一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第三十五号] 一橋経営学の系譜とその問題点 一橋大学商学部教授 雲嶋 良雄
はじめに
御紹介にあずかりました雲嶋でございます。
新井先輩から先般、一橋の経営学について話をするようにというお話しがございましたが、一橋の経営学といってもそのテーマ自体が非常に大きいのであります。その上内容も各年代ごとの各教授の考え方がいろいろ複雑に交錯しておりまして、私のように口下手な者が果たして思うようにお話しできるかどうか非常に迷ったわけでございます。幸か不幸か一橋大学の創立百年事業の一環として一橋大学の学問史の刊行が企画され、その冒頭の部分の経営学という項目に私が執筆している「一橋経営学の系譜」という文章が掲載される予定となっておりますので、それを土台としてその概略を紹介するとともに若干の問題点をつけ加えて、御参列の諸先輩方からいろいろ助言なり批判なりを賜りたい。こういう気持ちで本日のこの会合に参ったわけでございます。
一橋経営学の四つの発展段階
まず一橋経営学の発展の跡を考える場合、私はこれを大きく四つの段階に区分することができると考えています。第一段階は上田貞次郎博士による独創的かつ先駆的な研究の時代であり、第二段階は、増地庸治郎博士によるドイツ経営経済学の本格的導入の時代であります。第三段階は増地門下の古川栄一、山域 章、藻利重隆の三教授による増地理論の拡大と深化を通じて一橋の経営学の黄金時代が築かれた時代であります。第四段階はこれら三教授の理論を受け継いだ、いわばアプレゲールの人々の時代です。
これら四つの段階のうちで上田貞次郎博士が一橋経営学、否わが国経営学の先駆者であるとすれば、増地博士は一橋経営学の本格的な開拓者、あるいは基礎づくりをされた人ということができるでありましょう。そして増地門下の古川、山城、藻利の三教授が増地博士の広般な理論分野の一部をそれぞれ分担するような形でその理論的深化を図ることによって、一橋経営学の黄金時代を築かれたと言ってよかろうと考えるものでございます。
上田貞次郎博士の学説と業績
まず上田貞次郎博士の業績でございますが、もともと上田博士は経営学者でなくて経済学者であった。また歴史学者でもあり同時に商業学者でもあったわけでございます。その上田博士が経営学研究を始められた端緒というのは、いま残っている資料を調べました限りでは、一九〇六年(明治三十九年)の『商業大辞書』に掲載された「商業学」という項目並びに二九〇九年(明治四十二年)に『国民経済雑誌』第七巻二号に掲載された「商事経営学とは何ぞや」という論文に見出すことができると思うのでございます。上田博士はこれらの論述を通じて、当時のわが国における商業学が、あたかも美しい秋の野になびく草花のようにきわめて多彩な風情をもつものであるが、これらを貫く理論的統一性がないという現状を批判されまして、経営学の確立の必要性とその可能性を主張されているのであります。
これは「付表」の(1)を御覧になりますと上田先生の大体の構想が理解いただけると思います。
つまり、この段階における上田博士の主張は、商業学の科学化を志向することによって成立する経営学の国民経済学からの独立宣言とも言うべきものであったと思うのでございます。ドイツ経営経済学の成立の発端となりました、いわゆる私経済学論争が、一九一二年(大正一年)に発表されたワイヤーマンとシューニッツの「科学的私経済学の基礎付けと要綱」と題する論文に端を発したことを思うときに、それよっもかなり以前、つまり一九〇六年から九年代における上田博士の独創的な主張の持つ意味は極めて大きいものがあると言わなければならないのであります。ただ、上田博士は後年に至りまして経営学を国民経済学から分離して これを独立の科学とすることの不可能かつ不必要であることを提言され、独立科学としての経営学の樹立を自ら断念されたのでございます。これは今日から考えてまことに惜しむべきことであったと言わなければなりません。その理由は御質問があればお答えいたしますが、もし、こういう上田博士における変説、つまり、独立科学としての経営学の樹立への積極的な推進からそのことの不可能かつ不必要という重大な変説がなかったならば、わが国の経営学は今日のようなドイツ及びアメリカからの輸入学問としてではなく、むしろ日本こそが経営学の先進国としての地位を確保し得たであろうと思えてならないからであります。
上田博士の人と業績については、すでに本会において上田門下の末松玄六先生―山口高商時代に私も教わったのでございますが1によって講演がなされたと聞き及んでおりますので、この辺で上田先生に関する話は打ち切りまして、上田門下の増地博士の業績に移りたいと思います。
増地庸治郎博士の学説とその位置づけ
上田博士の先駆的業績を受け継がれた増地博士はさきに述べました如く、一橋経営学の基礎づくりの人として位置67
づけることができると思うのであります。博士は若くしてドイツへ留学され、その間の研究成果を大正十五年一九四〇年) に「経営経済学序論」として公刊されたのでありますが、増地博士はこの書物の扉にニックリッシュの有名な言葉、すなわち「今日経営経済学は国民経済学と相並んで存立する」という言葉を引用し明示されるとともに、博士自らも昭和四年(一九二九年) に出版された『経営要論』の中で「経営学は生産経済の経営経済的観察を任務とする独立科学である」とされ、経営学の国民経済学からの分離独立を明確に主張されているのでございます。考えてみますと、このような経営学は独立の学問であるとか、それとも経済学に対する従属的な学問であるかというようなことを問題にすること自体が、実は経営学の後進性と申しますか、別の言葉で言いかえますならば、経営学が非常に新しい学問であるということを示しているものと考えることができるわけでございます。
ところで、以上の如く経営経済学、日本流に言えば経営学の独立科学としての存立を主張された増地博士は、その後次第にその研究分野の拡大と理論内容の充実に努められていったのであります。ただ、博士における研究分野は極めて広範かつ多岐に及んでいますので、これを何らかの形で整理、あるいは分類しなければその研究の全体系を統一的に理解することは困難であります。そこで独断のそしりを承知の上で、広範な増地博士の研究分野を私なりに整理するとすれば、およそ次の三つの分野に分けることができるように考えられるのでございます。
すなわちその第一は、昭和五年に出版された『企業形態論』から、昭和十二年に公刊された『株式会社』に至る一連の研究であります。それはいわば増地博士の言葉を使いますならば、経営経済の 「所有機構としての企業」に関する研究であります。
その第二は、このような「企業」 の研究から必然的に派生してくるところの企業資本の調達に関する研究であります。具体的には昭和九年に公刊された『経営財務論』を中心とする一連の研究でございます。
そして第三は、昭和十四年の 『賃金論』から博士の最後の著作となった昭和二十一年の 『工業経営論』に至る一連の研究であります。これはいわば経営経済の 「運用機構としての経営」に関する研究であります。そこでは経営内部における生産と労務に関する諸問題の研究が中心となっております。この点は「付表」の(2)を御参照いただきたいと思います。
なお若干の余談を許していただきますならば、増地博士の最後の著作となった『工業経営論』の原稿は、昭和二十年三月十日、東京の下町を焼き尽くした米軍の大空襲の際に、防空班長といいますか防護団長といいますか、正確な名称は知りませんが、要するに防空粧長として名誉の殉職を遂げられた博士の御遺体のポケットの中から発見されたのでございます。当時は元気のいい学生はみんな軍隊に取られていた時代でございますので、わずかに残っていた先生の門下生一同が涙を流しながらその一枚一枚を火で乾かし、そして製本に回されたと聞いております。私はいわゆる学徒出陣の第一回生として海軍を志望し、軍隊にいてこの辺の事情は知りませんので、「そのように聞いております」と申し上げるわけです。まことに学問一筋、いかにも増地博士らしい最後であったということができるでありましょう。しかも増地博士におけるこれら三つの分野の研究を通じて私どもが見逃がしてならないことは、後年に至るにしたがって次第にアメリカ経営学の強い影響が見出されるという点であります。博士の研究の白眉とも言うべき『株式会社』から『経営財務論』を経て『賃金論』 『工業経営論』に至るにつれて、こういうアメリカ経営学の影響が一段と明確になっているように思われるからであります。「思われるから」というのは、先生が一々それぞれについてアメリカの引用文献を挙げておられないから、私の推測として 「そのように思われるから」 であるというふうに申し上げる次第でございます。
要するに増地博士の研究は、まずドイツ流の「経営経済学」を基礎とする経営学の理論的枠組の構築に初まり、後年に至るにしたがってアメリカ流の経営学の導入を通じて極めて多彩な理論内容の解明へと進んでいるのであります。
そこに私は、よく言われますように「骨をドイツから肉をアメリカから」という言葉そのままの研究姿勢をいかがうごとができると思うのでございます。ただ、増地博士におけるこのような広範な研究分野のそれぞれに関する具体的な理論内容につきましてはなお検討を要する幾つかの問題点が残されているのであります。そしてこのような各分野にわたる理論内容の一層の深化と精密化は、増地門下の古川、山城、藻利の三教授の手にゆだねられることとなったわけでございます。以下、山城、古川、藻利という順序でこの三教授の業績の特徴といいますか、概略を御紹介したいと思います。
山城 章教授の学説
まず、増地博士の展開された三つの研究分野のうち、第一の 『企業形態論』を中心とする一連の研究は山城教授に受け継がれ、現代企業の具体的行動とそのあり方―1山城教授の用語にはこの 「あり方」という言葉がよく出てきますので御注意をお願いいたします―を解明しようとする教授に独自な主張、すなわち「経営自主体論」として再生されたのであります。昭和二十二年の 『企業体制の発展理論』から昭和二十五年の 『企業体制』を経て、昭和三十六年の 『現代の企業』に至る一連の労作がこれに相当するものでございます。山城教授はこれらの主要著作を通じて、経営学の現代的課題が企業の経営者に確たる指針を与えるための経営実践の原理の解明にあるとされた上で、この課題を果たすためには教授が、それまで多年にわたって主張されてきた「企業体制」に関する理論が不可欠な重要性を持つことを強調して次のように述べられているのでございます。これは先生の 『現代企業』 の中から一部を引用したわけですが、短かい文章ですので読み上げます。
「このような企業体制の研究から、われわれはここに現段階で考えることのできる企業本来のあり方をつかもうとする。私は、企業本来のあり方を経営自主体と呼び、また経営体とも言う。企業は十九世紀よりこの方、一方では資本と経営が分離し、他方では行政と経営との分離が行われ、漸次経営自主体として成長しっつあったのである。このようにして分離した、かっての企業の支配者であった資本家および行政機関は経営の 「自主化」とともに漸次「対境化」し、自主と対境の関係が鮮明になってくるのである。このような経営自主化と対境関係の一体的な活動こそ現代企業のあり方であると考えたのである。」(下線=雲嶋)
というように述べられているわけであります。なおこの引用文には触れられておりませんけれども、こうした経営の自主体化に伴って労働組合もまた「対境化」し、企業をめぐる他の利害者集団とともに企業がその成果配分において考慮せざるを得ない一つの利害者集団となることも別のところで主張されているのであります。この点については「付表」 の(3)を御参照ください。
このような山城教授の主張を通じて私どもが注目すべきことは、経営自主体としての現代企業の社会的機関性、ないし公器性の主張であります。ここに教授に独自な企業観があるわけでありますけれども、果たして現代企業が山城教授の言われるような意味で自主化し、社会的公共的機関となっているかどうかについては、私は大きな疑問を抱かざるを得ないのであります。ここに山城教授の主張の持つ規範的性格、すなわち、あるべき企業体の理論を見出すことができると思うのでございます。つまりザインを直接問題にするんじゃなくて、山城教授の主張される経営自体というのは、あくまでゾルレンの領域に属するものではないかというのが私のいだいている問題でございます。
古川栄一教授の学説
次に、増地博士の第二の研究分野でありました経営財務論の流れを継承された古川教授の研究は、戦前におけるドイツ流の 『経営比較論』 (昭和十年) および『経営計理論』 (昭和十二年)などに始まり戦後におけるアメリカ経営学の導入によって、昭和二十六年の 『内部統制組織』、それから昭和二十八年の 『財務管理組織』、続いて昭和三十七年の 『経営分析』などの中で具体的に展開されているわけでございます。とりわけ昭和三十八年に公刊されました『財務管理』という書物は、教授の多年にわたる経営財務研究の集大成とも言うべき優れた著作でございます。この『財務管理』という書物の中で、教授はまずこれまでのわが国における経営財務に関する研究のほとんどが「企業資本の調達」 のみを問題としてきた点を批判され、財務に関する経営学的研究としては、こうした企業資本の調達はあくまで企業活動の遂行のために必要となるものであり、こうした企業活動の遂行と密接な関係を持つ 「資本の運用」を無視しては経営財務の経営学的研究としては片手落ちであると古川教授は述べられているのであります。
したがって古川教授の主張される「財務管理論」は、一方における資金の調達、支出及び保管を主内容とする「執行的財務管理」あるいは「直接的財務管理」と、他方における購買、製造、販売、その他一連の経営活動を貨幣的ないし価値的な側面からコントロールすることを目的とする「統制的財務管理」ないし「間接的財務管理」という二側面から成り立っているわけであります。そして両者の密接不可分な関連を介して、はじめて企業の総合的財務管理が可能となると主張されているのであります。「付表」の(4)を御参照くだされば、これらについての若干の関係がおわかりになるかと思います。
ところで、このような古川教授の財務管理研究の特質は、財務管理制度の体系的把握に見出されるのであります。
すなわち経営分析、経営比較、予算統制、さらには利益計画の如き経営活動のために不可欠な財務管理的な手段、あるいは方法、あるいは制度の解明に向けられているという点であります。そしてこのような見地から考えてみますと古川教授の財務管理の理論は、いわゆる技術論、ドイツ流に言えば「クンストレーレ」としての性格を持つということができるのではないかと思うのであります。ただ、「クンストレーレ」が科学としてその正当性を認められるためには、それが目指す企業目的の一義的明確性が問われなければならない、つまり企業目的が一義的に明確であって初めていろいろな管理制度が生きてくるのであります。しかし古川教授の財務管理の理論の中にこういった企業目的の一義的明確化への努力を見出し得ないことは一つの問題点ではなかろうかと考えるものでございます。
藻利重隆教授の学説
さて、最後に私どもは増地博士の主として後年における研究を継承された藻利教授の研究に目を向けなければならないわけでございます。藻利教授は、すでに御承知の方も多いかと思いますが、まず資本主義的経営としての企業は人的生産力と物的生産力とをその構成要素とする社会的生産の組織体であると規定されたうえで、そうした社会的生産の組織体が二重の構造を持つことを主張されているのであります。その第一の構造というのは「経営的生産の技術的構造」と呼ばれるものであり、これを指導する原理は「機械化の原理」であるとされております。
これに対して第二の構造は「経営的生産の社会的構造」と呼ばれるものであり、これを指導する原理は生産の機械化の過程に失われていく労働者の人間性の回復を目指す「人格化の原理」であるとされております。そして第一の構造の合理化を指向するものが「生産管理」であり、第二の構造の合理化を指向するものが「労働管理」であるというように呼ばれております。このようにして藻利教授は企業を二重的構造において把握され、異なった課題と異なった原理に支えられる経営管理の二重的体系を明らかにされているのであります。これ言いかえますならば、教授はまず資本主義的経営としての企業の二重構造とそれぞれを指導すべき二つの異る原理を明らかにされ、これを実際の経営管理の面に当てはめるならば、そこに「生産管理」と「労務管理」という二重的な休系が形成されるということになるわけであります。では、このような性格を異にする二種の原理はどのようにして結び付けられるであろうか、という疑問が残るわけでございます。藻利教授はもとより、この点を承知の上でこのような二重的構造、したがって、また経営管理とそれぞれを指導する異なった二種の原理を統一するものとして企業の 「総合管理」 の必要性を強調されているのであります。ではここにいわれる「総合管理」とは何か。この点を解明されようとするのが藻利教授の不朽の名著である 『経営学の基礎』 (初版昭和三十一年) であると思うのであります。そこではいろいろな問題が多面的に取り上げられているわけでございますが、結論的に申し上げますならば、この 『経営学の基礎』においては、現代企業に見られる「資本と労働の固定化」に伴って生ずる営利原則の変質過程を多面的に検討することによって、現在の大企業が短期的な営利から長期的な営利へと企業の指導原理を変えざるを得ない、そういう状況に置かれていることを説得的に主張されていると思うのでございます。
このような体系を持つ藻利教授の業績は学会においても「藻利経営学」と呼ばれるほどの高い評価を受け、日本の経営学界の最高峰の一つに数えられる優れた業績として、学界全体からその理論の正当性と格調の高さを承認されているわけでございます。
むすぴ
― 一橋経営学の特質と問題点 ―
以上、上田貞次郎博士の方は若干端折りましたが、増地博士、その門下である古川、山城、藻利、の三教授の理論のほんのさわりの部分だけを御紹介申し上げたわけでございます。要するに一橋の経営学といっても一人の人間が経営学の全体をやっているのではございません。以上申し上げたように、まず上田貞次郎博士の世界に類例を見ない独創的な構想に端を発して、増地博士のドイツ経営学の導入と研究分野の拡大を経て、増地門下の古川、山城、藻利の三教授による増地理論の進化と精密化を通じて今日の隆昌を迎えるに至ったもの、ということができるのではないかと考えるものでございます。しかしこれら先学の研究過程は決して平坦な道ではなく、むしろ幾つかの紆余曲折を伴う苦闘の連続であったと思われるのであります。われわれアプレゲールの者達もこの点を肝に銘じて研究に専念しなければならないと考えているものであります。
最後に、今日の一橋大学の経営学の特質と問題点について若干の指摘をいたし、諸先輩からの御意見を伺うことができれば幸いであるというふうに考えます。
幾つかの問題点があるわけですが、私の考えている一橋の経営学の持つ最も重要な問題点は、その「実践的な性格」にあると考えております。もともと経営学というのは現実の企業行動に科学的な基礎理論を提供することを課題として生成発展してきたものであります。そうした意味では経営学そのものの実践的性格はこの学問の持つ生得的な性格であるともいうことができると私は考えます。しかし、こうした性格が特に一橋の経営学の特色だと言われる理由はどこにあるのかという点について考えてみる必要があると考えるのであります。その理由の一つとして考えられることは、他の多くの大学における経営学が、現実の経営現象を「客体的に説明する因果論的考察」を追究しているのに対して、一橋の経営学が 「主体的実践の基礎理論」 の追究を目指してきたことに求めることができるのではないかと思うのでございます。
例えば、他の大学では経営労務論、経営財務論、経営生産論というような講義名が使われるのに対して、一橋では労務管理、財務管理、生産管理、というようにそれぞれ管理主体があってその管理主体が行う各種の分野の経営問題の理論的な基礎を提供しようとしているのが一橋の経営学の実践的性格と言われる一つの大きな理由ではないかと思うわけでございます。
問題は、そこで呼ばれる実践的性格という言葉がいろいろ異なった意味に解釈され、必ずしも明確な、もっと言えば一義的に明確な内容を持つものとして把握されていない点に問題があろうかと私は思うのであります。ある場合には古川教授のような「技術論」― 技術論にも「クンストレーレ」と「テヒノロギー」と両方がございますが ― 一応古川教授の場合にはクンストレーレと考えておきましょう。そういう古川教授流の技術論という意味で実践という名前が使われる。またある場合には山城教授の場合のような「規範論」、つまりあるべきものとしての企業行動を追究する。ザインではなくてゾルレンを追究する。こういう規範論もときには実践的な性格というふうに受けとられる可能性が少なくないと思うのでございます。そして、学会の方では余り使われませんけれども、業界の方とお話ししていると、経営学というのはもっと「実学」 でなければならんじゃないかという御意見も聞くのであります。「実学」という言葉が一体何を意味しているのかということが私にはまだわかりかねる問題の一つでございます。私自身は一橋の経営学の特質を主体的な立場からする実践理論の研究という意味で考えています。つまり内容的には実践的にして同時に理論科学の性格を持つ。こういう学問として経営学を考えているわけでございますが、この点について何
らかの御意見をいただくことができれば非常に幸いだと考えるものでございます。
御静聴のほどありがたく存じます。
[質 疑 応 答]
― 一番最初におっしゃいました上田先生の国民経済学から経営学が独立不可能な方に説を変えられたということを、われわれに少しわかるように簡単にお教え願えたらと思うのですが。
雲嶋 上田博士は後年において次のように述べられている。
「通説としての経営経済学は経済単位の内部関係を問題とし、国民経済学は広く経済単位間に生ずる現象を問題とするのであるから、この二つの経済学は独自の対象を持っていると言われている。しかしながら経済単位の内部関係と外部関係とを画然切り離して研究することは、果たしてでき得るものであるか否か。(中略)実際に経営上の問題を扱ってみれば一つとして外界の流通経済と関連していないものはない。(中略)それ故経営経済学と国民経済学とは研究の対象が異なるという理由のみによってこの両者を区別することは不可能である。」というふうに述べられているわけでございます。
― 大変立派なお話しを聞かせていただきました。
お話の中で一つ私どもとしては経営にタッチしている者としまして非常に重大だと思いましたのは、山域先生の企業観について自主的、公共的機関とおっしゃいましたが、企業が自主的・公共機関になっているように言っておられる点には大きな疑問を抱く。ザインとゾルレンの取り違えではないかというお話でございましたが、この点につきまして自主的公共的機関という意味をどのようにお考えになっているのか。どうもそこら辺が私ども経営をやっている者としましては大事なお話だと思います。もうちょっとはっきりお示しいただければありがたいと思います。
雲嶋 さっきの問題は実は山城先生御自身が余りはっきりさせておられない問題で、経営学会の関東部会、確か大分前の東大であった関東部会だと思いますけれども、そのときに山城教授が報告されまして、それに対して藻利教授が、経営自主体というのはゾルレンかザインかという真正面からの鋭い質問をされたことがある。けれども山城先生というのは、講演をお聞きになった方はおわかりかと思うのですが、そういう点については余りはっきりさせないといいますか、非常にその点が、西田哲学の弁証法に似たようなところがございまして、ゾルレンかザインかと言っても仲々はっきりとした解答をされないのであります。ある面ではゾルレン、であるけれども他面ではザインと考えることもできる、というふうなやりとりを聞いたことがございますので、この点は山城先生に直接伺ってもはっきりしないんじゃないかと思うのでございます。
― 私はむしろ先生御自身がどのようにいまのようにおっしゃったことを、お考えか、ということをお聞きしたいわけです。
雲嶋 私自身は先きに述べましたように、これは明らかに「規範論」であると考えています。もとより規範の中にもゴットルが言っているようにいろんな性格の規範がございます。そして、その中の「存在論的な規範」というものならば科学性を持ち得ると考えるのでありますが、残念ながら山城先生のおっしゃっている経営自主体という企業観は、むしろ先験的、あるいは倫理的な源から発する概念規定である。そういう意味で、私は今日の企業が社会の公共機関となっているというふうには考えないのでございます。
― ありがとうございました。私どもは会社経営につきましては、会社というのは「公器」だという意識でやっておりますので、そこら辺には会社の利潤追求こそが規範でございますので、利潤追求のやり方についてはもちろんいろいろと考えておるわけでございます。「公器」であるという考え方は最近の経営者、企業体というのは大体そういった考え方でおると思いますので、その点についてひとつ御理解をいただきたいという気持ちがございます。
それから、一橋大学の経営学の特質と問題点について大変明快な話を聞かせていただきましてありがたいわけです。実践的性格はそのとおりだと思います。ちょっとポイント違いのことを申し上げるかもしれませんけれども、そういったお考え自身については大変賛意を表するわけですが、いま産業界といいますか、政府も学会も含めまして、技術関係では産学間の協調ということが一番唱えられているところです。それは「技術」という面での特色であると言えるかもしれませんが、次世代を担う技術というものはそういった形で開発しなければ到底開発できないという立場で非常に政府も旗を振っておりますし、学校の方もそういうことをしておりますが、経営学というものも、先生がおっしゃっいましたように経営を対象にしているわけですから技術とは意味が違うかもしれませんけれども、産学の交流といいますか、それはアメリカで言いますならば何十年も前から産学の交流といいますか、大学の先生が会社の役員をやっているとか、そういうことを具体的に知っておりますけれども、そういった面において一橋がどの程度産業界を指導する、また産業界から産業の動きを吸収するということをなさっておるか。私、よく存じませんので、そこら辺のことをひとつお聞かせいただきたいと思います。
雲嶋 非常に痛い質問で困ってしまいますけれども、一般的に申しますと産学協同という場合には理工系の方では企業の資金を使ってかなり盛大にやっている。しかしながら社会科学の方ではせいぜい公開講演会を月に一回か二回やるという程度でございまして、理工系のような形での産学協同までは、おっしゃる意味の ― 私も十何年か前にハーバードに行ったことがございますけれども ― ああいう形の本当に業界のトップが集まってプロフェッサーと話をする。そういう場というものは一橋にも、恐らく日本のどこの大学にもないのではないかと思うのです。ただ一つ、御質問に関連して申し上げておきたいことは、山城教授が 「日本経営教育学会」というのを創設されまして、現在は先ほどの 「自主体論」よりもそっちの方の会長として盛んに活動されているということであります。そこでは経営学会側と業界側の双方から報告者を出し、相互のもつ問題点をざっくばらんに研究するとともに、時には工場見学なども組み込んで、ほぼお話に近い方向に進んでいるようであります。ただ問題は会員各自の時間と費用に大きな制約があるということ。例えば、大阪で「学会」を開くから集れ、といった案内状が来ても、こっちはパッと行くだけのポケットマネーを持っていない、とか学会側のメンバーとしては、毎日のようにこなすべき授業やゼミナールの準備をほったらかしにして、「経営教育学会」 へ出かけるわけにもいかない、というようないろいろな事情のため、仲々思うように出席できない。そうした理由から山城教授には誠に申し訳ない次第ですが、同学会の理事を拝命していながら、ただ会費の納入者 ― この学会は業界からの資金的援助なしで(但し法人会員制度はありますが)運営されている関係でかなり高い会費なんです ― として責任の一端を果たさせていただいているのが実情であります。私も一度は短期間ではありましたが、業界に身を置いたことのある人間でございますので、この 「学会」 へもたまには出席して勉強したいと思うのでありますが、以上のような理由から仲々希望通りにいかないのが現状でございます。一橋大学でも、目下ゼメスター制導入の可否について検討中であり、もしこの方式が実現すれば、少くとも一年の半分は、こうした学会にも出席して業界の方々の御意見を伺いたいと考えている次第であります。
(昭和五九年十月一七日収録)