[橋問叢書 第六十三号]

歴史における世界文明と伝統文化     一橋大学名誉教授  増田四郎
             
            一橋の学問を考える会

    はじめに

 いま詳しく御紹介頂きました増田でございます。私はいまのお話のとうりで、新井さんが、この「一橋の学問を考える会」をお始めになるときに御相談を受けまして、大変有意義な会になるんじゃないかと思って、隣におられます中島俊一さんと相談いたしまして、中島さんが私に質問されるという格好で、それに私がお答えするという形をとった第一回の会合を持ったわけでございます。

 ところが、先日お電話を頂きましたら、きょうを最終回にして六十六回に及ぶ大変長いこのお仕事に決着をつける。是非おまえ何かお話をしろというお話です。私としましてはちょっと断る理由もございません。
 
 ところが、私自身、もうだいぶ年を取りまして余り新しいことも勉強しておりませんので、雑談的なことしか申し上げられないということを言ったのですが、それでいいからというので、とにかくお引き受けしました。

 私はこのお話を伺いましたときに一番最初に念頭に浮かびましたのは、昔、上田貞次郎先生が『企業と社会』という雑誌をお出しになって、非常にうまいやめ方というか、終わり方をなさったことです。
私自身、およそ物事というのは初める時よりも、むしろやめ方が非常に大切で難しいんじゃないかと常々思っておりました。しかし、どうも、私のような者がその大切な最終回のお話をするのはおこがましい限りでございますけれども、とにかく、そんな理由でお引き受けしたのであります。




     演題の背景となった思索的諸問題

(1) 社会科学の総合と一橋大学の今後のあり方について
 
 ところで何をお話しするかということになりますと、細かい歴史の話よりも、昔から、社会科学の総合大学ということを標榜しております一橋大学にとりまして、いまどんなことを考えるべきなのかということに関連した話を、日ごろ気になっている私自身の問題として申し述べてみたいと思うのです。

 というのは、現在の一橋大学はご承知のように四学部・研究所に分かれ、学問研究が非常に分化いたしました結果、総合への企てというか、あるいは目安というか、そういうものがややもすれば見失われて、だれもそういうことを考えないような時代になりつつあるんじゃないかということを心配しているからであります。
専問化はもちろん結構で、また必要なのですけれども、また社会科学の総合と口では言いやすいのですが、一体どうしたらいいのか。何が二十一世紀に向けての社会科学の目標になるのだろう。これはだれもが恐らくすぐには答えられない。大げさに申せば世界じゅうの人たちが困っている問題じゃないかと考えます。

 それに加えて、後でもお話ししますが、自然科学、特に科学技術というものは文字どおり国境のない学問でありまして、外のものを分析し、その分野の特定テーマの中へ研究者が入っていけばどこまでも分析が進展する可能性があるわけです。いまやかましい半導体だとか、あるいは新素材だのバイオテクノロジーなど、まだまだこうした分野がどう発展するかわからない。もちろん、それが軍事兵器になるのは困りますけれども、自然科学の研究というものは文字通り国境がないという考えでいいと思います。しかし人文・社会科学となりますと、そういうふうにはなかなかいかない問題があります。

 そのことを考えるものですから、人文・社会科学と言えるかどうかわかりませんが、例えばスポーツとか、音楽とか、芸術とか、あるいは文学とか、そういうものになりますと世界的な交流がわりにみんなわかるわけでありますが、社会科学の分野、つまり政治、あるいは経済、法律、そういうような分野の問題が世界じゅう国境なしに考えられる学問となりうるかというと、そう簡単ではない。どうすればいいのかということについては、だれもまだ明快な答を出していない。「社会科学の本質」なんていう本は出ていますけど、これからのようにグローバルに、文字どうり世界じゅうというか、地球上のことが全部わかる社会の中で、一体われわれ社会科学を総合するというのはどんなアングルから、これに迫まっていけばいいのかということは、だれかがわかっているかも知れませんけど、残念ながら私には見当がつかない問題であります。そういうことを常々一橋大学のあり方を考えながら、気にしているものですから、このような題目を選んだ次第であります。

 ところで、きょうの私の演題は、もうお気付きの方も多いと思いますが、一昨年の十月十一日に一橋大学創立百十周年記念の特別講演というのを引き受けさせられまして、そのときにこれに似た「高度文明と伝統社会」という題でお話ししたテーマと似通っております。同じ題でまた同じことをしゃべるのだろうと思われるかも知れませんが、またそういう部分があるかもしれませんが、私は日頃思いつめていることはそう簡単に捨てられないので、場合によっては二度でも、三度でも、こういう話をできるだけ多くの人にお話しして、いろいろな御教示を得たいと、こんなふうに思う次第であります。実は、一昨年の講演は一橋の学生に聞かせようと思って話したのに学生はあまり聞きませんでして、非常に妙なことになったのですけれども。新人類相手でどうしたらいいのかなお困っているわけです。そんなわけで、きょうはあんまり専門的な歴史の中に入った話ではありません。自分自身が困っているというお話を雑
談的に申し上げたいと思います。

    (2) 「文明は人間を救はない」(漱石)と言う問題

 こんなことを考えながらいろんな書物を読んだり考えたりして、ちっともまとまらないのですが、たまたまこの間 夏目漱石の古いものを読んでいました。そうすると、彼は明治三十八年、というのはちょうど『我輩は猫である』を書いている最中か書いた直後だと思いますが、そのときに書きなぐったものが全集に出ております。

 そこに漱石がこんなに言っているんです。
「吾人が吾人の生活の上に、いわゆる文明開化なるものの欠くべからざるを覚えると同時に」 つまり、文明開化は欠くべからざるものだということがわかると同時に、「いわゆる文明開化なるものの吾人の満足を与えるものでないことを徹底的に悟った」と書いてある。それに続きまして、.「文明は人間を救わない。しかも人はこれを逃れることはできない。この行くも地獄、帰えるも地獄という文明の波の中に立ちつつ、その波上に立つ人間の宿命を問い詰めることを自分の仕事にしたい」。

 私はこれを見てびっくりしたのです。いま私が困っているのと同じことを明治三十八年に漱石が書いている。もちろん思考の次元は違いますし、漱石のような文学者の考え方と私の考え方が違うことはもちろんですけども、私、きょうお話したいと思うことはまさにこの問題なのです。そのことについてどう考えたらいいか。

 つまり、文明は人間を救わず、しかも人間はこれを逃れることはできない。それで、行くも地獄、帰るも地獄という文明の波の中で自分をどうして確立することができるのかという問題であります。それを社会生活に投影させていきますと、われわれこれからの二十一世紀の社会、経済、政治というものをどういうふうな目標で見定めるかの、い
わば指標軸というようなものを考える段階にいま立ち至っているので、社会科学の総合を目指すならば多少フィロソフィカルかもしれませんが、いろんなデータを入れた上で大学がこぞってこの問題を考えるべきときじゃないかというような気がいたすものですから、それでこんな演題になってしまったのです。

 こういう、私にとりましては大変深刻で、しかしちょっと見たところ全然学問的でない非常に大風呂敷な話のように聞こえるかもしれませんが、私にとっては実は大変深刻な問題なのです。

 そんなことを毎日考えているのですが、つい二週間はど前のテレビと新聞に出ておりましたが、一体人間の暮らしとしてというか、民度という字を使っておりましたが、社会の秩序、それから人間の教養の高さ、それから人と人との交じわりの中での温かさ、生活様式、生活環境そういうものを一切合財を考えた上で世界でどこが一番住みよい国と考えるかというアンケートの結果が出ておりまして、一位はスイス、二位は、何とルクセンブルグ。三位は西ドイッ。四位はフランス。イギリスなんかはるかに下で、アメリカに至ってはうんと下です。
ヨーロッパ以外の国で第十八位か十九位かに日本が挙がっている。だから経済大国なんて言いながら、そういう民度の高さからいけば大変低い後進国であることは、これはちょっと否定できないのではないか。

 私はルクセンブルクも、西ドイツも、フランスも知っていますけれど、言われてみると、ルクセンブルグだとか
ベルギーとかいうようなところの、例えば老人に対する扱い方とか子供の日常生活の規律というようなものを考えると、スイスももちろんですが、やはりそういう結果が出るのもうべなるかなと思わざるを得ないものがあります。

 このアンケートは何も絶対に正しいとは思いませんけれども、社会の秩序観、民衆の文化度というようなものを考えますと、それからまた、人と人との交じわりの具体的な温かさというようなものを考えますと、このアンケートの結果もわれわれ大いに反省しなくてはならないことじゃないかと思うわけです。

 私がこういう問題の所在を感じました直接の原因は、日本学術振興会に十年余り関係しました体験であります。そこで一番強く感じましたことは、先端技術でトップを切っている日本と、発展途上国の政治家や学者と付き合っていろんな先端技術の援助をおこなうわけですが、そういうものを持っていっても、先方でそれを使ったり修繕したり、それをマネージする能力がないと、折角の援助が生かされないばかりか、時には近代化に対する一般民衆の反感を買うこともあるのです。そして日本が援助しながら嫌われるという、かってアメリカが経験したのと同じようなことが、発展途上国の各地で見うけられる。中南米へ行きましても似たことがあり、新しい旋設がフルに活用されない。例えば最近式の設備をもつ病院の消毒器にクモの巣が張っているといったことが報道されています。それぞれの国の事情を知らないで、ただ金を持っていき、最新式の技術を持っていくだけでは、一部の政治家やトップの学者はそれでいい仕事をしたと思っているけれども、民度の低い民衆にとっては、それは実は何の役にも立たない。むしろ反感を買うというような例にしばしば具体的に出くわすわけです。

  (3) 歴史学研究についての反省

 もう一つは、私自分のやっております歴史の勉強からの反省であります。歴史の勉強は日本では、日本国というまとまりが初めからあるような格好でものを考えますが、これは日本の特殊事情で、ヨーロッパなんかでは、いまのようなイギリス、ドイツ、フランスなどという国民国家ができるのはごく新しいことで、十二、三世紀ごろまでは、あれは西ヨーロッパという一つの大きな枠の中で、きわめて流動的な政治的形成体が存在したに過ぎないものであったのです。それゆえ国境といいますか、政治支配の境界はしょっちゅう変わっていることが常態であって、国境の思想はいまだ確立していなかったといえるのです。むしろ教区の方がはるかにはっきりと意識されていました。そういう
ように考えていきますと、さきほど申しました小国ルクセンブルグとか、もっと小さいリヒテンシュタインなどという国家がああして存立し得るのはどうしてなのか。またスイスは一国として扱われておりますけれども、あれは実はカントン (州) の連邦でありまして、言語も四つに分れており、決してネーション・ステートではない。

 こういうことを考えますと、近代国家成立以前の古い歴史の勉強をやるのには、それぞれ、同じ言葉が使われ、食べ物が似ている、風俗習慣が似ているというような具体的な地域の研究から始める必要があることがわかります。民衆の生活を調べるとなると、一層それが大切なのです。 フランスの歴史学はそういう伝統をもっていて、地理学に基礎を置いた具体的諸地域の研究がその根底をなしています。

 これに反し、ドイツの場合には、現実に国民国家が仲々形成されないものですから、理念として国家の統一ということを強調し、ドイツ全体をひっくるめた歴史研究、とりわけプロシアを中心とする国粋的な歴史研究さえあらわれるに至ったのですが、二度にわたる大戦の結果、ドイツでも具体的地域研究の積みかさねの傾向が強く前面に出てまいりました。

 こうした史学史の話は別といたしまして、私がここで申し上げたいのは、現在の国民国家というものを単位にものを考えるのではなくて、ことがらに応じて大小広狭さまざまな地域的社会集団の実証的・総合的研究をする必要があるということです。例えば信州なら信州。信州でも南と北が違う。そういうものの中で民衆の生活をできるだけトータルにつかまえる方法がないかというので、地域史研究というのを広げようとして十数年前から、地域主義(リージョナリズム)を唱えたのですが、それがやがて「地方の時代」という日本国内の政治や行政のキャッチフレーズに転化されることになりました。これはもう皆さんご承知の通りであります。

 ところで地方の時代も結構ですが、私のねらいは「地方」でなく、「地域」であります。地方ということは中央を
前提した考え方であります。私の地域というのは、東京も地域、神田も地域。そのそれぞれ特色のある地域でどういう民衆の生活が営まれているか。大小様々な地域社会集団を全体としてつかまえる方法を具体的に示してみたいというのが私の歴史研究の一つのねらいであります。

 こんなことを考えてゆきますと、しまいには国家とは一体何なんだろう。世界的にみてせいぜい数世紀しかたっていない国民国家。うんとさかのぼれば、きわめて流動的なものであった政治的まとまりであった国家というものは一体何なんだろう。そうした視野からする日本の特殊性というのは何だろうか。そういうことをいろいろ考えてみたいと思うものですから、今日はこんな大きな題目を選んだわけでございます。

   「文明」と「文化」 − その本質的概念を考える −

 さて、そこで本題に入るのですが、その前に一つ自分ながらの勝手なディフィニションといいますか、概念規定をしておきたいと思います。

 私は「高度文明と伝統文化」と演題をかかげましたが、「文明」と「文化」というのは一体どういうふうに考えた
らいいか。これは言葉の詮議になりますけれど、日本ではいまこれはごちゃごちゃに使われているようでありながら、しかもごちゃごちゃでない複雑な使い方がされております。どうも日本語としてよくわからない。

 「広辞苑」を開いてみますと、「文化」というところで、「世の中が進歩し文明になること」と書いてある。何のこ
とかまったくわからない。それから、やや内容的に 「自然状態から脱却すること」。ついで、「生活形成の様式とその内容」 これが文化の定義であります。まだ「生活形成の様式と内容」というのが私には一番わかりやすい内容です。
世の中が進歩し文明になることが文化だ。そんなばかな話というのはない。

 今度は「文明」というところを引いてみますと、「文教が進んで人知が明らかになること」 「未開、野蛮の状態に対する言葉であって文化と同じ」と書いてある。ますます私の説明がこれからできなくなってしまう。

 しかし、皆さんが日常的に使っておられることをよく考えて御覧になるとわかりますように、例えば天平文化とは言いますが天平文明とは言わない。文明病とは言いますが文化病とは言わない。何でそれを区別しているのだろうという問題があるわけです。

 語源的に言いますと、これも御承知のように・シビライゼーションというのはキヴィタスというラテン語からきているわけです。都市国家、つまり都市風、町風になるということなんです。すなわちカルチャーとか町風。田舎に対する優越的な表現です。それがシビライゼーションのもとの意味なのです。

 ところが面白いことに、チビリザチオンとドイツ語で言いますと、それは文化が創造力をなくしている末期的症状を言う意味です。だからドイツ語でチビリザチオンというのはフランス語や英語とは一味ちがった特殊な言葉なのです。ですからドイツ語では活力のある個性ある形成体はクルトアー、つまり英語のカルチャーなのです。いいかえますと自分の中に創造的なものを持ってそれを発展させていく活力を持っているもの。それがクルトアー。そういうふうに使われているのでありまして、チビリザチオンという言葉はめったに使わない。中には日本と同じで、シビライゼーションと同じだなんていう使い方をしている人もおりますけど、それはむしろ例外であります。 このようにエテモロジー(語源学)という、ことばの起源を考えますと、まだまだいろんなことが言えるわけです。例えば物質文明とか精神文明という言葉。これなんかも結局日本の用語としてわかっているようで、実はよくわからないで使っている。

 そこで、私はアーノルド・ジェー・トインビーの書物などを読みまして、それらの主張を踏まえた上で、ここでは
全く私なりの一応の定義をまず最初に申し上げておきたいと思います。

   (1) 「文明」とは − 普遍性を持ったもの

 さて、それでは「文明」とは何か。世界史を見渡してみますと、そこには幾つかの高度に発達した文明が存在したことがわかります。そしてそれらが持っている共通の特色は、いずれも普遍化的作用といいますか、とにかく周囲へ広がっていく力、つまりほかの地域に以前からあったものを押さえて伝播する普遍性を伴ったものだといえそうです。 それはときには宗教であり、思想であり、芸術様式であり、あるいは社会体制であったりしますが、それが各地域のさまざまな生活様式の中にまで入っていく普遍的な力を持っている。

 ですから、私は、日本が世界じゅうでわかってもらえるようになるためには、日本文化が文明としての普遍的性格をどうして持ちうるかという問題になると考えます。そういう問題として考えますと文明というものはほぼおわかり頂けるのではないでしょうか。

 そうした諸文明の中で特に普遍化や伝播の力が格段に強いものがホッホクルトアー。すなわち高度文明と言われるものでして、皆さん御承知の例で言えば、古い時代についてはギリシアのポリスの文明から発達したヘレニズム文明。あるいはローマ帝国のまとまりの中で全体としてなんとなく共通の特色があるように見える地中海文明。あるいはお隣りの漢民族を中心としてつくり上げられました古代の中国文明。それから、いまわれわれ自身の身のまわりに迫っております十五、六世紀からできてきた西ヨーロッパ中心の科学技術文明。この科学技術文明がやがて全世界を席巻してしまい、その結果、先進国と言われるところでは特に先端的な技術がおこり、エレクトロニクス、バイオテクノロジー、新素材等々、飛躍的な発展を示すとともに、他方で核戦争の危険にさらされるに至ったことは御承知のとうりであります。しかし、これももとをただせば、中国や印度ではなくて西ヨーロッパのルネッサンス以後の現象のゆきつくところだといっていいのではないかと思います。

 同じように、宗教の分野にも高度宗教が考えられます。古い時代にはどの地域、どの民族にも民間宗教があったはずですが、いつの間にかそういうものを押しっぶしたり、古いものの一部を取り入れたり、いろんな複雑な合成作用を経ながらではありますけど、とにかく結果としていくつかの高度宗教というものが世界に広がっていったのです。 すなわち現代でいいますと、仏教、キリスト教、イスラム教などがそれであり、場合によると儒教だってそう言えるかもしれない高度な宗教および思想でありまして、いずれも文明的な性格をそなえているものだといえます。

 このように考えますと困ったことは、文明を比較することがどうしてできるのかという問題です。文明の特色というものをどこでどう比較すればいいのか。これは一見簡単なようですが、実は大変厄介な問題であります。なぜ困るかと申しますと、例えば、仏教美術と呼ばれているもの一つをとってみましても、それは地域によって違い、時代によってどんどん変わっているわけです。私はこの方面の専門じゃありませんが、例えばガンダーラの仏像、敦煌の仏像や仏画、あるいは日本へ来てからの仏像や仏画でも白鳳とか、天平とか、あるいは平安とか鎌倉というふうにみんな違う。われわれ素人が見ただけでも、これは鎌倉のものだ、これは平安の仏像だということがすぐわかるくらい違う。そうなると、仏教美術の本質というものをどうして考えるのか。それが仏教に関係がある美術だというだけで、その本質をつかんだことになるのだろうか。そこが問題なのです。 もっと一般的にいいますと、高度文明を比較するというのは何を物差しとして、どの段階で比較するのかが問われなければなりません。しかしこれは仲々むずかしい。これに反してある文明がどう広がっていったかという道筋を研究することは歴史学的に可能であります。
幾つかの文明を比較することはむずかしいが、ある文明の伝播過程を歴史的にフォローすることは可能である。ここに文明論と歴史学とのちがいがあるのです。

 仮りに文明の比較が可能だとしましても、それは結局、きわめて抽象化された類型論になる危険がある。すなわちこの問題をだんだん押し進めていきますと非常にプリミティブなところまで行ってしまうわけです。例えば世界をどう見るか。死というものをどう考えるのか。あるいは自然とか神というものをどう考えるのか。さらには祖先というものと自分との関係をどう位置付けるかというような、極めて古い形のアルカイクというか、プリミティブな文化状況にまでさかのぼらざるをえない。

 しかし自然崇拝、例えば老木だとか、岩だとか山だとか、特定の動物を崇拝するということはどの民族にもみうけられる問題であります。ところが、それが何かが機縁となって、誰かを中心に、ある時期にその中からフッと普遍性を持った高度文明の芽が育ってきている。それを類型的に、単にあれは一神教だ、これは多神教だ、あるいは汎神論だとかいうようなことを概念的に言ってみたところで、それだけでは歴史的な理解にはならない。そういう問題を抱え込んでいるんじゃないかと思うのです。

 自分がそういうことを深く勉強せずにこんなことを皆さんに言うのは大変失礼ですけれども、この問題はみんなで考えて頂きたいと思うわけです。

 文明がこのように普遍化の作用を持っていることを考えるときに、一つ留意しなくてはならないことは、その起源がどういうものであれ、普遍化の性格を備えた思想、宗教、あるいは生活様式が広がっていく機縁になるもの、いいかえるとだれがそれを担うのか、だれがそれを受け入れるのか、受け入れることによってそれがどんな作用を及ぼすのかという問題であります。もっと具体的にいえばだれが一番先に高度文明に接してそれをどう利用したか。その担い手がどういう階級であったか。そこのところの分析が必要だということです。

 キリスト教は、御承知のようにカタコンベからもうかがえますように、最初は貧しい者の中に根をおろした宗教でした。しかしやがてそれは ― これはどの宗教も一般的にそういう傾向があるのですが ― 時の支配者層が、あるいは知識階級によって受け入れ、政治的なものと結合することによって、飛躍的にその普遍化の力を得ることとなります。そしてむずかしい教義をつくり出すのですが、一般民衆の日常生活や意識の内面には昔ながらのものが残っていて、民間信仰は形を変えていつまでも存続する場合が多いのです。

 しかしこのような事例は、なにも古い時代における高度文明や高度宗教の受容の場合に限らないで、歴史のどの時代についても見られる現象であります。

 例えば、十六世紀の中葉以降、フランシスコ・ザビエルとか、あるいはマテオ・リッチなどが東洋へやって来まして西ヨーロッパの近代科学文明が日本や中国へ入って来るきっかけをつくりました。それから十七世紀にかけて、日本と中国とがこの西洋文明にどう対処したかということは、大変面白い問題であります。つまり中国のように長い伝統があり、中華思想があり、自分の方が文明度が高いと思っているところへ来た西ヨーロッパの近代科学への考え方と、日本のようなところへ来たそれとでは、その対応の仕方や受け入れ方がまるで違うのです。

 どういうことかといいますと、これも詳しくいえば色々例外はありますが、一般的に申せば、中国へ行った宣教師は何よりもまず中国語を勉強する。そして中国語を修得して自分のヨーロッパの学問を中国人に伝える。日本へ来たときには日本人が蘭学を勉強して、そして向こうの学問を学びとろうと努力する。当時の日本人の外の知識に対する欲求というか、その学習熱心というものは、中国とまるで反対の形をとっている。

 また何を一番先に受け入れたかというと、中国の場合には、天子が天下を支配するために必要なものを官僚を介し
てまず受け入れる。例えば暦法、天文学などであります。ところが日本の場合には蘭学でおわかりのように、まず庶民の生活に関係のある医学が中心でして、やがてその他いろんな理工の学や兵学、数学、暦学等、広く民衆にかかわりのあるものでした。だから中国は西洋医学が入ってゆくのがおくれ、民衆はいつまでも古い技術の中に踏みとどまる傾向が強かった。要するに支配者側が天下を治めるのに都合のよい分野の近代的知識だけを受け入れたわけで、民衆生活には及ばなかったのです。

 もう一つ、私ども日本の例を考えてみましょう。これは度々私が言っていることですが、日本が漢字文明の洗礼を受けた時の面白い事例があります。皆さん御承知のように、漢字が入ってきました後は、日本でも漢文で日記を書くお公家さんや漢詩をつくる坊さんなど、いっぱいいたわけです。つまり知識階級や僧侶の階級が教養としてそれを受け入れる。民衆は何もわからない。そういう形で漢字文明が広がるんですが、日本の非常な特徴はその漢字を使って万葉仮名をつくり、話し言葉を記録する文字を考案し、直ちにそれを文学にまで高めることに成功したことであります。

 これはアジアの歴史を見渡して、実にユニークなこの国の独創性のあらわれであると思います。ごく最近中国の学者たちに会った時の話に、中国で困っているのは、科学技術がこんなに発達するけど、中国では片仮名がないので、対応が大変だ、日本へ来ると何でも向こうの言葉を片仮名を使って表現し、これをそのまま日本語の中に組み入れてしまうけど、中国でそれをどういう字で書くか、むずかしい、ゴルフをはじめ、コンピューター、バイオなど一々困っているという話でした。ことに薬の名前を漢字で書くのに非常に困っている。日本は素晴しいといっていました。 なるほどと思った次第です。こんなことをお話しするときりがありませんが、外からの高度文明を受け入れる階層がだれであり、何のためにそれを受け入れてどういう作用をもたらしたか。民衆との関係はどうであったかといったことは、今後歴史的にもっと詳しく研究していかなければならない問題だと考えます。

 東洋における漢字の普及に似ておりますのは、ヨーロッパではラテン語であります。大ざっばに申しまして、十二世紀頃までのヨーロッパには話し言葉は地域によりまして実にバラバラで、おそらく四十も五十も違った言葉があったといわれます。ところがその話し言葉の史料はほとんど残っておりません。アングロサクソンの言葉以外は、われわれ歴史の研究で利用するのはラテン語ばかり。そうするとラテン語を読み書きできたのはだれかという問題になります。それができたのは圧倒的にカトリックの坊さんであります。カトリックの坊さんが実は国の政治・外交・行政等の実務面の仕事をしているわけです。王様であれ、神聖ローマ帝国の皇帝であれ、ラテン語の読み書きができたのはほんの数えるほどしかいませんでした。庶民はもちろん、軍隊も話し言葉しかわかりませんでした。全部支配者層の側近にいるカトリックの坊さんに書いてもらっている。紀元後六、七世紀という古い時代は、ローマの貴族で生き残ったのがそれをやるわけです。 ところが十二世紀以降になりましてボローニア大学を中心にローマ法の復活の気運が熟しますと、今度はヨーロッパ各地の貴族の子弟たちがボローニアに行きまして本国の役人になるために法律を学び、ラテン語を勉強することとなります。それとほとんど間髪を入れずに大商人、これは外国と取引きする必要から、いわば国際語としてのラテン語を勉強せざるをえない。そこで各都市にラテン語を教えるところができて、簿記もはじめはラテン語で付けるようになるのです。だから十二世紀頃までは、民衆がどう考えて生活していたかということを知ろうと思っても、文字に記された史料はほとんどない。

 その点万葉仮名のあった日本と比べて非常な差であって、大変早い時期に『万葉集』や『祝詞』があり、ついで『源氏物語』のような当時の話し言葉がわかる史料や作品が出てきたというのは、これはもう世界文学史上全く特異な誇るべき財産だと思います。

 
以上申し述べましたことは、誰にもわかる当然のことなのですが、私自身、このことに気づいて、ラテン語の史料から当時のヨーロッパの民衆の生活や意識を知ることができるのだろうかということに疑問を抱いたのは、お恥しい話ですが、比較的新しいことなのです。こんな疑問を抱きますと、ラテン語の史料では支配者側の意図はうかがわれますが、何か靴の上からかゆいところをかいているような感じがあり、直のものは何かということを見失う危険を含んでいる。それは丁度日常生活を漢文で記録したようなものなのです。ですから、政治史や制度史の研究には比較的問題はないのですが、経済史や社会史の研究ではきわめて厄介な問題があるのです。すなわちほかに記録された史料が無いものですから、民衆の在り方や考え方を知るためには、別の工夫をしなければなりません。

 ヨーロッパでそういうことに気付いて注目すべき仕事をした一、二の例を挙げますと、その一人は皆さんよく御存じのあのヤーコブ・グリムです。グリムは童話で有名ですが、ゲルマン語の研究と集成、それから村方の判告録(ワイズテユーマー)と言われる大量の史料を集めて、中世以来の村の慣習法を編纂したのです。これは古いものはラテン語で書かれていますが、やがて各地域のゲルマン系の言葉で記録されており、村落団体の運営と領主=農民関係を知るのにきわめて重要なものであります。

 それから、もう一人、それは岩波文庫に出ております詩人ハインリッヒ・ハイネであります。これは皆さんお読みになった方があるかとも思いますが、『流刑の神々、精霊物語』(岩波文庫)という小さな本がそれであります。ここでハイネが何を言おうとしたかといいますと、キリスト教がヨーロッパへ入ってくるときに、いかにその前にあったもの、すなわちギリシア、ローマの神々やゲルマン民族の民間信仰などを圧殺してしまったかということなのです。圧殺と言うと変ですが、とにかく徹底的に古い伝説や信仰を排除し、それを迷信や邪教、あるいは異端として、いままでの民衆の土俗的な心というものを押しっぶしてしまった。ゲルマンの自然宗教を押しっぶしたばかりでなく、ギリシア・ローマの神話をさえ排除し魔女だとか小人だとかの異端的世界に封じ込めました。そしてそれがメルヘンの世界に出てくる物語りとして、民衆の考えの中にいつまでも残ることとなったのです。

 例えばギリシア・ローマの神話に出てくるバッカスみたいに酒を飲んで騒ぐとか、恋をするとか、いろんな人間らしい神々がキリスト教の普及によって全部異教の迷信とされ、その多くが森の奥深く、あるいは淵の底深く沈められてしまったわけですが、それがときどき民衆の生活の底から噴出する。その噴出の要素をメルヘンとして民衆が大事にしているわけです。だから、森の奥深く分け入って行ったら、そこには魔法使いのおばあさんがいたとか、どこか淵の中へ入っていって金の盃を拾ってこいと言われて飛び込む若者の話とか、常軌を逸した乱痴気騒ぎとか、そういうのはキリスト教から見れば異端なのですが、面白いことにその要素が民衆の中には脈々と生きつづけている。 それからまた菩提樹の大木を信仰する。岩を信仰する。山を信仰する。これは消そうと思っても消せないものである。こういった問題を指摘したのがハイネの『流刑の神々・精霊物語』という本であります。ハイネは次のように言っています。

 「ギリシア・ローマの神々はキリスト教の勝利によってその権力の絶頂からたたき落とされ、いまや地上の古い廃墟、あるいは魔法の森の暗闇の中に閉じこめられてしまった。しかしそのことに対する思い出は民衆の中に脈々と生き続けて豊かなメルヘンをゲルマン世界の中につくり上げている」。

 これと同じ精神を日本で生かそうとしたのはいうまでもなく柳田国男であります。足で歩いて民間にある習俗や伝説などを掘り起こし、支配者側の史料だけではわからない民衆の生活態とその意識を浮き彫りにしようとしたのであります。柳田さんは、西洋の文献を実によく読んでおられる。グリムやハイネのねらいは、こうして柳田において日本で生かされ、日本民俗学のすぼらしいモニュメントがつくられたのです。それから、われわれ、いまのように近代
科学の先端技術がどんどん進んでいく中に置かれていますと、心の安らぎがない。ところがそのようなものを与えられるのは柳田の集めたいろんな物語り、例えば『遠野物語』 のようなものであり、柳田の研究や和歌山県田辺の偉人南方熊楠の随筆などを読むと、何とわれわれが心の中にいきいきとあるものがよみがえるような感じがしてなりません。この精神運動というのが実は非常に大事なことなのです。前ばっかり見て、マラソンで一位になろうなどと思っているような国民ではなくて、根っこのところを、いまの時代にどうそれを調和させていくかという課題を考える国民であってほしいと思うのであります。

   (2) 「文化」とは ー 個別的・地域的性格を持ったものー

 ちょっと話が長くなりましたが、こういうものを文明だと考えますと、文化というのはそれじゃどうかと。いまお
わかりのように、文明に対して文化というのは、それぞれの気候・風土等々に制約されたきわめて具体的な地域の社会集団の生きた姿。つまりそれほどの地域の広がりかということは問題によっていろいろ違いますけれども、例えば納豆を食べる地域とか、利根川流域の地域とかいうのもあれば、もっと狭い、ある方言で考えられる地域もありますが、いずれにしましても、滔々たる文明の波を受けつつ、ときにそれを積極的に摂取して自分の血とし肉とするが、ときにはこれに対応して反発し、拒否する。反発し拒否する社会が地球大的に見ると幾らでもありうる。文明の波が入っていけない世界もありうる。そして独自固有のもの。つまりいろんな影響を受けながら、反発だって影響を受けながら、反発だって影響を受けるから反発されるのでありまして、あるものは受け入れるけどあるものは他のものには反発する。そういう多種多様のものをつくり出して、独自性というか、とにかく個性化、地域化の作用をおこなう。
しかもその作用は時代とともに変わっていくものであります。だから室町の文化は天平の文化とは受けいれ方と創造性が違う。違うというのはその時代性を反映しているからであります。

 そういう意味からしますと、かなり大きく「文化」というものの地域をとりますと、近代の国民国家というものは
それぞれの国民文化を持つのであって、「学問に国境なし」ということのできない文化の多様性というものを前提しないと、私ども、とても実証的な研究ができないのであります。要するに一つの理論では研究できない。
だから地域研究というものが非常に大事だと私どもが強調し、また一般的に最近言われるようになりましたのも、このような反省がわかって来たからだと思います。別の言葉で言いますと、「文化」というものに重点を置くと、一つのいままで行われていたような、西ヨーロッパ先進国の物差しを持って世界を、やれ先進国だ、中進国だ、後進国なんていうことは、文化という立場に立てばナンセンス。いわゆる欧米先進国の一つの物差しで測ればそうなるということだけのことでして、正しくその地域の社会や文化の特質を理解したことにはならない。このことに気づくことが、真の「国際化」の肝心のところなのであります。

 だから、何かの基準を考えて、やれ冷蔵庫の普及率だとか、車やテレビの普及率だとか、幾らでも基準ができますけれども、先進国の基準では測ることのできないものを、エスキモーも持っていれば、アジア、アフリカの諸国やパプアニューギニアの社会が持っている。それは上下の差を付けられないのです。固有のもの。そうなりますと、まずその固有のものがどう変わるかということを絶えず考えていかなければ、自分たちだけが優れていると思って、経済大国だからと思って外国人たちを見下ろして東南アジアや中南米やアフリカへ行って仕事をしたって、それは長続きはしない。相手のそういう固有の文化をできるだけ尊重する姿勢が大切です。そして、どこにわれわれと違うところがあるかということを考えながら折衝していくときに、初めて国際化の基礎ができてくる。そういうことが文化というものを考えると言わざるを得ない。

 そこで次に、このお話のついでにいま思いつきましたが、「一橋の学問を考える会」ですから、一橋のことにも触れなければなりません。われわれの先生の三浦新七先生の構想というものは、先生も使い分けをそう正確にはしておられないのですけども、ギリシアとユダヤとローマというものを、それぞれの持っていたものがヨーロッパの中世においては、これを先生は「キリスト教的統一文明」と言っておられた。ヨーロッパというものはキリスト教的統一文明というものの中から出てきた。それはいわば大きな土蔵のようなもので、それ以前の歴史的要素、文化要素を全部そこへ収納してしまったというふうに言われるわけです。大きな宝蔵。その宝蔵から、それぞれの地域の住民がそれを利用する能力をつくり出すのに応じて、教会がそれに宝物を小出しに出して、出していく中からイギリスとか、ドイツとか、フランスとかいうようなそれぞれの地域の「国民文化」ができてくる。こういう構想をとられるわけです。 これは卓抜な表現だと私は思いますけれども、しかしそれは、三浦先生はやはり「国民文化」というものを何よりも中心に置かれている考え方でして、私はその国民文化というものにも実は大きな疑問を感ずるものなんです。

 国民文化でなくむしろ各地域の文化というふうに考えていきますと、国民単位でものごとを考えることは変で、イタリアの如きは十九世紀に至るまで統一なんてない。イギリスでもいまだに統一なんてない。スコットランドはスコットランド、アイルランドはアイルランドとして独自の性格を持っている。ましてやフランスのピレネー辺り、あるいはスペインのカタロニア地方なんて全く違うものなのです。

 そういうふうに考えていきますと、それじゃ歴史の研究はどういう観点からやればいいのだろうか上いう問題にぶつかるわけです。

 歴史の研究をどうやるかなんていう話はここでとても詳しく申し上げることはできませんけれど、いままで申し上げたこととの関連で申しますと、すでに言いましたように、具体的な各地域がそれぞれ単独で発展してきたものではなくて、外の要素を受けながら相互の交流を通じて、だんだんと自力を蓄え自分のものにしていまに至っている。その自力を蓄えてというところに実は問題があるのでありますが、それが前に申し上げた漱石の言葉のように、文明の波をかぶりつつ具体的な個人なり社会なりがそれに対応してゆく、その仕方と変容とを追求すること。それが社会の発展を具体的に理解する大切な目標になるのだと思います。

 このことを比愉的に申しますと、外から入ってくるものを本来存在する素材の上にペンキを塗ったように変わってしまう社会と、そうではなくて、木地がちゃんと素材であるところへ何遍も何十遍も漆を塗りながら独特の品格を備えてゆき、使えば使うほど味が出る漆器をつくるような文化との比較のようなものであります。

 ペンキの塗り変えというのは、どちらかというと民衆と支配者との間に大きな距離があるにもかかわらず、ペンキだけ塗り変えたように見せる植民地的性格が強いといえます。これに反し木地と外の影響との関係をどういうものとして自分のものにしてゆくか、そして根なし草ではない独自の文化を形成するのが漆器の美であります。その意味で日本文化のごときは、何十遍も漆を塗ることによって現在に及んでいる例だといえましょう。 歴史の研究では、ここのところをよく見分けることが大切です。

 しかし、このような差がどこから生ずるのだろうかと考えますと、その民族の置かかれていた政治的環境や自然的風土なども原因に挙げられますが、はっきりしているのは一般民衆の教育の普及度であります。これはもちろん支配者のあり方とも関係しますけども、例えば日本の社会では非常に早い時代から一般民衆の読み書き、そろばんの能力の普及度が高かった。逆に文盲率の高いところでは、外来の文明は支配者層に利用されるだけで、民衆はそれにあづかりえないこととなるわけです。そのため、キリスト教でも仏教でも、他民族や他文化の地へひろがってゆく時には、純粋に高度宗教の教義をそのまま布教すべきか、あるいは相手の知的水準や土俗的なものに応じて布教すべきかが、きわめて深刻な問題となるのです。そうなりますと、文明というものの民衆への浸透度の差があることがわかり、その根源をさかのぼって研究する必要に迫られます。しかしそれをどこまでもさかのぼっていきますと、さっき申し上げたラテン語や漢字の普及と、それを読めない民衆との話のようなところに行きつき、ついには文字のなかった時代の基層社会がどういうものであったかという研究になるわけです。これを学界では無文字社会の研究といいますが、最近この分野の業績が沢山あらわれることになりました。文字がなくともどんな社会であったかということは、民俗学・心理学・言語学・社会学などの力を借りて想定することが、ある程度は可能なのです。例えば叫び声だとか、ベルの音とか、ホラ貝の音とか、いろんなものが社会生活の規範的役割を演じていました。あるいはまた、土地の売買や交換のときにどういう行為やしぐさが行われたか。血盟とか共同飲宴、誓約とか主従関係、これはみなシンボリックなしきたりであった。日常の社会生活にもこういうしきたりが多いのですが、特に法律行為につきましては法象徴学(レヒツシンポリーク)という学問があるほどです。それともう一つ注目したいのは、地名学。村や耕地や山林などの地名がどこからきたか。大変古い時代からいろいろの地名があったはずです。その地名はどうして付けられたか。

 日本ではそれを日本語の起源との関係で、アイヌ語だとか南方語、あるいは朝鮮語だとか言います。この解明は大変重要で、いまヨーロッパでも地名学が非常に盛んになっております。私は川崎市にあります地名学研究所の顧問をやっているのですが、沖縄とかアイヌ関係の地名の研究が面白い成果を挙げています。また人名(姓)と地名との関係も面白い問題を投げかけてくれます。

 こうした事例のほか、例えば、東西南北の四至(至は境の意)に青竹を立てて、そこへ半紙をぶら下げて御幣の形をして地鎮式を行う。あるいは田の苗代の育成を願う儀礼など、これらはいつから始まったか。何をあらわすのか。そういうシンボリックなしきたりをヨーロッパでも日本でもこれから比較研究すべきだと思います。要するにそうし
た基層社会の研究というものが、これからの歴史研究でもどしどし取り入れられなければならないということになりつつあるのじゃないかと思います。

 ちょっと話の焦点がぼけてしまいましたが、同じことはいま盛んな工業化、あるいは都市化現象の基層社会の比較研究についてもいえるのです。都市化や工業化の基礎、どこでどのような工業が起こり、どこではそう発達しないか。また都市人口の激増といっても、先進工業国と発展途上国とではその内容がちがう。基層またはその前提となる社会にどういう状況があるときにどのような対応と変化がおこるのか。この研究が大切なのです。学界ではこれをプロトインダストリアル・ソサエティの研究と呼んでいます。同時にまた、「現代化」 (モダナイゼーション)とは何かということも、あらためて研究課題となって来ました。

 具体的に言いますと、企業の経営にみられる国民的風土の研究などもそれであります。アメリカも日本もヨーロッパも同じだという理論的前提で企業というものを考えるだけでは、その実態をつかめないという問題にぶつかる。労働意欲についてもいろんな点で、日本なら日本という特殊な社会の持っている文化的な風土が企業の運営にも、労働者のメンタリティーにも影響を示している。これを国際比較することが必要です。それは合理性とか、合理的な理論だけでは割り切れない。企業風土などといわれるのがそれであります。そうだとしますと、日本は日本の伝統的な社会や文化に即したデモクラシーのプリンシプルを考えなければならないことになります。デモクラシーという原理のあらわれ方がちがうわけです。デモクラティックなマネージメント、あるいはデモクラティックな政治というものを日本の文化に根をおろした形でやるにはどうしたらいいか。また日本人の法律に対する意識、あるいは裁判所に対する意識などをみましても、これはヨーロッパ人やアメリカ人とは大変ちがっているのでして、これをどうしてこの風土に根づいたものとして育てるかということは、やはりこれからの大きな社会的課題だと思います。


     社会科学を総合する為のきっかけとなる視角を求めて
          − 「だとさ学問」からの脱却 −

 このように文明と文化、理論と実際を具体的に考えてゆきますと、問題が次から次へ出てくるものですから社会科学を総合するためにはどうすればよいのか、私自身なかなか見当がつきませんが、しかし分化した学問での個別研究のほかに、総合のきっかけになるような視角はどうしても必要であり、その工夫をすべき時にきていると思います。現代に生きる私たちとしては、欧米の学説だけに頼るのではなく、文字どうり地球大的な視野で、多種多様な社会のあり方を比較研究する新しい視点をみつけなければなりません。

 このことをもっと現代的な問題について申しますと、例えば、同じ共産圏といってもソ連と中国ではまるで違う。お隣りの中国が現代化するというときにどういう道を歩めば一番健全であるのだろうか。このことは企業の上でも、じっくり考えなければならない問題です。ただ物を売りつけてもうかるというのではなくて、中国文明をつちかった基層と民衆の社会意識にまで考慮をはらわねばなりません。中国が近代科学文明をこれから受け入れるときには、マテオ・リッチの時代とは違うでしょうし、日本の場合とも違った状況にあるわけです。それが古いものと新しいものとの調和を考慮しながら、そしてまた為政者と民衆の生活を考えながら、どのような社会になり得るかということは、われわれとしても無関心ではありえない。だから一つの基準だけでは測れない社会発展の問題というものは幾らでも出てくるということなんです。

 自分で仲々解答できないことを長々と申し上げましたが、これはこのごろ自分で反省していることの一端を申し述
べた次第であります。そこで最後にもう一つだけ、最近考えていることを申し述べて、終わりとしたいと思います。それはこうです。私ども歴史の研究をやっておりますときに、これはもう一人の力ではどうにもならないことがよくわかります。人間の力には限度がありますから。その限度がどういう格好で限度があり、どこまで広がるかということの反省であります。これは歴史家に限らず、誰でもそうだと思いますが、いろいろ書物を読んだり、経験したり、考えたりしていてほんとうに「理解した」というのはどういうことかと云う問題であります。むずかしい理屈をいっているようですが、これは私自身の体験からの問題なのです。

 ごく一般にはいまの受験生と同じで、ものごとをマル暗記することが勉強であるように考えられていました。学者でも、西洋の学説をそのまま受け入れてこれを講義したり紹介することが学問をやっていることと思っていたわけです。だから、私ども学生時代にはだれそれがこう言った、だれがこう言う説だというようなことばかり並べて講義を終わってしまうようなことも少なくはなかった。そういうのは、私たちは生意気にも「だとさ学問」だと言っていた覚えがあります。「何々だとさ」ということの連続だったからです。しかし現在はその「だとさ学問」をやれるような時期ではありません。

 そうなりますと、学者であれ、皆さん実業界で活躍されている方であれ、なるほど社会に起こることを「わかった」ということの一番根幹にあるものは何だろうかという疑問であります。いまの教育改革の問題との関係でも私はこの問題を考えているのですが、このことについて私見を申し述べて置きたいのです。あるいはそれは間違っているかもしれませんが、歴史の研究、ある時代のある地域の社会集団の研究をしておりますと、私としましては、自分で納得のいく絵を描いてみるということがどうしても必要なんです。絵にならない断片的なものを幾ら知っていたってだめ。それは読んだ知識ではあってもとっさの場合の知恵にはならない。不適切な例ですが、弁慶は勧進帳の文章の形式を「知識」として丸暗記していたでしょうが、何にも書いてない白紙の巻ものをあの咄嗟の場でパッと出して読みあげるということをやったのは「知恵」なんです。だから、知識と知恵とが一緒になるときに実はその行為が生きてくる。こんな風に考えますと、われわれ本を読み、新聞を読み、いろんなことを覚えて本当に納得のいく形でわかったとしてくれる根拠になるものが何かを反省する必要があるのです。

 それは私の考えでは、大体大学を卒業する二十四、五歳ころまでの、各人の子供の頃からの体験だと思うんです。だから大学までの教育で大切にしなくてはならないのは、環境の問題、とりわけ人と人との関係体験の問題であります。子供のころ自分の育った田舎の山や川、自分の村や町、自分の親戚、自分の家族の人たちとの具体的な体験、あるいはかなりの冒険をしながら泳いだり、山へ行ったり、喧嘩をするための道具をつくる木を切ってきたり、山バトやヒヨドリをワナをかけて捕ったり、そうしたいろんな体験が各人にはあるわけです。それから、あの人は非常にいい人だった。上の学校は出ていないけども村のことをよく知って人望のある知恵者だった。貧乏だけど温い人だった。あの人は金持ちだけど因業おやじだったとか、あるいは、村にいながら町へ出て株をやってもうけ、大きい顔して帰って来て村人に批評されたとか、まあいろいろな体験があるわけです。また暴風雨や洪水などの恐ろしい体験もあります。私たちはそういう体験を思い出すことが大切なのです。自然についても全く同じです。われわれ夢にみる川は、ライン川や長江などではなく、そのほとんどの場合、やっぱり自分の田舎の川。山でもそうです。そして年をとればとるほど、少年時代の体験が夢に出て来ます。かじ屋もおれば豆腐屋もおる。酒屋のおばさん、下駄の歯を入れていたおじさんもいた。屋根ふく特技をもつおじさんもいた。うれしかったこと、悲しかったこと、くやしかったこと、みな同じです。

 そういう地域社会でのきわめて具体的な豊富な体験、それから、大学における人と人、友達や先生との付き合いの具体的な体験で感じたこと。あの先生はこういうときにこういうたばこの持ち方だった。ミカンの皮をむくときはこうであった。あの時先生にこう言われてハッとした、などいろんな体験があるわけです。

 教室で習ったことはおおむね忘れてしまっているんです。何か一言パッと言われたことが一生覚えている。その一言を感じ取るアビリティといいますが、そのアンテナになる基礎は何かというと、私は、これは二十四、五歳までの原体験であり、それを大切にすることだと思います。その原体験が実はお酒で言えば酵母を大切に育てるような若者をつくっていく。その酵母がつぎつぎと発酵して、書物で読んだもの、新聞で見たもの、あるいは自分が社会生活の中で感じとったものとの間に、交互作用を起こし、その酵母を発酵させて、感情移入の作用を拡大してゆき、そして社会の動きを自分なりの絵として理解しようという人間が出てくる。それがほんとうの「理解」なんです。過ぎ去っていくその場、その場の事件を幾ら知っていたって、それはなかなか自分の教養にはならない。自分の原体験に根ざした酵母を可能な限り広く深く育てようと努力する生き方が大切ではないかと思います。そういうのでないと、いくら書物を暗記しても、それは「だとさ学問」なのです。

 そうだとしますと、ここでかぶとを脱がねばならないことがあります。それは私なら私だけの力でわかる領域というものが、きわめて限られたものだという反省です。しかし、これだけしかわからないということを知るためには一生涯死ぬまで勉強しなければなりません。もうこれでいいということは何もないんです。できるだけ酵母による感情移入の交互作用を拡大させて世界の諸領域に起こる事件や過去の出来事の意味を自分のものとして統一的に理解しようと努める。それを私の場合は歴史研究を通じてやれるだけやってみようとしているのです。しかしこれは一人で世界史の絵など描けるものではありません。そこで何かの視角を定める必要がおこります。その一つの視角がいままでお話ししたようなこと、つまり文明と文化という観点から共同して研究できないだろうかということになるのです。
 例えば社会科学の総合をねらう一橋大学の先生方が集まって、そういう問題を議論してもらえないだろうか。ほかにいろいろの視角や視点がありましょうが、その一例を申し上げた次第であります。これはヨーロッパのある知識人が言ったことですが、個人も国も面白いもので、できるだけ外へ自分を広げようという力と、自分の中へ閉じこもろうという心とが共存している。国の場合には、それが外へ広がるときには国際的な力の作用となり、内側へこもると国粋的な心となる。ところがこの国際性と国粋性というものをどういうふうに調和させていくかということがとりもなおさずこれからの世界の平和を維持するための哲学的課題である。

 ですから、一番最初申しましたように、スイスだとかルクセンブルグが現段階では民度の高い水準にあるよい社会だというのは、どういうことか。これからの社会科学をどういうふうに総合的にやっていくか。その一つの例として、歴史の中で文明と文化というものの持つ関係を挙げたわけであります。世界中のことが情報としてわかる現代でありますから、相手の諸文化の尊さというものを理解しながら、しかもその中からどんな新しい社会科学の理論が出てくるのか。それが一つの理論でつかみうるのか、それとも比較の理論になるのか、そうしたことを共同研究すべきだと思います。

 
もしそうだとしますと、話がちょっと飛躍しますが、そしてこれは私だけの長年の考えなのですが、学問の一番基礎になるのはやはり、教養課程、私どもの大学でいえば、昔の予科での学習、すなわち哲学、史学、文学というようなものの教養を徹底的に修得させ、考える若者を育成することだと思います。そしてその上で政治・経済・法律などの社会科学の勉強に進ませる。そうでないとフィロソフィのないコマ切れの単位修得者ばかりになる危険がある。すぐ役に立つ知識も大切ですが、その根底にある知恵を養ってもらいたいのです。いまは自然科学でもこのことに気づいて、いろいろな工夫がおこなわれているほどです。自然科学だけが披行的に進み、社会科学がコマ切れの知識となってしまったのでは、いよいよもって文化の断絶、世代の断絶という由々しい事態を招きかねません。

   むすぴ

文明と文化というものの関係を私のような視角から考えますと、そこからは歴史学と社会学というものを根幹とした学問体系が出来るように思います。人間は本来社会的、歴史的な存在ですから、まずその基礎を押さえ、そこから政治や法律や経済、あるいは商学や経営学などいろんなものが分岐して専門科学となる。
だから、これからは外国へ行く人が益々増大するわけで、それ自体は結構なことですが、私のいう文明の大波だけを見ないで、相手の国の国情なり、歴史なり、民族のものの考え方、つまり文化の特質を知ろうと努めてほしいのです。

 私は理論的な考えは全く不得手なものですから、なかなかうまくまとめられないのですが、要するに一つの見方をお話し申し上げ、そこからどういう理論ができるか、そこでどういう実証的操作が必要かを示唆したかったのですが、具体的地域研究の実例を示すことは、この講演では出来ませんでした。一橋大学の学問に対する強い関心を抱きつつ、私自身の勉強の過程で日ごろ考えていることの一端を申し上げた次第であります。
御清聴ありがとうございました。



[質疑応答]

−ー無文字社会の研究ということでございますが、日本の場合、いわゆる縄文時代というものがあります。こういうものを研究することの価値と現状、現在どういうふうになっていますかお聞かせ願いたい。

 増田 日本における無文字社会の研究というのはまだそれほど進んでおりません。

ーーどういうわけなんですか。非常に根本的な問題だと思うのですが。いまのお話で世界的な大変いいお話なんですが、足元の、要するに日本の縄文時代です。これの研究というのはまだ十分でないような気がいたしますが、そういう価値はないものであるのか。

 増田 それはアフリカやパプアニューギニアなどの原住民の社会を研究することからはじまったのです。日本の縄文は土器の文様であって、文字ではありませんが、しかし日本の無文字社会も、そうした出土品を手がかりにこれから研究が進むだろうと思います。

ー 結局それが縄文になって日本の現在になってきたわけでしょうけど、やはり日本人のルーツといいますか、いまのお話、世界的な文化論ですが、そういう足元の研究がどうして日本の場合行われないのか、ちょっと疑問なんです。
余り価値がないものなんですか。

 増田 いや、決して価値がないなどというものではありません。大いに必要です。谷川徹三さんなんか、だいぶ思い付きの点もありますが、芸術様式として日本には縄文式と弥生式の文化がコントラストといいますか、対照的な芸術意思として存在したといわれます。そしてそれが現在においても生きているというのです。つまり上方の文化、上方の芸能というものは弥生式的であるけれども、東北の芸能の中には縄文式要素が強い。あのナマハゲなんかもそれだというのです。これは一つの着想としては大変面白い考えです。しかし縄文と弥生というのは時代的にそうはっきりと前後関係で言えるのかどうか。これは今後はもっと正確に出土地域と年代決定を関連づけて研究することが必要でしょう。いま日本史で問題になっておりますのは、北前船などにみられますように、東北地方が案外古い時代から発達した地域であったという研究です。

 それは、あと少し下がりますと北海道なんかからたくさん中国の貨幣が出ますし、函館という地名にみられますように「館」がたくさんあったことがわかり、そこからいろいろの発掘品が出ます。中国の陶器も出ます。さらにまた東北地方にあった柵、柵跡、関所跡なんかからも出土品が多いのです。そしてそれの中には決して西日本のものに劣らないほどのものがある。こうなりますと、日本史の姿というものは変わってくる。いまおっしゃる弥生式や縄文式の土器、さらにさかのぼって石器時代。いままで日本には旧石器のものはないと言われていたんですが、最近はあちこちで旧石器のものが出だしましたから、無文字社会の問題はそれとのつながりでこれからの研究課題となりましょう。

 一般的に申せば、いままでは農耕社会というものに重点を置いて研究されて釆ましたが、そうじゃなくて、海上や山の中を歩き回って物資や文化の交流の役割をした漂泊の民の研究も非常に進んできています。だから、十年、二十年たちますと日本の社会史の構造は大幅に変わってくると思います。何と申しましてもいままでは中央の記録史料で歴史を書いていましたから、そうじゃない視角からの歴史像が出て来たわけです。
こんな次第で特に日本海の沿岸にいろんな面白いものが出てくる可能性が大きいのです。先史時代の大陸からの影
響の名残りです。いま丹波から丹後、越前などにかけての神社の祭神や儀頑の研究が組織的に行われていますが、それだけじゃなくて延喜式に出てくる神社の研究をもっと全国的・組織的にやり、民俗学との関係を調べるべきでしょう。仏教伝来以前にさかのぼっていくと、祖先崇拝とか道祖神の原型といったものにゆきつきます。また一方ではシャーマニズムの世界になってしまう。シャーマニズムの世界史的な比較研究はとても面白いと思います。そういう社会から高度宗教が出てくるのはどういうことがきっかけで、どうしてこういう広がりを示したか。ところが宗教史の専門家は仏教は仏教、キリスト教はキリスト教というふうに、それぞれの教義のことばかり論じられる。私は高度宗教の成立の過程をそれに対応する基層的諸文化との関係で研究してほしいものだと思います。知識人がインテレクチュアルにものを読んで議論することはできます。しかし、一般民衆はそんな難しい理屈は何も知らないんです。キリスト教でも仏教でも教義のこまかいところはとても難しいですよ。しかし民衆はそんな議論でなく、何でもいいから南無阿弥陀仏といえば心の平安が保てるという段階にあるわけです。そうなりますと、その心境とか宗教心というものが、どういうところに根ざしているのだろうかが問われなければならない。つまり私のさっき言った酵母となるような原体験とどうくっついているかということです。それはいわば心性、すなわちメンタリティの研究だといえます。

 余談になりますが、昨年、大変面白い書物を出した舟田詠子さんという上智大学出身の方がおられます。まだ会ったことがありませんが、この人が長い間アルプスの山の中の寒村に住み込みまして『アルプスの谷に亜麻を紬いで』(筑摩書房)というすぼらしい本を出しているんです。

 これを読んでみますと、ヒットラーが出て今度の戦争が終わるまでチロルの山の中の生活というのは中世そのままなことがわかります。結婚式から葬式まで、まったく中世社会のようなのです。泰西の名画を見ると、死んだ子供を描いてある場合、からだを亜麻布でグルグル巻きにしてあるのをみることができます。このしきたりが残っている。亜麻布というものが、何につけても大変大事なのです。それをどうしてつくるかということまで書いてある。それから、かまどに対する信仰とか、パンの焼き方とか。

私はああいうのを読みますと、ラテン語の史料から推定するよりはるかに具体的で面白いと思います。こうしたデータはどんどんこれからふえて来るとよいがと念じています。

 その意味からしますと、私はやっぱり、柳田国男という人のやった仕事や一世紀以上前にグリムがやった仕事というものが、われわれに残した意味は絶大であると思います。ちょっとゲテモノ的歴史と思われるかも知れませんが、私にはこうしたことが発展段階説なんかより、はるかに具体的で面白いのです。

ー−文明とか文化という言葉が使われ始めたのはいつ頃なんですか。

 増田 さあ、正確なことは調べておりませんが、「文明」とか「文化」という年号はずっと昔からありますが、われわれが使っているような意味では、やはり幕末から明治の頃にできたものと思います。田口卯吉は文明開化といっていますし、福沢諭吉には『文明論の概略』という名著がありますから。左右田先生の「文化価値」という言葉は、一橋のわれわれにはなじみのものです。

ー−文明開化とか。「二十世紀の文明を」というような、われわれの一橋会歌にもあって、ああいう形で。文化という言葉はわりあいに新しいんじゃないの。文化会という言葉を使って、われわれ大学に入った大正九年ごろ、大分問題になっていましたね。

 
増田 それは、つまり十九世紀のヨーロッパでは、特にドイツを中心にクルトァーという言葉がもてはやされましたからね。

ー一やっぱり訳語ですか。

 増田 もちろん訳語です。文明開化という言葉があるものだから、くっつけて文化になったんでしょう。それはとにかく漱石がさきに申したようにああいう受け取り方をしているのは、やはりすごいと思いますね。

 よく考えてみますと、いまのお札に出ている人たちというのは、最もよく外国を知っていて、しかも最もよき日本人の例なんです。福沢・新渡辺・漱石の三人は、ヨーロッパと東洋、特に日本を最もよく知っている人なんですよ。

ー− 日本を愛している。

 増田 そう、東洋を愛し日本を愛している。だから、そういうものを目標にするということが、先ほど言う民度の高い国民になるということだと思いますね。それは聖徳太子ももちろん偉いですよ、その点では素晴しいと思いますけれども。何とか大臣なんかよりはるかに。(笑)お札に肖像を入れるんなら、いまのお札の三人はやはり何かを示唆していますね。

ー− 増田先生のお考えにはずっとある程度フォローアップしてきたつもりですが、きょうは集大成を承ったようで大変感服いたしました。ありがとうございました。


 御講演からちょっとはずれるかもしれませんが、「一橋の学問を考える会」にずっと出席していた者の一人としてこの際新井先生に心からなる感謝の気持ちを一言だけ申し上げたいと思います。

 大変どうもありがとうございました。

   〔拍手〕

 これでおしまいになってしまうというのではあんまり惜しいので、また何かの格好でこういう種類の会をおやりになるチャンスをつくって頂きたいと思います。ずっと出席していた者の一人としての気持ちとして申し上げたいと思います。


 新井 時間がまいりましたのですが、せっかくいま石川さんからお話しがございましたので、私の感想をちょっと申し上げさせでいただきますと。一橋の学問、一橋は百年以上の歴史を持っておりまして、その学問をわれわれ、わずか六年で追っかけてきたのでございます。長い人類の歴史などと大げさなことを言わないでも、一橋の学問百何十年を六年間でやりましたものですから、本当に一コマにすぎないかと存じます。しかし皆様の大変な御協力で、また学校側の教授方の御協力もありましてここまできたわけでございます。

 これから日本経済、われわれは二十一世紀へ向けてよほど考えていかなければいかんと思うんですが、そのもとはどうしても本質的な問題を窮めていくことではないだろうか。それはやっぱり学問だろうと思うのです。

 そういう意味におきまして、学問の生命、一橋の学問の無限へ向かっての長さを考えますと、実はきょうは最終回と申し上げて、皆様こうやって大変お集まり願って本当に感激にたえないのでございますが、私自身としましては、ただ歴史の中のほんの一コマを皆様とともに担当したわけでございまして、これから先ますますエンドレスにこういう学問を考え、そういうことは続けていかなきゃならんと思っているんです。

 実は先ほどどなたかと笑い話をしたんですが、「学問を考える」という題だけれども「学問を楽しむ会」にしたらどうだろうかというふうに私は申し上げたのでございますが、そんなような心境でございます。

 いずれにしましても六年間大変御協力頂戴いたしまして心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

                                          (昭和六十二年四月二十四日収録)