[橋問叢書 第四号] 一橋の学問を考える会
一橋と福田経済学 一橋大学名誉教授 山田雄三
―実学的「近経」の系譜―
1 学風の問題
きようお話ししたい問題は「一橋と福田経済学」ということでございますが、その前に一橋の学風という問題につきまして私の考えを前書きとして申し上げておきたいと思います。確かに一橋は一橋らしい学風がございます。それを考えることは大いに意義があることですが、ただそういう学風という問題の一つ奥に、幾人かの個人個人の先生方が優れた業績を残されて、学界の指導的な役割を果してきたということが大事だと思います。それが結果として、ある一橋らしい学風を生んできたと見なければならないのです。一人、一人の先生方は、大げさに言えば血みどろになって、水準の高い学問を一橋に植えつけようという努力をされたわけでございます。決してその先生方の間で、一橋の学風をこういうふうにしようというような相談があったわけではなく、おのずから学風と呼ばれるものが生まれて出てくるのです。
例えば、福田先生は左右田先生のアプリオリ的な文化価値という考えが、経験科学の立場と相容れないものと批判したし、また上田(貞)先生の新自由主義も浅薄だといって攻撃しており、論争というほどではないかもしれませんが、いろいろ議論をたたかわしたのですから、そういう点では意見や立場が違っているのです。しかし、左右田先生も上田先生も、それぞれ立派な仕事をされ、一橋の学風の形成に貢献されたのです。
学風は結果であって、その奥に個人個人としての業績をたどってみることが必要ではないかと思います。
特にその点はレジメの(2)に書いたように、将来の一橋の学問をどうするかを考えるときに大いに必要だと思います。
ということは、これからの1橋の学問を考える場合、結局優れた学者があらわれることが大事なのであり、伝統を
受けつぐということもあるかも知りませんが、また伝統を打ち破って進むということもあるのです。ことに経済学の領域で申しますと、経済学というものが非常に専門化されたと同時に、他方では非常に教科書的に画一化され、その間に独創性を出すことは、われわれの時代よりも非常にむずかしくなっているのです。しかもその間に大学もたくさんできましたし、学者も非常に多いわけですから、一歩でも学界をリードするような独創的な学者が輩出することは容易でないのです。しかしそれが一橋の学問を進めるゆえんになるのでして、われわれはそれをいまの現職の方々に期待するのです。要するに、こういう意味で学風ということの以前に個人の業績というものを問題にしたいと思うのですが、福田経済学についても、福田先生個人の業績の学界全体に対する意義を考え、そのことが一橋の学風にどういう影響をもったかをお話したいと思うのです。
2 福田徳三先生のこと
そこで福田先生のことになるのですが、きようお話しいたしますのも、福田先生が当時貿易や簿記などが中心だった高商教育のなかから、経済学に新しく取り組み、しかも当時の学界をリードするほどの水準の高い経済学を体系化した業績についてお話ししたいと思うのです。
福田先生は明治七年(一八七四年)にお生まれになって、昭和五年(一九三〇年)に亡くなられたのです。昨年がちょうど先生の没後五十年ということになっているのです。福田先生と申しますと、年配の方は、京都の河上肇先生との論争、すなわち福田・河上論争ということを思い出されると思います。ただ河上先生の方はいまだに雑誌だとか新聞にもいろいろとりあげられていることが多く、名前を知られているという点においては残念ながら福田先生は河上先生に及びません。ことに若い方からは福田先生の名は忘れられかけております。私どもの責任だと思うのですが。
一昨年になりますが、河上先生の生誕百年があったのですが、そのときは新聞だとか雑誌に河上先生のいろいろな追憶とか、批評とかいうものが載っておりました。福田先生は河上先生より五年先輩で、昭和四十九年に生誕百年というので一橋講堂で講演会をやり、それから如水会のお世話を願って追悼会もやりまして、なかなか盛大な会であったのですが、残念ながら新聞だとか雑誌では、一、二の例外を除いて、それほど取り扱われなかったのです。大正時代から昭和初期にかけて、知名度ということから申しますと、もちろんその当時福田先生をだれ一人として知らない人がなかったと思うのですが、五十数年たったいまは、どうも先生の仕事が意外に忘れられているのです。
昨年、ちょうど先生の没後五十年ということで、何か先生の業績を普及するような企てをやろうではないかということで、この間亡くなられた中山伊知郎、板垣与一、それから私と三人で集まりまして、福田先生の優れた論文を編集して出そうじゃないかということになりました。
私は『厚生経済』というタイトルで先生の理論的な方面の優れた論文を集めることを分担しました。板垣与一君は『生存権の社会政策』という題で、先生の社会政策の方面を分担しました。もっともこれは数年前に赤松要先生が編集したものがあり、それを板垣君が再編集をやったのです。中山伊知郎先生は、福田先生の初期のドイツ語で書かれた『日本経済史論』という、非常に簡潔に日本の経済史をサーベイした著書があって、それは後に福田先生ご自身が日本語に訳されたのがあるのですが、それを中心に編集をすることになったのです。
そういう相談をしてから一月ぐらいして中山先生がご存知の通り病気で倒れられたのです。しかし先生はこの計画には熱心で、発行時期が後れても必ずやるのだということで、いろいろ準備をされていたのですが、その後先生は入院、退院を幾度か繰り返されて、ついに昨年の四月に亡くなったわけです。したがって、私のものと板垣与一君のものと二冊だけが講談社の学術文庫として五十五年六月から八月にかけて出たのであります。三冊そろって出ると、もう少し反響があったのではないかと思うのですが、非常に残念です。
そういうことで、われわれが企てたそういう計画も、実は福田先生の学説をできるだけ多くの方に知っていただこうという趣旨でやったのでありますが、どうも先生につきましては、学説よりは、どっちかというと伝説のようなものが多く伝わっているのです。
たとえば、福田先生は江戸っ子でけんかっ早いとか、高等商業のときに松崎校長に椅子を投げつけてそれで学校をやめざるを得なかったとかというような、そういう伝説が伝わっています。けんかっ早いことは確かなようですが、先生に直接お聞きした話では、自分はこぶしを挙げるけれども、こぶしの当たったのは奥さんだけだということです。
先生は非常に小柄で腕力は余りないはうですから、恐らくその直話が当たっていると思います。河上先生と論争したというのも、けんかと結びつけて考えられ易いのですが、決してそうではなく、全く学問的な論争をやったのです。
奥さんのお話では、京都へ行くたびに河上先生は福田先生を見送りにたびたび駅まで来られたということでありました。さらに昭和三年河上先生が共産党の事件で京都大学を追われたのですが、そのときにいち早く福田先生は「朝日新聞」に「笛吹かざるに踊る」という題で長い連載の論文を書きました。何も確たる根拠もないのに学者を追い出すのは不都合だと、文部省並びに大学当局を難語したのです。もし河上学説が不都合だというならば並行講座を開いたらよいとも言っておられます。つまりマルクス経済学と近代経済学というふうに並行講座を開けというのですが、すでに一橋では大塚先生と福田先生の並行が始まっていたことを頭に置かれたと思います。学説が気に入らないからといって追っ払うのは学問の世界では許されないというのです。この「笛吹かざるに踊る」という論文は非常に名文でかなり長いもので、先生の最後の著作『厚生経済研究』 のなかに載っています。
そういうことで、先生がけんかっ早いということは事実だったかもしれませんけれども、そういうことばかり伝わって、先生の人柄を誤解する向きもあるのです。人柄の問題はとにかく、先生が経済学について学問としてどういう仕事をやったかということは、どうも余り伝わっていないし、況んや正しく評価されていないのです。これは私どもの責任だとも思うのですが、非常に残念なことです。
そこでここでは、伝説はとにかくとして、もっぱら先生の学説の真髄のようなものを申し上げたいのです。ただ福田先生の経済学と申しますと非常に幅が広いものです。大正十四年にご自分で『福田徳三経済学全集』という尤大な全集を出しましたが、それをご覧になりますと理論もあれば政策もあれば歴史もある、時事問題もあるというように非常に幅が広いわけです。経済学説を論ずる場合、トマス・アクィナスが出てくる、アリストテレスが出てくる。そうかと思うと日本の三浦梅園の貨幣論も取り扱っているという具合で、幅が非常に広い。それから、経済史についても西洋、東洋にまたがっている。「韓国の経済組織」という論文もあります。とにかく非常に幅の広いものですから、われわれなんか到底及びもつかない。私にはそういうものを取り上げて論評するという資格は全然ありません。
本日お話しいたしますのは、たまたま私が編集しました文庫版の『厚生経済』を中心に、したがって先生の経済学の一端を申し上げるにとどまるのです。
ところで先生が亡くなったのは五十五歳と六カ月ですから、いまから考えると非常にお若いわけです。私なんかは先生の亡くなった年をはるかに越えてしまっているのですが、いまごろようやく、先生がこういうことを考えられていたんじゃないかというようなことが薄々理解でき始めたというようなことで、その点をきよう申し上げてみたいと思うのです。ただ不思議なもので、私の頭の中にある先生はいつでも非常に年を取ったような先生が考えられる。これはどういう心理だか知りませんが、とても五十五歳の姿は考えられない。やはり先生の前に出るとおどおどして恐れを感ずるような遥かに年上の先生が彷彿として頭にあるわけです。先生は近眼で非常に厚い眼鏡をかけておられ、頭の毛もわりあい薄く、かなり年配に見えたことはたしかですけれども、いずれにしても先生と私との年齢の隔りは、幾年経っても縮まないように考えられるのは、不思議です。
そこで私の編集しました文庫版『厚生経済』の話に移ります。この本の題名は福田先生の最終作『厚生経済研究』のタイトルをとったのですが、その最終作からは二つの論文を選び、そしてそれ以前の論文を三つばかり選び、全部で五っの論文を集めたのが文庫版の『厚生経済』です。
先生は大正十四年に先程申しました『福田徳三経済学全集』として、それまでの著書、論文を全部集めて刊行されました。その先生の意図は、ちょうど日本学士院から国際会議に出席するのを機会に、ヨーロッパへ出かけることになり、ひとつ自分の学問の総決算をやりたいということにあったようです。
それで帰ってから一大飛躍を試みようとされたわけで、このことは先生の最終作『厚生経済研究』の序文をご覧になりますと明らかに読みとることができます。自分は昔から厚生経済ということに関心を持っているが、考えれば考るほど、そこにひとつ自分の進路を見出し、独自な経済学の体系をつくるという要求にかられる。こういうことが序文に書かれているのです。とくにイギリスでいろんな学者に会い、いろいろ議論しているうちに、やはり今日の経済学を一歩前進させるためには厚生経済ということにとり組むべきだということを知ったとも言われているのです。
ここで厚生経済という場合の厚生は英語で言えばウエルフエアですけれども、福祉といってもよろしい。つまり先生は福祉経済とか厚生経済とかを考えるのですが、あるいは福祉国家論という方が先生の立場を示すにはいいかもしれません。ただし先生は福祉国家論という言葉は使っておりません。
私がとくに福祉国家論という言葉を使うのは、資本主義とも社会主義とも違う立場を考えたいからです。福祉国家という語はもちろん戦前からあるわけですが、戦前はそんなに一般的ではありません。福祉国家ということの歴史を申し上げますと、古く一九一〇年前後にイギリスの自由党が自由ということを根底にしながら福祉政策をやらなければいけないというリベラル・リフォームを唱え、養老年金などがつくられたのですが、その辺から福祉国家という考えが出てきたと言われております。あるいはもうちょっと後の労働党の「新しい社会秩序」ニュー・ソーシャル・オーダーという綱領から発したとも言われております。さらに遥かにさかのぼって、ドイツのビスマルクの社会政策に福祉国家の発想があるとも言われております。いずれにせよ、福祉国家というのは実は権力国家ということに対立した考えで、国は権力拡張のためではなく、国民の福祉のために税金を集め、税金を使うのだという考え方が福祉国家なのです。このごろ福祉国家ではなくて福祉社会という言葉がいいだろうといわれていますが、それは官僚主義を避けて自由社会を地盤とすることを強調するためと思われます。しかし基本的には、福祉国家でも福祉社会でもそんなに差はありません。いずれにせよ福田先生の厚生経済は福祉国家論に近いものと私は解しております。
3 福田経済学の要点
そこで福田先生の考えられている厚生経済というのは中身はどういうものかということをごくかいつまんで申し上げたい。私の編集した『厚生経済』には五つの論文が収められていますが、それらについて一々詳しく申し上げる時間もありませんので全体としてのポイントだけ申したいと思います。
たとえば先生はこういうことを言われます。通説では需要、供給の均衡によって賃金が決まるということを言うけれども、均衡賃金という考え方は労働者の生活を保障するわけではないのだ。つまり価格が需要、供給の関係で決まると同様に、賃金も労働市場で労働の需要と供給の関係で決まるというのが均衡賃金だが、それは需要と供給のバランスを考えているかもしれないけれども、そこで労働者の生活がどうなるかということは直接考えられず、雇用されたいという要求はあっても、これによって生活がどのように保障されるかということとは関係がない。そして、経済学の主流の考え方は市場価格が需要と供給の関係で決まるという価格中心の考え方が強いけれども、それでは生活その ものを考える厚生経済学にならないのだ。価格経済学を捨てて本当の厚生経済学にいたらなければいけないと先生はいうのです。
先生は厚生経済という言葉を、マーシャルやピグーから汲み取るのですけれども、しかしそのマーシャルやピグーはなお価格経済学のレベルにとどまっていると先生はいうのです。確かにマーシャルとかピグーでは賃金を考えます場合に、労働が生産力を生む限りそれを需要したり供給したりするのだという生産力説が展開されているのですが、それはやはり価格経済学であって本当の生活保障を考える厚生経済学になっていないのです。生活保障をするためには、生活向上によって生産力も高まるという労働者の要求を前面に出す必要があるし、あるいは国家が媒介になって労使関係を仲裁したり、さらに社会保障のようなものを導入するなどの諸問題を考えなければならないのです。それが福祉国家という考え方に結びつくわけですが、そういうようなことが先生の議論の一つのポイントなのです。
そして、同じような結論になりますけれども、失業をどう考え、どう対処するかという問題があります。先生によりますと、自由契約のたてまえをとる限り失業は避けることができないというのです。つまり自由契約のもとでは雇おうが雇うまいがそれは経営者、企業者が決めるわけですから、その限り失業というものは避けることができないのです。もし失業をなくそうとするならば、あるいは後のケインズが言う完全雇用を達成しようとするならば、自由契約を制限しなければならないのです。ところが英米の学者の多くは失業というものを景気変動とばかり結びつけて、経済の構造そのものの変化を考えていないのです。先生は、自由経済という構造を変革し、あるいは制限しなければ失業は救済できないといって、英、米、独の諸文献を挙げて批判をするのです。そこにも福祉国家の主張が見られるわけであって、福祉国家というのは完全雇用とか社会保障とかということと結びつく考え方だといってよいのです。
それからもう一つ福田先生の 「余剰」 (サープラス)という考え方を説明したいと思います。マルクスは経済の動き全体を単純再生産と拡大再生産とに分けて、再生産論というのを展開していますが、先生は経済の動きについて「維持」(メインテナンス)と、それ以上に拡大したり発展したりする「余剰」 (サープラス)を分けます。マルキシズムでは、やや別の意味合いで「剰余」という概念がありますが、先生はむしろ転倒して「余剰」という言葉を使います。そしてメンテナンスとサープラスという区別をいたします。さらに先生の特色は、サープラスに生産的なサープラスと、不生産的なサープラスを分けます。あるいは必要なサープラスと不必要なサープラスがあるということを言われるのです。そこに必要、不必要を分けるというのは、経済の発展を見るのに政策的な見方をするということです。つまり、政策を加味して、たとえば貯蓄という問題に必要な貯蓄と必要でない貯蓄があり、消費も必要な消費と必要でない消費があるということを論ずるのです。福祉国家論は政策的志向に結びつくのです。
いまマルクスの再生産論を手がかりにしたと言いましたけれども、それもたしかにありますが、先生の場合はどちらかというとむしろ国民所得という近代経済学的な意味のものを考えておられまして、消費・貯蓄・投資という所得支出が重視されています。説明はまだ十分でない点がうかがわれますけれども、明らかにそういうことをねらって展開をされているのです。そして、さらに必要とか不必要とかいうことを区別しようというところに、単に事実をつかむ理論ではなくて、政策を考慮して事実をつかむという志向があり、そこに厚生経済という政策論的経済学を考えようという意図が見られるのです。
ごく大づかみに先生の厚生経済のねらいどころを申し上げると、以上の通りです。もっといろんなことを言わなければいけないと思いますが、いまはこの程度にとどめ、少し別の角度から、先生の経済学の立場を明らかにしたいと 思います。つまり、一方でマルクス経済学に対してはどういう態度をとったか、また他方で近代経済学に対してはどういう態度をとったかということを申し上げることによって先生のねらいどころをもう少しはっきりさせたいと思います。
マルクス経済学に対して先生が批判する点は、資本主義が必然に崩壊し、社会主義または共産主義が必然に実現するのだという点です。そういう必然ということをマルクス経済学では強調するのですが、これは事実の裏づけのない議論にすぎないと先生は見るのです。理論というのはある条件のもとに必然関係を知ろうとするのでしょうけれども、しかし事実の裏づけがなければ経験科学にはならないのです。そういう点でマルクス経済学で言っている必然というのは経験的でないという点を攻撃するわけです。また資本主義というものの構造がだんだん変わってくるということは認めていいわけですけれども、それが必然に滅んで必然に共産主義になるという一義的・直線的な解釈をすることは、事実から離れた独断であるとして、先生は攻撃をされるのです。この点でマルクスの再生産論を批判する論文があり、後に先生は自己批判をされているのですが、その点は省かしていただきます。
ところでマルクス経済学から学ぶべきところもあると先生は見るのです。それはマルクスでは、物の関係よりは人間の関係を尊重していること、とくにニード(必要)に応じて物を分配しなければならないという「ニード原則」が主張されていること、これです。ただこの「ニード原則」はマルクス経済学では、共産主義になってからはじめて行われるのです。資本主義が滅んで共産主義になると、アビリティ(能力) に応じて生産をし、
ニード(必要) に応じて分配が行われるという状態が実現すると言うのです。けれども、福田先生によりますと、「ニード原則」という考え方はすでに現実の資本主義の構造変化の中に出てきている。社会保障という問題を考えたり、完全雇用という問題を考えたりするのがそれなのだというのです。つまりそれが福祉国家であって、それは遠い将来の問題ではなく、現実の変化の問題なのです。
他方、近代経済学との関係ですが、福田先生は近代経済学を日本へ導入した先駆者です。先生自身も、始めはドイツの歴史学派から出発したのですけれども、やがてマーシャルとかピグーとかいうイギリスの経済学を祖述されたのです。ところで先生自身は、古典派経済学および新古典派経済学の自然調和の考え方が気に入らなくなったのです自然にほっておけば調和が生まれるとか、あるいは市場は価格によって調節されるとか、需要、供給がうまくバランスがとれるようになるとか、そういう考え方は事実に反するとして、攻撃するわけです。これについては、文庫版『厚生経済』の第五の失業の論文のなかの一節に、自然均衡という考え方はとるべきではないという議論があるので、読んでいただきたい。この点は、後のケインズが新古典派を批評するのと全く軌を一にしているといってよろしい。
お断りしておきますが、ケインズの『一般理論』が出たのは、福田先生の最終の著書一九三〇年の六年後です。
有名な「セイの法則」の攻撃がケインズにあるのですけれども、まさにそれと同じことをここですでに言われております。つまり供給は自然に需要を生むとか、需要は自然に供給を生むとかいうのは、過不足の生ずる事実を重視しない考え方です。需要が不足すれば政策的に需要をふやさなければならないし、供給が不足すれば政策的に供給をふやさなければならず、そこに政策の介入が必要になるのです。とくに福祉国家論では、労働側の生活充実をはかるところに政策介入の必要が認められるのです。
そして結局先生は当時のイギリスの経済学が新古典派からだんだんと福祉国家論ないし福祉社会論に傾いてきたことに共鳴され、ホブソンとか、ベバリッジとか、あるいはキャナンとかそういう学者と一緒に進路を求めようとされ
たわけです。ことに先生が尊敬していたのはホブソンです。さっき言いました余剰(サープラス)について生産的と
不生産的とを分けるという考え方はホブソンによったものです。また「ニード原則」、つまりニード(必要)に応じての分配という原則が資本主義社会の中にも徐々に構造変化としてあらわれてきているという考え方も、実はホブソンにあるのです。ホブソンを非常に高く評価していることは『厚生経済』の第四論文をお読みになると明らかに出てきてます。
ベバリッジにつきましては、イギリスの社会保障計画を論じたいわゆる『ベバリッジ・リポート』というのが一九四二年ですから、それはよほど後でして、先生はもちろん知らないわけです。先生が引用されたベバリッジというのは特に
失業問題に関してであって、それを高く評価しております。
ケインズは『貨幣論』を書いたのが一九三〇年で、ちょうど先生の亡くなった年です。その前のケインズについては、実は先生が一九二五、六年にヨーロッパへ行かれて、モスクワでゴスプラン (計画省)に招かれて講演をするのですが、そのときにケインズと論争しているのです(この時の講演も『厚生経済研究』の終わりの方に出ております)。
ケインズが当時の不況、ことにイギリスの不況の原因を金解禁にあると論じたのに対して、先生は、イギリスがだん
だんとダウンしてきているのは、もっと構造的な問題であり、ことに植民地政策がうまくいかなくなったことを考えなければいけないのだということを主張されたのです。どうもその時の印象でそれ以来ケインズを高く評価していないのです。
ただし先生があと十年長く生きていられれば、ケインズの『一般理論』(一九三六年)が出るわけですから、恐らくケインズを見直されたと思うのです。『厚生経済』の中に引用されているかぎりのケインズは一流の学者ではないという評価が与えられているのです。
それはとにかく、先生が近代経済学を導入されたことはたしかですが、先生自身はイギリスの新しい流れを追って、
福祉国家論という立場に非常に関心を持たれたのにかかわらず、先生はわれわれ門弟に対しては、いずれかというとやや古い近代経済学をやらせているのです。たとえば、小泉信三先生のジエヴォンズ、大塚金之助先生のマーシャル、中山伊知郎先生のワルラスおよびクールノ、手塚寿郎先生のゴッセン、また私自身のチューネンがそれです。つまり先生は十九世紀後半の初期の近代理論の文献の翻訳や研究を奨められたのです。それは近代経済学を導入するという点においては正しいのでしょうけれども、先生自身の興味とわれわれ門下生、あるいはもっと広く当時の日本の近代経済学者とは断絶があったように思われます。その点が最初申し上げたように先生の学説がうまく連続して伝わらない一つの理由かとも思うのですが、当時のわれわれは主として古典派(マルクスも含めて)もしくは初期の新古典派を中心に経済学を考えていたのです。先生は一歩進んで新古典派を脱却する経済学に関心を持たれていたのです。
思い出すのですが、先生が亡くなる前の年の誕生日(十二月二目) に、われわれ門下生を集めてお祝いをしたのですが、そのときに先生は即興の詩をつくられました。その詩はいま国立の校庭のレリーフの碑に刻まれていますが、「戦々競々五十五年、痩身僅かに存す天地の間、闘うが是か闘わざるが非か。云々」というのです。先生の非常に華々しいこれまでの活躍を考えますと、何か逡巡するような、ちょっと淋しさの漂うような詩なのです。あの詩は韻を
踏んでいないし、いい詩だとは思わないのですけれども、何か先生が孤独感を味わっている点が問題になるのです。ということは、ちようどそのころマルクスが流行り出しましたし、学校では福田先生と大塚先生と並行講座が行われ、新帰朝の大塚先生の方に聴講者が多く集ったのです。恐らく三対二ぐらいの割合で学生は大塚先生の経済原論を聴講したのです。学界全体としては『資本論』を読まざれば経済学者にあらずといわれてマルキシズムがどんどん流行り出したのです。
大塚先生との関係は別にいろいろお話ししなければならないのですが、大塚先生はもちろん福田先生を真理の
追究者として非常に尊敬していたことは、岩波から出ている最近の 『大塚全集』をご覧になるとよくわかるのです。福田先生が大塚先生の行き過ぎを心配されて、私に漏らされたこともあります。(因みに私は福田先生が渡欧中
大塚先生のゼミに預けられ、卒論は大塚先生のもとでまとめたのです)。大塚先生との関係はいずれお話しするとして学界一般でのマルキシズム流行が福田先生の学究的なマルクス経済学批判に冷やかであったことは事実です。
同時に近代経済学も古い学説ばかりやっていて、先生のような労働問題や社会保障などの現実問題への関心をほとんど持たない状態にあったのです。これやあれやで、いろいろ苦悩しておられ、学問探求のむずかしさを表現しようとされたのが、あの詩ではないかと、私は臆測しているのです。先生の経済学は一歩も二歩も先きを見ていたものであることは、以上、私が申し上げた簡単な解説からも明らかだと思います。やがてわれわれも戦後になって先生の経済学の意義を再考するようないろいろな機会に逢着するのです。
4 実学的傾向の特色
そこで今日現在の立場に立って、先生の経済学からどういう点を汲み取るべきか。それは日本の経済学の発展にどういう意義を持っているかということを最後に申し上げておきたいと思います。
これは一言で申しますと、実学的な傾向と言っていいと思うのです。それについては三つばかり指摘したいことがございます。一つは、経済学をあくまで経験科学としてやるのだということです。つまり事実を離れた抽象的な理論を排することです。先ほど申したように、マルクスの歴史必然論や近代経済学の自然調和論という考え方が不都合だという福田先生の意味するところは、それらが事実の裏づけがないからだということなのです。理論はもちろんある条件のもとに必然を追い、あるいは非本質的なものを棄てて自然を求めるといってもいいのですけれども、しかしそれらは事実の説明に役立つものでなければならないのです。何故ソ連や中国で共産主義が成功したか、何故アメリカや西欧ではそれが実現しなかったか。それらは必然論では説明できません。また、何故失業が起こったり、投資の過不足が生じたりするのか。それらは近代経済学の自然均衡という考え方では説明できません。自然に放っておけばうまくいくのだというのは事実には反するのです。やはり適当な政策の介入がないと、経済はうまくいかないのです。福田先生が市場価格中心の経済学ではだめだというのは、価格のメカニズムを何も否定するわけではないが、それに乗っかって自由放任で万事うまくいくのだということに反対したのです。
そういうことで、先生の考え方は価格中心よりはむしろ所得中心で経済を考えようということにいくわけです。
国民所得論の萌芽も先生の理論の間に見られます。これはわれわれとしても十分引き継いでいい問題だと思うのです。幸い一橋では国民所得という問題の展開がかなり顕著に見られます。実は私自身、昭和二十六年ころに日本の国民所得の明治以来の推計をやったことがありますけれども、その後で大川一司君とか、高橋長太郎君とか、都留重人君とか、篠原三代平君とか、現役では藤野正三郎君とか、この間お話しになった宮沢健一君など、この方面の立派な仕事をしておられます。とくに大川君中心の 『長期経済統計』十何巻は、国民所得の諸構成を実証的に掘り下げた非常に尤大な著書であって、学界に十分誇ってよいものです。こういう実証的研究の志向については、私は福田先生の他に、上田貞次郎先生の「人口問題」をあげたいと思いますが、上田先生については別にとりあげなければなりません。
もう一つ、福田先生の実学的な傾向としては、時事問題に関心を持っている点をあげなければなりません。特に労
働問題については早くから関心を持たれ、そもそもの先生の処女作というのは、明治三十二年(一八九九年) に恩師ブレンターノとの共著『労働経済論』なのです。それは文庫版『厚生経済』 の第一論文に収められています。それが後の厚生経済にだんだん発展するわけで、その後も先生は労働問題に関心を持たれ、賃銀制度とか労資間の闘争とかに取り組んでおられるのです。賃金が生活を保障しなければならないという説もそこから出てくる話です。また時事問題としては社会保障の問題、たとえばイギリスの養老年金や救貧法などに早くから着眼され、単に厚生経済学という学説をつかまえるだけではなく、当時の実際の福祉国家の要求にもとずく制度化の動きに注目されたのです。
関東大震災の時、ゲートルばきでバラック住民調査を学生と一緒にやったり、当局の復興対策を批判したりされたことも、ここで思い併わせてよいでしょう。この点に関連して、戦後になってからですが、中山伊知郎先生が中労委の会長などをつとめ、日本の労働問題をうまく指導していったことをあげることができます。中山先生は理論的な面でも
活躍されたほかに、ああいう労働問題とか、生産性本部の運動とかに関心を持たれましたが、これは福田先生の実学的系統を引くものといえます。私自身のことを申して恐縮ですが、ここ十数年ばかり社会保障の問題に取り組んでいるのですが、それも実際問題を通じて経済学を考えるという実学的な動機からであって、その点福田先生の一面を引き継いでいるつもりなのです。
最近の経済学主流はどっちかと言いますと何か教科書的な体系に囚われて、その時々に直面する時事問題にあまり関心をもたないように思われるのです。
最後に、福田先生の経済学というのは理論的であると同時に政策論的なのです。政策を抜きにして単に事
実を解明するということではなくて、あくまで厚生という目標を考えながら経済学をやろうということです。
政策の基準とか政策の目標ということを絶えず考える経済学なのです。そこには非常にむずかしい問題が含まれているのです。先生は「厚生闘争」という言葉を使われていて、「価格闘争から厚生闘争へ」という文庫版のなかに収めました論文があります。厚生という目標を考えるのですけれども、過程としては闘争がなければならない。つまり利害が対立している社会でありながら、その間に全体の厚生というものが実現することを考えようというのです。この問題をどうつかまえればいいか、私にもまだよくわかっていないのですが、とにかく先生の立場はあくまで根底はリベラリストです。ベバリッジと同様にフリー・ソサエティ(自由社会)を考える。
したがって民主的な過程を経て、全体厚生の促進というものを探るわけです。上から押さえつけるというような、独裁的な考え方で厚生ということを議論するのではない。あくまで利害対立の闘争の結果、厚生が達成されるのです。
国もその中に入り込んで他の利益集団と協調したり対立したりするわけです。そういう闘争の過程を経て、そこにおのずから全体の厚生というものが実現されるというのです。この点は先生はいろいろ苦心されて、いろんな説明を試
みられているわけです。
たとえば、必要ならざる貯蓄は全体の厚生を害するのだという場合、必要とか不必要というのはどうして区別されるのかというと、先生はそれはマルクスが、「社会的に必要なる労働時間」ということを言っているように、社会的に形成されるものがあると主張されるのです。恐らく先生がそこで考えられているのは、必要、不必要というものは独裁的に支配者が決めるものではなくて、お互いに討論をし闘争をしていく過程の中で、社会的に形成されるというのです。いったん成立した基準もさらに批判されてまた再形成されるというように考えておられると思うのです。
先生はそれを説こうとしたために、ウエルフェアという問題を闘争と結びつける。簡単に言えば民主化の中で政策基準というものが社会的につくられていくということを言われるのであって、独裁的に上からこれが政策の目標だというふうに考えるのと区別されるわけです。そういう政策論的な経済学を考えていくということは昔からいうポリティカル・エコノミーという考え方に他ならないといってもよろしい。このごろの経済学は理論経済学とか数理経済学とか、非常に純粋な構造を考えるのが流行っておりますが、それはそれとして道具に使えばいいのですが、本当に考えなければならないのは、やはりポリティカル・エコノミーです。これについて政策基準を一体どのように考えたらいいのか。
あるいは価値判断というものをどう考えたらいいのか。これは私自身もいろいろ苦心しているのですが、
まだ半分ぐらいしかわかっていない問題です。ただ、福田先生の厚生闘争という考え方は非常に示唆を含むものだと、だんだんわかってきたように思うのです。
そういうことで福田経済学の特色を拾い挙げますと、いま申し上げたような三つぐらいの点が考えられ、これらはわれわれ後に続く者がそういうことを頭に置きながら引き継いでよろしいのではないかと思います。それは一橋の経済学だけではございません。日本の経済学の発展のために考えていかなければならない実学的な傾向だといってよろ
しいのです。
これで私の話は一応終わらせていただきます。
[質疑応答]
韮沢 山田先生、大変ありがとうございました。私、学生時代勉強しなかったものですから福田先生の本というのは
『黎明録』というものだけは持っているのですが、余り読んでいませんでしたので先生のお話に非常に啓発されました。ところで、福田先生についての一部の世評では先生は語学が非常にできて、外国の文献をほかの人よりもどんどん早く読んじゃって、そのために丸善の洋書を買い占め、ほかの人のところにいかないようにして自分で読んでそれを紹介したにすぎないのだ。いろんなものをたくさん紹介しただけだというような間違った話があるわけです。
そんなことから、山田先生がおっしゃられたように、河上先生に比べて一橋の中では有名ですけれども世間一般には余り福田先生の実像が伝わっていないという点があるのではないか。その真相はどうなのでございましょうか。
山田 先生の文献理解力というのは非常なものです。この小さな文庫本(『厚生経済』)の中でも外国の学者や日本の学者の引用は大へんなものです。非常に多くの本を読まれる。しかもそれを早くキャチされるのです。そういう意味であなたの言われたように、紹介や祖述は沢山ありますが、しかし決してそれにとどまっているのではありません。
先生は翻訳がないのです。翻訳することはきらいなのです。ただし初期にプレンターノとの共著『労働経済論』があり、その後半は翻訳であります。それから『資本論』 の翻訳を高畠素之さんと一緒にやり始めてやめたことがあります。先生はどうも翻訳はきらいだったようです。ということは、本を読んでも自分の意見の方が先に出る、他説をそしゃく
すると同時にどんどん批判するのです。だからマルクスに対しては、マルクスを無批判に取り入れる学者がいるけれ
ども、マルクス自身に誤りがあったらどんどん正すべきだというのです。要するに非常に批判力が強く、決して紹介
や祖述で終っていないのです。そういう意味で先生には独創性が半分以上あると思います。
明治末期の 『経済学講義』というのがあるのですが、あれは慶応義塾での講義をもとにしたマーシャルの祖述であることは確かなのですが、しかしそれでもマーシャル以外にいろんな内外の文献を紹介批判しながらその間に多少とも独創的なものが出てきているというふうに私は思います。河上先生のほうが大衆うけはしますが、それは福田先生の論文が学究的だからであって、独創性に欠けているからではありません。
それから、われわれにゼミナールで諭された言葉で頭にあるのですが、君たちは本を読んですみからすみまで覚えようとするな。半分以上忘れなければ自分のものが出てこないぞということを言われたのが記憶にあるのですが、そういう態度だと思います。
中島 きようの先生の主題であり、かつ福田先生の最晩年というよりも、むしろ生涯を通じて大きな問題となさっておりました福祉経済−先生のお言葉は厚生経済ですけれども ー の面の問題につきまして福田先生がご指摘になったようなことは戦後の日本経済の中では非常によく実現されている。イギリスなどにしてもよく実現されてきて、かえって今日、いまの経済発展のいわゆるひずみというもの、停滞あるいは今後はどうなるかという問題も、これは過剰福祉によるところが大いにあるといったような批判が出ています。
これは福田先生を現在に生きさせたならばその問題に対してどう答え、これからどう展開されようとするか。
同時に山田先生御自身はこれをどうお考えになっていらっしゃるか。お話願えればと思います。
山田 適切なご意見で、私の説明がちょっと足りなかったと思いますので、補足させていただきます。先生はあくまで厚生闘争ということを考えられ、利害対立の間にチェック・アンド・バランスがあると見られたので、厚生や福祉の行過ぎがあれば、当然関係者の間でチェックが行われるものと主張されたと解されます。福祉はとかく社会正義の名のもとにただ一方的にふやせばいいんだというふうな傾向があり、今日いろいろと福祉の行過ぎとか、ばらまき福祉はだめだとかいう議論があります。西欧でもこの点いろいろ問題になっていて、イギリス病とかスウェーデン病などが言われております。確かにそういう危険が出てきているのです。
福祉政策はいままで経済成長と矛盾なくかなり順調に行われてきたが、ここ十数年は経済成長との間にも対立があらわれ、インフレの一つの原因とも見られています。しかし、そうかといって福祉を抑えればよいというわけではなく、それが経済成長を促がす面のあることも事実ですから、要は福祉と経済との調整をはかることにあります。
日本では最近の行革問題があります。実はこの十一月二日に土光委員会に呼ばれまして、日本の社会保障のあり方ということを進言する予定になっているのです。そのときに私が申し上げたいのは、いままでいろいろな審議会がございまして、年金をどうしようとか、医療をどうしようとかいう議論をこの数年来やっているわけですが、そのねらいはまさに行財政改革のそれと同じだという点です。たとえば、これまで年金についてただ給付を上げればいいというようなことで進んできたのですが、年金財政の将来の見通しは非常に困ってきているんですから、それをいまのうちに改革すべきだとして、年齢延長や制度統合などについていろいろと審議会で答申をしたのです。医療問題でもどんどん医療費が大きくなり、保険料も高くなって、それを何とかしなければいけなということで、例の「老人保健法」というものもその対策の一つと考えられたわけです。ただ残念ながら現状は、労働組合、経営者団体、日本医師会などの利益集団の対立が激しく、また国会では政党間の利害が対立しておりまして、そのためいろいろの改革案も実施の段階になりますと、必ず反対に出会い、なかなか実現がむずかしいのです。こういう事情を来る十一月二日に申し上げたいと思っているのです。
たとえば厚生年金で支給開始年齢をいま六十歳を六十五歳にしたらいいだろうといっても、法案にもならなかったのです。つまり、そういう年齢延長よりも雇用をうまく促進するほうが先決だとして反対されてしまったのです。確かにそういう点はあるのですが、年金や雇用をうまく調整しながら、年金制度を持続させていく必要があるのです。
年齢延長をもち出すと、すぐ福祉の切り捨てだといって反対するのですが、われわれは全体を考えて、抑えるものは抑え、伸ばすべきものは伸ばしたいのです。福祉と経済との調整をはかりたいのです。
別の例ですが、日本の労使関係というのはよその国と比べますと非常にモダレートな形でいまのところきています。そのために経済の成長は物価にいい影響をもたらしているのです。それと同じようなことが、福祉と経済との関係についてもいえると私は思います。
単に、福祉の行過ぎを抑えるというのではなく、福祉が経済にプラスの影響のあることも事実ですから、両者をモダレートな形で結びつけることが、いまの日本の経済にとって大事だと思います。それは実際問題としてはなかなかむずかしいことかも知れません。利益集団間の議論なり闘争なりを通じて、全体の福祉実現をはかることしかないのです。行過ぎを抑えるからといって、福祉政策を全く無駄のように考えたり、国の役割を無暗に縮小するのは考えものだと恩います。
増山 一九三〇年に福田先生が亡くなられたとき、私は本科の一年でございました。亡くなられたすぐ後の大塚先生がおやりになりました経済原論の終わりのところで、大塚先生はこういうことをおっしゃったと思うのです。
「福田先生は亡くなられるしばらく前からロシア語に非常に必要を感じて勉強しておられた。これからロシア語を学ばなければならないというのが、この偉大な学者が一橋の若い学徒に対して残した遺言である」と。そこまでおっしゃったと記憶しております。それからその少し前には福田先生ご自身が「商学研究」 の中にこれからロシア語を勉強しなければいけないということを強く書いておられたと思うのです。ロシアの経済、あるいはロシアの経済学というものを福田先生がどういうふうに見ておられて、そして福田先生にどういうふうな影響を与えたであろうか。そうした点についてもしお伺いできたらと思います。
山田 ロシア語を晩年におやりになったことは私も聞いたり見たりしておりますが、恐らくそれはロシア語で本を読むには間に合わなかったのじゃないかと思います。ただロシア人がドイツ語で書いたもの、例えばブハーリンだとかツガンパラノフスキーだとか、そういうドイツ語の訳は読んでいます。そういう意味で恐らくロシアの経済学といいますか、ロシア人の書かれた経済学には絶えず関心を持っておられたと思います。先生は晩年にはギリシア語も一生懸命やられて、私が助手のときゼミナールでプラトンをテキスト (ギリシャ語とドイツ語とをならべたもの) に使ったことがあります。ですから食欲旺盛なんで、そういう意味で確かにロシア語をやられたと思います。それがどこまで先生に影響されたかは十分にはわかりませんけれども。
新井 日銀の西川元彦さんが今日はお見えですので、何か感想を述べていただければと思いますが。
西川 ご指名をいただきましたので申しあげます。このごろ私は国立で若い学生 − 女子学生もいるんですが ー
と接しております。私、この中では最も若僧の方でございますが、国立を訪れますと非常に年寄り扱いされまして、
年齢ギャップを大変感ずるわけでございます。福田先生については、よくは存じ上げないんですけれども、それでも折に触れて見たり聞いたりしたことをときどき学生に披露するのです。また講義の後でお茶など飲みながら話し合いますと、びっくりするほど学生たちは福田先生を知らないという感じがございます。
もう一つ感じますことは、きよう山田先生が最後にお話しになられました福田先生における価値基準、あるいは
価値判断の問題、もっと広く言えば哲学、そういう問題の必要を感じます。専門化した経済学は非常に技術的に精緻になっているんですけれども、何か人間と結びついた経済学という雰囲気とは別な雰囲気で勉強しているんじゃないかという感じをもっています。
先きほどケインズと福田徳三先生というお話がございましたけれども、そんなことをときどきしゃべることがあるんですが、学生は「ゼネラルセオリー」 のことしか知らないのです。モスクワでの福田先生とケインズとの論争については宮沢健一君の翻訳が出て、モスクワにおいてのケインズのエッセイ「ショート・ビユウ・オブ・ロシア」 の中に、貨幣がないロシアというものを考えています。要するに、ケインズの当時の関心は、金本位に絡んだようなことがあったかと思います。貨幣中心に西側とソ連の体制を比較し、やや哲学的に、倫理学的に書いているような気がするんですが、そんなお話を学生にしたりするんです。
また、先ほど福祉のお話がございましたけれども、同じ宮沢君の翻訳の中に「自由主義の終焉」というエッセイが訳されておりますけれども、あの中では、いまのケインジアンが考えているよりもはるかに小さな政府を感じさせることがずいぶん出ていて、ケインズも昔はこういうことを考えているんです。ケインズと福田先生についてもう一言何かお話ししていただければと思います。
山田 前に述べたように、福田先生はもう十年長く生きておられればケインズをもっと高く評価したと思うのですが、先生はケインズの『チャーチル卿の経済的結果』(一九二五年)をもっぱら攻撃しているのです。西川さんのご専門の金融に関して、ちょっと思い浮ぶことがあります。われわれの学生時代に井上準之助を福田先生が招んできて講演をさせたことがあるのです。先生は経済理論一般だけではなくて、当時の時事的な金融問題に非常に関心を持っていたのです。それはよいのですが、その年の三月に学年末の試験がありまして、その試験の問題が幾月幾日にやった井上準之助の講演の要旨を書けというのです。聞いていない人は全然書けないのです。その時、先生はヨーロッパへ行く前だものですから、できるだけ短期日で答案を見たいと思って、そういう問題を出したのです。それでうんと落第が出たのです。それは脇道に外れたことですが、大正末期の金解禁の問題にからんで福田先生と井上準之助との関係など、西川さんに是非調べていただきたいものと思います。
(昭和五十六年十月十五日収録)
山田 雄三
明治三十五年生れ。
昭和二年東京商科大学卒業。助手、助教授を経て、十六年同大学教授、四十年一橋大学名誉教授。 四十年から特殊法人・社会保障研究所所長、四十八年同研究所所長辞任。顧問就任。
四十九年日本学士院会員。
著 書 『経済学史要』(春秋社)
『国民所得論』(岩波書店)
『日本国民所得推計資料』(東洋経済新報社)
翻 訳 『経済学説と政治的要素』(ミュルダール著、春秋社)
山田先生ゼミナール(昭和十六年十二月卒業生・卒業アルバムより)
(クリックしてみてください)
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