はじめに
御紹介頂きました山澤でございます。本日は大変晴れがましい席にお招きを頂きまして、しかも一橋の学問の一部に入れて頂き私のやってきたことをお話しするという機会を与えられましたことを大変名誉に存じております。
副題は「一橋大学における国際経済学の潮流」と付けられております。実はこの同じ題で昨年三月、私の恩師の小島教授がここでお話しになりました。上田貞次郎先生、猪谷善一先生までさかのぼられまして、一橋大学における国際経済学の潮流全体をカバーされましたので、私はその中の特定の問題に絞って、お話しをさせて頂きたいと存じます。
それは二つございまして、一つは雁行形態論、もう一つは太平洋協力です。雁行形態論で理論を代表させ、太平洋協力で政策を代表させたいと存じます。
まず、一橋の学問の系譜の中で雁行形態論と太平洋協力がどのように位置付けられるかを、赤松先生、小島先生が御展開になられたことを中心にまとめさせて頂きます。その後雁行形態論がどのように展開されたのか、ついで太平洋協力がどのような形で促進されているのか、最後にその二つを結び付けるリンクについてお話したいと存じます。
一、 一橋の学問の系譜における位置づけ
まず初めに、一橋の学問の系譜における雁行形態論と太平洋協力では、いままで赤松先生、小島先生、そして私がそれに続きまして、いろいろ発表いたしました主要な文献を列挙してございます。(資料(1)参照)
ここでは一橋だけに限らせて頂きまして、しかも赤松先生、小島先生と私だけに限定させて頂きました。
雁行形態論の初めは、赤松先生が昭和十八年に『新興国産業発展の雁行形態』という形で発表されました。この場合の新興国というのはもちろん日本のことです。すでに二、三年前から赤松先生は同じような構想のものを発表なさっておられましたけれども、雁行形態ということをタイトルにした論文はこれが初めてです。
それから、戦後の混乱期を経まして昭和三十二年にそれをさらに発展させましたが、「わが国産業発展の雁行形態―機械器具工業について」を御発表になりました。そのあたりから小島先生に引き継がれまして、小島先生が「資本蓄積と国際分業―赤松博士『産業発展の雁行形態』の展開」という論文を出されました。昭和三十三年ですが、これは小島先生が『日本貿易と経済発展』と題する著書を御発表になりまして、これで博士号を受けられたわけですが、その中に含まれております。
その後で「プロダクト・サイクル論と雁行形態―新興国工業輸出化の条件」これは四十五年に御発表になりました。この新興国と申しますのは日本のことではなく韓国や台湾などの新興工業国です。
小島先生が監修をなさいました「日本貿易の構造と発展」、これは今日御出席の韮澤さんの世界経済研究協会がお骨折りを頂きまして、一九八五年の世界貿易プロジェクトをなさいました。その第一巻として小島先生を主査として、同じタイトルで総勢確か二十名以上のプロジェクトをつくられたものです。
実はこの中で、私は初めて雁行形態に関する論文を発表させて頂いたのです。その中には赤松先生の初めの論文も再録されておりますので世界経済研究協会のプロジェクトの中に、赤松、小島、私と入れて頂いた三代にわたる雁行形態論の研究が収められているわけです。
私がこの中で発表させて頂いたのは「鉄鋼業の雁行形態的発展」と題するもので、昭和四十七年でした。その後いろいろな産業について、またいろんな面について雁行形態論の勉強をいたしまして、それらをまとめて発表したのが昭和五十九年の 『日本の経済発展と国際分業』という著者です。これを学位論文として博士号を頂きましたし、これは幸いにして日本経済新聞の経済図書賞を受賞いたしまして、大変嬉しい思いをいたしました。
研究者と申しますのは、やはりそれぞれの分野に特化して仕事をしておりますので、それがどのように読んで頂けるかはっきりわかりません。そういう形でそれを評価して頂いたということは大変研究者にとって嬉しいことです。
英語書きのものがありますが、これは昨年の十二月にインドのニューデリーでIEA、国際経済学会、経済学の国際学会ですが、その第八回世界会議に提出したものです。雁行形態論をアジアの新興工業国やないしはより後発のASEAN諸国に適用した、そこまで雁行形態論を延長して論じたものです。
これが雁行形態論の系譜です。それに対して太平洋協力の方はと申しますと、昭和四十一年に小島先生が「太平洋共同市場と東南アジア」という論文を発表されました。これは太平洋協力を初めて先生が御提唱になった論文です。その後で昭和四十三年に太平洋貿易開発会議の第一回の報告書として『太平洋経済圏』という御著書を発表になられました。その次の昭和五十五年の 『太平洋経済圏の生成』は先生が還暦記念で御出版になられたものです。
それから、山澤・ドライスデールの共同論文は、小島教授のもとに留学して博士論文を仕上げましたピータ1・ドライスデールというオーストラリア人がおります。彼と私、要するに小島教授の二人の弟子で「太平洋貿易開発会議と小島教授」というタイトルで出したものです。
太平洋貿易開発会議は第二回が昭和四十三年でございまして、今年の初めの第十六回まで続いてきております。これは小島先生が非常に御尽力なさってまとめ上げられたものです。
その後、先はど新井さんから御紹介を頂きました、大平財団から環太平洋学術研究奨励賞を頂きました仕事がございます。すでに終わった仕事に対して賞を頂くのは大変嬉しいわけでございまして、祝杯を挙げればよろしいのですが、これは実はこれからやる仕事に対して頂きましたので、今のところ大変重責を感じております。しかも個人ではございませんで、十四、五人の共同作業で、今年中に何とか仕上げなければなりません。これは太平洋協力のこれまでどういうふうな形で進んできたのか。そしてこれを今後どういう形で展開していくのかを展望するもので、先ほどの十四、五人の中には、日本人だけではなく外国人も含めておりますし、日本語だけではなくて和英両方で出版をいたします。
以上が私の雁行形態論と太平洋協力の研究を、赤松先生、小島先生のお仕事の延長に位置付けて御説明申し上げたわけです。
二、雁行形態論の展開
次に、雁行形態論そのものについて入らせて頂きます。
(1) 後発国の近代工業の発展
雁行形態論は、名前はかなり知られていると存じますので、名前からおよその見当はお付きになられるかと思います。日本の産業が発展していく形が実は雁が飛ぶような形になっていることを赤松先生が発見なさいまして、名前を付けられたものです。それはイギリスのような一番先に進んでいく国の工業化ではなくて、日本のようにヨーロッパやアメリカが行った後から工業化をして、それにだんだん追いついていく過程を描き出したものです。後発国が近代的な工業を取り入れる場合には、まずその近代的な工業の生産物が輸入品として入ってくる。それでなければその国にはそういう産業というのは分らないわけです。まず輸入として入ってくる。国内にその輸入品を消費する、ないしはそれを使う別の産業があるという形でだんだん国内で需要がふえてくると、当然輸入するだけではなくてむしろ国内で生産してしまおう。いわゆる輸入代替生産が起こってきます。それがだんだん盛んになってくると次第に輸入品に置きかわって、やがてすべて国産だけで間に合うようになる。その段階からむしろ国内だけではなく、外国にも輸出していくという形にかわってくる。この輸入がまず起こってきてそれに続いて生産が起こってくる、そして生産がふえてくると輸入が減ってくる。そして生産が伸びていくとやがてそれに合わせて輸出がふえてくる。カーブが折り重なるような形で伸びていく。これを赤松先生は雁行形態と呼ばれたわけです。
赤松先生は御存じのように和歌に秀でていらっしゃいまして、大変素晴しい本をお残しになっていらっしゃいます。実はこの雁行形態論がこれほど世に知られるようになりましたのは、やはり先生の命名の妙があずかっていたのではないかと思います。
赤松先生御自身がお書きになられた図11 (34ページ掲載) です。赤松要博士の経済成長の雁行形態と名付けられております。太い線が生産でまず点線の輸入から始まっていきます。左の方から右の方へ時代が移っていきまして、一番上が綿糸ですが、その輸入が増えていく後を生産が追いかけていく。そして生産の後を輸出(細い実線)が追う。同じような経緯が綿織物の方にも出てきます。ただ少し時期がずれます。この場合は二十年ぐらい。その後綿織物の次には紡機が出てまいります。
つまり、綿糸や綿織物を国内で生産するには、どうしてもそのために紡績機械や織機が必要です。初めはどうしても紡績機械などはイギリスから輸入をしたわけですが、国内で綿糸の生産がふえていけば紡績機械の輸入もふえていく。そうすると今度は紡績機械そのものの国内生産が起こってくるわけです。それが三番目にございます紡機の雁行形態です。日本の機械産業はやはり繊維関係の機械から始まりましたので、そのほかの機械器具全体について描くともう少し後ろにずれて、下にある機械器具の発展という形になってまいります。
まず一つの産業について輸入から始まり生産に行き、そして輸出になっていくのを赤松先生は基本型と名付けられました。それは一つですが、それと同じような動きがほかの産業に、綿織物、紡機、機械器具というように移っていく。そういう移り方を変型と名付けられました。
この着想は赤松先生が昭和の初めにドイツのキール世界研究所に御留学になっておられたときにそこから出版されているホフマンの「イギリスの産業発展の分析」から得られています。もっともイギリスの発展の仕方と日本のそれは違いますし、それをさらに雁行形態と名付けられたのはまさに赤松先生の独創であると思います。ただ赤松先生はそれを哲学的に、私たちにとっては難解な仕方で御説明になった。赤松先生は総合弁証法というものを提唱されて、雁行形態こそ総合弁証法の実証であるとされるわけです。
つまり、例えば綿織物の輸入が起こってくると国内の従来の質の余りよくない日本製の織物の生産が落ちてくる。そういう産業がだんだん衰退していく。これは一つの矛盾である。しかしそれを乗り越えるために新たに綿織物を国内で生産するようになる。しかし同時に綿織物は生産をしても、紡績機械や織機の輸入はふえてくるから矛盾は続く。それを最後に国内で織機も生産する、機械も生産するようになって初めて産業として自立する。そういうことをおっしゃられたわけです。
大変幸せなことに赤松先生から直接ではなく、間に小島先生が入られて、近代経済学の仕方で直して御説明頂いたことです。小島先生は、赤松先生の基本型は、産業が次第に能率化していくことであるといわれてそれを「能率化」と呼び、赤松先生の「変型」は、実は産業構造がだんだん「多様化」していくことであると命名されました。そしてどうしてそういう形で発展していくかを、私たちがいまなれておりますアメリカ流の近代経済学の手法で御説明なさったわけです。ですから私は幸いにして雁行形態論を総合弁証法ではなくて近代経済学の仕方で勉強することができました。
(2) 計量モデル化
私がいたしました仕事は、その次の計量モデル化です。実は雁行形態論はあくまで、産業がそういう形をたどって発展していく形態を見つけたことにとどまって、それがなぜそうなっていくかは赤松先生は哲学的な御説明を加えられたが、必ずしも十分でなかった。それを小島先生は近代化経済学的に説明なさったわけですが、それをもう少し厳密に、私たちの方で計量経済学と申しますコンピューターなどを使って計算していく仕方でいたしました。これがさきに御説明申し上げた、昭和四十七年の私の「鉄鋼業についての雁行形態論の分析」です。
そういうモデル化は、ただ数値を入れたり、数式を入れたり、コンピューターを使ったりということだけではなく、なぜそういう雁行形態的な発展が起こってくるのかという発展のメカニズムを説明しなければいけません。ちょうどこの頃に、特に先ほど申しました世界経済研究協会のプロジェクトの中でこの雁行形態論を中心として取り上げて下さったわけです。しかしそこで行われた議論では、日本の産業はほとんどが雁行形態的な発展をたどっているものですから、これはしごくあたりまえのことであって、産業はそういうふうに発展するものであるという意見が多かったわけです。ところが日本はそのとうりですが、外国などを見ると必ずしも輸入品として入ってきたものがすぐに生産が行われ、そして輸出化にいくというわけではない。特に輸入から国内生産が行われても、なかなか輸出化できないというケースは大変多いわけでございます。
日本の場合でも、例えば航空機産業のようになかなか、生産そして輸出化までは到達しない分野もある。これは雁行形態的発展は決して自明のことではなく、何かの条件があって、それが満たされたときに初めてそうなるわけです。私の発展のメカニズムもそういう条件が何であるかを明らかにしたものです。その条件を三つほど掲げておきました。
まず第一は内需の拡大。この内需と申しますのは、現在大変問題になっている内需とはちょっと違いまして、その生産物に対する国内の需要です。国内の需要があることが大事だという着眼です。
図―2(35ページ)を御覧頂きますと、これは赤松先生の綿布とほぼ対応しているわけでして、赤松先生のは戦前期、第二次大戦前までのところですが、私は戦後も含めました。いまは戦前期のところだけ御覧頂ければ結構ですが、私の方は線が四本あります。生産と輸入と、それから輸出に加えて内需というのがあります。内需は、国内で生産したものと輸入したものを合計して、そこから輸出したものを引きます。いわゆる見掛消費になります。国内でそれだけちょうど消費したことになるわけです。これを内需と呼んでいます。これが産業の発展過程ではどんどん大きくなっていくわけです。
幾ら利潤機会にさとい企業家であっても、全く国内に需要がない場合に輸出だけを考えて生産することは、日本の場合比較的少なかった。やはり国内に市場があり、国内に需要があって、国内で売れるということが産業を興す発端になったわけです。しかもその需要がこれからもどんどん伸びていくということが予想されると、それだけ企業家の投資が行われたわけです。その意味で内需がどんどん拡大していく。それに従って国内の生産がふえていく。国内の生産がふえていくと当然のことながら同じような規模の工場を幾つもつくっていくのではなくて、より大きな規模の機械を入れ、より進んだ技術を導入しというように、より能率的な生産になっていく。これが小島先生の能率化です。
そしてその能率化の過程で何が起こってくるか。最初のうちは質も悪くて、コストも高かった国産品が外国品に比ベベてだんだん改善されてくる。そして次第に国産品がだんだん輸入に置き代っていくわけです。これが輸入代替。それは国内で行われますが、その延長として外国に持っていってやれば、外国でも外国品に対して国産品が代替していくと輸出化になるわけです。ですから、輸入代替と輸出というのは一つの延長線上にあるわけで、連続した過程です。
三番目に、これに加えて政府の保護が大事です。これには関税であるとか補助金であるとか、国営企業の形があります。
もっとも赤松先生が最初に取り上げられた織維産業の雁行形態では、この政府の保護はほとんどございませんでした。繊維産業が輸出化の段階まで達したのは関税自主権を獲得する前でして、むしろ原料である綿花に対しては輸入関税がかかっておりましたし、それを外国に輸出する場合には五%の輸出がかかっておりました。ですからむしろ二重に足かせをはめられていたわけです。ですから繊維産業の発展過程では余り初期の頃には政府の保護はほとんどなかったわけです。その後出てまいりました鉄鋼業の場合にはあらゆる種頬の保護を与えられたわけです。関税も高くなりましたし、補助金も与えられましたし、また官営の八幡製鉄ができて初めて自立できるようになった。国営企業の役割りも大きかったわけです。同じことは自動車産業についても言え、コンピューター産業についても言える。これらの産業については政府の保護がかなり大きな役割りをしました。特に輸入代替化の過程でその役割りが大きかった。
こういう作業をする上で大変ありがたかったことは、私たちの大学の経済研究所で大川一司先生や篠原三代平先生が中心になって進められました長期経済統計の整備作業というものがございます。これは東洋経済新報社から十四巻まで、いろんなテーマにつきまして明治以降の経済統計を整理刊行されました。私もその中に加えて頂きましていろいろなやり方を教わりまして、貿易と国際収支について統計を整備いたしましたが、その統計がこういう数量的研究に大変役に立ったわけです。恐らくほかの大学ではなかなか作業がはかどらなかっただろうと思います。
さらに図―2にあるような綿織物産業だけではなくて、図―3(36ページ)にはほかの重要産業、鉄鋼材、自動車産業、→般機械についても雁行形態が描かれています。それぞれの産業が一本の線で表わしてありますが、これは先ほどのように各産業について四本の線を書いて図が複雑になるのを避けるためです。
この図では分母に国内需要を取り、分子に生産を取ります。そうすると最初は国内の需要があってもほとんどが輸入で満たされているため、この値はほとんどゼロです。それが国内の生産がふえていくにしたがってだんだんその値が上がって来ます。それが一・Oの線を切るところで国内の需要がちょうど国内生産で満たされる。そこから後で輸出が始まるという形になるわけです。
綿製品の方は、一八九六年頃にはもう輸出化の段階に達しました。その後ずっと輸出化が続いて、一九六〇年頃からまた下がって、一九七二、三年頃にまた輸入の段階に入りました。
その後で鉄鋼業(点線)が一九〇〇年頃から始まった。八幡製鉄の開始です。一九三二年頃に輸出化した。しかし戦前期の輸出は余り大きなものではなく、本格的に輸出が伸びたのはむしろ戦後です。その後自動車産業が一九三〇年頃から始まり、一九六〇年ちょっと前ぐらいで、輸出化の段階に行くという形になる。一般機械産業はさらに遅れて輸出化になります。
このように一枚の図の中に日本の主要な産業の雁行形態発展が描き出されるわけです。
この図を縦に輪切りにします。一八九〇年頃のところで切るとそのときには日本では綿製品の生産しかない。それが一九二〇年頃で切ると鋼材はまだ輸入代替をしていて綿製品は輸出化している。さらに一九三〇年代で切ると鋼材も綿製品も輸出化しているけれども自動車産業が輸入代替化を始めたところ。さらに飛んで一九七〇年代までもってくると、すべての産業が輸出化している形になる。次第に日本の産業が多様化していったことを見てとることができます。それが産業構造の多様化です。
この過程で大事なことは、日本の国際収支が次第に赤字基調から黒字の基調に変わっていったわけです。そして一九六五年以降はずっと黒字基調であるということになります。
これはさらに現在の私たちが抱えている大きな問題につながってきます。日本の場合、ここでは四つの主要産業だけを書きましたが、ほかの多くの産業も同じような発展過程をたどっています。そしてその多くの産業がいずれも輸出化を達成しました。ところが輸入に戻ったものは繊維産業の一部を除いてまだ少ないわけです。もっぱら輸出する一方であって余り輸入化されないことが現在の黒字がずっと続いている理由ですし、これを何とか輸入をふやすように産業構造を調整していくのは、この幾つかの産業についてはむしろ輸入を、一の線を切って下の段階に進ませることを意味するわけです。
鉄鋼業についての研究をしたのに続いて、いろいろな産業についても調べました。その中の一つで私のゼミナールの学生にも勧めて幾つかの産業の雁行形態の勉強をさせました。その中の一人に、私の二期のゼミナールの学生で興銀に行きました吉田正君というのがおります。彼は前のアジア開銀の総裁をおやりになられた吉田太郎一さんの長男ですが、彼に紙パルプ産業の雁行形態的発展をさせました。そして彼が卒業後大阪におりましたときに、たまたま近畿大学で国際経済学会があって私が報告をしました。これは赤松先生が学会においで頂いたほぼ最後の頃に当たるかと思いますが、赤松先生がおいで頂いて、たまたま赤松先生が神戸大学の宮田喜代蔵先生と御一緒におなりになったときに私も吉田君といっしょでお逢いしました。そのときに赤松先生に、この吉田君は紙パルプ産業の雁行形態について卒業論文を仕上げたんですと申しましたら、赤松先生は、それでは君は雁行形態論の四代目になるねとおっしゃって大変喜ばれたことが印象に残っております。
またちょうどそのときのことでしたが、赤松先生と長くお話をする機会を得たものですから、先生の雁行形態論を勉強させて頂きましたけれども、先生が触れられなかった点がいろいろ出てきている。一つは、先生は輸出までしかおやりにならなかったけれども今やその先の成熟化や逆輸入の段階を見なければいけないのではないか。また、先生は貿易の輸出、輸入のことだけを論じられたが、さらに直接投資や技術移転も含めなければならないのではないかと申し上げました。
先生は主として戦前期のことを中心に研究したから輸出化させることが最終目的でして、日本経済そのものがその先までいっておりませんでしたが、私が研究を始めたときには正にそういう問題が出てきたわけです。そのときに先生のおっしゃったことが大変印象に残っています。つまりそれは君たちの仕事だよと、こうおっしゃったわけです。
それに大変励まされて、その後も雁行形態論の研究を続けてきたわけです。
(3) 新要素の導入
そこでは新しい要素として、輸出しただけではなくてその後に成熟段階とか逆輸入段階があるということを申しました。これは図―2に戻って頂きますと、綿織物産業の場合には生産が戦後の一九六二、三年頃を境にだんだん下がってまいります。やがて国内需要を下回ってしまって、つまり輸入でもってだんだん生産が下がってくる段階、成熟化している段階でして、さらに輸入の方が輸出を上回ってしまう段階。これは先進国からの輸入ではなく、日本の後から追いついてくる韓国とか台湾からの輸入です。それを逆輸入段階と呼びます。そういう段階まで含めた研究をしなければならない。逆輸入段階までくると二つの産業のライフ・サイクルが終わる形になります。日本の場合にまだまだ逆輸入段階まできている産業というのは少ないわけです。
次に、直接投資や技術移転もこの議論の中に組み入れなければいけない。特に繊維産業がだんだん成熟段階に達して国内の生産が減少してきた裏には、日本の繊維産業が国内で労働賃金が上がったので、それを積極的に東南アジアに移して対外投資をしました。それが当然加わっていますし、そのお陰で東南アジアや韓国、台湾等で繊維産業が伸びたわけです。そういう形で国と国の間の雁行形態の発展をつないでいる重要なリンクが直接投資であり、技術移転です。
(4) 現在の発展途上国への適用
それでは雁行形態論はいま最後に申しました現在の発展途上国にどのように適用されるであろうか。
これについては、ハーバードのビジネススクールのR・ヴァーノン教授がプロジュクト・サイクル論という理論を発表しました。これは一つの産業のライフ・サイクルを考えます。初期段階から、急に伸びる成長段階を経て、やがて停滞する成熟段階に至る、というものです。
日本ではプロダクト・サイクルという言葉を使う方が多いでしょう。これは一九六六年に出てきたもので、赤松先生の方がはるかに早く御発表なさっているわけです。雁行形態論に大変似ておりますけれども、大きな違いとしては、まずこれは先進国の方から産業の発展を見て、自分のところで育てた産業が、多国籍企業の手によってその一部の生産工程を外国に移します。
例えばエレクトロニクスがアメリカで起こったとすると、その生産技術が標準化して、単純な労働でもできるようになると、その部分を台湾、韓国とか東南アジアに移して生産する。その結果アメリカの輸出から台湾等からの輸出に変わっていくわけです。しかしこれはあくまでアメリカの多国籍企業が生産の一部を移してやるというもので、国内の需要云々は余り重要ではありません。しかし雁行形態論の方はそうではなくて、むしろ追いついていく国、新興の発展途上国が、自分で産業を取り入れて発展させていく過程を分析しているわけです。一部の生産工程だけではなくて産業全体を移していく。そういう形の発展です。こちらの方には雁行形態論の方が適している。雁行形態論はまさに赤松先生の最初の論文のタイトルにも言うように、新興工業国の産業発展の仕方です。後から追いついていく国の産業発展の仕方でして、ヴァーノンのプロダクト・サイクルは、先進国、つまり追いついてこられる国から見ている。また一部の生産工程だけではなくて産業全体の移転です。その意味で現在の発展途上国が今後の産業政策を考える場合に参考になるのはむしろプロダクト・サイクル論ではなくて雁行形態論であろうと考えます。
その点につきまして、発展途上国に対して世界銀行のエコノミストが盛んに提言をしている中ではやはりアメリカ的な考え方に立って、プロダクト・サイクル論的なアプローチをしています。
私はむしろ雁行形態論的な立場に立ちます。プロダクト・サイクル論では、先進国の方から見てその国に需要がなくてもいい。安い労働力さえあればいい。そこでは生産するだけで、他へ輸出すればいい。ところが雁行形態論から見ると、まず国内需要があって、そして国内需要目当てに生産をしていく過程で次第に実力を付けていくわけです。その点国内需要や輸入代替化の過程は大変重要です。その過程でいろいろな保護を行うのはある程度は致し方ない。日本自体がそうやって発展してきた。いわば雁行形態論は日本の経験に基づいて、現在の発展途上国にアドバイスしていることになります。私たちはこの意味でアメリカ的な世銀エコノミストの見解とは違います。
この点につきまして・今名古屋大学にドイツのベルナー・パシャという若い学者が来ていて、私のIEA論文を見て大変興味を持ってくれました。これを批判的に分析して、ドイツでも興味を持っている人たち―発展途上国問題の専門家―に伝えたいと申しております。来週そのための研究会が名古屋大学で画かれて、そのドイツ人学者が報告をするので私にコメンターとして出てくるようにと招待を受けました。自分の出しましたものについてコメントしてもらうのは大変嬉しい機会でして、それは万障くり合わせて行くからと答えました。
これがうまくいきますと、学問のレベルでも雁行形態論でして、雁行形態論を赤松先生がキール・インスティチュートから持ってこられたものをまたドイツまで戻せるかと、考える次第です。
(編者註:[Welcome to The MASAYOSHI OHIRA Memorial Foundation]をクリック、
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三、太平洋経済協力
次に太平洋経済協力に移らせて頂きます。
(1) 太平洋協力運動の経緯
太平洋経済協力が始まりましたのは一九六七年の太平洋経済委員会(PBEC)です。これはビジネスマンの集まりです。日本、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドという五つの太平洋地域の先進国が集まって、その間でいろいろな協力関係を考えていこうということです。それに一年後れて小島清教授が始められた太平洋貿易開発会議(PAFTAD)があります。これは学者グループの研究会議です。太平洋経済委員会の方も太平洋貿易開発会議の方も、ほぼ毎年太平洋地域のどこかで会議を開いて、研究成果を積み重ねてきています。すでにそういう形で始まっていますが、さらにもう一つの大きな協力組織が始まるきっかけを与えられたのは、一九七八年に故大平総理が御就任直後、環太平洋連帯について研究する必要があるとスピーチをされました。短いスピーチだったのですが、環太平洋連帯研究グループがつくられました。
私も韮澤さんのお世話でこのグループの一員に加えて頂き、一緒に勉強しました。
その報告書がー九七九年に出まして、それを持って大平総理と、そのときの外務大臣の大来佐武郎先生の御二人で大洋州を御訪問になり、オーストラリアのフレーザー首相と考えが一致して、オーストラリア国立大学の学長であったサージョン・クロフォードがホストをなさって、第一回のキャンベラセミナーを開いたわけです。これが後ほど主に話すPECC、環太平洋経済協力会議の第一回になりました。その後バンコックやバリで、小規模で二回目、三回目が開かれたのですが、一昨年の五月のソウル大会、(PECC第四回)は多くの国が参加して、ようやく軌道に乗ってきたわけです。そして昨年の十一月にカナダのヴァンクーパーでPECCの第五回が開かれました。ここで初めて中国と台北が揃って参加しました。中国と台北が揃って一つの国際組織に入ることは比較的例が少ないことです。
もう一度図ー5(37ページ)を御覧頂くと、ここに書いてある国が十五力国。十五カ国と申しましても実際には十三の独立国と二つの地域、台湾はーつの地域でありますし、サウス・パシフィック・フォーラムは、非常に多くの小さい国の集まりですが、一つの地域と呼んでおります。影を付けてあるところがこれらのメンバー国です。ほとんど太平洋地域をカバーしています。もっともラテンアメリカの部分が欠けております。
実は昨年の八月にゴルバチョフがウラジオストック演説として、ソ連も太平洋国家であると声明しまして、それに続いて、PECC日本委員会に、ソ連もPECCに参加したいと言ってきました。これについては大変な論争が起こって、是非それを入れろというメンバーと、やはりもう少し慎重に構えるべきであるというメンバーとに別れて大論争したけれども結局オブザーバー参加だけにとどまりました。
実は来年の五月に大阪で第六回のPECCの会議を開くことになっております。PECCはまだ常設の事務局を持っていないのです。次期ホスト国が事務局を務めることになっています。といいますのは、昨年のヴァンクーバーの会議の後は日本がホストということになります。日本は、いままでの説明でおわかりになるように太平洋協力の言い出しっぺでして、大々的にそれに取り組んでいます。すでに来年の会議に向けての第一回の常任委員会を、先週の終わりからホテルオークラで開いておりまして、そのためのいろいろな小さな準備会合があります。今朝も朝食会に出て、そちらから参ったわけです。
(2) PECC(太平洋経済協力会議) の組織・活動
このPECCの組織と活動とはどうなっているか。財、学、政の三者構成です。財というのは財界人、学は学者グループで、これはもともとPBECとPAFTAD、太平洋経済委員会と太平洋貿易開発会議で、すでに組織がありました。しかしそれだけでは実際の太平洋協力は実施されないということで、少し政府を入れる必要がある。もっとも政府が入ってしまうと今度は国家間の交渉になると大変難しいです。ここでは政府の官僚や前に官僚であった人たちも個人の資格で参加されて議論をしていく。そういう形で政策と密着した議論がしていけるであろうということです。
そこでは三つの原則があります。これはあくまで太平洋地域という、いままでは大きな太平洋という海に隔てられてお互いに隣同士でしか関係を持たなかったのを、交通、通信、運輸が発展して太平洋が決して障害ではなく、一つの大変便利な結び付きになってきた。そういうところでもっぱら発展を図っていこうというのがこの地域主義の考え方です。しかしそれは決してほかを除外しない。非排他王義がこれです。参加を希望してくる国は原則として入れていく。しかしそうは言いましても環太平洋の国はいろいろなレベルがあって、日本などが余り急ぎ過ぎるとついてこれなくなる。その意味で「ゆっくリズム」、「グラデュアリズム」ということをいっております。一年半ごとに総会が開かれます。その間にタスク・フォースとかフォーラムというような形の研究活動が行われます。すでに投資とか技術移転とか資源エネルギーの問題、漁業の問題、畜産等の問題についてのタスク・フォース、研究グループです。それに加えまして貿易政策フォーラムが一昨年からつくられました。今ガットの新ラウンドが進行しておりますが、これに対して側面から援助をしていこう。ガットの交渉は、いままでのケネディ・ラウンドも五年かかりましたし、東京ラウンドも六年かかりましたし、このままではそう早急に進展を望めないということで、それを側面から援助しよぅというものです。実際の交渉はもちろん外務省や政府がやるわけです。しかし政府がやる交渉ではどうしても個々の品目のやりとりになってしまって、譲歩、妥協点を見つけていくわけです。ところが私たちが考えているのは、その前に十分な意見交換が必要ではなかろうか。そして全体としてこういう方向に世界経済を持っていったらいいんではないかということについて、何とか合意を形成することができれば、それに基づいて交渉がやりやすくなるのではなかろうか。
例えば一つの例を申し上げますと農業保護の問題があります。これは現在、農産物は輸入国だけではなくて輸出国も保護を与えている。その結果大変な過剰生産になっている。この農業保護を縮小していかなければならないわけですが、日本の例からもわかるように農業保護をやめるのは大変なことです。そう一足飛びにできるわけではない。それぞれの国の事情を話して、しかし長期的には農業保護をやめていく方向に各国が合意することができればよい。そして決して後戻りはしない。決して急いではいけないけれども、長期的に漸次そういう方向に近づけていくという合意ができれば、それは農産物の貿易の自由化を促進するのに役立とう。そういう合意がない限りは、どうしても大変小さな、ぎりぎりの品目での妥協であるとか譲歩であるとかしかできなくて、ニューラウンドもなかなかうまくいかないであろう。やはり大きな戦略の転換をしなければいけない。しかしそれには時間をかけてやっていく形のものが必要であろう。そういう形の意見の交換であるとか合意の形成のためには政府間交渉ではなくて、それぞれの個人資格で参加する機会がよい。しかしそれはいずれも無責任な議論をするんではなくて、現実を踏まえて、財、学、政の三者で議論をしていくという趣旨です。
四、太平洋協力の指針としての雁行形態論
― 構造調整に於ける国際協調とその指導原理−
さて四番目にまいりまして、太平洋協力に雁行形態論がどういうふうに関係してくるかについて申し上げます。
太平洋協力の中で特に私が関係しております貿易政策フォーフムについて申し上げますと、これが昨年の三月にサンフランシスコで第一回貿易政策フォーフムが開かれまして、ガットの新ラウンドの開始がいかに必要かという総論の議論をしました。幸いにしてその方向で昨年の九月にガットの新ラウンドがウルグァイのプンタ・デル・エストで始まったわけです。
そこで次の問題は、今度はそのガットの新ラウンドで取り上げられるいろいろ個々の問題についてーつ一つ詰めていかなければならない。一つ一つが大変難しい問題です。農産物の問題があります。それから、繊維品や鉄鋼業などの、いわゆる伝統的な工業品の貿易の問題があります。さらにハイテク、サービスといった問題。これにはハイテク製品や、新しいタイプのインフォメーシヨン・サービス。電気、通信等のサービスとか、いわゆる金融的なサービスが含まれます。これは新しい領域でして、いままでガットの中に取り入れられておりません。それらを詰めていかなくてはいけない。そういう議論をします。
そうしますと、特に先ほどの農産物の例をもう一度取り上げさせて頂いて、それぞれの貿易の自由化をすることは、貿易面だけを変えるのではなくて、当然国内の産業を変えていかなければいけない。国内の産業を変えていくためにはどうしても国内の構造調整をしなければいけない。政策的にそれを組み込まなければいけないわけです。
それでは、そのためには産業というものが−体今後どういう方向に動いていくのか。それは一つの国の産業だけではなくて、いろいろ関連し合っている国の産業、貿易をし合っている国の産業が全体としてどういう方向に動いていかなければならないのかについて意見の交換をし、それについて合意を形成することが必要である。そういう合意を形成する原理として、雁行形態論が役立つということです。
最後の図―4(36ページ)を御覧頂きます。ここには東・東南アジア諸国の追いつき工業化ということが書いてあります。ここは図−3と全く同じような仕方で、やはり分母に国内の需要を持ってきて、分子に生産を持ってきて、これもやはり一番ゼロの方から始めるんですが、1を超えたところで輸出化するわけです。
御覧頂きますように、上の図―3は日本についてだけ描いたんですが、図4の方は四つの国について、しかも二種類の産業について描いてあります。上の実線で書かれているのは化合繊織物。繊維の中の比較的進んでいる分野です。これについて韓国、台湾、インドネシア、タイと四つの国を並べました。御覧頂きますように韓国、台湾はもうすでに七〇年頃には輸出の段階に達してどんどん輸出がふえていきます。これはまだ成熟化の段階に達しません。まだ輸出しています。これに対してタイですら七五年頃には繊維について1を切って輸出化段階た達しました。インドネシアはもう少し後れて、八〇年代のごく最近になって繊維品の輸出化を始めたわけです。つまり、まず韓国、台湾が先へ行って、その後からASEANの国がついていっている形になります。
これに対して鉄鋼業(下の点線)では、韓国、台湾は鉄鋼で輸出化しましたが、韓国が八〇年頃、台湾の方はごく最近です。それに対してタイやインドネシアはまだまだ1よりもはるかに下の水準、つまり輸入代替の始まったばかりのところとになる。これで御覧頂けますようにまず繊維産業のようなもので追いつきが起こり、そしてその後で鉄鋼業がついてくる。その中でも先に台湾と韓国のようなアジアのNICSがまず追いついてくる。そしてその後からインドネシア、タイのようなASEANの国がついてくる。鉄鋼業などでインドネシア、タイ、ASEANの国が韓国、台湾のレベルまで達するのはまだまだ時間がかかるでしょうけれども、しかし韓国、台湾が日本の鉄鋼業にとってかなり大きな競争相手になってきたことは事実です。
このように産業が変化していくこと、これは赤松先生も小島先生もずっと言われてきたことですが、こういう形で産業は変化していく。そして後から来る国が次第に追いついてくるということを理解しておく必要がある。ここで日本と台湾や韓国、それからASEANの国々との間の関係を考えてみると、まず日本は繊維産業についてはそろそろ譲っていかなければいけない。実際に見たように綿織物などはどんどん輸入化の段階に入っております。やがては一般的な繊維産業部門でも輸入化の段階に進まざるを得ないでありましょう。それに対して韓国、台湾が代わってきますが、その後ろからすでにASEANがついてきている。そうすると台湾や韓国自体もいつまでも繊維産業を持っているのではなくて、鉄鋼業や自動車産業をふやしていくかわり樗繊維産業については後ろの方の国に譲っていかなければいけない。このように次第に担当国が代わっていかなければいけないことはかなり明らかなことだと思います。それを急に実現するというのではありませんが、それについて皆が合意をしてくれれば、そういう方向に合わせてそれぞれの国の産業政策、貿易政策をとっていく。こういう合意ができれば後はニューラウンドの交渉の中でそれを実際に実現していく方向への政策をとっていくことができる。そういうものとして、つまり構造調整を1国だけでやるのではなくて、皆協力し合って協調して進めていくための原理としてこの雁行形態論が役立つと思うわけです。
これは大来佐武郎先生が、太平洋経済協力会議(PECC) の日本委員会の委員長でいらっしゃいますけれども、ソウルのときの会議で基調報告をなさいまして、そのときに雁行形態論を挙げられました。そこでは雁行形態論の英語でフライイング・ギースのパターンをたどっていくのであると、言われたわけです。この言葉は大変ほかの国の人たちにもはやりました。ただ面白いことにいろんな取り方をするわけです。
昨今のようにASEANの諸国が大変経済的に困ってまいりますと、これはフライイングではなくてクローリング・ギースであるとか、フライイング・スウォンとかいろいろ出てきます。
また昨日シンガポールの方と話をしましたら、フライイング・ギースというのはみんな並んで飛んでいくことである。しかし太平洋で起こっていることは並んでいくことではなくて、ずれて進んでいくことである。実はそれもフライイング・ギースなんですけれども、それはギースの飛び方ではないからカモメであるとか、カモメじゃなくてほかの鳥だったというふうなことをいろいろ言っておりました。皆、フライイング・ギースという言葉からの連想でいろいろなことを考え出しました。一致した見解になってはおりませんが、一つのキャッチフレーズの形になって、何か調和的な分業構造をこの太平洋につくることがフライイング・ギースであるというとられ方をしております。
そこに書きました昨年の経済白書にも「産業発展の雁行形態」という言葉が引用されておりまして、そういう方向で日本は国内の産業構造調整も進めていくし、国際間の調整も進めていくというふうに主張しております。
むすび
以上理論としての雁行形態論、そして政策としての太平洋協力ということが一橋の国際経済の学問研究の系譜の中でどういうふうに展開され、どういうふうに結び付けられてきたかということを御説明申し上げました。この二つともが一橋の先達が切り開いてくれた道を私は歩んでいるわけです。私の大学では定年が六十三ですが、私はちょうど紀元二〇〇〇年で六十三歳になります。恐らくはこの太平洋協力会議が実際に今パリにあるOECDのように常設の事務局を持ち、正式の国際機関になっていくためには、恐らく二〇〇〇年ぐらいまではかかるでありましょう。この太平洋協力と雁行形態論で、私はライフワークを見つけることができたと思っております。その意味で、一橋との出会いに大変感謝をしておる次第です。どうもありがとうございました。
[質 疑 応 答]
― これからの問題、これらを適用して日本とアメリカのいまの関係はどうなるんですか。
山澤 日本とアメリカだけで問題を解決するのは大変難しいだろうと思います。むしろほかも含めた後から来るNICSやASEANも含めた形での日米関係を解決していく。二国間交渉ですと、アメリカの政治的な強さに押し切られてしまう。その意味では私は、多角的に、ASEANやNICSも含め、彼等にとってもメリットになる解決を考えたい。つまりこの太平洋地域全体としてメリットになるにはどういう方法が望ましいかという形で主張していくことが必要なんだろうと思います。その意味でPECCは役に立つと思います。
― 具体的には何かありますか。
山澤 それが貿易政策フォーラムの議題です。実は昨日も朝食会でアメリカの代表とやってきたんですが、特にハィテクの問題につきましてこれが一番大きな問題だろうと思います。ハイテクにつきましてはかなりある面では日本がアメリカに追いついてきております。その面ではアメリカと一線に並んでいる。しかしその問題についてアメリカは大変強い主張を持っています。それを基本的には、恐らく日本もアメリカと同じような立場をとれるでしょう。例えばハイテク製品というものはどんどん自由化しろという主張です。しかし、それはアジアの韓国や台湾にとっては到底受け入れられないことです。韓国台湾は、それをいま受け入れた段階ではすぐにそれらの産業は育たなくなってしまいますので、やはりある程度の保護は必要でしょう。日本はいままでの経験から言って、やはりそういう保護はやむを得ないことであると言わなければならない。しかしアメリカは違います。常に自由化、自由化ということを日本に対して言うのと同じように韓国、台湾に対して言うわけです。そうすると、日本としてはアメリカに対して交渉するときには、常にこういう後から来る国もあるので、そういう国にとってはやはり保護的な措置というものもある程度の期間は必要である。そういうものも含めてどういう秩序にしていったらいいだろうかと議論するわけです。
― どうもありがとうございました。
ちょっとお伺いしたいと思いますのは、雁行形態論というのは赤松先生の初めの御主張で、産業別の輸入から輸出へのサイクルということであったかと恩うんですけれども、その場合にある国が輸入から輸出に産業がシフトしていく、当然はかの国が輸出から輸入にシフトして変わっていく。こういう国と国との関係、国と国との、あるいは雁行形態。そういうことは議論の中に初めから含まれていたんでしょうか。
それともだんだん日本の国際的な地位の変化に伴ってそういった国の問題が出てきたのか。いま出てきている国際分業、水平分業なんていうのも、そういった国際的な産業構造の雁行形態関係をある段階で縦に切ってみれば、これはそういうふうな雁行形態が出てくると思うんですが、そういった点が途中からの議論だったんでしょうか。初めからそういう点は赤松先生御主張になっておられるのがその辺のところいかがでしょうか。
山澤 赤松先生が初めに出された昭和十八年の新興国産業発展の雁行形態、日本の産業発展の雁行形態でございまして、それはいまおっしゃられたような意識はなかったと思います。これはあくまで日本が、欧米に対して後れている国が、欧米が持っている産業を取り入れていかに追いついていくかという過程です。ですから追いついていく先も輸出化までです。しかし、もっともその段階でもこの時点で問題は出ていたと思います。貿易摩擦というのは決して昨今始まったものではありませんで、すで一九三〇年代の初めには日本はヨーロッパにおいてもアメリカにおいても貿易摩擦を経験しております。主として繊維品ですが。しかしそれは赤松先生の中には余り問題にされていなかった。
これから新しい産業、まだまだ日本が入れていない産業をいかに取り入れ、輸入代替し、輸出化していくかということをもっぱら考えておられました。そういう問題が出てまいりましたのは、先ほど御指摘がありましたように、戦後になりまして、そして日本自体が大変大きくなってしまった。また日本だけではなくて、日本の後からアジアのNICSという国々が追いついてきて、それが一緒になってヨーロッパに行き、アメリカに行くというふうな形になってきた。こうなるとどうしても調整をしていかないことには摩擦が高まるばかりということになるわけです。そういう意味でこの現象というのは後の段階になって起こってきたことであるというふうに思います。
― 大変明解な説明、非常によくわかりました。山澤先生のように講義をして頂けば、私も学生時代もっと成績がよかったというふうに…:。
前から私は先程の世界経済研究協会に関係深いものです。これは赤松先生が初代理事長であられ、小島先生がその後、理事長を受けてやって下さいましたものですから。おっしゃるとうり拝聴いたしましたが、いまの貿易フォーラムとかそういうところでどうでございましょうか。
かつての大東亜共栄圏。あれはああいうことになって失敗したようになっているんですけれども、どうもいまの現実には、実際には経済的には大東亜共栄圏的なもののように事実上なっているようにも見られるわけですけれども、そういうことについて、日本の存在に対して、フィリピンとかいろいろ面白く思っていないとか、そういうようなことはあんまり出てこないんでしょうか。そういう周囲の点はどうでしょうか。
山澤 どうもありがとうございます。
雁行形態論は赤松先生から始まりましたけれども、太平洋協力は小島先生から始めました。御指摘のように赤松先生はシンガポール時代学者の一団を連れていかれまさに大東亜共栄圏構想を推進された方でいらっしゃいます。ですから構想においては恐らくはといいますか、赤松先生でしたら「ロマン」においては、日本が南に下りていくという「ロマン」においては、赤松、小島と太平洋協力の形は続いてきたと思います。
ただ、あえてそこまで言及いたしませんでしたのは、実はそれはどうしても避けなければいけない。つまり大平総理が提唱されて環太平洋連帯構想が出されたときに一番大きい批判は何だったかと申しますと、それは大東亜共栄圏の再来であると言われたことです。
実際に論理的にはそうではなかった。小島先生が太平洋協力を言われたのは、一九六〇年代の初め、昭和三十六、七年頃ですか、日本がだんだん国際化をしていった、開国をしていった時期に、これまでは国を閉ざしていればよかったけれども、これから開国していくときに一体どちらの方向に日本経済を向けたらいいんだろうかということを考えたときに、そのときにはすでにヨーロッパでECが発足しておりましたし、かなり繁栄していた時期です。それにィギリスが加盟するであろうということでヨーロッパに大変大きな経済圏ができる。ないしはイギリス人はアメリカやカナダと一緒になって大西洋協同体というのをつくるという構想も出てまいりました。それに対して小島先生は大変危惧の念を抱かれたわけです。これでは日本だけが太平洋地域で置いていかれてしまう。むしろそれをアメリカもカナダも引き入れた形で、太平洋圏にひとつグループをつくるべきではないかということで提案されたわけです。ですから発想は、論理的にはヨーロッパや、それから大西洋地域で行われているものを太平洋地域についてもつくっていってバランスをとっていこう。そういう方向にこそ日本の生きる道があるだろうと見られたんだと思います。しかし、論理ではなくてロマンとしては赤松先生と同じ南進の思想があったと思いますし、その線に乗って、それが底を流れていたと思います。
ただ、私たちそういう大東亜共栄圏の再来ではないということを大変苦労して説明してまいりました。いまそういぅものが出てまいりますとまた最初の振り出しに戻ってしまいます。特にそれは言ってはならない言葉でございまして、私は戒めてそう言わないようにしております。コォプロスペリティということを連想させますので使わないような形をとっております。
安倍外務大臣が昨年の八月にASEANの拡大外相会議に出られたときに報告をなさいましたスピーチの中でも、ないしは田村通産大臣が今年の一月にバンコックに行きましてスピーチをなさいました。いずれも同じような思想を語っているんですが、コォプロスペリティという言葉を使わないで、創造的なパートナーシップ、クリエティブ・パートナーシップという言葉を使っている。底を流れてい.るものはそう違わないと思いますけれども。ですから系譜としては本来ならば赤松先生のところから太平洋協力も始めるべきかもしれません。
― 結局いまの話もあれですが、一番この中で大事なことは構造調整の国際協調の必要性、これができなかったら何にもならない。そう思うんです。これが一番大事だと、私、思います。
そうしますと、結構ないい話なんですが、中国が入ってきたりソ連が入ってくると、同じ雁がはかの雁を落っことしちゃうんじゃないでしょうか。(笑)これは難しいと思うんですよ。これはどうです。それを全部含めてやっていくんなら国境なんて全部はずしちゃったら一番いいと。中国入ってもよろしい‥コルバチヨフ入れてもいいというよぅな、どういう思想があるわけですか。
山澤 まずソ連につきましては参加を希望いたしましたけれども、ソ連は軍事的には大国ですけれども、経済的にはかなり後れている国です。これは大変大きな軍事力を持っているものですから、これをおいそれとすぐ入れることはどうもしにくい。まだ太平洋協力の方がそこまで固まっておりませんので、それをもう少し待ってくれという形でとめております。
中国については昨年加盟をいたしまして、中国自体はかなり熱心に私たちのところへ出てきております。ただ中国自身がこの運動に積極的にコントリビュートするというよりは―中国だけがいまのところ社会主義圏になっておりますので、市場経済圏でどういうことが行われているのか。そういうことを自分たちはこれから学んでいかなければいけない。何でも教えてくださいという発言を盛んにいたします。
ですから、その意味では中国は雁行形態でも一緒になって飛んでいないで、かなり後ろの方で海面すれすれにきているところだろうと(笑)思いますけれども。しかし大事なことは、それを置いていかないでなるたけ引っぱっていかなければいけないわけです。やはり中国というのは、これが二〇〇〇年、恐らくは二〇〇〇年までというわけにいきませんでしょうが、二十一世紀にはかなり大きな経済力になるということが考えられますし、それに向けて辛抱強く日本はチューターの役割りをしていかなければいけないということじゃないでしょうか。
― 山澤先生のお話を伺いまして、私は実は赤松先生が大正の終わりにドイツの留学から帰られまして、このときは総合弁証法を提唱された時代ですが。だから私は総合弁証法に関しまして、総合弁証法の総合の後がどうなるのか、これは弁証法というのは発展の理論、あるいは流動の理論ですから、流動の理論で総合されたらそこでとまってしまうということでは話がわからないので、その先がどうなるのかという質問をしたことがあります。
それに対して、さっき山澤先生は、大阪の会議のときに赤松先生に、雁行形態の輸出の段階に入った、今度その後がどうなるのかという話に対して、それは君たちの問題だよというお話をなさったということがまさに符節を合わせていると思うんですけれども、その問題がまさにわれわれにとって眼前の問題になってきた。その雁行形態の発展の最後の段階に、いわば産業空洞化という問題が相次いでアメリカを中心として起こっている。イギリスなんかこの空洞化の状態に対してまだ出口が見つからん。そういう空洞化の問題というものをいま先生方研究されなければいかん。
この問題にどう対処するかという問題に回答されなきゃいかん状態になっておりますので、それに予想をお答え頂きたいと思います。
山澤 予想と申しますと、私たちエコノミストは、基本的には空洞化ということを起こさずに調整を進めていき得るものだと考えております。そのための政策が難しいわけです。つまり、これからいままで主要な産業でありました鉄鋼業等でどんどん雇用が減ってまいります。
ただ数日前の経済企画庁の予測でもありましたが、二〇〇〇年までの時点で確か二百万ぐらい在来の産業からは雇用が減少するけれども、ほぼ同じぐらいのハイテク産業での労働に対する需要が生ずるであろう。しかしそれはひょっとすると日本だけでは満たされないで外国の労働者を入れることになるかもしれないということを書いておりました。
ですから、これは経済の問題だけではなくて教育の問題にも絡んでくるわけです。教育の仕方そのものを変えて、そういう調整をうまくとっていきさえすれば、こちらで減る分については、それをもっと伸びる部門に移していくことができさえすれば空洞化は生じないわけです。ですから空洞化はタイミングがずれないで進めていくことです。その意味では先ほどの総合弁証法ではございませんが、矛盾が生じて総合が行われる過程をいかにうまくしていくのか。これがまさに政策の役割りだと思いますけれども、それをうまくマネージしていくことがこれからのエコノミストの仕事であろうと思います。恐らく赤松先生が現在も御存命でいらっしゃったら、これもやはり私の総合弁証法で説明できるんだよとこうおっしゃられるだろうと思うわけです。
(昭和六十二年三月十日収録)
(資料 1)
赤松 要先生 「新興国産業発展の雁行形態」昭和18年
同 「わが国産業発展の雁行形態―一機械器具工業について」昭和31年
小島 清先生 「資本蓄積と国際分業−赤松博士『産業発展の雁行形態』の展開」昭和33年
同 「プロダクト・サイクル論と雁行形態論――新興国工業輸出化の条件」昭和45年
同 「太平洋共同市場と東南アジア」昭和41年
同 「太平洋経済圏」(太平洋貿易開発会議第1回報告)昭和43年
同 「太平洋経済圏の生成」昭和55年
同(監修) 「日本貿易の構造と発展」(世界経済研究協会、1985年の世界貿易PJ第1巻)昭和47年
山澤 逸平 「鉄鋼業の雁行形態的発展」昭和47年
同 「日本の経済発展と国際分業」昭和59年
山澤・ドライスデール 「太平洋貿易開発会議と小島教授」昭和59年
山澤 編著 「太平洋協力の現状と将来展望」(大平財団・環太平洋学術研究奨励賞受賞)
1.Yamazawa,Industrialization through the Full Utilization of Foreign Trade:
The Case Study of Some East Asian Economies,1986/12
(I EA 第8回世界会議提出論文)
山澤 逸平
一橋大学経済学部教授、評議員
昭和三五年、一橋大学経済学部卒。米シカゴ大学大学院留学。
一橋大学経済学研究科博士課程終了。
経済学博士、国際経済学専攻。
昭和四三年、経済学部専任講師、
昭和四六年、助教授、
昭和五三年から教授、
タイ国タマサート大学、豪州西オーストラリア大学客員教授(一九七六〜一九七七)。
文部省、外務省、通産省、大蔵省、経企庁審議会・研究会委員。
国連UNCTADコンサルタント(一九八六〜八七)。
日豪関係研究主査(一九八五ー1)、太平洋経済協力会議(PECC)日本委員会常任委員(一九八六ー1)。
主要著書
「貿易と国際収支」(共著、昭五四)、
「日本の経済発展と国際分業」(日経経済図書覚受賞、昭五九)、
「アジア太平洋の貿易と産業調整」(編著、昭六〇)
「国際経済学」(教科書、昭六一)
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参考【正論】京都大学教授・中西寛 日本外交の画期なす日豪安保宣言(03/26
05:07) 産経新聞2007年