいますと、まだ戦後間もない時期で、日本ではアメリカの書物、資料がそう十分に入っていたわけではありません。私の経験から申し上げましてもそう言えると思います。そういうときに一早く立派な書物を次々とお書きになっているということは、やはり先生が滞米十年の研究生活を送り、アメリカ経済を膚で感じておられたことが大きいと思います。もちろん先生の業績は経済分析が中心でございますが、もっと広い視野、たとえばアメリカの政治、社会、文化、そういうものを念頭に置いた上で経済分析を行っている点に特徴があります。そういう点で非常に立派な、普通の経済学者ではなかなかできないような研究業績をあげておられるわけでございます。
戦後のもっと新しい時代についても先生が分析してくだされると私どもは非常に勉強になるわけでございますが、残念ながら先生の業績は昭和二十年代に集中され、一番新しい業績が昭和四十九年の論文であるということでございます。もちろん先生はアメリカ関係の書評などはその後もずっとお書きになっておりますけれども、アメリカ経済に関する専門の研究業績に限るといまのよう言えると思います。
現役の教官の業績
あと少し時間がありますので現役の先生方について、お話ししておきたいと思います。
佐藤定幸教授 佐藤教授は昭和二十九年から経済研究所に来られまして、非常に多面的な研究を進められておりますが、その業績の分野だけでも御紹介いたしておきますと、まずアメリカにおける経済力集中と金融資本の分析が一つの研究分野としてあります。非常に多くの論文を書いておられますが、その主要なものだけを挙げますと、「アメリカ自動車産業における独占−戦後における自動車産業の集中1」(『経済研究』九巻三号、昭和三十三年七月)、「戦後アメリカにおける経済力集中と独禁政策」(『世界経済評論』昭和三十九年六月)「アメリカにおける経済力集中の新動向と反独占政策」(「経済研究』二十巻一号、昭和四十四年一月)などがあります。著書としては「米国アルミニウム産業―競争と独占―(岩波書店、昭和四十二年)、『コングロマリット』(毎日新聞社、昭和四十四年)があります。
金融資本関係の論文としては「アメリカの金融資本−利益集団は消滅したか―」(『経済研究』十八巻四号、昭和四十二年十月)、「アメリカ経済法における『家族支配(『一橋論叢』六十二巻六号、昭和四十四年六月)があります。
佐藤教授の第二の研究分野はアメリカの景気循環に関するものでありまして、論文は省略させていただきまして著書だけを挙げますと、『戦後世界の景気循環』三一書房、昭和三十四年)があります。
第三番目の研究分野は多国籍企業に関する研究でございます。佐藤教授の研究は最近もっぱらこのテーマに集中しております。主要な論文を挙げますと「多国籍企業の行動と論理―特に国家主権と関連してま」(『経済研究』三十三巻三号、昭和四十七年七月)、「資本輸出の現代的形態と世界企業」(『新マルクス経済学議座』第三巻、有斐閣、昭和四十七年所収)、「多国籍企業における資本調達の理論と現実」(『経済研究』二十五巻三号、昭和四十九年七月)、最近のものといたしましては「アメリカに対する外国直接投資―最近における急増とその意義―」(『経済研究』二十六巻四号、昭和五十年十月)、「アメリカ銀行業への外国投資」(『経済研究』三十巻二号、昭和五十四年四月)があります。
本田創造教授
アメリカ経済研究でもうー人紹介しなければならないのは本田創造教授の業績でございます。本田教授は佐藤教授が助手として経済研究所に来られましたときに一緒に助手になられた方でございまして、長らく経済
研究所で私どもと一緒に研究活動を続けておられました。その後一時神戸大学に移られまして、再び一橋大学の社会学部にお戻りになりまして、現在社会学部の教授として研究を続けられております。
本田教授の研究は、一つはアメリカ経済史の研究、もう一つは黒人問題の研究でありますが、その二つを相互に密接に関連付けて研究しているという点に本田教授の研究の特質があると私は考えております。第一の研究分野のアメリ力経済史については非常にたくさんの論文をお書きになっておりますが、時間もございませんので著書だけを挙げさせていただきます『アメリカ南部奴隷制社会の経済構造』(岩波書店、昭和三十九年)がそれです。
第二の研究分野である黒人問題についても非常に多くの論文がありますが、ここでも単行書だけ挙げますと、「アメリカ黒人の歴史』(岩波書店、昭和三十九年)、『アメリカ社会と黒人一黒人問題の歴史的考察―』(大月書店、昭和四十七年)、『南北戦争・再建の時代1ひとつの黒人解放史―』(創元社、昭和四十五年)があります。これらが本田教授の主な業績であると言えます。
平井規之助教授 次に、現在アメリカのマサチューセッツ大学で研究中であります平井規之助教授がおります。平井助教授は、景気循環と戦前のニュー・ディール研究を主要な研究テーマとしております。平井さんは昨年の七月からマサチューセッツ大学へ行っておりまして、多分二年あちらで研究してくると思いますが、滞米研究後の平井さんの業績を私どもは非常に期待しておるわけであります。
最後に、私自身どういうことをやってきたかということをごく簡単に述べさせていただいて本日の話しを終えたいと思います。
私自身は戦後のアメリカ経済政策、特に金融政策を中心に研究してまいりました。その著書といたしまして『アメリカの金融政策その論争点の分析 − 』(岩波書店、昭和四十一年)があります。、
最近アメリカでは金融の自由化と、それとの関連で金融制度改革が非常に急速に進められております。私は最近それらの研究をしておりまして、論文を幾つか書きましたが、一番最近のものは、私と、日本銀行の現在金融研究所長をされております一橋大学出身の江口英一さんと共編の『アメリ力金融革命』 (有斐閣、昭和五十八年八月) に含まれている第一章と第二章であります。それから、あと経済政策関係についてもいろいろ論文を書いておけますが、論文名は省略させていただきます。
戦後アメリカの経済実績
アメリカの戦後の経済政策をいろいろ研究してきて、アメリカの経済政策について、どのようなことを特徴的なこととして感じたかをごくかいつまんでお話ししたいと思います。アメリカは非常に経済学者の考えや政策立案を重視する国ではないかと思います。その理由を述べます。アメリカでは、一九四六年に雇用法ができまして、その法律に基づいて大統領経済諮問委員会が設置されております。この大統領経済諮問委員会には三人の経済学者が選ばれて、その一人が委員長になるわけでございますが、その方々の経済政策の立案が大統領の経済政策となって生かされてくるという仕組みになっています。この点が非常に特徴的ではないかと思うわけであります。
そこで歴代の政権の特徴的な政策がどういう経済実績を生んでいるかということを比較してみた表がございます。その表に基づいてお話しします。
戦後はカータ政権の前までは八年ごとに民主党政権と共和党政権が交代しておりました。トルーマン民主党政権が一九四六年よ二年、アイゼンハワー共和党政権が一九五三年〜六〇年、ケネディ=ジョンソン民主党政権が一九六一年〜六八年、ニクソン=フォード共和党政権が一九六九年〜七六年であります。そこまでは大統領の任期二期、八年ごとと言っていいかと思いますが、その次のカーター民主党政権が一九七七年〜八O年で一期、四年。次のレーガン共和党政権は一九八−年から現在に及んでいるわけです。
民主党政権と共和党政権が交互に政権を取っておりますが、民主党政権と共和党政権では大統領経済諮問委員会のメンバーががらりと変わります。民主党政権の場合は大体ケインジァンの経済学者が大統領経済諮問委員会のメンバーなりますし、共和党政権の場合ですと大体アンチ・ケイジァンの学者がメンバーになります。現在のレーガン共和党政権で言いますとマネタリズムを信奉するいわゆるマネタリストとか、供給面を重視するサプライサイダーと言われている人たちが大統領経済諮問委員会のメンバーになりますので政策の重点が非常に変わってまいります。
たとえばトルーマン民主党政権のときですと完全雇用ということが政策目的として極めて重視されておりましたので、政策手段として財政政策に重点が置かれました。これはケインズ経済学からそういう結果が導かれるわけであります。
第1表 共和党政権と民主党政権の経済政策の比較
政策月的 政策手段の重点 金融政策 金融政策の特徴
1.トルーマン民主党政権(1946−52) 完全雇用 財政政策 低金利政策 国債価格支持政策
2.アイゼンハワー共和党政権(1953〜60) 物価安定 金融政策 高金利政策 ビルズ・オンリー政策
3.ケネディ=ジョンソン民主党政権(1961〜68) 経済成長 財政政策 二重金利政策
国際収支均衡
4.ニクソン=フォード共和党政権(1969〜76) インフレ抑制 金融政策 高金利政策 歴 史 的 高 金 利
国際収支均衡
経 済 回 復
5.カーター民主党政権(1977〜80) 経 済 回 復 高金利政策 歴 史 的 高 金 利
インフレ抑制
(ドル防衛)
6,レーガン共和党政権(1981−) インフレ抑制 高金利政策 歴 史 的 高 金 利
経済実績
実質GNP成長率 物価上昇率 平均失業率
卸 売 消費者
1.1946〜52 4.46% 5.11% 4.77% 1946年 3.9%→1952年 3.0%
2.1953−60 2.44 1.47 1.65 1953年2.9→1960年 5.5
3.1961〜68 5.22 1.21 2.09 1961年6.7→1968年 3.8
4.1969〜76 2.46 8.99 6.59 1969年3.5→1975年 8.5→ 1976年 7.7%
5.1977〜80 3.32 9.73 9.72 1977年7.1→1979年 5.8→ 1980年 7.1
6.1981〜82 3.00 6.64 8.25 1981年7.6→1982年 9.7
次にアイゼンハワー共和党政権になりますと物価安定が重視され、どちらかというと経済的自由主義の立場から、財政政策よりも金融政策の方に重点が置かれることになります。
ケネディ=ジョンソン民主党政権ですと、ケインジァンの中のさらに徹底したニュー・エゴノミストと呼ばれる人
たちが大統領経済諮問委員会のメンバーになっておりますので、財政政策を中心とした経済成長政策に重点が置かれることになります。
ニクソン=フォード共和党政権になりますと、今度は逆にインフレ抑制で金融政策に重点が置かれてまいります。
その次にカーター民主党政権ですと今度は経済回復に重点が置かれ、レーガン共和党政権ですと、今度またインフレ抑制といった具合です。
こういうように民主党政権と共和党政権では特徴的な経済政策が行われ、その結果異なる経済実績があらわれています。たとえばトルーマン民主党政権の一九四六年〜五二年の時期には、平均値で見ますと、実質GNPの増加率、これは俗に経済成長率と呼ばれているものでございますが、これが四・四六%という非常に高い値を示しています。日本と比べると四・四六%は、余り高いように感じないんですが、実はアメリカの成長率は非常に長期的に見て、クズネッッのデータで計算しますと、戦前において三・〇%であり、アメリカ資本主義の発展期においてもその程度ですので、それと比べると戦後のトルーマン民主党政権の四・四六%という値は非常に高い成長率を示しているといえます。
物価の方を見ますと、物価上昇率は卸売物価が五・一一%、消費者物価が四・七七%の謄貴を示しております。平均失業率は一九四六年の三・九%が一九五二年には三・〇%というふうに低くなっております。ですからこの失業率を見ても、トルーマン政権の時代は非常に景気がよかったということがわかるわけであります。
次のアイゼンハワー共和党政権になりますと、物価安定、インフレ抑制に重点を置かれまして経済政策が実施されましたので、実質GNP成長率を見ますと二・四四%、 ちょうどトルーマン民主党政権の半分ぐらいに落ちてしまうわけです。そのかわり物価上昇率は卸売物価で一・四七%、消費者物価で一・六五%という上昇率でありますから、物価安定という目的は十分果たしているということが言えます。そのかわり平均失業率を見ますと、一九五三年の二・九%という低い失業率が一九六〇年には五・五%という高い失業率になっています。結局引き締めをやって失業率をふやして成長率を減らしたかわりに物価は安定したということであります。
次のケネディ=ジョンソン民主党政権の八年を見ますと、このときは実質GNP成長率で五・二二%という、まさにアメリ.カでは史上空前と言っていい高い成長率を示しているわけであります。物価はそれではうんと上がったかといいますと、この八年間を通算して平均値で見ますと、卸売物価で一・二一%、 消費者物価で二・〇九%というかなりいい値を示しているわけです。平均失業率を見ますと、一九六一年には、前のアイゼンハワー政権の不況を引き継ぎましたので六・七%と非常に高かったのでありますが、それが一九六八年には三・八%に低下しております。ですから八年間を通算してみますと経済実績は抜群なんですが、ただ残念ながら一九六六年以降ベトナム・エスカレーションがございまして物価上昇が急に進みましたので非常に悪い印象を与えているわけであります。
次のニクソン=フォード共和党政権の時代ですと、ジョンソン民主党政権の末期のインフレを引き継ぎましたので、インフレ抑制という観点から今度は引き締めに要点が置かれてきます。そういたしますと実質GNP成長率が二・四六%というふうにその前のケネディ=ジョンソン民主党政権に比べると半分以下になっております。
それでは物価は安定したかといいますと、卸売物価がこの八年間の平均値で八・九九%消費者物価が六・五九%ですので、決して物価安定に成功したとは言えないと思います。失業率を見ますと一九六九年の三・五%が一九七五年には八・五%にまで上がっています。一九七六年にはそれが七・七%まで低下しておりますが、失業率は非常に高かったと言えるわけであります。
次のカーター民主党政権は、その前のニクソン=フォード共和党政権、特にフォード共和党政権の末期の不景気を引き継いでおりますから、最初は経済回復に重点が置かれ、景気はよくなったのですが、再び物価上昇が生じました。そこでまた引き締めに転じ、景気も悪くなりました。この四年間を通算してみますと実質GNPの成長率は三・三二%この値はまあまあの値ですが、残念ながら物価上昇率がこの四年間の平均値で見ますと、卸売物価で九・七三%消費者物価で九・七二%ですからもう少しで一〇%に達しそうなところになっておりますので、これはやはり経済実績としてはほめられた値ではないということが言えます。失業率は、前の景気の悪い失業率を引き継いでおりますので、一九七七年には七・一%でしたが、その後景気の回復につれて一九七九年にはこの失業率が五・八%まで下がっておりますが、それが一九八〇年にはまた七・一%に上がっております。
次のレーガン共和党政権は一九八一年と八二年の二ヵ年だけの実績を見ますと、実質GNP成長率が三・〇〇%物価上昇率が卸売物価で六・二六四%、消費者物価で八・二五%になっております。このときはやはり非常な高金利政策をとりまして金融も引き締められておりますので、一九八一年の失業率が七・六%でしたが、一九八二年には九・七%に上がっております。
このようにアメリカの戦後の経済政策をずっと通観してみますと、結局民主党政権と共和党政権はかなり特徴的な政策を行っており、しかもその経済実績が非常に対称的であることがわかります。ただカーター民主党政権とレーガン共和党政権の二つの政権の実績を見ますと、失業率もよくないし、物価の安定という点でもうまくいっていない。いわゆるスタグフレーションという状能が起きておりまして、非常に困ってた状態になっておるわけであります。幸いアメリカも最近は景気回復に向かっているようですので、これからはもう少しよい経済実績を示すのではないかと思っております。
予定の時間がまいりましたので私の話しはこれをもって終わらせていただきます。
御清聴どうもありがとうございました。
(昭和五十九年一月十九日収録)
伊東政吉 大正十一年生まれ。
昭和二十三年東京商科大学卒業。
昭和二十五年一橋大学経済研究所助手。
昭和二十八年専任講師。
昭和三十二年助教授を経て、昭和四十三年教授に就任し現在に至る。
昭和四十一年経済学博士(一橋大学)。
昭和四十九年―五十一年一橋大学経済研究所所長。
主要著書 『アメリカの金融政策』岩波書店 昭和四十一年
共 編 書 『アメリカの金融革命』有斐閣 昭和五十八年
共 駅 書 アルヴィン・ハンセン 「貨幣理論と財政政策」有斐閣 昭和二十八年、
アルヴィン・ハンセン 「アメリカの経済」東洋経済新報社 昭和三十四年、
ジョン・K・ガルブレイス「大恐慌一九二九」TBSブリタニカ 昭和五十五年