一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第三十号]  一橋と労働法学   一橋大学法学部教授  蓼沼 謙一

     は じ め に

 一橋の労働法学につきましては、初代の孫田秀春先生、それから二代目の、私の恩師であります吾妻光俊先生、御二人の先生の学説、とりわけ内容面での特色につきまして、一橋大学創立百年記念「一橋大学学問史」 の中にかなり詳しく触れたつもりでございます。

 きょうお話し申し上げるに際しまして、何をお話し申し上げようか、いろいろ思案したのでございますが、与えられました時間との関係も考えまして、第一に、一橋の学問全体の流れのなかで、労働法講座の出現というものが一体どんな意味をもっていたのだろうかという点につきまして、私なりの考えを述べさせていただくことにいたしました。それから、第二に、労働法講座の戦前の消長、すなわち、孫田先生によって大正年代の終わりに始められました労働法講座がその後どのような運命をたどったかという点にも触れてみたいと思います。この第二の問題は後からお話しいたしますが、私の考えでは第一の問題と密接につながっているというふうに思いますので、この二点についてきょうはお話しを申し上げたいと思うわけでございます。

  
  一橋に於ける労働法講座の誕生 − その経緯と意義

 まず最初の、一橋の学問全体の流れのなかで労働法講座の出現のもっていた意味という点でございますが、孫田先生が大正十二年にヨーロッパ留学からお帰りになりましてすぐに翌年、労働法の講義を始められました。御承知のとおり孫田先生はその学問的な御活躍によりまして、東大の末広厳太郎教授と並ぶわが国労働法学の開拓者、草分けという名声を得られております。孫田先生のこの御名声は永久に消えることがないと思います。

 一橋と申しますと、当時は言うまでもなく商学、経済学の殿堂であったわけでございます。そこで、孫田先生による労働法の講義が始まったことにつきまして、多くの人は、次のような印象を抱くのではなかろうかと考えるのでございます。それは、商学、経済学の殿堂である一橋に洋行帰りの孫田先生が突然パッと労働法という法律学の新しい分野の花を咲かせた。こういう印象を多くの人に与えるのではないかと思うわけでございます。しかし果たしてそうであろうかというのが私の疑問でございまして、これからお話しいたしますように、労働法講座の出現は一橋の学問の展開の流れのなかで、いわば必然的に生じた現象ではなかったかというふうに考える次第でございます。

 その点につきまして、まず最初に労働法講座開設の経緯を振り返ってみたいと思います。

 大正十三年に孫田先生によって労働法の講義が本学で始められたのでありますが、「労働法」の講義がわが国の大学で始められましたのは、一橋が最初でございます。これより三年前の大正十年に、確かに東大法学部で末広厳太郎教授が、「労働法制」の講義を開かれておりますが、これは「労働法」ではなくて「労働法制」でございました。孫田先生は、当時「労働法」とか「労働法制」とか「労働立法」など、さまざまに呼ばれていた言葉を「労働法」という呼び方に統一することを熱心に唱導されました。そして先生の御唱導どうりに、昭和の初めには「労働法」という呼び方に統一されました。かってのように「労働法制」とか「労働立法」とかいうことではなくて、「労働法」という統一的な呼び方がわが国に定着したのでございます。このような「労働法」という呼び方を普及、定着させました功労者は孫田先生であります。

 念のため申し上げますと、孫田先生は大正四年に当時の東京帝国大学法科大学の独法科を御卒業になりまして、七年、本学(当時の東京高商) の講師に就任され、翌八年に専任教授になられております。直接孫田先生を本学に推挽されましたのは、大正四年から昭和十二年まで一橋で民法の講義を担当されました三瀦信三先生でございます。きょうお見えの皆様方は、三瀦先生の御名前は十分に御存じと思います。三瀦先生は申すまでもなく東大の民法の教授をなさっておりまして、とりわけドイツ法の研究で知られておりました。孫田先生は三瀦先生の御推挽で本学に来られたのですが、専任教授に就任された年の暮れに、早くもヨーロッパ留学に出発されます。そして十二年に帰朝されて十三年に労働法を開講される。ですから、労働法を開講されるまでに本学の水にすでに親しんでいたというのではなくて、洋行から帰られて初めて一橋の水になれ親しまれることになったわけでございます。確かに七年に本学の講師になられておりますが、これは兼任講師でありまして、専任教授になられたのは八年からでございます。

 私が注目いたしたいのは、孫田先生が本学で民法を受け持たれることについては学内で何の問題もなかったのに対しまして、労働法の講義を開くことについては大きな抵抗があったという点でございます。孫田先生御自身がお書きになっているところでございますが、教授会の空気は初めは労働法の講座を開くことに悲観的な空気が強くて、「最後の土壇場になって福田徳三先生の鶴の一声」 で開講に決まったと述べられております。そして孫田先生は「それ〔労働法講座開設が難航したこと〕 も本来もっとも至極な話で、当時産業界のパイロット 〔本学でよく使われる言葉でいえばキャプテン・オブ・インダストリー〕 の養成機関をもって任じていた東京商大からすれば、労働法というが如き物騒極まる学科目の許されないことは当然であったろう」と述懐されておられます(「私の一生」七二頁)。

   
   労働法講座と福田徳三博士

 私は、わが国の大学で最初に「労働法」 の講義が開かれたのは本学であるということにつきまして、その担当者となられたのが孫田先生であり、孫田先生が末広先生と並ぶわが国労働法学の開拓者としての功績を挙げられたことを、一橋の学問史における輝しい一頁として想起するのでありますが、同時に、本学における労働法開講の実質上の立役
者となられたのが福田先生であったということにもとくに注目いたしたいのであります。

 と申しますのは、福田先生が教授会で労働法開講の推進力となられたのは、ヨーロッパの学会の動向に非常に鋭敏であられた福田先生のところに、たまたまドイツの新しい労働法学を勉強して孫田先生が帰朝されたので、福田先生がそれに飛びつかれたというような事情によるのではなくて、福田先生の社会政策学と孫田先生が勉強してこられた新しい学働法学との間に密接なつながりがあったからではないか、私はそのようにみているからでございます。

 福田先生の社会政策論につきましては、すでにこの「一橋の学問を考える会」におきまして、社会学部の菅順一教授が話をなさっておられます。そこで菅教授が述べられておりますように、福田先生の社会政策論は第二期から第三期までありまして、最初の「生産政策的社会政策」論から第二期の「生存権の社会政策」論を経まして、第三親の「闘争の社会政策」論へというふうに展開しているわけでございます。「生産政策的社会政策」、「生存権の社会政策」、「闘争の社会政策」というのは菅教授の命名するところでございますが、このうち「闘争の社会政策」論と菅教授が特色つけられたものは、大正十一年に公刊されました『社会政策と階級闘争』という本の中で体系化されております。

 この「闘争の社会政策」論と呼ばれますものは、労働法学の観点から特色づけるといたしますと、「労働契約から労働協約へ」ということを強調されるもの、その点で「労働協約主義」といえるものであると思います。菅教授も、「闘争の社会政策」論は「労働協約主義」と言えるものであったという趣旨のことを述べておられます。「労働契約から労働協約へ」と申しますのは、資本主義社会の労働関係においては、最初は個々の労働者と使用者との問の契約が決定的な意味をもっていたことに注目するものでございます。この契約は、御存じのとおり、民法では雇傭契約(六二三条以下)と呼ばれており、やがて労働法では労働契約と呼ばれるようになりましたが、資本主義社会の当初におきましては、労働関係の設定も、それから労働関係の内容、すなわち賃金をはじめとする労働条件も、自由な雇傭契約ないし労働契約によって決定されるという建前がとられたわけであります。労勧者は自分の好きな使用者を見つけて自分の好きな労働条件で働くことができる。使用者の方も、自分の好きな労働者を見つけて好きな条件で働かせることができる。どちらも自由な法的人格者であって、両者の自由意思が合致する、すなわち自由な契約が成立することによってはじめて、雇用関係・労働関係が設定される。またその雇用関係・労働関係の内容も、自由な雇用契約・労働契約の決定するところによる。こういう建前がとられていたわけでございます。ところが労働条件の決定につきましては、やがて「労働契約から労働協約へ」という動きが出てくるわけでございます。これも常識となっていることを線り返す形になって恐縮でございますけれども、雇用契約の自由、労働契約の自由というのは、現実には労働条件を使用者側で事実上一方的に決定することに帰するわけであります。個々の労働者の方は使用者の提示した条件をそのままうのみにするか、あるいは一括これを拒否するか、の自由しかない。しかも、拒否する自由は個々の労働者に実質上ほとんどない。結局、一人一人の労薗者にとっては契約とは名ばかりのものになってしまうのであります。そこで、労働条件の決定に労働者側の意思を実質的に盛り込もうということになりますと、労働者が個々バラバラに自分の好む労働条件を申し出る、あるいは主張するということではなくて、労働者が団結をしまして、労働組合が当事者となって使用者側との間に労働条件決定のための団体交渉を行うということにならざるをえない。その団体交渉の結果成立するものが労働協約にはかならないわけでございまして、労働組合と使用者側との労働協約によって労働条件が集団的に決定されるという機構が打ち出されることになるわけでございます。

 福田先生はこのような事柄を「労働契約から労働協約へ」というふうに表現されました。この「労働契約から労働協約へ」という表現も、その後多くの人々によって用いられるようになったのでございますが、福田先生は、労働条件の決定が個別的な労働契約から集団的な労働協約へ移るべきことを「闘争の社会政策」論という形で主張されたの
でございます。大正十一年の御本の表題が『社会政策と階級闘争』というふうになっておりますのは、労使間の一種の「闘争」というものに注目されるからでございますが、しかし「闘争」と福田先生が言われているものは・労働協約の成立の前提となる労使間の団体交渉というものが、広い意味ではストライキ、すなわち争議行為を含んでいるからであります。団体交渉は、まず平和的なテーブルを囲んでの狭い意味の団体交渉として行われますが、それが行き詰まっな段階ではストライキという現象が生じます。福田先生は、このストライキ、争議行為というものを、広い意味の団体交渉の要素としてとらえるわけでございまして、私の見るところでは、福田先生の「闘争の社会政策」論というのは、団体交渉の要素としてのストライキ、争議行為というものに注目したものと理解しております。したがいまして「闘争」という言葉は、福田先生においては、とりわけ本の題名『階級闘争』という語が出ておりますけれども、暴力革命につながる階級闘争を意味するものではございません。大正十一年と申しますと、日本共産覚が創立された年であり、ポルシェビストの勢力が労働組合運動のなかでも伸びていた時代でございますが、ポルシェビストの唱える「階級闘争」、暴力革命というものを福田先生は明確に否定されております。しかし同時に先生は、他方で、いわゆる協調主義も否定されたのでございます。つまり広い意味の団体交渉というものは、そのなかに、ストライキ、争議という一種の「闘争」環象を含まざるを得ないものなのであって、労使の利害の対立というのを初めから全面的に否定し、したがって争議、ストライキというものを頭から否定するいわゆる協調主義も排斥されたのであります。
その意味でまさに福田先生流の「闘争」の社会政策論がそこに展開されているわけでございます。
                                                           
 ちなみに、「労働協約」という言葉を初めて用いられたのも福田先生でございます。
当時ドイツ語のTarifvertragという言葉は、学者のなかでも「賃率契約」というふうに直訳する人が少なくありませんでした。沿革的には確かにTarifvertragは賃率契約と訳して誤訳ではないのでありまして、労働協約は初期においては、まさに労働組合と使用者側との間の賃率協定でございました。しかしやがてこれを賃率契約と訳するのは不適訳になりました。労働協約の内容が賃率だけにとどまらず、労働時間その他の労働条件にも及ぶものとなったからであります。これを労働協約と訳すべきであると、早くも明治四十年代に、わが国で最初に主張されたのは、福田先生でございます。これはまことに正当なご指摘でございまして、今日のわが国では労働協約という言葉は、実定法上の用語にもなっております。
さまざまの呼びかたが 「労働法」 という呼びかたに統一されるについては、さきほど述べましたように、孫田先生が功労者でございますが、「労働協約」という言葉を初めに使われ、そしてそれへの統一というご功績を挙げられたのは、福田先生でございます。

 以上が福田先生の「闘争の社会政策」論でございますが、私は、福田先生のこのような社会政策論が労働法の開講ということに密接に結び付いていたのではないかと考えているわけでございます。福田先生がいま申しましたような社会政策論を展開されていたからこそ、孫田先生による労働法の開講を福田先生は教授会で強く推進されたのではないかと推測いたしております。この推測を裏づけるものといたしまして、大正十三年一月に福田先生が門下の宮田喜代蔵先生にあてて書かれた手紙のなかに、次のような一節がございます。「孫田君は『労働法』を新設して受け持たれます。私の社会政策の講義が為めに著しく荷を軽くすることは愉快です。」この宮田先生あての福田先生の手紙は、昭和三十五年に刊行されました『福田先生の追憶』という本のなかに収められております(一〇八頁)。福田先生の「闘争の社会政策」論、労働協約主義というものの法的側面が、孫田先生の労働法の講義のなかで取り扱われることを福田先生は十分に予測しておられたからこそ、先生は「私の社会政策の講義が為めに著しく荷を軽くすることになる」とおっしゃられたものと、私は理解しております。

 もちろん孫田先生がお帰りになるまでは、孫田先生がどういう講義をなさるか、福田先生も予測されるだけであっ
たと思います。しかし、当時のワイマール・ドイツの労働法制はまさに福田先生が強調されておりました労働協約主義に立脚するものでございました。そして、ワイマール・ドイツの労働法制がこのようなものである以上、労働法理論も当然そのような色彩を帯びておりました。社会政策学と労働法学は姉妹科学でありますし、ヨーロッパの動向に鋭敏であられた福田先生は、御自分の労働協約主義の法的側面が、孫田先生の労働法の講義によって取り上げられることを予測されたに違いないと私は考える次第でございます。

 たしかに、福田先生の社会政策論は経済学、社会学の一分野として社会政策を取り扱うものでございますし、孫田先生の労働法論はあくまで法学の一分野として労働法を取り上げるものでありますから、両者の間に明確な違いがございます。一方は社会政策理論であり、他方はあくまで法理論、であります。特に孫田先生は、末広博士が資本主義の発展に伴う労働立法の動態の考察というものに中心を置かれたのに対して、そのような考察だけではまだ労働法学の研究とは言えない、あくまで法理論の体系としての労働法学が建設されなければならないことを強調されました。
労働立法の動態を経済的、社会的に考察するだけでは法学にはならないという立場を堅持されたのでございます。しかし私は、本学において、孫田労働法講座の誕生は、福田先生の社会政策論との関連を抜きにしてはあり得なかったのではないかと考える者でございます。

    
     労働法講座の消長

 つぎに、孫田先生の労働法講座がどのような運命をたどったかの話に入りたいと思いますが、これにも福田先生が大きく絡んでいます。福田先生は昭和五年五月に急逝されました。他方、孫田先生でありますが、きょうお見えの方のなかに孫田ゼミ御出身の方もおられると思いますが、孫田先生の講義は学生の人気を集めまして、先生を慕ってゼミに入る方もたくさんおられたわけであります。ところが、福田先生がお亡くなりになられるころには、学内での孫田先生の地位は、すでに、必ずしも居心地のいいものではなくなっていたようでございます。これも孫田先生が御自分でお書きになっていることからの引用でございますが、「当時は共産主義も労働法も一緒くたに考えられていたので、親友の共産主義者教授の大塚金之助君と私の二人は、いつも一連の危険分子として首の座をねらわれていたようだ」と書かれております(「私の一生」七五頁)。先生はもとより共産主義者ではなかったわけでございますが、大塚先生と孫田先生は個人的に親友の関係にあられたのでございます。そのため、先生の政治的信条とはかかわりなしに、大塚金之助先生と一緒くたにされ、「物騒な」学問をやっている「危険分子」とにらまれたようであります。
事態を決定的にいたしましたのは、昭和五年六月浜口内閣の作成いたしました労働組合法案を孫田先生が支持され、それが全産連の会頭その他、幹部の人々の逆鱗に触れたことであります。これも先生御自身の御本からの引用でございますが、つぎのように言われております。

 「私は、全産連の巨頭某々氏あたりから赤化教授の烙印を押され、折に触れ如水会や教授会を通してあくどい圧力をかけてくるのには全く閉口した」 (「労働法の開拓者たち」二七頁)。しかも先生は全産連の有力者から「面と向かって多衆の面前で」、「君の教えた学生は一切どの会社にも採用しない」と宣告され、「この評判が拡まって学生も恐れをなし、ために労働法の講義は一時潰れてしまった」そうでございます(同上二七五頁)。私はこの辺の事情は全く存じませんが、当時の学生が労働法の看板を出した講義は財界からにらまれて就職できなくなるから聴かないが、他の看板を出した講義なら聴くというので、先生は学生と「相談して、二、三年の間、引き受け手のない 『商事法令』という科目の講義を買って出」られて、商事法令という看板のもとで労働法の講義をしたと述べられております(同上二七五頁)。私が学内の資料を調べてみましたところ、昭和八年にはもう「労働法」の講座名はレーアプランから消
えておりまして、「商事法令」が孫田先生のご担当になっております。そして昭和九年のレーアプランからは「商事法令」も姿を消します。これによって、わが国の大学では最初に開設された一橋の「労働法」の講座は、昭和九年をもって名実ともに完全に消滅いたしました。労働法講座消滅の決定的契機となりましたのは、昭和五年の労働組合法案に対しまして孫田先生が賛成され、全産連から赤化教授の烙印を押されたことでございます。しかし労働組合法案は大正年代からたびたび問題になっておりまして、福田先生は労働組合法案に賛成されました。この労働観合法案に対しても、左右両派からの反対がありました。

 右からの反対は、労働組合などというものは全く有害無用であるとする反対であります。左からの反対は、労働組合運動を一定の範囲内で合法化し体制内化することに反対し、体制じたいの変革、革命をめざす階級闘争を強調する立場からの反対であります。福田先生はこれら左右両派に反対して労働組合法の制定を主張されたのでありますが、それによって、先生が持論とされている労働協約主義にのっとった労使関係の実現を期待されたのだと考えられます。
福田先生と同じく、孫田先生も労働組合法案に賛成されました。大正年代終わりの労働組合法案と昭和五年の労働組合法案とでは内容が全く同一というわけではありませんけれども、労働組合運動を一定の範囲で合法的なものとして認めようという点では基本的に変わりはございません。ところが、孫田先生の方は全産連の幹部の人々の逆鱗に触れて、それが一橋の学働法講座の戦前における消滅をもたらす決定的な契機となったわけでございます。

 孫田先生の御本によりますと、福田先生は、上田貞次郎先生などとともに、孫田先生を学内でずっとかばってこられたそうであります。しかし、その福田先生が昭和五年に亡くなられる。学内で孫田先生を支える大きな柱の一つがなくなったわけでございまして、そのことも戦前の労働法講座の消威ということに大きく影響しているように思われてなりません。


     む す ぴ

 きょうお話し申し上げましたことは、あくまで福田徳三先生が本学における労働法講座の開設と、それから戟前における労働法講座の消長に大きくかかわっておられたという話でございまして、このことは、孫田先生がわが国労働法学の、末広先生と並ぶパイオニアであるということとは別の問題でございます。福田先生のご専攻は多方面にわたっておりますが、その中の労働と関係のある社会政策論は、、あくまで社会政策論であって、それ自体は法学の議論ではございませんでした。孫田先生はその法学の分野で、労働法という民法などと違ってまことに歴史の浅い新興の法学分野におきまして、パイオニアとしての業績を挙げられたわけでございます。本日は、本学の労働法講座の開設と戦前における消長に福田先生が大きなかかわりをもたれているという話をいたしましたが、それが、なにか孫田先生の本学の労働法における存在を薄くするような誤解を万一にも与えることがあるといたしますと、それは私の本意では決してございません。ただ法学の理論面での孫田先生の御業績につきましては、私の恩師の吾妻先生の学説ともども、すでに一橋の学問史やその他のところで書いております。これに対して、きょうお話し申し上げましたことは、まだどこにも書いておりません。そして、私は戦前の労働法につきましては、全く体験しておりません。

 私は昭和十五年四月に予科に入りまして、予科の半年短縮で十七年の十月に本科に進み、十八年十二月に第一回の学徒動員で軍隊に引っ張られました。ちょうど私が予科に入学した年に上田貞次郎先生がお亡くなりになられましたが、私が予科に入ったときには本学にはすでに労働法の講座は影も形もなかったわけであります。そういうことでございますので、きょうの戦前の話につきましては、きょう御出席の皆様方の忌憚のない御意見をお伺いいたしまして、できるだけ誤りのないものにしていきたいと考えている次第でございます。特に戦前の労働法の講義をお聞きになっ
た方、あるいは労働法の講義が孫田先生によってなされていた頃の本学の空気というものに直接触れておられる方々から忌憚のない御意見なり御感想をお聞かせいただければ幸甚に存じます。ご清聴有難うございました。


     [質疑応答]

 ― 朝鮮の京城大学の先生であった孫田先生に対し、非常に厳しく批判し挑戦した人があった様に記憶しますが、それはどういう事だったのですか。

 蓼沼 それは津曲(蔵之丞)先生で、京城大学から戦後東北大学に移られた方でございます。戦前は、マルキシズムに立脚する労働法理論を展開した「労働法原理という本を書かれていますが、戦後は、マルキシズムを離れ、違った法理論を展開されました。孫田先生に対する批判のポイントは、労働法の研究においても、法の基盤をなしている経済的なもの、唯物史観でいう下部構造に注目して、法が経済によってどのように規定されているかという点にまず目を向けなければいけないという、唯物史観の立場からの方法論的批判であったと思います。孫田先生は「人格主義」に立つ労働法というものを強調されましたが、この点末広先生などにくらべて理想主義的な性格が強いといえます。
そのためマルキシズムに立つ津曲先生からよけい攻撃されることになったのではないかと推測します。

  質問ではなく感想ですが、私は大正十五年卒業したものですが、同期生に宮崎一雄氏と安居喜造氏(二人とも故人)が居り、宮崎氏は孫田ゼミで当時の日本勧業銀行に入り、安居氏は大塚金之助ゼミで三井銀行に入りました。宮崎氏は其后日本長期信用銀行の頭取になり、安居氏は三井銀行副社長から最后は東レ会長になりました。本日のお話では孫田、大塚両先生も親友であった由ですが宮崎、安居両氏も大変な親友でありました。不思議な因縁と思います。
また私自身は、当時労働者と会社が激しく対立して争いこれは日本の為憂うべき事になると考え、労働問題は皆が厭がる事だが自らはその人の厭がる事をやってやろうと云う事でこれを勉強し、住友に入っても当時ストをやっていた別子銅山行きを志願し、その后も実社会の中で労働問題に取り組んで来ました。本日のお話しを承って自らの頭の中でバラバラになっていた事柄が、どういう風につながっていると云う事が感得せられ大変有難うございました。

  孫田先生の著書「民法総則上巻」 の序文について、末広先生が酷評を下した様に記憶していますがその点について。

 蓼沼 その点につきましては「一橋大学学問史」のなかで、好美教授が触れています。引用させて頂くと次の通りでございます。『〔末広氏は〕 孫田氏の序文を「甚だ常識的」 「俗学的」 であると批判されたのである (末広・法協五二巻一号)。初学者向けの普通の教科書に軽い気持ちで随筆風に書かれたにすぎない序文のみに対して、このように向きになって大上段に振りかぶった批判をすることが妥当な態度かどうかにはかなり問題があろうが、いちおうその点を別とすれば、ここでもまた、法律学はたんなる理論の整合性をほこるだけの抽象的なものにとどまってはならないが、さればといって、変化する社会現象ないし時代思潮をたんに表面的に跡づげ、それに適合させようとするだけでは十分でなく、その事象の底にあるものを社会科学的に透徹した視点で分析し、評価すべきことが示唆されているように思われ、困難な問題をわれわれに提起している』。これは、この件に対する、好美教授の学問的な良心にてらしての評価だと思います。孫田先生が戦時中、ローマ法に対するドイツ的なゲルマン法の讃美にとどまらず、さらにふみ込んで日本法理とか、肇国の精神というような、学問から離れた方向に向かわれたことについては、ついていけないという気持ちが好美教授の文章に現われているように思われます。

  孫田先生は日本主義的方向に行かれたのですか。

 蓼沼  はい。孫田先生の戦時中の著書「勤労新体制の基本原理」、「国防論及世界新秩序論」、「臣民の道解説大成」「肇国及日本精神」にみられる通りであります。先生は昭和一二年に退官されて約一年間、文部省教学局の主任教学官に就任されたのでありますが、先生ご自身は決して学界、学者を抑えつける役をしようと思って行かれたのではなく、逆にむしろ政府による学界、学問の統制が変な方向に行かないよう、防波堤の役割を果たすためであったと言われています。しかし、先生の主観的な善意にも拘わらず、客観的にはやはり時勢の動きの方が先生の善意を踏みにじる形になったのではないかと思います。

  孫田先生の戟后はどうでした。

 蓼沼 労働事件における経営側の弁護士として活躍され、そのあい間に論文や著書もお書きになられました。先生の戦後の学問的業績に関しては「一橋大学学問史」のなかで触れておきましたが、ご著書としては、昭和二二年「労働協約と争議の法理」、同二九年「現代労働法の諸問題」、さらに四〇年「学説判例批判・わが国労働法の問題点」 があります。最後の「学説判例批判・わが国労働法の問題点」は、五〇〇頁を超える大著でありまして、本書を著されたとき、先生は実に七九才であられました。

  孫田先生の労働法理論はワイマール・ドイツの労働法制の影響を受けているのですか。

 蓼沼 はい。非常に受けています。ドイツの労働法理論そのものがワイマール労働法制を素材したものであります。ちなみに申しあげますと、ワイマール・ドイツの労働法学界は大別して二派に分かれておりました。一方はカスケル及びニッパーダィ、他方はジンツハイマーに代表されます。カスケル、ニッパーダイは、伝統的な法解釈学の方法論に立った労働法理論を、ジンツハイマーは当時新しく興って来た法社会学的な方法論に立脚した労働法理論を、展開しました。末広先生がジンツハイマーの理論に親しみを示されたのに対しまして、孫田先生は留学中にカスケルに直かについて「直伝の」労働法理論を持って帰ったのだとご自分で言っておられます。

  ワイマール・ドイツについては政治、経済の面からももう一回見直してみたいという話もあり―最后はナチスに走ってしまった訳ですが―そのものは検討に値すると思われますが、本日は法律の面から承って有難うございました。
 
 ―
 母校に於ける労働法講座は昭和九年に名実共に消えた訳ですが、戦后は何時復活したのですか。

 蓼沼 二一年に吾妻先生によって復活されました。現在は私と私のゼミ出身の盛助教授の二人で担当しています。
労働法も分量が多くなりましたため、労働団体法と労働保護法とに分けまして、交互に講義するようにしております。

 ―戦后の労働法について蓼沼先生ご自身の研究を承り度い。日本はアメリカの影響を強く受けているのですか。
蓼沼 どの程度強く受けているかは人によって見方が違うと思いますが、私は日本は依然として基本的には大陸法系の国、つまり成文法を第一の法源とする点で、ドイツ、・フランス等ヨーロッパ大陸諸国と法制度の面では本質的に共通であると考えております。成文法主義は明治以来のことでありますが、戦後、商法、経済法と労働法については、アメリカ法の影響が他の法の分野に比べ特に強いように思います。労働法でアメリカ法の制度を取り入れたもっとも顕著な例が、「労働委員会」の制度でありまして、不当労働行為の申し立てがあった場合に不当労働行為が果してあったかどうかについて、労働委員会が、行政機関でありながら、あたかも裁判所が行うような法的判定を下します。しかも、その手続は、裁判所におけるような民事訴訟法や刑事訴訟法に従った厳格な手続によるのではなく、労働委員会は、中労委規則で定めた簡易迅速簡便な手続によって、不当労働行為事件の審理を行い、行政救済、つまり裁判所の与える救済とは違った救済を与えます。これはアメリカの不当労働行為に関する救済制度を導入したものでありまして、ドイツ、フランスなどには見当たりません。

 ― 一口で現在の日本の労働法の体制はどうであろうか、進歩しているのであろうか、まだ研究の余地があるのであろうか。

 蓼沼 何年研究しても研究しきれないように思います。と申しますのは、第二次大戦後、労働問題の学問的研究が格段に進みました。戦前には「労働問題」という名の講義はどの大学にもなく、「社会政策」の講義があっただけであります。今は「社会政策」 のほかに「労働経済」 や「労働問題」という講義科目がありますし、「労働史(History Of Labour)」という学問分野も登場しました。これは、労働運動の歴史だけでなく、現実の労働関係がどう推移してきたか、つまり企業内の労働者の人事管理、労務管理の実態や現実の労働の態様などが、資本主義が成立してから今日まで、具体的にどのような展開をとげてきたか、を明らかにしようとするものであります。現実の労働関係が今後大筋としてどういう方向への展開を示すかを予測するには、その前提として、過去から現在に至る現実の労働関係の実態が歴史的、学問的に明らかにされなければなりません。決して容易なことではありませんが、現実の歴史的分析の中からその流れを学問的にとらえるなかで、始めて学問的展望が可能になると思います。戦前に比べて労働に関する社会科学の分野は非常に拡がっており、労働法学もこれらの姉妹科学の成果を吸収しながら、労働関係の実態と動きにみあった法理論を、これから構築していかなければなりません。本学は社会科学の綜合を標榜しておりますから、労働に関する社会科学の分野がここまで拡がってきたいじょう、これらを綜合するような全学的な学際的な研究機構、せめて研究会が開かれなければならないと思っております。
                                        (昭和五九年三月二二日収録)