一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第三十七号]   一橋東洋史学のプロフィール     一橋大学経済学部教授 中川 學
                 ― アジア的共同体・華僑をめぐって ―


 御紹介いただきました中川でございます。

   私のゼミナール歴

 ゼミナールは、最初村松先生に師事いたしました。ボート部におりましたもので自然に村松ゼミだと決めてかかって行ったのですけども、三年生の四月の初めにゼミ選考がありまして、すぐに図書館の五階の漢籍がいっぱいあるところに連れていかれて、『雍正朱砒論旨』という清朝の雍正帝の書いた大きなドキュメントですが、それを運ばされまして、いきなりそれを開かれて、これを読めと。何が何だかわからずに読んだのですが、よし、それじゃこれで卒論書け。おれはアメリカへ行くと言われたので、ああそうですか、行ってらっしゃい。いつお帰りですか。三年は帰って来ないよ。(笑)三年帰ってこなかったらこれはまずいので、どなたか師事して指導していただく方を教えてください。そうしたら翌朝村松先生から電話がかかってきて、あの先生非常に早いんです。朝七時半ぐらいには電話かけてよこす。それで、おまえ増淵のところに行くことに決めたから行けと、こういうわけです。ところが増淵先生というのは一橋大学の教授の中でもまた極め付きの学者で、物すごく謹厳な方で、前期の東洋史の講義というのは大変人気があったものです。上原専禄先生の直弟子で上原先生の西洋経済史からスタートして東洋経済史に転進され、その東洋史をやっておられる。その講義の模様や何かからすると、とてもじゃないけれども恐ろしくて近づく勇気がななかった。そこへ決めたからおまえ行けと。これは運の尽きだと思って、それで増淵先生のところへ行ったら、「僕は後からやって来る人を迎える用意はなかったんだけれども村松さんがそう言うから付き合いましょう」と、こういう調子で、最初から何だか知らないけど大変恩を着たまま、ずうっと増淵ゼミで漢籍を読み続け大学院に進みました。

 村松先生はおっしゃったとおりアメリカから三年後に帰ってこられて、そしてその当時ボートの艇庫が向島にありましたので、ウィークエンドには先生よく来てくださったものです。そこで待ち構えていて艇庫の二階のベランダで隅田川を眺めながらいろいろと教えていただいたということで、いわば向島ゼミナールの出身でございます。

   アメリカのアジア、フォード財団が投じた波紋
    ― 村松先生と増淵先生の対応 ―

 村松先生と増淵先生が、昭和三十二年、三年、四年という時代は、いわばまことに意気の合った、村松先生が剛球を投げると増淵先生がそれを打ち返すという感じで、村松先生は近現代、増淵先生は前近代、とりわけ古代というところで大きな仕事をしておられました。

 ところがそこへ、昭和三十六、七年ごろですが、アメリカの大きな財団でアジア財団とフォード財団。その二つが日本の中国研究にかなり巨額の寄付をするという話が持ち上がってまいりました。当時の詳しい金額は覚えておりませんけれども、何でも日本の文部省が研究助成費として社会科学全体に出すのと同じ年額のお金を日本の中国研究のために提供する。そのかわりに日本の研究者を総動員して、その当時は日本が一番中国研究が、特に近現代研究が進んでおりましたので、そのあらゆる論文や資料を全部英語に要約してカード化して、そしてアメリカの中国研究を興隆させていくきっかけにしたいという形で申し入れがあったわけです。

 それを受け入れることに決定をされたのは東京大学の当時の文学部長山本達郎先生と、それから村松祐次先生とそしてさらにお茶の水女子大学の市古宙三先生、この三役が中心になりましてその受け入れ準備を進め始めた。そうしましたところが東京大学の文学部の若い研究者、助手、あるいは講師クラスの方々や、さらに学生、大学院生から猛烈な反対運動が起こってきました。さらにそれと軌を一にして京都大学の東洋史の人たちが全面的反対に立ち上がったわけです。

 その反対の理由は何かと申しますと、中国研究に対して、その当時アメリカはまだ中国封じ込め政策をとっておりました。その封じ込め政策に日本の中国研究者が協力することになった。日本は独自の歴史を持っていて、中国を封じ込めるのではなくて何とか善隣関係を回復しようということで努力している。それに逆行することになる。

 それから、もう一つここに政治イデオロギーがかんでまいりまして、野党の組織的なバックアップが出てまいりまして、これは日米安保体制の研究学界版であるという定義が途中から出てまいりました。そのころからにわかに、これは政治闘争の色合いを濃くしてまいります。

 そうしますと一橋大学の中国研究の、それまでは極めて静謐なあの国立の環境で、ほとんど図書館とその中の研究室で進められていた研究が急に騒がしくなる。学内には当時社会学部に、中国哲学を講じる西順蔵教授がおられました。西順蔵教授と増淵龍夫教授とは大変呼吸の合った同僚でして、その二人が猛然たる反対運動の、さらに理論的な指導者の役割を自然に担うことになってきた。村松先生は受けて立つ反対される側の頭目ということで、『一橋新聞』という学生の発行する新聞がありますが、それなんかでも何度もたたかれるというような状態になってきまして、両方の先生に師事している私としては体が引き裂かれるような状態になってきました。

 そこで私がどういうことを考えたかと申しますと、確かに中国研究というものは日本が頑張らなければ、中国は革命後漢籍というものが読めなくなってしまっております。漢字は全部簡体字にしちゃって何だかわけのわからんような文字にしちゃった。台湾ではちゃんとした正字が依然として使われているわけですけれども。したがって中国では
北京大学にせよ上海にせよ、まともに古い文字を読みこなせる研究者がだんだん少なくなってきた。そこへもってきて長老の教授たちは次第に高まってくる文化大革命へのうねり。その中で批判されて動きがとりにくくなってきているということで研究が停滞していたわけです。それで日本は戦前のそういう蓄積も極めて厚いものがありますし、戦後は、あの中国でもって敗退したというところから、その原因は何だということで物凄い研究が活発になる。

 それから、また革命運動という観点からしましても、モスクワのいわゆるポリシェビズムとはいささか味の違った東洋的な、何か単なるマルクス、レーニン主義では割り切ることのできないコミュニズムというか、中国的な意味での共産主義というものがそこに台頭し始めている。これはやはりきちっとつかんでおかなければなるまいということで研究が盛り上がってきたわけです。それがごっそりとアメリカに、いわばかしずく形になってしまう。それはよろしくない。だからその日本の中国研究というものを大事にするのであれば、日本の政府、そして実業界の方々の協力を得て独自の研究ファンドをやっぱりつくるべきだ。そして、そこでアメリカがやろうとしているように、確かに膨大な文献を全部渉猟するということは大変な仕事ですから、とにかくテーマが定まればそれについてどういう論文が出ていたかということがすぐにわかるようなインデックスシステムというものは日本独自でつくらなきゃいかん。
したがって村松先生がそういうシステムをつくろうとされるのは正しい。しかし、それをアメリカの資金によってやろうとするのは誤りだということを言って、村松先生には半ば反対しました。

 それから、また増淵先生に対しては、そういう思想的な観点からの反対というのについては僕は反対だと。それでまた、インデックスというものを理解しないでいると大変な後れをとることになるということにつきましても二重の意味で反対しちゃったことになりました。それで皮肉られまして、「君はどうも村松ゼミにいた方がよかったんじゃないのか」なんて言われて、ちょっと気まずかったことがあるのですが、それも一時のことでありまして、やがて全
国の盛り上がりの中で、いまのアジア、フォード財団の資金提供というものは立ち消えになりました。

 ところがいまから顧みますというと、その当時アメリカは意を決してその資金を台湾や香港に回しまして、そして香港や台湾の若い研究者をどしどしハーバードや、あるいはコロンビア大学へ招聘してそのインデックスを完成しようと計画したわけです。そして、ちょっと話が新しい時代になりますが、昭和五二年、三年と私がハーバード大学へ行ったそのころには、もう近現代の研究に関してはアメリカは自前で十分にやっていけるようになっていました。(校補・もっとも、ベトナム戦争により、アジア研究が一時的に挫折し、インデックスそのものは完成しませんでした。
いま、金沢工業大学のコンピュータ1を使って、金子量重助教授が、その完成のための作業をなさっています。トヨタ財団の支援で。)

   日本の中国研究と一橋東洋史学の学流

 日本の中国研究、一橋大学の東洋史学、あるいは中国研究ということを申し上げる前に日本の中国研究が一体何なのかということを申しますと、確かに戦前において極めて重厚な東洋史学の学統といいますか、伝統といいますか、それができた。これは世界に冠たるものであった。しかし戦後自信を喪失して、そして一挙に政治優先になって、どうも中国研究、とりわけ近現代史研究というものが真の学問というよりはイデオロギー論に堕してしまっている。勿論、中には、本学の名誉教授であられる石川滋先生のような本当の学問としての中国研究をしている方もおられる。
これは救いの一つであるわけですけれども、概して政治発言の方が多い。ですからインデックスをつくっているわけじゃありませんが、私の頭の中にすべての研究者、学者の動向というものが入っていて、ずっと眺めていると、とに
かく毛沢東が大躍進を始めれば大躍進万歳。文化大革命になれば文化大革命万歳。やがて四人組が失脚すれば四人組糾弾。そしてケ小平万歳と、こうくるわけです。それを同じ人が本当に見事にカラッと変わるということを見まして、これはちょっと政治家でもついていけないくらい変わり身が早いんじゃないだろうかというふうに思います。それは結局突っ込んで中国そのものをつかんでいないことのあらわれだと。

 そういうふうに見ましたときに、村松、増淵両先生が一致して強調しておられましたことを思い起こすわけであります。「変化」というものはとにかく変わらないものが根底にあるから変化が変化として見えてくるんだと。変化の底には必ず変わらないで一貫するものがあるからそれを見極めるということが学問だというふうに言うわけです。これをごく砕いて芭蕉流に言いますと、漢語はなってしまいますけども、不易と流行というもので、変わらざる「不易」というものがあるわけです。乞てこをつかまないというと流行に流されてしまうということだと思うわけです。実はこの点については前回深沢宏教授が一橋におけるアジア研究の学流と題するお話で、この席で指摘しておられます。変わらないものというのは一体なんだろうかということを一橋の東洋史学は求め続けてきていると言えるかと思います。

 その一つとして団体を成立させる団体の意識、あるいは団体の組織原理というものが中国においてどうなっているのか。社会というものは団体によって成る。その団体を支えているところの意識と、その枠組としての組織はどういう形で存在するのかということを追究し続けてきたのが一橋東洋史学であったと私は理解しております。

 その一番発端を開かれたのは三浦新七先生であります。三浦新七先生の『東西文明史論考』の中の「支那古代の団体意識」の中でその間題が真正面から提起されたのです。そしてその問題をこれまた本当に真正面から受けとめて発展させて、その結晶として世に残されたのが増淵龍夫先生の『中国古代の社会と国家』であります。この本は弘文堂から昭和三十五年に初版が千二百円で出ておりますが、いま神保町でこれをお買いになろうと思ってもまずありませんし、あったとしても五万円を超えているといった具合で、これではどうにもならないので、その後書きためられた増淵先生の論稿をさらに増補して岩波書店から近々これを出版しようとしていたその矢先に、昨年の五月に急逝されてしまい、いまその全部の原稿を私の手元で推敲している状態であります。まだちょっと時間がかかるけれども、しかしこの著作というものは、これも深沢教授の前回の話に取り上げられていますけれども、洛陽の紙価を高からしめたまさに決定的な本であった。同時にここで出された問題が何であるかということは、後ほど、要約しておかないと、アジア的な共同体とは何かということの本日のメインテーマに屠ることができません。しかしながら何もここで学問の論争史みたいなことをお話しするために参ったわけではなくて、研究というものが非常に、いわば戦場にあって戦かっているその戦闘そのものであるという、その雰囲気をお伝えできれば幸せだと患ってやって参ったわけでありまして、特に中国研究というものは、これは日本にとってどうしても避けることのできない、本当に政治、経済、社会、文化、あらゆる面について取っ組まなければならない相手であるがために、それこそ政治イデオロギーも最もシャープな形であらわれてくる。その中で切り進んで行かなければならないということでありまして、そこで一体研究者はどういうふうに闘うのかという問題をご紹介したいと、こう思うわけです。
先ほどのアジア、フォード財団をめぐる一幕というのもそのあらわれでありました。しかし日本全体の中国研究の流れの中で戦時中非常に大きな葛藤というものがありました。それはもちろん講座派とか労農派と言われるマルキシズムの陣営から中国革命をどうとらえ、それをもとにして日本革命をどのように起こすべきかという、そういう関心でなされた中国研究の膨大な蓄積があります。それは共産党の理論指導家になっていった平野義太郎というような人たちがリードしたもので、今日ではどちらかというと東京大学の東洋史の一部であるとか、あるいは京都大学の東洋史の一部であるとかいうところにそういう論客が頑張っています。

ところで戦前の京都大学において内藤湖南博士が東洋史の学風を確立された。湖南は、中国人というものを理解しようとするとどうしても中華というものを理解しなければならない。中華とは何か。中華というものをずっと考えていくと、これは血統としての漢民族中心主義ではない。四書五経、あるいは儒教によって打ち立てられた思想と生活秩序の全体。それが中華の世界である。そしてそれは漢民族だげというのではなくて世界人類に普遍的な文化であり教えである。その教えを自分の日常の秩序として入れる人が中華の人なんだ、というふうに内藤湖南博士は整理をされたわけです。

 そこから先が問題になるのですが、さてそういうふうに中華というものを定義して見直すと、清朝末期から孫文の革命による中華民国ができてくる。その過程においては中国大陸において儒教の風がすたれてしまった。つまり中国大陸は中華ではなくなった。それに引きかえて江戸時代以来儒学を日本が受け入れ、かつ独持の発展をさせて、その儒学と神道というものをいわば渾然一体とし、さらに仏教を加味する形で新しい時代を切り開いた。そしてその中に、さらに西洋をも、和魂洋才という枠組みで取り入れて明治維新を成功させてきた。これこそ中華が生きている姿である。とすると中華の思想、中華の世界というものを日本の手で中国本土に復興させなければいけない。そのために漢民族を目覚めさせなければいけない。ということが中国史研究の課題であるというふうに定義された。そこでそういぅ論陣を張られまして、その支持者というのが実に軍都であったわけです。軍部としては、とにかくこれこそ「大東亜の聖戦」を遂行するための金科玉条でなければならないということになりまして、いつの間にか内藤史学というものが日本の軍国的な中国政策への下敷になっていったということがあります。

 ですから、それに対する京都大学の若い、そしてかなり反体制的な思想を持つ研究者たちは、この伝統をいかに克服するか。否定的に乗り越えるかということを戦後課題として、そこへ河上肇さんの伝統も手伝って急進的な中国研
究が台頭してくることになったわけなんです。

 一方東京大学の方では、戦時中実は大政翼賛会の協力者として、先ほどの平野義太郎さんが登場していった。そしてそれを平野さん自身が戦後反省され、同志が集まって革新的な研究組織をつくり始めました。その研究組織のいわば足場という形で東京大学とか東京教育大学などが東洋史を発展させてきた。そういう状態にあるわけです。そういう中にあっては村松先生のなさる仕事というのは、もうとにかく保守反動以外の何物でもないと決めつけられてしまうわけでして、村松先生ご自身が、「自分は保守反動どころか封建だ」と言って笑っておられましたが。こういう姿が研究の日常的な現場であります。

 その現場の中で、しかしやはりとにかく変わらないものを突きとめるのだ、ということで研究が進められてきた。その変わらないものは何かということについて、実は村松先生と増淵先生では若干違いがあるというふうに私は見ているわけです。その違いは事によると前回深沢先生が指摘された、根岸先生と村松先生との間にすでに芽生えていた開きがもっと強く出てきたのではないか。そしてさらに増淵先生は亡くなる直前のころもっと大きく違う方向へ踏み出して行きつつあったのではないかというふうに推察しているわけです。それをいまきちっと証明しようとしておりますけれども。

   中国に放ける個人と団体の関係
     ― 根岸パラダイムと村松パラダイム―

 どういうことかと申しますと、中国で一体個人と団体とはどういう関係にあるのかという問題に尽きてくるわけです。個人と団体との関係については、まず根岸先生は非常に家族という血縁団体が中心に座わっていて、そしてさらに家族は単なる核家族的な家族じゃなくて大家族であり、そして宗族という大きな集団となり、さらにその宗族が同じ地域に住んでいるときに宗族連合のような形で血縁的地縁団体ができる。その血縁的地縁団体がさらに広がって世界的な華僑の連絡組織というものにまでいくんだと。そういう側面を強調しておられたと思います。

 実は私自身は自分の華僑研究を進めれば進めるほど根岸パラダイムが正しいというふうに痛感するわけであります。
それに対しまして村松先生はそこのところから出発されたのですが、戦時中、華北農村慣行調査を軸にしながら華北の、あるいは満鉄の管轄区域の農民たちの思想と行動様式というものを深く観察された。その結果意外なほどに個人主義的、ばらばらな中国人の素顔に出会われました。家族といいましても、兄弟ですら、一たび財産問題で争いが起こると、もうあっけらかんと別れてしまったり、対立して顔も見ないということになってくる。これは恐るべき個人主義と打算の世界だというところに村松先生は気付いた。そしてその側面を強調していかれた。中国の世界というのは意外と合理的で打算的で計算的で、そして個人的だ。それがとことんのところ利のために再び集まってくると非常に大きな組織をつくる力を持っている。その結果地主制というものも中国においては極めて合理的な体制を組み上げることに成功したというので、学士院賞を得られた『租桟の研究』。これは有力な官僚であって同時に地主であるような紳士。これが自分の支配する地域の小作料を全部徴収するためにつくり上げた機構ですが、単に自分だけのものでなくて、その地域のほかの地主さんたち、中小地主さんまでも含めて、そこからいわば委託を受けて、その人たちの分まで徴収してあげるという機構なんです。そして一括してその地代を地主さんに還元すると同時に、国家に納める租税については租桟が代納していくという代行組織。請負制度である。そういう組織があったんだということをこれは本当に大変な文献の調査を経て証明されたわけです。

 そうするとこれはある意味で全く逆のことを言っておられるように見えるんです。しかし石川滋先生の場合にも、どちらかというと共同体的な秩序を強調するのではなくて、個人計算の非常に研ぎ澄まされた中国的な性格といいますか、経済性といいますか、多分、そちらの方を強調される形で研究を進められていると思うのですが、それは決してどっちが正しいというものじゃなくて、その両面があるとしか言いようがない。そのあらわれ方が華北においては村松パラダイム、あるいは石川パラダイムというものが優勢である。南の方においては大家族がいまでも生きて動いているし、広東、福建、それから江南の一帯というところは大家族で動いているということで、ここではどちらかというと根岸パラダイムというものが有力である。そして華僑の世界へ出ていくと、華僑社会を成り立たせるものはもう根岸パラダイム以外の何ものでもないということになってくるかと思います。

 そして現在の中国の状況というのは、その両面が一つになろうとしてなり切れないでいろいろと渦巻きを起こしている過程だというふうに私は見ているわけです。

 例えば人民公社一つを取り上げてみますと、これは北中国で一斉にできていったわけです。ところがそれもだんだんと全国に浸透していくかと見えましたけれども、結局南の方では猛烈な反発に遭うということで、現在では四川の奥地や、あるいは湖南や広東というところから始まって、どんどん古い家族秩序というものが蘇えってきた。そして人民公社が自然家族と自然村落のレベルへと解体している。その勢いを見て共産党中央もついに人民公社制度を解体するということを決意せざるを得なくなって、現在は一戸一一戸の農家が責任請負制で農業経営をする。そして経済単位としての農家が、これが利益を上げれば立派である。利益競争になってきて、その結果万元単位の年収を上げるような農家も出てきた。いわゆる万元戸の代表団が、日本へちょうど農協さんの代表団と同じような格好でやってくるご時世にまでなってきたわけです。そういう実情を見ますと、これはやっぱり家族制のパラダイムというものが消えて
いなかった。それがさらに華僑の人々と合弁を組んでそして福建とか広東とかいうところで特別区をつくり、今度は大連でもつくって華僑とのジョイントベンチャーを始めるということになったわけです。そうしますと、ここでも合弁のやり方については根岸先生が体系化された合弁合股のあの方式の伝統がものを言うわけです。それは株式会社の新しい姿をとっていても、実際に血縁関係というものを軸としてその血縁関係者の特に信用した友達というものが義兄弟のような待遇で共同体の輪の中に迎え入れられる。そしてさらにそれが広がっていくという面識熟知関係、これが一つの共同体を構成していく。したがって幾らお金を出してもその熟知関係、面識関係の輪の中に入らなければ絶対に共同事業は組めないという独特なパターンができているというのが現状であるわけです。その辺のところを晩年の増淵先生は非常に注目しておられまして、その走りが『一橋論叢』の特集した村松先生の追悼論集に寄稿された増淵論文で芽を出してきた。その後成城大学に移られてからはそちらの方の中国史における家族的な結合関係というものが一体何であったかというところへどんどん深入りして行かれたという経緯があります。そこで,そういうことになってきたいま、もう一度村松、増淵両先生に対談をしていただくと非常に面白いことになるだろうと思うんですけれども、まことに残念ながらもはやここではそれを聞くことができません。

 そういう団体意識について一番最初に問題を提示されたのが三浦新七先生であったということを先ほど申し上げました。ところが三浦新七先生というのはすごい洞察力を持っておられたんだなと今更ながら感心するのは、『支那古代の団体意識』の中で、その両方を同時に成り立たせる原理が実は中華の思想なんだということをすでに明言しているんです。これにはちょっとまいってしまうんですけれども、とにかくあの五行で、木・火・土・金・水で万物が動いていく。その動いていくということは、全体というものが木・火・土・金・水という個別素材、五材によって形成されているのだから、結局全体はまた同時に個体である。中国は個体と全体とを同時に見るという思想。それが連鎖
をなしていくという形ですべての社会組織団体というものも構成されていくんだというふうに把握しておられます。

 ここのところだけ原書を読ませていただきますと、「この特殊な思惟形式は全く個別主義的傾向に根差すものでまさに村松先生が、あるいは石川先生が強調されている点です ― 支那特有の連鎖的論理、五行の論理が成立し得るゆえんであり、また後に説くように、団体意識において個人が団体の中に包容せられながらなおその独立性を失わない。全体たる団体が個体的に考えられて、その含む個体と対立するゆえんでもある」というとらえ方をしておられまして、ここに尽きるだろうと、私は自分自身のささやかな研究を通じて最近確信を深めている次第であります。そういうわけですから、一橋東洋史学の求めている、明らかにしなければならない問題点というのは大体この辺のところに絞られてきて、これをわれわれ若い者がもっと展開していかなければならないというふうに、ひとまずここで押さえておきたい。

     日本に於ける東洋史の経済学的研究
       ― 福田徳三先生に始まる食貨志研究 ―

 それから、もう一つ申し上げておかなければいけない点は、日本において東洋史の文学的な研究ではなくて、経済学的な、あるいは社会科学的な研究というものが始まったのは、実は東京商科大学においてだったと。これは意外と知られていないことなので、『一橋大学の学問史』で私は東洋史の部分を担当いたしまして、そこの最初に掲げておいたのですが。これは福田徳三先生が始めたんです。非常に面白いことだと思っているんですけれども。一番最初に福田先生が西洋経済史というものを方向づげをなさった。それから日本経済史についてもアウトラインをお示しになった。そしてさらに朝鮮経済史についてもすでに論文を書いておられる?そして中国というものの東洋経済史。一橋の東洋というのは大体いままでは中国だったわけですけど、それは深沢先生があらわれてからインド経済史、それから加藤博君があらわれてイスラム経済史というのが膨らんできて、非常に豊かに発展しっつあるわけですが、中国経済史というものを考える場合にはどうしても歴代の漢籍の中の正史、歴代の王朝が自分の王朝の正統性を証明するために、前の王朝からどのように引き継いだかというのを書く、あの正史。その最初の作品が『史記』であり、漢書・後漢書とくるわけですが、その正史の中に必ず食貨志―食物と貨物の歴史―あるいは貨殖列伝、貨物と財産をふやす列伝というものがありまして、それをとにかく詳しく検討することが出発点であるわけです。その食貨志について福田先生が、まず全部正確に日本語訳にしようということを思い立たれたわけであります。そしてそれを、いまで言えば文部省の特別研究、それに申請されまして、金貨志研究会というものを組織されたんです。しかも、そのチーフに選ばれたのが加藤繁先生。この方は後に東京大学の東洋史の教授となり、初めて『支那経済史考證』という本をお出しになる。日本の中国経済史の開祖であります。その加藤先生が当時慶応義塾の助教授だったんです。その加藤先生を抜擢して、それで加藤先生に食貨志研究を命ぜられたわけです。それが次から次へと翻訳がなりまして、一部は岩波文庫の東洋古典のところに、『史記の貨殖列伝』とか、あるいは『漢書食貨志』というような形で出ています。
それが大正十三年の末にできております。さらにその後『後漢書』 『唐書』、それから『宋史』というものの国訳を先生が御存命の間に完成されているんです。それを先生はずっと、でき上がったものを読んではコメントを付けておられたわけです。そして亡くなられてから後この事業は、東京大学の文学部に付属している研究機関で、東洋文庫という所に引き継がれました。これは国会図書館の東洋関係図書の分館になっていて駒込にございます。東洋文庫の中に本部が移されましてから現在でもまだ延々としてこの翻訳作業が続いております。そういう状態でして、この食貨
志の完全な日本語訳というものが、いわば経済史研究の象徴的なコアであるわけです。その先鞭をつけられたのが福田徳三先生だったということです。

   増淵龍夫先生による古代中国人の行動倫理
     ― 任侠的関係 一

 それから、その作業の中で経済史というものが出てきたのが東京大学においては加藤繁先生。それから、一橋大学においては増淵龍夫先生であったわけです。増淵龍夫先生は『史記』と『漢書』を食貨志はもとよりのこと、全体を関連文献一切と非常に綿密に突き合わせをされまして、そこから古代中国人の独特の行動倫理というものを解明されました。

 それは何かと一言で言えば任侠的な関係、現在のヤクザさんではありませんけれども。仁侠的、人的結合関係というものが中国の社会組織を内側から支えているんだということを体系的に明らかにされたわけです。家族血縁というものは一つのきっかけでありまして、家族血縁関係というものを一番パーフェクトな状態で維持拡大できる原理というものが、言いかえれば仁侠的な仁・義・礼・智・信の五常の考え方です。それが思想として社会のありとあらゆる結合関係をつくっていく場合の基準になっていった。ですから君臣の関係、君子と臣民との関係。それから主人と客人の関係も、仁侠の原理で律せられていました。客人というのは、いわゆるブレインとしての幕客であるとか、あるいは刺客であるとか、そういう客の字の付く人々が有力者のところにいつも来ていたわけです。たとえば孟嘗君のところには食客三千というようなことが出てまいります。それは社会的に影響力のある人が社会的な影響を実際に実現
していく場合に、そのような協力者の協力がなくてはできない。そういう協力者がまず客人としてやって来るわけです。その客人と主人との関係がこの任侠的、人的結合関係であります。任侠的、人的結合関係というのはしかし単純に親子関係のような引っくり返すことのできないものではなくてこれは場合によっては消滅する可能性があるものです。

 どういう場合に消威するかというと、主人が主人にふさわしくない行動をとった、と客人や家人が判断すれば、その主人をまず諌めなければならない。諌めても聞かなければその主人と縁を切るというのが任侠的関係である。日本のヤクザ関係とは異なります。そのことが軸にあって初めて天子と臣民、あるいは天子と官僚との関係も成り立つし、また官僚たちが天子の誤りを諌めることができる。それを受け入れていけば天子と臣下との関係は続いていくわけです。受け入れないで望みがないとなると臣民はその天子を離れて新しい天子を立てることができる。これが中国的な易姓革命。姓が変わり、そして命が革まるという、その革命思想になる。これが中国的な儒教のいわば神髄なのです。そのために中国では歴代王朝が易姓革命によって交替するということになり、日本型の万世系にはならなかったわけです。

 日本では江戸時代に儒教を導入したときに万世一系の観点からするとこの革命思想は危険である。誤りであるといぅことでここの部分を削除して導入したわけです。ですから日本の儒教というものは中国とは肝心のところで違うものになってきたのです。儒教だから中国のことがわかる、という風には一概には言えないということでありまして、そこら辺の違いをもっともっとはっきりさせなければならないのがこれから先に残されている研究課題の一つだろうというふうに思うわけです。この点については、さきごろ逝去された西順蔵先生のご業績から私どもは学ばせて項かねばなりません。

 さて、増淵先生はそういうふうに福田先生の始められた食貨志研究会の流れの中で独自の仕事をなさり、パラダイム的には根岸パラダイムと同じ土俵で研究に取組んでこられたということまでをいまお話ししたと思うわけです。

   一橋に於ける華僑研究
   
 ― 先駆者 内田直作先生と異色戴国W教授 ―

それじゃ華僑の社会について一橋の研究者たちが一体どういう貢献をしたのかということになりますと、根岸先生の跡を受け継いだ内田直作先生が戦後間もなくは東亜経済研究所、いまの経済研究所の前身で華僑研究の先鞭をつけられたわけです。その後ずっと成城大学で教鞭をとられて、現在亜細亜大学に移られましたけれども、内田直作先生の一連の華僑研究が日本を代表するものだろうと思います。先生は日本華僑の実態分析というものをされ、根岸先生の指し示されたガイドラインが全くそのとおりであるということを豊かな資料を以って実証された。それから、さらに東南アジア、さらにはアメリカ。東南アジアではとりわけマレーシアの華僑社会、そしてアメリカにおいてはカリフォルニアの華僑社会についても踏み入って問題を明らかにされました。

 私などは内田直作先生の著作集から自分の勉強を展開させていただいたような関係にあるわけです。ところで、内田先生の華僑研究というものは主として戦前の華僑社会の実態を踏まえて進められてきた。そして人的結合関係といぅものが極めて重要な意味を持ちますから、その意味でマレーシアとか、あるいはサンフランシスコとかいう場合でも、どちらかというと華僑の中の保守的な正統派華僑にカッチリと足場を組まれて、その人々との信頼関係でデータを発表してこられた。私はその後東洋経済史の講座を受け継がせていただいて、一橋全体の中でやはり華僑研究を発
展させるというのが一つの使命だと思いまして、その内田先生のお仕事を継承発展させるのと同時に、残された課題として、もう一つ別のプロフィールと申しますか、革命的な華僑、この線を明らかにする必要があることに気をつけようと思いたちました。

 そのような関心から、全国を見渡しますと、東畑精一先生の門弟でアジア経済研究所の主任研究員から立教大学に移られた載国W教授という台湾出身の方が非常に優れていることに惹かれて教えを請いまして、一橋大学へは非常勤講師で来ていただくようにし、現在では台湾籍の方でいらっしゃるから外国人講師という肩書きで社会学部の方に協力を頂いているという次第です。載国W先生はさすが東畑先生のお弟子さんだけあって、中山経済学にも大変明るくて話が通じるんですが、この方が出された一番重要な問題というのは、華僑、華僑と言うけれどもそれは一世について言えることで、二世三世となるともう随分変わってきている。一世でも余り長くいて、そのうちにインドネシアとか、あるいはマレーシアの国籍を取るともう華僑ではなくなる。つまり僑というのは仮住まいという意味ですから仮住まいではなくてその国の人になったんだからということでここは名を改めて華人というふうに言うんだと。その違いがいかに大きいかということをわきまえながら付き合わないととんでもない摩擦が起こってくるという問題を出されまして、いままで起こりましたインドネシアの華僑弾圧だとか、あるいはクアラルンプールでの華僑暴動だとかいうことがいまのような誤解に基づいて引き起こされたということを明らかにされたわけです。それに私は非常に啓蒙されました。そういう華人で、どちらかというと中華民国とも中華人民共和国とも距離を置いていくところの独自な華人社会ですね、これこそがむしろ現代において日本の、特に経済活動の面でかかわりが深く出てくる部分じゃなかろうか。そういう人たちを戦前的な感覚で華僑としてとらえてしまうとこれはかえって仕事がまずくなってしまうのではないでしょうか。そのような点を掘り下げて明らかにしておられる戴先生の講義が国立で続けられていることは有意義と申せましょう。

      「客家」(はっか)の研究について

このように、一橋における華僑研究というのは、バランスを保っている点では他に頬がないと自負しております。我田引水になりますが、華僑・華人の中でも鼻も特徴のあるグループに、「客家」というグループがあります。その客家というグループは孫文がそうだったし、それから太平天国を起こした洪秀全、あのグループがほとんど客家だった。孫文が洪秀全の後を受けて中国革命をやった。そしてさらに孫文の幕僚であったところの蓼仲トが客家であり、その息子さんの蓼承志が共産党の中にあって客家の親日家として随分日中の友好のために尽くされた。中国共産党の中には葉剣英将軍、彼も客家です。それから亡くなった朱徳将軍も彼も客家。それから現在のケ小平主任、この方も客家。客家づくめのような状態になっている。これはなぜだという問題がありまして、ここのところをひとつキチッと押さえませんと、中国の共産党だというと何となくいつでも、中ソがまたいつかくっつくとかどうかとか、そういうレベルでもって議論が上滑りしてしまいまして、そっちばかり追いかけるから、常に変わっていく表面だけを論評するということになっちゃうんです。そうじゃなくて、客家の組織というのは、つまり華僑組織のコアである。これは華僑の中で福建とか、あるいは広東とかいうようなのはそれぞれの地域的な共同体としての幇(ばん)を組んでいます。しかしながら広東幇や福建幇の世界組織というのはないんです。客家はそれに比べると非常に数は少ないんです。にもかかわらず世界組織を持っております。二年に一回世界大会というものをやってきております。私もその世界大会へ日本に居留している客家の代表団の一員として入れてもらって参加したことがあります。バンコックでやりました。会そのものは別に何ということはないんです。ただ久々に集まってきてやあやあと言うような感じで、それでまた別れていくということなんですけれども、日常的には大変な情報網を持っている。

 これはちょっと際どいことなので実名と国名を伏せさせていただきますが、留学生で客家の青年を私のところでおあずかりした。その人が日本の女性と結婚しまして非常にうまくいきそうだったのですが、突然これが別れることになりました。彼はいまにも自殺もしかねない風情だったので国から両親を呼んだわけです。父君はその地域の客家組織の首席なんです。私の家の四畳半に十日間はど泊まって親子揃って帰って行きました。四、五年たってから私がその国へ行ったわけです。前もって知らせずに、ホテルへ泊まっていたら、あちらからホテルへ電話があって、どうして知ったのかなとまず首をかしげたのですが、とにかくわかっちゃったんです。すぐにウチへいらっしゃいということでその首席の家に泊めていただいたんです。これが大家族でして、首席の息子さんと娘さんが八人いて、結婚しているのが二組いて、それも三階建てのマンションにぎゅう詰めで住んでいる。ある日、夜中の十二時ごろ遅い晩飯を食べたんです。そうしたら、「先生、いま息子の元の彼女がすぐその先のマンションの十四階の何号室にいる。だから先生とにかく気を付けてくれ。息子と鉢合わせが起こらないように。気が付いたらサッと別の道へ入って下さい」ということを言うわけです。驚きました。私ですら、その女性がその後何をしていたか一切風の便りにも聞こえてこなかったのですよ。それをちゃんとつかんでいるわけです。「一体どうしてそれがわかったんですか」と聞いたら、とにかく中国華僑の世界では一族の信義を裏切った者については二度と再びその輪の中には入れないんだ、と。完全免疫防衛機構ができているわけです。そういう世界情報網があって全部が監視するわけです。その女性が西洋人と結婚して、そして海を渡ってサイゴンに入ったというところから追跡が始まっているわけです。それから某港へ行った。
某港を出てその国へ向かったということなんです。そこまでは某港の会館組織から知らせが来るわけです。それを受
けとめると今度はこっちの港で待ち構えていて、上陸してからどこへどう行くかということをちゃんと確かめている。それがいまのような格好で入ってくるわけです。これは日常茶飯のことであります。

 ですから、世界経済景気の動向、市場の動向、政治の動向というものもみんないまのようなパーソナルなインフォメーションネットワーク、口コミでいっている。ところがこれは何も華僑だけに限ったことじゃないんです。中国大陸においてすらそうです。中国では全国的な新聞が 『人民日報』と『光明日報』だけで、全人民が読んでいるわけでも何でもない。しかし物すごく早く中央の要人の動向が伝わります。それは何かというとロコミなんです。このスピードというのはちょっと信じがたいぐらい早い。幹部から地方幹部へいろんな形で流されて、そこからまた完全な口コミでずっと浸透していくというネットワークができている。そういうような人的結合関係というものをよく突っ込まなければ現代中国の動向も行方もわからない。

 例えばケ小平さんの動向を考えるときにケ小平ネットワークというものとユダヤのネットワークというものとがリンクしている可能性が大きいのです。これは上海におけるサッスーン財閥の支配時代のころから続いている客家とユダヤの人脈とのつながりがしからしめるところである。ですからケ小平さんの持つところの判断材料というものは極めて豊かである。しかも、世界的にみて第一級の決定的な情報が多いということなので、彼のにらみがきいている間は余り変なことにはならない。これが一度挫折することがあったとしてそのネットワークの人的結合関係―あえて人脈という言葉を使わないようにするんですが―が、どこにどうバトンタッチされていくか。そこをよく観察していく必要があるだろうということでありまして、この点が中国を観察する場合に、いやしくも一橋の中国研究の伝統にのっとってわれわれが共有しているところの知恵である。これは諸先輩方と共有し、諸先輩方の大変な最前線での御活躍のところで得られるものと突き合わせていただいて、われわれ後進のためにもお教えを賜ればこの一橋の学問
というものがますます生き生きと発展していくに違いないと、こう信じる次第でございます。
大変まとまりのないお話でしたが、むしろこの辺でお話を締めくくらせていただいて、御叱正を賜った方がよろしいかと存じますので終わらせていただきます。
ご清聴ありがとうございました。

   [ 質 疑 応 答 ]

  ただいま中川先生から客家ということでお話しを承りまして、私、南方の方に赴任しておりましたときに客家ということをよく耳にしたのですけれども、その実力といいますか、実能というか、うやむやのまま何となく聞き流していたのですけど、例えばシンガポールの福建の華僑の人とか、全部ではありませんが一部、あるいはバンコックなどに根強くいる潮州系の華僑の人の一部に、例えばリ・クワンユー首相を客家の出身であると言うときにやや軽蔑的な調子を込めて話をされる動きがありまして、私、その後もリ・クワンユ1首相の政治を見ておりますと、大変立派なやり方であると尊敬しているんですけど、どうしてああいう潮州、あるいは福建の一部の人に、はっきり言わないんですけど軽蔑したような口調がたびたび聞き取れるのですが、ちょっとその辺を聞かせていただけたらと思います。

 中川 これは村松先生が強調しておられたことなのですが、私が客家研究を始めたころ、おまえ気をつけろよと仰言るんです。とにかく客家のことをあんまり表立って言ったらば、相手がもし客家だったらば不愉快に思うだろうし、それから相手が客家の人でない中国人だったらば、何でおまえそんなこと勉強するんだと言ってばかにするに違いないから気をつけろと言われた。

 それで香港大学の客家出身の歴史家で、羅杏林先生を紹介してくださった。その羅杏林先生のところへ行っていろいろと質問している中でいまの問題も出てまいりました。客家というのは余りにも優秀であって、次から次へといまのような、共産党側でも国民党側でも革命指導者が輩出してくる。ちょっとさかのぼれば明朝とか清朝のころには中央に文官試験で進士として登用します。あれの中での合格率が客家が一番高いということもありまして、まず第一には警戒されているわけです。おまけにもともと黄河の中原に住んでいて、長い時間かけて南の方へ移り住んできて、南の方ではもう広東人、福建人、潮州人が先に住んでいた。そこへ後からやってきて独特の才覚を発揮して土地を買い占めていったんです。それから商売で成功していって、いままでの広東や潮州の人たちの商権を荒らすというようなことがあった。それで反感を買っていた。そこで彼ら、広東人や福建人は客家のことを、よそからやってきたあれはどこの馬の骨か知らないという軽蔑の意味を込めて客家、客家と言っていたんです。客家というのは、例えば司馬遼太郎さんだったか武田泰淳さんだったかが、小説の中で「よそ者」と書いていた。そんな単純なものじゃないんですけど、そういう面もあるわけです。

 日本で言うと、ちようど山の奥の方に人里から隔離されて住まい始めます。ですから、昔の被差別民のような目で地元の人から見られていたのがいわれなき軽蔑的な感情の発端だと。リ・クワンユー首相のことについて申しますと、この方は客家であるということを自ら絶対に公言しません。みんなわかっているんですけど。客家であることを公言すれば福建、広東の協力が得られないということで手控えている。そういうところがまたよけい、福建や広東にしてみると、やっぱりそうじゃないかといったような格好になってくるという複雑な屈折した関係にあるんじゃないかと思うんです。

  客家というのは蛋民ではないんでしょうか。

 中川 蛋民ではありません。隣りあわせに住んでいた地域があることはあります。

 ― さっきのお話の中で、中国に儒教思想が盛んになったときに中国は中華ではなくなったというふうな話があったのですが、その辺はどういうことなのかよくわからないんですけれども。

 中川 清朝末期から革命が中華民国を建てたという格好で進んでいったあの時期というのは、伝統的な意味での儒教思想というものは地に落ちて、そして軍閥たちの、とにかく閥の利益を目指しての争い、それが優勢になっている時代であった。だからいろんな形の革命運動が起こるけども、その革命運動というのも儒教の正統の教えにのっとって出てくるものではないというところに着目して、中国大陸において、その時代儒教が衰えてきたのだ、というふうに内藤湖南は考えたわけです。

  もう一つ儒教と、それと中国では道教の影響が強いということをよく言います。仏教より何よりも道教の影響が強いんだというんですけど、儒教と道教との関係というのはどうなんでしょうか。

 中川 これはもともと補い合うもので、易経から端を発します。最古の古典は『易経』ですから。その『易経』の中の占術であるとか日常生活の非常に現実的な修養方法であるとか、長寿の方法であるとかいう側面を道教が強調している。日常の個人的な幸せを達成するための方法を道教が説いている。儒教は表の、国と家との関係であるとか社会的な責任だとか、そちらの側面を説き続けたという補い合う関係にある。
1大変明解に中国社会の諸方面の分かれたものの考え方というものを一橋の伝統に基づいて説明していただいてありがとうございました。最近の話ですが、中国はケ小平さんの指導を中心としまして毛沢東主義による、いま先生のお話にあったような組織の内面の改革が行われているわけですが、ついこの九月、特に西安、洛陽と奥の方をちょっと旅行して参りました。

 その節ガイドに交通大学−西安のー番いい大学らしいのですが、これを卒業したという人が、いろいろと説明の内容が非常に程度が高いものですから、フリートーキングの中でもって非常にありがたかった。ただそうなると、中国の現在の改革、特に現在の改革の前途がどうなるかという、彼の意見も求めたいと思ったけれども、もう一つ、いわゆる批林批孔ということが四人組時代に強く打ち出されてきている。そうなれば一体中国人の一般の民衆を教育するモラルはどうなってくるのか。先生、いまお話になった、五倫五常で仁・義・礼・智・信ということで、仮に仁・義・礼・智・信というものをそれぞれやや違った徳目と考えれば、これの重点順位がどういうふうに変化するんだと。それを教えてくれというような質問をしたんです。

 そうしたら彼はそれに答えていわく、こういうものはもう現在でもみな大事なものだということで教えているんです。孔子さんの言う言葉ですと言ったって、人間というものは忠信でなければならんというようなことは中国でも非常に大事にしていて、批孔というのは孔子様の封建的な思想が悪いんだ。それを特にいまの人倫関係で言いますと、家族を中心としたものを大事にする。あるいは宗族を中心としたものを大事にする。血縁関係を大事にする。こういうことが社会関係の中に強調されて大事にされて、いまの共産主義、毛沢東主義に沿った中国をつくっていく上においてはそういう考え方は邪魔になってくる。だからこういうものを改めていくことを強調したのが孔子さんに対する批判なんで、個人個人の道義といったような形になれば、これは同じように現在でも中国は大事に考えているんだと、こういう説明でしたけど、これはその人だけの意見なのか、やっぱりこれはそのとおりに考えていいのか。その辺のところをひとつ。

 中川 いまのその方の考え方がケ小平たち指導グループの考えている考え方だと思います。その意味で非常に現在
の典型的な指導的な発想方法であるというふうに思います。

 ― 最近考えております、われわれ経済人がケ小平政権がいつまで続くか、いつまで寿命があるか、そういうことがございますけれども、アプローチするときに、中国四千年の歴史とかを考える一方には、中国共産党のマルキシズムの洗礼を受けて三十五年の激しい短かいけれども非常にドラスチックな経験。あるいはもう少し広げていきますと阿片戦争あたり、そこら辺までさかのぼる。いわゆる近代化のところとこれらの古いものと新しいものと、これらの絡み合いはどんなものでございましょうか。

 中川  ちょうど阿片戦争のころの近代化の始まりのときに当面した問題が全部もう一度現在出てきているというふぅに思います。ですから四つの現代化といわれるものをときどき日本で近代化と訳していますが、これは正確には誤訳なんですが、しかし誤訳してしまいかねないくらいに余りにも似た問題が再び出てきている。それを解決するためになければならない条件。そしてその条件があの時代においては満たされていなかったために中国の近代化は挫折したと同じように、現在でも依然として欠けている条件が多々あるわけです。その中の一つに、例えば経済的な問題で言えばインフラストラクチャーの整備ということが非常に後れていて運輸交通がボトルネックになっている。その辺のところがどういうわけか後回し、後回しになっているということがございますので、果たしてここにいつどういう格好で気が付いてどういう手が打たれるかということが具体的な明日を占う目の付けどころじゃないかと思うんです。

  例えばいまおっしゃいましたようにオーソドックスな漢字。そういうものがずっと廃止されてしまった。したがって古代へのアプローチというものは非常にむずかしくなっているはずですね。そういうあたりの関係はどうなんでしょぅ。彼らの新しい漢字というんですか、中国文字、中国語。そういうものと、その裏にあるところの思想これはどんなふうに考えたらよろしゅうございますか。

 中川  そこのところが、特に文革の最中におよそ学問研究というものが総否定されちゃって極めて大きなブランクがどうやっても埋まらない。そこで現在は北京大学とか重点大学と言われるところには中国の歴史を研究する専門コースというものが強化されて、そこで集中的に古い漢字を読む訓練はされておりますが、漢字が読めたからといって中身が理解できるわけじゃなくて、これは一体どうなるのだろうか。それで台湾の学者たちがここでもって非常に重要な位置を占めている。台湾の学者たちに対して様々な形で中国が協力を呼びかけていくのがこれからの流れであると。むしろアメリカ人の研究者の方がそういう古典を読むのに優れているわけです。アメリカ人の学者を呼んで共同研究する。もちろん日本の研究者たちもその面で協力するためにしょっちゅう行ったりきたりはしております。だけどどうも日本人研究者に対しては一歩線を引いているみたいです。かなり資料も見せしぶりますし、そこのところでなぜアメリカ人には寛大なのかということをちょっと調べてみますと、大体大統領が行くときに何人かの学者を連れていくんです。それから、その人を直接、よろしく頼むと言って残してくる。ですからアメリカ人の学者というのはちゃんと農村に定着して現地調査もできるし、日本人の見せてもらえないような資料も読ましてもらえる。日本の政治家はそういうことを一切してくれないということがございます。

  それは向こうの政治家がそう言うのですか。

 中川  アメリカ人の学者で定着して向こうで仕事をして帰ってきたのが、大統領や特別補佐官や国務長官が一緒に連れていってくれて置いてきてくれたとか、あるいは特別の紹介をしてくれて入ることに成功したということであります。

  これはまことに素人なんですが、東京外語に岡田英弘という教授がいらっしゃいます。岡田教授の話を聞いておりますと、ちょうど阿片戦争のときをもって古い文明的な支那古来の文明は切れたんだと。そしてあれからひっくり
返って、これじゃいかん、近代化しなければいかんということでどんどんいろんなものを入れ出した。入れ出したもものが、日本が明治維新以後ヨーロッパやアメリカのものを入れて翻訳した。例えば主観とか客観とか自然とかたくさん、その他から取って日本人がつくった言葉を、それを英語でやってきたので、中国はそのとき翻訳を直接向こうへするんじゃなくて、日本のそういうようなものを通じて持っていったので非常に日本の文化の影響を受けている。
こういうような説を言っておられましたが、そんな点はどうなんでしょうか。

 中川 それは全くそのとおりだと思います。

  そうすると無意識的にせよ中国はかなり日本的な思想の影響を受けていることも事実ですね。

 中川 そこのところが中華思想の面白いところで、そういうふうにして導入するわけですが、しかし、例えばキリスト教というのはゾロアスター教の形でまず導入しました。そのときには景教という格好で導入します。それからまた、例えばイスラム教。これは回教。モスクはモスクとしてではなく太清寺。漢字に一たん置きかえて入れます。そうするとどういうことが起こるかと申しますと、これはもともと中国と同じ寺なんだ。それから、キリスト教だって何も、日本はカタカナのまんまで導入します。そんなことしないで景教というものにする。これは儒教、道教と並んだ教えの一派であるんだということで、もともと中国にあった発想法がたまたま言われてみればゾロアスター教と似たようなものだからこれを景教と名付けておく。中華思想というのはそういう格好でどんな新しいものでも全部吸収してしまえるキャパシティは持っている。ただそれは極めて我田引水的に自己中心的に、もともとあったものなんだという格好で出てくるのが特徴です。

 ですから、まだほかにも例を考えますと、紙は中国が発明した。印刷も中国が発明した。ロケットも元の時代に中国が発明した。火薬も発明した。何もかもみんな中国が発明したということになっているわけです。実際にそういう事実があるわけです。ただそれを展開できなかったわけですけれども、その事実は確かにあるということですので、中国人と話していると、恐らくお仕事の中でそういう体験をお持ちだと思うのですが、町を一緒に歩いていたりして、こっちが珍しい、これこそ日本独特のものだという意味で紹介すると、あっそれなら似たようなものが中国にもあるよという答えが必ず返ってくる。これはどうしようもない自信といいますか、何といいますか。それで自惚れてだめになっちゃうという面もあると思いますけれども、そういう感じがいたします。

 ― この間国慶節のときに見てきたのですが、天安門の前で行進するんですが、でっかい写真が、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東。前を走っていくあれは日本にもないようなでかい大陸間ミサイル。これから中国どうなっていくのか。われわれ商売に関係する人が多いですから、あそこへ投資していいのかどうか。外国の方はどんどんやっているようですが、お隣りの日本が後れちゃいかんので。果たしてどうかまだわからないですが。大変次元の低い話ですが。

 中川 その点で一番参考になるのが宝山鉄鋼コンビナートのあの件だと思います。あれはとかく、電気、水道一切合切のインフラストラクチャーのないところへいきなりああいうものをガッとつくっちゃうということをしたわけで、ですから動かないわけです。もし電力をやるとしたら上海は停電にしなければならないということです。しかももう一つの考え方で重要な点は特別いいものを導入しようと中国は求める。しかし中国全体の経済構造からすれば、実は八幡の古い製鉄所を持っていった方がよかったというんだけど、それは恥だからというか、そんなことじゃないんだということで最新鋭のものを要求する。ついその強い、強い要請にほだされてその線で協力してしまうという場合には大体途中で何度かの手直しをしなければならなくなると思うんです。ですから、最新鋭のものよりはもっと簡素な原始的なもの、その辺で協力するという点に的を絞った方が成功の確率は高いのではないかと思うんです。

  今度の国慶節に行きまして意外に思ったことは、いまのように、マルクス、エンゲルス、こっちはレーニン、スターリン、それから毛沢東。ところが天安門広場の真ん中に同じような大きさの孫文の写真が出ているんです。孫文のあれだけ大きな写真を中華人民共和国が出したということは今度初めてなんです。ですから、孫文をこれからどう考えていくのか。ちょっとその辺で中国の物の考え方というのがいままでと違ってきているような、そんな感じがしてまいりました。

 中川  非常に重要な、まさにそこのところがひょっとすると台湾との統一と言わないまでも経常的な交流というものが成立するとすればそのベースの上でだろうと思うんです。
それでちょっと思い出したんですけれども、一昨年でしたか、バンコックで客家の世界大会が行われて、そのときにやったことが、孫文の写真を大会の正面の段に掲げようとしたんです。そうしたらタイの華僑総会が断わったわけです。なぜかというとタイは王制です。王制に共和制の革命家の写真を掲げられて、それにみんなで敬礼するなんていうことはできないというのが理由だったんです。だけど台湾などの代表団はどうしてもそれを掲げると主張し、結局タイの国王と王妃の写真を両脇に掲げて、その国王の陰に隠れるかのように孫文の写真を掲げたという事実があるのですが、そういうふうに相当華僑サイドは孫文で固まっていく。しかし、それは共和制である中華人民共和国は共和制なんだから共産主義の色合いを薄めて共和の一点に戻ってきてほしいということを台湾側は熱望していました。
そういうことを思い出しました。

  いま先生のお話しのように台湾の問題。今度われわれ趙紫陽首相のレセプションに招ばれたのですが、そのときにも香港の問題をあれして一番最後に台湾の問題を出しまして、中国と体制が違う香港を祖国統一でイギリス政府と共同宣言をして香港が返ってくる。だから香港のシステムはいまの共産主義のシステムとは違うけれども、一つの国で二つのシステムで統一するということが必ずしも不可能じゃないんだ。だからワンカントリー、トウシステムズというものは成り立つということを話をいたしまして、その後で台湾の問題を出しまして、台湾海峡の向こうにはわれわれの同胞が台湾という別の国をつくっている。しかし香港と同じようにワンカントリー、トウシステムズで台湾を現在の体制のまま祖国統一ということは必ずしも不可能じゃない。現実を考えた場合にその方がはるかに合理的だと思って、いま台湾に祖国復帰を呼びかけているということを一番最後に趙紫陽首相が話をしたのですが、そのときに私も思ったのが、孫文の写真を掲げたのはそういうねらいもあるのかなという感じ。台湾の双十節にも一遍行ったことがあるのですが、十月十日双十節のときに出す写真というのは、孫文の写真と蒋介石の写真です。その孫文の写真を今度の中国の国慶節に天安門の広場の真ん中に置いたということはそのねらいも一つあるのかなという、先生のお話しのようにそんな感じを持って帰って参りました。

  エドガー・スノーという有名な中国の研究家。あの人が死ぬ前に、毛沢東のああいう思想、マルクス、レーニン主義のあんなことを言っているけれども、結局あれは儒教思想のコンフユシズムの換骨奪胎したのであって、中華民国の本能というんですか、潜在意識というんですか、こういうことを読んだことがあるんですが、先生の、中華思想でみんな丸めちゃって、何でもいいところを取っちゃうというふうにも考えられるんですが、いかがでしょうか。

 中川  実は毛沢東思想というのは一番特徴的なのは、易経の発想に基づいている。一分かれて二となり、二、三を生じ、三万物を生ず。ですから劉少奇と物すごい討論をやって、二合して一となるということを劉少奇が言ったときに、それは逆コースだよ。違う。やはり一分かれて二となり、二、三を生じ、三万物を生ず。これだということを言ったときに非常にはっきりと出てきたと思うんです。その辺のところについては一橋大学では、先ほどちょっとお名前挙げた、今年の五月に亡くなっちゃったけれども、西順蔵先生が非常に深い洞察をしておられます。ですから、マ
ルクス、レーニン主義といいましても、よく言いますね、「毛沢東思想は現代最高のマルクス・レーニン主義である」と。もともと中国あったものなんだということを言っているわけです(笑)
     
                                         (昭和五十九年十一月十五日収録)




   中川  学  昭和十一年生れ。 東京都。
            昭和三十四年一橋大学経済学部卒業、
            昭和三十九年同大学院博士課程単位修得、
            昭和三十九年一橋大専任講師、
            昭和四十四年同助教授、
            昭和五十二年同
教授、現在に至る。

             昭和五十二−五十三年ハーバード大学燕京研究所客員研究員、
            昭和五十九年マサチューッツ工科大学ブルーネル特別講師、
                     社団法人・日本プロジェクト産業協議会参与等、

   主要著書  『客家論の現代的構図』 (アジア政経学会、
昭和五十四年)
            『巨大技術の時代が来た』 (PHP研究所、昭和五十七年)

   監   訳  『マクロエンジニアリング』(東海大学出版会、昭和五十七年)
            『マクロプロジェクト』(日刊工業新聞社、昭和五十九年)