一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第五十三号] 一橋と社会工学 一橋大学商学部教授 宮川 公男
はじめに
ただいま御紹介をいただきました宮川でございます。今日の御出席者の名簿を見ておりますと、すべて私の卒業年次以上の方々ということで、諸先輩を前にしてお話できることを光栄に思います。いま御紹介がありましたように、今日のお話は一橋にまだない社会工学というものをどうやって育てたらいいかということで、この会ではどちらかというと昔の古い伝統について話されることが多いようでございますけれども、私の分野では余り伝続がございませんので将来に向けた話をさせていただきます。特に大学の外におられる先輩の方々のいろいろなお力添えが必要ですので、そういう面でお願いというようなことを申し上げるという趣旨でお話を申し上げたいと思います。
最初に簡単に自己紹介させていただきますと、私は昭和二十八年に新制の一橋大学第一回生として卒業いたしました。在学中は経済学部で理論経済学をやっておりまして、杉本先生のゼミナールに所属をしておりましたけれども、ちょうど大学四年の九月に先生がお亡くなりになりまして、卒業までは、当時横浜国大におられ、後に京都大学から現在東京経済大学に移られました宮崎義一先生とか、あるいはいま京都大学におられます伊東光晴先生とか、ゼミナールの先輩にいろいろお世話になって、卒業論文などは見ていただきました。その後大学院に入りまして、杉本先生の御専門の領域の一つである計量経済学を志しまして、そのためには統計学の勉強が必要であるということで、計量経済学、統計学というような領域を勉強いたしました。
大学院の間、そういう計量的な方法がビジネスでも次第に使われるようになりまして、一橋大学としてもそういう新しい領域を設ける必要があるということで、卒業と同時に商学部の方に移りまして、計量経済学から計量経営学とでも言うよう領域を開拓するということになりました。しかしすぐには授業できないだろうということで、五年間ばかり産業経営研究施設というところにおりまして、その間にアメリカにも留学いたしました。
アメリカではハーバードと、MITと両方で勉強いたしましたけれども、昭和三十八年に商学部に管理工学という講座が設置されることになりまして、これは広い意味では経営学に属するわけでありますが、経営学部門と並ぶ管理工学部門という二つの部門を独立させることになりました。そのため私としてはちょうど留学一年が終ったところであと二年ぐらいアメリカにいるつもりでおりましたのですけれども、新しく講座が通ってだれも担当者がいないので早く帰ってこいということで、途中でやむを待ず帰って参りました。当面一講座で出発したわけでありますけれども、その後時代の流れを反映して講座がふえまして、現在三講座にまで成長をいたしました。講座をふやすのはなかなか大変で、商学郡全体では確か二十五、六講座ですので、新しい額域として、それでも急速に講座がふえたということになるわけですが、その間にスタッフもだんだん充実しました。
管理工学の歴史的背景
管理工学といいますと、特に工学という名前が付いておりますので、一橋にどうしてそういうようなものがあるのかと奇異に思われる方が多くて、初めの頃にはそういう質問をいつも受けていたのでありますけど、最近では定着をいたしました。新しい経営学の領域ということで、幸いにして若い人たちがたくさんこの領域に関心を持ってもらいまして、商学部の中では大学院の学生も多く抱え、私のところのゼミナールの卒業生でいろんな大学で教鞭をとっているのがもう二十名を超えるくらいにならてきております。一方文部省の方でも商学部とか経営学部のカリキュラムの中には管理工学というものが必ず入らなければいけないというぐらいに認められるようになりまして、例えば先日もある大学が大学院を設置するときに、菅理工学の専属のスタッフがいないということで認可に待ったがかかるような、そういう状況まで成長をいたしました。
そういうわけで昭和三十八年というのが正式の発足ですからまだほんの二十数年ということで、一橋の長い歴史の中ではほんのわずかで、まだ伝統も十分にないということであります。この領域では、この会で今井教授と伊丹教授がすでにお話しをしておりまして、二人とも管理工学の領域に属しております。そういう意味でそちらの方のお話でかなり管理工学というようなことについてはお話があったと思いますし、きょうのお話は管理工学よりも社会工学というようなことに焦点を絞ってお話をしたいと思います。
しかしながらもう少し管理工学のことをお話しいたしますと、文科系の大学というのに工学という名前を用いるというのは、三十八年当時としては一般的には奇異な感じを受けたわけですが、一つには当時文部省の理工系の拡充というような大きな政策もありましたし、そういう流れの中で、比較的成長の遅い社会科学系の中で講座を増設するという、そういう政策的な意味もあったかと思いますけれども、かなり思い切った名称を付けたということができると思います。しかしその後、特に旧高商系の大学の商学部とか、経済学部とか、経営学部を中心にして、名前はいろいろ変わっておりますけれども、類似の講座がつくられております。
例えば一番早いのは小樽商科大学ですけれども、昭和四十年度に管理科学科というのができております。香川大学の経済学部は昭和四十六年度に同じく管理科学科という学科、それから滋賀大学でも四十七年度、横浜国立大学でも経営学部の中に管理科学科というのができております。昭和五十年度には佐賀大学の経済学部に管理科学科ができております。これらが一橋の管理工学に当たるわけですが、こういうふうに諸大学は学科というところにまできておりまして、それに対して一番スタートが早かった一橋ではまだ学科になっておりませんで、三講座ということで、そういう意味ではほかの大学の方が形式的には進んでしまったということがあるわけです。
さらに和歌山大学には産業工学科というものができましたし、それから旧帝大の中でも九州大学の経済学部に昭和五十二年度に経済工学科というのが新設されております。その経済工学科の中で管理工学が重要な柱になっております。
以上のようなわけで、商学とか経済、経営関係の学部の中に管理工学というものが現在定着しているということが言えるわけです。
他方、工科系の方では、東京工業大学に経営工学科というのがございますが、昭和四十一年度には社会工学科というものが新設されております。また、筑波大学の第三学群ではやはり社会工学というものを標傍しておりまして、これが昭和五十二年度に発足しておりますし、同じ筑波大学の大学院には修士課程として、これは官庁とか会社からも学生を受け入れておりますけれども、経営政策科学研究科というものが五十一年度に設置されております。それから埼玉大学がやはり政策科学研究科という修士の大学院を設置しております。以上のようなものが諸大学における関係の学科、研究、教育体制でありますけれども、どうしてこういうものが急速に出てきたかということは、言うまでもございませんけれども、特に第二次大戦後、先進欧米諸国、それからわが国における企業経営の科学化が急速に進展したことにあります。そしてそれには様々な数量的な科学、それからコンピュータ、そういうようなものの進歩が背景にあるわけです。
第二次大戦中にイギリスで生まれ、その後急速に実用化された作戦研究、すなわちオペレーションズ・リサーチ、略してORと言いますが、これは基本的には軍事作戦、ミリタリー・オペレーションの研究です。戦後このORの考え方がビジネスにも使えるという認識が強まって、ミリタリー・オペレーションだけではなくて、ビジネス・オペレーションにも同じような考え方が使われるようになり、その分野に応用領域が拡大されてきたわけです。そういう過程でORが企業経営の科学化というものに大きな貢献をしてきたわけですけれども、全般的に諸国における企業規模の成長とか、あるいは組織の複雑化とか、あるいは外的な環境の流動化、そういうような状況の中で、経営者の経験とか直感だけに頼る企業経営というものが非常に困難になってきた。そういうわけで様々な科学的な考え方と方法を援用しようという一般的な風潮が生まれたわけで、そのような風潮の中で出てきたものが管理工学というわけです。
そういうわけでORという言葉は皆さんよく御承知のことと思いますが、ビジネスのORというものがその後アメリカを中心に急速に普及いたしました。わが国においても昭和三十二年に日本OR学会というのが創立されておりますけれども、これはアメリカのOR学会が一九五二年、昭和二十七年の創立ですのでちょうど五年後れております。しかしその学会の創立以前に学界とか産業界の一部においてはもっと早くからORに強い関心が持たれておりまして先駆的な勉強がなされておりました。
日本ではQCの中心的な推進団体である日本科学技術連盟で学者とか産業界の技術者などが昭和二十六、七年頃からORというものに関心を持ちまして研究会を持っておりました。特に非鉄金属鉱山の大手六社が非常に強い関心を持ちまして、鉱山業OR委員会というものを日科技連の中につくりました。それが昭和二十七年に発足しております。私も大学院生であった頃からこの委員会にずっと参加をしてきておりまして、実務界の方、特に技術系の方々と一緒に勉強してまいりました。そういうようなこともありまして、私は経済学から経営学の方に次第に移りまして、一橋の中で管理工学というものを育てるというような立場になりましたわけでございます。その後一九六〇年代のいわゆる高度成長期を経まして、わが国の企業経営の中にも急速にこのようなものが浸透してまいりました。特にコンビユータの技術の進歩と普及とがそれをさらに促進したわけです。
例えばコンピュータ(汎用コンピュータ)の設置台数を見てみますと、昭和三十二年には日本でわずか三台だったわけですが、四十年には千七百台、四十五年には八千五百、五十年には三万三千台、五十九年には約十五万台というふうに急速に普及してきた。そういうことが背景にあるわけです。
そういうわけでこの領域はいろいろな大学で研究と教育が行われていますが、それはいろいろ名前で呼ばれております。例えば経営科学という名前で呼ばれた。・あるいは管理科学と呼ばれたり、あるいは管理工学というぐあいです。例えば慶応大学の工学部では管理工学科というものを持っておりますし、工学系と文科系とがともにこの分野の研究、教育を推進しているということになるわけです。
社会工学の出発点
―PPBSの挫折を超えて
以上が管理工学というものの歴史的までありますけれども、それとともに実は同じような考え方が、ビジネス、あるいは軍事だけでなくて政府公共部門でも使えるのではないかと考えられるようになってきました。特にアメリカではケネディ政権の時代に、ケネディ政権というのは行政の合理化とか科学化というのに非常に強い関心を持った政権であったわけですけれども、そのケネディ政権の成立のときに、当時フォード自動車工業の副社長であったマクナマラを国防長官にしました。
マクナマラの考え方は、ベトナム戦争でコンビュータによる作戦をたてたがそれが失敗したとか、そういうようなことである意味では非常に悪口を言われている人でありますけれども、しかし、私はマクナマラの著書などを見ますと、非常に優れた考え方を持っている人だと思います。
例えば一つの考え方としては、軍務に就いている人たちがいずれは民間に返るわけですが、民間に返るにはそれなりの訓練が必要である。そういうようなことから軍務に携わっている間に民間への復帰のための訓練をすることが望ましいということで、軍のキャンプの中で例えば経営学とか、そういうようなものの教育を受ける機会を与えるというようなことを考えたのもマクナマラであります。それから、国防というものは絶対必要なものであるので、したがって国防費はどれくらい必要であるか、ハウ・マッチということは問うてはならない。絶対必要なものはどうしても確保すべきであるという、そういう考え方が支配的だったわけですけれども、しかし国防にも経済学が必要であるとマクナマラは主張しました。国防にも、その効果と費用というものを考えて、国防費はどれだけ必要であるかという、そういう考え方が重要であるというようなことを主張したのでありまして、そういう意味で国防部門に経済学を持ち込んだということも言われるわけです。
そのマクナマラが政府部門の予算編成、特に国防の予算編成においていまいった経済学的な考え方を導入する必要があるということから、アメリカ政府が採用したのが、いわゆるPPBS (プランニング・プログラミング・バジェティング・システム)というシステムでありまして、そのシステムをその後国防だけでなくて民事諸省庁にも導入するということがジョンソン大統領時代に決められた。それが日本で言うとちょうど昭和四十年代の初めです。その頃日本の民間企業ではコンピュータをベースにした経営情報システム、マネジメント・インフォメーション・システムという、それのいわばブーム的な状況がありまして、そのMISについてアメリカの状況を視察するために財界のトップの人たちが構成した視察団がアメリカに参りました。そのアメリカで行政部門ではPPBSという考え方を取り入れ始めているということを見まして、帰国後日本でもその検討をしたらどうかということを時の佐藤総理に提言いたしました。それがきっかけで日本でもPPBSの研究に取りかかるということになりました。しかしアメリカのように早急に制度として導入するということではなくて、まず研究から始めるということで・経済企画庁の中にシステム分析調査室という研究機関を設けました。私はそこの初代の室長ということで、当時大学と総理府の事務官を兼任ということで企画庁の方に週二日出勤するという形でその研究の指導に当たりました。
そのようなシステムの基礎にあるものは、やはり管理工学と同じょうな考え方で、それが政府行政機関でも使えるということをベースにその研究に携ったわけですが、三年間その研究をやりました。その間、結果的にはアメリカでもPPBSは形の上では挫折しましたが、それというのは形の上だけの挫折でありまして・実質的にはその考え方がいまでもずっと残っております。当時日本でもアメリカの状況を見ておりましたものですから、そういう意味では日本でも同じようにPPBSの採用には至りませんでしたが、しかしその影響は今日でも非常に大きく残っております。
そのときの経験と申しますと、例えば予算編成のよう仕事荏事は、決してエコノミクスだけの問題ではない。例えば政治的な要素、官庁組織の中のパワーポリティクスみたいなものと非常に密接な関係を持っている。それから組織というようなものにも非常に密接な関係がある。したがって経済的な合理性だけでそういうシステムを確立しようとしても挫折をするということです。官庁組織の中で、あるいは官庁と政党と、行政と政治、そういうようなものの狭間にあって貫かれるものは経済合理性だけではなくて、政治合理性とか、もっと合理性というものを広く解釈しないといけない。そういうことが最大の教訓であったと思うわけです。アメリカのPPBSもまさにそういう経済合理性だけで考えたということから挫折をしたということであるわけです。
そういうことを契機に、政策科学というような考え方が勢いを増してまいりました。これは通常人間が社会的な活動動する場合に個人の力ではどうにもなりませんので、組織としての活動に頼ることになるわけですが、そういう人間のつくる組織というものを考えた場合に、その中で働く様々な合理性、それをいわば総合的に理解しなければ組織の中での政策なり意思決定なりが効果的にできない。そういうことの理解から政策科学というような考え方が、特に一九七〇年代に入って強くなってまいりました。
きょうお話しする社会工学というものもそういうような動きと密接に関係をしているわけでありまして、したがって、先ほど御紹介しましたように筑波大学に経営政策科学という大学院ができましたのもそのような背景があります。経営政策科学というのは経営科学と政策科学という意味でして、経営科学、すなわち一橋の管理工学に当たるものと政策科学、その両方を研究、教育する大学院です。しかもその大学院には企業及び官庁から、企業の人たちには経営科学を、官庁の人たちには政策科学をというような、大まかにそういうことになろうかと思いますが、そういう趣旨でできたものが経営政策科学研究科というものであるわけです。そういうわけで現在一橋での管理工学というのは、商学部でビジネスを対象としたものでありますけれども、しかしビジネスだけでなくてもっと広い適用傾城を持つということで、そういうようなことがきょうのお話の社会工学という考え方の出発点であるわけです。
一橋大学が現在抱えている問題と社会工学部に関する私の提言
― 「一橋の二十一世紀へ向けて」 ―
そこで社会工学というテーマに入りたいと思いますが、社会工学とは何かということは、私自身もどういうふうに定義していいのかちゃんとわかっているわけではございませんので、感覚的にこういうものが必要であるというようなお話をしたい。そして恐らく皆様方も感覚的には十分おわかりになることと思いますので、単に社会工学というものの話でなくて、特に一橋大学が現在抱えている問題と今後の方向というようなこと、したがって学問その問題の話というよりも大学自身の抱えている問題と絡めてお話を申し上げたいと思うんです。
お手元にお配りしましたプリント(編者注―「附録」ご参照)が二つございますが、一つは昨年の四月の『如水
会報』に書かせていただいたものなのですが・これは如水会員の皆様に大学の現在の事情、それから長期的な将来に向けての問題を御理解いただいて、大学の外から―大学というところは改革の力なり、新しいものを内から生み出す力というのがなかなか働らきにくいものですから、− 会員の皆様に是非声をいただきたいというようなことで書いたものです。もう一は、それに対する反応を寄せてほしいということで求めたわけですが、私はこれを見て、これだけの反応しかないのかと、正直な話非常にがっかりいたしました。きょうは特に有力な先輩の方々が集まっておられますので、もう一度これをこの機会に訴えさせていただきたいと思います。
これを四月号に書いた直後に、私病気になってしまいまして、延べ五ヵ月ぐらい入院してしまったものですから、反応を見てそれに対する反論を書こうと思ったのですが、ちょうどそのとき病気が最悪の状態でしたので、とても気力がなくて、まだ反論を書いておりません。それで今日の機会を利用させて頂くわけです。
二十一世紀まであとわずかになって、いろいろなところで二十一世紀に向けてという作業が進んでいるわけで、国のレベルでも民間でも様々な報告書が作られています。
例えば経済企画庁でも二、三年前に二十一世紀へ向けての展望作業をやりました。大学でも長期構想委員会というものを設けまして、私も病気で辞任をしましたが、それまでは委員になってやっておりました。しかし、長期構想委員会というのもなぜそれができたかということを打ち明けていいますと、そのきっかけは昨年度の概算要求に向けて法学部と社会学部が学生定員増という計画を出してきたことです。一橋がいままでどういうふうに成長してきたか。現在学生定員九百二十人。今年は増募でちょっと多かったのですが、定員は九百二十人です。新制大学が発足したときは四百四十人でありました。したがって学生数では倍以上に成長いたしておりますし、講座数でもほぼ倍になっております。昭和二十七年には五十二講座だったわけですが、現在は百程度になっております。
その成長がどういうふうに行われてきたかというと、これほどの学問がより重要であるというような判断は大学としてはできませんので、各学部が、今度は自分の学部、今度はこの学部ということで、いわば交替的に定員増を繰り返してきたわけです。したがって順番というような格好で、それで大体バランスをとって進む。ただ、商、経は伝統が法、社よりもやや古いので、最初から定員に格差がございましたから、その格差がある程度目安になって、現在、商、経が二百五十人ずつで、法、社が二百十人ずつとなっています。こんな、バランスでこれまで成長してきた。ところが国立のキャンパスも非常に過密になってきまして、小平とあわせて物理的には収容限界がきているのではないかと考えられており、一説には一学年千人とか千二百人というのが限界といわれています。
それから、意見を寄せてくれた(編者注―「附録」(2)ご参照)上條君のように学生の質が落ちているのは多くとり過ぎているからというわけで、逆に減らせというような意見も相当あるわけです。
そういうわけで一橋大学は現在成長の限界にきているという考え方があるわけです。したがっていままでと同じように交替的に、順番で増員を繰り返していたらば、結局大学をどういう基本的な方向に持っていこうかというようなことを考えることなしに、ただ四学部のバランス関係で講座増設なり学生増が続いていくということになるのではないか。したがっていままでの定員増加、成長のやり方を根本的に検討する必要があるのではないかという意見を申しました。その意見が入れられまして、それでは長期構想ということで考えようということになったわけです。法学部、社会学部の定員増の要求に対してそれを認めないというのは、いままでのことからすると、学内のパワーポリティクスから言うと非常に具合の悪いことなんで、したがって認めないで何にもしないというわけにはいかない。根本から考え直す必要があるということにしないといけない。そういう意味では趣旨としては長期を考える委員会ということですが、きっかけは非常に短期的な問題から出発しているということが言えます。
それが発足しますと、すぐ当面の問題として国際交流会館をつくるという問題がありました。国際交流会館というと非常に名称はいいんですけれども、実は海外からの研究者とか留学生の宿泊施設なんです。もっと本当に国際交流の実を挙げるような施設、設備を持ったものが望ましいわけですけれども、しかし国の方針として国際化の進展に備えてそういう国際交流会館という名前で宿泊施設をつくる。大学からの設置要求を受け付けるからという文部省からの方針が示されまして、それで急いで設置案を検討することが必要となりました。そこで定員増とこの問題との二つが委員会の検討課題になりました。そういう意味では長期的な問題を短期的に処理するような役割りを持って出発したわけです。
他方で長期的な構想と関連させて考えなければならない大きな問題として新学部問題と小平キャンパス問題とがあります。新学部問題はいわゆる前期問題というものから出発しています。
実はこの問題というのは外部の方には非常におわかりにくいわけですけれども、新制大学になりましてどの大学にも一般教養部があるわけですが、そこで例えば語学を教えておられる先生方はもちろん文学部とか、そういうところの御出身の方が大部分であります。ところが一橋の場合専門学部には文学部がないものですから、したがって教養課程の教育だけで、専門課程の教育には余りタッチできない。また専門課程がないと大学院がなく、大学院の担当といぅものがないわけです。それは大学院手当というような待遇上の問題にもつながります。また教育者として大学院がないと後継者養成にもタッチできない。そういうことから、教養課程教育の担当の先生方としてもやはり大学院というようなものにつながるような、そういう教育体制がほしいということがあるわけです。
それで一般教育の場は現在もちろん小平でありまして、先生方は小平に主として勤務されるわけでありますけれども、しかしながら組織の上では現在は四つの専門学部に形式的に着任順で、非常に形式的に配属されてしまうわけです。これは語学の先生のほか、理科系や体育系の先生方も同じです。そういうわけで大学院にまでつながるような新しい専門学部を持ちたいということで出てきたのが新学部問題ということで、これは十年以上の年月をかけてやってきたわけですけれども、二年はど前にようやく全学的に合意した新学部案というものができました。それで文部省に対する概算要求へ一歩踏み出したわけですけれども、現在のような財政状態の中で、そういうようなものがいつ実現できるか見当もつかないという状況です。しかもその新学部も現在のところ、学生定員八十人という構想で出発することになっておりますから、これも当然定員増につながるわけです。
この問題が大学の中で現在一番大きな問題で、それと密接にかかわりを持つ大きな問題が小平キャンパスの問題です。大学課程の四年一貫的な教育が望ましいわけですが、キャンパスが二カ所に分かれておりますと何かと支障があります。そこでキャンパスを統合するという考えが当然出てくる。しかし統合する場合に問題は、小平をどう利用するかということです。そうすると現在のところ例えば体育施設、そういうような利用の仕方ぐらいしか考えつかないわけでありますが、しかしそれだけのために小平キャンパスを持つということは、まず文部省の方で通らない。したがって小平を放棄してその見返りでもって国立の方に設備をつくる。そういう案と、いや小平を手放すのはあれだけのものをもったいないという考えとで対立しまして、これも長年やってきているわけですが、結局小平を捨て切れないでいるわけです。私は新学部問題委員会の委員でもありましたし、その委員会の席上で新学部をつくるということには合意をいたしました。しかし新学部の問題と小平の問題とが関連して、問題には教官サイドの問題ともう一つの重要な側面があります。それは教育問題です。
現在の状況のもとではすべての先生方の研究室は国立にあります。小平には研究室はほとんどありません。ほんの少し分室的なものしかありません。そうしますと、小平の教育は、早い話が全員が非常勤話師と同じようなものです。私たちも小平に行って講義をする。しかし講義が終わって学生が質問があると言っても、国立に行く車が待っているということで時間もなくて、学生の質問にろくに答えられずに、すぐ国立に移動しなければいけない。そういうことで小平にはいわばレジデントの教官というのが−人もいないという状況であります。そういう状況のもとで教育が本当にうまくいくはずはないわけで、そのために小平の教育は非常に荒れているというふうに私は思います。ある意味では学生を二年間遊ばせるのもいいのかもしれません。しかし、いわば放りばなしで遊ばせているという感じであります。もちろん現在の時代に旧制高校的な教育というものは望み得べくもあ。ませんが、教養課程二年間レジデント教官のいないキャンパスで学ばせるということは教育的にきわめてよくないということは明らかだと思います。
そこで私は、新学部をつくる。しかし新学部の先生方は小平に研究室を持っていただいてということを主張いたしました。私以外にもごく少数の人がそういうことを主張した。そうしたら総スカンを食いました。私は、小平の研究・教育環境を、大学としては戦略的に資源を重点投入しまして、非常に立派に設備をし、教職員とか学生の居住性を大幅に向上させるという条件で、小平に主たる研究室を持っていただくという意見だったのですが、新学部の大部分の先生方はそれに対して絶対反対でありまして、やはり国立に研究室を持ちたいと言う。そこで私は、それでは小平と国立と両方に新学部の先生方は研究室を持ったらどうか。そのためには大学としても例えば後援会基金を全部使ってもいいというくらいの姿勢でやったらどうかということを申したんですけれども、それにも消極的な反応でありまして、結局、小平に居を定めて学生の教育、あるいは研究に当たろうという考え方はないということです。そうすると新学部がせっかくでき上がっても、確かに教官の組織あるいは待遇問題は解決いたしますけれども、教育問題が解決しないわけです。
そこで私は、それならばそんなに荷厄介になっているものをもらおうではないかと。もらうについては小平にどういうものを考えるか。そこで社会工学部というものを考えるということをここで提唱したわけであります。大学が当面抱えているこのような大問題は二十一世紀に向けて、いやそれ以前に解決しておかなければならない問題であるといえます。これが私の提案の背景にあるということをまず御理解いただきたいと思うわけです。
これに対して、『如水会報』の誌上でのレスポンスの中ではどなたもそれに全く触れておりません。これは問題が非常におわかりにくく、十分に理解できないために社会工学部ということだけに反応されたということでしょうが、こういう機会に是非とも、大学がいま抱えている重要な問題と非常に密接なかかわりがあるということを御理解いただきたいと思います。
小平キャンパスに社会工学部を
そこで結論的に言いますと、小平キャンパスに社会工学部 ― 社会工学部という、そういう名前でいいかどうかということはありますが、あるいは先ほど来ちょっと出ております政策科学部とか、あるいは政策工学部とか、そういうような名称でもいいと思いますし、あるいは社会システム学部というような名称でもいいのではないかと思います。現在社会工学という名前が用いられているのは東京工大の社会工学科。これが昭和四十一年創設です。筑波大学の第三学群の社会工学系。これが昭和五十二年の設立です。
私は筑波大学の創設にも少しかかわりを持ちましたのですが、そのときに社会工学というものを筑波大学につくるときの計画に参画をいたしました。その際に社会工学について少し深く考えたのですが、それよりも前に一橋の中でそういうことを議論いたしましたのはまだ昭和三十四、五年頃、当時物理学の教授であった杉田元宣先生や、まだ助手でおられた片岡信二先生たちと小さな研究会を持ちまして、社会工学というようなことを話題にしたことがあります。そういうわけでかなり古くから考えていたわけですけれども、明確に社会工学という名前にかかわりを持ちましたのは筑波大学に社会工学系をつくられたときでありまして、そのときに私は文部省の大学設置審議会の専門委員として社会工学系の審査に当たりました。そのとき東京工大の社会工学科からも審査の先生がお二人出られまして、他に東大からお一人と合計四人で審査をしました。そのとき東工大の社会工学のお一人の教授は、筑波大学のカリキュラムを見てみると、設計、図面を描くという教育がない。これでは社会工学という「工学」という名をつけるに値しない。したがってこういうところを手直しをすべきであるというようなことを主張されました。私はそれに対して設計、図面が描けるか描けないかということは、工学としての社会工学では必要であろうけども、筑波大学の社会工学は社会科学としての社会工学であるので、そのような設計、図面、線引きをすることができないとか、そういう教育を重視するとか、そういうようなことはなくともいいのではないかということで対立をいたしました。結局、社会科学としての社会工学という考え方が認められまして、筑波大学に社会工学系という大きな学系ができたわけであります。しかし筑波大学の社会工学が本当に理想的な社会工学かというと問題がないわけではありません。
というのは、背景にはどろどろした現実の問題があるわけでして、御承知のように筑波大学は教育大が発展的に解消したものでありますが、教育大学の経済学、あるいは法学というような社会科学系は伝統的に大体マルクス系が主流を占めてきました。それが新制の筑波大学の社会科学系として移行したわけです。そうしますと新しい近代経済学とか、あるいは数量的な管理工学とか、そういうものも含めて新しい近代経済学系の社会科学というようなものはないということになります。そこで旧教育大系のものと別途にそれをつくるということで、そのために社会工学という名前を使ったのであります。そういう意味では本当に社会工学というものの根本から出発してできた社会工学系ではないといえると思います。そういう事情もあって、それは、近代経済学系が主流の経済学部といった色彩の強いものとなっているわけです。
私は、いま申し上げましたように工学としての社会工学と社会科学としての社会工学と二つがあってもいいのではないかというふうに考えております。そういうわけで社会科学としての社会工学部というものを構想するということをここに書いたのですが、それに対するレスポンスで上條君と岡田さんはお二人とも、工学系の工学部をつくれという提言と誤解をされておりまして、特に上條君の場合には・工学部をつくっても早稲田とか慶應の工学部よりも低く見られるのが確実だ。イメージダウンに拍車をかけるだけだというようなことを書いておられますが、これは私の社会科学としての社会工学ということをよく読んでいただいていないということであります。また岡田さんの御意見も、(編者注−−「附録」(2)参照)工学部をつくりなさいという御意見でありまして、そういう意味では私の趣旨を十分に読み取っていただいていないということになるわけです。
そこで、それでは社会工学とは何かということになると私も十分に自信をもった定義を下せませんが、簡単に言ってしまえば社会現象に対して工学的アプローチによって研究するということになろうかと考えます。研究対象は社会科学と同じで社会諸現象を対象とする。しかしその研究方法として工学的なアプローチを採用するというようなことになろうかと思うわけです。すなわち数理的・分析的、また実験的・実証的、そういうようなアプローチです。しかし工学的というとちょっと狭くなり過ぎるかもしれまけんから、そういう意味では社会工学という言葉が適当であるかどうかわかりません。あるいは社会システム学というような言葉を使う方がいいのではないかとも思います。しかしそういうようなアプローチは現在すでにいろいろな学問領域に浸透してきておりまして、その意味では現在の一橋の四学部の中に社会工学というものに含めてもいいものがたくさんあるわけです。したがいまして、私は既存の四学部を再編成しまして適当なものを社会工学部に移し、それに対して若干の新講座を追加することによって、学際的な新学部をつくったらどうかと思います。そういうような新学部における教育とか研究は、一橋大学が世界に誇る国立の中央図書館の歴史的な書物の蓄積、そういうようなものよりも、新しい情報とか通信などの技術に支えられたコンビユータ、外部情報へのアクセス、国内的、国際的なデータベースへのアクセスとか、あるいは外部の諸機関とのネットワークとか、近年のニューメディアサービス、そういうような新しい技術に大きく依存するものです。
したがって小平キャンパスへ大規模な投資をすることによって小平キャンパスの地理的なハンディキャップを相殺するということを大学として決意をし、国立地区には現在概算要求中の新しい学部をもおく。その新学部の中には現在語学とか体育とか理工系も入るという案になっているわけですが、特に理工系を新しい学部に入れるというのは非常に座わりが悪い。それより理工系は新しい社会工学部の中に収容する。それによって現在の新学部の構成もかなりすっきりしたものになります。そこで国立地区にはそういう新学部も含めて既存の学部を置き、一橋の伝統的なアカデミズムを継承する諸講座を収容する。それとともに教養課程も収容しまして一貫教育をやる。小平地区には新しい社会工学部を全部収容しまして、そこでも社会工学について四年一貫教育をやる。ただ、いうまでもなく既存学部とそれから新しい社会工学の間で当然研究上あるいは教育上の交流は必要でありますから・その問題は残るわけですが、しかしそのかなりの部分は学生とか教官を物理的に移動させるのではなくて、二つのキャンパスを新しい光ファイバーによる、情報通信回線でつないで、その情報の移動で物理的な交流を補ったらどうか。
そのためには、幸い小平キャンパスの脇に多摩川上水の跡があります。多摩川上水を通りまして武蔵野線に抜けまして、あとは国鉄との話し合いで国鉄の線路を通りまして国立駅まで。そしてあとは国立のキャンパスまで、そのところを手当てをすれば、この光ファイバーが引けるわけであります。いままで、例えば小平と国立の間にモノレールをつくったらどうかと、そんな極端な意見も出ているわけですが、そんなことが財政的に許されるはずがありません。しかしそういう情報の回路、チャンネルというものであれば十分に可能なのではないか。そういう形にして社会工学部というものを小平につくる。それによって小平を厄介ものとしてだれも住みたくない、しかし放棄するのは惜しい、そういうことから大学としてもう二十年近くも悩んできた四年一貫教育、小平の教育の問題、それから新しい学部の問題、そういう諸問題を一挙に解決する。これまでいつも行き詰まってきた一橋大学の改革の過去の歴史を振り返ってみますと、こういうような新しい案が必要ではないかというふうに考えるわけです。
ところで、国立大学という条件のもとで、現在の財政事情でかなり巨額な予算要求を伴うこのような案は実現が非常にむずかしいのではないかという見方もありましょう。しかし大学としては二十一世紀に向けて小平キャンパスへ重点投資をする、そういう戦略的な意思決定を行いまして、それで二十一世紀の社会ニーズに適合した構想をつくり上げるということができれば、かなり新規予算の獲得も可能ではないかというふうに思うわけです。
上條氏の意見では、そんなものよりビジネススクールをつくれと。一橋の伝統からはビジネススクールが一番一橋らしいということでありますけれども、私はそれには反対というか、少くとも消極的です。現在一橋の商学部の経営学はすでにわが国では一番、他より群を抜いてよくなってきております。それをさらによくすることは必要です。しかしビジネススクールというのはまさに現在言われている民活でできるものである。一橋が長い伝統があるということでビジネススクールみたいなものをつくりたいといっても、そのために国家予算が出るということは、これからの財政事情では考えられない。ということはビジネススクールは民活でできること、しかも民活の方がよいものができると私は思いますので、したがって国立大学ということを放棄するならばともかくも、これは現在、あるいは将来的に二十一世紀に向けての国家財政、小さ政府、小さな行政というような、そういう方向へ向かっている大きな流れに反することになるわけです。それが認められると考えるのは−橋人の思い上がりと小さなエゴイズムとしか思えません。現実に民活で行われている様々などジネス教育、そういうようなものに匹敵する、あるいはそれをしのぐことができるようなビジネススクールをつくるというのは、これは大変なことであります。むしろ多くの大学からすぐれた人材を随時集め得るような民間機関の方がより優れたビジネススクールを持ち得ると思うわけです。あるいは私立大学がやろうと思えばその方がよりよいものができる可能性がある。そこで私としては、社会的なニーズがあるのはまさに社会工学であって、どこの大学でも、旧帝大系統でもそういうものは構想はありませんし、これは社会科学の総合大学を志向する一橋にこそふさわしい二十一世紀に向けて大きく一橋大学が飛躍するためにはこの線が一番いいのではないか。そのためには後援会の基金をすべてを投入するというような思い切ったこと、果実だけを使うといぅのではなくて、元金も全都使ってしまうというくらいの思い切った手も考える価値があるのではないかと思います。
こういうようなことに社会的なニーズがあると私が考える根拠の一つを書いておきましたけれども、一昨年科学技術会議議長−これは中曽根康弘氏であります ― から、内閣総理大臣、同じ中曽撮康弘氏が科学技術会議に諮問をしました諮問第十二号に対する答申が出ております。これは新たな情勢変化に対応して長期展望に立った科学技術振興の総合基本方策についてということで、二十一世紀に向けての国の科学技術の基本方向を考えて下さいという諮問に対する答申であります。その科学技術会議の中の計画部会というのに私も委員として参加をいたしました。これは大体工学系、理工系の先生が委員であるわけですが、社会科学系の委員では、大学からは私と、あと埼玉大学の政策科学研究科長の吉村教授と二人だけでありまして、あと日本興業銀行の望月常務と三人で、外は全部科学技術系の人たちばかりで、例えば、国立研究機関の研究所長や幹部クラスとか、あるいは理工系の大学の先生方。そのように圧倒的に理工系の方たちが集まった、そういう会議で次のような基本的な方向が打ち出されました。
第一に、現在の世界における日本の地位というものを考えると科学技術における創造性がまず要求される。いままでは真似というか、あるいは技術導入とか、先進諸国のものを導入するというようなことが基調であった。それに対して創造性豊かな科学技術の振興を図るべきである。これが二十一世紀に向けてまず第一に目指すべきもの。
第二に、科学技術と人間及び社会との調和ある発展を図るべきである。科学技術が人間とか社会を無視して、ひとり歩き、あるいは先走ってしまって困る。人間及び社会との調和ある発展を図ること。
三番目が、国際性を重視した展開を図る。この三つが基本的な柱として強調されているわけです。
これは理工系の先生方の圧倒的なメンバー構成の中からそういうような声が出てきているわけでして、特に創造性重視はあたりまえのことでしょうが、人間及び社会との調和を重視しなければならないという意識が強く出てきていることに注目しなければな.らないと思います。それから国際性も重要です。特にこのような人間及び社会との調和、あるいは国際性ということに関して社会科学とか人文科学が十分に貢献をしてはしいという要請があるわけです。これは私は非常に重要なことだと思っております。そういう時代的な要請とは、二十一世紀に向けて、特に現代の科学技術の進歩の激しい時代に痛切な要請であると思います。そういうことからも社会科学の総合大学としての一橋大学がそのような時代的なニーズに応えるということは、まさに一橋大学として一番ふさわしい方向ではないかと思うわけです。そういうニーズに応えるものが社会工学ではないだろうかということを折あるごとに小さなグループなどで私は申し上げてきたわけですが、幸いにして二、三年前に、森ビルの森社長からそのような方向を進めるための御援助を頂きました、― 森社長のお話のきっかけは、自分のところは、特に人間と都市との調和というような観点を考えて都市開発事業に携ってきているけれども、自分の母校である一議から最近学生が来ない。来ても余り優秀な学生が来てくれない。それに対して東大の都市工学とか、あるいは東京工大の社会工学から非常にいい学生が来てくれる。自分としては社会科学の背景をもった人間がもっと欲しいと思うのだが、一橋が社会科学の大学として、もう少しこぅいう都市の問題、しかも工学的な領域との触れ合いを含んだ都市工学的な領域での人材を育ててもらいたい、といぅお話だったんです。そこで社会科学の大学としてこの分野の教育、研究を推進してほしいということから多額の御寄贈の申し出を受けたのでございました。それを、宮沢前学長と私たちが間に立ちましていろいろ検討いたしましたが、森社長は寄付講座を設けたいという御希望だったんですが、非常に残念なことに寄付講座というものが現在の国立大学の枠の中では非常にむずかしい。結局そういうことができないということになりました。また、初めのお申出の金額が巨額でしたので、そういう特定の領域を限定して寄付を受けるということが学内的には非常にむずかしい。何に使ってもよろしいということであれば非常にありがたくすぐお受けできるのですが、こういう領域に限定してということになりますとそういう一部の研究、教育のために巨額なお金をいただくことは受け入れがむずかしいということから、最初のお申出比べると少なくなってしまいましたが、それでも一億円を御寄贈いただきました。それをもとに森社会工学学術奨励金というものをつくりまして、社会工学に関する学内での研究、教育に充てようということになり、二年くらい前に発足いたしました。森社長は社会科学領域と真に融合した都市計画、都市工学、より広くは社会工学の研究、教育を促進するということが社会的なニーズであろうというお考えです。私も同じような意味で社会工学というものに一橋が取り組む必要があると思います。
私自身も菅理工学というものを一応形を調えましたので、社会工学の方に移ってもいいとさえ思、っておりますが、しかしこれからの若い人たちが取り組んで欲しいと思っています。学内ではまだこれに対するレスポンスがほとんどありませんし、また非常に期待した如水会サイドのレスポンスもわずかで私は失望しております。そして入院していなければもう一度「如水会報』に書かせていただいて私の趣旨をもう少し敷衍したいというふうに思っておりました。そのときにたまたまこのような機会をいただきまして、多くの大先輩のおられる前でお話しし、この複雑な問題をよく御理解いただいて、是非いろいろな意味で御声援をいただきたいと思うわけです。
最後に、いま御出席いただいている秋草先輩も御存知と思いますが、ATTが有名な、『第三の波』の著者アルビン・トフラーに一九六十何年でしたか、将来のATTについてのレポートを依頼しました。そのレポートが出版されて、最近翻訳も出ているわけですが、その中で、ATTにはベル・ラボラトリーというノーベル賞受賞者もたくさん抱えている立派な技術研究所がある。しかしATTのこれからを考えて見ると、産業社会における会社、要するにインダストリアルソサエティの企業から、確かスープラインダストリアルという言葉を使っていたと思いますが、現在よく使われている言葉で言えば情報化社会、あるいはポスト・インダストリアル・ソサエティ、産業化後の社会におけるATTへと変身をとげなければならない。そのためには、ベルの技術研究所と並んで、ベル・ビへービオラル・ラボラトリー(BBL)、ベル行動研究所とでもいいますか、これはまさに社会科学的あるいは人間科学的な研究所ですけれども、それをつくる必要があるということを提案しています。それによってベルという工業化社会における巨大会社が脱工業化社会における巨大会社に変身できるのだというのです。
これは一九六〇年代のもので、非常に先見性のある提案だと私は思いますが、それに対してATTがどういうふうに対応したか私は詳しく知りません。そのような研究所はできていないと思いますが、要するに、巨大企業が技術研究所だけではなくて社会科学の領域まで目を向けた研究所をつくる必要があるのではないかという提案をしているわけです。
私はそれを読みまして、たまたま日立の中研がわれわれの大学のすぐそばにあるものですから、先日日立の吉山会長にお会いしたむきに、日立でも中研の中に社会科学的な立場から技術開発とか、企業の将来方向を眺めるという、そういうユニットなり研究機関を、小さいものでもいいからつくっていただけないかというようなことをお話しいたしました。しかし時間も十分なかったためその趣旨を十分に申し上げられなかったこともあり、そのときの吉山会長のレズポンスは、そういう研究は自分の会社の中でやるのではなくて寄付をいたしますということでしたので、いや寄付ということではなくて日立の中研の中にそういうものをつくっていただきたい、たまたま地理的にもわれわれの大学とはすぐそばである。お互いに密接な関係を持ってやっていけるような体制ができればありがたいというようなことを申し上げたんですが、結局雑談的なものにとどまってしまったわけです。
また私自身は、社会工学部というものが学内的にできないとすれば、これはもう全国の大学、あるいは国際的にも開放されたインスティチュートをつくってもいいのではないか。小平キャンパスをそのような全国的、あるいは国際的な社会システム研究のインスティチュートにして大学院大学をつくってもいいのではないか。そういうふうに利用するのが一番いいのではないかというふうにも考えております。単なる一つの小さな一橋大学のエゴイズムみたいなものではなくて、もっと社会的な価値のある開かれたインスティチュート。その中で一橋大学がリーダーシップを取るというような構想で全国さらには国際的な共同利用の研究教育施設をつくる。ベルのビへービオラル・ラボラトリーといったトフラーの構想などに匹敵するようなものを考えたらどうかというふうに考えております。
きょうは学問のお話というよりも、大学の最近の動向とか長期的な問題とかについて御理解をいただき、その上での新しい構想についてというような趣旨のお話になりましたけれども、これで一応私のお話を終わりたいと思います。
(昭和六十一年四月二十五日収録)