[橋問叢書 第三十六号] 一橋の学問を考える会

   近代経済学の実学性と金融政策 創価大学経済学部教授 西川元彦  (十二月クラブ・七組)(クリック)
     ― 中山伊知郎先生の想い出などを通して ―


   はじめに


 御紹介いただきました西川でございます。

 私、いままでこの会にかなり出席し、諸先生のご講演を拝聴して参ったのですが、末日は高いところからで、まことに気恥ずかしい思いでございます。ご指示いただきましたテーマについて、私なりの平素の感想、それも特に恩師中山先生の思い出を中心にして申し上げてみたいと思います。

 いただいたテーマは「近代経済学の実学性」ということでした。私は日本銀行につい先頃まで四十二年もおりましたので題名に「金融政策」を加えましたが、付け足りみたいなもので、時事問題を申し上げるつもりはございません。

 この「近代経済学の実学性」という問題は大変むつかしいテーマです。近代経済学といってもいろんなイメージがございますし、実学と申しましても万人共通の定義は必ずしもないだろうと思います。そういう意味でいろんな組み合わせでいろんな感想や批評が出てくるわけでございます。しかも、このテーマは、ある意味では哲学というか、「科学方法論」、あるいは経済学の基本的な在り方の問題に触れるのでございまして、そういう意味では非常にむずかしくなってまいります。事実、ごく最近、経済学の危機というようなこともあって、世界の経済学界の中で、科学方法論がかなり復活してきているようであります。私も、平素一橋の伝統である実学という言葉をかみしめながら方法論に思いを馳せているわけでございますが、ここでは直接そういう科学方法論というようなことではなくて、中山先生の思い出、それから、私のおりました日本銀行の思い出というようなことに托して申し上げたいと思います。いただいた大問題−−正に大問題ですから私の能力を超えるのですけれども、きようは思い出とかエピソードとかいうものをつうじる私の感想のようなことですので、どうぞお気軽にお聞き取りいただければ幸せだと思います。

   実学とは、近経とは……

 昨年でございましたか『上田貞次郎先生の想い出』という本が上田会で編さんされました。私も拝見しましたが、あの中には一橋の実学の精神が非常によく出ており、例えば「学者は実際を知らず、実際家は学問を知らず」というようなことは私の経験からも心にしみる気がいたします。実学という言葉にはいろんなイメージがあろうかと思うのででございますが、興銀の中山素平さんが最近、「高度の実学」という言葉を使っていらっしゃいました。それは、いま国際大学を主宰していらっしゃいますが、その大学のリーフレットで拝見したもので、「高度」の実学です。高度という意味合いは随分広く深いことを指しておられました。もちろん基本的な「理論」を含みますが、それ以上なのです。

 例えば、ごく最近世界の学界で少しはやっておりますが、「文化人類学」です。それと経済学の関係がこのごろ論ぜられ出しています。それから「比較文化論」です。そういうものを含んだ高度の実学を中山先輩は書いておられました。私も実学という言葉はそのくらいの広がりを持つだろうとかねて空想しておりましたので、中山素平さんがわざわざ「高度」と付けられたのは、実学という言葉によって、そう高度でない、低次元のイメージを持つ、そういう誤解する人もいるというお気持ちからではないかと拝察しました。本当はそういう形容詞はなくていいと思っておられるんじゃないか。ただ読者を考えて「高度」と言われたのではないでしょうか。そういうわけでございまして、実学のイメージは色々で、単に簿記と算盤という感じ方もある。それから、西欧の科学方法論で実学とは何か。その中に一橋の伝統と完全に重なり合うような哲学があるかどうか、不勉強で見定めにくいのですけど、「アート・アンド・サイエンス」という言葉が実学と訳されていることもあり、初めにちょっと申上げておきます。アート(芸術)については後にまた触れることと致します。

 一方、近代経済学のイメージについてもかなり幅がある。学者のつかみ方も、第三者のこれに対する評価も様々です。非常に技術的なものという受け止め方もある。例えば「社会工学」というイメージです。技術屋さんのエンジニアリングと同じだというような意味で、またそういうことで胸を張っている方も近代経済学者の中にはいらっしゃる。
そういうイメージとは逆に、もっと「人間の営み」に即した考え方もある。一言で近代経済学といっても、それ程に幅があるというふうに感じます。

   両者のいろいろな組み合せ

 近代経済学と実学との関係というテーマで考えますとそれぞれのイメージに応じていろいろな組み合わせが出てくる。例えば、いま申上げましたような高度の実学を考えておられる方は ― 「高度」を付けても付けなくても ー 数学一点張り、自然科学と同じような近代経済学は単なる技術論じゃないかという疑いの目を向ける。そういう組み合わせで近代経済学と実学の関係を考えるという方も確かにおられると思います。ひょっとしたらこういうテーマを与えられたのは、そういうニュアンスが、あるいは入っていたのかなという私の想像もあるわけでございます。

 それから、全く逆に近代経済学というのを非常に美化して、最高に科学的な真理の探究なんだ。実学というのは、簿記、そろばんのように実用一点張りの低次元のものだというような組合わせの見方もあると思います。この両者は
全く逆になるわけでございます。それから三番目に、近代経済学も実学も、両方とも低く見るという人もいると思います。一部のマルクス経済学者の中にそういう感じの方がおられました。いまは大分歩み寄ってちょっと違ってきたようですが。

 その三つの組み合わせで近代経済学の「実学性」 のイメージが全く違ってくるわけです。この問題をいただきました私、このどのイメージでお答えすべきかという羽目に追い込まれてくるわけでございますが、実は、中山伊知郎先生の近代経済学、あるいは私の想像を含めた中山先生にとっての実学というふうに、中山先生中心に考えますと、いま申し上げました三つの組み合わせのいずれでもないと私は思っているのであります。四つ目の組み合わせが大切だと在じます。両方とも非常に高い意味で、そしてある意味では「近代経済学即実学」と言ってもいいぐらいの感じの学問観を中山先生は抱いておられたのではないか、というふうに私は受けとめているわけでございます。

   理論を核とする実学

 これにつきましては、中山先生のいろんな思い出話を時間の許す範囲で後からだんだん申し上げますけれども、話の緒口としまして、中山先生自身のことでなく、中山先生のあらゆる意味で親友であられた東畑精一先生の学問観について一と言致してみます。東畑さんは「文質彬彬」という孔子の言葉を使って言われたことがございます。経済学は文質彬彬でなければならない。上の文には哲学を託し、下の質には実用とか現実というものを託した表現でした。

 彬彬というのは斉々としている姿。その真ん中に理論があるというような意味合いで使っておられました。東畑先生の言われることは、私は中山先生としばしば二重写しになって受けとめてきております。農業というご専門からいっ
て実学的であるはずの方、左右田哲学を読んで非常に感銘したと言われた東畑さんの「文質彬々論」です。

 実学という場合の実という言葉は、先ずいわば「真実」の実。中山先生は「真実一路の旅」といわれましたが、この真実という言葉は大変広くかつ深い意味だと思うのです。.それから「実地」、「実際」、「実用」の実。そういう二つの実を兼ね備えた、「文質彬彬」の学問。中山先生の 「純粋経済学」はその真ん中に位置する「背柱」とか核であって、その三つが一本になった学問像という感想が、私が教わった中山先生であるわけでございます。
 
 一方私は、中央銀行というものを学問としてどう考えるかということを、中山先生のお教えを通じて、また私なりの体験や見聞を通じて長く模索してきたわけでございます。その結論は、中央銀行は「実学」をする場だということです。
そして、その金融政策とか金融業務は、実学を実践に移す「実業」だというふうに、考えているわけでございます。そういう「つかみ方」と中山先生の持っておられた実学観、近代経済学観、あるいは「物を考える基本」とは、そう違わないと感じております。そういう受け止め方は私の自己流の解釈かもしれませんが、少くとも中山先生に教わったお陰で中央銀行の実学、あるいは実業という感想を持ち得たというふうに思っているわけでございます。

 中山先生といいますと、私の学生のころ、純粋経済学とか数理経済学というようなものが、いわば一番のトレードマークであったわけですが、そういうイメージに限定して中山先生の学問像をつかんではいけないという感じは、先生に習ってから四十年次第に強まってきているわけでございます。中山先生の近代経済学は非常に幅の広い、非常に奥の深いものに包まれていた。西川流に言いますと、上に哲学を持ち下に現実を踏まえた近代理論であったし、横には商業学などを視野に含めた近代理論であったというふうに思います。もっと概括的に言いますと、中山先生は一橋の伝統を非常に大事にし、この伝統に依りながらその上に新しい息吹きを求めておられたと思います。先生が三木清編「現代哲学辞典」の中で使った言葉ですが、経済学の歴史に新しい生命というものを常に志しておられた。例えば
「オーソドックスの経済学に新たなる生命を」といわれ、当時はまだ一般的でなかった「近代経済学」という表現で、そのことを書かれています。ちようどそれと同じように、一橋の実学の伝統によりながらそれを乗り越えて新たなる生命を点ずる、もう一つ花を咲かせる、そのいわば心棒として ― このごろ科学方法論ではハード・コアつまり不動の中核といいますが ― 純粋経済学を打ち立てられた。「純粋経済学」に書いてある理屈だけが先生の経済学のすべてではなくて、その周りや奥にそういう伝統精神があったというふうに私はとっているわけです。

   実学・実業における学際性

 中央銀行の金融政策なんかにも類似のことが大いにあります。各国の中央銀行の歴史を見ますと、上に哲学や理念のようなものを持ち、むろん下に実地を踏まえる歩みであります。そして経済理論を次第た強く持っていく。この縦の関係と同時に、横には法律学、政治学、社会学など、経験中心ですが、いろいろの判断が加えられるわけでございます。このいわば学際的なこと、つまり各学問が共同し、鍛え合っていくという姿は、これも一橋の学問の大きな伝統だったと思います。商科大学でありながら、実質的にはいまの四学部制の全部があったと思います。先般傘寿を迎えられた高島善哉先生や井藤先生が今の社会学部の源流となっているのも、その好例と思います。ゼミナールその他を通じて学生はその四つの学問の中心軸をそれぞれ学んだわけです。ゼミナールで特殊性が出ていたけど、実際は無意識のうちにも四学全体も勉強した。諸先輩皆様もそうだったと思いますし、私自身の体験もそういう気がするのです。一橋の学問の「実学性」には、そういう「学際性」を合せ持っていたと思うわけであります。確固たるハード・コアを樹立された中山先生の学問像にもそういう幅と深みを豊かに持っておられたという気がしているわけです。

   私の実学事始め

 以上が私のイントロダクションでもございますし、きよう申し上げることの結論であり、すべてでもございます。
中山先生の近代経済学は実学と不可分であった、さっき申し上げました三つの変な組み合わせの見方を越えた近代経済学であったと存じます。
そういう申し上げ方に私は私なりの確信があるのですが、何分中山先生は巨象であり、私は群盲の一人にすぎませんので、私自身の体験や思い出と申しますか、西川流の感じ方の背景も申し述べなければなりません。それには私の個人的なことに流れそうで大変申し訳ないのですが、お許し願い度いと存じます。私、迷い、迷い、中山先生に叱られたり、手を引かれたりして卒業後も四十年、先生の一学生であり続けました。少くとも自分ではそう思っている次第であります。

 先生のゼミに入れて頂いたのは昭和十四年春からですが、実は、その前にも私の実学観の前座がございます。妙な言い方ですが、私は一橋を三回卒業したと思っております。旧制の商業学校、名古屋高等商業学校を卒業して、それから一橋に参った者でございますが、商業学校の先生の多くが一橋の教員養成所出身の方でございました。そして高商の経済、商業の先生方も大部分が一橋出であったということでございまして、そして商科大学に入れていただいた。
分家を含めると三回一橋を卒業したという実感が残るのです。

   簿記を三度習って

 さて、商業学校での簿記、そろばんというようなもの、これは頭で覚えるというより、手で、あるいは皮膚と嗅覚で仕込む。簿記の先生が毎回例題を出して右と左に仕訳けさせるわけです。後から思えば、ほとんど直感的というか、全く指で簿記を覚え、それでも次第に正解を出せるようになった。そろばんはもちろん指でございます。そんなような、本当に「実用」一点張りですが、それなりに叩き込まれた。そのときはただ右往左往していただけですが、後で振り返るとそれが私にとって実学のスタートだったし、大事な記憶のような気がいたしております。私は、三回一橋を卒業したお陰で、簿記は三遍一種の完成教育を受けているわけです。半分ぐらいづつ重複していて、半分高級になっていくわけですが、商業では指で、高商では指と頭で、大学では頭と心で、と三回会計学をやった。その連続が私の実学というわけです。

 例えば、高瀬荘太郎先生の会計学を読むと、企業経営のすべてに連想が向くし、しかも人間社会の思想にも包まれているようで、簿記技術論を大分飛び越していらっしゃつると思いました。そして、だんだん簿記というものに対する見方が私なりに広く高くなり始めたわけであります。昔の商法講習所から商大へと培われた実学の歴史とは、あるいはそういうものではなかったか、とも思うのでございます。

 簿記について、その後を含め他にもいろいろな記憶がございます。大学時代、簿記やそろばんなんていうのは最も卑近な実用技術だからくだらんという学生仲間もおりましたけれども、当時私は案外そうではないと思っておりました。

例えば、私どもより数年先輩で、依光良馨さんという方がおられます。いまは東京経済大学の教授で、ご子息が一橋の教授です。彼は学生時代簿記、そろばんに疑問を呈されたらしい。依光さんは立派な思想家かつ文人で、例の「紫紺の闇」の作詩をされた方です。マルクスということで警察に捕ったとのことですが、その依光さんが後になってマルクスは実は、簿記を非常に大事にしていたと述懐されたことがございます。『資本論』三巻の中で、マルクスは簿記というものを「価値規定」という言葉で重視しているのです。しかも、資本主義よりも革命を起こしたらますます簿記が重要になるというわけです。依光先生は簿記を昔本当に軽蔑されたのかどうか存じませんけれども、軽蔑していた学生仲間がいたことは事実でしょう。簿記とは、さにあらず、なんであります。

 それから、これは私の学生時代に中山先生に申し上げた質問の話になるんですが、私共はプロ・ゼミナー
ルでケイ
ンズの一般理論』の輪読をいたしました。私はどうも皮膚と頭で簿記に馴染んでいるものですから、簿記的な目で読んでしまうのです。あそこに書いてあるいろんなこと(ユーザー・コストとファクター・コストとか、IとSの恒等とか)が、みんな私には簿記と映るんです。そういうことで中山先生に質問したら、何、簿記、おまえはまだわかっておらんといろいろ教えられました。しかし、簿記のT字形で考えるとケインズの理論が非常にわかりやすくなるところもあると、以来いまでもそう私は思っているんです。それから十何年たってから同じような会話を中山先生としたことがあるのですが、いまSNA(システム・オブ・ナショナル・アカウンティング)の理論というのがございます。国民所得分析だとか、日本銀行でいくとマネー・フロー分析だとかいろいろの内容を含んでいます。あれはある意味では国民経済の簿記なんです。SNAの体系はケインズと会計学の双方が母体となっているようです。産業連環表もSNAです。日銀のマネー・フローの設計や研究で三十年前に中山先生の御指導を得たわけですが、あれにはアカウンティング、つまり簿記的思考が入っています。これは会計学の用語です。そして現在、国連の統計局長に出向している一橋の倉林教授はナシヨナル・アカウンティングの世界的な大家です。簿記とケインズという、そんな記憶の連続もあるわけでして、皮膚で覚えた実用技術がハイレベルの近代経済学にもつながっていくという回想であります。

   高度の実学へ ― 高商から商大へ ―

 二度目の一橋生活(?)は高商時代でございます。高商のゼミナールは宮田喜代蔵先生。やはり福田徳三先生門下で、赤松要先生も。それから、左右田喜一郎先生門下の酒井正三郎先生等に経済学を習ったわけです。その三人の先生の講義は皆さん大変哲学的でした。ほとんどわからないまま、経済学というものはえらい高遠なものだということだけは納得した。大体においてドイツ歴史学派の経済学。この系統の経済学は、いまの近代経済学の「論理」性に比べて、半分以上は「倫理」学だと評されているんですけれども、広くいえば哲学的経済学でした。赤松先生はマルクスとかへーゲルとかしょっちゅう言っておられたし、宮田先生もフッサールなど。むずかしい原語に参りました。それから左右田門下の酒井先生はむろん哲学的。わからないなりに、学問の底にあるものは、経済学の根本にあるものは、やっぱり広い意味の哲学だなあ‥…と恩いました。機会があったらちんぷんかんぷんだったそういう哲学をもう一遍勉強しなければという気になったわけでございます。

 ところが高商では逆のこともあった。例えば「商業実践」という実用的、現実的な教科がございます。おまえは倉庫業、おまえは商社だ、おまえは銀行だ、おまえは保険だと役割りを決めて、想定問題をワッと出して、小切手を書いたり、回したり、帳面をつけたりするわけです。哲学者酒井先生もその指導教官になるわけで、どうも不思議な感
じを受けたものでございます。当時は実学という言葉は知りませんでしたが、今から思えば、いわば哲学という意味の「実」と、身近な意味の「実」との両極端が高商生活にはあったわけでございます。

 また、高島佐一郎先生という方がおられた。先輩から受け継がれたあだ名は「東洋ケインズ」でした。この高島先生のケインズというのは、後に商大で習ったケインズ「理論」と全然違ったイメージのケインズで、「現実」に真正面から取組んでいるケインズ、いわば時事評論家としてのケインズという印象が残っています。そして、日本にケインズを導入した最も初期の方ではなかったかと思うんです。東大の早坂さんという、ケインズ学者で日本の経済学史を追究している人がいる。ケインズはいつ日本に入ってきたかという話題から、高島佐一郎先生が一番古い方かもしれないと私が話したら、そんな人の名前も本もほとんど知らないという調子でした。しかし後になってから、あったあったというご返事がありました。高島先生は非常に早くからケインズを取り入れられた。(序でながら日銀でも大正末期に入社試験でケインズを出題)ただ、このごろ言われるケインジアン経済学とはすっかり違った時事問題といいますか、非常に現実に密着したケインズ、いってみれば「実学者」ケインズだったというような感じです。それから、赤松先生は哲学者でありながら「産業調査室」を主宰され、日本で初めて「生産指数」を作製された。そこにも一種の「実学」があったと、後になって感銘するわけでございます。

   実学の中の理論

 次に「理論」ですが、ちょうど私が高商時代に中山先生気鋭の新著「純粋経済学」が大評判だったようで、名古屋の講義でもたびたび紹介されたり批判されたりしました。各先生方、宮田先生と中山先生とでは大分学風が違うのですが、同じ福田門下ですから率直な批判も多かったように思います。それで私も中山先生のこの本を読みまして、宮田先生のところに何遍も出かけ、頁を繰って教えを受けました。そしたら、そこまで君が『純粋経済学』に関心を持つのなら一橋に行って中山君のところで勉強し直してみたらどうかというようなお話もございまして、就職と両にらみで一橋を受けたわけです。中山先生のゼミナールでは純粋経済学的なこと、ケインズ、シュムぺーター、ヒックスを勉強するわけですが、しかし高商時代に持っていた問題、わからないなりに哲学とか現実とか、歴史とか、ああいう系統のものを捨てずにいきたいと先生に申し上げたわけです。それでいいんだという先生のお話でした。歴史などは大事だけれど、何かもう一つ理屈、理論というものも欲しいという判らないなりの願望に対して、中山先生もそれでやってみろということでございました。

 後から知ったことですが、中山先生は福田先生にヒルファーディングの「金融資本論」を勉強したいといわれたことがあるそうです。私共にもそれをゼミのテーマにしてもよいといわれました。シュムぺーターがマルクスを重視していたお話も承りました。そうかと思うと、先生のお手伝いに夏休中工業統計表の集計や分析をやった仲間もいます。
それやこれやで、私は中山先生がお亡くなりになった時、「中山先生の歴史観」とか「中山先生の偉大な精神」という追想文を書きました。純粋経済学だけが先生のすべてでは決してありません。理論を「核」とする文字通り「高度」の実学ともいいうると思うのです。私は私なりに中山先生の学問像をこんなふうに感じているわけでございます。

   日銀での実学と中山先生

 私、卒業のときに、日銀に行きたいということを先生に言ったら、おまえなぜ日銀に行くんだ。勉強を捨てるのかと聞かれました。現実に即した学問をしたいと申し上げたら、それも一つの行き方だからやってみろということで、中山先生が推薦してくださって日銀生活に入ったわけでございます。四十二年もおりましたけど、調査、統計、研究ということが主で、半分足らずは実務で暮らしたのですが、常に何か実地に即した勉強という意識を終始持っておりました。これは私自身の「実学」体験です。

 ところで実は、中山先生はほとんど何時も日本銀行におられたのです。私が日本銀行に入りましたときは調査局の参与であられ、私はその調査局で日銀生活のスタートを切ったわけですが、一橋では高橋泰蔵先生も来ておられました。中山先生が調査局参与になられたのは結城総裁のときだと思いますが、荒木総裁のときに役員としての参与になられて、亡くなられるまでこの参与を続けられました。日銀法による正規の参与で、重役名簿にこんなに長く載ったのは空前のことですし、おそらく絶後でしょう。亡くなって、門下生である篠原三代平さんがこの参与を引き継ぎました。中山先生は四十年も日本銀行におられたわけです。先生は非常に御多忙で、時々銀行に来られただけですけれども、切れ目なく四十年も日銀の指南番であられたことは、私にとっても大きな幸せでございました。銀行内では中山先生は、偉い人とのお付き合いで、私みたいな下っ端は直接お目にかかりにくかったわけですけれども、先生の日銀の中での御発言は間接に直ぐ響いてきましたし、私など大変図々しくも中山先生のお宅に上って色々伺ったわけです。

   中山先生の背広ゼミなど

 日銀外では、いわゆる「背広ゼミ」というのがございました。卒業すると昔は学生服から背広に着替えるわけで、そういう大学外の中山ゼミが続いておりまして、私は杜切れがち怠けがちなゼミナリステンでしたけど、亡くなられる直前までそのゼミに参加させて頂いておりました。

 また、個人的に中山先生のお宅にも、御迷惑を省みずに寄らしていただきました。叱られたり、教えられたり、中山先生からあらゆることを教わりました。経済学だけではなくて人間論一般まで……。私、こうやって大きな声でしゃべっていると、西川は心臓が強そうだとお思いになるかもしれませんが、私、実はその反対で、しばしば、行詰ってメランコリーになる方だったんですけど、今日まで何とか生きてまいり、多少とも勉強を続けることができたのは本当に中山先生のお陰だったとしみじみ思います。中山先生のお宅に行くときは、しょんぼりして、行き詰まった気持の時が間々ありましたが、お宅をおいとまするときは何となく生きる勇気が出てくるというような体験が随分ございます。人間いかに生きるべきかというようなことまで、説教じみたことは一切おっしゃいませんでしたけど、冗談のようなお話しからハッとなってくるんです。学生時代は三年間にすぎませんけれども、以来約四十年還暦になっても先生の前では一学生で、終始先生にぶら下がって来ました。申し訳ないことでしたが、それでもお導きくださった。
私は中山先生という偉大な恩師に巡り会えて大変果報者だったと思っているわけでございます。

   中山先生の学問像 ― 一橋四天王 ―

 さて この中山先生の学問像でありますが、それを「実学」という表現に乗せて、ここでもう一遍色んな角度から振り返ってみたいと存じます。ただ、私の歩んできた道のりというようなことから、私流の勝手読みもいままで申し上げたような意味で混るかもしれませんが、その辺は御勘弁と御賢察をお願い致します。

 中山先生はかって一橋の「四天王」について語られたことがございます。その一人はもちろん福田徳三先生。これは余りにも当然ですから省略。それから、上田貞次郎先生です。先程申しました『上田先生の想い出」にも中山先生の一文が転載されておりますが、上田先生を非常に大きな学者、大きな存在というとらえ方をしておられた。専門分野は相当違いますけれども、一橋の学問という意味では非常な敬意を払っておられたと思います。私が学生のときに学長の現職でお亡くなりになったわけでございますが、四天王の一人として実学の代表のような上田先生を語っておられる。

 それから哲学者の左右田喜一郎先生と文明史家の三浦新七先生。もちろんそれぞれ大きな敬意を持って語られたように、私は思っているのでございます。

 左右田先生も、三浦先生も日銀との関係があり、そんなわけで、このお二人に実学像を感じているわけなんでございます。左右田先生は一橋を出て直ぐ外国に留学。御尊父の左右田金作頭取から留学してこいと言われたのは、実用の頭取学をしてこいという意味だったのでしょう。そのため日銀の深井英五さんにこのお父さんが、どういうところに行ったら実務の勉強になるかということを相談されたようです。深井さんはそういうところをいろいろ紹介した。ところが、そこからいつの間にか飛び出して哲学に専心されるようになったわけです。日銀とはそういう御縁のある方です。こうして深井さんの指示には従わなかったわけですけれども、他の意味では一番自分の示唆に従ってくれた人だというイメージを深井総裁は持たれたようです。深井さんという人もかなり哲学的なところがございまして、哲学を含む高度の実学です。上に哲学をはっきり持って実務的な金融政策に取り組んだ方です。深井さんは随想の中で「後進の畏友」という表現で左右田先生を引用されています。自分より後輩で、初めはどこかの欧州銀行で行儀見習いしてこいなんていう気分で探した人に対して、「畏友」と呼んだわけです。それから、左右田先生が亡くなって一年か二年か忘れましたけれども、記念講演会で深井総裁自ら、挨拶じゃないんです。学術講演という中身の演説をやっておられます。大変な左右田びいきです。また、左右田銀行頭取としての左右田さんについても同様だったと思います。銀行頭取としての実学者・実業家像といえるかもしれません。金融恐慌で左右田銀行はつぶれていくわけですが、そういうときの頭取の見識、総裁の態度やなんかも若干の伝承を伺っております。井上準之助さんも左右田先生の病床を見舞っておられます。それから、いつかこの席でもお話がございましたが、左右田先生ご自身、横浜社会問題研究所長をやられ、現実に大きな目を向けておられました。これについては直接手伝われた山中篤太郎先生のスピーチを承ったことがございます。頭取という仕事と共に併せ考えると、文字どおり中山素平先輩の言われる高度の実学と思えて参るのであります。中山先生はいわゆる哲学者でないかもしれませんが、人間精神、それも磨かれた人間精神を極めて重視しておられましたから、中山先生にとっても左右田先生はやはり四天王の一人だったと思えるのです。三浦先生についても同じだと存じます。

 三浦先生もやはりお国の銀行の頭取で、中世の文明史とか宗教哲学というようなイメージだけがすべてではないと思います。現に日銀で結城総裁の顧問をしておられたわけです。私は学校でも三浦先生に教われない年令層であったし、日銀でも雲の上。それでも総裁がほとんど独占していた三浦顧問の話を先輩からときたま聞かされていたわけでございます。歴史や哲学を現実に活かすという意味では、三浦先生の場合も一種の高度の実学といえそうだと思うのです。

 中山先生の実学は、そういう哲学や現実を大切にされながら、そのハード・コアとして ― 中山先生は背柱とか中心という表現 ― 何かも一つ理論的なものを打ち建てようという精神だったと思います。それによって「新しい生命を」というのが数理経済学だったということは既に申し上げました。中山先生が歴史を軽視されたわけでないことも既に申し上げました。この四天王の大事にしながら、四天王の伝統にもう一つ何か新しい生命をであります。伝統を
否定するんじゃなくて尊重するが故にさらにいいものをというか、そういうものとして、いわゆる近代経済学を打ち立てられていったというふうに思うわけでございます。

 虚学と虚業。これは実学と実業の反対語でございますが、虚学であってはいかんということを中山先生自身仰しやっております。いまの近代経済学には虚学というイメージがひょっとしたらあるかもしれません。近代経済学者の中に自分たちのやっていることが虚学じゃなかろうかというふうな反省をする人もごく例外的にはおります。哲学あるいは人間観、そして現実。何れが欠けても虚学になるのではないでしょうか。虚業と実業も同様であり、学長であった小泉明先生がキャプテン・オブ・インダストリーを度々語ったことも思い出されます。

   中山先生の人間観・歴史観

 中山先生は実学という言葉をしょっちゅう使われなくても、その学問像が一番典型的に出ているのは、
『中山伊知郎全集」二十巻の補巻です。亡くなった後で板垣与一先生が中心になられて「補巻」が編集され、
『発展の人間学』と題されております。哲学と現実を含んだ実学像ともいえます。一番最初に載っているのは、中山先生の「絶筆」となった論文であります。これは、シュンペーターを中心にしてマルクス、ケインズを取り上げたものですが、理論に限らない非常に大きなつかみ方の表明です。これには歴史観あり、哲学あり、世界の現実の潮流あり、とくに人間ありという文章でございます。シュンぺーターの「経済発展の理論」は若いとき訳されたわけですが、その改訂版を出すこととなり、非常に長い序文を新たに付けようとされたということです。これは一個の独立の大論文だと思います。
私は中山先生の遺言のようなつもりで何遍も読んでみているのですが、読めば読むほど味が深くなるというような感じの、ちょっとむずかしい文章です。ただ、病床でまだ少し御推敲中ではなかったかとも拝察し、その意味でも遺言であり、絶筆であります。私は何度か病院にお見舞申し上げたことがあるのですが、そういう気持を籠めて私にとってかけがえのない文章でございます。

 そのほかに、広い意味の学問観や人間観に関する随想がたくさん載っております。中山先生の人格や人生観とか、学問観であります。科学哲学なんていう生硬い言葉はお使いになりませんけれども、学問というものはこうなんだ、というようなことがたくさん出ております。まさに発展の人間学であると存じます。人間学を土台にした近代経済学です。いまの近代経済学者には人間抜きの社会工学的な近代経済学もなきにあらずですが……。

 そんなイメージのもう一冊は、先生の『わが道経済学』でございます。いつか板垣与一先生がこの席で福田徳三先生のお話をされたときに、同じ講談社学術文庫シリーズの福田徳三先生の二冊を紹介されたことがありました。そのとき、中山先生が福田先生についてもう一冊編集し解説するはずであったと話されました。福田徳三先生の「歴史観」というものを中山先生が書かれる手筈であったのに、その前にお亡くなりになったのでございます。中山先生は近代経済学を生んだ大きな母体としての歴史という、そういう精神を確かに持っておられたと思います。そういうことは折に触れて、四十余年習っているうちに感じ取っておりまして私は近代経済学者は歴史をやらないからおかしいじゃないかというような生意気なことを申し上げたりして、いろいろ叱られたり、教えられたり致しました。歴史と理論との関係というようなことであります。中山先生は体系的な歴史論は必ずしもお書きになっておられませんが、歴史を重視されていたと存じます。私なりに 「中山先生の歴史観」という一文を書いたことは既に申し上げました。

中山先生の文学観

 確かこの会の前々回だったと思いますが、「−橋と文学」というテーマのとき、杉本栄一先生が経済学をやろうと思ったらまず文学からやれといわれたというお話があったかと存じます。中山先生にもやはりそれがあったのでございます。板垣先生が先程の本の序文に書いておられますが、中山先生は大変な文学好きであられた。鴎外、漱石などの日本文学。ゲーテとかトルストイという西洋文学です。その中山先生に対して、私は、このごろの近代経済学は数学ばかりいじっていて、数学も大事だけれど、数学だけでいいんですか、というような質問を生意気にも申し上げたことがたびたびあるのです。先生は、いやそうだよ、数学ばっかりやっているのに大いに応援もしているが、夏休みぐらいは古典文学を読めと言っているんだよとのことでした。それがわからないかと叱られたわけですが、経済学の大もとに人間ありですから当然なんです。この人間探究の一つがまぎれもなく文学であると思います。

 中山先生の三周忌のときに、ホテルのパーティのようなしかけで大きな集いがありましたが、私、その記録を書かされたのです。それは、ゲーテ色豊かな三周忌の記録でございます。もちろん、中山先生の学者仲間や門下生のスピーチもありましたけど、全体としてはゲーテ・ムードでした。これはお嬢様の発想だったと思いますが、お土産にゲーテの本がございましたし、合唱団の歌はみんなゲーテの作詩です。作曲はモーツアルトとかなんとかでしょう。そういう三周忌の集いでした。また、中山先生の蔵書をまとめて残すことで、先生が最も愛蔵された本は何か。シュンペーターだろうか、と話し合われたことがありました。お嬢さんとか御遺族の方のイメージではゲーテという感じのように私は承りました。シュンペーターのところ、つまりボンに行く前にベルリンで半年ぐらい寝て暮らしたよなんて言われたことがあるんですけど、それはゲーテに取っ組んでおられた半年のようです。そういうものが先生の近代経済学を生んだ底にあるものと思うのでございます。

 序でながらハロッドというケインズ系の学者がございます。「成長経済論」で原点築いた人ですが、このハロッドも似たことを言っているんです。ハロッドの「社会科学とは何ぞや」という本ですが、その中で、社会科学をやるには必ず文学をやれ。それから数学をやれというような意味のことを書いているんです。そこでは宗教論にまで及んでいる。仏教にまで。人間のモラルの重要性です。それ抜きでは経済の大元はわからんのだということでしょう。今だに高度成長の夢を追うような人、GNPの増大だけが問題だという変な人もいますが、その成長理論の基盤を築いた人本人が、自分の成長論はほとんど全員から誤解され、誤用されていると非常に悲しんでいるようであります。

 つまり人間が抜け落ちた成長論です。ハロッド自身は、モラルや文学から生れ出てきた成長論を数学にしたんでしょぅ。ところが数学の一人歩きでみんなが使っているわけです。ハロッド成長理論の愛用者は間違った弟子であるかもしれません。ケインズの弟子であるケインジアンは全然ケインズがわかっていないという議論もこのごろ少しございますが…‥。ハロッドの場合もまず人間ありきという面があった。その上で経済の理論も数学的なモデルもということでございます。中山先生またしかりだと思います。人間抜きの実学なんていうのはあり得ないし、人間重視は実学に通ずると思うわけでございます。

 私は子供のころ日曜学校に行っていましたし、キリスト教と経済学ということをときどき考えておりました。それで、上田辰之助先生の講議も大変印象が深かったのでございますが、五十歳ぐらいの時から不思議と仏教づいてまいりまして、仏教と経済学を結び付けてみようということを中山先生に申し上げたことがあるのです。そうしたら、おまえどうしたんだとびっくりされた。それでも、経済の人間学とか何とか申し上げたら、しまいには非常に賛成して

くださった。非常に大問題だが、しかし指導者はいない、本もないかもしれんよ、自分でやるんだと励まされました。私は、仲間などにそういう話をしたこともあるのです。そのほとんど全員からやめておけと言われたんですが、中山先生だけは励まして下さった。以来先生にお目にかかると、仏教経済学はその後どうだというわけで、模索中の一言、一とこまを申し上げたりしてきたのです。そういう私の純粋経済学に対する謀叛を中山先生は大きく包んで下さったのです。人間を見詰め続けていた先生のそういう思い出はたくさんございます。

   シュンぺーターやケインズと実学

 それから、先程中山先生の絶筆となったシュンぺーター論のことを申し上げましたが、先生が大事にされたシュンぺーターやケインズを「実学」という眼で見たらどうなるかという問題があると思います。この先生の絶筆は私流の読み方をすると、シュンぺーター、ケインズ、あるいはマルクスの実学像と読めないこともないような気もいたします。高商時代の高島先生のケインズは、いわゆる理論じゃなくて、敢えていえば実学、少くとも実践論であったことは前に申し上げましたけれど、ケインズには確かにそういう面があります。いわゆるケインジャンの経済学とはかなりの違いがあるという気もするのです。

 例えば、ケインズは、経済学はモーラル・サイエンス、直訳すると「道徳科学」だといっています。『ゼネラル・
セオリ」を書いた後でその批判に対する回答として言っているわけです。一方、経済学者は現実をとことんまでなめるように見なければだめだということも言っています。これはまさに一種の実学だと思うんです。私流に言えば、哲学を上に持って下に現実を踏まえた理論が経済学だとケインズ自身がはっきり言っております。だけどこのごろの
ケインジアンの若い経済学者にはそういう観念が乏しい人も少くない。中山先生はさに非ずというふうに思います。
シュンぺーターの場合は「ヴィジョン」という言葉を使った人で、このヴィジョンというのは歴史の大きな流れの中から何をつかみ出してくるかということです。それはまさに歴史的な現実の直視です。そこから何を重要としてつかみ出すかという眼力は哲学とか人間観なんだという感じです。価値観です。そういう意味のヴィジョンを母体にして、理論やモデルが生み出され、理論とヴィジョンは密着不可分のものだと述べています。それを経済学のあり方として言っているわけです。そういうヴィジョンが彼独特の動態理論とか革新論とか、あるいは企業者のイメージを生んだのです言わば磨かれた魂としての企業者のイメージも、シュムぺーターの人間観からつくり上げられたものと思えるわけです。「シュンペーターのヴィジョン」という本が、シュンぺーターの百年記念で出され、翻訳もあります。百年記念でいろんなシュンペーター論がたくさん出ています。それから、ケインズ百年、マルクス百年ということで、昨年はそういう本や論文が全世界でまた日本で、洪水のように出ました。その既に三年前に同趣旨のものを中山先生が絶筆として書かれた。しかも最も学問の根底を睨んだ非常に貴重な文章だと私は思っているのでございます。

   近代経済学と芸術

 中山先生は、シュンペーターの経済学は「芸術」だと言われたことがございます。日本語で芸術といいますと上野の山の芸大の仕事に限定されてしまうのですが、西洋で「アート」と言えば ― いつかこの席で板垣先生が福田先生に関連して、カントの判断力批判にある独語のクンスト、英語のアートを話されましたが ― もっと広大な意味で、中山先生も、そういう意味で「芸術である」と言われたと思います。私はシュンぺーター、ケインズと中山先生と重ね合せてみますと、中山先生の近代理論、近代経済学はやはりアートの名にふさわしいというふうに思います。ケインズは、理論モデルを選び出すのはアートであると言っているんです。モデルの選択眼は芸術だと自ずから言っているわけです。歴史の状況によってはその選択を変えていくわけです。いまのケインジアンたちは、五十年も前にケインズが選び出したモデルの一部を精密にしたり、実証したりしております。それも重要ですけれども、どうもアートでない近代経済学もなきにしもあらずと思うわけでございます。中山先生のお薦めで学生時代ヒックスの本を読みましたが、この人は今も活躍しているノーベル賞受賞者です。このヒックスは、経済学は自然科学と違い、哲学とかアートという方がふさわしいと言っております。最近の経済学の危機に関連した論文の中の所見です。そういうようなことも中山先生の学問像として私は受け止めております。

 私は日銀に長年おりましたので、中央銀行というのはそもそも何だということを、四十何年間模索して参りましたが、西欧の金融史家には、その営みはアートでなければならないという主張があります。私の実地の体験やら中央銀行史探究の結論もやはりそうであります。学問であれ、実際であれ、磨かれた人間精神の発露はアートだと存じます。
そのことを中山先生に申し上げたこともあるのですが、現実にはなかなかそうはいかぬ悩みも多いわけであります。

   中山先生と経済の現実

 先程、ケインズは現実をなめるように観察せよといったと申しました。そういう現実に対して中山先生がどういう取り組み方をされたかということを次に申し上げたいと存じます。日銀の参与を四十年もやられたわけですし、そのほかにもいろいろなところで ― 四十年も続いたところはないと思いますが ― 会長、顧問、委員と大変なお取り組みでございました。一番有名なのは中労委ですが、中労委の中での先生のご活躍が幾つかの書物になったり、文章になったりして残っているわけですが、その中には歴史とか現実の中の実践とか、その中の磨かれた人間精神というようなことをしばしば言ってきておられます。中労委をお辞めになってからも労働協会の会長を長く続けられ、「経済社会学」とか「産業民主主義」とかいう大きな文章を残しておられます。そういう現実との取り組みの記録がたくさんあったわけです。

 それから、もっと一般的に「現実の中に書物あり」ということも書いておられます。生きている社会の中に書物があるというのは、正に一つの実学です。生きて社会の中から書物を読み取るわけですから。そういう表現は、フランスの詩人の言葉を引用しているんですけど、その詩人は、「書物というものは死んだ花だ、思想の墓場だ、生きている人生はほかにあるのだ」と。それをある意味では気に入って、半分は反発していらっしゃるわけですが、「その墓場と言われる書物の中にも命がある、」そして、「生きている社会といわれる中にも書物がある」ということを書いておられます。現実に対する中山先生の姿勢というようなものが非常に明確に出ていると思うわけでございます。そのほか現実に取り組まれた姿は、私、いろいろ見聞きしておりますし、亡くなる直前まで経団連の日経調の中で中山委員会を主宰されたことも想起されます。あの委員会では日本資本主義の運命とか、騒然たる世相の中で日本企業の基本的在り方を考えるという大テーマに取り組まれたわけです。私もお手伝いしていて、とうとう途中で亡くなってしまわれたのですが、最後までその問題がお心にあったという気がいたします。

   中山先生の統計研究会

 それから、中山先生が統計研究金を創められたということ、ここにも先生の現実に対する姿勢が非常に出ていると存じます。中山先生は統計研究会を自分の「第二の故郷」だと言っておられました。一橋が第一の故郷ですが。これは統計技術の研究だけでなく統計などに表われるすべての現実を重視し、経済だけでなく、広い問題を研究するものです。中山先生は、これを非常に熱心に主宰された。終戦直後からできたわけでございまして、日本銀行の一万田総裁はそれを大事にされたし、先生は日銀のわれわれのためにも一つの部会をつくり、先生自身が必ず出席してくださったのです。日銀の吉野さんも一と頃は毎回参加していました。以来三十余年、いまではいわゆるシンクタンクというのが三百何十とあるんですが、それの始まりです。終戦直後は学者と実際界との協同研究とか交流の組織的な場はほとんどなかった。いまでは産官学の協同研究という言葉がはやっておりますが、中山先生の統計研究会は産官学協同の走りでもあった。戦争によっていろんなものが崩れちゃって、全く白紙の中にそういう組織づくりをやられて、非常な熱意を込めてリードされたのです。大きな卓見です。実学の実践ともいえます。各官庁の人がここで勉強しましたし、実際界の人も参加した。学者は大物から若手まで、各大学の人々がいた。しかも、親友東畑先生などが部会の主査を務められたのは当たりまえですが、東大のマル経系の大物も協力しており多彩な部会編成でした。先生の幅の広さです。

 それから、若い学者連に対しては、実学という言葉は余り使わなかったけれども、現実に即した学問の精神を叩き込んだと感じています。数学ばかりやっている人などに対してです。先生御自身も数学を重視されたわけですけれど
も、それだけではだめだというお言葉を何度か伺いました。その位深くて広い統計研究です。ついでながら、シュンペーターも数学を大切にした人ですが、そのシュンペーターの新しい理論を弟子たちが数学モデルに翻訳しようとするとみんな拒否したというエピソードがあります。基になる経済学のヴィジョンとか内容が一層大事なんです。その母体は現実にある。その内容のある部分を正確に表現し確認するために数学を使うわけで、数学の一人歩きなどは中山先生の学問観ではなかったように思います。

 統計研究会のいろんな活動が模範になっていろいろな組織が次第にできてきたと思います。経団連の日経調なんかは、植村甲午郎さんが中山先生のところに相談に来て始まったものだそうです。日経調のデザインを中山先生がしてあげて、先生自身も最後までその中におられました。
中山先生が創り出された統計研究会は、今では花ざかりのシンクタンク第二号、産官学協同第二号でした。敗戦の廃虚の中における学問の再出発というか、書物だけではなくて、「生きている社会の中に書物あり」という学問の再出発です。そういう気迫が籠められていたと思うわけでございます。現在は篠原さんに引継がれ活躍を続けています。

   金融政策と近経理論の限界

 いままで近代経済学のイメージについて、中山先生のそれとは違って、実学性を失った近代経済学、シュムぺーターとケインズあるいはハロッドの精神を忘れた雇用理論や成長理論なきにLもあらずということにも触れてきました。
そういう傾向の理論をどう考えるか。それでいいのか。きょう私に与えられました「近代経済学の実学性」というテーマには、そういう含蓄もありそうです。それならば近代経済学の限界が問われてきます。これは、近代経済学をいかにイメージするかで変わってくるし、中山先生には当て嵌りません。今日はせっかく金融政策をテーマのつけ足りにしましたので、金融政策を例として、限界といったことについて一言してみようと思います。

 一例を申し上げますと、金融政策にとっては目的が重要であり、その底には理念とか人間の価値観あるいは哲学が潜んできます。先程ふれた深井総裁の事績にも随分潜んでいますし、諸外国も同様です。ところが社会工学的な近代理論でいきますと、目的、価値判断は飛ばしちゃうわけですから、目的の主張が出てこない。ただ何となく色々の目的を並列しまして、こっちの目的ならこっちのレバーを押せばいい、というようなことになる。しかも抽象的なレバーには現実の臨場感が乏しい。それでは実業あるいはアートとしての金融政策の焦点から遠去かる。近代金融理論の本でも、政策の目的は雇用、成長、福祉、景気、物価と並列されている例が多い。このごろ経済または経済学の危機の中で学問の方法についての哲学的な反省という書物が欧米では大分出てきました。ホモ・エコノミカスだけでいいのか、没価値論でいいのか、です。一橋では最近塩野谷祐一さんが、山田雄三先生門下の方ですが、『価値理念の構造』という本を出しました。日本ではやや少数派ですし、むつかしい事柄ですが、避けて通れない大問題です。そういう哲学問題と近代理論との関係をどう考え直すかということが最近の科学哲学の領域で議論されつつあります。金融政策という場合にも、価値観抜きでは本当の実践につながらない。貨幣哲学の復活もみられる所以であります。だけど、あんまり価値論一辺倒であると客観的な論理上の誤ちを犯すかもしれない。偽善や独善に陥いるかもしれない。
両方の共同が必要だと思います。それが私の各国中央銀行の実践史を通ずる実感でございます。中山先生の場合、数理経済学自体は没価値論的体系ですけれども、中山先生の学問全体は没価値どころじゃなかったと私は思っております。

 金融政策の関連で通貨価値安定という根本使命のことをちょっと申し上げますと、これは中央銀行にとっては最も基本的なもので、何かほかの目的と並列して、どっちを選ぶかというような問題では、そもそもないんです。また経済が貨幣で営まれるものである限り、その大元が狂っては、経済も狂うわけです。ところが近代経済学は、それにあんまり主張や返事をしないのが普通のようです。それは政治が決めるんだ、世論が決めるんだと。そんなことじゃ本当の学問にはならないと思うんですが。

 ところが中山先生はそうではなかった。例えば所得倍増計画以来の物価とか通貨価値の判断です。有沢広己先生は物価を重視した方ですが、その自分がびっくりするぐらい中山君は物価安定に熱心だったということを述懐されています。近代理論でいう雇用と物価のディレンマとかいう議論に安易に乗られなかったということになります。そういう理論は百も御承知の上で、もっと深い所で何が重要かを見抜いておられた。また東畑先生のお話になりますが、中山君は物すごく「切れ味」がいい。理論がある。だけど同時に「捨て味」の方も名人だったと書いておられます。東畑先生らしい面白い造語です。何が重要だということを洞察する。それに関係ないものはたとえ理論上の多数説でも捨てて、その重要なことだけで発言していく。上に哲学を抱き、歴史とかいまのいろんな現実を見据えてなければ名人芸としての捨て味が出てくるわけがないんです。捨て味と切れ味、の二刀流はシュンペーターにもあったようです。
彼はセオリーの使い方をアートと呼んだことがあり、少し似ていると思います。さすが東畑さんの表現であります。

 それから、これは随分前ですが日銀の参与になられて、中央銀行家というのはあんまりいろんなことに気をとられずに一つか二つの統計資料だけをじっと見ていたらどうだなんて言われたことがあるのです。つまり物価と、いまで言うとマネーサプライみたいなものです。中山先生はケインジアンであってマネタリストではないと普通言われがちですけれども、マネタリストが登場する大分前から、マネタリストに少し似た根本精神というようなものは薬籠中にあった。銀行学派と通貨学派の一五〇年前の論争は未決着だよといわれたこともあった。ケインズ全集三十巻の邦訳に音頭をとられながら、ケインズ理論を丸呑みせず、捨てる時は捨てておられたのです。

 もう一つ例を挙げれば貯蓄の問題もそうです。皆さん御記憶もあろうかと思いますが、不景気になりますと、貯蓄心があり過ぎて消費需要がふえないと貯蓄を悪者扱いする。しかもケインズの名においてです。消費美徳、節約悪徳論が、ジャーナリズムはもとより、相当レベルの人までを含めて大合唱になる。そういうことが不況の度毎にあったわけでございます。しかし、中山先生は何時も違う態度をとられていた。人間にとって根本的に大事なものは根本的に大事なのだという態度だと私は思います。貯蓄が世間で袋だたきに遭っているときも貯蓄を支持する講演や評論をやっておられます。これも切れ味と捨て味。その背後にある大きな人間観と経済理論との結びつきや切り離し方を患わせる例でございます。

   近代経済学の新しい潮の流れ

 そういうことで、中山先生の学問観や近代経済学というものは非常にスケールの大きいものであった。その中核に純粋経済学を樹立されたが、それは背柱であって、その周りにある筋肉はもとより、頭や心を決して忘れるものではなかった。大きなヴィジョンの所産だった。しかも経済学は一定不変とは限らず、伝統の中に常に「新しい生命」を灯せと言っておられた。ケインジアン理論の危機も卒直に認め、これからの経済学者に新しい理論への革新を求められていた。近代経済学には、論理は精緻になったが、問題をわい矮小化する傾きもないとはいえない。それは何故だろうか。

 そのバックグラウンドにはいろんなことがあると思います。オーバーにいえば、半ば無意識の科学潮流ともいえましょう。「科学社会学」的な事情を語る人もあり、もっと卑近なこともあります。一橋の場合少し違うのですが、私に音頭をとられながら、ケインズ理論を丸呑みせず、捨てる時は捨てておられたのです。

 もう一つ例を挙げれば貯蓄の問題もそうです。皆さん御記憶もあろうかと思いますが、不景気になりますと、貯蓄心があり過ぎて消費需要がふえないと貯蓄を悪者扱いする。しかもケインズの名においてです。消費美徳、節約悪徳論が、ジャーナリズムはもとより、相当レベルの人までを含めて大合唱になる。そういうことが不況の度毎にあったわけでございます。しかし、中山先生は何時も違う態度をとられていた。人間にとって根本的に大事なものは根本的に大事なのだという態度だと私は思います。貯蓄が世間で袋だたきに遭っているときも貯蓄を支持する講演や評論をやっておられます。これも切れ味と捨て味。その背後にある大きな人間観と経済理論との結びつきや切り離し方を患わせる例でございます。

   近代経済学の新しい潮の流れ

 そういうことで、中山先生の学問観や近代経済学というものは非常にスケールの大きいものであった。その中核に純粋経済学を樹立されたが、それは背柱であって、その周りにある筋肉はもとより、頭や心を決して忘れるものではなかった。大きなビジョンの所産だった。しかも経済学は一定不変とは限らず、伝統の中に常に「新しい生命」を灯せと言っておられた。ケインジアン理論の危機も卒直に認め、これからの経済学者に新しい理論への革新を求められていた。近代経済学には、論理は精緻になったが、問題をわい矮小化する傾きもないとはいえない。それは何故だろうか。

 そのバックグラウンドにはいろんなことがあると思います。オーバーにいえば、半ば無意識の科学潮流ともいえましょう。「科学社会学」的な事情を語る人もあり、もっと卑近なこともあります。一橋の場合少し違うのですが、私は約十年一橋の講師をしており、偶々、中山先生から原論の講義を受けた同じ教室だったものですから、中山先生のことや一橋の学問の伝統というようなことをよく学生に語ってきたのです。そうすると不思議そうな顔をする者もいたわけでございます。卑近なことといえば、戦争で十年も外国の経済学界との交流が断たれたということが一つあった。そしてその再開は先ずアメリカだけでした。ガリオアやエロアそれからフルブライトというような形で若い学者が米国に続々と留学し、それが学会の新勢力となった。いわば伝統中断の契機でもあったように思えるのです。そういう留学と持ち帰ってくる理論は、一橋も東大もどこの大学もみんな同じアメリカ型。東大の場合は近代理論という伝統はほとんどなかったわけですから、何といいますか、素直にアメリカ型近代経済学になって帰ってくる。アメリカで評判がよくなることが学者の社会的評価基準にもなってくる。そんなような感じが拭いきれませんでした。戦争の悲劇とも思えてくるのでして、一橋の伝統ということよりもアメリカ化の方が強い力となった。むろんアメリカの良い点を学ぶことは良いことですが、やや偏っていった時期があったのではないか。これは経営学の方でもそうだと思います。そうすると秀才の人数の多い大学の方が目立つことにもなる。いつかこの席でミニ東大化した一橋ということをおっしゃられた方があり、ちょっとびっくりしましたが、そんなことがあるとすれば、そのバックグラウンドが右のようなことじゃないかなと思った次第です。
 
 いまではアメリカ式「論理実証主義」の経済学に対する反省も学界の中に相当生れているようです。何れかといえばヨーロッパの方にそういう気運を感じます。私の一人合点かもしれませんが……。今必要なことは、ヨーロッパに乗り変えることではなく、日本の経済学でしょう。一橋の場合は今一度一橋の学問の伝統を噛みしめることでしょう。中山先生のお気持を拝察していえば、古いものに戻るのではなくて、伝統に新しい生命をということだと存じます。今が、そのチャンスといいますか、その時にきているように存じます。
 
 一橋の哲学は西洋のものだけではなかったと思います。上田辰之助先生も、とくに山内得立先生の哲学は東洋
的、仏教的な所が多かったと存じますし、今欧米は東洋の哲学にも目を向け始めています。また一橋実学の重要な一面である「現実」についても、世界の中の大国日本、それでいて批判もされる日本の現実が山積しています。この哲学と現実の間に如何なるヴィジョンを持ち、新しい「中核理論」を切り開いていくか、中山先生は、それを待望しておられるに違いないという気がしてならないわけでございます。

   [質疑応答]

 ― きようは実学につき明快なお話があり有り難うございました。西川先生が中山先生の前で、仏教を経済学に関連づけたいというお話をいたしましたときに、非常に賛成された。ほかの多くの方々が、それはやめておけというのに対して、中山先生は賛成されたということは、非常に中山先生の卓見であろうと存じます。

 これはむずかしいお願いなんですが、仏教を関連づけた場合に、恐らくいままでの経済学と違ってくる形が出てこなければならないし、また違ってくるからこそ面白いんだろうと思いますが、例えばこういうことになるんだというような、何かいい例がございましたらお教え願いたいと思います。

 西川 おっしゃる通り大変むずかしい問題でございますが、中山先生も、そういう大問題は確にある、自分達が育ったマーシャルも宗教を重視していた。しかし、仏教によい本がないかもしれないといわれた。全くその通りですが、少しはあるのです。私も探索、模索中に過ぎませんが、若干のものを御紹介しますと、鈴木正三という江戸初期の禅僧がいます。私はこれは大変な実学者だったと思います。曹洞系の人ですけれども道元禅師を批判した世俗の禅・仁王の禅です。その利潤肯定の思想は大変近代的かつ先見的です。商人との問答が随分残っております。これはカルビンの宗教改革とかに比肩します。マックス・ウェーバーの「プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神」よりかなり古く、しかもこれに相当する日本版です。大変な人間精神の表明であり、『鈴木正三全集]が出ております。.

 次にやや小乗仏教的なとにろもありますが、広く引用されていますので皆さん恐らく御存じだと思いますが、シューマッハの『スモール・イズ・ビユーティフル』。人間復興の経済学という表題で日本語訳になっておりますが、あれは、典型的な仏教経済学の本でございます。

 京都の山内得立先生は、一橋併任で哲学をやっておられただけに、とくに左右田先生への言及などからかなり経済学に結びつきそうに思えるのですが、その「ロゴスとレンマ」という本などむずかしくてよくわかりません。ギリシャ哲学の大家ですが儒教とくに仏教哲学にかなり傾斜しておられます。
キリスト教と経済学のつながりは、マックス・ウェーバー研究の本が沢山ありますし、上田辰之助先生も結びつけておられた。これに対して仏教とはどうかで、ございます。いわゆる「数学モデル」の論理自体には仏教も宗教も無関係のはずですけれども、それを包むビジョン、人間観には宗教がどこかに必ずにじんでくる。例えば仏教の「自利利他円満」とか「利行」や「報恩」とか「知足」の経済倫理は、西洋のホモ・エコノミカス的人間像や人間行為論とえらい違いです。モデルの範囲では普遍妥当的な数学が使えるわけでございますけれども、どういうモデルがいまの世界にとって大事なんだというのは、もっと大きなつかみ方から出てくるべきものです。中山先生しかり、ケインズしかりです。ところが、自利利他円満は一種の二元観ですから、数学方程式化に無理がある。功利主義的ヴィジョンの方がモデル化しやすいのです。それでも、先程申し上げましたハロッドの講演集の中には、禅が出てまいります。
経済上の基本的難問をキリスト教で解決しようとしていて解決できないという意識を持っていたように感じます。

儒教系では、石門心学の組石田梅巌は名実ともに実学そして経済哲学だと思います。儒教系と言われますけれども、最近は主として仏教倫理を儒教的表現でともいわれています。当時のインテリは表現はみんな儒教でやったわけですから。二宮尊徳の経済思想も根本は仏教で表現は儒教だという解釈も多いようです。哲学者であり実践家である尊徳を、キリスト者内村鑑三は激賞しています。中山先生も意外にも(?)二宮尊徳をほめており、その随想が、さっきの『発展の人間学』にあります。

 「実学」という言葉は私の知る限りでは、古い中国から来たものです。最も一般的には、中庸の「皆実学」とか、顔元の「通経致用」とかの由。経典に通じて実用にいたすと読むのでしょうか。お説教ばかりで地についていなくなると、その反動として実学が繰返し主張されたようです。これには仏教がどこかで入っているはずなんですけれども、勉強しておりません。仏教的な中道と中庸の関係です。オランダ・長崎の実学論も生れていた。

 明治になってから、今度の一万円札の福沢諭吉さん、あの方は明示的に、『実学』論を説いておられますが、私には、宗教との関係がのみ込めておりません。黒船の直後でございますから、西洋ものにアクセントが大いにかかっていたようです。別の学者では、実学哲学について、西洋流の実用、実利は良いが、その上にあるべき理念が問題という論文を読んだ記憶もあります。つまり、伝統的な「倫理」に代えて、西洋の「物理」を入れたのでは、心が失なわれるというわけでした。福沢さんは、日本の伝統に対して西洋の学問で新しい灯をつけるという意味であったろうと想定しております。私の実学観は、私の見聞、経験から出た自己流にすぎませんが、その真髄を仏教に求めたいという願望を持っています。

 仏教経済学に関連した書物や篤信者の商業上の言行録はまだ色々ありますが、まとまったものは少い。大野信三さんの「仏教社会・経済学説の研究」という本ぐらいのものです。そして案外外人(ロバート・ベラーなど)の宗教杜会学に仏教経済観が出て、その方が理解しやすくて、妙な気持がすることがあります。ともかく、私は模索中で、ときどき何か拾い上げて喜んでいる程度でございまして、とても偉そうなことを申し上げる資格はございません。

 ― 西川さんが如水会『橋畔随想』に書かれた「商の心と商学」という題の随筆があるわけですが、その中に中山先生が引用されたというゲーテの言葉で、「商業という秩序は何と見事なものか。商人の精神はど広い、また広くなくてはならないものはない」というふうに書かれたという引用がしてあります。

 これはきょうの西川さんの前半の中山先生についてお話しになった中山先生の精神をそのまま代弁しているような言葉のように思うのですけれども、このゲーテの言葉というのはどこから引用されたものですか。

 西川 たしか『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』だったかと存じます。
ついででございますけれども、中山先生は、一橋の文学者とか語学の先生は特別なんだよ、吹田先生とか内藤先生の話をされて、その経済思想とのかかわりをわれわれに聞かせてくださったことがございます。吹田先生からもゲーテ論を聞かれていたはずです。

 私、名古屋で習いました酒井正三郎先生、左右田先生門下ですがこの先生が訳されたシャックの「経済形態論」にもゲーテ的モルフォロギーが入っているはずです。中山先生の近代経済学の源流やバックグラウンドの一つはゲーテだと、私は勝手読みしております。「中山先生の三周忌だという記録文に、中山先生はゲーテ経済学だなんて書いてしまったような次第でした。

  東畑先生が中山先生を評して、切れ味と捨て味と言われたそうですが、捨て味というのはかなり東洋的な、仏教的なものじゃないかという気がするんですが。

 西川 そういうことがあるんじゃないかと私も思います。仏様が「機縁」に応じて「法」を説くのに似ているように思います。「砕啄」の時を待つ心もおありだったと存じます。「底」にあるものという表現もよく伺いました。で
すけど、きょうはシュンぺーターやケインズの経済学観に即して申し上げたんです。西洋の学問に長く馴染んできますと、その方に直ぐ連想がいくのですが、おそらくおっしゃられたとおりかもしれません。
                                             (昭和五九年十二月十二日収録)



 西川 元彦  昭和十六年十二月東京商大卒、
          昭和十七年一月日銀入行、調査統計の係長、課長を経て同局長、その間、営業局、考査局、         支店で実務担当、監事を経て、金融研究局・金融研究所顧問、
          昭和五十八年秋日銀退職。
          この間、昭和五十八年度まで、京大・一橋大
 講師約十年。審議会委員等若干。
          昭和五十九年四月より創価大学経済学部教授

 [主要著書] 「景気の見方」「金融の理論と政策」
          「中央銀行 ― セントラル・バンキングの歴史
と理論」
          (訳書) 「イングランド銀行」 (ヤイヤーズ著)その他共著・共訳若干、論文など多数。