一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第四十一号] 資本主義と社会主義、そして福祉国家 一橋大学名誉教授 山田 雄三
                   ー脱イデオロギーの立場からー

 
   (1)

 二、三年前にこの会で恩師の福田徳三先生につきまして、先生の経済学は今日言う福祉国家論にほかならないということをお話ししたことがございます。あるいは覚えてくださっている方もあろうと存じますが、そのときも申し上げたのですが、福祉国家についてはいろいろ今日意見もあり、あるいは非難もございますが、やはり日本の進路というようなものを考える上で必要な思想ではないかと私は考えております。
早い話が、最近の防衛費の突出とか兵器産業の台頭とか、われわれにとって何か心配しなければならんような事柄が起っております。それにつけても、やはり福祉国家というものを考えることが、どうも必要ではないかと思われるのです。最近貿易摩擦という問題がございますが、これもいろいろな論点があるわけですが、私の考えでは日本の福祉国家というもの、あるいは福祉社会というものの考え方の後れがヨーロッパなんかに比べましてある。日本ではこれまでのところいわゆるエコノミック・アニマルという傾向がどうも強いんではないかと私は考えているのです。しかしきょうお話しいたしますのは、そういう福祉国家の必要ということにはございませんで、福祉国家というものの考え方を申し上げたいと、こう思うんです。

 最近私は一冊の書物を私家版として少数の方にお配り致しました。それは福祉国家を取り扱ったものでございまして,経済思想として福祉国家を考える″という副題が付いているのですが、きょうは此の会からの御注文でこの書物の趣旨をお話ししたいわけなんです。それはきょうの演題にその趣旨が大体あらわれていると思うんです。つまり資本主義と社会主義という長い間のイデオロジカルな論争があったわけですが、その結果として福祉国家の必要という
ことが生まれてきたのではないかという点。しかもわれわれは一昔前のようなイデオロジカルな立場から福祉国家という別のイデオロギーを打ち出すというのではなく、そのイデオロジカルな論争に伴ういろいろな欠点というものを考えまして、むしろ「脱イデオロー」という立場が福祉国家を考える場合に必要ではないか。イデオロギーとしてではなくて、むしろもっと経験主義といいますか、現実主義といいますか、そういう立場に立脚しながら福祉国家の必要を考え、福祉国家のあり方を考える。これが必要ではないかということをきようは主としてお話し申し上げたいのです。

   (2)

 
そこで資本主義対社会主義という長い間の論争でございますが、どういう論争が政治の世界、あるいは学問の世界にあったかという点はきようは申し上げません。そのかわりに私自身が体験しました二、三のことを申し上げてみたいと思うんです。あるいはここにお集まりの皆様の体験でもあると思うので申し上げたいと思います。

 私は昭和二年に商大を卒業して学校に残ったわけですが、その前後、つまり大正の末期から昭和の初めにかけての時期は、資本主義対社会主義の論争の恐らく最も激しい時期だったと思います。その代表的な例は一橋の福田先生と京都の河上肇先生との、いわゆる福田・河上論争であったんです。それは単純なイデオロギー1的な論争と言えないかもしれません。すなわちそれはマルクスの『資本論』の読み方だとか、あるいは訳し方だとかいうことについてお互いに論争されたのでありますが、しかし当時の論争がいずれもそうであったのですが、福田・河上論争というのも必ずしも後に言います「脱イデオロギー的」という意識ではなかったように思われるんです。福田先生は河上説をマルクスの無批判的信奉者だと決めつけ、また河上先生は福田説を反動学者だと言って難じておりまして、その厳しい学問的な論争のやりとりの間に、結局は資本主義というものが必然に崩壊するのかしないのかということを、少なからずイデオロギー的に争っていられたように私には思えるんです。

 当時の日本の経済学界と申しますのは、ようやくマルキシズムが浸透してまいりまして、われわれ若い学徒はマルキシズムによる資本主義批判にまつわる階級イデオロギーに真剣に悩んだと言ってよろしいのであります。商科大学では大塚金之助先生がイデオロギーの点ではどっちかというと河上先生に近いのであって、それがまたわれわれ若い学徒の悩みの種になったわけです。

 私は、福田先生が大正十四年に渡欧された間、大塚先生に二年間預けられまして、卒業論文は大塚先生に提出したのであります。お断りしておきますが、大塚先生も学校の講義は非常に探究的・詮索的という態度で臨んでおられまして、その点では福田先生の衣鉢を十分継がれていたわけですが、しかしイデオロギーの点になりますと河上先生に傾いておられたのです。私は卒業後福田先生の助手として学校に残ったのですが、経済学の勉強を始めたばかりの私には、両先生の間にあってイデオロギーと学問との関係をどう考えたらいいかということで、その頃は悩んでいたわけでございます。

 もう一人、一橋でわれわれの若い学徒に影響を与えましたのは左右田喜一郎先生です。先生は当時非常勤の講師をされていたのですが、大正十四年ごろだと思いますが、私たち十人ほどの学生のために特別の読書会を開いてくださったのです。そのテーマは倫理学でありまして、私は左右田先生の番町のお宅にあがりまして、レムケというドイツの倫理哲学者の講演のパンフレットを手渡され、それを読書会で報告させられたことがございます。

 それはとにかく、左右田先生も社会主義に深い関心を寄せられまして、いろいろそれについての講演や論文がござ
います。先生は階級的な対抗意識から社会主義を主張することをしりぞけられ、社会主義のなかに真に文化的に意義のあるものが含まれているのをくみとらなければならないという主張をされたのです。階級意識というものを超えて文化的に意義ある、例えば人間性とか、あるいは自由とか、そういうものの追究が社会主義の要求のなかにあるんだというわけです。階級意識を超えるという点では、私の言う「脱イデオロギー」に通ずるものだと言ってよいのですが、ただ左右田先生の主張のなかには、いわゆる超越的とか先験的とかいう考え方がございます。それは新カント派の哲学的立場に通ずるものでして、どちらかと言うと経験主義を軽く見るという立場なのであります。例えば、画家が絵を描く場合に美という理念を追究するのだと説明をするだけでは、その画家が現実的にどういう課題に取り組み、どういう技巧で取り組んでいるかというような現実論に降りてこないという疑問が私には浮かびあがるのです。社会主義が真の人間性とかあるいは真の自由というものを追究するというだけでは、社会主義のいいところだけとらえて資本主義の悪いところと比べるようなふうになりがちでして、われわれにはどうもそういう点で疑問が残るのであります。この左右田先生の超越的という考え方につきましては福田先生との間にも論争がございますが、それはきようは省略いたします

 とにかく、私は以上のような経験のもとで、当時資本主義対社会主義というものをどう考えたらいいか悩んでいたわけでございます。最近、この会一橋の学問を考える会)を含めまして、一橋の学問についていろいろ回顧や反省が行われていて、それは非常に面白いと存じますが、できるならば単なる表面的な観察に終わらずに、その奥にひそむいろいろ内面的な悩み、あるいはその打開なり挑戦なりの跡を正しく取り上げてくださると非常によろしいと私は思っております。

   
   (3)

 以上が、私が学生時代あるいは助手時代に経験いたしました二、三のことを述べたのですか、資本主義対社会主義の論争・対立は今日はどうであろうか。昔のように露骨に「階級イデオー」の対立を争うということは余り見受けないようになりましたけれども、ただ依然として対立はあるように思われます。

 というのは、今日国際的に見まして、いわゆる自由圏と共産圏というものが分かれてお互いに勢力を競い合っておりますが、その限りそのことがわれわれの思想の上に影響を及ぼしていないわけにはいかないのです。一昔前の「階級イデオロギー」ではなく、むしろ「体制イデオロギーのようなものが考えられているのです。

 今日どの大学でも経済学の講座について、マルクス経済学と近代経済学が並行して行われておるようであります。学生の用語では、マル経と近経というのです。この並行講座なるものは、考えると何か不思議でして、もともと経済学をやるんですから経済学(分野の区別以外に)二つも三つもあっていいものではないのです。しかし、どうも人々はマル経と近経との分裂をあたりまえのように考えて余り怪しんでいないのです。

 それはなぜかと申しますと、体制イデオロギーを背景にもっているのですけれども、そうかといって互いに優劣を争うほどはっきりした対立ではなくなっているのです。何となく対立を考えながら、経済学をそれぞれの立場から講義をしているのが並行講座というつ現象なのであります。自由に属する国々も、共産圏に属する国々もここ数十年の間にそれぞれ変化発展を経まして、その経験からわれわれは単純に、資本主義がいいとか、あるいは社会主義がいいとか一概に断じがたいということがだんだんとわかってまいりました。経済体制といっても、いずれも完全無欠な

ものはなく、それぞれ長所もあれば短所もあって、しかもそれぞれできるだけ長所を生かし短所を改める工夫をしているのです。こうして体制イデオロギーというものを背後に持っているんですけれども、余り優劣を争うというふうなことは表面に出ないというのがどうも現状ではないかと思われます。
                                    
 もうーつそれに拍車をかける要素として、とくに近代経済学には、資本主義の体制を解明するというよりは経済そのものの原理原則を探ろうという志向が強いんです。そこでは階級イデオロギーはもちろん、体制イデオロギーというものも離れるという意図が見られるのであります。ただ、それでは経済の原理原則というのは何かということになりますと、やはり多少とも現実の体制の影響を受けますから、あるいは少なくとも現実の体制のある一面を強調することになりますから、全く現実を離れて超越的に経済そのものの理念を考えるということではないのです。もし超越的にそういう経済そのものの原理原則を考えるということになると、さっき左右田先生のところで申し上げたような、画家の美意識というような抽象的な、あるいは無内容なものになる恐れがあるわけで、したがって少しでも経済そのものの原理原則を具体的に内容的に規定しようといたしますと、どうしても現実の体制の影響を受けざるを得ないわけです。しかも近代経済学は概して現実の体制のある一局面を理論的に解明しているのでありまして、それにもかかわらずそれを全体として原則化し、全局面がそういうふうに機能していると解釈してしまう恐れがあるんです。いまの近代経済学は現実の経済体制のある限定された一面を抽象化して解明しているのですが、それを適用する場合には現実が全体としてそう動いているというふうに同質化して考える傾向があり、そこに現実がかなり異質的なものの集りだということを忘れてしまうのは、保守的な体制イデオロギー(階級イデオロギーではないかもしれないが)がひそむからなのです。

 つまり、近代経済学では資本主義体制そのものを直接扱わないで、市場経済のメカニズムを理論的に明らかにする
ということによりまして、資本主義全体が機能的にうまく働いていると見てしまう傾向が強いのです。また経済行為につきましても合理的な面なり効率的な機能なりを明らかにしようとして、非合理的なものや非効率的なものが現実には複雑に絡んでいるということをやや軽視しLやすいのです。したがってそこに近代経済学が現実の体制の合理的な面を重視し、それに影響されるということがどうしても免かれないのです。

 近代経済学と申しましてもいろいろ流れがあって、合理的なものと同時非合理的なものを広く問題にしている流れもございますし、またファンクショナルなものと同時にディスファンクショナルなものもあわせて考えようとしているものもございますけれども、多くは市場のメカニズムや合理的な経済行為を強調しており、その意味で保守的な体制イデオロギーを奥にひそませていると、私には見られるのであります。

 マルクス経済学の方は、初めから資本主義の暗い面あるいは弱点を取り上げており、それによって体制イデオロギーがもっとはっきりと前面に押し出されているわけですが、近代経済学の方は経済そのものの原理とか、経済の本質とかを扱うことが考えられていて(本質というのは重要なものを知るという意味で、そういう解明をするということはそれで結構なんですが)、どうしても現実の体制を合理化するという意味で、そこに保守的な体制イデオロギーをひそませているというふうになるのです。今日の資本主義対社会主義のイデオロジカルな対立というのは、いま申し上げたような形で残存しているのですが、問題はそういうイデオロジカルな対立が止むを得ないものか、それとも事実認識の不徹底から起こるかということにあります。

  
  (4)

 そこで階級イデオロギーにせよ、経済体制のイデオロギーにせよ、およそ先入観的な観念をいだいて事実認識に接しようとする場合の観念がイデオロギーといわれるものです。そのような先入観的な観念は多くの場合事実認識を歪めるものです。

 わかりやすい例で言いますと、例えばマルクスはアダム・スミスらの古典派経済学が、資本主義の体制を永久不変なものと見ることを取り上げて、それはブルジョワ階級の意識から質本主義の持続を望む先入観にまって事実認識をゆがめて見ているのだと、言うのです。これをイデオロジカル・バイヤスと申します。イデオロギーをいだいて現実をゆがめて見るというのです。そういうふうにマルクスはアダム・スミス一派を批判するわけです。資本主義という体制は歴史的に生まれて滅んでいくものであるのに、それを永久不変と見るのはイデオロジカル・バイアスだと、こう言うわけです。

 但し、古典派は資本主義の体制を永久不変と見たかどうか。むしろ、古典派では、自由市場のメカニズムを資本主義のなかに認め、それによって現実の資本主義は比較的優れた体制なのだと見たという方が正しいかもしれません。永久不変だというよりは、現実は変化するかもしらないけれども、いまの状態はかなり優れた体制のものだというふうに見たという方が正しいかもしれません。そうした場合にも、もし古典派が個人の自由活動に任せれば謂和のある秩序が生まれるのだと考えていたとすれば、(アダム・スミスは確かにそう考えていたようですが)そうなりますと、果たして現実に調和ある秩序が生まれているかどうかという事実認識を離れて、自由経済が望ましいという先入観を
いだくことになりますから、やはり一種のイデオロジカル・バイアスを犯していると見る、へきです。資本主義にはそぅいう面がありますけれども、実の資本主義そのものは、やはりいろいろ利害の衝突があり不調和があって、それらをどうしたら防げるか防げないかという問題が起こるはずなのです。そういう問題を無視して万事うまくいくと解するとすれば、それはイデオロギーの先入観によって事実認識を歪めたものと言わざるを得ないわけです。

 ところでマルクス自身は-体どうか。マルクスによると資本主義は必然に崩壊し、それに代わって社会主義もしくは共産主義が必然にあらわれるというのです。すなわち、資本主義は資本が労働を搾取して、労働による生産物を労働が消費できないという矛盾があり、その矛盾のために資本主義が必然に崩壊するのだというのです。そういうマルクスの認識が正しいかどうかということになりますと、これについてはいろんなことを説明しなければなりませんけれども、われわれはソ連や最近の中国を見まして、それらの国が社会主義もしくは共産主義に移りましたのは政治的な原因によるものであって、マルクスのいうように経済的に資本主義が成熟して社会主義に移ったというふうにはどうも認めがたいのであります。もしマルクスが必然崩壊論を強調することによって、それがプロレタリア階級の利益のためであり、あるいはプロレタリア階級の希望によるといたしますと、これまた一種のイデオロジカル・バイアスと言わざるを得ないわけです。古典派のイデオロジカル・バイアスを指摘したマルクス自身が別のイデオロジカル・バイアスを犯していることになるのであります。

 以上、古典派の自然調和論とマルクスの必然崩壊論を取りあげ、これらは事実認識をゆがめている例として示したわけですが、それらは確かに階級イデオロギーによる事実認識のゆがみの極めて単純な例でございます。今日では階級イデオロギーよりもむしろ体制イデオロギーが問題です。それに自然調和論とか必然崩壊論というものも今日ではいろいろ修正され変形されており、歴史的に変化するものを永久不変と見るような単純な考え方はほとんどだれもや
っていないのであります。しかし今日もイデオロジカル・バイアスは依然としてあります。つまり理論的に一局面を抽象したにすぎないのを、すぐに現実そのものがそうなのだと解したり、理論的に同質化を仮定したに過ぎないのをすぐに異質的な現実に適応するところに、私に言わせますと、やはりイデオロジカル・バイアスが生じているのです。
とくに市場経済を調節的なものと見、あるいは自然に均衡が成立するように見るのがそれであり、また経済行為を何らかの意味で合理的に見るのがそれであって、たしかにそういう面はあるのですが、それが現実全体がそうだというふうに解釈することになりますと、そこにはイデオロジカル・バイアスというものが生まれてくるのです。それに対しましてはわれわれは事実認識という立場からあくまで批判をしなければならないのであります。


   (5)

 そこでさようの問題である福祉国家というものを考えるのですが、私が何よりもまず申し上げたいのは、福祉国家というのは、階級イデオロギーはもちろん、体制イデオロギーとして主張しているのではないということです。もちろん福祉国家というものを第三のイデオロギーというふうに主張される場合もございます。むしろその方が普通かもしれません。資本主義の体制とも社会主義の体制とも違う第三の体制、完全雇用や社会保障の充実を目指す体制を考えるという主張があることは確かです。しかし、私に言わせますと、理想的な体制を描き出すというのは無理ですし、いまわれわれは何が理想かを考えようというのではないのです。資本主義を万能薬と見ることもできないし、社会主義を万能薬と見ることもできないと同様に、それに代わって第三の万能薬的な体制があるとは私には思えないのです。
要するに体制イデオロギーとして事実認識を離れて先入観的に何か理想像を描いて、これが福祉国家だというふうに考える考え方には、私はどうも賛成しかねるのです。

 確かにわれわれの頭では自由圏と共産圏との対立を浮かべております。しかし自由圏の国々と申しても、自由の理念を尊ぶことは尊ぶけれども、決して自由社会とか自由競争とかが完全な形で行われると考えることはできないのです。そこには現実的に見ますと、国家の干渉もあれば国家の計画・政策の必要もあります。国の行う経済計画とか、福祉政策とかいうものが曲がりなりにも行われているのにもかかわらず、どうも人々は言葉の上では計画や政策を認めようとせず、現実は自由経済だと考え、自由経済を強調したがっております。とくに経済学者の多くがそうです。
それは自由という理念が人々の心の中に非常に根深いからですが、(自由を尊ぶことは結構なのですが)、ただその場合に、とかく自由活動に任せればおのずから調和が生ずるのだという古典派的な自然調和や新古典派的な自然均衡というような考え方を依然として信じているのであって、われわれはそのことが国の計画や政策を許している現実の態度と違うところの誤った認識にもとづくものと見るのです。

 フランス革命で自由平等というスローガンが採用されたのですが、それ以来自由平等という信念が受け継がれてまいりましたが、しかし個人の自由活動に任せればおのずから社会の調和ある秩序が生み出されたかどうか。自由はおのずから平等をもたらしたかどうか。自由はむしろ不平等とか格差とか.をもたらし、そのために自由の規制(レグユレーション)が必要なのです。そして、そういう反省は資本主義対社会主義という長い間の論争から、次第にわれわれが学び考えてきたことなのです。簡単に自由平等を一つのまとまった理念とすることはできなくなって、自由と平等との相互の制約が考えられるようになったのです。福祉国家の要求というものはそこから生まれてきたのであって、そういう現実の認識から出発すべきであります。自由がおのずから平等をもたらすというふうには現実認識として考えられず、個人の自由はむしろ不平等をもたらし、そのために自由を規制し、平等化の政策が必要になるのです。つ
まり自由と平等とは基本人権として一つに結び付くようなものではなくて、自由と平等との間には対立あるいは矛盾があって互いに制約し合う関係にあるのです。つまり、自由が行き過ぎますと平等が必要になり、平等が行き過ぎますと自由が必要になる。両者は状況に応じてお互いに制約し合っている。こういうふうに考えるべきなのです。合理的な人間を想定し、そこに基本的な人権、人間の基本的な権利というようなものを抽象的に考えるべきではなくて、現実には特殊化された何ものかについての何びとかの自由なり平等なりが問題であり、状況に応じて自由も行き過ぎることがあるし、平等も行き過ぎることがあるのです。それをどう調整するかがわれわれの直面する問題なのであります。

 そこで単にいわば理想主義的に、何か第三のイデオロギーとして理想像というものを描くのではなくて、もっと現実主義的あるいは経験主義的に考える、それが今日の福祉国家を考える場合に必要だと私は見るのです。われわれは資本主義対社会主義のイデオロジカルな長い間の論争をせっかく脱却しようというのでありますから、また再びイデオロジカルな考えを繰り返すということは避けなければならないのであって、そこに福祉国家の現実主義というものが考えられるのであります。

 いま白由と平等との関係を申し上げましたが、同じように、われわれは福祉国家を民主主義のもとで考える限り、そこに国の干渉と個人の責任との関係という問題が出てまいります。この場合にも国の干渉が行き過ぎますと個人の責任をもっと強調しなければならず、また個人の活動が行き過ぎますとそれを調整するために国の干渉が必要になるのです。国の責任と個人の責任。この頃の言葉で言うと国の政策と民間活力、そういうものの間にも本来矛盾したものがあるので、それをどう調整するかというのが現実問題なのです。それらの組合せについて理想的な組合せがあるとしてそれを追究しても決して回答は得られないと私には思えるのです。

 近頃、福祉の行き過ぎが言われています。確かにわれわれはそのことを認めなければならないのです。高度成長の波に乗って福祉の行き過ぎがあらわれたことはいろいろ確証があるのですから・それを是正するためには個人の責任個人のセルフヘルプというものを強調する必要があるのです。そうかといって国の干渉、国の政策は無駄だというふうにもってまいりますと、これはまた行き過ぎです。

 自由と平等との間、あるいは国の責任と個人の責任との間、それらはお互いに矛盾しながらしかも調整を求めなければならないのです。その時々の状況に応じてそれらの正しい組み合わせを形成・再形成していこうというのが、私に言わせますと福祉国家なり福祉社会なりの理解なのです。理想主義的ではなく現実主義的に福祉国家を理解したいのです。完全な優れた理想的体制を描くのではなく、自由と平等との組み合せを求めながら、それらを現実の状況に応じて絶えず形成・再形成していくものと理解したいのです。


     (6)

 そこで、私のねらいはそうなんですが、それをとくに「脱イデオロギー」というのについて、もうちょっと説明い
たしませんと恐らく反発が起こるのではないかと思います。

 福祉国家と申しますと、それは実は権力国家というのに対立するものであります。その意味では福祉国家は一つのイデオロギーであると言ってよいのです。またわれわれは防衛費の突出に不安を持っており、これに対してやはり福祉国家を育てなければならないと思っています。それはそういうイデオロギーがあるからです。これは価値判断と言ってもよければ信念と言ってもよいわけです。最近、貿易摩擦が問題になっており、これはいろんな要素が働いて複
雑な問題ですけれども、戦前にもダンピングということがいわれ、戦後ではエコノミック・アニマルということを言われて、日本に風当りが強かったわけですが、どうも今日の貿易摩擦の問題はその系統を引いたものがあるのだと思うのです。もちろん日本から言いますと、経済競争という点から確かに強みがあるわけなのですけれども、しかし経済第一主義になり過ぎて、生活とか福祉とか、そういうものを軽く見ている点があるのです。ヨーロッパの国々と比較しますと一段後れているので、その点は非難されても率直に受けとめていくべきものではないかと思うのです。そういう考え方はたしかに私の価値判断であり、私の信念であります。これは疑うことはできないわけですが、ここで問題は価値判断とか信念というものについて感情的に訴える場合と知性に訴える場合と二つあるんです。

 感情的に訴える場合は、結局人々が感情の上で共鳴してくれるかくれないかというふうな訴え方をするわけで、共鳴者が多数になればいいということをねらってス口ーガンを掲げたり宣伝をするのです。しかし、知識に訴える場合は、価値判断そのものよりはそれの現実の必要とか可能について事実認識を争うということになるのです。事実についての認識というのは真であるとか偽であるとか、そういうことが問われるのでして、共鳴者が多数か少数かは関係ないわけなんです。多数工作というのは感情を通して共鳴者を多くするということであって、政治の世界では必要ですが、知識に訴えることによって真偽を争うのとは区別があるのです。もちろん両者は常に絡んでおりますから現実には多く混合されていますけれども、性質としては両者は載然と区別すべきだと思うのです。そしてわれわれは、感情に訴えることによって、先ほど申しましたようなイデオロジカル・バイアスが生まれた場合には、とくに批判をしなければならないのです。イデオロジカル・バイアスがない場合はとにかくとして、通常はとかくイデオロジカル・バイアスがあって事実認識がゆがめられますから、それに対してはあくまで批判をし、是正をしなければならないのであります。これが「脱イデオロギー」の第一の意義です。

 ところで、イデオロジカル・バイアスを伴うイデオロギーは排するとして、そうでないイデオロギーそのものはどうか。先ほど申しました自由とか平等とかについて、例えば自然調和の考えは事実認識としては排されなければならないんですが、そこに含まれている自由の理念そのものは自然調和を離れてわれわれは受け入れなければならないのです。必然崩壊論というものは排するのですけれども、社会主義のなかの平等化あるいは人間性の尊重というものはやはり受け入れなければならないのです。

 そこで、その場合に自由とか平等とかいうものを人間の基本権とか説明しても、これは感情に訴えるだけであって知識としては内容的に何も加えていないのです。むしろ知的に大切なことは、自由というものが妨げられている故に自由を要求するということです。平等というものが妨げられている故に平等を要求するのです。つまり現実に見られるところは、特殊化された形で自由が妨げられたり、平等が妨げられているという状況なのです。自由とは何ぞやという定義を考えても、言葉だけがから廻りするだけです。状況に応じて特殊化しないと内容的な議論はできません。
むしろわれわれは現実の貧困、疾病、公害、失業など・そういうものを通して、自由がどう妨げられ・平等がどう妨げられているかという現実を認識してそこから出発することが必要なのです。ある人の言葉なのですが、「幸福とは何ぞやということを幾ら考えても解決はできない。しかし、不幸の現実というものはかなり内容化されて確定できる」のです。われわれはある特殊化された状況のもとに生まれたのであって、何もないところに生まれたのではありません。われわれが出発をしなければならないのは現実の自由が妨げられている状態であり、平等が妨げられている状態なのです。その点が脱イデオロギーという立場をとる第二の重要な点であります。

 もう一つ第三の点ですが、自由とか平等とかいうものについて知識のうえで原理・原則を考え、それにもとづいて体系的な理論を構成しようという場合無意識にイデオロジカル・バイアスを犯すことがございます。これは経済学者
が好んでやるやり方ですが。そこでは市場経済とか、自由経済とかを考えることによって自由主義とか功利主義と呼ばれる政策的理想像が描かれるのです。最近ではそれがいろいろ修正されまして、平等を少しばかり加味した自由主義の体系を考えるという考え方もございます。理論的に原理・原刺を追究するということは結構なんですが、理論分析というのは、ある限定された局面を抽象化し、そのかぎり明噺な解明を行なうものであるのに、現実の状況いかんにかかわらず、一般に妥当する原理・原則を考えようとするのです。実際は、現実の状況に応じて原理なり原則なりは適用されるものでなければならないのであって、行き過ぎもあり不足もあるのであります。例えば、ギリシャのアテネが滅んだのは自由が行き過ぎたためであり、自由が行き過ぎるとわがまま勝手になって統制・規制がきかなくなってしまうのです。それからスパルタが滅んだのは、平等あるいは自由の規制が行き過ぎたためだと言われ、平等が行き過ぎますと硬直的・画一的になると考えられるのです。原理・原則を追究するのは結構ですが、現実にはいろいろな程度で適用されているのですから、行き過ぎもあれば不足もあるというふうに考えるべきなのです。これが脱イデオロギーの第三の重要な論点だと私は考えております。

 そこで結論的に申しますと、福祉国家を考えます場合に、そこにはやっぱり価値判断があり信念があるので、それを私は否定いたしません。しかし、われわれはそういう信念・価値判断を感情に訴えてデモのスローガンのようなものを打ち出すのではないのです。またわれわれは理論的に原理・原則を追究するということを否定するわけではございませんけれども、理論というのはある限界内である事柄を解明するということでありますから、その限定的・一面的なものをすぐに全面的に現実がそうだというふうに考えてはならないのです。ケインジアンとか、マネタリズムとかがそれぞれある局面について分析したものを、それぞれ他の面にも適用できるとして政策と直ちに結びつける点にはわれわれは反対しなければならないのです。政策として大切なことは、われわれが置かれている現実の複雑な状
況というものに応じて、いろんな原則をいろんな範囲や程度で適用するということにあるのです。福祉国家なり福祉社会なりは、自由と平等との組み合せを目指していますが、そこに理想的な組み合せを描くのではなく、状況に応じて自由と平等とが互いに制約し合う関係を考えるのです先ほどから申しておりますように、日本の場合経済第一主義というものになりやすい現実の傾向に対して福祉国家を強調する必要があると私は思いますが、大切なことは、そのことは長い間の資本主義対社会主義のイデオロジカルな論争を経て生まれたものであり、そのため自由と平等との組み合せが要求されると同時に、従来のイデオロギーにもとづく理想主義を脱して現実主義的にその正しい組み合せの育成を模索しているものと、私は解するのです。

 ごく大ざっぱに私の考え方を申し上げたのでいろいろ御批判もあろうと思いますけれども、大体の趣旨はそういうことでございます。

   追記 ―
 経済学に関心をもっている読者のために

 最近私は純理派よりも制度派に傾いている。純理派の経済学が次第に繊細化され、また一面化されるのに対して、私は制度派が現実の思想的動向と取り組み、具体的な政策問題を追究していることに共鳴を感ずる。日本の経済学の主流は純理派的であって、制度派に注目するのは少数である。
 (制度派経済学については
  W.Samuels(ed.).The Methodology of Economic Thought,Critical Papers from the Journal of Economiic Thoughts,1980
  の諸論文参照。)

これまでの経済理論の諸成果を私は軽視するのではない。理論的分析のそれぞれの局面の解明はそれ自体意義があり、われわれは無用の対立抗争を避け、現実の状況に応じてそれら理論的分析を利用すればよい。

 ただ、経済理論は経済の合理性・機能性に閉じこもり過ぎている。大切なことは現実の経済問題を考えることであり、経済問題は単に経済の合理性・機能性によって解決できるものではない。経済問題は、経済的諸要因の他に社会的諸要因によっても影響を受けている。

 われわれは経済問題について、競争・独占・干渉・計画などを考慮しなければならず、さらにその奥に権力・感情・情報などのからみ合いを探究しなければならず、さらに進んで自由と統制、維持と変化などの諸関係を解明しなければならない。こうして、経済理論とならんで、もしくは経済理論を超えて、制度派のいう社会分析が必要になる。
この点について制度派の一部の人はパレートの「一般社会学」を改めて見直そうとしている。(最近六〇年ぶりに英訳されたパレート(実はその弟子の Farina )のCompendium of  General Sociology,1980のJ.Lopreatoの序文を見よ。なおW.Samuels,Pareto on Policy,1974参照。)

 経済理論の成果および社会の構造・変化の解明などを現実の政策問題に適用するについては、さらに二つの点でパレートの改変が必要になる。一つは、パレー卜は似而非知識による合理化(「派生」)を強調したが、われわれは先入観念にもとづく事実認識の歪みを批判是正する問題を考えなければならない。もう一つは、パレートは先入観念を心理的な潜在意識(残基) に求めたが、われわれは幾つかの価値理念を思想的動向として汲みとり、それら価値理念の必要と可能とを明かにしなければならない。われわれは思想なき単なる分析には反対するが、分析を欠く単なる理想の提唱にも反対する。(価値理念の科学的なとり扱いについては G.Myrdarl,Value in Social Theory,1958に学ぶところが多い。)


   質 疑 応 答

   先生どうもありがとうございました。
 福祉国家のあり方、考え方というものについて大変深い造詣をお示しいただきまして本当にありがとうございました。

 一つお伺いしたいと思いますのは、実はこのごろ中国で市場主義を入れるということを盛んにやっております。私も実はあした中国に生産性のトップマネージメントでチームで行くわけなのですが、これ四回目になるんです。

 第一回目に行きましたとき、鄧小平さんが出てきまして、中国はこれから社会主義とあなた方の市場主義をミックスして、縦糸と横糸にして世界で一番立派な国をつくるんだと、こういう大演説をわれわれにぶったわけなんです。
私どもは、果たしてわれわれの市場システムが持っているものを中国の経済が取り入れてどうなるんだろうか。社会主義というイデオロギーを恐らく食いつぶすんじゃないかというふうに思っていた。しかし向こうが求めるものですから、一応イデオロギーというような議論にはわれわれは立ち入らない。生産性というシステムをトランスファーということだけ考えてやりましょうということで、四回目になるわけなんですけども、現実には脱イデオロギーという方向で先生のお話しのようにだんだん進んでいて、われわれの現実とか経験とか、それに基づいた手法というものを取り入れて大変急ピッチでその方向に向かっているように思うんですけれども、これはどんなものなんでしょうか、やはり社会主義というからにはある程度プレーキがかかってくるというか、そういうことになるんでしょうか。それ
とも現実の示す方行に従って最も有効な手段が社会主義というものに沿っているんだというようなイデオロー修正みたいなことになるのでございましょうか。その辺、私どもしょっちゅう疑問に思いながら行っておりますのですが、先生のお示しをいただければありがたいと思います。  

 山田 いまの問題でございますが、実は私も昨年九月一週間ぐらいですが中国の南の方へ行って参りました。深圳、広州、桂林、半分は観光旅行ですが、あと半分はいわゆる近代化の問題を探るという目的です。深圳大学の方や労働組合の方と話をしたりしたわけですが、もちろん1週間の旅行で大それたことは言えませんけれども、私の感じでは、社会主義の近代化を有意義と思っています。もちろん社会主義と近代化というのは矛盾があるわけです。しかし矛盾があるからいけないとはいえません。中国の人々は何かそこにまとまったイデオロギーを理想主義的に考えようとしているようですが、私は現実政策として、社会主義としていいところを生かして、そして近代化によって経済成長を進めるということは、矛盾はしているんですけれども、われわれは政策的に闘うべき十分意義ある問題だと思うんです。そんなことを言えば同じことは福祉国家がそうなんです。福祉国家は、資本主義を根底に持っていますから、そこに福祉政策を導入する場合、ただいま申しましたように自由と平等とはやはり矛盾しているものです。しかし現実の政策というものは一般に矛盾したものと闘うものなんで、それがうまくできるかどうかやってみないとわからないのです。中国は中国で、それから日本は日本で同じように二つの矛盾したものを何とか調整していこうとしているのです。それには悪いところを克服していいところを伸ばそうとしているのであって、そのねらいそのものはそれで意義をもっていると思います。ただ、それを強いて何かまとまったイデオロギーとして宣伝することを、私はやはり反対したいのです。優れた体制とか、何にでも利く万能薬とかいうようなものを考える素朴な考え方は捨てなければならないのです。現実は絶えず試行錯誤的に闘っていかなければならないのです。

  先生のお話しを聞いてみますと、資本主義のいいところを取り、現実の自分らの悪いところを捨てる。社会主義のいいところを取り現実の日本の悪いところを捨てる。福祉国家、行き過ぎの悪いところがあります。それを捨てて最適主義であって、現在の現実的な日本がより完全な社会へ進めていこうと、そういうために経験的な経済原則を現実に、そのときそのときに当てはめて少しでも悪いところを除き、いいところへ伸ばそうと、そういうより完全主義を求める。先生はそういう主義じゃないんでしょうか。

 山田 そう言っても結構ですが、正確にはベストを求めるんではなくてベターを求める。こう言ってよいと思います。とかく理想主義的にベストなものを求めようとしますが、それは私は反対なんです。現実主義的、経験主義的に言うと、資本主義の悪いところを棄て、社会主義の悪いところを棄てるのがねらいなのです。よいところよりも悪いところのほうが探し易いのです。ですから福祉国家などといわずに現実政策と言ったって構わないのです。

  実は先生から十冊この本のご寄贈を受けまして、この会でお分けしたいのですが、先生の御希望で葉書きでいいから、よかったとか悪かったとか是非書いてくれということでございます。

 山田 ちょっと補説を加わえさせていただきますが、この書物は『続寒蝉』という変な名前が付いているんです。「寒蝉古木を抱いて鳴き尽くして頭をめぐらさず」という詩があるのて そこから取ったわけです。要するに寒い時節の死ぬ間際の蝉の声という意味でございます。(笑) リタイヤーした老学者の言といったわけでございます。この書物の中に二つばかりは前にこの会でお話ししたものも書き直して含まれています。

 そういう意味で本来ならば皆様に差し上げて御批判を仰ぎたいと思うのですけれども、何しろ部数が少ないものですから十部だけに限って差し上げたいのです。リタイヤーした老いぼれの言葉ですから気軽に読んでいただきたいのですが、何かやはり現役の経済学にちょっと飽き足らないところがあるので、その批判も含んでいます。

   日本の経済学の現状について先生のご見解を……‥。

 山田 現状の経済学となると、これはなかなかむずかしい問題で一概には言えないんですが、ただ、きょうお話ししたところに引っかけて申しますと、経済学は理論的に非常に進んでいるのです。ただ少々細くなり過ぎてそこに分裂が目立って現われてきました。経済学の分析の面がわれわれの教わった時代よりもはるかに進んでいることは事実なのです。ただ、その場合に大切なのは、理論というのは抽象化によって現実のある一面を強調して、そこだけをはっきりさせようとしているのです。そのために、ケインズはケインズ、フリードマンはフリードマン、あるいはハイエックはハイエック。そういう分裂があらわれてきているわけです。そこで問題は一面的なものをすぐに全面的なものにするというところにあり、それがとかくバラバラになって経済学に不信の念を抱かせる結果になるのです。現実というのは複雑しているんですから、理論的抽象的につくり上げた体系を組み合わせながら適用を考えていくということが必要なのです。

   先生の書物の中にもランゲの話が出てまいります。一カ月ほど前に、私のところで篠原さんに講義をしていただいたときに中国問題が出たんです。そのとき篠原さんが、私は学生のときにオスカー・ランゲの勉強をさせられました。オスカー・ランゲは社会的市場経済という言葉を使っていたが、社会主義ということと市場経済ということは矛盾しているのであり、当時学生であった篠原先生は、そんな矛盾した概念を二つ持ち出しておかしいじゃないかと思っていたというのです。しかし、この年になっていろいろと経験して考えてみると、これは面白い、非常に味わいのあることだ、矛盾しているけれどもそれがどういうふうに練り上げられていくのか、それをいまになって考え直していると、篠原先生のお話でした。

 山田 ランゲというのは一九三六年ですからよほど前ですが、そのときに「社会主義の経済理論」という論文を書きまして、それを昭和十七年の私の書物に紹介したことがあります。社会主義に市場メカニズムを導入したものです。
ただ、理論家ですから非常にきれいに社会主義の経済理論を体系化したもので、実際の社会主義では独裁的な物動計画と価格機構との間にやはり矛盾があり、その矛盾しているものを何とか調整をするんだというところに問題を認めなければなりません。(『続寒蝉』第二部(2)参照)

  先生はミユルダールを大変御研究になっていらっしゃいます。あの「福祉国家を超えて』。あそこら辺はどうなっていますか。

 山田 彼のいいところは、福祉国家を目指しながら、その行き過ぎを警戒しているところにあります。例えば国に全部おんぶするんだという考え方の福祉国家ではだめだと言い、もっと本当の意味の民主主義というものを育て、自助とか自力とかを基本にしているのです。また彼は福祉国家が閉鎖的にナショナリズムになり過ぎることも警戒し、世界的規模の福祉世界を考えようとしています。日本で一部の人々が考えているような何もかも国家がやるんだという福祉国家とはおよそ違うのです。それはイギリスのベヴァリッジもそうなのです、彼は「自由社会」における完全雇用および社会保障を考えようとしているのです。ミユルダールと同様、余りイデオロジカルに考えていないのです。
そしてベヴァリッジよりも数年前に福田先生の主張も非常に現実主義的なものです。(「続寒蝉」第一部(4)に福田先生、5にベバリッジや、ミュルダールについて論及あり。)
                                        (昭和六〇年四月十八日収録)