一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第六十号] 一橋百年、キャプテン・オブ・インダストリの歩み・・・・一橋大学商学部教授 米川 伸一 
                ―経営史の観点から・一橋大学の卒業生のキャリア―


    はじめに

 ただいま御紹介にあずかりました米川でございます。

 私、昭和三十一年に経済学部の増田四郎先生のゼミを卒業いたしまして、それから大学院の経済学研究科博士課程の五年を終えました。ちょうどその頃増田先生は「商業史概論」という講座を商学部で兼担されておりました。兼担というのは、要するに経済学部の 「経済史概論」をとれば商学部の「商業史概論」をとったことになると、そういうことなんです。そこで私が博士課程を出ましてから商学部に移りまして増田先生のかわりに「商学史概講」を担当することになったわけであります。

 話が脇道にそれますけれども、「商業史」というのは歴史の講座としては東京高商の一番最初のものでありまして、「経済史」の前に「商業史」があったわけです。これは当時東京高商の歴史関係のただ一つの科目でありまして、要するに商学全体の歴史であるというふうに理解して頂ければよろしいかと思います。つまり狭い意味での商業の歴史ということでは必ずしもございません。ところが経済史という講義ができまして、実はそういう意味での商業史というのは余り意味がなくなってきたというか、結局同じようなことを講義するようになってまいりました。一方戦後に経営史というのが興りました。これはハーバードのビジネススクールから起こった学問でありまして、企業経営の発展の歴史をたどるわけです。これが目ざましく発展いたしまして、現在日本はアメリカと並んで経営史の研究家が多いという点では一、二を競う、そういう状況にございますけれども、それを商業史のところに付け足しまして、「商業史及び経営史」。内容は専ら経営史なんですけれども、商業史という名前を取るのが惜しいということで商業史
及び経営史という科目名で講義をいたしております。

 こんなわけで私は増田先生のゼミでは、言ってみればスピンオフした類の人間でありまして、余り高尚なお話をすることはできないのでありますけれども、ある意味ではビジネスに最も近い歴史関係のサブジェクトを担当しておりまして、優秀社史選考賞というのが『日経』でよくみかけますけれども、そういうところの選考委員なんかも務めております。企業のトップマネージメントの方のヒヤリング、その他をお聞きする機会も大変多い。それにもかかわらず如水会には大変御無沙汰しているというのも変ですけれども、大学のそばに家があるものですから余りこちらに足を運ぶ機会もない。そういう状況でありまして、面白いお話をしたいとは思いますけれども、大変固いお話になってしまうかもしれません。どうぞよろしくお願いいたします。


    経営風土形成史の観点から一橋百年史を辿る

 そういうことでございますから、経営史と申しますのは大体企業経営の歴史ということと、もう一つ経営風土形成史というのを学校ではやっております。経営風土形成史というのは経済史とはちょっと違いまして、人間が入ってくる。つまり各国において経営者とか労働者というのは、すべてつくるものは一緒のようなものをつくっているのですけど、生活したり考えたり、あるいは人生の最上の生きがいは何かという点では、各国においてすべて違っている。そういう状況のもとに置かれている。それが貿易摩擦とかそういう問題につながってくるわけですけれども、そういぅ各国の経営風土の出来てくる歴史的過程というのと、経営の、例えば経営管理組織がどう歴史的に発達してきたか、そういう企業内部の発展の歴史と、それを半々に分けまして学校で講義している、そういう次第でございます。今日の話はこの経営風土というものと係わりが御座います。

 いま御紹介頂きましたように、私はどちらかというと欧米の方から研究に入っていますから、増田先生のゼミですし、日本のことはつい最近国際比較ということで、日本にそれを拡大して比較経営に入ってきたということなんでございます。ですからまだ素人とと言ってもそう大過ないかと思うのです。

 実は今日のお話のテーマに関しましては、私「一橋大学百年史」 の委員会の責任者を仰せつかっております。こちらの如水会の方の百年史の先輩方と接する機会が多いのですけれども、如水会の資金で卒業生の実態を調べてくれというお話が一年半ぐらい前にございまして、それで助手を一人雇いまして、まだ完成していないのですが、そういう仕事を同時にやってまいりました。これは経営史の中でも企業者の歴史的な国際比較というテーマが御座いまして大変重要なものでございますが、それと係わりが御座います。

 御承知のように、文科系に関する限り経営教育という点で一橋が日本の一つのモデルであることもまた間違いない事実でありまして、その百年の卒業生がどのようなキャリアを歩んでできたかということをやってみたいと。これは十年ぐらいかかる仕事なので、まだ一部しか統計をとっておりませんから非常に未熟な成果なのですけれども、それをここで披露させて頂きたいと思うわけでございます。


     一橋はじめ各校卒業生の歩みをあとづける諸学料について

 きょうは大変申し訳ないと思っているのは大変たくさん資料をお配りしたことなのですけれども、間に合わなかったものですから昨日までかかった資料と、二つに分けてお配りしてございます。(必要部分だけ末尾に掲載したが相当部分を割愛)。

 まず、この調査にどういう資料を一橋の場合使ったかということをお話しいたします。これも余り面白いお話じゃないかもしれません。

 これは、「東京商業学校ー覧」とか、「東京高等商業学校一覧」、明治十九年からでございますけれども、学校一覧というのがそれぞれの学校から出ておりまして、それには大正八年まで卒業生の就職先というのが全学生に亘って書いてございます。これは大変便利なものでございまして、その年の卒業生になると卒業先は完全にはわかりませんから、卒業して二年後の「一覧」でもってそれをずっと追跡していくということをいたしました。大正の第一次大戦、これは一橋だけではございませんで、高等工業も他の高等商業もすべてその時分までは就職先の現状が全卒業生について書いてあるのです。ですから学校間の比較もすべてできるようになっておりますけれども、そういうことをやります。ところがそれ以後は東京商科大学になってからは卒業生の数がふえた関係か記載してございません。それで本学に関しては「如水会会員名簿」を使うということで1これは加入率の問題がございますから厄介でございますが最初は大体九〇%以上加入しております。ですからまずそれで結構なんですけれども、それをやはり二年後のものをずっと使っていくということです。その中で主要企業をピックアップしていく。これが大体二十社ぐらいずっととってみたんですけれども。これは別に主要企業に ― こういうお話しをする必要もないのですけれども、主要企業に勤めなければならんとか、勤めた方が偉いとか、そういうことを申し上げているのではなくて、事実として集中度が大変高いものですから、それをお伝えしたかっただけの話でありますが、この上位二十社を検べております。ところが昭和十九年からこれが発行されません。これは大変厄介な問題であります。戦後最初出たのは昭和二十六年でしょうか、これはとても内容が不完全です。大体昭和二十八年頃から整備されますから、その途中の卒業生につきましては二十八年の資料を使って追跡しております。第二次大戦後は ― 私は、三十一年の卒業ですけれども、その時分まではわりあい加入率が低いのです。これはまだ正確に計算したことございませんけれども。それで資料も不完全になります。

 それから、昭和四十年代後半。詳しいことはお話ししませんけれども、それ以降は卒業アルバムに就職先が載っているのです。それを使いました。過去の十五年ぐらい。ですから資料が若干違いますから問題があるのですけれども、そういう順序で調査していくということでございます。

 それから、簡単にはかの大学をお話ししますと、慶応は「塾員名簿」が明治二十九年から揃っております。これは全部就職先が書いてありまして、大変便利なものでございます。早稲田も明治二十年頃からございます。早稲田はビジネスに対して人材を供給するのは、理工学部ができてから明治四十年頃からなのですけれども、これも大体揃っている。

 問題は「学士会」であります。学士会というのは加入率がそれほど高くない。ところがそれにもかかわらず、さっきお話ししたような利用出来る資料が帝国大学にはないのであります。それで特に京都大学なんかが一番ボトルネックでありまして、京都大学の卒業生で学士会に入っている人の率は非常に低い。ただ「学士会会員名簿」しかございませんから、帝国大学の卒業生を追うときはこれ以外には資料がございません。若干お配りした資料にも検討した結果が御座います。これも学士会なんかですと、大変手間のかかる仕事でありまして、やはり十年ぐらいどうしてもかかるのです。

 こういう形で何を調べたかといいますと、そのときの主要企業と産業別の分布はもちろん調べましたけれども、私は特に雇用関係の問題、つまり社員層の終身雇用の問題が私の研究テーマ自身とかかわってまいりますので、その
二十社だけなのですけど、二十年後にその企業にいた人が何パーセントかということをたどってみました。

 これは私の専門の研究領域というのが実は繊維産業でございまして、ちょうど東洋紡の百年史が出ましたけれども、東洋紡は一八八二年に設立された日本では歴史の古さでは屈指の、株式会社の最初の一群に属するのでありまして、それも含めていわゆるブルーカラーではないホワイトカラーの戦前のそういう終身雇用が実際に存在したのかということを、ほかの大学の卒業生を含めてお話ししてみたいと思うのです。


     明治以来の実業教育の位置づけについて

 そういうことを中心としてお話ししたいと思いますけれども、その前にイントロダクションとして一橋の、私よりも先輩の方が御承知だと思いますけれども、発展の軸になるというか、私の話しとのかかわりで申しますところの重要な問題というのを、若干お話ししておきますと、これは日本の教育制度とかかわりまして ― これは教育史の方がむしろ専門なのですけれども ― その中で実業教育というのはどういう地位を占めてきたかということです。

 まず明治の到来とともに国を治めなければならん、国をつくらなければならん。何といっても官僚を養成するということが明治の政府の最大の眼目でありまして、そのために司法省にしろ、農商務省にしろ、工部省にしろ、夫々新しく自分で学校をつくっているわけです。

 例えば司法省の場合は法学校、工部省の場合は工部大学校、内務省の場合は駒場の農学校。これを専門学校と言いますけれども、そういうものをつくって自分のところで養成していたという事実がある。その中核が、いわゆる大学南校の後身である東京開成学校ですけれども、それから東京医学校というのがございまして、これらもみんな専門学校で、それをみんな東大に統合しました。帝国大学令というのを明治十九年に出した結果でして、これは商法講習所と密接にかかわっている森自身が文部大臣のときにやったわけです。

 「高尚なる」専門学校を帝国大学に統合して、「国家ノ枢要二応ズル学術技芸ヲ教示シ、ソノ蘊奥ヲ攻究スル」 ことを目的として帝国大学を創立したというわけで、そこにみんな統合していった。

 ところが森自身は、そこに商法講習所を統合しなかったわけです。そういう意味では「高尚なる」専門学校の中には入らなかった。「高尚なる」とは実態としてどういう意味であるか抽象的でなかなか難しい問題でございますけれども、商法講習所自身がそういう学校でなかったということは事実なのです。

 ただ商法講習所の中で一体どういう人を養成するのかというのが時代とともに急速に変わっていることに注目したいわけです。これは結局日本のビジネスの発展とのかかわり合いになると思うのですけれども、少なくとも世界の高等教育機関、ビジネス教育機関を見て、一橋ほどそれが平凡な店員の養成所からトップマネージメントの養成所まで変わってきたというか、進化してきた歴史というのは世界で前例がありません。

 ですから最初はアメリカのビジネススクールのなかでも一番程度の低いビジネススクール、ビジネススクールというと最近はハーバードのビジネススクールを思い出しますけれども、そうではないので、ビジネススクールというのはあらゆるタイプのビジネススクールがあるのですけれども、その一番程度の低いビジネススクールを持ってきたのが商法講習所だったのです。それからアントワープ商業学校がよく言われますけれども、更にそのモデルがロンドンスクールになったり、それからライブツヒとか、ベルリンのハンデルス・ホーホシューレがモデルになったり、ハーバードのビジネススクールがモデルと見倣されたり、そういうふうにずっと変わっているわけです。その中で最初のビジネススクールというのは、これはホイットニーが校長先生として来た。それで森は彼と意見が合わなかった。

 そのホイットニーの時代にはこういう記録があります。つまり「その時分はブライアンとストラクトンのブックキーピングと商業算術とペンマンシップができれば商法講習所は卒業できた」という最初の回想がございます。商法講習というのは「商いの方法」ということなのですけれども、ホイットニーによる教科内容によれば、これは、アメリカの平凡な店員の養成所だと考えた方がいい。
                          
 森の考え方はそうではなくて、「近代的なビジネス」の職員と言っていいと思うのです。決してミドルでもなければトップでもなかったと思うのです。それを考えていた。結局森とホイットニーとの意見が合わずにホイットニーは帰国したということになって、一応、講習所の狙いは明確になる。

 それから、こういう資料もございます。東京府が経営するというときに東京府会の議論の中で、貿易なんかに従事するのは東京の商人の中でもごくわずかだ、それなのに予算を出すという必要はもってのほかだ。そういう意見が大変強かった。ですから、この場合でもいわば近代的なビジネスマンを養成するという、そういう方針というのは非常にはっきりしておりまして、それがまず商法講習所の出発点ということになります。

 商法講習所は ― ちょっと長くなりますけれども、― 東京府商法講習所明治十六年報というのを読みますと、「数年来内外貿易シキリニ盛ナルニ従イヒ、頗ル需要ヲ吾商業ノ少壮二及ボシタルモノト見へ、コノ数年間当初ノ官二出入スル生徒ハ全ク其業ヲ修ムル二遑アラズ、中途学校ヲ出テ社会二散在スル者凡ソ四百有余名トス」と書いてあります。商法講習所というのは非常に中途退学が多うございまして、一つは、これはすべて授業が英語であるという点で大変そういう点では難しかったということもあるのですけれど、また就職がよかったということもあった。

 例えば、最初に益田孝を継いだ物産の渡辺専次郎、物産の実質上のトップですけれども、そういう人とか、例えば東洋紡の専務になって、現在でも大阪の本町の綿業会館に行くと中に大変大きな像が立っていますけれども、岡常夫さんとか、こういう方は商法講習所の中途退学者であります。ですから名簿を見ると載ってないことがございます。

 そのときに大体商学部の中核になるサブジェクトというのはできた。そのときに商議委員という、最近の学則には全く見られない、そういう商議委員という方がおられまして、最初は渋沢さんと、物産の益田さんと、日銀の総裁になった富田さんでした。後は日本郵船の近藤廉平さんとか、三菱合資の荘田平五郎さんなどが見られますけど、大体こういう方がどうも教育科目を決めるのに影響力があったらしいです。後からお話ししますけれども、就職先について申しますと、商社、金融中心というのが非常に一橋は強うございます。それで一方非常に製造企業が弱い。そういう事実がはっきりしております。これは百年たった現在でも壊れていないようでございます。その基礎はこの時分に出来ました。

 そういう状態でまいりまして東京帝国大学の中に入らなかった。入らずに後に単科大学へ昇格という形できたわけです。大学の昇格運動が明治三十五年くらいから起きてまいりますけれども、その場合は、一体どういう人を一橋では養成するのか。ビジネスマンでもどの階層を育てるのかと。どこを目標にするかということについて必ずしも明確な議論はなかった。キャプテン・オブ・インダストリーの養成だというお話は私もしばしば一橋の先生からお話をお聞きましたけれども。これがまた分らない。

 私、イギリス経済史から出発しておりますけれども、大体カーラィルの時代のイギリス経済というのはビッグビジネスはまず端的に言ってなかったというのが正しいのです。所有者と経営者は分離しておりません。基本的にはその時分のイギリスは、パートナーシップでありますから。ですから綿業なんか代表的なのですけれども、従業員が三百名とか五百名で、所有者が同時に経営者である。言ってみればそういう企業家です。シュンペーター的な言葉で言うとアントルプルナーですけれども、そういう人だったのだろうと思います。

 ですから、この議論というのはさておき、実際にどういう人を養成しようと思ったか。つまり高商から大学に昇格するときもそうですけれども、実際ビジネスにおられる先輩の、最近の高商の学生というのは抽象的で高尚な議論ばかりしていて何も役に立たんというような意見はその時分から常に記録にある。そういう御意見が大変強かったようで、益田孝自身も大学に昇格するということは必ずしも賛成じゃなかったというような記録もございますけれども、それはどういう厄介な問題を含意しているか、これを一寸考えてみたいと思います。きょうお配りした英文の資料がございます。(付表1)Click、これは私がロンドン大学出版の学界誌に書いた論文の一部なのですけれども、第ー次大戦が始まったときに学卒者がどの企業に何人いるかというのを、その時点だけなんですが、一九一四年の大学一覧、その他を参照しまして、全国の代表的な二十程度の高等教育機関の卒業生を全部企業別に分類したものなのです。

 それで見ますと三井物産というのは断然トップです。七百三十一名。実に世界的にも想像できません。学卒者が企業に多かったというのは、世界で日本が断然トップであります。国際比較はなかなか難しくてできないのですが、まず間違いございません。何故こんなに学卒者が多かったのか。要するに、日本では近代ビジネスの利用した技術はハードもソフトも輸入品だった。従ってそれを利用するのは教育のある人に限られていたということなのです。アメリカは比較的高いです。アメリカは比較的大学教育が普及しておりますから高いのですけれども、三井物産というのは実に高い。最後に従業員の全体の数を書いてあります。これはホワイトカラーが入っている場合と入っていない場合があって、企業に調べて頂いて大体上位の企業はわかったんですけれども、物産は一六七六名のうち実に七三一名が学卒者なのです。一九一四年ですがこのうちの三分の二ぐらいは一橋の卒業生だと思うのです。

 これは物産とか郵船とかそういう企業ですけれども、学卒者がたくさん入っていたというのが一九一四年の段階で国際比較をしてみますとわかります。次にこの表を見て頂くだけで大変面白いんですけれど、彼らは六つないし七つの産業分野に集中しております。それはサービス産業では商社、商社でも伊藤忠なんかは入っておりません。これは大変面白い研究対象なんですけれども、つまり当時の総合商社。サービス産業の四つは商社と銀行、保険、海運であります。それから、理科系を中心に製造業が、鉱業と紡績、造船です。この七産業分野に大体集中しています。これは大体上位百企業だけの統計なのですけれども、企業の数を百だけ選んでみたわけです。その中の統計を見るとこの七産業は大体日本の産業構造を反映しているとみて差し支えないのですけれども、これはある意味で大変日本の特徴を表わしている。特に製造業なんか、テキスタイルなんていうのは、外国ではテキスタイルの企業というのは大学の卒業生というのはほとんど入っておりません。日本だけは集中的に入った。戦前の経済発展のなかで低貫金は大変重要な要素なんですけれども、そういう中間管理者とか経営者の力量というものも相当重要だったんじゃないかというふうに思うわけで、それが私の研究を始めた端緒なんです。

 ですからバリューシステムというか価値体系で言うと、日本はもちろん経営風土から見ますと、これは官僚主導型でありまして、官僚的価値体系が一貫してあると思うのですけれども、富国強兵でありますから富国の場合にはどうしてもビジネスというものが重要だということで、大学の卒業生がビジネスに入っている。

 イギリスなんかは徹底して大学の卒業生はビジネスなんかに行くものじゃないというのが基本的な考え方です。これは最近ちょっと変わりましたけれども。ビジネスに行くんなら最初にイレブンを済んだら自分の親父さんのところでオン・ザ・ジョブ・トレユ一ングをするというのが基本で、大学なんかに行くのは無駄だというのが基本的な考え方であります。アメリカはちょっと違います。

 話をもとにもどしますと、そんなわけで高商がどういう人を養成するかというのも思いの他複雑な問題を内包していたわけです。次の表は鐘紡なんですけれども、(付表省略)、鐘紡で一番新しく大学を出た人 ― 鐘紡というのは慶應閥なのですが、一番初めに大学を出た人からずっと、一番最後にどこの職位まで昇進したかということを調べて見たわけです。そうしますと、鐘紡は学卒者を、すぐ卒業して定期的に採るようになったのは日露戦争以降。大体どこでもそうです。日露戦争ぐらいまで、中途採用が多い、ほかの企業から。

 ちょっと間違いもございます。有名な武藤山治は明治二十七年というのは間違いで、十七年が正しい。それから十年間被は新聞社とかアメリカで苦学なんかしておりまして、三井銀行を経て二十七年に鐘紡に入っているんです。若干そういう問題がございますけれども、これを見てみますと、例えば、東京高商を二十四年に出た長尾さんという方も、確か内外綿にいて神戸商業学校(後の神戸商大)にちょっとおられた方でして、これは副社長というのも、実はちょっと不正確で、武藤さんが亡くなって半年間だけ社長をしております。

 大体これを見ますと一九〇〇年というのは、明治三十三年ですけど、三十三年ぐらいまでは学卒者が取締役になっていくのが非常に早かったわけです。社員で入った人が、それこそ、これは物産で見ればここの卒業生の方のことは一番よくわかるわけですけれども、一生懸命 ― わりかた途中で職場をかわったりする転職率がその頃高かったんですけれども、ずっと仕事をして力量を発揮されてこられると早いうちに取締役になられた。ですからそういう状況が生まれてきて、本来最初は、簿記もできなければ困るし、すべてができなければ困るんですけれども、だんだんそういう方がトップマネージメントまで上昇されていかれるわけです。そういうのは高商の学校の先生も知っていますし、先徒も知っていますから、そういうものを目指して今度は学校でも勉強していくというわけやす。ただ、だからといって最初にあったようなそういうサブジェクトを廃止することはもちろん考えられない。

 さあ、それじゃどうしたらいいか。これは大変難しい問題でして、これは現在のハーバードの例を考えてみればわかるので、例えばハーバードには経済学部もありますけど、ハーバード・ビジネススクールというのがございます。ビジネスに行く人は決して経済学部を最初出るということは毛頭考えてございません。ハーバードのビジネススクールというのは高度の抽象的なセオリーというものをやるのではなくて、ケースメソードで ― もちろん彼らも難しい分析はしますけれども、それで、ケースですから実践的な訓練をするわけです。これは大体サンドイッチ方式ですから若干ビジネスに経験のある方ですけれども。大体二十五から三十くらいですか。そういう方が来ておられるわけです。大体そういうビジネススクールというのはアメリカでは各地に、シカゴにしろ様々ございます。ですからそういうところが本来の、いわゆるビジネスマン幹部の養成機関として考えられている。

 経済学部というのは非常に抽象的でセオリティカルで。ですからハーバードの場合はチャールズ河というのがございまして、一方にビジネススクールがあって、反対側に経済学部がございますけれども、全く学問風土が違います。従って高商D場合でも、卒業生がだんだんトップマネージメントに上がってこられた。もちろんミドルには堅実にやれば五年か六年もたてばすぐミドルになる。そういう状況なんですが、それだったらそういう状況になったとき高商の教科で何をすればいいのかというのは大変難しい問題でありまして、ただ大学に昇格して経済学の勉強をやっておれば結構なんだというわけでもないのです。

 大学昇格問題というのは、こういう言い方は非常に一方的になりますけれども、一方では東大、帝国大学という一っの教育のバリューシステムが、支配的な価値体系というのがありまして、そこでは官僚の養成機関だと。これは森がそのためにつくったのでありまして、法学部なんかは八〇%ぐらい公務員です。そのために高文試験を通過しなくとも帝国大学さえ出ていればいいというような状況で、みんな官僚の卵でございます。帝国大学ですと、明治の末になりますと大体近代ビジネスに入った人が二〇%ぐらい。一橋が大体七〇%。慶應は自営が多いですからもう少し少ない。東京工大が五〇%。そういう数字なんです。

 ですから高商の大学昇格問題というのは非常に複雑な問題がありまして、教官の中でも、これは最近の学園史でも触れておりますけれども、東大の先生も大分高商に来ていました。大学昇格問題というのは、一番最初は大学に商科を置こうというのは、大方の意見だったが、どこに置くということは全然議論に上がっていなくて、商科大学は必要だという議論はあったのですけれども、それを高商に置くという議論では決してなかったんです。それは東大に置くかもしれないし、高商に置くかもしれないわけです。それで東大に四十年に経済学科ができて、東大に先に経済学科と並んで商業学科ができたという、そういう状況になった。教官の中でも東大から大分来ていますから、その中でも意見が違うし、ビジネスの中でも前に申したように複雑な、一体大学に昇格するのがビジネスにとって本当に役に立っ人間がつくれるのかどうか、すぐビジネスに行くのなら専攻科が一番いいという意見も随分強かったようであります。大学に昇格したいというのは、もちろん、これはある意味では教官が一番望んだんじゃないかと思います。学生も望んだんじゃないかと思いますけれども。

 学問の中には学問自身の発達というのがございますから、内的な発展というのがございますから。しかし他方でその内的な発展の成果をどんどん修得していくのは必ずしも実際のビジネスで役に立つという保証は何もない。そういぅ事実があるんだろうと思います。ただ、ともかく官僚の場合には、その時分は大体官僚というのは、帝大で何番で出たかで全部給料が違うのです。トップで出ると年給六百円でございます。これは大変な額でありまして、びりの方だと四百五十円なのです。ですから私企業が帝大出を採ってこなければならんということになると、それに比べ得る給料を出さなければなりませんから、その時分は東大の工学部を出ると、五十円、法学部は四十五円、東京高商は四十円と、そういう相場が大体決まっておりまして、それが大体どこの私大でも一緒だということになってきたのは一九二〇年代であります。それまでは高商と東大の法学部というのは、かなりその前から大体一緒になりますけれども、そういう格差がございまして、そういう官僚の価値体系が、バリューシステムというのがやはり日本にございまして、それと一緒に合わせていくというと変ですけれども、それと同じような格式の大学をつくりたいというふうに思うのは、ある意味では当然だろうと思いますけども、それが必ずビジネスの要求に沿っていたかどうかというのは、これはトップマネージメントというのが、一体それを必要な教育というのが何かという大議論がありまして、ヨーロッパではマネージメント・イズ・パーソナリティ、経営は人なりという考え方が大変強くて、プロフェッショナルな教育をするというのは経営のトップマネージメントには必要はない。そういう考え方であります。アメリカの場合には、経営というのはサイエンスだという考え方ですから、ケーススタディにしろ学問をやらなきゃならん。そういう考え方がございます。

 これは大変難しい問題で、ともかく政治家についてみればよくわかるので、例えば一流の政治家になるには法学部の政治学科を出ていなきゃならんかというと、そんなばかなことはない。政治というのは何といってもリーダーシップの問題です。それからパーソナリティということ。経営の場合でもそういう問題というのはやはりあるだろうと思います。

 ちょっと話がそれましたけれども、そういう問題がずっと尾を引いて、そういう帝国大学ができて、それから日本は初等教育が早くから発達していた。これはイギリスなんかと問題にならないくらい、普及率から申しますと早く発達しました。ところがその中間の中等教育とか、高等教育とか、そういう中間の教育をどこに位置付けるかというのが非常に後れてしまいまして、そこで申酉事件にしろ、いろいろな昇格・廃止問題にしろ、私たちがよく聞かされている問題というのがその途中で起こってきて、第一次大戦後になって初めて ー 第一次戦後というか、正確に申しますと一九二〇年ですけれども、大学令で今の私大への道が開かれ、大学という名前を付けられるようになり、「単科大学令」で東京高商が東京商科大学となる。そこで一応決着が付く。そういうことでございます。


    一橋卒業生の就職先を業種別、企業別に分析する
     
― 商社と金融のウェートが圧倒的に高い ―

 そういうことを念頭に置いて頂いた上で資料を見て頂きますと、(付表2・3)まず日露戦争以前ですけれども、これは業種別というのは、既にお話しした通りです。また余り時間もないようでございますから、ここで業種別なら業種別で百年を通じて申しますと、最初出来上ったパターンというのは非常に牢乎として続きます。
つまりサービス産業といっても伝統的なサービス産業でありますけれども、商社と銀行のウェー卜というのが圧倒的に高い。これは集中度のところでお話ししますけれども、占める比率というのは卒業生の中で非常に高いという特徴がございます。同時に企業の方も見ていただければわかりますけれども、企業に対しても集中度が高い。私は東京高商に三井物産学校というあだ名があったということは、実は最近になって知ったのでありますけれども、これを見たときにびっくりしたのです。

 明治から、最初に渡辺専次郎が入ったのが嚆矢なんですけれども、表は大体二人とか三人を採用した企業しかとってありませんけれども、資料は卒業後二年後の一覧」、途中で「如水会会員名簿」になっております。これは全部配布できませんでした。実は調べたんですけれども、百年間配布するのは大変ですから途中で切って特定の年だけお見せしたわけでございますけれども、大変集中率が高い。これはごく大ざっばに申しますと、それほど変化はないのです。明治期は二十企業じゃございませんけれども。大正二年から上位二十企業を検討しています。資料は大正八年から二十企業への集中率というのは、一応昨日出してみたのですが、大体三〇%。大変高いのですけれども、その中にある企業というのは伝統的に、いまお話ししたような、そういう物産とか郵船、商船。さっき七つの産業セクターをおししましたけれども、その中のサービス産業の四つの代表的企業にほとんど集中しております。

 これは三井物産の場合は明治三十年代に入ると大体二十名ぐらいとか三十名を採っておりまして、それが日露戟争前の状況であります。高田商会というのは有名な輸入商だったんですけれども、一九二五年、第一次大戦後のときに鈴木商店とほとんど同時に倒産しましたけれども、そういうところにも入っている。

 大正八年しかなくて恐縮なんですけれども、その間ちょっと資料をはぶいてあります。大正八年頃になりますと大体その傾向が続きまして、三井物産に五十人も入っている。三菱商事が大正八年頃初めて三菱合資から分かれますけれども、それが三十名。三菱銀行。それから鈴木商店。造船なんかが若干。メーカーについては、さっきお話した、シップビルディングとテキスタイルとマイニング。それがメジャーの三セクターになります。大体そのあたりに集中している。

 それから、大正十年頃から新しい傾向が出てまいります。これは物産が採らなくなります。御承知だと思いますけども、古河とか久原も第一次大戦中に商事活動に手を出して失敗します。三井もこのとき随分苦労したらしくて、綿花部が分離したのは一九二〇年ですけど、綿花というのは非常に危険だということでそれを分離して東洋綿花としました。

 そのあたりから少し流れが変わってまいりまして、それが次の時代になりますけれども、大戦後から大体昭和七年頃までの不況期です。これは昭和二年頃から非常な不景気に入りますけれども、その間は銀行は多いのですが、大正十三年の次、昭和四年しか載っておりませんけれども、昭和四年までまだ不景気なので、ずっとこのときは就職した企業は分散しております。大正十一年、十二年というのは住友銀行が断然多い。大正十三年も多いですけれども、全部お見せできなくて恐縮なんですけれども、その傾向がずっと続きまして、物産も再び採り出しますけれども余りたくさんは採りません。それから保険がこの時分から上位に登場します。それがずっと続いて・大体昭和八年あたりから更にもう一度状況が変わってまいります。

 『一橋新聞』の就職に関する記事を見てみましょう。例えば見出しだけ読んで見ますと、大正十四年一月十五日、「別だん新しい傾向も見えぬ卒業生の志望」 「学生課の門前市をなすきょうこの頃」 「社会は依然として人物の格付けを要求する」。格付けというのは学校の成績ということだそうであります。これが大正十四年なんですけれども、これは第一次大戦後のちょっと中だるみの時期なんです。

 ところが昭和五年四月の記事になりますと「商学士の就職率記録を破って激減、実業界の登竜門一橋にも不景気風っいに来る」。そういう見出しが出てまいります。(付表参照)。

 昭和四、五年の企業先を御覧下さい。(付表参照)。こういうふうに多数の企業に分散してまいります。好景気になるときは集中度が低い。これは現在までそうなんですけれども、景気がよくなると上位企業への集中度が激しくなります。集中度が激しいというのは結局昔の傾向に対する回帰現象でありまして、やはり商社と金融。広い意味での金融。大正期になると保険も加わります。保険は慶應が元来強いんですけれども、保険とかそういう金融機関。証券はわりと少ないですけれども、入ります。いずれにしてもその二つが景気がいいときは非常にそのウェートが高くなるというのが事実であります。

 それが昭和八年頃になると微妙に変わってまいりまして、こういう物騒なタイトルが付いております。「偉いぞ!インフレ、就職率は八割、昨年に比べ飛躍的」偉いぞというところに感嘆符が付いておりますけれども、これは高橋是清さんの例のケインズ的だと言われる財政膨張政策が出てくる。昭和七年頃からだと思いますけれども、このあたりから急に採用をふやす。これはほかの企業でもそうです。卒業生の資料で見なくても、私の研究した企業レベルのものでも昭和八年頃から景気がよくなっているのか中途採用がふえてまいります。

 例えばこれは極端なケースですけれども、ひとつ物産がどれほど首を切ったかということをここで。大変面白い記録です。英文の表が載っておりますけれども、私の英文のペーパーをそのまま持ってきたので恐縮ですけれども、Table4 Turnover Of Salaried Personnel in the Mitsui Trading CO(付表6・(2))。これは一九一七年から、どれだけ辞めて、どれだけ退職して、どれだけ入社したかという数字で、それで最後にバランスが表示されています。
これは三井文庫で偶然見つかった貴重な資料なのですが。三井物産につきましては、私は一番最初のところで一九一四年に実は全社員が千六百七十六ということをお話ししました。(前述付表1)ところが十七年の三年後には二千百三十九名になっておりまして、それから毎年二〜四百名くらい入っているんです。これは新入社員なんですけど。これは一橋の先輩の小室・福井さんが取締役だったときだと思います。無論、出て行く人がある。ところが第一次大戦後に急速にその反動がまいりまして、★が付いているのは東綿が分離して綿花部門の社員が退職する。その分だけは東綿に行った人なんですけれども、それを考えても二十一、二十二、二十三年で、それぞれ毎年三百名から四百名減っているわけです。それからうんと絞って、二十五年にカミソリの安川と言われた安川雄之助がトップになるのが、二十五年。彼は大阪商業学校の初期の卒業生だと思いますけれども、その時分からまたちょっと採用し始めますけれども、その前はすごくたくさん、これは依願退職だろうと思いますけれども、減らしているわけです。これは大体どこの企業でもそういう傾向がございます。

 これもちょっと話がそれますけれども、その次の表(付表6・(1))を見て頂くとわかりますが、これは戦前の三大紡績の「職員録」の調査なんです。これも大変簡単でわかりづらい表だと思いますけれども。

鐘紡と東洋紡と大日本紡績というのが三大紡績なんですけれども、その入社学卒者を合わせた学卒社員を卒業年度別に分けて何名その企業に何時まで残っていたかということを調べたものなんです。

いままでの私の話のコンテクストから申しますと、大体二〇世紀というのはちょうど明治三十四年。そのあたり
から学卒者が大部ふえ出すんです。企業の中で。それは二〇世紀というか・日露戦争後と言った方がいいのですけれども、高商がたくさんでき始めます。神戸高商が最初に卒業生を送ったのは明治四十年です。三十六にできて四十年。それから山口高商もできるし、長崎もできるし、あっちこっちで高商ができる。それは高等工業も一緒ですし、帝国大学もあちらこちらの帝国大学。その時分は人事政策にもとづいて定期採用なんていうことはございませんから、また第一次大戦の済むまで日本経済自身が非常に伸びていますから、たくさん人を採るわけです。それまでに入った人というのは非常に離職率が高うございます。

 それは、紡績に戻って頂きますと、鐘紡は第−次大戦が始まると同時にすごく採用者を絞っています。鐘紡というのは断然トップでして第一次大戦のときに、実に二百七十余名の学卒者がいる。文系は慶應が多いのですけれども、ところが第一次大戦が始まるとうんと絞っているんです。絞ったときから非常に、つまり在職期間が長くなっている。鐘紡は武藤さんが、株主総会の席上ですけれども、私は絶対首切りをしないと言っていますから、恐らく正式に首を切ったのではないと思いますが、つまり先がだんだん詰まってくるんです。この時分は定年というのははっきりしておりませんし、若くして経営者になっておりますから、一度経営者になった人はなかなか辞めることがないわけです。そうすると鐘紡みたいに大正四年あたりまで、どんどん企業を吸収していきますから、どんどんポストができていくときはいいんですけれども、第一次大戦後になって相対的に企業の成長がとまりますと昇進が大変難しくなってくる。

 特に鐘紡の場合は、余り詳しくお話ししても面白くないと思うのですけれども、工場長というのは必ず文科系なんです。ですから一番困ったのは高等工業を卒業して鐘紡に入ったような人。これは工場の工務係主任でとまっちゃうわけです。こういう方が恐らく不満もあったし、これは技術者ですから中堅の紡績会社に引く手があったというようなことなんでしょうが、どんどん途中で転職していく。ところが鐘紡の場合は第一次大戦の時点でうんと絞ってしまいます。それから在職期間が伸びてきます。これは昭和十六年の社員録しかないんですけれども、この場合に大体七−八割が終身と言わずとも長期雇用。戦後は、調べてもらうと大体八五%ですから、大体その時点に入った人とそう違わない。問題は定年までいたかどうかということです。つまり長期雇用であることは確かなんですけれども、定年退職はわりかた戦前は少ないようです。私はこの理由はよくわかりません。教えて頂きたいのですけれども。

 これはみんなトップの、いわゆる大企業だけを調べているわけですけれども、この次の東洋紡になると五年ぐらい後れてそういう状況がまいります。大日本紡は戟後にならないとそれがこない。つまり格差は大変激しい。大体社会的評価について言いますと、戦前は鐘紡が第一ということははっきりしているのです。これは社会的評価ですから、企業が実際それだけ業績がよかったかどうか知りません。

 つまり鐘紡の場合はとてつもなく配当も高いし宣伝がうまい会社ですから、鐘紡がよくてその次が東洋紡で、その次が大日本紡と決まっているわけです。その中で最初に鐘紡というのは、そういう形で終身雇用的な形態になってまいります。それから東洋紡がついて、それから大日本紡になると非常に後れる。ですから中小とか中堅企業になりますと、さらに後れるだろうと思います。そういう状況になってまいります。

 ちょっと話がそれましたけれども、もう一度話を昭和八年の段階に戻しますと、昭和八年頃から今度はメーカーがふえてまいります。それが第二次大戦の始まる頃になると益々はっきりします。例えば東芝に四十人。これは卒業生
が多い年ですけれども、一年に確か二回卒業式がありました。それにしてもメーカーがすごいふえてまいります。これはどういうことなんでしょうか。つまりその時分は東京産業大学に名前を変えられたというのは、商売というのは価値をつくらないから産業大学にかえろと言われたという説もありますけど、メーカ迄行くという風潮が ― メーカーが景気がよかったわけですね。

 一方、物産なんかは、結局世論の批判を浴びたりした事件が、それで株を公開したような、ああいう事件がございますから、若干流れが変わってきたんだろうと思いますが、このときは八年あたりからだんだんメーカーへのウェートが高くなっていくということでございます。

 ついでですから戦後のお話ししてしまいますと、戦後は企業の方が変わりました。ですから大変分散したのは当然であります。物産、商事については言うまでもないことですけれども、「集排法」その他で随分いろんな企業が対象になって、系列企業を離したりしております。また統制会なんかが戦時中できまして、それを機会に企業を替わったような方もおられるし、大体亡くなった方も随分おられるということで、実はこれは二十八年版でみんな集計してありますけれども、これを見ますと非常に分散しております。これは二十八年版自身が加入率も低いし、余り適当なものだとは思いませんけれども、これ以外にありませんから致し方ありません。

 これが大体昭和三十年。例えば一九五二年というのは昭和二十七年ですけれども、『一橋新聞』を見ると、「新制に若干の不利、期待持てる銀行証券筋」という見出しでありまして、「開講前というのに補導部長室には増田課長との面会を待つ学生が居並び、求人申し込み】覧表に緊張した顔が集まるという学内風景は、今年度の就職戦線の異例な深刻さを物語っているが、一流会社の求人申し込みもほぼ出揃って事務整理に忙しい補導課に一橋就職戦線の実情と見通しを聞いてみた」というようなことで書いてあります。これは二十七年で、私は三十年卒なんですけれども、これは私が申すまでもなく、商事が二十九年、物産が三十五年に復活していますけれど、そういう状況のもとで、まだ戦後のなごりが残っているときで大変日本経済自身がスケールが小さかった。大変難しい時期でした。実態は三十一年から高度成長期に入りますが、まだまだそれが必ずしも就職に及んでこなかった。そういう時期で、それまでは、大体三十五年頃までそうなんですけれど、それほど集中度は高くない。

 そこでもう一つ『一橋新聞』の記事をお話ししますと、六一年というのは三十六年になります。三十六年というのは経済成長率が一〇%以上、三十四年、五年、六年というのはすごく高かったときであります。見出しは「全員決定、就職戦線異状あり」というのが三月の新聞見出しなんですけれども、「根の深い協定違反、その解決は可能か、今年度卒業生の就職希望者は二月末日までに全員が就職先を決めた。(決めたという感じがぴったりあてはまるのは今年の就職状況である)。三十五年の十一月以降に就職先を決めた学生の数はわずか十人を超えず、実際は十月一日の協定日には大半の学生は決まってしまっていたのだ」というのが昭和三十六年であります。ですから、正確に日本経済の拡大と照応したような形になっているのでございます。その中で今度はまた集中度が激しくなってまいります。これは昭和四十年とか、例えば昭和五十年というのをとって頂くとわかりますけれども、私の在学中には都市銀行というのは大体七名か八名というのが常識でしたけれども、二十名余というのがいくつも出てきているわけです。興銀なんていうのは私のときは大体五名か六名でした。興銀が二十何名というのが最近の状況になってきます。とてつもなく多いのが商社、最初の出発点である商社と金融中心というのは相変わらず、景気がいいときにやはりそういう状況が ― 戦時中は外部要因のために別なんですけれども、それを除けば、いわゆる好景気のときは集中度が激しくてこれらの分野に集まる。いまお話ししたような特定の産業に集まるという、そういう循環を繰り返しているような気がいたします。
ですから、いままでの話を就職の流れについて申しますと、創立当時の商社、金融中心というのは変化していない。
好景気ほど集中度が高くなる。昭和恐慌以後製造業の増加が若干見られたが・これは戦時経済という外成的な要因であろう。また戦後も好景気とともに集中度が高まり、商社・金融の復帰が強まる。それをひっくるめて、創立以来実は一貫して有名企業への集中度が大変高いということ、これは一橋の特徴であります。慶應とか東大と比べると。

 それで三田と東大をちょっと付表の例に触れておきます。(付表7・8)これはちょっと古いんですけれども、見
て頂くと大体わかりますけど、慶應というのは学生数が大変多いんです。それを考慮いたしますと大変分散しております。特に学士会を見て頂くとわかりますけれども、学士会は確かに、加入率が低いということもあるんですけど、それにしても非常に少数づつの卒業生が大企業に分散しているという傾向がはっきり出ています。これは大正七年からの数字なんですが、→般的にこういうことは各年について言える。最近は経済学部なんか東大のを見ますと、金融とか商社も随分ふえていますけれども、やはり全体として見ますと、学士会とか慶鷹の方がはるかに集中度は低いということでございます。

 それから、二十年後の在職者の御説明をいたします。付表5がそれなんですけれども、これは卒業二年後の調査を基礎にして、二十年後の如水会名簿にその対象となった二十社の中で、どれだけの方が同じ企業に残っているかということを調べております。

 特に戦時中なんかは大変、死亡された方が多うございまして・不明という方も多いし、退職も多い。転職がはっきりしているのは転職と書いてあります。これは紡績企業についてお話しましたように、大体企業レベルで調べました結果とわりかた一致しているんだろうと思います。

 ただ、二十年後ということになりますとちょっと資料に問題がある。というのは、戦時中は出ておりませんので。これは大正二年というのは一九二二年ですから二〇年後というのは三十三年になるという形でずっと連続しております。これは傾向的には確実に上がっております。ところがこれが、例えば昭和二年というのは昭和二十二年なんですが、二十二年の名簿は出しておりませんので、昭和十八年のを使っているので二〇年経っておりませんから数字が高く出る可能性があります。

 そういうことがありますので、これは若干問題があるんですけれども、これで見ますとやはり大正七年から八年ぐらいが一つの転換点なんです。ここで上がっていますけど、これはほかの企業でも大体そうだと思っている。戦後不況で入った人は終身雇用かどうかというのはもう少し詰めなければなりませんけれども、長期在職者が非常に高くなって、ここで一つ上がっています。それから大部経ってから入ってこられたという方というのは、特に一九三三年以降の経済が拡大してからの方は、実は戦争という要因があるので説明が大変難しい。資料もつかみづらい上に、ほかの外部要因でそれぞれの方が異動されたりしていますから大変難しいわけです。ただ私は傾向として上がっているというふうに考えております。

 戦後ははっきりしております。二十八年以降の資料しかない。実は利用価値のある資料が戦後出てくるのは二十八年なんです。二十八年で見ますと四十八年の資料を見ればいいわけです。これは八五%というのが確実な資料です。これは鐘紡なんかでもそうです。鐘紡で謂べてもらいますと、大体戦後の社員というのは八五%は、少なくとも二十五年間ぐらいまでは勤めている。それが終身雇用になるかどうかという問題なんですけれども、そういうことになっています。この大体八五%という数字は確かです。

 戦前 一 テキスタイルは私が集中的に国際比較をやっているところなので前にお話ししたわけですけれども、テキスタイルの場合でも、鐘紡と東洋紡と大日本紡というのは随分格差がございまして、鐘紡からそういう傾向というの
は第l次大戦の頃に就職した人からはっきりそういう傾向が出ている。第二次大戦のそういう外部的な要因もございますけれども、そこが一つの節目になります。ですから大体ホワイトカラーの場合はよく言われることは、徳川時代からの三井なんかの例に見られるように、ずっと古い時代から大体終身雇用だったというふうに申されておりますけど、経済環境によって随分違うのと、その企業が成長しているかどうかというのが大変重要な要因でございます。ですから日本経済全体が成長しなくなると、これは違った現象が出てくる。これは特に第一次大戦後の状況でそれが見えまして、これはちょっとお話ししませんでしたけど、第一次大戦以前の状況というのはわりかた職員全体を比べてみても、紡績なんかではすごい成長している企業だけを採りますと定着率が高いんです。第1次大戦後に大日本紡なんかそうですけど、徹底的に依願退職という形をとって、多くの学卒者を整理しています。特に大日本紡というのは相当景気が悪い時期がございます。それがまた三十三年頃になってくると状況が変わってまいりまして、その場合でも大日本紡はわりかた定着率が低いけれども、鐘紡とか東洋紡になると断然高くなる。そういうような傾向がございます。ですから、一般的に社会学的な説明とかで進化的にだんだん終身雇用というのが発達してきたとか、あるいは最初から、明治時代からホワイトカラーというのは徳川の伝統を受けて終身雇用だったということではなさそうなんです。としますと、現在の状況なんかもある意味ではそんなに新しい状況ではない。第一次大戦後においては随分見られた状況なので特別新しくはない。また状況が好転すれば新しい状況が出てくる。そういう経済環境とのかかわり合いで説明するということが大切です。個々の企業を見ていけば見ていくほど企業によっても違うし、大体、終身雇用というのは大企業だけということは定説になっております。それで正しいんですけれども、大企業の中でも大分差があるということがわかっていただけると思います。


    むすぴ

 最後に一言。いま私はよく学生には申すんですけれども、こういう形で特定の産業、企業に集中するのがいいのかどうかというのが大変問題だろうと思います。

 特にサービス産業でも新しい分野がどんどん出ていますし、個人的な意見を言わせて頂けば、戦後できた社会学部なんかは、そういう新しい分野にどんどん人を送り込むようなことができればよいんじゃないかと思います。余りそういう卒業生の中での、学部の中での特徴というのは出ずに、みんな古い形の就職先というのがますます拡大された形で固定化されていくということは、企業の中に入っていかがなものであろうかということです。しかし学生の皆さんは就職が近づくと先輩とのコネが大変深うございますから、ゼミナールもできないぐらい、あちらこちらの先輩が押しかけてまいりまして、結局先輩との結び付きで集中する企業にはますます集中するという、そういう傾向ができてしまっております。大変問題のある情勢だと思います。

 きょうのお話は、実は私の方からお聞きしたいことがたくさんございまして不充分なもので御座いましたけれども、もし特に御質問でもありましたら、お答えできるようなものでしたらお答えさせて頂きます。


     [質 疑 応 答]

   先生のお話に出ましたイギリスの場合にはビジネスの方に学卒が余り行かない。いまでもそうでございますか。
 またどういうところに原因があるのですか。経済摩擦の問題に非常に影響があると思うので。私もイギリスに行っ
たことがありますので確かにそうだと思うんですが、私の行ったのはずっと昔ですが、いまもそうでございますか。

 米川  私、必ずこういう御質問が出るとお話しするんですけれども、どの社会でも必ず変わっている面と変わっていない面があるんです。これはあたりまえのことなんですけれども、ただイギリスの場合にはその変化が大変遅いということが特徴でございます。

 結論的に申しますと、大学はビジネスへの就職が低い。イギリスの大学というのはその教科と学部に人文科学系が多うございまして、経営学部なんていうのはほとんどイギリスの大学にはございませんから。逆に言うとビジネスの発達に大学自身が適応していないということが一つあるんです。そういう大学側の問題もございます。

 大体、イギリスの大学の理想というのは優秀な政治家を養成する。政治家というのはもともと利子生活者ですから、つまり、昔は無給でしたから、資産がなければ政治家になれなかった。地主貴族的なアリストクラティックなパリユーを身につけた利子生活者でした。よくイギリスのビジネスマンに、一体おまえさん、かせぐ必要がなくなったらどうするかと質問すると、どんな若い人でも、翌日から自分が一生やりたいと思っていることをやると申します。それは非常に利子生活者的なバリューシステムだと思うんですけれども、一つには教育制度の方にそういう問題がございます。

 ただ最近はなかなかそうはいきませんから、ただ、入るのはシティ、特にマーチャントバンカーがビジネスのなかでプレスティジが高い。つまりメーカーには行きたがりません、イギリスでは。伝統的にメーカーというのは産業革命期の暗いイメージと結び付いておりまして、大体工業都市というのもそれこそ文化的生活をするのには程遠い。そぅいうところに工業が発達していますから、大学を出たインテリというのはそういうところに行きたがらないのです。

 特に最近はシティだとすごく給料がいいですから、特にそういうマーチャントバンカーとか何かに行くというのがオックス・ブリッジを出てビジネスに行く人の傾向ですけれども、それでもなおかつイギリスには、やはりお金もうけするということだけが人生じゃないんだという考え方が徹底して強いですね。つまり高等学校の先生なんかに行く人がオックス・ブリッジでは非常に多いです。それからプロフェッショナルになる。専門職を身に付ける。教育、宗教、それから医者とかもプロフェッショナルに入ります。そういうのがオッフス・ブリッジの最もまともなキャリアを歩む人の考え方なんであって、すぐにビジネスというのは非常にまだ抵抗があると思います。

 ただ、最近のマーチャントバンカーなんかでもみんな聞いてみると、例えば、クラインウォー卜・ベンソンというのが一番大きいんですけれども、今年オックス・ブリッジからから二十人ぐらい卒業生が入社しています。聞いてみると多くがギリシャ・ラテン語をやってきた連中なんです。理科系の出とか。みんな社内教育をやるわけです。やはり頭はいいんです。本当のエリート教育の国ですから。その時点から徹底した社内教育をやりまして―ビジネススクールというのはイギリスでは余りいいものございませんから。そこで最初からやり直すということで、大学は大学で別と、そういうふうな形になっております。
ですから大学の中の雰囲気というのは、経営学どころか社会学でも、ロンドン大学が一番いいぐらい。オックス・ブリッジはまだ社会学というようなのは学問と思っていないという、圧倒的に学問というのはリベラルアーツだといぅ考え方ですから。そういう雰囲気なんですけれども、これは事実でございまして、いい悪いの問題ではございません。―  ユニバーシティ・オブ・コマース、東京商科大学。こういうようなタイプの学校というのは欧米にはあるんですか。

 米川  ロンドン・スクールというのはロンドン大学の中の一部ですけれども、口/ドン・スクールは非常にそれに近うございます。歴史的に見ても経済学とか商学。ただそれはロンドン大学の一つのスクールになっておりますから、ロンドン大学の一部になってしまっているわけです。ロンドン大学というのは様々な歴史を経ております。一番最初のユニバーシティカレッジは一八三〇年代にできていますけれども、ロンドンスクールは確か一八八〇年代で、ちょうど一橋と同じ時期に、これはむしろ労働者の成人教育機関としてできたようなものがだんだん発達してきたんですけれども、そういうものを含めてロンドン大学になっていますから、その中の一つのロンドン・スクールというのは非常に一橋に近うございます。

 ただアメリカなんかのビジネススクールというのは典型的にサンドウィッチ教育ですから、一度ビジネスに身を置いた人がやる教育機関ですし、これはやはり全然違うものだと思います。

 やはりそういう点ではドイツは、私、知りませんけれども、ハンデルス・ホーホシューレ、高等商業学校というのはもともとハンデルス・ホーホシューレの翻訳ですから、ドイツのハンデルス・ホーホシューレというのも現在ではみんな総合大学になって博士号を取れるようになっていますけど、そういうところの方がここに近い機関が多いかもしれませんね。ドイツの方が。

 もともと日本の風土というのはどちらかというとアングロサクソンより、商法もそうですけれども、→応モデルは全部ドイツからきていますから、そういう見方から申しますとドイツの影響力というのは、依然としてビジネスにおいても強かったようでございます。

 企業から言ってもイギリスの十九世紀の企業というのは非常に古い。二十世紀の初頭になると断然ドイツの方が企業形態から言っても進んでいるということです。ドイツとかアメリカの方が。それは実に面白いことで、ごく自然と産業が発生したイギリスにおいても最も産業の社会的地位が低くて、後から追いつき追い越せできたところで、むしろビジネスの地位が高いというのは、ドイツの場合でもそうですし、開発途上国なんかもそうじゃないでしょうか。結局何とかして追いつかなきゃならんというと、ビジネスに高い価値をおくバリューシステムをとらなければそれはできませんから。イギリスの場合にはライバルがなかったわけですから、結局そういう形で実態としては最も先進国だけれども、ビジネスの地位は極めて低いということです。
                  
                                          (昭和六十二年二月二十二日収録)