一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第三号] 一橋経済理論の伝統と現代 一橋大学学長 宮沢 健一
― 理論と歴史および制度 ―
はじめに
御紹介いただきました宮沢でございます。この会の趣旨は、大正の中期から昭和の初めごろまでの―つまり大学昇格時から一橋大学再編時までの ー 東京商科大学時代の学問について考えるため、当時のヴィヴィッドな生き証人的な話を基本とする、というように承っております。この基本からみますと、私はその基準からややはずれており、ご期待に沿える話ができるかどうか、大変おそれます。
第一回の「考える会」 での増田四郎先生の一橋百年の時代区分によりますと、三つの時期に分けられ、第二期が建学から明治末まで、第二期が明治末から終戟まで、第三期が終戦から現在までとなっております。この区分によりますと、私はちょうど第二期の末尾に若干足をかけているだけで、ほとんど第三期派といってよいかと存じます。そのため、この会の三回にわたるこれまでの大先輩がたのお話との連続性を保ちますためには、その間に、中間的なポイントと申しますか、なにか「つなぎの糸」をつくっておく必要があるように感じます。そこで、そうした中間項といたしまして、まだ私ども、あるいは私の記憶に生々しい、次のことを思い浮かべることから始めたいと存じます。
昨一九八〇年、私どもは一橋出身の偉大なお二方を失い、その一周忌を済ませたばかりであります。お一方は、日本の近代経済学建設の大先達、中山伊知郎先生で、本年の四月に一周忌を迎えました。もうお一方は、求道の大政治家、大平正芳総理で、中山先生より一回りもお若かったのですが、同じこの六月に一周忌を迎えました。たまたま私は、このお二方の一周忌追想論集に一文を載せさせていただく機会を持ちましたが、そのときには全く気づかなかったのですが、いま改めてこの二つの追想文のタイトルを並べてみたとき、この「考える会」との関係で、自分でも意外なことに気づき、ちょっとした感想を持ったのでございます。
そのタイトルと申しますのは、一つは「中山経済史観のゆくえ」。もう一つは「大平哲学のふるさと」であります。中山先生への追想文の方は、中山先生の経済の歴史の見方、その経済史観の「ゆくえ」ということで、先生は本来、理論家であられたのですが、ここでは歴史に関連したことを、恩師、福田徳三先生とのかかわりで述べてございます。(『一路八十年』昭和五十六年、中央公論事業出版、所収)。もう一つの 「大平哲学のふるさと」、ここに「ふるさと」とは、一橋大学時代、正確には東京商科大学時代のことを指していますが、政治家であると同時に文人宰相でもあられた大平総理の、若き日の、上田辰之助先生のゼミナールにおける卒業論文から、その思想・哲学の源流に触れようとしたわけであります。(『大平正芳回想録・追想編』昭和五十六年、回想録刊行会、所収)。この二つの追悼文のタイトルにおいて、「歴史」と「哲学」の二つが、たまたま対になっている。最初からそういう意図は全くなかったのですが、結果的に対の形になっています。
こういうことを申し上げますのは、「一橋の学問を考える会」を発想されました新井俊三先輩が、会をスタートさせるにあたり抱かれておられた考え方にそれが関連しているからであります。新井さんは、当時の学界における一橋経済学の学風について、一橋シェーレとか一橋学派とかいう表現をおとりになり、その特徴として、その底に、歴史と哲学、この二つの考え方が波打っている、という主張を展開になっておられます。
私のテーマは、歴史や哲学の話ではなくて、私の専攻分野である理論について語ることになっておりますが、しかし、そうした場合でも、やはり歴史と哲学、あるいは「経済史観」と「経済思想」とのかかわりで、問題をどう考えるべきかということが、同時に求められているように思います。これは、私にとって荷が勝ち過ぎたテーマでございますけれども、あえてその一瑞に触れて、御批判を仰ぎたいと存じます。
一橋経済学の立脚点
一橋における経済理論の基礎を築かれた指導者は、申すまでもなく福田徳三先生であります。福由先生は、明治後期から昭和初期にかけての「黎明期」にあった日本の経済学界において、理論だけではなく、歴史、政策の広い分野にわたって、あるいはもっと言えば、大正デモクラシー運動の先端に立って、活躍されたのであります。現代の経済理論とのかかわりという点からみて、二つの点がポイントになるかと存じます。
(1)その一つは、福田博士の経済学の考え方、発想の基盤は、どういうところに置かれていたか、という点であります福田経済学は、一方のドイツ歴史学派のブレンターノに置き、もう一方の足をイギリス新古典派のマーシャルに置いて、後年ほどマーヤルの方に比重がかかったとみられております。当時のわが国の経済学界にとって、マーシャルの経済学を大学の講義の中心に据えるということは、画期的なことであったと思います。なぜかと申しますと、当時の主流は、旧古典派経済学、歴史派経済学、マルクス派経済学のいずれかであって、近代経済学への関心はほとんど無縁であったといってよいからであります。(なおマーヤル経済学は、その後大塚金之助先生の翻訳により日本の学界に根をおろしました)。一橋の経済学の伝統は、これに、左右田喜一郎先生、三浦新七先生の哲学的思考が加わり、そしてさらに、上田貞次郎先生の実践的・実証的学風が加わって、単に理論の分野だけに限定して考える場合でも、広い、文化科学の基礎の上に発展していったと言えるのではないかと存じます。
(2)もう一つの点は、福田先生がその後の経済理論の方向を、どう見通されていたか、ということであります。これはもう少し広く一般的につっ込んでいえば、当時の世界の学界の主流が指向しつつあった方向 ― これは次のように言えるかと思うのですが ― 一つは経験科学としての経済学の独立化で、いかに経済学を独立的な学問として育てていくか、もう一面は専門科学としての経済学の自律化で、いかに自律性を付与していくか。こういう二つの方向に進みつつあったように思います。これについて、福田先生はどんな展望をされていたのか、こういう形に問題を言い換えてよいかと存じます。福田先生がこの点に関して最終的にとられた立場は、先生がお亡くなりになる年に病床で校正の筆をふるわれた最後の著書『厚生経済研究』 に示されております。昭和五年一九三〇年) に出たこの本の序文の中で、当時の経済学の諸動向を展望され、それらのすべて、歴史学派、マージナリズム (限界学派)、マルキシズム、制度学派、動態諭、マックス・ウェーバーの理念型理論等々、こういうものに対してすべて行き詰まりを感じ、次のような刮目すべき叙述を与えておられます。
引用します。「私は右何れにも與することが出来ないのであります。私は、一方には、ワラス (ワルラス)、エヂウォース、パレト、フィッシァー諸氏の数理的研究に大なる期待をかけるものであります。……幸い私の同学中二、三の方々はその方面に精進して居られます。他日大なる収穫を期待し得ると思います。……私に残された唯一の道は、ホブソン、ピグー、キャナン諸先生が荊棘を拓かれた厚生経済理論への進出、これであります。」 こう述べておられます(『厚生経済研究』昭和五年、刀江書院、序五〜六ページ)。
ここで福田先生の指摘された二つの領域、数理経済学、それから厚生経済学(ウエルフエア)、この二つへの進出は、今日の経済理論の中核的な二大主流とも申すべきものであって、わが国の経済学の黎明期において、今日の理論経済学の方向を見通されておられたということは、はなはだ驚くべき慧眼と申すべきかと存じます。
ごく一般的に申しまして経済理論が解明すべき仕事には、二つの面がございます。一 つは、経済のあるがままの姿を描き、そのポジティヴな分析を行うということ。もう一つは、経済のあるべき姿を求めるノーマティヴな分析、この二つです。一方は実証的な研究、他方は規範的な研究、といってよろしいと思います。福田先生は、前の方のポジティヴな研究については、数理的な、数学的な手法によるファンクショナルな経済のつかみ方、これが今後の方向であるとされ、また後者の、ノーマティヴな、あるべき姿の追究については、厚生経済学による論点の設定を、予見されていたわけです。こういう形で、今後進むべき方向が明快に指摘されていたと、かように福田経済学を、今日の立場から位置づけることができるのではないかと考えます。
論点を、これに続く、次の段階とのつながりに移してみたいと思います。
日本の理論経済学界が、「黎明期」から、次の段階の「定着期」 に進んでいったとき、福田徳三先生の指導にそって、いま申しました第一の側面、数理経済学の展開を進め、これを日本の学界に定着させたのが中山伊知郎先生であります。中山先生が昭和二年 (一九二七年)、留学生としてボン大学にシュンペーター教授の門をたたいたとき、シュンベーターから「いままでどんな本を読んだか」と聞かれ、そのとき中山先生は三人の数理経済学者、クールノーゴッセン、ワルラスの名前を挙げて答えたところ、シュンペーターは非常に驚き、重ねて「一体そういう指導をしたのはだれか」と問い、一九二〇年代の極東日本の理論経済学界における指導者の名前を尋ねた、ということが伝わっております。
この線に沿った中山先生の帰国後のお仕事が、昭和八年(一九三三年)の 『純粋経済学』となって結実したのであります。『純粋経済学』が出現したことは、おそらく、わが国の近代経済学の発展において、明らかに最初の道しるべを築いたものといってよいと思います。そこに盛り込まれた内容は、今日の立場から見ますと、現代の経済理論の共有財産になっておりますけれども、当時においては、全く未開拓の分野であったわけで、これによって、学界における一橋大学の地位を確保し、重味を示す重要な役割を担った、と言うことができると思います。
福田経済学の継承
関連してもう少し間口を広げていえば、一橋の経済学の発展の中で、数理経済学や純粋経済学だけではなく、広く福田先生の経済学一般の発想が、その後どういう形で受け継がれていったのかが論点となりましょう。最初の方で触れました私の追想文「中山経済史観のゆくえ」という小文は、部分的ではありますが、この点にかかわっていますので、それを手がかりに、話を拡大させ発展させてみたいと存じます。
中山先生がお亡くなりになられる九カ月ほど前でございましたが、昭和五十四年の夏に入ろうとするころ、先生から依顆されて、明治四十四年刊行の福田徳三先生著・坂西由蔵先生訳『日本経済史論』を一橋大学の図書館から借り出し、お宅にお届けしたことがございます。お持ちしたのは、翻訳の版が違っておりましたので二冊で、明治四十四年訂正再版と、大正十四年改訂四版であります。初版本は明治四十年に出ているはずなのですが、図書館にはカードにあっても書庫には現物はありませんでした。両版にちょっとした違いがあり、気がついたところをメモ書きにして先生にお渡しいたしました。
実はちょうどその翌年、一九八〇年 (昭和五十五年) が、福田先生の没後五十年祭にあたりますので、このことを記念して、福田先生の著作三点を選んで「解説づき」で、ある出版社から学術文庫として刊行する、そういう五十年祭の記念の事業が進みつつあったときであります。いま申した福田先生の 『日本経済史論』を中山先生が解説を担当される。『厚生経済』を山田雄三先生が担当される。『生存権の社会政策』を板垣与一先生が分担され、それぞれ解説を付して、この順序で刊行される計画であると聞いておりました。その後、中山先生がご入院になられて刊行の順序が変更され、中山先生の担当の分は三番目、一番後回しとし期限をつけずにゆっくり完成を待つ、ということになったのですが、結局、二点だけが刊行され(昭和五十五年六月、および七月、講談社学術文庫)、『日本経済史論』はついに実現を見ないままに終ったのでございます。なんとも、無念としか、言いようがございません。
ところで、山田雄三先生が『厚生経済』 の解説を担当され、板垣与一先生が『生存権の社会政策』 の解説を担当されることは、両先生の御専攻の分野から見て、ごく自然であります。山田雄三先生は厚生経済学と計画理論とを踏まえて、昭和十七年一九四二年)に名著『計画の経済理論』をまとめられておりますし、板垣先生は、同じ昭和十七年、経済政策論者として『政治経済学の方法』という著書をものされております。ところが、中山先生の場合にはどうでしょうか。先生の御専攻は、特に福田時代、純粋理論の領域でありまして歴史ではないからです。このことは後で触れることにしたいと思いますが、まずは福田徳三先生五十年祭に、復刊され、あるいは復刊されようとした三つの著作の持つ意味を、最も私が身近に感じております現代の経済学の立場に照らし合わせながら、一度踏まえておきたいと存じます。
福田先生の 『厚生経済研究』は、先生没年の昭和五年(一九三〇年)の出版ですが、しかし厚生思想は古くから持たれていた。引用しますと、「そもそも厚生経済という考え方は、私が経済学を始めて以来、多少は有っていたところであります。しかし、特にこの語を選定し、それについて若干まとまった思索を致したのは、大正四、五年以来のことであります」と語っておられます。(同前、刀江書院、序二ページ)。 山田雄三先生がまとめられた今次の新編集の一書は、福田先生のそうした初期の著作から、最後の晩年の著作に至るまで、そのエッセンスをコンパクトに集めまとめたものといえると存じます。福田先生の厚生経済学の展開は、山田雄三先生が指摘されていますように、二つの側面がありました。一 つは、マルクス経済学に対する挑戦です。もう一 つは、厚生経済学は新古典派のピグーが基礎づけを行いましたが、その新古典派のピグーの厚生経済学に対する批判であります。
最初のマルクス経済学への挑戦の方ですが、マルクス経済学は資本主義の運命を予見して、資本主義が崩壊したその後には、社会主義・共産主義の時代がくると論じましたが、これに対して福田徳三先生の中心論点は、共産主義の原則、つまりここで共産主義の原則と申しますのは、各人からはその能力に応じて、各人へはその必要に応じてという原則ですが、この原則が、マルクスの主張のように資本主義の崩壊の後に実現するのではなくて、すでに資本主義の機構の中に「一つの赤い糸のごとく」織り込まれている、と主張することにあります。もちろん同じ原則と申しても、共産主義でのそれと違い、資本主義ではそのとる「制度上の姿」があります。つまりそれは、たとえば労働争議ですとか、あるいは最低賃金制であるとか、労勘保護制度とか、そういったような制度の形をとって行われるということでありましょう。
この見方を現代風、あるいは今日風の言い方に翻訳し直してみますと、これは資本主義社会が、いわゆる福祉国家という形に変容することによって、各人へはその必要に応じて、という原則があらわれるようになる。そういった変化とそのための制度デザインが進む、という表現に言い直すことができるかと存じます。そして現代は、まさにその福祉問題の定着と再点検の、ただ中にあるわけでございます。
もう一つの側面として、厚生経済学の建設者、イギリス新古典派のピグーに対する批判に目を転じましょう。福田先生はピグーの厚生経済を乗り越えようとされた。それはどういうことかといいますと、ピグーの立場は価格メカニズム中心の考え方であって、真のウェルフェア・エコノミクスには遠いという判断であります。たとえば賃金という価格がございます。この賃金が、労働の需要と供給をバランスさせるところに決ったとしても、その均衡の賃金レベルは、労働者の生活を圧迫するような水準のものであるかもしれないし、あるいは雇用量を減少させるような水準に決まるかもしれない。賃金のレベルの高い低いを争うのは「価格闘争」であるけれども、それは、労使間の「所得分配」を争う厚生闘争とは、区別されるべきである。こういう立場であります。福田先生はこのようにピグーの価格中心の考え方を批判して、真に生活充実をもたらすような労働所得の獲得、「価格闘争から厚生闘争へ」という転換を説こうとしたわけです。
しかし、この論点を論理的に突き詰めて現代風に見直しますと、これは単なる「闘争」ということを超えた内容をもつ。むしろ、社会の「価値観」というものがどういう形で形成されるのか、という問題に、実はつながっているはずでございます。ここでも現代経済学の言葉に言い直しますと、社会的な厚生関数と申しますか、ソーシャル・ウエルフェア・ファンクションの設定の問題となります。価値の対立の過程を通じて、いかにそれより高次元の価値が形成されうるかの問題にほかなりません。一面では政策理念の問題でもありますし、表現を変えれば、社会的な合意形成をどう達成しうるか否かの問題でもあります。こうした問題をはらむ福田先生の厚生=ウエルフェア重視の発想は、さらにその源泉をさかのぼってまいりますと、復刊されたもう一つの書、『生存権の社会政策』における考え方につながってまいります。
福田先生には『生存権の社会政策』という表題の独立の著作はございません。同じ表題の論文が大正五年一九一六年)にあるだけですが、これに関連する論文をあわせて新たに一つの本に編集されたのは赤松要先生で、昭和二十三年一九四八年)に刊行されております。今回の板垣先生の解説づきの復刊は、赤松要先生のこの仕事がベースにされています。福田先生の生存権論は、所有権制度、あるいは財産制度という制度の再吟味、これを基礎として、「物格の支配から人格の支配へ」、「財産の支配から労働の支配へ」を主張し、労働に所待として正当な分け前を与える分配の正義を求めたものです。言いかえると、価格経済を超えて厚生経済へ、という主張につながっていくわけです。
福田先生によりますと、近代における人類には、三つの大きな発明がある。一つは、十五、六世紀に始まる「個人の発見」、二つは「国家の発見」、そして、十八世紀の末葉から十九世紀にかけての「社会の発見」、この三つであります。「国家に一括するをあたわず、個人に分割するをあたわざる社会現象」が発生して、独自の意義を持つ「社会の発見」という事実を位置づける必要がある。そして社会の運動法則を究明していくためには、一方に、社会と国家の交渉を苦く解釈すること、同時に他方で、社会と個人との関係を解明すること、これが社会政策の基本問題である。
こうした発想であります。
そして、社会の発見ということの意味を突き詰めていくと、ついに、社会の譲るべからざる基本権としての生存権に突き当たる。「生存権」とは、単なる生存の自然的事実を指すのではなくて、社会制度としての生存権のことであり、社会政策の哲学的な基礎づげとして、生存権の社会政策ということが提案されるわけであります。
福田先生のこの初期の展開をめぐっては、左右田喜一郎先生の批判があり、論争がなされたことはよく知られております。左右田先生の主張は、引用いたしますと「経済政策はいかなる安静点、いかなる帰着点を有するか」(『経済哲学の諸問題』大正六年、佐藤出版部、一二五ページ)を問うことにあり、そのポイントは、規範なるもの、これはあくまで「形式的ゾルレン」たるべきであって、福田先生のいうような生存権といった内容的な制約を、アプリオリに課すことは許されないところである、というにあります。これが批判の中心です。これに対して福田先生の回答は「生存は自然的な事実ではなくて、それとは区別された社会制度であって、文化価値の範疇に入ると解すべきである」というにあります。
いまこの問題にこれ以上立ち入ることはできませんが、これは現代経済理論の言葉に直しますと、先ほど述べた社会的厚生関数、ソーシャル・ウェルフェア・ファンクションの設定の問題であり、あるいは、社会的合意形成の一般的なルールなるものは、存在し得るかをめぐる問題にかかわる。かように位置づけうると存じます。
経済理論と経済史観
福田徳三先生の五十年祭を記念しての復刊三点中、『厚生経済』、『生存権の社会政策』に加えて、『日本経済史論』を含めるかどうかについては、論議が分かれたということをお聞きしております。結局、中山伊知郎先生の強いご主張でそうなったという話を聞きました。もし福田先生のお仕事のうち理論の分野での代表作ということになりますと、いろいろたくさん書かれておりますので問題かと思いますが、たとえば、大正十四年(一九二五年)に出された『経済原論教科書』、これが集約的な一書ということができるかもしれません。ここでは、生産と流通という二分法をとりながら、特に後の「流通」の方に重点を置く立場が明示されております。また、福田先生独自の理論展開ということになりますと、たとえば、古典派以来広く行われてきた「費用原則」という考え方、つまり、物と物との交換において、交換される財の費用が等価になるという費用原則を排して、先生は「余剰原則」、サープラス原則と名づけたものを採用されます。そして交換における両方の取引主体の各々が、財に対して行う評価の関係、そうしたサイドを見なければならないと主張されます。こういう点の主張は、はなはだ興味ある重視すべき視角と思います。もっともこの主張は、先はど紹介した著作『厚生経済研究』の中に含まれております。
しかし、第三冊目として選ばれたのは、経済理論ではなくて経済史論の方でありました。中山先生から私が承っておりましたところでは、先生が福田経済史の史論をレヴューされるにあたって、経済史の専門家を煩わせて点検を依頼し、この本が今日の時点でも十分に評価に耐え碍るものかどうか、検討してもらうつもりであると、おっしゃっておられました。
また、先生がお亡くなりになられて半年ぐらいたってからかと思いますが、山田雄三先生にたまたまお目にかかる機会を得たときのお話では、中山先生は『日本経済史論』の解説に非常に乗り気になっておられ、経済史専門家への依頼よりは御自身で進んで検討されるつもりになっておられたと、お聞きいたしました。
またこの本のドイツ語原本は訳本よりかなり早く、一九〇〇年、明治三十三年に出ているわけですが(坂西訳の初版は、明治四十年)、ドイツ語版の内容の一部は、福田先生御自身によって坂西訳本では改訂され訂正されているはずで、そのあたりも論点になるはずであったということでございました。さらに別の機会ですが、増田四郎先生から歴史家としてのお立場からご意見をお伺いする機会がありましたが、当時としては、こうした日本経済史の通史がまとめられたということそれ自体、まことに価値ある業積として位置づけ得るもの、ということであります。
福田先生の『日本経済史論』の考え方の中心はどこにあるかと申しますと、一方では「経済単位の縮少」、他方では「経済組織の拡大」、この両者によって、近代経済社会の成立過程が鮮明に措かれているところにあります。この書物の解説をお書きになるはずであった中山先生は、よく知られていますように「純粋」経済学の確立と展開から出発され、その後、中央労働委員会、あるいは政府の各種の審議会等を通じて、労働問題、経済政策の実際問題への積極的な関与とともに、学風を拡げてこられましたが、そうした中山先生が、円熟した境地で「経済史観」をどう展開されるか、これは、一橋の学問にとりましても、私どもにとりましても、大変期待され興味をそそられるところでありました。
後ほど触れたいと思いますが、イギリスの経済学者で理論家として知られるヒックスという学者が『経済史の理論』という本を一九六九年に刊行しました。中山先生は経済史のヒックスに強い関心を示されたことを、いまはっきりと思い浮かべます。「理論」というものに対して「歴史」をどう対置するか。これは中山先生の畢竟のお仕事の一端に位置づけられていたに違いなく、福田先生の『日本経済史論』 への解説は、そうした中山経済史観の展開の、またとない機会であったはずでありました。お亡くなりになる直前の先生のお仕事は、書斎のデスクの袖の引出しに納められていたということを、お嬢さんの知子さんからお聞きしましたが、福田徳三『日本経済史論』訳本二冊は、その引出しの中に静かに眠ったままであった、ということでございます。
いま改めて、次のことが残念に思えてならないのであります。先生に私が本をお届けしたとき、貴重な先生のお時間にあえて喰い込んででも、質問などを大いに発して、先生の経済史観を少しでも聞き出し、引き出しておくべきであった、と思います。しかし、いまそれを言うのは、繰り言にすぎません。むしろその日、二冊お届けしたわけですが、そのうちの大正十四年版が「左右田文庫」の中の一冊であることを先生がお目にとめられ、その書物の「とびら」にしるされた坂西由蔵博士から左右田喜一郎博士あてのサインを御覧になって、往時のことなどをほほえみを湛えられて語られたことを、いま鮮明に、ほのぼのとした大事な記憶として、思い起こすのでございます。
私的なささやきはここでやめにして、「理論と歴史とのかかわり」について、なるべく外側からではなくて、内側
から考えてみたいと思います。
さきに話しましたヒックスの『経済史の理論』一九六九年)を、一つの手がかりとしてみたいと存じます。と申
しますわけは、ヒックスは一九七二年にノーベル経済学寛を受けておりますが、その授賞理由は、もっぱら、理論分野における第一人者としての仕事にあるわけです。その純粋理論家のヒックス、半世紀近く主として経済学の純粋理論を研究してきたこの碩学が、自分の専門分野にこだわることなく、経済史についての一般理論を提供しようと試みたわけですので、理論家の側からも、歴史家の側からも、大変注目を集めたのであります。ヒックスも申しておるのですが、理論と歴史とは決して対立するものではない。歴史的研究と理論的アプローチを統合することは、経済史学の方から見ても、経済理論の側から見ても、必要とされなければならない仕事であるというべきでありましょう。
ヒックスがどういうやり方をとったかといいますと、経済学から導かれた一般的理論を歴史に適用して、歴史発展のパターンを見たらどうなるか、という手法です。ヒックス自身も語っておりますが、こういう問題の立て方でございますので、それはシュペングラーとかトインビーの歴史理論よりも、むしろマルクスの歴史理論は近い。しかし、マルクスとの距離も、決して小さくないわけでして、ヒックスの場合には、社会の動態的変化を「趨勢と循環」としてとらえ、これによってマルクス流の決定論や、あるいはその他の進化論に陥ることを避ける、という態度をとっているからです。
ヒックスの『経済史の空洞』は、マーケットの理論を中心に据え、市場がいかに勃興したか、この「市場の浸透」の過程を三つの局面に分け、「第一の局面」、「中間の局面」、「近代の局面」と呼んでおります。そして近代の局面に至って、市場メカニズムが支配的となった、こういう見方をしています。こうした歴史の見方の着想は、きわめて新鮮といえます。しかし近代経済学が市場経済を前提に理論を構築していることを思えば、これはごく自然の帰結ともいえましょう。まさに市場経済の価格の不思議なメカニズム、この解明こそが経済理論の中核的なテーマであり、かっ今日でもテーマとなり続けております。この点、福田徳三先生は、「価格闘争から厚生闘争へ」という意識の転換を説かれました。けれども理論上、まずは価格のメカニズムを押さえておくことが、ウェルフェアのための分析の前提としても、やはり不可欠たということは言えましょう。
しかし同時に、今日見るように、福田先生がかつて力説されたような厚生闘争への転換の芽生えは、現在強くあらわれているわけです。なぜなら、今日の経済の状況は、市場メカニズムの現実性・有効性が問われている、そういぅ時代でございます。市場以外の非市場機構、この方にも大きな関心が向けられざるを得なくなった、そういう時代です。確かに市場がだんだん浸透して「近代の局面」に達し、工業主義の勃興をもたらすわけですが、この局面に至ると、市場組織と対立し、それに取って代わる市場以外の組織、そうした非市場組織が、市場組織と並んで重要な存在になってくるわけです。近代の局面は、確かに「市場経済の浸透」を特徴として進んでまいりましたけれども、しかし半面、かえって「新しい形の非市場経済」を登場させたのです。
現代における政府部門の拡大ですとか、公共セクターの必要と成長など、これらは、ヒックス流にいいますと、レヴェニューエコノミーとしての非市場経済への大きな後退であります。しかしここで私が重視したいと思いますのは、公共部門の拡大といい、あるいは非市場経済の伸張、ないしは市場経済の後退と申しましても、これは、市場のいろいろな力、市場諸力を経験することによって「変容させられた」市場経済の後退である、という点であると思います。
つまりこの変容が生じたルー卜は、市場以外のいろいろなメカニズムや部門にも、経済計算を行うチャンスを与えることによってである。そうしたプロセスを含みながら、非市場経済の拡大が生まれてきた。公共部門の拡大は、こうして市場社会以前の価値の復帰としてでなく、考えられるべき性質を持っている。歴史的に、市場メカニズムをいったん通っての非市場経済であります。市場経済が近代の局面に入って、「近代」というものが育成してきました経済計算の見方、これを考慮しながら、非市場経済においても、その見方・原理が中心に据えられるべきものであろうと感ずるのであります。
経済学方法論の争点
やや余談にわたりましたが、こうしたヒックスの経済史の見方が、たとえば中山先生の経済理論や経済史観と、どぅかかわってくるのか。これは手がかりがない以上、勝手な推測はできないわけです。しかし中山先生が、自らの経済学の立脚点の一つとされたシュツベーターの体系の解釈に関連して、次のようにご指摘になっておられることを、思い浮かべることはできると存じます。
経済学の問題の追究には二つの側面がある。その一つは、経済学の科学的基礎を確立するために、純粋理論的な考察に自らを限定すること。いま一つは、広い経済事実の変動の中から歴史的な展開の法則を探ること。つまり、純粋に理論的な考究をはかって科学的基礎を確立することと、歴史に学んで事実の展開の法則を探ることと、この二つは、一見互いに矛盾するように見える。しかし、以下は中山先生の文童からの引用ですが、「理論経済学者の中には、この二つを初めから切り離して、自らを一つの殻の中に閉じ込めようとする動きがあったと言える。もしそういう態度が貫かれたら、方法論と現実分析とは永久に結びつかぬという非難を免がれることはできなかったであろう。新しい経済学は、実はここにとりあげた二つの要請を同時に満たすことを求められていた」と。そして、シュンペーターの体系こそまさにそうであり、「正面からこれに応えた」ものである、と中山先生はとらえるのであります。(「私の古典・シュムベーター」昭和四十一年、『中山伊知郎全集』第十七巻、講談社、二〇六ページ、または「わが道経済学』昭和五寸匹年、講談社学術文庫、三〇ページ)。
これは同時に、中山先生自身のお立場でもあったろうと考えます。ひとたび経済現象の理論的な純化作業が完了した後では、あくまで伝統的なワルラス的一般均衡理論の枠組みにのみとらわれる必要はない。中山先生の場合、シュンベーターの 「発展の経済学」をふまえてアプローチされ、未開拓領域多き動態論へと歩を進められましたし、さらに、「ケインズ一般理論」への接近もまた、そうした態度が基盤となっていたと考えられます。
当時の理論経済学界において、一つのモニュメント的な作品で中山先生の学位請求論文でもありますか、『発展過程の均衡分析』が、昭和十四年(一九三九年)に出版されています。これは、一面からみますと、ワルラス、シュンベーター、ケインズ、この三巨人の経済理論の、批判的総合・統合ともいうべき研究であったといいうると存じます。しかし当時、一橋大学でも一般均衡論の立場に対するさまざまな批判、論争、対置があって、多彩な色どりを持ってきたことも忘れ得ないところであります。
まず、理論の領域の内部からの批判に目を向けますと、杉本栄一先生がそのチャンピオンでありまして、一般均衡理論を批判され、部分均衡論、あるいは特殊均衡論の実践的立場を強く主張されて、同じ昭和十四年一九三九年)に『理論経済学の基本問題』という書物にまとめられました。杉本先生は戦後は、マルクス経済学の立場に立ち、精力的な展開をなされました。もう少しノーマティブな理論領域になりますと、先に申したとおり、山田雄三先生がマックス・ウェーバーや厚生経済学の基盤を踏まえて『計画の経済理論』を、板垣先生が『政治経済学の方法』を、それぞれ昭和十七年(一九四二年)に出されています。もう少し、社会学的な側面にまで視界を広げますと、高島善哉先生の昭和十六年一九四一年)の『経済社会学の根本問題』を逸することはできません。ほかに、制度的な展開の流れもあり、財政論、金融論、企業論、あるいは組合組織論、等々と、結びついて展開されておりました。あるいは、もうちょっと広く、経済学一般の性格を点検するということになりますと、杉村広蔵先生の昭和十年(一九三五年)の労作(『経済哲学の基本問題』) を起点とする経済学方法史、経済哲学の一連のご著作が、昭和十三年(一九三八年)に三冊刊行されております。昭和十年代は、まことに多彩な展開の時代であったと言えましょう。
こういった諸展開は、実はどういう方向をたどったのだろうか。それらは相互に刺激を与えながらも、結局のところ、学問の全般的な方向とすれば、むしろそれぞれの立場をさらに強固にする、という形で展開されていったのではないか、と感じております。いずれにしても、われわれは書物というような形の上で示された伝統と並んで、形にはあらわれないところの、論争、あるいは対置、交流、そういった側面での「潜在的な伝統」というべきものについても、眼を向ける必要があろうかと存じます。
理論と歴史、あるいは制度との関係を考えます際「一つの近道として、理論でしばしば言われる「純粋」(ピュア)ということの意味を点検してみることが、一つの道ではないかと思われます。「純粋(ピュア)」とは、経済の外側にある経済外的な爽雑物を取り除くことで、制度や法制、あるいは歴史や環境、これらを「与件」と見て、分析の外へくくり出してしまいます。そしてそのくくり出したあとの中身、つまり一言でいえば経済のからくり、これをファンクショナルに分析体系の目鏡にかけて取り出そう、そういう発想がその基盤であります。制度的ないろいろな条件を与件として外側へ置き、分析対象の外部へくくり出すというこの方法は、経済の論理というものを、精緻化させてとらえ純粋化してつかむことを可能にさせたわけです。このことが、実のところ、社会科学の中で最も進歩しているといわれます経済学の発展に、大きく貢献する基礎となってきたことを見失なってはなりません。
歴史的な産物である制度を、与えられた条件とみなすことに対する批判は、経済学の長い歴史において、絶えず提議され、繰返し主張されてきたところです。これは、一橋の中でもそうでございました。それにもかかわらず、つまり純粋経済学の方法に対する批判が十分それなりの意味を持っていたにもかかわらず、他面において伝統的な経済理論が、この批判を超えた成果を挙げてきたということは、見落としえない注目すべき一点と思います。とは申しましても、この主流派の経済学は、歴史的変化や制度を与件とする論理的環境の中で、経済の合理性・効率性の側面に注意を集中させた反面、制度的条件そのものやその変化が、経済にどういう影響を与えるのかという分析に、意を用いることに欠けてきたのも事実であります。
そのため、今日のように、非常に経済の状況が、いろいろな不安定をかかえ、多くの問題が出てまいりますと、そぅでない時代はそれで済んだかもしれませんが、問題が発生してくる。制度そのものが揺れ動いている時代には、従来の伝統的な理論分析の方法だけでは、限界に突き当たる。こういう結果を伴うことも、また避けられないところかと思います。
私も経済理論を専攻している者ですが、この種の問題も、やはり理論の問題として、正面から受けとめる必要があると考えております。一昨々年私は一冊本を書きまして、そのタイトルを『現代経済の制度的機構』と名づけて出版いたしました(昭和五十三年、岩波書店)。ところが同僚からコメントがありまして、あなたは理論派だと思っていたら、いつから制度派になったか、と問われたのでございます。しかし私自身としては、これは自然な展開と考えておりまして、矛盾を感じておりません。
もちろん、よく言われますように、単に制度のことを具体的に並べ立てたり、歴史的変化の事実を述べ挙げるということだけに終わりますならば、それによって「物語り」をつくることはできても、「理論」 にはならないわけであります。「理論」をつくるためには、制度、あるいは制度の歴史的変化、そのことが経済のメカニズムや「からくり」をどう動かしていくか、その点のファンクショナルな側面をつきとめていく用意が、必要だからであります。こういうように考えます。
理論の自立性と制度
これをもう少し広く一般的に申しますと、一橋の学問に限らず、学問一般の持つ性格にもかかわってくると思います。つまり経済理論の学問としての「自立性」、「独立化」、「専門化」を深める、こういう方向が一方では求められる。そしてまさに、これなくしては科学たり得ないという事実が一方にございます。しかし他方では、専門化や分化と同時に、「総合化」、あるいは「接合化」、ないしは「学際的」な領域の展開、こういう面への要請もございます。
学問の流れには、この両者の要請があって、そして時代によって、二つのうちのいずれか一方が強く表面に出、あるいは、浮かんでは消える、という変遷を繰り返してきた。また、その両者の間のジレンマ、衝突、矛盾を、人々が受け取り、論争し、あるいはそれに巻き込まれる、という形で進んできた。そういうように理解できる、あるいは理解すべきものであるかと考えます。
しかしここで、あまり方法論に足を踏み込み過ぎないようにしたい。社会をどのようにうまく運営していくか、あ
るいは、社会をどう変革し、どう再編していくかという問題に取り組むにあたりまして、方法論は最後にくるべきもので、最初にくるべきものではないからであります。しかしこう申したからといって、杉村広蔵先生が強調してやまれませんでした「方法なくして学問なし」という語を、忘れているわけではありません。しかしこの言葉の本当の意味は、まず方法が先に、ということではなくて、一定の学派、あるいは一定の体系、システムには、必ず方法があるべきであって、その方法を理解することなしには、それぞれの体系、システムの真意は理解されえない、という意味でありましょう。そしてこれは、左右田、三浦両先生の強い影響のもとにある考え方です。「方法なくして学問なし」というのは真実ですが、同時に「方法のみでも学問なし」もまた真理であって、両者は連立して考えるべきものと存じます。
思いまするに、もともと経済学という学問は、科学の中での商売人でございます。それは、純粋哲学や、あるいは倫理学のような、人間臭くない空気の希薄な高い空で、羽をはばたくような学問にとどまってはならないと考えます。むしろ経済学は、汚染された空気の中で、泥をかぶりながらも、その中で現に進行しつつある社会システムのからくりを、ファンクショナルに解明していくことを、その宿命に負うているのでございます。もちろんファンクショナルな経済の動き、これは、それを取り巻く制度の枠組みの中で進行するわけで、これがもう一つの重点となります。
しかも制度というものについて、歴史はわれわれにいろいろなことを教えてくれております。歴史の過程の中で、人間がその必要に応じていろいろな制度をつくり出したわけですが、その制度は、いつの間にか、人間の手に負えない、コントロールのきかない存在になり得ること、この点も同時に心にとめておくことが、肝要であると思うのであります。
制度と人間のかかわりは、常にパラドックスに満ちております。一つは、制度が制定されたときのニーズが消滅し、あるいはそのニーズが変化したあとまでも、つくられた制度は(歴史の変化から中立的に)そのまま生き残る。生き残るだけではなく、自己生成を遂げて、旧態依然の怪物となって存続しやすいのです。一度生まれた制度は、さながら有機体のごとく自己生成を始め、かつ時代後れの代物(しろもの)に化したり、あるいは制度が逆手にとられて悪用されるという・そういう運命を持っております。しかも、もう一つ重要なことは、制度をつくりますには、気負っても安普請でも、コストがかかるわけであります。制度の設計、制度のデザインは、常にだれかが、それに対する代価を支払わなければならない。そういう性質のものでございます。
したがって、こうしたコストの条件に留意を払い、いま申し上げたような弊害に歯止めを用意して、効率的な制度のシステム・デザインを提示をできる条件、これが何かが、今日の歴史的条件の中で求められているように思います。
このことを、歴史的変化のパースペクティブの中でどう点検し、理論的にいかにファンクショナルに詰めていくか、このことが、課題とならなければならないと考えます。一橋の学問は、そういう形で、時代の要請に今日まで対応してきたと思いますし、また今後も、対応していくであろうことが、期待されるのであります。
「一橋経済理論の伝統と現代」というテーマにしては、内容がやや特定の面に片寄って、触れるべき側面も残しており、また自己流に解釈したところも多いかと存じますが、その一面に触れ得たということで、私の話を閉じさせていただきたいと存じます。有難うございました。
[質疑応答]
中島 昭和六年の中島でございます。ただいま一橋の福田先生以来の経済学の伝統を、非常に要点を尽くしてお話しいただきまして、ありがとう存じました。最近一橋の中でも、と申しますよりもアメリカからの流れでございましょぅが、ミクロの経済学というようなことが言われ始めて、新古典派、あるいは古典派等々という流れを引き継いだものでございますが、これをミクロの経済学として特にクローズアップする理由、またそれが一橋の中でいまどういぅ展開をしており、日本の経済の分析の中にどういう問題意識でミクロの経済学というものの役割を担っているのか、その辺につきましてお話しいただけましたら幸いでございます。
宮沢 ご質問の意味でございますが、ミクロの経済学が注目され始めた最近の特有な事情の一つは、マクロ経済学の基礎との関係でミクロ経済学をどう見直すかということ、それからもう一つ、従来の需要中心の考え方に対して供給側をどう位置づけ直すかということ、こういう点であろうかと存じます。ミクロ経済学についての関心が近年こうした形で深まる以前の段階は、周知のように、ケインズ経済学がマクロ経済学として、経済政策その他についてのガィドを与えてきたわけです。このマクロ経済学、ケインズ経済学が成立しました根拠は、先ほどの話でも触れました市場のメカニズム、これに任せておいて十分うまくやっていけるところも多いけれどもしかし、うまくできない面が出てきたことです。そのうまくできない面が、経済全体についての調整であって、たとえば失業者が残る、つまり賃金という価格を動かしただけでは、失業は救済できない。ということで、経済全体を包んでいるマクロ的な経済活動のレベルが、どういう原理で決まるかというからくりを見い出す必要が生じた。この原理を提示して、マクロ経済学=ケインズ経済学が一世を風靡し、各国の経済政策に影響を与えてきたわけです。ところが、その政策、最近まで成功したと見られてきた需要中心のマクロ経済学による政策だけでは、問題が解決できない側面が生じてきた。
その一つはスタグフレーションで、そうした形で、不況でも物価は上がる。需要側だけでなく、供給側のミクロの条件の吟味も必要となる。それからもう一つは、政府のアクティヴィティか各面で拡大して、恐らくケインズが当時考えていたものよりももっと拡大し、福祉国家という面への負担も多くなって、政府が大きくなり過ぎてしまったのではないか。そういうことから、遡ってマクロ経済学の基盤を、ミクロの面から見直そう、そういう動きが出てまいります。しかもそれは、古いミクロ理論そのものへの復帰ではなくして、マクロ経済学が見落としてきた、というよりもケインズ経済学の後継者が見落としてきた側面について、とりわけ供給面について、議論を深めるべきであるという見方が重なって出てまいりました。さらに論点は、純理論的な面と、政治的な面、行政的な面が、入り組んだ恰好で論ぜられるようになっております。これが問題状況の、一つの局面であると思います。
しかしもう一 つの別の局面もあると考えます。もともとミクロ経済学の分野は、合理的な経済計算をどのようにして経済メカニズムに役立たせるかということでございますので、単に見える価格だけでなくして、たとえば公害をどう防除するかについても、経済計算がなされてよい。公害について、きちっとした制度的な対応をし、P・P・Pの原則を設ける。そうした社会では、公害防止について企業がアクティヴィティを行うようになる。こうして企業が公害防除のためコストをかけるようになれば、そのコストが、目に見えるコストとして計算の中に入ってくるわけです。
逆に、公害防止について何ら手を打たない社会では、そのコストが社会の外側に放り出されて、被害を受けた者がそれをかぶるという結果になる。が、それをそうでなしに、制度化によって、公害防止コストを企業の負担にするようなタイプの制度をつくれば、これは経済の内部コストとして計算される。こうして内部化され、コストとして計算された結果が、一国の資源配分にどう合理的に役立っているかの判定ができる。つまり、こういう面で、見えないコストを見えるコストにいかに転換して、それを価格の中に取り入れるかという面での、価格機能の役割りにも注目すべきである。かつての、いわゆる自由競争時代の価格メカニズムと違いまして、これは制度と価格メカニズムの働きを、どう協同させるかの問題です。こうした側面でミクロ経済学が見直されている点も、重要であろうと存じます。
一橋大学においてもミクロ経済学の分野について、従来の伝統を引き継ぎ、現在そういう新しい問題に対応してどんどん若い人が活躍し、海外向けにもペーパーを書く人が多数でています。非常に心強いわけですが、ただ現在の経済理論の進み方には、一つの大きな問題点があります。それは、いま申した形で研究し業績を挙げるために、細分化されたある特定の分野の専門化が進み、それがゆき過ぎている面がある。専門化のタコ壷があっちこっちにたくさんできて、全体を総合化し、あるいは相互間の研究の成果について会話をかわすという側面が不十分となり、欠けてきている。そうしていまそのことが反省されつつある、そういう時代でないかと思います。経済の政策と申しましても、今日では問題を経済だけに限ることはできません。これは政治的で、あれは経済的、これは社会的だと、簡単に仕分けのできる時代でなくなりました。学問もまた、そういう方向に対応して、専門化から、さらにこれらを相互に連絡する方向へ、という芽と展開が生まれる必要があります。そういう段階にあるのではなかろうかと考えています。
ご質問の趣旨を十分つかまえておりませんでしたら、また補いたいと思います。
新井 きようのテーマとは少し離れるかもしれませんが、先生のご専門の制度学派について、ちょっとご説明くださいますか。
宮沢 私の専門領域は、理論でして制度や学説史ではないのですが、制度派という学派があって、かつてのアメリカのヴェブレン、コモンズなどが代表とされてきました。 ― 私どもの先輩では、小原敬士先生が制度学派について紹介・研究をなされておられます。
この時代には、制度学派は全く非正統派でございまして、しかも確立した方法が学派全体としてあるというよりは、むしろ抽象的な正統派経済学を批判しながら、そのとらえ損った局面をえぐり出す、という展開がなされてきました。
統一された方法に基づいて弟子が引き継ぎ展開していくというようなスタイルは、確立されなかったように思います。
しかし、社会の制度や構造を経済事実に関連づけて重視するこの伝統は、アメリカに潜在的に残っておりまして、その基調が、最近になっていろいろな違った形で表面に出てきている。
どこまでを現代の制度派と見るか、これは人によって違うようですが、たとえば、ガルブレイスなども制度派の一派であるという見方がございます。このような見方もあるかと思うと、他の極には、先ほどのミクロ経済学の価格メカニズム、この経済計算のアプローチを、経済現象以外の領域に広げて制度分析を試みるグループも、また制度派とされる。
この流れは、「経済学帝国主義」という名前で呼ばれておりますが、たとえば、罪と罰の経済学。つまり社会全体として犯罪を減らすためには、最適なアクティヴィティの量があるはずだ。犯罪をなくすためには、捜査をやったり裁判をやったりコストがかかる。そういうコストを、他方の犯罪を減らすことによって生ずる社会的なウェルフェアと比較し、この両面を勘案して、最適な検挙率とういのはそれではどのくらいであろうかを究明する。あるいは別の極端な例では、結婚の経済学というのもありまして、経済現象以外のさまざまな現象を、価格論的に解いていく。
もう少し近い例では、いろいろな政府の行っております制度の評価があります。先にふれた公害防除もその一例ですが、一般的には、制度についてのコストとベネフィットのアナリシス、そういう面で伝統的な価格理論に結びつけて、制度の問題を取り上げようという一派です。これはシカゴ学派の方法です。シカゴ学派というとき、フリードマンのようなマネタリストのほかに、いま申しました価格メカニズムを重視して、経済以外の領域にも応用する型と、こうした二つがあります。さらにこのほかにも、価格理論がとらえてこなかった「組織」と市場の関係を、正面から制度分析しようとする見方も、新しく生じています。
ですから今日、新制度学派という一つの学派が、はっきりした形で形成されているというよりは、制度の問題をいかなるアスペクトから取り上げるかについて、さまざまなアプローチがある、とみるべきかと思います。伝統的経済学に非常に近い、価格理論の広範な応用を目指すシカゴ学派的なものから、ガルブレイスの「新産業国家論」のような展開に至るまでの幅があり、またその中間には、「内部組織の経済学」のようなものもある。これは、資源の配分をつかさどっているメカニズムは、市場の価格機構だけにかぎらず、企業のような「組織」内部でもなされている、という見方を提起しております。これらを含め、いろいろなアプローチがみられる。こういうようなとらえ方が、あるいは正確かもしれません。学説史的に制度学派をどう位置づけ、どう考えるべきかは、一つのトピックですが、以上やや印象的な答え方で恐縮でございます。
小島 昭和十五年の小島でございます。きょうは本当に広範な角度から一橋の学問の歴史のお話しをいただきまして、ありがとうございました。私ども全容を追うことはとてもできませんけれども、非常に関心を持ちました。一点だけに触れてご質問したいと思います。
中山先生が福田先生の『日本経済史論』に関心を非常に持たれたということなんですが、福田先生の『日本経済史論』もさることながら、昭和三十年以降日本の経済の非常な発展ということに対して、宮沢先生も参加されましたけれども、中山先生のグループで日本経済の成長分析をやられました。あれは恐らく日本経済論としては、ああいう形で経済理論を現実の分析まで考えるという点では、画期的な最初のものではなかったかと思っております。
そういう意味では非常に価値の高いものと思っております。そういう勉強を通じて、さらにもう少し歴史的な背景にまで入っていこうという中山先生のお考えがあったのかどうか。その辺のところをお聞かせいただきますと大変ありがたいと思います。
宮沢 私の今日の話は、東京商大時代の福田経済学の流れと継承ということで、戦後の展開については直接触れませんでしたが、いまご指摘いただきましたように、戦後日本の経済分析の中で、中山先生が理論的な近代経済学的なアプローチを日本経済発展の問題にアプライされようとした点は重要と存じます。中山先生とその統計研究会のグループの最初の仕事は、『日本経済の構造分析』という上下二冊本として刊行されました(上・下とも昭和二十九年)。これと前後して、一橋大学経済研究所から『日本経済の分析』という書物が二巻出ました(第一巻、昭和二十八年、第二巻、三十年)。この両者が、おそらく当時の第一着手の仕事であったであろうと思います。
と申しますのは、日本経済の解明、解釈については、マルクス経済学が戦前・戦後を通じて永く支配しておりましたが、恐慌がくるということを絶えず予見して失敗したという、その信用を失墜しつつあったときに、近代理論、特に「成長理論」が、どの程度まで、明治以降の、そして現代日本の経済発展の解明にコントリビュートできるかということで、一つは理論の適用という倒面で研究が進展した。もう一つは、理論を実際に適用するためには、きちっとした、特に明治以来の発展をトレースできるような統計データの基礎がなければ科学的な発言ができない。ということで、こちらの方は一橋の経済研究所が「長期経済統計」の推計を手がげ、これが非常に重要な仕事となりました。
こういう点では恐らく一橋大学、あるいは関東の方が、関西よりも先に理論の応用経済分析に着手したと思います。
中山先生のお仕事には、ご指摘のように私も参加しており、よく記憶しているのですが、現在からあの本を見ますと、大ぜいの者が参加しやや玉石混淆の感もございますが、当時とすれば、ともかくも一つの方向を示していた。こぅした長期分析、成長分析に対して、関西の方では少し後れて、むしろ成長に対するに変動、とくに景気循環の実証分析が着手された。一橋グループのテーマの間を縫ってコントリビユー卜できるとすれば変動の分野であろうということで、関西グループの方は、まず景気変動の分析という点から第一号の作品が出たように存じます。これは京都大学の青山秀夫先生の編さんで出ております(『日本経済と景気変動』昭和三十三年)。
そういう形で日本経済の近代経済学的分析はスタートいたしましたが、その後、要するに、学問というのは共有財産となるべき性格のものでございます。もう一つ、東大グループなどを中心に推進されたエコノメトリックスの方法も挙げられますが、これもまた一般化されるに及んで、共通の地盤の上で、東も西もなく、日本も世界もなく、研究されるようになった、というようにみるべきかと存じております。こういう展開と流れの中で、一橋では経済研究所と中山先生の統計研究会グループ、これが一つの貢献の山脈であったといってよいと思います。
もう一つの面を挙げるとすれば、一橋自体から少し離れるかもしれませんが、当時の学界というのは各大学が、一橋とか、東大とか、慶応とか、それぞれ現在にくらべて孤立しておりまして、お互いの間の研究について、現在にくらべて情報交換、討論の場、そういうものが今日ほどには活発ではありませんでした。中山先生が統計研究会で開かれました研究会は、各大学の若手の研究者を一堂に集め、いろいろテーマに応じて部会をつくって検討し合うということで、私学、官学、その他の、交流の場がつくられた。特に実証分析を中心として交流の恒常的な場ができたということも、画期的な一つの仕事であったろうと思います。
さらにもう一つ、戦後の日本の経済分析で重要なエポックは、学界での研究と、官庁エコノミストの研究と、この両者の連絡をどうつけるかということであったのです。どの程度、どういう形で本学がこれにコントリビュートしているかという観点から考えたことはございませんが、昭和三十三年に経済企画庁に経済研究所が新設されました。これはまさに、官庁エコノミストと学界エコノミストとを、一つの組織の中に集めて研究を進めようという試みでした。
このときの初代の所長が、一橋経済研究所の大川一司先生で、先生は非常な努力をなさいまして、官庁と学界の学者の交流、国民所得統計のデータ的な基礎、コンピューターの導入などで貢献なさったのです。
実際、日本の経済分析が、戦後の初期から比べますと今日ずいぶん進歩したことを語る一つの笑い話を申し上げます。経済企画庁の経済研究所が初めて昭和三十三年に発足いたしましたとき、私も主任研究官として参加しましたが、主任研究官は全部で八人、うち四人が学界からの兼任、四人が官庁スタッフ、という構成でございました。ところが、両者で経済の話をいたしましても、通じない面があるのです。
たとえば、「モデル」という言葉をわれわれ学者グループはさかんに使っておりました。ある経済現象を分析するためには、ちょうど新幹線を走らせるときにモデルをつくって走らせたのと同じように、経済学でもいろいろ数学的なモデルをつくって実証分析をいたします。モデル分析は、当時はまだ新しい領域でした。そうした情況のもとで、モデルという言葉を私どもが言うものですから、官庁のお役人さんに、先生がたがモデル、モデルと言うから、きれいな女の子でも出てくるのかと期待していたら、数学が出てきた、といった感想をもらします。これは全く冗談として言われたのですけれども、そういうことが言えるような異和感があったわけです。
また他の例で、私どもが当時わかりませんでしたのは、「イチ・サン」とか、「シ・ロク」とか耳馴れぬ言葉が飛び交うのです。四六のガマは知っていますけれども、「一、三」と「四、六」がどう経済に関係してくるのかといえば、これは今日周知のとおり、一年間を四つに区切った四半期の呼び方で、「七、九」、「十、十二」と続きます。「シ・ロク」が鍋底だというのは、どういうことかとわれわれが問いますと、官庁スタッフは、景気循環論を専門にやっていて景気の鍋底も「四、六」も知らないんですか、といわれ、大笑いになったことがございます。こういうような冗談が出てくるくらい、言葉が「すなお」 には通じなかった面がありました。
それが現在、話が通じないなどということは昔語りとなり、またむしろある面では、いろいろなデータを蓄積し、それに基づいた分析は、官庁の方が上回るというような状況も生まれております。そういう面もございますので、戦後の経済学の展開を評価するさい、一橋という学問の場や、あるいは国立キャンパスを離れて、たとえば、統計研究会であるとか、経済企画庁の経済研究所であるとか、あるいは他大学とか、その他、一橋の外側との接触で、どういう発展が相互の交流を軸に進展して今日につながったかという点も、興味ぶかいと思います。これはまた広い意味で、一橋の学問を考える、あるいは日本の学問をその中で考える際には、
おもしろいテーマとなるのではないかと、かように存じております。
(昭和五十六年九月十四日収録)
宮沢 健一 大正十四年うまれ。
昭和二十三年東京商科大学卒業。その後研究科(二年)。
同年横浜市立経済研究所助手。
三十九年横浜市立大学教授、
四十年一橋大学経済学部教授。
五十年−五十二年同経済学部長、
五十五年七月から一橋大学学長。
著 書 『現代経済の制度的機構』(岩波書店)
『日本の経済循環』(春秋社)
『国民所得理論』(筑摩書房)
『産業の経済学』(東洋経済新報社)
『通論経済学』(岩波書店) ほか