一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第五十六号] 現代の数理経済学 一橋大学経済学部教授 山崎 昭
はじめに
ただいま御紹介頂きました山崎でございます。きょうは、「現代の数理経済学」ということでお話しをさせて頂きます。
実はきょうのお話に先立ち一橋の学問を考える会の講演録を幾つかお送りして頂いております。例えば荒憲治郎先生のお話と山田雄三先生のお話、それに宮沢健一先生のお話の内容などを読ませて頂きました。その多くが戦前の一橋における学問体系め流れを中心にまとめられていますが、きょうは主として戦後の数理経済学という意味で現代の数理経済学について、次のような順番でお話しさせて項きたいと思います。
最初に、「数理経済学」ということで私たちは何を指すかを簡単にお話しし、次いで、一九四〇年代以降における数理経済学の発展過程、特にいかなる問題意識によりいかなるテーマが研究されてきたかに関し手短かにお話しさせて頂きます。そして最後に、数理経済学という学問分野とそこでの発想方法に多少なりとも親しみを覚えて頂くために、ここ十数年間の経済の諸問題を大まかに五つほど取り上げ、それぞれの問題における数理経済学的あるいはミクロ経済学的な視点について解説させて頂きます。
数理経済学とは
最初に、数理経済学という学問ですが、この「数理経済学」という言葉の由来は、私よりも皆さん諸先輩方の方が詳しいと思います。福田先生のもとで教えを受けられた中山先生が最初に使われたのではないかと言われております。それで「数理経済学」の意味も中山先生の解釈に依存するわけですが、私も数理経済学ということで、いわゆる一般均衡理論を指すと解釈しております。
ここで一般均衡理論と言いますのは、ワルラスが一八七四年から一八七七年にかけて構築した多数財市場における価格決定の分析に関する経済理論であります。ワルラスの理論体系が数学的な方法によって定式化されたものであり、かつ非常に厳密な論理展開を与えましたことから、彼以後数理経済学と言えば伝統的一般均衡分析を中心とする理論体系を指すに至ったということが言えると思います。「伝統的」と言いましたが、私は次の二つの理由により「伝統的」という言葉を使用できると考えます。
第一に、数理経済学をわが国に定着させたあるいは根づかせた中山伊知郎先生がこのような見解をとられていたということ。第二に、ドブルー、マッケンジー、ヒルデンブランド、マスコレルという一九五〇年代以後世界の数理経済学を飛躍的に発展させた著名な学者たちが全く同様な考えを持って数理経済学の発展に取り組んできたこと。
以上の二つの理由から「伝統的」に一般均衡分析を数理経済学と言うのであると解釈させて頂きたいと思います。
数理経済学の発展
そこで次に戦後の数理経済学の発展をたどってみることにしたいと思います。
まず一九四〇年代の数理経済学の流れですが、ヒックス教授の『価値と資本』の初版が一九三九年に出版されました。それからサミュエルソン教授の『経済分析の基礎』の初版が一九四八年に出版されています。これらの仕事は、ワルラス理論の枠組みに依拠しっつ、マーシャルの『経済学原理』 (初版は一八九二年、最終版が一九二〇年)に見られる部分均衡論的な分析を一般均衡理論の枠組みに取り入れ、現在われわれがミクロ経済学という分析手法で理解しております学問体系の原型がこのときに完成したと言うことができるかと思います。さらに一九四〇年代にはワルラス体系の動学化が試みられました。また、ワルラスの一般均衡理論における均衡の安定性の分析が開始されたときでもあります。ヒックス、サミュエルソン等の仕事に代表される分析においては、需要関数や供給関数がいろいろな財の市場価格や、その他いろいろな外生変数―いわゆるパラメーター―に連続的に依存するという想定が置かれているのみならず、さらに微分可能であることが想定され、微分法を用いた解析的手法が多用されました。その結果、こうした解析的手法の経済分析における有効性が確立された時期であると言えるでしょう。
一九五〇年代になりますと、ヒックス、サミュエルソンらの仕事に続いて活発な研究が始まりました。まず第一に、それまで手が付けられずに残っていた重要な問題、すなわちワルラスの一般均衡理論体系そのものが均衡解を有し意味を持つものであるかどうかという根本的な問題があります。この問題は長らく決着が付けられずにいました。第二次大戦中にオーストリアの学者が一部ナチの追及を逃れてアメリカへ渡りました。それらオーストリア学派に近かった人たちの影響を受けて、アロー、フランス系アメリカ人のドブルー、さらにはマッケンジー、後に本学の教授になられた二階堂先生という方々がワルラスの一般均衡モデルにおける均衡解の存在問題を解決しました。この意味で、ワルラスの創始した一般均衡理論の基礎が確立されたと言えるのが一九五〇年という年代であります。
他方、この年代は一般均衡理論を応用するという面においてもかなりアクティブな時代でした。
と申しますのは、生産部門における一般均衡論の応用として、すでにレオンチェフが一九三〇年代頃から着手しておりました投入産出分析(産業連関分析ともよばれます) に関し続々とその成果が著書という形で公刊された時代でもあります。このレオンチェフの仕事によって、経済計画、あるいは資本蓄積、経済成長というような諸問題を考える際の一つの貴重な枠組みが提供されたということができるかと思います。
一九六〇年代の業績に移りましょう。一九六〇年代と言えば、言うまでもなくわが国が高度成長期を迎える時代であります。第二次世界大戦の戦中・戦後を通じて活発な経済活動を経験した米国のみならず、戦争の痛手をこうむったヨーロッパ諸国においても、この頃経済成長論が盛んであり、わが国においても資本蓄積論あるいは経済成長論に関する研究が、技術進歩、最適成長経路、あるいは動学的安定性などという視点から多数行われた時代であります。
この分野における著名な業績としましては、米国におけるソロー、 サミュエルソン、ラドナー、マッケンジー教授らの業績の他、英国におけるハロッド、ジョーン・ロビンソン教授らの業績があります。わが国においても、本学の荒先生の業績や、当時阪大におられ現在はロンドン大学におられる森嶋教授の業績があり、さらには二階堂、筑井、厚見教授らの業績があります。そのほかにもこの年代は日本の若手の数理経済学者が世界に羽ばたいていった時代でもあります。
これら一九六〇年代の資本蓄積論とか経済成長論に関する活発な仕事のはかに、伝統的な一般均衡理論、ワルラス体系においても一つ注目すべき結果が得られた年代でもあります。それは一般均衡モデルにおけるワルラス均衡(完全競争均衡、あるいは市場均衡と言った方が皆様にはなじみ深いかも知れません)と十九世紀のイギリスの経済学者エッジワースが導入したコアとの関係についての分析結果です。アメリカのドブルーとスカーフにより厳密な分析が行われました。
ここでワルラス均衡と言いますのは、いわゆる完全競争市場における価格体系と資源配分をあらわす概念です。より具体的に言えば次のようになります。消費部門においては、消費者が市場における価格体系を所与のものとして認識し、自己の所得あるいは資産水準のもとで購入できるいろいろな財・資産の組み合わせの中で最も好ましいものを選択すると考えることによって、消費者の側のいろいろな財・資産に対する需要が決定されるものと見ます。他方、生産部門では、生産者も市場におけるいろいろな財に対する価格体系、あるいは資源に対する価格体系を所与と考えて、そのもとで利潤を最大化するような財・サービスの組み合わせを生産すると考えることにより、生産セクターの供給行動が決定されるわけです。そして、需要量と供給量とが一致するレベルで経済全体の資源配分と価格体系が決定されると考えるのがワルラス均衡、あるいは完全競争市場における均衡です。
完全競争市場における資源配分と必ずしも市場経済という制度的な枠組みには依存しない競争メカニズムによって達成される資源配分とを対比することによって、市場における完全競争を理解することをエッジワースが試みました。
エッジワースの考えた競争メカニズムは次のようになります。各経済構成員はそれぞれの手持ちの財・資産と生産能力を考慮し、自分が有利になるように同種の利害関係を持った経済構成員同士のグループ ― これをコアリション(coalition)とよびます ― を結成する。各コアリションは現実の経済において達成されている資源配分よりもより好ましい配分を達成しようと試みるに違いない。そのような同種の利害関係を持ったグループによる競争体系を考えたのです。このような競争メカニズムは何も市場経済が営まれていることを前提としてませんから、価格が存在しないような経済制度においても考えられる競争メカニズムなのです。
ここに見られるエッジワースの問題意識は次のように解釈できるでしょう。ワルラス的市場では消費者であれ生産者であれ、市場における価格体系を所与と考え、自分たちは市場における価格メカニズムに対し直接的には何も影響を与えることができないと考えています。このように各経済構成員は受動的に行動していますから、市場は定義により完全競争的であるにすぎないのです。したがって、ワルラスが考えている世界では何か明示的な競争メカニズムがあってその中で完全競争的な世界における資源配分が出現するのではありません。強制的な定義により完全競争的な世界になっているにすぎないと言えるでしょう。そこでエッジワースは、市場という制度的フレームワークを前提としないとき、いかなる競争メカニズムがワルラスの考えていたような市場における完全競争と同等のメカニズムを生み出すかということを考えました。
さきほど説明しましたように、コアリションの形成を通して同じ利害関係を持つ人たちがみずからの利害とマッチするような方法で何か試みてみる ― 生産を試みたり、資源の再配分を試みたりする ― という競争メカニズムを考えたのです。このような競争メカニズムから生み出される資源配分とは、いかなるコアリションを結成してみても、もうそれ以上よりよい資源配分が達成できないような資源配分です。
以上のようなエッジワースの競争概念にもとづく資源配分を、ドブルトスカーフはコアに属する配分とよびまし
た。すなわち、いかなるコアリションを結成しそのコアリション内の資源の再配分を行うか、もしくは生産能力をフルに利用して、よりよい資源配分を達成しようとしても、さきに提示された資源配分より好ましい配分が出現しないような状況にあるとき、もとの配分をコア(core) ― 経済の核 ― に属する配分とよびます。文字通りコアに属する資源配分が、エッジワース的競争メカニズムを持つ経済の「核」なのです。エッジワースが示した第一の事実は、ヮルラス均衡、すなわち完全競争的な市場において達成される資源配分がコアに属するということです。これは、競争経済において達成される資源配分が社会的な意味での安定性を持っていることを主張するものと解釈されましょう。ある特殊な利害を持った人たちが寄り集まって何かもっと自分達にとって都合のいい配分を実現しようと思っても、市場において達成される配分より良いものは実現し得ません。そういう何かパワー・グループ的な結託をつくって資源の配分メカニズムに影響を与えようとしても、結局これまでより良いものは実現できませんというインプリケーシヨンを持っています。エッジワースはさらに重要な事実として第二に次のような指摘をしました。もし経済を構成する人たちの数がどんどん増加し人口が非常に多くなっていくような市場を考えれば、そこにおけるコアに属する配分は最終的に完全競争市場におけるワルラス均衡配分のみに限定されてくるということです。エッジワースが言った意味での競争は、必ずしも市場経済における競争ではないのですが、今説明したエッジワースが言った意味での社会的な勢力関係を考えたときの競争状態において達成される資源配分も、結局、市場における競争により達成される配分と全く同じような配分になっていくということを非常に特殊なモデルで説明したのです。このエッジワースの理論は、その後多くの経済学者に無視されていましたが、一九六〇年代にドブルーとスカーフはこの理論体系を掘り起こしてきて、一般的な形でわれわれの目の前に厳密な一つの命題として提示しました。以後エッジワースの命題は非常な脚
光を浴びると同時に、一般的衡分析における分析手法としても新たなるものが提示されたことになりました。
と言いますのは、エッジワースが考えていた問題では、ある一つの経済体系を取り上げ、その人口の増大とともに経済体系内の資源配分がどのように変化するかを定式化しなければなりません。したがってある意味では、全く異なる経済体系を比較しているような状況になるのです。伝統的に経済学者が行っていた分析手法では、ある一つの経済体系に注目し、そこにおける資源配分がどのように決定されるかということを見ていました。ある新しい税制度が導入されたら価格体系はどうなるであろうか。これまでの価格体系がゆがめられて資源配分が効率的でなくなってしまうのではないか。さらに所得分配の面から言っても生産者側に有利な配分になるのではないだろうかという懸念や疑問に答えるような形の分析【比較静学や比較動学】がなされていたのです。
ところがエッジワースが導入したコアの分析過程の中で、一つの経済にのみ目をとどめるのではなくて、種々の経済体系の観察者として客観的に体系の外に立ち、体系間に成立する法則性を見い出す必要性が生じました。多少オーバーな表現をすれば、宇宙の外から太陽系の地球を眺め、太陽系以外にも地球と同種の星はたくさんあることを認識します。そして、地球と似通った星を仮に地球の「コピー」あるいは単に「地球」とよんだとき、いろいろな地球(のコピー)にいる人口や資源、テクノロジーなどがかなり相違している可能性があります。それらを相互比較しつつ、一番目の地球から二番目の地球、二番目の地球から三番目の地球という具合に地球を比べていったときに、その一つの地球の列の中で最終的にはどういう状況に近づいていくのだろうかというような問題意識で見ているのです。経済分析を行っている者が経済体系の外に立ち客観的にどんどん移り変わっていく体系の姿を目に浮かべながら、究極的に一体どういうところに近づいていくのだろうかという問題意識で眺めているのです。それまでの経済分析のあり方に関して一つの注目すべき新風を吹き込んだと言うことができます。
一九六〇年代の三番目の業績は、実はいま長々と説明したエッジワースの業績を基礎とするドブルー、 スカーフの分析に刺激されて出てきた手法であります。ヘブライ大学のオーマン教授はもともと数学の先生で、その後プリンストンに渡ってゲーム理論を中心に研究してきた学者です。彼はドブルーとスカーフの分析に刺激され、数学の分野で言う測度論的なー般均衡分析を導入いたしました。測度論が何であるか、ここでお話ししてもそれほど意味がないと思いますのでお話ししません。ドブルー、スカーフの分析方法に関するさきの比喩で言いますと、地球の外に出ていろいろな地球、第一番目の地球、二番目の地球、三番目の地球というものを比べようとすると、どうしても無理があります。なぜならば、外形だけ全く同じような地球が二つあるとしても、もちろんそこに住んでいる人々は異なり、生産技術も、資源の量も違います。相異なる地球においてそれぞれの個々人に対する資源の配分の在り方、生産の仕方をどのように比較したらいいかは全く明らかではありません。同じ人がいる世界において比べるのであれば簡単です。Aさんは一番目の地球にいるよりも二番目の地球にいるときに受け取る種々の財・サービスの消費の方をより好ましいと思うのであれば、直接に比較し、二番目の地球における配分の方が良いと言えます。しかし異なる体系を比べようとしますと直接には比べられません。
そこでオーマン教授は、実質的にはいろいろ違う世界を比較するのですが、それらを超越したような純粋な世界 ― 一つの理念型 ― を抽象的に考えることを提案しました。理念型の中に異なる経済体系を「埋め込」んで比較すればよいのです。そこで導入されてきたのが、いわゆる測度論的一般均衡分析です。
オーマンの業績に関してはこれ以上深く立ち入ることはしないことにしまして、次に一九七〇年代の数理経済学の業績を非常に簡単に分類だけすることにいたします。
一九七〇年代はトピックとして見ますと、いろいろな分析が行われた時代でもあります。
第一番目は、一九六〇年代イスラエルのオーマン教授によって開発された測度論的一般均衡分析が一般均衡理論の研究者の中で受け入れられ、発展していった時代です。主としてボン大学のヒルデンブランド教授、あるいは現ハーバード大学のマスコレル教授、オーマンの弟子であったシュマイドラー教授などによって研究が進められました。
二番目には、聞きなれない言葉かと思いますが、正則経済、レギュラー・エコノミ1という考え方のもとに新しい分析が生まれました。これはさきほどから何回か名前が出ております、カリフォルニア大学バークレー校のドブルー教授が最初に導入し、その後ボン大学のディアカー教授、カリフォルニア大学のスナール教授、さらにはドブルーの弟子であった市石教授などによって正則経済の理論が発展しました。この正則経済の理論といいますのも考え方は、先はど申しましたように一つの経済の中に閉じこもって問題を見るのではなくて、抽象的にいろいろな経済というものを頭の中で考えて、ある特定の性質や法則性を持つような経済体系は一般によく見受けることができるような体系であるかどうかという発想法にもとづくものです。
より抽象的に言いますと、ありうべき経済全体を一つの集合と考えて、その中で何かわれわれの注目に値するような性質、例えば、一般均衡理論の問題で言えば、市場経済において成立する均衡価格が一意的に決まるという性質、あるいは均衡価格が安定的であるという性質、このような好ましい性質を持つ経済が果たして経済全体の集合の中で多いかどうかを問いかけるのです。もしある特定の性質や法則性を持つ経済が多いということを発見できるとすれば、次のような解釈を与えることが可能でしょう。つまり、もし経済の集合の中から神様がランダムに経済をピックアップされた場合に、例えば確率一でもってわれわれが現実に見る経済というのはそのような特定の性質、あるいは法則性を持つと主張できることになります。このような手法を初めて導入して経済分析を行ったのが、正則経済の理論であります。
三番目には、一九六〇年代のわが国の高度成長期に主として行われました最適成長理論がさらに発展し成熟していった時代でもあります。アメリカのシェンクマンとかマッケンジー教授などのほか、本学の武隈助教授などもこの分野で活躍されている人であります。
四番目は、不確実性を明示的に取り入れた一般均衡分析が一九七〇年代以降大きな発展を見せております。この発展に寄与したのは五〇年代後半に一般均衡体系における不確実性下の分析を導入したアローとかドブルー教授のはか、七〇年代の推進役となったバークレーのラドナー教授です。その後ラドナーに続いて分析を発展させておりますのがジョルダンとかベス・アレン、クレッブスらの経済学者です。不確実性下の均衡分析が扱う問題については、また後ほど具体例を幾つか取り上げて説明することができるかと思います。
五番目には、一時的均衡理論というモデル体系がこの時期に確立しました。一時的均衡理論というのは、不確実性下の均衡分析の一つの手法ですが、これは完全な先物市場が各期、各期存在していないことを明示的に前提し、したがって将来財に対する価格に不確実性が存在することを前提として、経済の構成員 ―消費者と生産者たち ― が行動した場合に、貨幣の価値や価格体系、経済における資源配分などが、標準的なワルラスの均衡体系におけるビへービアとどのように相違したビへービアを示すであろうかということを問題にした理論体系です。この一時的均衡理論を発展させたのはグラモンというフランスの経済学者で、ドブルーの弟子であります。そのほかハーバードのジェリー・グリーン教授やボン大学のソンダーマン教授などがこの分野で貢献しています。
最後に、七〇年代の新しい命題を提供した理論として、市場の超過需要関数に関する理論があります。これはアメリカのソネンシャイン教授が発見した事実にかかわる命題で、われわれ理論家にとっては必ずしも伝統的ミクロ分析の思考を伝統的な形のまま肯定するような命題ではありません。一九三〇 ― 四〇年代のヒックス教授あるいはサミュエルソン教授による古典的な名著のもとで育ってきたわれわれの世代の経済学者にとって、ある意味ではショッキングな発見がソネンシャインによってなされました。
そもそも伝統的な経済学の考え方では、一方で消費者の合理性を前提とします。すなわち、消費者は市場の価格を所与として考え、自分のできる範囲で最も有利なものを選んでくる。他方、生産部門にあっては、経営者の合理性を前提とし、市場で与えられた環境の中で企業にとって最も有利な形で生産活動に関する意思決定を行うものとします。このような消費者行動と生産者行動の合理性の前提を基軸とする経済分析から、意味のある経済法則を導出することができるという見方に根差して、ヒックス、サミュエルソン教授らは経済分析を発展させてきたと言えるでしょう。
一九七〇年代に入って経済学者のソネンシャインは、こうした伝統的かつ楽観的な見方に関して否定的な見解を示したのです。
消費者あるいは企業家たちが合理的に行動するという前提のみから経済の法則性を見出そうとしても、基本的に法則性は導出しえない。いかなる意味において法則性を導きえないかと言えば次のようになります。例えば大ざっばに表現しますと、市場における需要曲線として、普通は右下がりの需要曲線を教科書で書きます。また、供給曲線として右上がりの曲線を書き、Xの文字のように交差する一点で市場の均衡取引量と価格とが決定するという分析方法がいまだによく見受けられます。ソネンシャインは、仮に需要曲線として「めちゃくちゃな」曲線を例えば二歳の女の子に書かせてみたとして、そのような法則性の無い曲線は存在するであろうかということを問うてみたのです。答えは残念ながら否定的ではありませんでした。いかなる需要曲線であっても、例えば何もわけのわからない二歳か三歳の子に「曲線」を描かせて、それを需要曲線と呼んでやろうじゃないかとだれかが言い出したとしても、ソネンシャインはそういう「めちゃくちゃ」な「曲線」をその経済の需要曲線として生み出すような経済を見つけてくることができるということを証明してしまいました。ある意味ではこれはかなり大きな理論的インプリケーションを持つことになります。すなわち、ヒックス、サミュエルソン、という偉大な経済学者が持っていたような楽観主義はある意味では通じなくなったのです。もちろん、ソネンシャインを含めわれわれは、一九四〇年代の業績を否定するわけではありません。アメリカ流に言うとすれば、フリー・ランチはないというだけです。無料で昼食に招かれることなんてあり得ないのです。昼食会に招待されれば、やはりきちんとその分だけのコストを支払わされるのです。何か仕事をしなければ昼食会には招かれないという意味合いであります。では、経済学者はどこでフリー・ランチを食べようとしたかといいますと、単に消費者は合理的であり、生産者は合理的であるという情報のみによって非常に面白い、あるいは意味のあるような経済法則を見出すことができると信じていた点にあります。そのような前提があれば経済はある法則に従って動いていることを明らかにできると考えたのがただのお昼御飯を食べようとしたことの意味になりましょう。
ところで、われわれは経済構成員が合理的に行動するという情報以上に実際の情報を多く持っています。例えて言えば、いまの日本経済を見たときに、日本経済の技術水準はどういうものであるか、それから、人々の所得水準は二十年前と比べてどのように変わっているか、所得分配はどうなっているか、人々の嗜好はどう変化しているか等々に関しある程度の情報をわれわれは持っているわけですし、ここ三十年間で発達した実証分析の結果を応用することもできるはずなのです。ところが純粋理論分野においてはそのようなデータを全く利用せずに、分析を推し進めようとしてきました。したがって、ソネンシャインが見つけた定理の私の解釈は、フリー・ランチはないのだから純粋理論と言えども何らかの形でこれまでに積み上げられた実証分析の結果を理論の枠組みに取り入れて、そのもとで経済における法則性を見出していく新しい努力がなされなければならない、ということになるかと思います。
一九七〇年代中葉以降、ヒルデンブランド、マスコレル、ソンダーマン、ディアカーといった人々が、単に消費者とか生産者の合理性を前提とするのみならず、消費者の所得分布や消費者の嗜好分布、あるいは生産技術に関するいろいろな情報を理論体系に組み入れたような分析を推し進めていこうとしております。いろいろな分布を理論的分析に取り入れるということは非常に抽象的で次元の高い水準ですから、まだ現在のところ理論の発展段階としては単純な段階にとどまっています。それに関してこれまでに得られた結果というのは、所得分布が連続的であれば、あるいは嗜好分布にある特定の意味で散らばりがあれば、さらには生産技術の分布に一定の性質があれば、経済全体の需要や経済全休の生産技術はこれこれという性質を持つという程度の結果しか得られておりません。しかし、今後二十年間でこの分野の研究業績が挙がっていくものと個人的には大いに期待しています。
以上が、非常に簡単ではありますが戦後の数理経済学の発展をトピック的に見たお話であります。
ミクロ経済学の視点
そこで最後に数理経済学、あるい一般均衡論的な考え方、さらに広く言えば、ミクロ経済学的ないろいろな経済の諸問題の側面に親しみを持って頂くために、幾つかの具体例を示し、それに即して一般均衡論の視点を多少なりとも説明してみたいと思います。
まず一般均衡理論の基本的な視点、つまりミクロ経済学の基本的な視点を復習してみます。これは非常に単純な形で言えば、市場における価格機能を通じた資源配分のメカニズムは効率的にワークするかどうかということです。そして、もし何らかの理由で価格機能を通じた資源配分のメカニズムが効率的に機能していない場合1つまり、効率性が損なわれている場合―は、それを他の視点から、特に社会的な価値基準から、正当化できるものであるかどうかを検討しなければなりません。これがミクロ経済学における基本的な視点であります。大変ストレートフォワードでその視点に関しては疑問をはさむ余地はないと思います。このようなストレートフォアドな視点から、一体どれくらい政策的にものが言えるのでしょうか。このことが問題になると思います。われわれは以下政策問題の具体例を通じてこの二つの観点を説明してみたいと思います。
最初の具体例は企業合併の問題です。現在はそれほど騒がれておりませんが、八幡製鉄と富士製鉄が合併するときには確か二十人前後の近代経済学者が大きな広告を新聞に掲載し、企業合併に反対するという声明を出したことがあります。あのような声明の背景には何があったのでしょうか。それは両企業の合併が市場における価格メカニズムを阻害し、資源配分の効率性を損なうことになるという信念です。
ではなぜ資源配分の効率性が阻害されると考えられたのでしょうか。当時の八幡製鉄と富士製鉄のマーケット・シェァというのは相当ありまして、この両社の合併により市場の独占的支配力は明らかに強化されることになると考えられました。企業の市場における独占的支配力が増した場合に、どのような観点から市場における資源配分の効率性が損なわれるとミクロ経済学では考えるのでしょうか。
ところで、ワルラスの一般均衡分析では、このような市場の支配力を持つ企業は考えておりません。なぜならば、市場における価格を所与として行動する企業は、どれだけ市場で製品を販売しようと価格を下げることはありません。
また、どれだけ少なく販売しようと価格をつくり上げることもありません。そのような企業を想定した場合に、ワルラスが考えた市場における均衡では最も効率的な資源配分が達成されるという命題が導かれるのです。もしそのような完全競争的な世界に価格に対して影響力を持つような企業があらわれたならばどうなるのでしょうか。価格に対する影響力を考慮した生産計画、あるいは価格政策を考えるような経営者が出てくるでしょう。これは当たりまえです。その場合何を考えるでしょうか。もちろん経営哲学によってはヒユーマニスティックな観点から利潤最大化を目標としない立場もあるかと思います。それも実証分析では明らかにされているところですが、理論的には単純に、例えば利潤最大化目標のみを追求する経営者がいた場合にどうなるかを考えます。どれだけ生産し、どれだけ販売するかということは、その企業のコントロール変数です。その企業が勝手に決めることができます。市場価格に対し大きな影響力を持っていますから、市場における需要法則が成立している世界では、より高い価格で販売できます。より多く売ろうとすればより低い価格で売らざるを得ません。販売水準はその企業の利準が最大になるところで決定するのです。このように生産・販売計画を決めるとき、いかなる価格水準が市場で支配的になるかといいますと、追加的な一単位の製品を生産するときのコストを上回るような市場価格になるのです。これがいかなる意味で市場における効率的な資源配分を阻害するかを直感的に説明します。消費者の方は価格に対して影響力を持っていませんから、消費者側がどれだけその製品に対するニーズを持っているかということは消費者側の需要を通じて市場の価格にシグナルとしてあらわれます。したがって、追加的な一単位と製品に対して消費者側がどれだけ支払う用意があるかというシグナルそのものが市場価格になっているとも言えましょう。ところが、市場支配力を持つ企業の場合はそれ以下のところで、すなわち追加的な一単位を生産するときの費用が市場価格を充分に下回るところで生産する方が利潤が高くなります。とすると、消費者はそのような製品の追加的一単位の生産費用以上に支払う用意がありますから、言わば、独占力を持つ生産者に対しどんどん生産して欲しい旨のシグナルを出しているにもかかわらず、生産者の方は早々と生産を打ちどめにしてしまうということになります。つまり、市場価格に対して支配力を持つに至ると企業は過少生産を行いその意味で資源配分上の害をもたらすというわけです。余りにも市場支配力を持つ企業が、利潤最大化のみを考えるとすれば、資源配分の効率性を阻害すると言わざるをえません。これが独占に対するミクロ経済学の伝統的な見解です。
二番目の例として一九八〇年代以降特に問題にされています自由化およびディレギュレーションの問題を考えてみます。
例えば現在では金融業、保険業、証券業の自由化あるいはディレギユレーヨンがアメリカに次いで日本でも話題になっています。自由化に関するミクロ経済学的なポイントは次のようになります。つまり、金融業、保険業、あるいはその他の産業何でも結構ですが、産業への自由な参入・退出が市場の完全競争性を保証するかどうかということです。
それから、ディレギユレーヨンの問題であれば、これは公的規制の撤廃ということですから、市場への政府の介人や公的規制を排除することにより競争的価格メカニズムの機能を促進することができるかどうかという点がポイントになります。
より具体体的に言えば、ある産業の自由化が問題になった場合に、その産業における自由な参入や退出を認めることが、その産業における競争性を増す方向に機能するのか。それとも俗に言う弱肉強食的に弱い企業がどんどん退出し、ある企業が強くなっていって市場における支配力が限りなく増大してしまうのかどうか。これは何に根差しているかといいますと、その産業における技術形能あ特殊性に依存しているのです。企業規模が大きくなればなるほど製品単位当たりの生産コストが逓減し効率性が高くなるような生産技術であるならば、市場における自由競争が進めば弱肉強食的にさきに大きな設備投資を行った企業の市場支配力が増幅され、産業の独占化が進行する可能性が強いと思われますから、その場合には、完全な自由化は好ましくないと言えるでしょう。
それから、ディレギュレーションの場合にも同様なことが言えます。ディレギュレーションは規制の撤廃ですから二つの側面があります。一つは規模に関する収益の逓増が見られるような産業であれば何らかの規制をしなければ競争が損なわれるという意味合いから公的規制をしている場合があります。この場合は市場競争性を維持するという観点から公的規制を導入していますから、ディレギュレーションがいいかどうかということに関しては、先はどの産業への自由な参入、退出を認めるべきか否かの問題点と似通っていると言えます。
もう一つは、市場の競争性を維持するために規制が導入されているのではなく、政府が何らかの社会的価値基準にもとづいて規制を行っている場合があります。例えば、政府が農産物の価格に関して何も介入をしないとすればどうでしょうか。われわれから見れば米価の場合に典型的であるように農産物市場というのは政府が介入しているが故に競争的に機能しなくなっています。したがって資源配分上好ましくないのですが、別の政策観点から、あるいは別の価値基準からそのような介入を行っていると考えられます。
もちろん、社会全体の資源配分の効率性という観点からは明らかに政府の市場介入は好ましくありません。農産物市場においてはディレギユレーヨンを行う方が資源配分上の効率性を高めるのです。しかし、農産物の市場におけるディレギュレーションを問警するときには、単に資源配分の効率性という視点から議論すべきなのかどうかということが重要なポイントになると思います。私個人としては、この問題を純粋に効率性的観点から判断するだけで充分であると考えています。しかしながら同時に別の価値基準から ― 例えば、日本全体の総合安全保障という視点から ― 考えてある程度の資源配分のロスはしょうがない、ある程度の農家を残しておくことも国策上好ましいんだ、という考え方もあながち間違っているとは言えません。現在の日本経済においてどちらの考え方がより多い賛同者を得られるかどうかということが一つの重要なファクターになるかと思います。
三番目の例は、特に土光さんが臨調に入りましたときから大きくクローズアップされた問題です。いわゆる民営化対公的経営の問題です。
具体例としては、すでに分割民営化が決まっております国鉄の問題、あるいはすでに民営化されました旧電電(NTT)、民営化路線上にあるわけではありませんが同列の次元で考えるとすれば、大学、郵便・郵貯等々が考えられます。
このような問題を考えるときのミクロ経済学的視点は何であるかといいますと、これまでの具体例と同様に、一方で資源配分の効率性を考え、他方効率性が損なわれると思われるときには、その他の社会的価値基準からその効率性が損なわれることを正当化できるかどうかが問われなければなりません。したがって、具体的な提言をする場合には当然のことながら理論上の基本的視点をふまえた上で理論的問題を離れてしまう必要が生じるのです。いろいろなデー夕から判断して、ある政策が導入された場合に、それが資源配分を阻害するだろうということを言えるとしても、その場合に、資源配分を損なうことをある社会的価値基準から正当化できないとは限りません。このとき、理論的な観点からその政策を実行することが正しいと言えませんから、もし完全に民主的な社会であれば国民投票で決めるしかないということになります。
しかしここで、注意をしておきたいことが一つあります。国鉄とか旧電電の民営化のような問題は以上のようにいろいろな価値判断が入り込む問題であるだけに、もう少し長い時間をかけて国民の合意を得ながら進められるべきであったということです。非常に素早く政治的過ぎる結着が得られたのではないかと懸念しております。いったん民営化へ向けて進み出しますと後戻りできませんから、ある意味で非常に大きな実験を行っていることになります。失敗すれば終わりです。社会的に非常に重要な問題であるだけに、この種の議論を政策当局はあせらずにやって頂きたいのです。皆さんの中にも何らかの形でこの問題に現在携わっておられるか、あるいは将来この種の問題に携わる立場におられる方もおいでになるかと思います。余りにもある一時期の政府の、しかもある特定の意見が強く出過ぎることは国民にとってハッピーなことではないと考えます。
四番目の例は外部性にかかわる問題です。これは一九八〇年代というよりもむしろ一九六〇年代の後半から一九七〇年代にかけてかなり注目された社会問題です。マイナスの側面から見た外部性の代表例は公害の問題です。技術開発はプラスの側面から見た外部性の一例でしょう。技術開発などによる外部性はこれからも問題になりましょう。ところで外部性というとき、われわれは何を指すのでしょうか。消費者なり生産者なり、経済構成員の個別的活動がはかの構成員の嗜好や選好、あるいは生産技術に直接的影響を与えることを指して外部性 ― エクスターナリティー ― と呼んでいます。ミクロ経済学的な観点からは単に「公害は悪というような言い方はできません。われわれ自身が公害をどれだけ好むか好まないかということを正確に反映したような経済活動が営まれないことは悪いという言い方になります。
外部性の問題に関するミクロ経済学的考え方を理解して頂くために、公害の問題についての考え方を例示しましょぅ。市場経済における価格機構は、公害という形の外部不経済を反映するような内部メカニズムを往々にして有していません。
例えばある企業が公害物質を川にたれ流したとします。たれ流しをしたときに他の構成員に対して全く影響を与えなければ、たれ流しをする事実というのは経済学的観点からは全く非難に値しません。しかしながら、もしたれ流しをすることによって他の企業の生産性が下落するとか、あるいは消費者の効用が減少するというような形での影響が見られるとすれば、そこに外部性という問題が出てくるのです。
ある企業の公害行為により他企業の生産性が低下したり、消費者の効用水準が低下するものとしましょう。このとき、空気を汚したりたれ流しをする企業がこのような公害行為に関して費用を払わなくとも済むとすれば、企業の生産活動における費用計算の中に、公害行為が他の構成員に対して生じさせる費用J他企業の生産性の低下や消費者の効用の低下―が入ってきません。その公害企業が競争的に市場価格を所与として行動するとしても、社会的に見て望ましいレベルより多く物を生産することになります。例えば他人や他企業に迷惑をかけたときに迷惑料を支払わなければならないとすれば、生産量を増やし公害をより多く発生することによって負担を強いられる迷惑料を考慮する分だけより少な目に生産せざるを得なくなります。そうすると社会的な観点からはより少ない生産の方が望まれるのですが、迷惑料を支払わないために、追加的壷位の生産に当たり企業の直接負担となる費用が、追加的な一単位を市場において販売したときに受け取る収入とちょうど等しいところまで生産を行うことになります。企業にとってはこのような産出水準において利潤が最大化されていることになります。ところが迷惑料を払いますと、迷惑料の分だけ追加的な一単位を生産することにより赤字になりますから、より少なく生産しなければならなくなります。そのより少なく生産する行為がミクロ経済学あるいは一般均衡論で言う最適な資源配分をもたらすのです。すなわち、公害を発生してはいけませんという言い方ではなくて、最適な公害水準であれということなのです。なぜ最適な公害水準であれと言って公害を完全に無くしなさいとは言えないのでしょうか。公害企業の製品であっても、消費者はその製品を消費することによって効用を得ています。したがって、公害企業といえども生産を完全にストップされては消費者自身が困るのです。公害も困るけれどもつくってほしい。ではどこで公害をストップするかというと、その製品をこれだけ支払うからつくってくださいという、追加的一単位の製品に対し消費者が支払ってもよいと思っている金額と、追加的一単位の生産に要する直接コストと実際の迷惑料を合計した費用とがちょうど一致するところでストップすることになります。これが経済全体から見て最適な資源配分の状況になっているのです。しかし一般には、外部性市場の価格メカニズムによって自動的には解決されません。何らかの形の政府の介入を必要とします。
公害の問題について言えば、理論的にその解決方法は非常に簡単です。他人に与える迷惑を公害企業が考慮に入れるよう公害税のようなものを導入すればよいのです。ただ実際上はどれだけの公害を発生したかを調べるのは困難ですから、現実の問題としては公害発生の度合いに依存するような公害税を導入する難しさはあります。理論上はとにかく迷惑料を企業が計算するようなシステムになっていれば、経済学的な公害問題は発生しないということです。
外部性に関するプラスの側面、外部経済を考えましょう。例えばある企業が技術開発をしたときに、開発された技術の内容を他企業が簡単に学ぶことができると、各企業は新しい技術を使って生産性を高めることができます。社会的には好ましいわけです。しかし、社会的なメリットや企業が得る利益は直接的には技術を開発した企業の利益ではありませんから、それのみでは技術開発をするインセンティブはありません。果たしていまの特許システムや市場における技術開発に対する報酬のシステムが、企業の最適な技術開発努力を生み出すようなメカニズムになっているかどうかが問題になります。もしなっていないとすれば何らかの形で市場以外に政府が研究の開発機構を整備していく必要があるでしょう。産業と共同の開発態勢を整える必要も生じます。この問題は公害とは対照的な側面の外部性ということができるでしょう。
具体例の最後、五番目の問題として、不確実性と情報の不完全性・非対称性の問題を取り上げます。これらの問題は一九七〇年代以降積極的に経済学において研究されている問題です。
例えば保険市場における逆選択―いわゆるアドバース・セレクション―とモラル・ハザードの問題、株式市場
における効率性の問題、最近証券界で問題になっております先物取引とかオプション取引の導入の意義の問題、などがあります。
ミクロ経済学的な視点から言って一体何が問題となっているのでしょうか。これを説明することにします。将来いろいろな事象が起こり得るのですが、想定し得るあらゆる状態に対応した完全な「条件付き」財市場がもし仮に存在するとすれば、市場価格メカニズムによる資源配分というのは非常に効率的になりますという命題が証明されています。不確実性に対する人々の予想やリスクに対する人々の態度を完全に反映した市場取引が可能だからです。この命題を証明した学者の名前にちなんで、アロー=ドブルーの定理と呼んでいます。しかし、現実に完全な「条件付き」財市場が存在するということは考えられません。例えば一九九九年二月一日十六時、東京において大震災が発生するという条件の下で財の取引契約を結ぶ市場が現時点で在存していなければならないのです。このような市場は現実的にあり得ないでしょう。また、完全な「条件付き」財市場が存在するということはある意味では完全な保険市場とか、完全な先物市場が存在することを意味しているのです。したがって、市場における価格機能が資源配分上十分な機能を発揮しているかどうかは、一方で保険市場における逆選択(アドバース・セレクション)とモラル・ハザードの問題を回避できるような制度的フレームワークを設定できるか否かに依存しており、他方では財の不完全な先物市場の機能を証券市場における先物取引やオプション取引がどの程度補完し得るかに依存していると言えましょう。
ここで逆選択とモラル・ハザードについて簡単な補足説明をする必要があるかと思います。逆選択やモラル・ハザードの現象は、保険市場の機能を阻害し、市場を消威させてしまうような力が現実の競争的保険市場に内在するという問題なのです。具体的にはどのような問題を指すのか、逆選択(アドバース・セレクション)の現象から説明しましょう。逆選択の問題は、中古車市場における価格メカニズムの理論的な問題として最初に注目されました。
御存じのように中古車の中には、買ってみて「ああよかった」と思う車と、買ってみて「ああ損をした」、一、二、回使ったら調子が悪くなってしまったという車があります。後者を英語では「レモン」と言います。果物のレモンというよりもむしろ「酸っぱかった」、「買って損をした」という意味でレモンと言っているのです。
さて、中古車市場を考えてみましょう。売り手は車の品質に関してそれがレモンであるかどうかを知っていると想定してよいでしょう。例えば五年間使用した車を売りに出そうというとき売り手はそれがレモンか否かもちろん知っていると言ってよいでしょう。しかし買い手の方は中古車の品質を知りません。売るときにラッカーを上塗りしてきれいにすれば、いい車だと買い手が思ってしまうことがよくあります。見ただけではレモンか否かの区別はつきません。実際に何度も乗り回してみてから買うということはできませんから、正確な車の品質を知らずに買い手側は購入するかしかないかの意思決定を行わざるを得ません。このような場合、中古車市場が競争的な市場であっても、市場で成立する中古車の価格は平均的な品質の車に対する市場価格になると考えて一般性を失わないでしょう。実際に市場に出回っている車の何パーセントかは品質の高い車であり、残り何パーセントかはレモンなのです。そういう平均的な品質に対する価格が市場における価格となっているのです。
さて、売り手の行動を考えてみましょう。私は中古車を持っているとします。もし私が合理的であるならば、車の買い替え時の一つの判断基準として中古車市場の価格を見るでしょう。私の車の品質を考えてみて、「レモンでなく非常に良い車だ」、「五年使ったにしてはまだ快調に走っている」と判断すれば、中古車市場の価格は、恐らく平均的な品質の車に対する価格ですから、特別な理由が無い限り1例えば、転勤で十年間日本を離れなければならなくなり、いますぐに車を売らないといけないというとき以外は−私は車を売り惜しみするでしょう。平均的品質の車に対する価格が市場で通用していますから・平均以上の品質を持つ車の所有者は特別な場合を除いてみな売り惜しみすることになります。その市場価格で売りに出したいと思う人は、明らかに平均以下の品質の車、つまりレモンの所有者です。したがって、市場に売りに出される車の品質は低下します。中古車の平均的品質は低下し、それに応じて中古車の市場価格は表と低下します。市場におけるよい品質の車の割合いはさらに減少しますから、このプロセスが続きますとついには中古車市場が消滅するおそれもあります。一般に何らかの手段が取られなければ中古車市場は、どうも成立の基盤が危うくなります。このように情報が不完全であり、製品の品質に関して不確実性があると、どうしても市場が収縮してしまう可能性があるのです。それを防ぐ手立ては考えられますが、それは特定の市場、市場で工夫して何か制度的なフレームワークによって保障しなければならないでしょう。一般的には不確実性が存在すると市場の価格メカニズムが逆に悪い方へ、悪い方へと品質を選択するということになりますから、われわれはこれを逆選択の現象、あるいは中古車市場の例にちなんでレモンの原理と呼んでいます。以上のように不確実性が存在する場
合はレモンの原理が機能し市場がなかなか発展しないのではないかというおそれがあります。
次にモラル・ハザードの説明に移ります。日本では国民健康保険制度や企業による健康保険が発達しています。しかし、健康保険に加入しているとちょっとした風邪でもすぐに医者にかかってしまうということを我々は経験的に知っています。すなわち保険に加入しているかどうかという事実がそれぞれの個々人の日常行動に影響を与えてしまうのです。
例えば、もし私が自動車保険に加入していなければ非常に注意深く車を運転するでしょう。ところが保険に加入してしまいますと少々の不注意運転で事故を起こしても保険によって新車同様に直してもらえますから、ある程度注意を怠ることがあります。すなわち保険に加入していなかったならば起こらなかったような経済的損害が、保険に入ることによって生じるような行動を各経済構成員がとってしまうのです。そもそも保険がなければそのような社会的な費用はかからなかったのですから、保険の存在自身が経済の効率性を低下させるように機能したことになります。これは二つの問題を生じさせます。一つは保険市場の発達を阻害することであり、今一つは、経済の効率性を直接的に低下させるということです。
例えば最近のアメリカの『タイムズ・マガジン』や『ニューズウィーク』誌などを見ていますと、ある分野の保険
は深刻な社会問題を引き起こしているようです。
一つの典型的な例が医者の医療損害賠償保険でしょう。手術を失敗したときにアメリカでは莫大な損害賠償金を患者が要求し、それを裁判所が認めてしまいますから、医療損害賠償保険料金は毎年相当額引き上げられる傾向にあります。医者は開業する以上、保険に加入し保険料金を支払わなければなりません。医療損害賠償保険への加入は、医者や医療機関が医療サービスを提供するさいの固定費用を大幅に引き上げました。このように大きな固定費用を長期的に回収しうるだけの医療サービスに対する需要を見込めないような地域、例えば小さい農村とか離れ小島では、医者という商売そのものが成り立たなくなってしまう程保険料金が上昇してしまったのです。
このような保険市場にかかわる現象は、完全な条件付き財市場がそれに内在する価格メカニズム故に、市場自体を維持してゆく力を持たないことを端的に示した実例と言えるでしょう。しかしながらアロー=ドブルーの定理が示したように、不確実性下の経済における競争市場の資源配分が効率的に機能するためには、条件付き財市場の存在が重要な意義を持つのです。
不確実性下の市場では以上のように、既存の市場における資源配分の効率性という問題以外に、既存の市場自体を維持することの問題が加わります。この意味で、市場の存立基盤と価格メカニズムの効率的な機能の双方を保証するような制度的フレームワークの在り方について、理論家と実務界の人々が協力し知恵を絞っていく作業が必要でしょう。
おわりに
ワルラス以来数理経済学は標準的な一般均衡理論を基礎とし、一九五〇年代のアロー=ドブルー=マッケンジー ― 二階堂教授らが確立したモデルにおける基本的命題を現実の経済現象を考える際の一つのベンチマークとして位置付けしてきました二つの理念的な基準が一般均衡体系における諸命題によって与えられると考えています。もし現実がそれから乖離している場合には、いかなる政策、いかなる制度的フレームワークによって是正していくことが望ましいかを考える基礎を提供しているとみなすことができるのです。この意味で、純粋経済学としての数理経済学は経済学研究における基礎研究そのものであります。基礎研究という性質上数理経済学の研究者は一般の人には非常にわかりにくいような数学的手法を使うことがしばしばあります。当然のことながらいかなる数学を用いて経済分析を行うかは、研究の有用性とは全く関係がありません。複雑な経済現象を正確にかつ「単純」に表現し、理解を深めていくことが要請されるのです。いかなる場合に価格機能が効率的に機能し、いかなる場合に効率的に機能しないかという問題をいろいろな場合を想定し、一般的に考えるフレームワークを提供しようということで努力していると言えるでしょう。以上で私の話を終わらせて頂きます。
(昭和六十一年七月十八日収録)