一橋の学問を考える会
「橋問叢書第五十二号」
大塚金之助先生と一橋の学問 一橋大学名誉教授 高島善哉
はじめに
本日は多数の皆様がおいでくださいましてまことに光栄でございます。
この会の性質について、私は相変わらずぼんやり者でよく聞かなかったのですが、それでうっかり引き受けてしまいました。だんだんお話を伺っているうちに、これは大した失敗をしたと。盲蛇に怖じずとはこのことだ。私は正真正銘の盲ですが、ご出席の方は蛇か大蛇か全然わからない。しかし出た以上は覚悟を決めまして、少しばかり私の考えておりますことをお話し申し上げてみたいと思います。幸い旧友、若い方でなくてお年を取った方が多いのですから、昔の話をするのには好都合だと思います。
ところで、本日の私に与えられましたテーマは、「大塚金之助先生と一橋の学問」ということでございますが、私は元来福田ゼミでございまして、大塚先生の先生であった福田先生のゼミへ入ったのですが、一年目で福田先生がソ連に講演に行かれました。招聘されて行かれまして、その後大塚先生に引き取っていただいた。福田先生がお帰りになってから元へ戻った方もありますけれども、私はそのまま大塚ゼミに残って、それか事実上先生を恩師と思ってきたわけなのでありますが、しかしどういうものか、大塚ゼミでも本籍がないわけです。義子扱い。福田ゼミでは、私は福田ゼミではないと言う。大塚ゼミでもない。国籍を持たないというか、二重国籍。そういうことでございまして、本日のテーマをまともに扱うことはちょっと不適当だろうと思いますが、そのかわり多少遠慮なくお話しできる面もあろうかと思います。大塚金之助先生について語るにはもっと適当な人がいますから、私は先生を ― そう言うと失礼ですが、刺身にして、酒の肴にしてというか、それに寄りかかりながら、一橋の学風についてお話ししたいんです。「学問」ということになっておるようですが、もう少し広げまして、一橋の学風というのは一体どういうものであるのか、また、どうあるべきだろうか。こういう点について若干私見を申し上げたい。そして後でご批判をいただきたいと思います。
一橋の歴史に於ける第二期 (大学昇格から新制大学迄の三十年)の問題性とその意義
ところで一橋の歴史というものを考えてみますと、もちろん私はこのために特に勉強したわけでも何でもありませんが、大体三つの時期に分けることができるんじゃないでしょうか。
第一の時期は、東京商科大学に、いわゆる昇格するまで。前史は別として、大体四十年。
第二の時期は、東京商科大学になってから一橋大学になる時期。これが大体三十年。
第三の時期は、それ以後から今日に至るまで四十年間。
大体百十年というふうに踏んでみたらいいんじゃないでしょうか。これは常識的な分け方ですけれども。
私自身のことを少し申し上げますならば、大正十年に東京商科大学予科へ入学して、それから六年間勉強いたしまして、学校を出ると同時に、幸か不幸か知りませんが、学校に残れということで残りまして、それ以来途中色々な事がありまして、結局三十九年一橋にいたわけなのであります。合計四十五年間いましたので、昔のことはわかりませんけれども、昇格以後のことは大体自分の体で感じを知っておるわけでございます。この三つの時期のうちで、特に私は一橋の学風を考えるのに一番重要で問題をはらんでおり、そして、そこから、今日及び明日の新しい学風建設のために参考となることが、この第二の時期に含まれていると思うんです。
第二の時期というのが本学の歴史を考える場合に一番興味の多いと申しますか、問題性の多いと申しますか、大事な時期ではなかったかと、いまからはそういうふうに思うのであります。
その理由はこれからだんだんお話し申し上げますが、これは改めて皆様に申し上げるまでもなく、この時期というのは二つの大戦にはさまれた時期で、世界史的にも非常に複雑多難な時代であったのでありますが、一橋の歴史を振り返ってみても、この三十年間というのは激動期であったと思います。
第一には篭城事件があり、第二には白票事件があり、それから東京商科大学は東京産業大学というふうに名前を変えさせられた。こういう受難の時期、激動の時期だったと思います。それを乗り越えまして、昭和二十四年に一橋大学という新しくてかつ古い伝統を生かしながら新しい大学が生まれたわけなんですが、この大学が果たしていままでの伝統を生かし切っているかどうか。そして、本当に希望に満ちた大学になろうとしているかどうか。私は、これは結論で申し上げることでありますけれども、手放しでそう楽観できないんじゃないか、というふうに思っている。これは母校を憂うる気持ちからそういっているわけなんです。その理由をきょうのお話で幾らか御理解いただきたいと、こういうふうに思うのであります。もちろん、本学の地位が揺るぎないものであるということを言うために申し上げたのでございます。いやが上にもよくしようと思って言っておるわけでございます。
この世界の歴史並びに本学の歴史とちょうどマッチするかの如くに、一橋の学風というものもこの第二の時期にだんだんとわかってきたといいますか、明るみに出てきたと申しますか、基礎が出てきたというふうに私はつかみたいです。
それはどういうことかと申しますと、この時代には、いわば一つの学問的に考えましても過渡期だったんです。時代が、歴史がそうであるばかりでなく一橋の学風ということから考えましても過渡期ではなかったかと思います。過渡期というものは言うまでもなく、古いものを引きずりながら、しかもそれを乗り越えて新しいものをつくり上げるという時期ですから、ちょうどそういう意味でこの時代が最も興味のある時期じゃないかと思います。
私自身がその時期を学生として、それから新米の助手、助教授として暮らしてきたわけで、ここにおいでの皆様方も多数の方がその時期を学生としてお過ごしになった。私はたまたま、大変不幸なことだと思いますけれども、皆様の教師という名前でもってお目にかかることになったという時期でございますから、非常に親しみが多いです。
それはどういう意味で過渡期だったか。どういう問題があったかということ。これが一番肝心の問題です。これは、東京高等商業時代の学問というのはよく知りませんけれども、やはり一口で言って 非常に 実践的でプラグマティックじゃなかったか。高商と言えば、すぐああ、あれか、前垂れ学校かと、ひどい人はそういうことを言います。あれは商売の学校か、あれは そろばん学校かと、こういうふうに言います。
私なんかも、昭和の初め頃、まだ助教授ホヤホヤの頃に、車中にてたまたま話しかけられ、私は一橋の者です、と言うと、すぐその方がニ言目には、○○会社の株はどうなりましょうかと、こういうことを聞くんです。これは一橋のイメージにあると恩うんです。株屋の学校じゃないかと。コマーシャルスクールなんですから。今日のコマーシャルとは大分違いますが。
しかし内部へ入ってみるとコマースと言っても、インダストリーもあるし、カルチャーもある。然し古いものも残っておる。予科へ入って驚いたことには、習字があります。習字の先生が出てきて、「これこれ清書を……」と東北弁で言っていましたね。先生は黙って遊んでいるんです。こっちの方も適当に清書をやっているんです。それから、そろばんがありました。そろばんなんていうのは小学校のときからかなり上達していますから、ばかばかしくて。簿記は必要だったんでしょうけど。それから商業英語があるとか。やはりビジネススクールのあれを多分に持っていたと思うんです。
そこで東京商科大学になった以上はそういうものではだめだ。それを何とか大学予科らしいものにしなければならないと、こういうテーマが出てきたわけです。.当時予科へ入りまして、私どもが最も痛切に先輩から言われ、また自分でも感じたことはそれなんです。
どういう大学をつくるか。文化諸科学に関する総合大学をつくろうじゃないか。名前は商科大学であっても、その実質は文化諸科学に関する総合大学。そういうものにしようじゃないかという、それでもって毎日のように討論をしたり、熱弁をふるったり、当時の言葉で言うと喧々諤々という言葉を使いました。そういう気風が学内に充満しておりました。
大正九年に商科大学になってから、私どもは二年目でございますが、まさに最初の四、五年の間はそういう雰囲気でいっぱいでございました。しかし、そういうことになるためには、高商時代に研究科というものがあって、そしてその研究科の中で、後に日本の学界を指導するような大先生が育っていたわけなんです。そういう人がいたからこそ大学になれる。もちろんそれだけではございません。第一次大戦後の経済好況で、そのときに東京高商が果たす役割というものが非常に大きかった。本当の意味で経済人が求められていた。しかも、東京高商はコマーシャルトレード、インターナショナルトレード。単なるコマーシャルの意味のコマーシャルでなくて、真にインダストリーの意味のコマーシャルだ。しかもナショナリズムでなくてインターナショナルである。もちろんこれは両面ございまして、ナショナルであると同時にインターナショナルだと自他共に思っております。
これは私が他の機会でも強調したことなんですが、一橋会歌をわれわれは一生懸命歌いました。→橋会歌にはナショナルとインターナショナルの両面がございます。それから「ああ、ダンテの鬼才なく、、バイロン、ハイネの熱なくも、石を抱いて野に遊ぶ芭蕉のすさび風情あり」この一橋会歌。その当時の方はよくご存じだと思いますが。そうでしょう。それからを世界じゅうを、「アリアンの族ならんずば、キリスト教徒ならんずば、二十世紀の文明を語るを得じと誰か言う」おれたちがまさにそれにとってかわるんだという気概もあそこの中には含まれておりました。
だから、ナショナルであると同時にインターナショナル。そういう、いわゆる一橋スピリットと言われておるもの、いまはあんまりそういうことは言いませんけれども、その当時私どもが入学した頃にはまだそれが盛んに言われておりました。そういうような気風が明治の時代の東京高商にはあったようでございます。よく調べたわけじゃございませんけれども、そういう伝統があった。
その中で、例えば日本でも有数の学者がそこで育っていたわけです。だれでも言うことでありますが、例えば福田徳三先生とか、あるいは三浦新七先生、あるいは上田貞次郎先生とか、さらに左右田喜一郎先生とか、その他多数の一流の学者が育っていた。一朝にしてできたわけではもちろんございません。そういう内外の日本の経済の勃興。それから、東京高商の伝統とその胎内に育くまれていたところの学才とが一つになって東京商科大学というものができて、それが大正九年に昇格と言う花を咲かせる事になったのであります。
そこでさっきの話に返りますが、入ってみるというとどうであろうか。一方にはそうそうたる大先生がおられると同時に、他方においてはまだ古いものが、遺制が頑強に頑張っている。こういう状態だったんです。習字がある。そろばんがある。簿記はあってもしようがないかもしれません。余り大した学問じゃないからね。技術ですから。あんなのは何でもないと私は思っていますけど。そういうようなものがあるからして、それを乗り越えなくちゃいかん。何とか整理しなくちゃならんというのが私どもの課題でした。そういうわけで、問題は文化諸科学に関する総合大学。
これが課題であり、理念であったわけなんです。それが一橋大学というものにどういうふうに受け継がれて、そして
その一橋大学が四十年たって、これからどのように発展するか。開発し成長していくかというふうに問題がそこにも
うすでに与えられていたと私は思うんです。
大塚先生の学風と背景
これ迄は問題の背景なんですけれども、そのときに大塚金之助先生がドイツの留学から帰って来られたわけです。そこで新風を投じたということなんです。このときには、実は大塚先生のほかにもう二人の方が新風を投じた。
それは第一には金子鷹之助教授。第二には上田辰之助教授。併せて三之助と言ったんです。不思議にもみんな、鷹之助、辰之助、金之助。金之助という名前が一番いいんです、名前としては。よ過ぎるんです。だから後に不幸が起こったわけです。姓名判断、高島判断から言うとそうなる。これは私の学問じゃないですよ。
しかし、まあ一番、何といっても当時大塚助教授の人気が圧倒的に多かった。どこがよかったか。それは何となくよかったんです。どこということは言えないんです。情熱でしょうね。それはどういう情熱であったかというと、そこがまさに学風に影響があるところです。
東京商大というものの特色がどこにあらわれていたかというと、それは専属の予科を持っているということなんです。予科三年を持っていて、その上に本科三年がある。六年間通して一貫した教育ができる、学問ができる、研究ができるというところにあったわけで、それがそもそものみそであった。この予科が一高とか、二高とか、三高とかいう高等学校のいいところも取り入れるけれども、それとまた別の独特の風格を持つことができる。独特の教育をすることができる。一貫教育ができますから。
そういうところで予科には、一方において文化的な教養的な要素が非常に強いと同時に、それは例えば、文学であるとか、哲学であるとか、宗教であるとか、そういうものへの関心が非常に強かったというふうに思います。特に文学と哲学です。特に左右田哲学というのが本学においては非常に大きな意味を持って若い学生を刺激してくれましたが、これは予科があるからそういうふうに学生の気持ちが向いてくるんです。石神井の寮歌であるとか、あるいは予科の歌とか、それにはみんなそれがあらわれております。
依光君(「編者注」依光良馨氏、昭15学)のつくった、「石神井原の夕まぐれ」という寮の歌は全国の寮歌集の中にも真っ先にも取り上げられている名歌ができたくらいなんです。そういう気風がある。
それにちょうど三之助先生がマッチしたわけです。新進気鋭の留学生が帰ってきて、特に大塚先生に対し、若い学生が魅力を感じた。もちろん三先生に対して非常に関心を持ったんですけれども、大塚先生の情熱、またポーズがよかったわけです。
当時大塚先生という方は、大きな思想的な転換を遂げられている時代だった。留学されたときには福田先生の命によって、経済理論の研究に行かれたわけなんですけども、その経済理論が限界効用学派という主観学説なんです。この主観学説というのは消費者の立場からする経済学であって、生産の立場からする経済学じゃないんです。物をコンシュームする立場であって、プロデユースする、生産の立場じゃないんです。そこにやはり、いわゆる文化主義といいますか、東京商科大学の文化主義的な傾向があらわれた。
左右田哲学についても、私は非常な熱意でもって興味を持って勉強しましたけれども、もちろんわかりませんが、これもまた文化主義的な傾向というのは、生産の立場よりは芸術品を鑑賞するような立場じゃないかというふうに思いますが、そういう傾向であったのを大塚先生はやはりそれに不満を持ち、疑問を持って、次第に思想転換されておりました。アララギ派門下の将来を担う一人の歌人として嘱目されていたのを、それに対する批判的な立場から、次第に新しい傾向の短歌の方へ変わっていこうとしていった時代なんです。
そのときに私は大塚先生についたわけです。大塚先生の講義は教室を圧するが如き盛況でした。福田先生の講義もそうです。
しかし福田先生の講義は啖呵がいいんです。それが何とも言えない魅力なんです。
大塚先生の場合はそうでなくて、短歌の方です。歌を歌うような調子がいいわけです。それが若い青年にアピールしたんじゃないでしょうか。
ついでながら駄洒落みたいなことを申しますと私は左右田先生という方は山の手の上品なご主人だと恩うんです。福田先生という方は啖呵を切る生粋の神田っ子だと思う。上田貞次郎先生は、神田からちょっとはずれた、日本橋から上野方面の気風をあらわしているんじゃないか。大塚先生はどうかというと、浅草から本所、深川、そういう方面の下町風の気風をあらわしているんじゃないか。
この大塚先生が留学から帰った早々に、まるで労働者のような服を着て教壇に登るんです。これはやはり先生の思想的転換をあらわしておると思うんです。まず衣から改めよというわけでしょう。気持ちの中に非常に大きな激動期を持っておられたということです。これが大正の末期から昭和の初めの時代です。関東大震災の後です。これはまた学生に大きな影響を与えたんです。
大塚先生から承け継いだ三つのテーマ
そこでもう一歩私の話を進めまして、私自身は大塚先生から何を学び取ったか。こういうふうに話を進めていきたいと思うんです。
三つに絞って申し上げます
(1)経済理論の社会学化
第一は、大塚先生は留学早々、私がゼミへ引き取っていただいたときにこういうことを言っておりました。
経済理論はもっと社会学化しなければならない。それはどういう意味かというと、余り狭い純粋な経済学ではなくて、ことに主観学派のような、ああいう限界効用説とか、限界効用均等の法則とか、消費専門の構え。
そういうような見方でもって世の中を見るのではなくて、もっと社会全体の、社会学という言葉を使われたと思いますが、そういう立場でやらなきゃいかん。経済理論の社会学化ということを言われました。これで私はなるほどと思った。いままで限界効用学派ばかり勉強させられていた。
例えば、リーフマンの講義を福田先生は当時やっていました。福田先生という方は何でも新しいものが出るとすぐそれに飛び付いて日本の学者で一番早く紹介することが得意な人です。語学が達者ですから。しばらくたつと、その次の年にはそれを忘れちゃってまたほかのことをやり出す。そういう偉大な啓蒙家でした。
当時はリーフマンという人の最も極端な心理主義的な経済学を学校で講義をしておられました。そして、先週しゃべったことを、その次にやってきて、先生も余り生でそしゃくしていないんでしょうね。この前言ったことは違っていた。あれはだめだとか言って自分で否定して。そういうことを平気でおっしゃるところが人気があるんです。実に風格の茫洋たる大きな本当に神田っ子でした。
しかし、大塚先生は、それじゃ困る。これを社会学化しようとおっしゃった。これが私にとりましてテーマになりました。経済理論を社会学化するというのは一体どういうことであろうか。これが私の卒論になりまして、それ以来この問題をずっと、私の一生のテーマにしておりました。現在でもそのテーマは基本的には変わりません。それは、自分のことを言って恐縮ですが、それを私は、『生産力の理論』という形でいままとめつつあります。
ついでにこのときを借りましてコマーシャルをやらしていただきますと、近くその本が出ますから。これはコマーシャルですからお聞き流しを煩いたい。でもどこかで覚えていただきたい?これは冗談でございます。
そういうわけで、経済理論の社会学化。これはしかしなかなかむずかしいことでして、容易に実を結びません。大塚先生も実を結ばなかったんです。
他方、それとは反対に、経済理論をもっと純粋に、限界効用学派というようなものでなくて、それを踏まえながらももっと近代的な新しい理論にしてあげようというふうに考えたのが中山伊知郎さんです。これも福田先生の弟子です。福田先生から、おまえは数理経済学をやれと言われてやったわけです。それが立派に実を結んで一橋大学というものは近代経済学のメッカになった。現在に至るまで一橋は世間からそういうふうに見られておると思います。近代経済学のメッカ。しかしその基礎は限界効用学派というものにあった。その根は福田徳三先生にあったということを忘れてはならないと思うんです。
福田先生はこういうことを言われたようです。直接聞いたわけではないけれども、人づてに聞きますと―ここだけの話です。ここだけの話と言ったってどうせ世の中に伝わるに決まっておりますから、そういうことを承知の上で言っているんです。余り宣伝していただきたくないという意味です。
大塚は卵を産まないと言うんです。これ裏から推察すると、中山は卵を産むと言うことでしょう。事実そのとおりなんです。大塚先生というのは余り論文も書かない、一時は少し書きましたけれども、まとまった体系的な書物はないです。後にありますのは『解放思想史』ぐらいのもので、短編的なものが多いです。短歌的です。
これに対して中山さんは非常に体系的で、頭もいいし、それからタレントもある御方ですから上手に、露骨に言えば器用に収められる。そういった向きかもしれない。ありのままを申します、遠慮なく。元来私はロが悪い方ですから。きょうは大先輩らしい方がたくさんいますから遠慮している方です。これで。
(「編者注」傍より声あり「遠慮せんでもいいです」)。お許しが出たようです。それじゃ遠慮なしにもう一つ言いましょう。
私が考えるのに、大塚は卵を産まないとおっしゃる。中山は産むとはおっしゃらないけど、そういう意味なんです、多分。私はそれに付け加えて注を付けるんです。卵は卵でもホトトギスの卵もあるだろう。ウグイスの卵かと思ったらホトトギスの卵かもしれない。いや、ホトトギスの卵ならまだいいんだ。それは無精卵であるかもしれない。近経なんていうのはどうも無精卵の気味があるんじゃないか。これは少し高島式の毒舌ですけれども、案外本当のことを言っているんじゃないか。遠からずといえども当たらず、当たらずといえども遠からず.そういうふうに当時私は考えていたんです。いまでも当時の考えはそう間違っていないと。やっぱり卵はホトトギスの卵でも結構ですが、有精卵を産みたい。こういうことなんです。
その有精の精というのは何かというと、ドイツ語で言えばレーベンです。レーベンというのがなくちゃいけないんです。セックスでなくレーベンと考えなくちゃいかん。セックスも含めて。これはさらにドイツ語で言えばガイスト。精神です。学問の基礎にある精神、ファイティング・スピリットといいますか。もし一橋スピリットというものがそういうものを含んでいたとすれば、一橋スピリットのその面です。ガイストがなくちゃいかん。そのガイストを大塚先生は若い学生に惜しみなく吹き込んだわけです。
私が一橋へ入ってよかったと思うのは、第一には福田先生。それから、第二には上田先生、それから経済史の三浦先生、第三には左右田先生。こういうふうな方々から精神を吹き込まれた。それが学風だと思うのですが。これは以心伝心でして、本を読んだだけではわからないんです。講義を聞いて、それを聞いているうちにひとりでに学生に伝わってくる。それが一番よかったんではないかというふうに思います。だから、大塚先生はあまり卵を産まなかったかもしれないけれどもたっぷりガイストを吹き込んだ。
これは、後年、私はマックス・ウェーバ1を勉強するようになりまして、彼の本を読むというと、現代の文明は余りにスペシャライズし過ぎている。現代人はスペチアリスト・オーネ・ガイスト。精神のない専門人ばかりだ。これは学問じゃないんだ。技術屋だ。これが現代文明の退廃をあらわしているんだということを、ウェーバーはいまから五、六十年前に言っているんです。スペチャリスト・オーネガイスト。スペシャリスト・ウィザウト・スピリット。こういう名文句を吐いている。これはウェーバーをかじった人ならばどなたでもご存じです。
大塚先生の講義を聞いていると、ウェーバ1は出ませんが、ゲーテが出てきます。ベートーヴェンが出てきます。シェークスピアが出てきます。ハイネが出てきます。これはまさに予科的精神です。これを基礎にして、あの第二期の過渡期の闘いが闘われてきたんじゃないかというふうに思います。
その間いというのは、龍城事件、白票事件、あるいはその他のいろいろな事件が次から次へと起こってまいりましたが、さらに中にはマルクス主義の運動とか左翼運動に走る人も出ましたけれどもしかし、当時の人々は、そういう何かの意味において、右でもいい、左でもいい。どちらでもいいがガイストを持っていたんです。闘う姿勢を持っていたということが、私は大塚先生のわれわれに与えた最大の教育効果じゃなかったかというふうに思います。卵でないんです。卵の中にある精です。エキスです。私はこれを終生忘れることができないのであります。
ところが先生は、若いときにはそうでも、例の事件に引っかかって、そして三年なり四年なり留置されて、出てこられてからは非常にティミッドになりましたね。用心深いと言う方がいいかもしれません。そして若いときのような情熱はなくなったわけじゃないけど、ことごとくひた向きに前方を追い進むということをしなくなってきたように思うんです。むしろ、内向的になってきた。こういうことをいまの大塚ゼミを出られた方には本当に理解されていないんじゃないでしょうか。先生の、むしろもう一つの面の、細かい文献をたずね、それから資料を徹底的に詮索し、そして文献史的に考証を究め、そしてどこまでも、ちょうど植物学者が植物の採集をし分類をするような仕方にだんだん傾いていく。これが学問だと。つまり事業で言えば、基礎資料を整えるということばかりが企業だというのと同じことじゃないかと思うんです。もちろんそういうことも必要だし、計算機をたたくということも必要だし、先端技術についての勉強ももちろん必要ですが、それは学者が資料を集め、文献を集める仕事に相当するんじゃないか。もう一つ大きな問題がありはしないかと、これが私は先生をそばから見ていて、戦前と戦後との間にかなりの違いがあるように私には感じられたんです。もし間違っていればおわびいたしますけれども、やはりそういう点を見直さなければならないんじゃないかというふうに思います。
これが、つまり東京商科大学というもののいい点ではなかったか。概括をいたしますならば、予科において人間的な教育をして、そして前向きに純真に働く。こういう情熱を持った人間をつくるというような教育が行われたということです。これが予科のいいところであって、これが今日、率直に申しますというと、いつの間にかなくなったとは言いませんが、薄れていく傾向があるんじゃないか。そして新制大学になりましてから、どこもかしこもみんな同じような形になってしまっているんじゃないかということが残念なんです。これが第一点でございます。
(2) 「市民社会」という理念
大塚先生から私が学び取りました次の点というのはこういうことなんです。
日本で初めて「市民社会」シビル・ソサエティということを言い出したのは大塚先生です。日本語に訳せば「市民社会」と申します。これは非常にバタ臭い言葉で耳なれないんです。しかし最近はだんだん使われるようになりました。
しばらくの間は専門の学者も使わなかったのですが、日本でも最近この二十年間はそういう言葉が使われるようになり、そういう書物も出てまいりましたし、『朝日』や『毎日』のような社説でも「市民社会」という言葉が出てくるようになりました。それはそういうことを大学で学んできた新聞記者がその社説を書いているからだろうと思うんです。英語ではシビル・ソサエティで、フランス語では同じようにソシエテ・シビルと言いますけれども、やはりイギリスが本家でございます。そうすると大塚先生というのはイギリスのものを第一に勉強したんだと。大塚先生の考え方はイギリスのものが基礎にあって、そしてドイツへ留学して、ドイツのゲーテであるとか、ハイネであるとか、ベートーヴェンであるとか、そういうものに興味を持つようになった。われわれにはドイツ的な話が非常に多かったのですが、しかし、「市民社会」ということを初めて日本で言い出された。
どうしてそういうことを言われたかというと、それは当時、講座派と労農派と今日言われるような、そういう対立が強くて、大塚先生の方はもちろん講座派と言われる方に入っておられました。これに対して労農派と言われる一部のグループの方々がおりましたが、講座派の方では、日本における封建的遺制がいまでも頑張っている。その点を非常に強調したように思います。
これに対して労農派と言われる方は、いや反対で、そういうこともあるけれども、しかし、だんだんそれが近代化されてきて、次第に日本は自由化、民主化されてきているんだ。こういう点にウエイトを置いてそれぞれ論争をやってきたわけです。これが有名な講座派と労農派の論争でございますが、しかし今日から振り返ってみると、これは両方とも一面を言っているだけで、日本には依然として今日両方が残っているというふうに言わざるを得ないです。その残り方が問題ですけれども、しかし残っていることは依然として残っている。
例えば、冠婚葬祭のときにはやはり古いものは残っています。しかし、他方ハイテク、バイオテクノロジー、そういうような先端的な技術も日本においては最も進んでいるというふうに言われます。コンピューターとか。で、ありながら、この如水会のような近代建築をつくるときには、まず神主を呼んで祝詞を上げるということを平気でやっているんです。この中で結婚式が行われれば神前結婚式のときには必ず祝詞を上げる。古いものと新しいもの、封建時代でなくてそれ以前のものもずっと日本には残っている。非常に不思議な国であるように思います。
これが今日でも依然として問題であり、これをどのようにつかむかということはまだ残されている問題だと思うんです。本当に解決されていないというふうに思いますが、いかがでございましょうか。皆様、職場においてお考えになりますときに、どういうふうにそれを解釈されましょうか。これは私の方からお伺いしたいところでございます。
これが必ずしもいけないというわけではなくて、封建的なものが残っている。あるいは家族主義的なものが残っている。こういう点がある意味ではまた美点でもあるわけです。
例えば、一橋のゼミナールというものは、やはり家族主義的な雰囲気から生まれていると思うんです。これは東京高商が一橋一家、家族主義的な要素を持っていたからだと思うんです。これがゼミナールという形で衣更えをして再生されてきて、そしていち早く他の大学よりも一歩先がけてゼミナール制度というものが日本で実現したのは、東京商科大学の一つのメリットであったと思います。
もっとも一橋大学というところは何でもいち早く外国のものを輸入するんです。それは東京高商のお家芸だったと思うんです。まずテニスを真っ先に輸入する。その次はボートを輸入する。その次には、われわれの学生時代にはバスケットボールを輸入する。しかし、しばらくたつとよその大学でもみんな、それが追い付き追い越せになるんです。
そうするとだんだん一橋の方が目立たなくなっちゃう。近代経済学でも真っ先に一橋で栄えたものが、そのうちよその大学でも、真似をすると言っちゃいけませんけれども、受け入れられて、東大でもそういうものが支配するようになってくる。私立大学でもそういうものが支配するようになってくる。そういう不思議な学校です。それがコマーシャルスクールでしょうか。何でも先へ、先物買い。それがどういう形で地につくかということが実は問題なんです。
「市民社会」という言葉は、そういう経緯で真っ先に日本で一橋の先生がそういうことを言い出した。それまでは日本にはドイツ的な考え方が、少なくとも経済学や社会科学の方では強かったんです。福田先生なんかはドイツ的、左右田先生なんかもドイツ的、上田貞次郎先生はイギリス的、上田辰之助先生もイギリス的、金子鷹之助先生もイギリス的だと思いますけれども、両方あったわけなんです。そのシビル・ソサエティというのはやっぱりイギリス的な精神だと思うんです。私はこれは非常に重要な概念だと思います。現在でも私は市民派の一人と考えられておりますが、これは詳しくは申し上げません。これを説明するためにはまだ長い時間が必要でございますから。
私は、「市民社会」という言葉のかわりに現在では「市民制社会」という言葉を使いたいんです。これは日本の学界に対する一つの提案でございます。言葉はシビル・ソサエティ。英語で言えば同じこと。フランス語でもドイツ語でも同じですが、日本語に訳したときに 「市民制社会」。すなわち自由とか民主主義とか、人権の尊重とか、思想、言論の自由とか、そういうような今日の憲法で言われている基本の原理です。そういうものを一括して実現するような、また追究するような、その体制を市民制の社会。「市民制」と言った方がわれわれの日本語にはなじみやすいと思うんです。これを大いに宣伝していかなくちゃならん。そういうことだけ結論的に申し上げておきます。これは全く大塚金之助先生から受け継いだものです。他のどの先生も一橋ではそういうことをおっしゃっておりませんが、これは今後大いに、一橋のみならず日本の学界に定着させていきたい。ジャーナリズムでも定着させていきたい。日本の教科書にもそういう概念を定着させていきたい。
ところが、「市民」とは何かということになりますと、都市の住民ぐらいにしか考えていないです。市町村制度を行政的に実行すれば、それで市民になっちゃうんです。市民会館であるとか、市民教育であるとか、市民衛生であるとか、非常に安易な使い方をされている。もちろんそれも一つの方便ですけれども、しかし学問として考える場合には厳密にそれを定義してかからなければいけないです。
これはイギリス市民社会、フランス市民社会、ドイツ市民社会、アメリカ市民社会。ついでにソビエトの市民社会、中国の市民社会。そこまで拡張できると思うんです。これが実は大問題でして、此の場合には「市民制社会」という用語がより適当かと思います。ソビエトに市民社会があるのか。中国に市民社会があるのか。中近東はどうだ。こういうふうにすぐ反対尋問が出てくるだろうと思いますけれども、「市民制社会」は理念ですから、現状を認識し、現状を批判するための一つの学問的なトゥールでございますから、そういう意味におとり願いたいと思うのですが。とにかくそういうことが一橋の学問の中核にあっていいんではないか。もしそうだとすれば、これは大塚金之助先生の残された偉大な遺産ではないかというふうに思うのであります。
(3) 生き方、見方としての思想
そこで第三点に入りますけれども、こういうことでございます。いまのことと関連するのですが、大塚先生のわれわれに与えられました遺訓といいますか、教訓というものは、要するに思想という問題なんです。大塚先生には、「ある社会科学者の歩いた道』というような書物がありますけれども、私は大塚先生は、社会科学者であるというよりは社会思想史家であったと思うんです。その方が先生の風格や情熱にぴったりだと思うんです。名著『解放思想史』の著者ですから。一番よくあらわれている。だから、思想というものはどういうものかということを、先生はわれわれに教えたと思うんです。
思想というのは何かというと、私なりに解釈するならば、われわれの生き方、見方だと思うんです。人によっていろいろな生き方、見方がある。だからいろいろな思想があっていいわけですが。しかし、だからといってどんな思想でもいいというわけではないんです。現代は価値自由の時代であるとか、あるいは価値観の多様化の時代であるとか言いますけれども、それじゃどんな価値観でもいいのか。銘銘勝手に価値観を持っていいのか。一枚岩的な価値観はもう御免だということを言われております。確かに一枚岩では困りますが、自由なわれわれの判断が必要でございますけれども、だからといって人それぞれ別々に、どんな価値観でもいいのかというと、それは困る。私は、これはアナーキズムになると思うんです。それでは社会はまとまっていかない。社会は一本化できない。もちろん一枚岩にする必要はないけれども、基本的には二つなり三つなり、やっぱりある一つのこの現代において、この時期においてこれだというものがあるはずです。それを探究するためには単なる思想だけでは充分でない。思想も大事だけれども社会科学が必要なんです。科学が必要である。その科学がなければ今度は精だけあって卵は産まれない。卵が産まれなければその精は無精になるわけです。それでは困る。大塚先生からわれわれが学んだことは、思想家としての大塚金之助。
思想というのはわれわれの生き方、見方を問うことなんです。深い思想もあれば浅い思想もあるし、当座限りの現象的な思想もあれば、深い根底までつかみ取るような思想もある。それは単に思想家の問題だけではない。哲学者の問題でもあるし、社会科学の問題でもあるし、文学者、芸術家、宗教家の問題でもあると思うんです。私はこれを虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」から取りまして、「貫く棒の如きもの」そういう言葉であらわしております。
「貫く棒の如きもの」というのは一枚岩的な何かでなくて、公式ではなくて、生きた何かである。それが生き方、見方の問題なんだと、こういうふうに私は考える。思想であり、社会観であり、人生観であり、生命観である。
それはいろいろ解釈の仕方があると思いますけれども、そういう問題だと思う。これが思想だと思うんです。私は私なりの思想をいま何とかまとめたいと思って五十年も勉強をいたしましたけれども、なおこれだと言って人の前に誇ることのできるようなものはございませんけれども、何とかこれをまとめてみたいというふうに思って最近一つの書物を書いたわけですけれども、これでもまだ不十分でございます。もちろんこれからでございます。妙な飛躍をいたしますけれども、親鸞は八十五歳から初めて本当の書物を書き出したといわれております。このことを聞きまして、私は本当にびっくりいたしました。まだ八十や八十一で何とか言うのはおこがましいという気持ちにもなるわけでございますが。しかし、とにかく思想を持たなければ人間は生きていけないんです。
どんな思想が一番いいか。思想はただ思想として空回りしたのではだめなんです。三之助先生、全部思想家です。
上田辰之助、金子鷹之助、大塚金之助。その思想の風を東京商科大学の生成期に大学が孤孤の声を挙げた時代に吹き込んでくれたんです。それが今日どうなっているかということが、私は問題としているのであります。
むすぴ
― 四つの輪から五つの輪え―
最後にまとめとして申し上げますならば、以上三点について大塚金之助先生が私に残してくれた教訓をいま私は反省しているわけで、できればこれが、単に私個人の問題でなくてこれからの一橋大学の将来に課せられた課題ではないかというふうに自分なりに考えております。
予科はなくなりました。それとともに一橋大学の一つの貴重な反面が薄れてきたように思います。もう一つの反面は、いま申しましたような三つの点です。経済学の社会学化であるとか、市民制社会であるとか、思想であるとか、こういうような問題です。そういう問題がどのようにしてこれから培われ発展していくだろうか。幸いなことには一橋は四つの学部からできております。商学部、経済学部、法学部、社会学部。この四つの輪で結ばれているというか、四輪です。三分の一ぐらいは相互に重なり合っておるわけです。これが商科大学から一橋大学への転成の意味を持っているんです。これはもはや一橋大学というのは文化諸科学に関する総合大学と言わないで、社会諸科学に関する総合大学と言っておるようであります。いまの学長もそうおっしゃっていると思います。文化諸科学と言うとまだ広過ぎるんです。そうでなくて、社会諸科学というものを基礎にして、商学、経済学、法学、社会学というようなものを基礎にして、さらにもう一つ輪が欲しいです。四輪ではだめなんです。オリンピックも五輪ですから。五輪の社会でなくちゃいけないと思うんです。そういうふうに育成していかなくちゃいけないんじゃないか。
その第五番目の輪というのは何でしょうか。これが、いま私が言いましたように予科的なものです。ヒューマニティズ。ヒューマニティズというのは、新制大学ができたときにマッカーサーが日本に残したその学制改革の起点にあるわけです。原点にヒューマニティズ。それは人文諸科学と訳します。ヒューマニティズと複数で申します。マッカーサーが直接やったわけじゃないけれども、マッカーサーがつくりました対日教育使節団のリボー卜の中にはこういうふうにあります。
日本の社会はこれまで余りに狭く、余りに早くスペシャライズし過ぎた。これが日本人の性格をゆがめたんだ。今日のような無謀な戦争を日本がやり出したのも、実は一つの原因がそこにあるんだ。だから日本の教育改革はそのヒューマニティズを尊ぶ、教え込むというところからやらなきゃならん、といって新制大学は出発したわけです。
この転換の過程等私は身をもって受けとめたわけです。そのためには一橋ではどのようにしたらいいかということを、例えば上原専禄教授なんかのご指導のもとに一生懸命やりました。ヒューマニティズというもの。この中身は、文学であり、哲学であり、更に数学であり、その他いろんなものを含んでいる。これは単に旧制高校的なものでなくて、社会諸科学との連動関係において社会諸科学を踏まえた上でのヒューマニティズでなくちゃならんわけです。そういうことを私は、新制一橋大学ではこれはできるぞと、そういう希望を持っていた。上原先生と同じようにそういう考えでおりました。
ところが十年もたたないうちにそれがだんだんゆがんでいったように思うんです。それにはいろいろな理由がありますけれども、いま時間がないので申しませんけれども、事実上これを維持するのは非常に困難である。現在ではどこもかしこも教養課程というのは見る影もないような状態になっているんじゃないかと、こういうように思います。
したがって日本の大学というのはどこでも同じようになっちゃったんです。特色がない。それをいかにして特色を付けるかという模索をしている段階じゃないかというふうに思います。
そこで、何と言いましても原点に返れということを言われますけれども、その点は何かというふうに考えざるを得ないです。これが五輪の世界です。
大塚金之助先生と一橋大学の学風及び今日、将来の問題いかにあるべきか。こういうことについて未熟な考えでございますけれども、ちょっと御披露申し上げました。
どうもありがとうございました。
[質 疑 応 答]
茂木(大正十五年卒)
私は大正九年に入って大正十五年に出たのですけれども、そのときに学長、その他の先生方と接触する機会が非常に多かった時代ですが、これは佐野学長の直話ですけれども、大学の昇格のときに、文部省がどうしても予科を置くことを許可しなかったんだそうです。ところが佐野学長は、予科をもし置かないのなら昇格しなくてもいいということを考えたんだ。お聞きになった方ありますか? いま高島名譽教授がそのことを非常に力説されたのですが、そういう秘話があることを申し上げる必要があると思う。
それから、もう一つ、私どもは上田貞次郎先生のゼミナールに入れていただいたんですけれども、上田先生、福田先生、三浦先生、そういう方々が予科を非常に大事にされたです。
高島 そうです。
茂木 私は上田門下でありますから上田先生のことだけ申すようでありますけれども、自ら予科の主事。それで修身を ー 余り雄弁家でありませんから、お話しをしている間に学生がたくさん眠るんですけれども、それでも先生は一生懸命になって予科生に修身を教えられました。福田先生もそのとおり。
もう一つは大学の移転の問題ですけれども、これは知っておられる方が相当多いと思いますが、多少誤伝があるように存じますので、これもひとつ申し上げておきたいと思うことは、この一番の発想者は福田先生です。
高島 そのとおりです。
茂木 福田先生が。たまたま大正大震災のときに図書館が残りました。あのとき、メンガー、ギルケーという貴重な図書はまだ荷を解かないで内田研究室にしまってあったんです。それがたまたま、内田信也さんが寄付した研究室、あれは鉄筋コンクリートで燃えなかった。これで福田先生は、図書館が残っているということは大変なことなんだ。もうこれからはどうしても図書館を充実しなければいかんし、この大学の生命は図書館にあると思うから早速移転すべきだということを福田先生が最初に言われた記憶があるんです。お聞きになったことありますか? それから、私ども数人を呼んで、特に ― 先生はかなり扇動家でしたね。福田先生というのは非常に扇動がうまかった。
高島 あれは、もう大したものだ。
茂木 それで同級生からにらまれたことがありましたよ。ところがその反面、わが上田先生は、予科と専門部は移転してもいい。本科は絶対に移転しちゃいかんと言うんです。間にはきまって弱った記憶があるんです。
さらに上田先生が言われるのに、本科は丸の内に校舎をつくって、それもどういうわけですか七階建てぐらいの堂々たる大ビルディング。いまじゃないですから、丸ビルができたばかりだったんだから。そこで本科の教育をして、学生は実業社会の空気を頭で吸いながら教育をするのが本当だと言ったんです。
予科物語から思わず発展しましたけれども、私も、実際いまの大学の諸問題のうちで一番大きい問題は予科の問題だと思っているんです。このことについての如水会員の重大な関心を呼び起こしたいと感ずる。
いま非常な感銘を覚えましたから、はなはだ出過ぎましたけれども、予科の問題についてそういう秘話があるということ。これだけは申し上げておきたいと思って。
高島 茂木さんのサゼッションによってお話ししたわけです。
田中(大正十五年卒)茂木さんと一緒に出た田中外次と申します。いつもここの上席に座らせていただいておるのでございますけれども、これは年齢は少なくとも一番上だろうというようなことの関係だと思うのでございますが。きょうは、私、高島先生のお話を承りまして、いままでに感じたことのない深いところから心を揺すられた点がございますので、そのことを、ほんの二、三分しかないようでございますけれども、そこへもってきていま茂木君の熱弁がございまして、これがまた本当に核心に触れるところがございましたので申し上げます。
先ほど上原先生のお話を高島先生がなさいました。それで上原先生に至る前に、福田先生が非常に頭の鋭い、新しいもの、新しいものへと飛びつくという面があるということはよくわかったのでございますが、もう一つ対照的な一つの面として、私、そのものに人生における影響を与えた一点がある。それは現在も残っておりますが、如意団を最初にお始めになったのが福田先生。だから福田先生という御方の両面というものをやはりつかまえねばいかんのじゃないかということを、いま高島先生のお話を承ってそう感じた。それが一つ。
もう一つは、上原先生が如意団の、しばらくの間三年ぐらいかな、お世話をしてくださったことがある。そのときには如意団の連中が現在の学生からなる団員とともに上原先生、それから、われわれロートル囲んでいろんなお話をするというチャンスがございました。そのときに、順番に頭のはげているやつなんかひとついかがですかということになりまして、私がそのとき言いましたことについて上原先生が非常な反応をお示しいただいた。それがいまだに忘れられない。それは何であるか。私は禅宗。座禅。これを如意団によって指導されて六年間やったのでございますが、その間において、一つ心配でたまらずにその六年を過ごしたということがございます。これを上原先生が聞いておられたんです。それは何だと言えば、私は相当力を尽くして座禅をやらしていただいていると思うのですが、どうも私が死ぬまでに果たしてそれほどの動揺もなく死ねるというようなところまでこの生き方でいけるだろうかと思うことを心配いたしておるのでございますというような、非常に如意団の団員として余り励ましにならんようなことをありのままのことを申し上げました。そうしたら上原先生が十回ぐらいうなずかれたんです。ひどくうなずかれましてまことに恐縮したのでございますけれども、それが一つ残っている。そのありのままの素材でございます。この二つの素材を私は持っているので、いま高島先生がおっしゃいました五輪というもの。四輪はあるけれども一輪というものがまだない。これをみんなで力を合わせてつくり上げなければならんのではないかという御趣旨に承りまして、本当に、まことにありがたいという感じに満たされておる次第でございます。
長谷川(昭和七年卒)先ほどは高島先生から大変感銘深いお話しをいただきまして、ありがとうございました。
先ほど、高島先生には申し上げたのですが、本日お集まりの方に是非ひとつ胸に秘めておいていただきたいと思いまして、私は立ち上がったのでございますが、私は予科時代に高島先生からアダム・スミスの「ウエルス・オブ・ネイションズ」を非常に良心的な講義をしていただきまして、私は東京商科大学に入りまして、アダム・スミスという学者がどういう学者か。経済学というものがどういう学問か。一番最初に感銘を受け、いまだにそのときの講義が残っておりますのが予科二年のときに高島先生から習った、このアダム・スミスの『ウエルス・オブ‥ネイションズ』の講義だったのでございますが、その一橋大学が多少の予算が足りないために、と申しますのは予算が足りないのではない、その予算をほかに持っていこうとした政治的な動きがありまして、その予算を削ろうとしたのですが、そのために東京商科大学の予科、専門部を廃止するという問題が起きまして、そのときに東京商科大学というものは予科、専門部があって初めて東京商科大学なんだと。この予科、専門部を廃止するなんていうことはもってのほかだと思いまして、私も立ち上がってその龍城事件に参加したのでございます。その予科、専門部廃止に反対した一番の動機は本日ここで初めて申し上げるわけでございますが、高島先生から予科のときにアダム・スミスの『ウエルス・オブ・ネイションズ』を習って、私が東京商科大学在籍中の非常に感銘を受けた講義になったものでございますので、こ
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ういう予科をつぶしたらとんでもないことになるということが、私が寵城事件で立ち上がった大きな動機の一つでもあったわけでございます。本日、「一橋の学問を考える会」にお集まりの皆さんに一言このこともご報告申し上げたいと思い立ち上がった次第でございます。
司会者 そろそろお時間もまいりまして、まことに残念でございますけれども、実は高島先生から、大塚金之助先生と一橋の学風、しかし先生のお話も是非承りたいんですと、先はど申し上げたんです。はからずも大塚金之助先生を中心にしての先輩の学風を継承されると同時に、高島先生ご自身の思想、学風、学説を示唆をいただきました。イントロダクションをいただきまして、実は皆様、私と同じお気持ちだと思いますが、親鸞は八十五歳から立派な書物を書いた思想はそれから展開した。自分もこれからだとおっしゃる。きょう先生のお話しを承っておりますと、それは単なる歴史とか過去ではなくて、現在の一橋、日本経済を語り、また未来を語っていただいているような気がするのでございます。私から申し上げるのは大変僭越でございますけれども、先生のご事情さえ許せば今後またお元気な間に、二回、三回と先生の学説を承る機会をつくりたいと存じますが、どうぞひとつご賛同願いたいと思います。
(拍手) (昭和六十一年五月二十一日収録)
高島 善哉 一九〇四年生まれ。一九二七年東京商科大学卒業。
一橋大学、関東学院大学教授を経て、
現在一橋大学名誉教授。
主要 著書 「社会科学と人間革命」(一九四八年)
「新しい愛国心」 (一九五〇年)
「社会科学入門」(一九五四年)
「アダム・スミス」(一九六八年)
「民族と階級」 (一九七〇年)
「アダム・スミスの市民社会体系」(一九七四年)
「マルクスとウェーバー」(一九七五年)
「現代国家論の原点」(一九七九年)
『社会科学の再建」 (一九八一年)
「自ら墓標を建つ」(一九八四年)
「人間・風土と社会科学」(一九八五年)