一橋の学問を考える会
「橋問叢書第五十七号」

   市民制社会と一橋の学問  一橋大学名誉教授 高島善哉     


 はじめに

 この春に続いてまたお目にかかることができまして、まことにありがたいことでございます。
これはコマーシャルの影響でしょうか、学生がよくわれわれ教師をつかまえて、あの先生はネアカだとかネクラだとか言うようでございますが、ネアカというのは根が明るい人柄だ。ネクラというのは暗い人柄だということだろうと思います。私は第三の範疇に属すると思うのです。ネアカでもネクラでもない。じゃ何だと。メクラです。しかしただのメクラじゃないですね。このとうり目をあいておりますからあきメクラ。これがきょうの落ちでございますからお忘れなく。最後はそういうところに落ちますから。でもうまく落ちないかもしれませんね。

   市民制社会とは ― 市民社会的発想の発祥地としての一橋 ―

 そこで本題に入りますが、きょうは「市民制社会と一橋の学問」という題にしておきましたが、これはこの前の話の続きという意味でございまして、この前は「大塚金之助先生と一橋の学問」ということで、最後に市民社会、とりわけ経済学の社会学化とかいろんなことを申しましたが、特にそれを市民社会という、あるいは市民制社会ということに絞って、一橋大学の現在及び将来のあり方ということを、もしできれば共通の話題にして頂きたいという考えなんであります。今度の書物(「時代に挑む社会科学」岩波書店刊)にも出ておりますが、市民制社会という新しい言葉をつくったわけですが、まだ耳馴れない言葉だと思いますけれども、市民制社会というのは一体どういうことかということをまず最初にごく簡単に考えてみたいと思います。

 市民制社会ということを理解するためには、これは私の造語でございますから、その前に市民社会という言葉を理解しておかなくちゃいかん。こういうことになります。市民社会という言葉は最近大分使われるようになってまいりまして、戦前に比べるとかなり耳馴れてきたように思いますけれども、まだまだしかし各界やジャーナリズムに定着したということは言えないだろうと思います。

 そこで、余りそんなことをくどくど申しますと学校の講義になりますから、そういうことはやめにいたしましてポ
イントだけをまずかいつまんで申し上げますと、原語はシビル・ソサエティでございます。フランス語も同じだし、ドイツ語も同じように言っております。このシビルという言葉が実は非常に大事なことで、ことに社会科学をやる者にとってはこの言葉の意味から、思想、それからそういうものの構造、あるいは難しく言えば論理でございますけれども、そういうものを本当につかむかどうかということによってその人の社会科学者としての見方なり、あるいは立場なりが決まってくるんじゃないか。それほど重要なものではないかと私は考えております。

 一橋大学というところは戦後は社会諸科学の総合大学というキャッチフレーズと申しますか、看板で出発したわけなんですが、その場合に社会科学というものをどんなふうに理解したらいいか。その総合大学、総合というのはどういうことかと言われますと、まだ必ずしもはっきり明快に説明した人がいないんじゃないか。一橋大学でもそうですからよその学校ではなおさらそうじゃないかと思います。
なぜかと申しますと、一橋というところは一番市民社会ということを看板に掲げるのに適した大学じゃないかと思います。日本における市民社会的発想の発祥地は一橋じゃないかというふうに考えるんです。そういうことをまず最初に、少し私なりにまとめてみたことを申し上げたいんです。

 シビルということは、詳しく言うまでもなく、シビライズ、それからシビリゼーション。こういうふうに転化していきます。シビルなものはこれを動詞にするとシビライズ。それをさらに名詞にするとシビリゼーション。シビリゼ
ーションをわれわれは文明と訳しております。それから、シビライズは文明化する。ところがシビルというとどう訳したらいいか。市民的というのがどうも、いままでは戦前までは必ずしも一般の人になじまない。専門の学者にもなかなかなじまない。一橋だけがそういうような感覚を持っていたと思うんです。その感覚を大塚金之助先生が歌人の直感を持ってはっきりとつかんでわれわれに提示してくれたと、こういうことじゃないかというふうに思います。

 では、シビル、シビライズ、シビリゼーションというのはどういうことかと申しますと、これは私の書物に書いて
ありますが、それを簡単に復唱いたしますと、シビルというのは第一には、ミリタリーに対する言葉で軍事的でない人間の生活、物の考え方を言うと思うんです。ミリタリーに対してシビリアンというような。

 第二には官僚、役人、官憲。そういうオフィシャルな人間。そういうものに対して使う。それをシビルオフィサー。軍人に対しては官僚の方がシビルだと思うんですけれども、そういうような官僚的なものを含めて言うときには、例えばシビリアンコントロールという言葉を今日言っております。軍の支配ではなくて文民支配というふうに日本語では訳しております。だからそれを見てもわかりますように戦後は軍人の支配から文民支配になってきたというのは、実は官僚の支配ということなんです。ミリタリーに対しては官僚的なものを考えることができるけれども、しかし官僚は、実は本当のシビルじゃないんです。それに対してもっと民間的、庶民的なものがシビル。こういうことになろうかと思います。ごくわかりやすく言えば商工業に従う一般の市民の生活態度、感覚というものがシビルなんです。だからシビル・ソサエティと言ったときには、非軍事的、非官僚的で庶民的な人間関係。そういう世界をシビル・ソサエティと言う。それは一体何かというとコンマース・アンド・インダストリー。一般の広い意味で町人の世界。これ
が一橋の元来の出発点であり、その伝統は今日でもどこかに脈打っているんじゃないかというふうに考えます。そういう意味でシビル・ソサエティという言葉は、われわれの伝統的な精神の底に流れているんじゃないかというふうに考えるわけなんです。そういうことからして、世の中がだんだんシビル化するということはシビライズするということ、つまり文明化するということだ、文明化するということはシビリゼーションをつくり上げるということなんだと、こういうふうに言っていいんじゃないか、こういうことは一橋の伝統の中にはっきりと残っていると思うんです。

 その一つの例として一橋会歌を例に出すわけです。一橋会歌にはその伝統がずっと残っていると思うんです。例えば「アリアンの族ならずんば、クリスト教徒ならずんば、二十世紀の文明を語るを得じと誰か言ふ」。こういう一節がございます。ここにお集まりの方は大体それに、非常にファミリアな年代の方ばかりでございますが、いまの学生にそんなことを言っても全然通じませんけれども、これが高商時代から東京商科大学に至るまでの、われわれが盛んに歌いました一橋会歌の一節でございます。つまり二十世紀の文明を背負っているのはわれわれである。軍人でもなければ官僚でもない。われわれが背負っているんだ。.コンマース・アンド・インダストリーに従っているわれわれ同窓生がこれを背負っているんだという気概が一橋会歌に出ておると思うんです。

 あるいはまたこの次の節に、「釈迦を出しし海南の印度の末路今如何に、孔孟立ちて道説きし、中華四億の民如何に」という一節もございます。

 これなんか見ましても、ここには単にシビルということではなくてナショナルという感覚があるわけです。日本の文化を背負い、それからアジアの文化を背負い、それから新しい文化をつくっていくんだという明治から大正にかけての日本のコンマース・アンド・インダストリーを背負っている人たちの気概があらわれていると思うんです。これ
が私に言わせるとナショナリズムなんです。最初の方は、世界に雄飛するという、市民的な精神、そして経済の力を持って、世界に雄飛する。「いざ雄飛せん五大州」。こういう文句で一橋会歌は結ばれておりますが、一つの市民主義です。これを私は世界市民主義という言葉で言いたいんです。ドイツ語ではこれをウェルトビユルガートウム Welt-burgertumと申しますが、世界市民主義と、もう一つはナショナリズム。これを何と訳しますか。日本語に訳しますといろいろになりますが、民族主義と訳したり、あるいは国民主義と訳したり。この気風は今日非常に薄れております。国立では恐らくそういうものがなくて世界市民主義の方が支配的じゃないかしら。いまの国立の教授も学生もそういうような気持ちで毎日学問をしているんじゃないかと思います。

 こういうわけで一橋というところはずっと過去百年の歴史の間に世界市民主義と国民主義というもの、両頭の蛇と申しますか、一本の幹から出た二つの枝みたいなもので、それを踏まえて進んできた大学じゃないかしら。このことをいまわれわれは、如水会の先輩の方々も、それから後から続く皆さんも、もう一度反省し再認識すべきじゃなかろうかというふうに私は思うんです。これは決して私の思いつきではなくて、長い間、戦後ずっと考えてきた考え方でございます。東京商科大学が一橋大学になったそのときから私は考えてきた。一橋大学というものをいかに理念付け、いかに方向付けるかという問題に当面したときに、この大学は社会諸科学の総合大学でなくちゃならん。こういう考え方に達した。

 社会科学というのはどういうものかと申しますと、これはシビル・ソサエティの科学だと、こういうふうに私は考える。そのときはまだほかの方々はそれほどはっきりおっしゃらなかったんですが、それには次の様な事情があります。

 長年予科でアダム・スミスを―私が進んでやったわけではない。学校の命令でやったわけです。私も一橋に学んだお陰でスミスを毎年、五年も六年も繰り返し繰り返し勉強する機会を与えられたというか、強制されたわけなんです。それで、スミスと言えばもうほとんど暗記するぐらいに、あっその句はどこにあるというぐらいに知る様になったんです。一橋に学んだからこそアダム・スミスを勉強できた。アダム・スミスを勉強したからこそシビルということがわかってきたと、こういうふうに感じております。もし本郷あたりに行っていたら、恐らく私はもっと官僚的になってきたと思うんです。

 余談ですけれども、東大の卒業生はいまでもそうでしょう。おれこそ天下の秀才だというエリー卜意識を持っていると思います。特にその先生は大変なお偉い方でありまして、実力は別といたしまして、結構意識だけは、あれは中流意識じゃない。上流意識です。例えば学生と教授との距離が非常に遠いです。学生が先生の私宅へ訪ねていくということが非常に少ないらしいです。だからアットホームな話ができない。いつも学校で、公のオフィシャルな場でのみ会っておりますから、先生というものは一段も二段も高い存在なんです。

 ところが一橋では学生諸君がしょっちゅう家に出入りいたしました。非常にアットホームに本当に家族的にやっている。それが彼らから見ると非常に奇妙に見えるらしいんです。しかし、われわれから見るとこれが一番一橋のいいところじゃないかと、こういうふうに思う。と同時に、無条件でいいとも言えませんけれども、ある意味では前近代的な、前市民的な面もあるんじゃないかと。つまり親分子分の関係ができる。ゼミナールというものがそういうような気持ちを養成する基盤でもあるが、同時にゼミナールが非常に盛えるということは一橋の美点でもある。家族的なところがある。こういうふうに考えております。

 要するに日本の社会科学というものは明治以来輸入学問でございまして、その輸入の仕方に一橋特有のやり方がある。本郷を引き合いに出して恐縮ですが、本郷の方と、あるいはほかの学校と違いがあるんじゃないか。

 どういうところが違うかというと、東大あたりではやっぱりポリティカルな面が強く国家、国民を統制する。政治家を養成する。支配する、権威、官僚。こういうような観点が強いんです。だから市民社会とか市民的ということは東大ではなかなか生まれてこないと思うんです。

 明治時代には東大ではどんな経済学が行われたかというと、ドイツ歴史学派。法律は何が行われていたかというと、やはり、市民法ではなくしてドイツ的な官僚支配の法律です。憲法ももちろんそうですし、民法、その他のものもドイツ的なドイツ法学が非常に流行していた。

 それから、社会学、その他におきましても、歴史学においてもそういう傾向が強かったのではないかと思うんです。

 これに反して一橋の場合は、先ほど申しましたような意味で市民的なんです。しかしこの一橋においてさえ市民法とか、市民社会とか、市民的な文学とか、市民的な文化とか、市民音楽とか、そういうものはまだ十分に根付いていたとは言えないと思うんです。そういうときに大塚金之助先生が留学から帰ってきて、そして市民社会ということを言われたのが、新鮮な感情をわれわれに与えたのではないかというふうに思います。そして社会科学、特に経済学というのは 「市民社会の解剖の学」であるというこの名文句を引いてわれわれを指導されたというところが一橋の伝統的な本質をずばりと言い当てていたんではないかしらと、こういうふうに思います。

 ところでいま市民社会という言葉を使いましたけれども、ところが話を聞いてみれば、大学を卒業された人ならば理屈としてはわかりますが、なかなかこれが感情にならないんです。われわれの実感としてものにならないんです。ということは日本にまだ古いものが残っておる。生活習慣や生活感情の中で前市民的、市民社会以前のものがたくさん残っておる。こういうような事実を否定できません。これが日本の一つの風土という言葉で言いあらわしたいのであります。日本的風土とは何かということは、最近いろんな方面で、学界でもジャーナリズムでも盛んに論議される
ようになってきましたが、この日本的風土というのは日本の特質性ということだろうと、先ほどの言葉で言えば日本のナショナリズムの問題じゃないかと思います。このナショナリズムというのは無論第一には政治の面であらわれます、国家権力の面であらわれますけれども、しかしそれだけではない、経済の面でも経済的ナショナリズム。それから、教育の面でも教育的ナショナリズム。文化の面でも文化的ナショナリズム。いろんな点においてこのナショナリズムというものは明治以来ずっと続いておる。今日に至るまで続いておりまして、さらに最近では再びそれがいろいろな形で、必ずしも好ましくない形で再生しようとしております。だからこれは非常に重要な問題なんです。

 そういう問題を考えるためにはまず第一に市民的ということをしっかりとつかんでおかなきゃならん。こういう必要が私はあると思うんです。まず第一に、市民的というのは何か。それから、それがわかった上で国民的とか民族的とか、国家的という、それは一体社会科学的に考えて何を意味するのか、政治家が口先で言うような意味ではなくて、本当の意味で愛国心というのは一体何かということをこれから真剣に考えるべき時じゃないかしらと思います。

 そういう意味で、私は一橋の伝統、一橋会歌というものを再認識することを、ここできょう皆様に提案申し上げたいんです。(拍手)

 これは結論で言うことですけれども、このままとりますと古いナショナリズムに陥る危険もあるんです。それを十分注意して頂きたい。「いざ雄飛せん五大州」と言ったって、よその植民とか何とか大学がありますけれど、そういうところの 「いざ雄飛せん五大州」とは違うということを言いたいですね。なぜ違うか。それはシビルというものがしっかり頭から爪先まであるからです。

 そこで私は次に論を進めまして、一口にシビルと言ってもいろいろ国によって違いがあるということを次に申し上げたいんです。それから日本の問題に入ってくるわけでございます。シビル・ソサエティ。フランス語ではソシエテ
・シビール。ドイツ語ではビュルガリッへ・ゲゼルシャフト少しずつニュアンスは違いますが。しかし西欧市民社会ということを言うんです。だから市民社会という言葉は西欧的なもの。イギリス、フランス、ドイツが母国である。イギリス、フランス、ドイツを母国として生まれたということが、そこに市民的な社会、生活慣習が生まれたということを意味している。そういう歴史的事実がまずあった。それ以前の市民社会は市民社会以前の市民社会である。都市が中心でございましたが、しかし近代市民社会と言われる十六、七世紀、あるいは十七、八世紀以後になりますと、都市でなくてこれが国民全体に広がった。イギリスはイギリス全体、フランスはフランス全体、ドイツはドイツ全体に広がっていって、そこに同時に、おれはイギリスの国だ、フランスだ、ドイツだというナショナルな領域ができたばかりでなく文化意識が生まれたと云う訳です。

 だから十七、八世紀以後の西欧市民社会というものがわれわれにとっても非常に重要なんです。これを今日では、シビリゼーション、シビライズと言うかわりに、モダニゼーション、モダナイズ。近代化という言葉で言うことがよくあります。さらにそれを推し進めて現代化という言葉を使いますが、これはあいまいな言葉です。近代化にしてもやはりはっきりしない概念です。

 近代化とは一体何だ。中国でもいま盛んに近代化ということを言っている。日本の近代化ということは明治維新以後に百年の歴史を持っていると言われる。しかし近代化という言葉は非常にルーズな概念でございます。学問的には余り使えないと思うんです。正確には近代化とは、本当はその中身はシビル化ということなんです。

 福澤諭吉の文明論が最近少しずつ復活しっつありますけれども、福澤諭吉の 『文明論の概略』という本がございます。あの文明論の文明というのは実はシビリゼーションのことなんです。福澤諭吉はそれを日本でまっ先につかんだ先覚者の一人であるわけですけれども、しかし福澤諭吉にしても、シビライズ、シビリゼーションということの本当
の意味をどこまでつかんだか、私は問題は残っていると思います。

 そういうわけでして話を元へ戻しますと、シビル・ソサエティということは、近代十七、八世紀以後の西欧的な社会で生まれたものである。西欧的な概念だということです。

 ところがさらにそれをもう少し一歩突っ込んで考えますと、イギリス市民社会、フランス市民社会、ドイツ市民社会というふうにやはり区別がある。個性があるわけです。

 じゃどういうふうにして個性があるか、どこが違うかということになりますと、これは大問題でして簡単に一時間や二時間では言えませんけれども、要点だけを申し上げます。

 イギリス市民社会というのは、私は経済が中心だと思うんです。コンマース・アンド・インダストリー これがイギリス市民社会的です。簡単に煮詰めた言葉だけで申します。だから優れて経済的というふうに表現しております。産業革命と云えばイギリスを思い出す。

 じゃフランスはどうだ。フランスは優れて政治的。フランス革命がそれを象徴しているんです。経済よりは政治の面の方がフランス市民社会ということを考えるときにそれが表に出てくるんじゃないか。

 それから、ドイツの方はどうか。これは優れて哲学的。内面的です。内向的と言ってもいいかもしれません。
こういう言葉で極めて大胆に幾らでも反駁の余地はございます。そんな簡単なものじゃないと言いますでしょうけども、わかりやすくするために、やっぱり簡潔な表現が必要だと思うんです。

 繰り返して申しますと、イギリスは優れて経済的、フランスは優れて政治的、ドイツは優れて哲学的だ、といってもイギリスに政治や哲学がないわけではなく、フランスにまた経済や哲学がないわけではなく、ドイツには経済や政治がないわけではないんです。だから西欧市民社会というのは、経済の面においても政治の面においても、哲学、言いかえれば文化の面においてもそれぞれみんな共通性を持ちながらそこに国民的な個性を持っている。

 ドイツは、例えばカント、フィヒテ、ヘーゲル、あるいはベー卜ーヴェン、ゲーテ、音楽はやっぱりドイツ的だ。
フランスにも音楽はないわけじゃない。哲学もフランスにはデカルトがおるし、いろんな人がいる。経済学はケネーがいる。イギリスだって有名な文学者、シェークスピアもいるし哲学者もいるし、ホップズもいるし、ロックのような人もいるし、という具合いでございまして、みんなそれぞれ共通性を持っておるんだが、そういうふうに一応規定することができる。

 しかしその場合に三国を比較してみるというと、一番経済的な面、富の世界において実力を発揮し創意を実現した国が近代を支配したわけです。それは言うまでもなくイギリスです。世界の平和はイギリスの平和である。パックス・アンダリカン。こういうふうにイギリス人は自負していたわけです。ウエルス・オブ・ネイションズといっても、スミスのネイションズというのは、実は諸国民の富でなくてイギリス国民の富を言っているんです。だからスミスいわく、ディフェンス・イズ・モア・インポータント・ザン・オピュレンス。国防は富裕よりも重要である。だから経済だけあればいいというのではなくて、国防のためには経済も何とかしなきゃならん。こういうことまであえて言っているんだが、しかし経済が繁栄しなければ国防も充実しないということを逆に考えているわけです。これはスミスの非常に常識の円満なところでございます。そういうことは、つまりコンマース・アンド・インダストリーがイギリス市民社会の基礎であるということです。そして大事なことは、これが市民社会の基本的な性格です。一番ノーマルな性格だということです。市民社会というときは、単に市民の社会ということじゃないんです。われわれ日本人は、市民社会というと都市の住民が住んでいる社会ぐらいにしか考えないです。シチズンという言葉が根付かない。もしそうならば市民権という言葉が理解できなくなる。われわれはアメリカの市民権を獲得することもできるし、中国
やソ連の市民権を獲得することもできるはずです。いまは日本の市民権を持っておるわけですけれども。しかしそれはだれでも共通なものであって、単なる市民という、都市の住民ということではないわけです。もっと深い広い意味を持っております。

 それはきょうはお話しするつもりはございません。それをやり出しますと経済学の講義になりますから。

 こういうわけで私が申し上げたいことは、イギリスが市民社会の母国であるという思想です。一橋大学というところはやはり経済学を中心、商業学を中心にして発達してきた。やっぱりその母国は一番輸入元はイギリスであったと思うんです。本学の先輩の先生たちはまずイギリスへ留学した。それからだんだんドイツへ行くようになりました。それから最後はフランスもちょっぴり行くようになりました。フランスの学問というのは一橋では一番輸入が後れております。それを見てもわかりますように、やっぱりイギリスというものが十九世紀から二十世紀にかけての世界帝国であったわけで、そこに市民社会の根が張っていた。その市民というのはわれわれの考えている市民とは随分質が違う。これを日本人にわからせることが非常に必要である。つまり西欧市民社会というものを頭に置いて、それぞれのイギリス、フランス、ドイツの国民的な個性というものを知るにつけても、われわれはそういうものを頭に置きながらなお日本の市民社会というものはいかにあるべきか、どのようにこれを構成したらいいかということを考えなきゃいけない。これが社会科学の今日的問題ではないか。一橋大学というのはそれに一番適したところじゃないかというのが私の言いたいことなんです。それを私は、西欧市民社会のイギリス、フランス、ドイツのそれぞれの個性を踏まえた上でその個性を一応取り去ると申しますか、共通点だけを取り上げるという意味じゃございません。その西欧市民社会から日本の市民社会というものを考えるために市民制社会という造語を提起したわけです。

    「市民制社会」という造語の意味

 私の今度の書物の副題には「なぜ市民制社会か」と付けました。その意味は二つあるわけでございます。
   
   (1) 啓発的な意味

 一つには、市民社会というとバタ臭いです、何と言っても。まだ横文字のシビル・ソサエティをそのまま持ってきたようなもので、それこそ日本の一般市民にはなじみにくいんじゃないか。こういうふうに思います。だんだんと、先ほど申しましなように、新聞でも市民社会という言葉を使うようになっております。注意して御覧になった方はお気付きだろうと思いますけれども、「朝日」でも「毎日」でもときどきそういう言葉が出てきまして、私は秘かに喜んでおるわけでございます。しかしなかなかこれは根付かない。そうではなくて、それを市民制社会というともう少し軟かくなる。ソフトムードになるんじゃないか。そしてわかりいいんじゃないか。封建社会と言わないで封建制と言った方が非常に耳に入りやすいんです。こういうような教育的な啓発的な意味があるわけでございます。

 ということは、実は日本の憲法が、御承知のように、この、私の言う市民制社会の一つのモデルに近い、世界のどこを見てもこういう憲法はない。その憲法の根本理念、憲法の大体のあり方。こういうものが私の言う市民制社会、西欧市民社会の国民的個性を一応取り去って、そこからつくり上げたところの一つの、難しい言葉になりますけれども、理念型と申しますか、マックスウェーバーの言う理念型とは違いますけれども、一つの理想像を取り上げてつくり上げてみるのです。実は何のことはない、われわれの憲法がそれと完全に一致するとは申しませんが、もちろん日本的な例外はありますけれど。例えば象徴天皇制なんていうのは市民制社会には入ってくるものじゃありませんけれ
ども、しかしそういう理想像にやや近い。これはよその国から持ってきたんじゃなくて、実は日本自身にあるわけです。しかしよく考えてみれば、これもマッカーサーが持ってきたお土産であるというふうに考えることができるかもしれません。しかしそういうのは現にあるということは事実です。それを見れば、市民制社会というものが、ああこんなものかな、そっくりそのままではないとしてもわかるような気がする。これを市民制社会という言葉で表現して、われわれ日本人にとって理屈なしによりファミリアなものにできるんじゃないか。そういう啓発的な意味を含んでおるわけでございます。これが第一のねらいです。

   (2) 生産諸力のシステム

 市民制社会という造語をいたしました第二のねらいは、これは大変重要な問題で論議の的になると思いますが、これは恐らく今度の私の書物に対していろんな立場の人がいろんな論議をしてくださるだろうと秘かに願っておるのでございますが、こういう意味でございます。

 市民制社会というのはどういうものかというと、それは経済を土台にして、政治、それから教育、それから文学、音楽、宗教等々、みなそういうものを一緒にした一つの、この言葉がいきなり出ますけれども、生産諸力の統一体だというふうに考えるんです。生産諸力のシステムというふうに考える。これは生産諸力の一つのまとまりである。この生産諸力という意味は、誤解のないようにお願いしたいのですが、実業界にいらっしゃる方は生産力という言葉をお聞きになると、すぐ生産性向上とか、生産性本部とか、物をたくさんつくることとか、あるいは利潤を多くふやすことというふうに即断される恐れがあると思うんです。私の言うのはそういうことではなくて、物をたくさんつくったり、能率を挙げたり、利潤を増加したりするということは生産力が発動した結果であって、それはプロダクティブパワーズと言わないでプロダクティビティと言うべきもの。プロダクティブパワーズと言ったときには、特にドイツ
語でこれをプロドックティヴィテートと言ったときには、人間の生きた力、発動する力。哲学的に言えば主体的な力量です。それを生産力と言う。例えばレーペンスクラフトと言えば生活力、生命力です。生活した後のものを言うんではなくて、生活する本源の力を生命力と言うわけです、そういう意味の力でございまして。この生産力というものが実は今日の最大の問題じゃないかしら。それは経済をつくり、富をつくり、政治をつくり、組織をつくり、それから法律をつくり、さらに学問をつくり、音楽芸術をつくり等々、文化を創造する。このクリエーションする力。これが私の言う生産力でございまして、それが第一には富をつくる生産力です。アダム・スミスの生産力というのはそういう意味だと思います。ただ物だけをつくる、ただ物論ではないです。そういう力を、つまり主体的な人間をつくる。単なる模倣である、あるいは口真以であるとか、小手先の器用な器用さであるとか、そういうことでなくて、根源的に新しいものをクリエー卜する。こういうことを生産力と言う。しかしそれはまず第一に経済を、富をつくる世界において発現する。それからそれをもとにして、昔から衣食足りて礼節を知ると申しておりますが、しかし衣食足りて今日では礼節を忘るということになっている。しかし衣食足りて礼節を忘るということも、実は衣食がもとにある。衣食足りて礼節を知るというのも、衣食足りて礼節を忘るということも、やはり経済というのがまず第一に富をつくるということが大事だということを教えているんじゃないかというふうに思います。同じことを裏からと表からと言っているのではないかと思います。

 そういうわけで、政治、経済、教育、それから諸文化。そういうものの段差を考え、それぞれの、例えば一個の建物を十二階建てとすれば、土台から三階まで、四階まで、五階までというふうにだんだん段差を持ちながら、階段を持ちながら巨大な建物ができ上がっておる。それを生産力の体系と名付けます。生産力の体系、生産諸力の体系、これが市民制社会なんです。イギリス、フランス、ドイツをモデルとして、そこから本質的な一般性を推論いたします
というとそういう構図ができ上がる。生産力の体系、システム・オブ・プロダクティブパワーズ。これを私は自分の社会科学の一番中心点に据えておるつもりでございます。この生産力の体系としての市民社会というものは、これはまた次に言いますこと、非常に大事なことでございまして、「体系のない体系」なんです。体系のないシステム・ウイズアウト・システム。体系のない休系というのは、いま十二階の建物の例を出しましたけれども、十二階の建物は一つのコンパクトな構図を持ってまとめてしまっているんです。ところが市民的社会というのはそういうふうに上下の関係のあるように見えながら、バッと横にも広がっているんです。どんどん横へ広がっていく。つまりどんどん郊外へ郊外へと広がると同時に、上へ上へも伸びるんです。ちょうど今日の日本の大都市のような光景でありまして、きちんとまとまっていないです。

 だからこれをわれわれの大先輩の三浦新七先生は、アダム・スミスの体系を「体系なき体系」と云われた。これを私は終生忘れません。スミスの生誕二百年記念(一九二三年) のときに『商学研究』という雑誌に本学の先生方がたくさん論文を書かれましたけれども、そこに載った三浦新七先生の、「アダム・スミスの体系なき体系」という論文がありまして、これが私の心をとらえて離しません。

 そういうわけで、市民制社会というものは「体系なき体系」と考えるわけで、そこでまとまってしまってそこにき
ちんと収まっているというものではなくて、横にも上にも、広がっていく。こういう性格のものじゃないかしら。こ
れは第二の点としてお話しているわけです。なぜ市民制社会ということを言うかということを言っておるわけでございますが、この第二の論点としてお話ししておりますことは、そういうものが今日非常に意味があるということを言いたいわけです。非常に重要な意味を持っている。

 どういう意味を持っているかというと、これは日本のような資本制社会においても、中国のような社会主義的社会、
ソ連のような国においでも、つまり二つの社会体制が今日相争って競っておりますが。そしてその中間にあって第三の世界というものがいろいろトラブルを生じておりますけれども、さらにその外にアフリカとか南米とか、いろんな辺境の地がありますけれども、そういうものを把握する場合に、私は「体系なき体系」としての市民制社会。生産力の体系としての市民制社会、こういうものが非常に有力な鍵を与えると考える。単に理論的に把握するだけでなくて、それをもとにして新しい政策が生まれてくる。これがいままでの社会科学者に余り気が付かれなかったことじゃないかしらと思います。いままでの社会科学者は、資本主義か社会主義か、あるいは第三の世界か。こういうふうに二つないしは三つに分けてしまうところを、私は、市民制社会というものをまず把握した上で、そしてそれを資本の立場から、企業の立場から、資本主義的な観点から市民制社会を活用していく、利用していくというか、運用するというか、そういうもう一つ高い立場があると思うんです。それをやったのはイギリスです。イギリスは真っ先にその近代市民社会を他国に先がけて展開をすることができたというのは、そういうことをやったんです。資本の立場から。こういうふうに考えられます。

 イギリスの市民階級というものは第三階級と言われますが、この第三階級というのは実は資本階級であったわけです。これは経済史の常識でございますが、そういうことはだれでも知っているんだけども、私が特に強調したいことは、それは市民的なものを踏まえてそれを資本の立場から運用していった。こういうことです。だからイギリスはオランダを退け、スペインを退け、近代史において真っ先にイギリスの世界を築き上げ、世界の平和はイギリスの平和である。こういうようなことになったんです。国防は富裕よりも重要なりというアダム・スミスの名言がそこから生まれてきたと思うんです。

 こういうわけでして、資本の立場からそれを運用すれば、そこに一つのシビリゼーションが生まれてくるんです。

 資本は古い封建社会から人類を近代のシビライズドされた社会へ移り変えてくれた。その結果近代的なシビリゼーションが生まれてきた。これを普通の言葉で言えばモダニゼーションと申します。これもモダニゼーションと多くの人は無意識に使っておりますが、実はその内容を若干分析するというとそういうことになるわけで、だからこの資本の運動というものは、ある一部の人が考えるように、ただ盲目的な非生産的なものを生み出すだけだと簡単に言うことは誤りだろうと思います。もちろん今日の貿易摩擦に見られるように矛盾も生みます。貿易摩擦は私どもに言わせれば、これは資本と資本の間の矛盾、衝突、戦争だと思うんです。経済戦争だと思いますが、そうは言わないで貿易摩擦なんていうのは、これは非常に水割りした言葉で使っておりますが、社会科学者は医学と同じようにずばりと、やはり遠慮なく本質を言わなければ社会科学じゃありませんから申しますが、あなたは癌ですとは言わないけれども、普通はそれに近い言葉で表現いたしますが、医学では、あなたは癌ですと、こう言うに決まっております。そういうふうになって市民的なものが今日では非市民的なものに、ややもすると転落し退廃する可能性があるわけで、市民社会というのは実は最も基本的な姿においては、平和と友好と、それから自主と繁栄の世界であったわけです。少なくとも十八世紀から十九世紀にかけましては、これをもたらしたのは資本の力です。そういう面を見落としてはいけないんであって、だから資本はそういう意味において文明の使徒である。シビリゼーション、つまりシビライズ、シビル・ソサエティの使徒であるというふうに言われてきたわけで、同時にそこに資本の社会性、生産性というものをわれわれは否定するわけにいかない、認めなければならない。と同時にそういう責任も感じてもらわなければならんですが、そういうふうに考えられます。私の言うことはそれほど間違っていないと思います。

 と同時にソ連や中国のような社会主義圏においても、いままでは独裁とか何とかいろんなことを言ってきましたけれども、戟後四十年たって、この国においてもなお問題は依然として根本的に残っている。その根本的な矛盾はどこから生まれるかということはきょうの問題じゃございませんが、それは私は「労働関係論」の問題へ移る、その辺に根本的矛盾があるということを今度の書物では言おうとしているわけなんです。それは今度の書物では触れておりませんけれども、いまではそういうふうに考えております。労働過程、労働関係、それから生産関係というふうにいきます、その辺に問題があるのであって、ただ資本の支配をなくすれば、もう何でも社会主義がうまくいくと、こんな簡単なものではないということは戦後四十年の歴史がこれを証明した。だから社会主義も今日大きな歴史的な試練の前に立たされていると言えます。

 結論を急ぎます。市民的なものをどのように社会主義体制は使いこなすことができるか。またそういうものを社会主義体制では使いこなせないのかと、こういう問題です。昨今自主管理なんていうことを盛んに言っておりますけれど、自主管理というものは市民制社会を基礎にしてどのようにして行われるであろうか。それは可能であるかどうか。やはり市民制社会の問題が基礎にあって、そこからして自主管理というその現実の政策が引き出されてこなければならないと思います。自主管理はそう簡単にいかないとすれば、問題は自主管理のその政策自体の中にもありますけれども、もっと根本的に市民制社会と云うものの中に問題があるわけです。市民制社会は矛盾をはらんでおります。

 例えば自由と平等というものは表しません。もしわれわれが完全に自由ならば平等でなくなるし、人間が完全に平等であるならば自由というものは制限されなきゃならない。そういう市民制社会にはそのような根本矛盾が実は含まれておるんです。それを上手に運用していくのがだれか。それを扱うのは軍人であろうか。官僚であろうかあるいはコンマース・アンド・インダストリーを扱う人であろうか。あるいはインテリであろうか。知識人であろうか。芸能人であろうか等々という、そういう問題発生するわけでありまして、そういうことを研究するのが社会科学でございます。


    21世紀の課題は市民制社会の再認識から

こういうわけで私の以上申したことを中間的に要約いたしますならば、なぜ市民制社会ということを私がいま言い出したかと申しますと、一つにはそれが非常になじみやすい、わかりやすい。市民社会ということよりは市民制社会ということが非常にわかりやすい。そういう意味と、第二番目の方がより重要と申しますか、今日ではまさにその市民制社会の再認識の時代がきているんです。市民社会とは一体何だ、自由とは何か、平等とは何か、民主主義とは何か、日本の憲法とは何か。こういうことを根源的に、原点ということを申しますね。そういうことにさかのぼって研究するのが現代の課題だと思います。もし戦後四十年たって再認識の時代といいますか、曲がりかどにきているとするならば、恐らくそれが正しいと思いますが、そうだとすれば、われわれはその原点は市民制社会にある。こういうふうに云はなければならないと思います。日本にとってそうであるばかりでなく、西欧諸国においてもそうであるし、それから非資本主義の社会においても、やはりそういう問題が胸元に突き付けられている。彼らは四十年の社会主義的実験の結果そういう問題に逢着しているんじゃないか。つまり二十世紀はやっと世紀末になって十九世紀が人類に残してくれた市民的なものへの反省と、それをいかにして再認識するか。いかにして再評価するかという、そういう大きな歴史的な課題の前に立たされているんじゃないか。こう思うんです。それがよくわからないために混乱が起き、それから世紀末的な退廃が生まれてくるという、それだけではございませんが、そういうことも言えそうではなかろうかと思うのであります。

 だからこれこそまさにちょっと演説調になりますけども、やはり二十一世紀の課題というのは、市民制社会をいかに扱うかという再検討と、こういうことになりはしないかというのが市民社会の再認識、最近の私の手前みそでございますが、いかがでしょうか。

 そこで最後に残された時間で最初に申し上げたところへ戻っていきたいと思いますが、こういうことを考えてみますと、一橋大学というところは初めから市民的な精神の母体であったということ。と同時に、この市民的精神、市民制社会の発祥地であると言っても極論じゃないと思います。それは世界的なものです。インターナショナルなものです。「いざ雄飛せん五大州」 「釈迦を出しし海南の、印度の末路今如何に」こういうことをいみじくも早く見て取ったわけです。しかしながら同時に、「孔孟立ちて道説きし、中華四億の民如何に」これはもうすでに時代後れです。

「中華四億の民如何に」ということは、もはや戦後はそういうことは言えません。彼らは彼らなりに、われわれの先輩が予見し得なかった新しい道を大きく踏み出していると思いますが。だからこれは見直されなくてはならない。中国の歩いている道というのは社会主義的近代化の道です。そういうものにも目を向けなければ、われわれは単に市民制社会の世界的性格、社会性だけに安住しているわけにいかない。やっぱり中国には中国という社会主義の問題がある。しかも中国にはソ連と違って、同じ社会主義でもソ連的な個性、中国的個性というものがそれぞれあるのであって、そういう点に目をつぶってはならないということになりましょう。

 そうだとすればわれわれ日本人は一体どうなるか。日本における市民制社会の今日及び明日はいかにあるべきかという問題になってくるわけでございますが、これは大変難しい問題です。こうなるということを言い切れる人は、恐らくまだあるまいと思います。皆さんそういう問題に悩んでおるわけであります。

 例えば明治維新以来のわれわれの先覚者の勉強の跡を振り返ってみましても、文学者では鴎外であるとか、漱石であるとか、あるいはその前に、二葉亭四迷であるとか、こういう人々が、世界性の問題と日本の国民性の問題との前後両方からのはさみ打ちになって、その間に苦悩してきたわけです。漱石なんかはその代表的な一人でございましょう。

 それから、クリスチャンであります内村鑑三。「二つのJ」ということを申します。ジーザス・クライストとジャ
パン。自分の胸には二つの魂が宿っていると内村は申しました。それはジーザスと、それからジャパンだと。これが日本的なものと西欧的なものとの相克の過程です。この二つを統一することは内村鑑三にもできなかったのではないでしょうか。漱石にしても、やはりこの二つのものを統一することはできなかったようでございます。最後には則天去私。漱石の達した最後の立場でも、やはり文学的表現にすぎなかった。これまた問題を提起したのであって、彼の苦悶を表わしていると思います。

 社会科学の方面では河上肇。漢学の素養から入り、漢詩をよくし、初めはドイツ歴史学派。東大におりました。歴史学派に入り、そこから抜け出して、それからマルクス主義の方へ入っていったんです。ここにも二つの魂が相克しております。河上肇のような人でもこれを統一することはできなかった。問題を出しただけであって統一することはできなかった。日本の明治以来の優れた知識人は近代化の過程においてそういう悩みをみんな共通に持ってきたんです。今日われわれもまだ持ちつづけております。政治、経済、教育、文化の全体を考え、それぞれ政治の世界から、経済の世界から、教育の世界から、自分の専門の立場からその全体の問題を解決しようとする。これがわれわれの仕事です。これが現代社会科学の基本問題なんです。それを総合的に打ち出した人がまずないという。それはそれほど大きな問題でありました。日本の文化というのは一体何かということが問題になってくるのが、まさに時代がそういう時代にきている。こういうことを意味しているのではないでしょうか。

 そこで私は考えるのですが、それを一挙に解決することはもちろんできないことでありますが、そういう問題意識
を持たなくちゃいけない。一橋は幸いにしてそういう下地を持っているのであるからして、一橋大学は東京商科大学に昇格するときには、この前も申しましたように、文化、諸科学に関する総合大学を目指したんです。いままでは高等商業でコンマース・アンド・インダストリーの学校であったが、商科大学になった以上はもはや商科の学校じゃないんだ。商と言っても単なる商じゃないんだ。文化、諸科学に関する総合大学でなくちゃならんということを言ったんです。私たちが商大に入った当初は盛んにそういうことを言っておりました。そこにやはり一橋独特のところがあるんです。ずばりと言いますと、一橋は反官的である。官僚に対して対峙するけれども、同時に私学に対しては官僚的な処があるように見られているようです。こういうような、反官反民的な、シビルでありながらまたオフィシャルなところがある。こういうところがあるんじゃないか。そのような底流が文化、諸科学に対する総合大学をつくろうと、そういうスローガンとして昭和の初めにはわれわれの前に出されたのではなかろうか。

 しかし、この前も申しましたように、一橋は幾ら高台にいてもせいぜい麹町辺り、それから神田から日本橋から、それから上野から浅草から、江東区から、その辺のところをわれわれの意識は動いていたので、銀座から、それから丸ノ内から、それから霞ヶ関まではなかなか行かなかったです。ところが戦後になって文部大臣が現われたり、総理大臣があらわれたり、霞ヶ関のところをちょっとかすった程度。そういうところまできているんですが。だからそういうような、ちょっと非常に雑駁な言い方ですが、案外それが当たっているんじゃないか。そういう性格を持っていると思うんです。文化主義的な傾向が東京商科大学になったときに強かったんです。それは商科というものを早く脱皮しようという要求が強かった。それから赤門に対する対抗意識が強かった。ところが社会諸科学の総合大学ということになりますと、私はそういう対抗意識はあっても、それは悪くはないと思いますけど。ある意味では刺激になりますから。けれどもそれ以上のものをつくらなければならないと思うわけです。

それをつくるためには社会諸科学の総合大学、社会科学を地盤にして、そしてインターナショナルであると同時にナショナル。ナショナルであると同時にインターナショナル。そういうところに目標を置いて進まざるべからずと、こういうふうに言いたいんです。

   むすぴ

 そこで結論として、生産力をもっと培う方法を考えて頂きたい。生産諸力を造成する方法を考えて頂きたい。国立の森の中で森林浴を楽しむだけでなく、新しい森林を造成して頂きたい。そしてそれは国立でなければできないものを。同時に世界性を持つ市民制社会の、その伝統を十分踏まえたものにして頂くように考えたい。私ももちろんこれから考えますが。そういう問題をきょうは提起したつもりでございます。



[質疑応答]

 茂木 (大正十五年卒)  のっけに一橋会会歌が出るとは、私は実は予想しなかった。というのは、私はこの一橋会会歌にかねてから非常な関心と誇りを持っている。

高島 そういう年代ですよ。

茂木 自分の話になって恐縮ですが、如水会報の五十八年四月号に「会報だより」というのがありまして、私はこ
れを常時持って歩いているんです。「一橋の理念とロマン」という題です。「一橋会会歌というと、長煙遠く、から歌い出すが、会歌の全歌詞を会員に知ってもらう必要がある。崇高なまでの一橋の理念とロマンを見事に表現されている。この機会に一橋会歌の上、中、下、全十四章を紹介する」 切り抜いて毎日持って歩いているんです。

 これに関して、一つの、私がなぜこう考えたかというと、われわれの会合では大体会歌斉唱となるでしょう。「長煙遠くと」「ああ一橋」だけですよ。あとにもいまお話のとうり非常に重要なことがあると思っているんです。

 それから、私がこれで非常に面白いと思うのは・東京高等商業学校校歌でなしに一橋会会歌と言うんです一橋会というのは学生の団体でしょう。−橋会の会歌が校歌のないときに歌われているということです。これは明治四十一年に中田庄三郎さん、京都の方ですが、この方がおつくりになった。

 高島 これはシビリアンコントロールです。

 茂木 日露戦争の後です。これについて三挿話がありますから申し上げておきます。

 三菱亙斯化学の相川君。昭和十一年か。私が理事長のときに彼は副理事長という制度がなかったから理事長代行をされていたからよくお話しする機会があったんですが、会歌に関する話がある。

 というのは、彼はシベリアに抑留されました。非常な苦難をした。そのとき彼の心の慰めとなり力になったものは一橋会会歌の−節なんですよ。それは「痺煙こむる南洋に、暁天の星さゆる時、寒嵐むせぶ西比利亜の(そこにいたんです、相川君は)荒涼の月仰ぐとき(彼は仰いだでしょう)思ひを馳せて一橋、母校の姿君見ずや」と、これが私の慰めでありましたということを彼は私に直に話したことがある。

 たまたま会歌の話が出まして、私は相川君のことを思い出しましたし、かねてこれに非常な愛着と誇りを感じているので、何か心が踊るような感じがしました。

 さらにもう一つ。大学の昇格の話がありましたが、これについての挿話を二つ申し上げておきます。

 一つは、文部省は昇格を許したけれども、予科の設置は許さなかった。これは佐野先生からの直話です。ところが佐野先生が予科を置かないならば、ちょうど地方の高等学校、地方というのは高等学校と地方の高商の人だけを集めて大学をつくるなら大学にしなくてもいい。高商と専攻部でわが一橋の伝統というものは守っていくんだからということを考えて、予科を置かないなら昇格を断りますということを佐野先生は言われたんです。その予科のときに一橋の会歌を肝に、心にたたき込まれたと私は思っているんです。

 戦後は学校にいろんな問題がありますが、一つ、予科のないことが、それは予科だけ独善ではいけません。入れなきゃいかんですけれども、少なくとも高等学校、さっきのシビリアンでない、東大というか赤門というか、これはおっしゃるとうり何かというとわれわれは対抗意識を出しましたよ。ボートレースなんて夢中になって、敵は一高にあったんだろうね。そういうことがありました。予科の問題が一つ。

 もう一つ、いろいろなことが言われておりますが、昇格のときも一番最初に言われたのは福田先生だと思う。図書館が残ったです。図書館というものはこういう大学の生命なんだから残ったことは非常に幸せだから、こんな町の真ん中にいないで郊外へ行こうじゃないか。福田先生は学生を扇動するのがうまかったですね。それでわれわれは立ち上がってやったんですけれども、そのときたまたま上田先生は移転に反対なんです。私のプロゼミナールの先生が。実に困りまして。あるとき、移転運動を進める決心をしたんですけれども、上田先生はこう言われたことがある。君、予科と専門部はどこか郊外へ行ってもいいよ。大学の学部は丸ノ内ですねと。丸ノ内に七階建てぐらいの大ビルディングをつくって、東京のど真ん中にあって実業社会の空気を頭で吸いながら学問をするのが東京商大の本科の姿なんだと。それでおれは反対しているんだということを上田先生が言われました。

 この二つだけ、時間を拝借して恐縮ですが。
                                              (昭和六十一年十一月十三日収録)