一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第六号] 一橋リベラリズムについて 一橋大学名誉教授 高橋 泰蔵
(アインシュタインの来校・講演)

   はじめに

 
本日はお呼び出しがございましたのでまかり出ました。このように大勢の方がお集まりとは思いませんで、座談的なお話しをと考えてまいりました。また一橋リベラリズムについて」というような題を一応お伝えしておきましたが、それはどのような内容になってもよいというお話しでしたからでした。実を申しますと、むしろ皆さんがご在学中にお持ちになりました印象とか思い出をお伺いいたしたい、その方がむしろ後代への参考になるのではないかと思ったからであります。その上、私よりも若い方々ばかりと思っておりましたところ、大分先輩の方がお見えで恐縮に思っておりますが、それだけに 「一橋の学問」ということをお考え下ださる方の多いことをうれしくも、心強くも存じます。私の専門は金融論でございましたけれども、そういうことではなく、もっと、ある意味では一般的な、また漠然としたことを申し上げることにならざるを得ないと思いますが、ただいま申しましたように、皆さんの思い出、ご感想を伺いたいというのが中ばでございますが、話の糸口という意味で二、三の私なりの思い出、感想を申し上げたいと存じます。多少、用意いたしましたメモを持参しましたが、小人数の方とのお話と、こんなに大ぜいの方を前にしてのお話と、内容は変わりませんが、ただ多年の癖で、多少講義口調になるかもしれません。その点はご容赦を願います。

 私の現役時代の講義というのは、せいぜい二、三十人の出席を得ただけでございます。こんなに大勢の方を前にしてお話ししたことは実はございませんでした。私が大学を定年でやめましてから十二年になりますので、現役時代には考え、お話ししませんでしたことをお話ししたいと思っております。そして皆さんのご感想、ご批評をいただければ幸いだと存じます。



   日本の学界をりードした一橋

 一橋リベラリズムということは、実は私には数言で尽きるものであります。それで、その前置きのようなことを少し申し述べさせていただきたいと存じます。

 一体に、日本の学問、西欧風の意味の学問が明治以来のことであることは申すまでもないことでございますし、そして横書きのものを縦書きにすると。いいましても、最近では大変横書きのものが多くなっておりますことは皆さんもご承知のとおりでありますが、申し上げます趣旨は、翻訳的なもので、それも自由貿易主義か保護貿易主義かというような政策的な見地からの翻訳、あるいは翻訳的なものでありまして、ドイツ歴史学派のリストや、イギリス自由主義経済学の代表者としてのミルの翻訳、抄訳などが明治の初期からありました。日本の学問、経済学がこういう翻訳そのものだけでないにしましても、先進国ででき上がったものの輸入的な、いわば学問上の後進国だったという状況から始められましたことはいたし方のないことだと考えます。それは必ずしも日本に限ったことではありません。
アメリカでも、先進国ででき上がった学問の輸入ということで始まっていたようであります。十九世紀の後半から二十世紀の初めにかけて、いろいろな国のいろいろな学派の輸入から始まって、一種の混沌時代ということができるかと思います。その中からアメリカらしいものとして芽生えましたものがヴェブレン(一八五七〜一九二九)から始まります制度学派(インスティチューショナリズム)であったといいうると思います。それを継ぎましたのが『景気論』で有名なミッチェル 一八七四〜一九四八)ですし、最近ではバーンズ―これは皆さんご承知だと思いますが、ナショナルビューロー・オブ・エコノミックリサーチのプレジデントや大統領経済顧問委員会の委員長、フェデラル・リサープ・システムのプレジデントを勤めたりしました−等が制度学派のその系統であります。その意味では、アメリカの実際政策の中枢を担ったのはその人たちであったといってよいと思います。具合の悪いところがあれば改める、修正してゆくという、一種の実利主義といいますか、実務型の経済思想、プラグマティズム的なものということがいえるかと思いますが、アメリカの経済学はある意味で相変わらず輸入時代で、ケインズ理論の輸入と修正というのが主流であるといえると思います。

 そこで本論らしいものに入らせていただきますが、日本でこういう学問の輸入をやってまいりましたあと、横書きのものを縦書きにするだけではだめであるということをはっきりさせてくださいましたのが、福田徳三先生(一八七四〜】九三〇)や三浦新七先生(一八七七〜一九四七)がヨーロッパの留学からお帰りになってからでありました。経済学というのは物理学のように一つではない、いろいろな国で、いろいろな学派が起ったのは、それぞれの国の国情、国民性、国民的な思考方法によって違うものだということを明らかにしてくださいましたのはこれらの先生方でありました。それが明治の終りころから大正の初期であります。当時本郷の東大の学生が学帽を隠して先生の講義の盗聴 … 大変よいこととも思いますけれども−に来たという、これは伝説ではなくて事実であったようですし、私より先輩の方がよくご承知のことかと思います。そういう意味で経済学に関しましては、一橋は常に本郷を抜いてきた。本郷に先立ってきたということを私どもはいいうる、そういう自信を持ちえたかと思います。

   中山経済学による第二のルネッサンス

 多少といいますか、大変誤解があるようですが、私の学生、あるいは助手時代に、「方法なくして学問なし」「まず方法」ということがいわれました。大変威勢のいい言葉ですので、ある意味で流行いたしましたが、それは左右田喜一郎先生や杉村広蔵先生のいわれたことについての誤解であると思います。同じ一橋をお出になりました私どもの大
分先輩のある学者が、一橋の学問を毒したのは哲学であるというようなことをいわれた方がありましたが、それは誤解であると私は考えております。学問に方法があるべきことは申すまでもないことであります。私は、ある機会に「中山伊知郎先生によって一橋に第二のルネッサンスが訪れた」ということを申したことがあります。それは先生と二人で、どういうきっかけでしたか、お話を伺ったことがありましたが、そのとき先生は、自分はどんどん自分なりにやっていくんだ、方法論は後からついてくればいいんだ、それを理解するために、そこでの方法はどういうものか、ということがあるので、それは後からついてくればよいということをいわれたことがありました。私はそのときに自分の目のうろこが落ちたような感じを持ったことがあります。このことは中山先生を偲ぶ文章の中にも書いておきました。

 これは少し横道にそれるようですけれども、関連したことだと思いますが、ある機会に、それは中山先生、東大の東畑精一先生、脇村義太郎先生、それに私もその席におりましたのですが、中山先生から私に「君らの金融論は少しもおもしろくない。君のところの研究所 − 私は金融研究所に関係をいたしております―で今度翻訳して出したトウークの『物価史』は大変おもしろい。恐慌や不況がある。それに較べると君らのは、少しもおもしろくない」といわれましたので、私は「それは先生の『純粋経済学』のせいです」ということを申しましたら、隣りにおいででした東畑先生が、それみろというような顔つきで笑っておいででした。しかしそのころの東大の若い助手の諸君、私とほぼ同年配の諸君も、中山先生の『純粋経済学』に遭って、初めてマルキシズム以外の経済学というものはこういうものであるということを知ったということを、あとで聞いたことがあります。こういうことによっても一橋の経済学というものがいかに時代の先端を行ったといいますか、ある意味で本郷に一歩先んじていたということの一つの証拠になるのではないかと思いますし、そのことが念頭にありましたので、中山先生のご退官の集まりのときにであったかに申したのが、先ほどの「中山先生によって一橋の経済学に第二のルネッサンスが始まった」ということでした。

   
ゼミナール制度による学風の形成


 私は、四十年余り学生として、あるいは教師として、一橋で育てられ、勤めてまいりました間に、自分はその中におりましたために気づきませんでしたことですが、一橋の学風あるいは一橋の学問を豊かにいたしましたのは、本郷にもどこにもなかったゼミナール制度であったと思います。そこでは自由に議論して質問もできるという風潮、学風が、めんめんとそれによって続けられてきたせいであると思います。このことに気づきましたというか、ああそうかというように痛感しましたのは、実はほかの官立 … 当時は官立ですが、国立になってからもそうですが、はかの大学を出た方で私どもの大学へ来られた、あるいは転任してこられた方から、口をそろえて聞かされましたことは、一橋ほどリベラルなところはない。前にいたところでは息が詰まる思いをした。こんなに勉強、研究のしやすいところはないという感想を私はしばしば聞かされました。自分では住みなれてまいりまして余り意識しなかったことですが、いわれてみれば、ああそうかと驚きもいたしましたし、なるほどと思いましたし、ありがたいことだと思いました。
 この伝統だけは絶やさないようにしたいものであると痛感している次第であります。皆さんも恐らく、この点についてはご同感くださることと思いますし、私と同様に、ああそうかとお感じになるかと思います。いろいろとご感想を伺いたいと思うことの一つであります。

 このことの一つのあらわれと申しますか、あるいは延長と思われますことに、最近よくイギリス病ということが
われます。イギリス人自身もそういっているようですが、それは、イギリスの一流大学というのは、国会議員とか官僚の育成機関でありまして、もちろん私の存じております方にも官界にお出になった方もありますし、それも大変結構なことではありますけれども、イギリスでは実業界に人材を送ることを考えなかった。それがいまのイギリスの凋

落の原因であるということをイギリス人自身も考えているようであります。これも一つの一橋リベラリズムのあらわれであるといってよろしいかと思います。

   終りに

私どもは一橋の学問を担ってきたと申しますと大げさですが、受けついでおりましたことは、これは私だけの感想で、ほかの教授の方々からは、あるいはご批判を受けるかもしれませんけれども、一種の中だるみの時代だったのではないかという気がいたしまして、申しわけがないように存じております。いまの現役の先生方のお書きになったものには、大体目を通しておりますけれども、到底私どもがフォローできないようなものになっているようであります。これは大変喜ばしいことでありまして、私どもがフォローできるようでは仕方がないので、そういう意味では大変心強く存じている次第であります。

 作って来ましたメモがこの辺りで切れておりますので、まことに申しわけないことと存じますし、妙な一橋学問論になってしまいましたが、私の、漠然とした、きわめて一般的な意味での一橋の学問のあり方についての感想を申し述べましてひとまず終わらせていただきます。あとはいろいろお話を伺いまして、後代のための参考になれば幸いであると存じております。

ありがとうございました。


   [質疑応答]

 伊藤 (昭12) きょう初めて出席するので、いままでの各諸先生方がどんな話をされたのかよく知らないのですけれども、一橋のゼミナール制度というものはどういう必要性に迫られて、あるいはどういうことが機運となって生まれてきたものであるのか、先生のお考えをお聞きしたいのですが。

 高橋 これはずいぶん昔からのことなんで、恐らく一橋を出てー―高商時代だったといってよいと思いますが―ご留学になった先生方の留学先がドイツだったことが多く、ドイツでのゼミナール制度を持ち帰えられてお始めになったのがきっかけといいますか、最初だったのではないかと私どもは思っております。最近ではよく何とかセミナーというものがありますけれども、そういったものとは違ったものなので、これはほかの大学には、当時も現在も、私どもの大学にあるようなゼミナール制度というものは恐らくないのではないかと思っております。

 伊藤 私なりに考えることは、一橋というところは元来実学から出発した学校であって、卒業生が社会に出てすぐ役に立つ貿易の実務を覚える、そういうことを教えていくというのか本来の趣旨でなかったかと思うのです。そうすると、そこで毎日の講義だけではなくて、実際の実務というものを学校の演習において取り入れたんじゃないか。そのうちに一橋の学問自体が実践的なことは商業学校で一応教わり、高等商業である程度やれば覚えてしまう。そこで、それだけでは一橋の学問は行き詰まるので、それをさらに掘り下げた理論的なものの方に入っていったというのが、一橋の歴史ではないかと思うのです。先生の研究するそれぞれのテーマというものが異なってくるにしたがって、ゼミ
ナールの内容というものも実務を離れた理論の探究というふうに自然になっていったのではないかと思うのです。

 高橋 私どものころにもよくいわれたのですけれども、私どもよりも先輩の方々がそういうことをあるいはお聞きになったかと思いますけれども、確かに高商時代以前の東京商業学校時代は実務教育ということが主であったかと思いますし、高商になってからもですが、どうも学校を出て実社会に地てみて役に立つのは商品学だけであるということをよく聞かされました。そのころは糸の太さに何番手ということまで講義で教わったということがあったからであると思いますけれども、しかし大学というものは、やはり学問の府であって、学問を研究する、そしてそれを教えるところでなくてはならないということをはっきりさせてくださったのか福田先生、三浦先生、左右田先生あたりからであったのではないかと私は思っております。ある機会にそういうことを申しましたところ、そんなことをいわれた時代があるのですかといわれたことがあります。
これは私事で恐縮ですが、ある年度の試験の答案の終わりに、先生のようなことだけ言っていて一体役に立つんですかということを書かれたことがございます。その方に直接にはご返事することはできませんでしたが、それは学問というものは、こういうものであると考えてやっているので、それが実際に役に立つかどうかは皆さんの使い方いかんの問題であるということを、次の年度の初めにお話ししたことがあります。大学というのは学問をするところであって、すぐには役に立たないかもしれない。都留重人氏からよく批評されたのですけれども、あなたは経済学者ではない。経済のことをちっとも知らないではないか。経済学のことは少しは知っているけれども、経済の乙とは知らな、ほかの方からも経済学学者だといわれますが、私は、社会の一角に大学といぅ一見すぐに役に立たないかもしれない大学というものの存在が認められ、重要視されているのと同じように、大学の一角にそういうのがいてもいいではないかというのが私の反論ですけれども、ご返事になりますかどうか、私自身はそう考えて参りました。

 伊藤 ある本で読んだのですけれども、一橋の学生の中で理論的に深く入っていった人は、商業学校出の人が比較的多いというのです。これは私から言わせるとまことにもっともなように思います。商業学校で大体実務的なことを教わってくる。高等商業へ来てもそれより多少程度が高くなるかもしれないけれども、似たり寄ったりです。それでは何のためにここに入ってきたのか意味がわからないということで、もう一歩掘り下げた理論的な方を一生懸命やるようになる傾向があったのだと思います。いかがでしょうか。

 高橋 これは少数意見かも知れませんね。確かに実務的な科目というか、学科については商業学校で教わってわかってしまっていると言えるかと思います。人によって違いはあるかもしれませんけれども。それでは、たとえば私どもの大学の予科の教育、生活というものが無駄であったか。一体伊藤さんどうお考えになりますか。私はむしろ反論的にお聞きしたいところです。
といいますのは、私は三浦先生からよくいわれたのですか、大学の本科での、ある意味での専門的な教育はだれにでもできる―といっては語弊がありますが、できるのだ。予科が大事なのだということをいわれました。それで、一年と少しですが、三浦先生は学長をおやりになって、あと上田貞次郎先生がお継ぎになったのですけれども、だからおれは予科の講師で講義をするといって、おやりになり、私も傍聴いたしました。あるいはお聞きになった方もおいでかもしれませんけれども、ずっと予科で講義を続けていらっしゃった。そういう意味からいって、何も専門といいますか、余りに専門的になった学問だけが大事だとは限らないと私は思っているのですが、ご質問の伊藤さん自身のご感想はいかがですか。

 伊藤 われわれが学校にいたころにおられた教授、助教授の先生方が、中学時代にはどういう教育を受けてこられ
たのか詳しいことは知らないので何とも申し上げられませんけれども、そういう話があったわけです。私の知っているのは、中山伊知郎先生でも高等商業のご出身ですし、高垣先生も商業学校のご出身であるし、増田四郎元学長もそぅです。そんなようなことによると、確かに商業学校出の人が理論的なことに興味を持ったということは大いにあり得るのではないかというふうに考えるのと、同時にもう一つは、この間たまたま増田元学長の講演(橋問叢書)を送ってもらってそれを読んだのですけれども、その中で茂木啓三郎元理事長が、「このごろ一橋はミニ東大になってきたということがよく言われる。それでは一橋の特色はないじゃないか」といっておられる。ですから確かに初めから理論的なことばかりやっていたのでは東大とほとんど変わりないので、そこに一橋としての特色が出てこないのではないだろうか。一橋の学問というものを考える場合には、建学の精神というものをもう1回見直す必要があるのではなかろうか。それでなければ東大に対しての特色が出てこないというふうに私は思うのです。これは回答になるかどぅかわかりませんけれども、私の感想はそういうことです。

 高橋 ミニ東大という話はよく出るのですけれども・それは学制改革以後地方にたくさん国立大学ができまして、これがみんな学部割りの構成というようなものからいっても東大の真似をしたようなところが多くて多くて、余り意味がないんじゃないかと思っております。そういう意味からいって、旧制大学であった、あるいは大学である以前にも専攻部を含めますと六年制でしたから、大学並みであったわけです。先生方はもちろん表の先生方でありました。そういう意味で、私は決して特色を失っていないと考えております。ミニ東大みたいになっては困ると思っております。

 もうーつは、こういうことを申しては東大の先生方から文句が出るかもしれませんけれども、経済学については決してひけをとらないという自信だけは持たねばと思っております。ただ、私どもが、少なくとも私が現役の時代に果たしてそういうことがいえたかという点については、どうも余り自信がありませんので余り口幅ったいことは申せませんことは先ほど申したとおりですけれども、そういう意味では私は特色はなくなっていない。それがゼミナール制度だと思います。東大の場合には、たとえば法学部一学部が七百人ぐらいだと思いますが、私どもの四学部をあわせても八百人ぐらいで、教官と学生の数の比率からいいますと、教官の人数の比率は確か二倍以上であったと思っております。そういう意味からいいましても、東大では一橋のようなゼミナール制度というものは出来ないと思います。
恐らく皆さんは卒業論文はお書きになったと思います。多分お書きになったはずです。(笑)どういうわけですか東大では文学部には卒業論文があるのは私も知っておりますが、経済学部には卒業論文はないようです。一橋のようなゼミナール制度がなくて読書会のようなものが一年単位ずつであるということは聞いておりますけれども、一橋のようなゼミナール制度、あるいは先生と学生との関係はないんではないか。これは一橋の学風の一つの特色であり、支えになっていると思います。そういう意味では、いま伊藤さんが言われたようなことは少なくとも考えたくありません。

 伊藤
 再三異論を唱えるようですけれども、われわれがいたころ、あるいは高橋先生がおられたころ、その当時の教授の方というものは、大部分が実学というものを根底に置いてその上に理論を積み重ねてきた方が多かったのではないかと想像するのです。それが次の年代に入っていくと、実学ということを離れて理論的なものを掘り下げてきた人が教授になりゼミナールを持っていく。そういうことになっていくと、だんだんと当初の実学的な考え方というものの色彩というものが薄れ、東大と一橋との垣根はだんだんなくなっていくのではなかろうか。ゼミナール制度があって、それを支えているということは確かにあるのではないかと思いますけれども、ちょっとその辺のところで高橋先生のご意見に私は一○○パーセント賛成できないのです。

 高橋 いま「実学」ということを言われましたけれども、学問というもの自体が、私の個人的な意見になるかも知
れませんけれども、本来、生きた経済、生きた人間というものを相手にしての学問なのであって、それを離れては成立しないし、そういう意味では生きた社会、生きた人間を離れては意味がないということは確かだと思います。しかしそれぞれの学問が成立するためには、それぞれの観点から、人間の生活、経済生活、人間の法律生活というものを主に対象にする。それの中を貫いている原理を見つけ出すという意味で成立してきているはずなのであって、実学という意味をどういうふうに解釈されるかは問題だと思いますけれども、私については伊藤さんの意見は、あるいは当てはまるかもしれません。というのは、本の中だけをうろついてきた者でして、都留氏の批評のように、経済学者ではなくて経済学学者だといわれてもいたし方がないのですけれども、そういうのが一人や二人いてもいいではないか、(笑)というのが私のいつも反論することで、何遍かそういうことをいっているうちに、いつか都留氏に会いましたら、あなたにはかないませんよと言われたことがあります。私も大分しっこく応酬したものですから。

 伊藤 私は何も高橋先生に対していっているのではなくて、(笑)そういう行き方があってもいいだろう、それはそれで結構でありますけれども、みんながそういうふうになっちゃうと、どうしてもミニ東大になっちゃうのじゃないかといいたかったのです。

 
 松村(昭12)
 いま先生のお話で、一橋の学風としてはゼミナール制度が非常によく、リベラルなディスカッションによって大きな役割りを果たしてきたというお話がございました。

 もう一つ、イギリスのいい大学はビジネスに人を送らずに、お役人とか政府に人を送った。だからビジネスがだめになった。この二つに関連することで私の意見を申し上げたい。

 一九七九年に縁がありましてケンブリッジのセント・ジョーンズカレッジのフェローのゲストルームに一週間お世話になりました。セント・ジョーンズはアルフレッド・マーシャルの出身校です。夕食は家族のある方でも強制的に一緒にするのですが、その部屋にはマーシャルの額がかかっておりました。私は言葉が不自由ですから、私の隣にはちょっと日本語のできる人を据えてくれました。その方に、何をやっているのですかと言ったら、トールの歴史をやっているということでした。カレッジマスタ1は八十歳に近い方で、この方は地球物理学をやっている。私の前の若い三人ほどの方々は数学をやっている。そのほか、その席には経済学の方、経済史の方、お医者さん等々、それぞれ専門を異にするいろんな方が四十人くらい集まって、毎晩一緒に食事するのです。食事を済ませますと、一時間ほどコーヒーを飲みながら、お互いに話をするという雰囲気の中で、一週間暮らしました。

 そこで感じましたのは、学生時代に上田貞次郎先生のゼミナールでいろんなことやりましたが、私はロシア語でロシア革命史をやりました。当時そういう勇ましいものをやりました。しかし、そういうことが非常にその後の人生にプラスになった。上田ゼミではいろんな話題を聞かされましたために、雑学ということになりましたが。私はセント・ジョーンズカレッジのフェローの食事をしている雰囲気が、上田ゼミと似ている感じがしたわけです。数学者もいるし、物理学者もいるし、その舞台が大きいんです。マーシャルも数学から入ってきた。ところが数学者といえども、そのときの政治情勢をとり挙げて、どう思うかとやっているに違いないのです。ケインズも数学から入りま.した。数学者といえども経済の話、政治の話を毎晩お互いにこディスカッションしているわけです。ですから数学者であろうが、経済学を話しても差し仕えない。あるいは文学者であっても、他の専門の世界に入っていっても決して差し仕えない。

 これがイギリスの学風をつくっているということを感じたわけですが、その席でマスターが私にこう言いました。
 「日本は一橋大学のようないい大学がビジネスマンをどんどん企業に入れるから日本の産業はいい。ケンブリッジ出身者はだれもシェル石油には行きたがらない。全部まずステイツマン、科学者、フリー職業をねらって、ビジネス
に行くのは恐らくだれも希望しないだろう。そのために、イギリスは産業が衰退してしまった。」と。私はそのときはこの発言は皮肉のような感じがいたしました。ところが反対に若い人の話を聞きますと、彼等はなかなかファイトを持って語っていました。「イギリスは第一次世界戟争も第二次世界戦争も全力投球で、一人でそれを背負って戦ってきた。そして現在すでに植民地は全都なくなってしまって、バーミューダーとかジブラルタル、そんなところが僅かに残っているけれども、自分たちはこの歴史の経験―若いですからなかなか迫力がありまして抱負を言ったんだと思いますが―こういう国は歴史上必ず陥没してしまうのだけれども、これをもう一度立て直そうとわれわれは考えている。歴史的な実験をやっているようなものだ。これをわかってくれるか」と若い数学者が私に食ってかかった。

 
私が一橋に期待したいのは、教室の勉強ではなしにそれ以外にゼミナールがあるし、大学もそう大きくありませんから、食事をしたりして、そういう一つの迫力が出てくる雰囲気が必要ではないかということです。私たちは三浦先生、上田先生にしても、非常に迫力を感じました。講義は眠かったですが、ゼミナールなんかで対で話しますと先生に迫力を感じる。それと同じ迫力をイギリスでは感じました。

 高橋 私どもの大変参考になるようなご意見だと思うのですが、大学の先生はそうであっても、大学へ入り大学を出た人の行く先がどうも違うんではないか。そこが一つ問題のあるところだと思います。

 
いまゼミナールといいましたが、これはいわゆる学生だけのゼミナールではありません。私などの時代には東大からは牧野英一先生が見えたりしておられまして、曜日をあわせてということだったかどうかわかりませんが、食堂でいつもご一緒で、そばで三浦先生や上田先生とお話になるのを、若い駆け出しの助教授連中が聞いておりました。私どもはこれも非常に参考になったと思います。

 
拝見いたしますと、きょうご出席の方はどなたも旧制、それも戦前のご卒業の方ばかりのようですが、昔の単科大学がよかったなというような感じを私もときには持たないわけではありません。立派な哲学の先生とか、歴史の先生とかがおいででしたし、そういう講義を聞くことができたのは大変幸せだったと思っております。四学部に分かれたのが果たしてよかったのかどうかということは、いろいろな見方はありましょうが、しかし、私は、、ミニ東大になりつっぁるというふうには考えておりません。

 これは東大の先生方に怒られるかもしれませんが、東大の学長さんは、タコの足みたいに学部が九学部もあって、それ以上にたくさん研究所があって、方々にばらばらにキャンパスがありまして、一体どれくらい把握しているのかゎからないと思います。そういう意味で小じんまりはしていますけれども、私どもの大学はまだ違うと思っております。伊藤さんなんかもよくそういうことをいわれる。大学は出たけれども、まだゼミナールは卒業していないのだという感じがあるのだと思います。

 首藤(大14) 大変古いことでございますが、いま実学というお話がありまして、私の時代のことをちょっと申し上げておきたいと思うんです。

 私が大正九年、大学に昇格するときに、高商の予科の一年から大学の予科の二年で大学ができた当初のことなんですが、そのときにわれわれの非常な関心は余りにテクニックに教育が過ぎていないか。一番よく言われたのがそろばんでございました。そろばんなんかなぜ高商に来てやるのか。あるいは大学予科でそんなものをやるのか。それに関連したような学科目が相当あったわけです。私どもは大正九年に予科二年になりましたけれども、その予科で履修される学問、科目が非常に不満でありました。こんなことでは大学は高商と全然変わらないじゃないか。何が一体大学教育なのかというような不満で、ストライキまでして科目の改正運動をやったのです。それが多分に入れられまして、
その後予科の科目がずいぶん変わりました。大学本科に、刑法の牧野英一先生の講義だとか、そういうような外部の碩学といいますか、そういう方の講義をもってきた―要するに、もっと広い商業、あるいは経済学的な実学というものだけでなしに、もっと広い範囲の学問に触れる必要があるせいうことでした。数学をやろうと、医学をやろうと、商業学をやろうと、経済学をやろうと、それを通じて人格的な形成ができ上がるものだとわれわれは信じていた。

 したがって、当時は、福田徳三博士がやられたことだと思うのですけれども、
アインシュタインが日本にやってきたのです。当時アインシュタインの相対性原理は、われわれなかなか理解ができなくて、福田博士が経済学の講義の中でそういうものがあることを言われましたけれども、その福田先生も理解しておられたかどうかはなはだ怪しいものだと思ったのです。当時の話では、日本で相対性原理を理解できているのは何人ほどだとかいう話さえあった時代ですから。そのアインシュタインが日本に来まして、その道の人はいろんな話を聞かれたと思うのですが、

 
そのアインシュタインを一橋に呼んできて講演をしてもらったのです。(Click)

ドイツ語で話をされるわけですから、われわれはほとんど何のことかわからない。しかし、そういう雰囲気だったのです。アインシュタインの相対性原理の理屈は、単に物理学だけの問題ではないだろうと私は思うのです。

 
ゼミナールもそういう人格形成というような意味では大きな意味があり得る。それはやり方によっては全然だめかもしれませんが、あり得るわけです。そういう意味においてはゼミナールも非常に大事だと思いますが
 私がいま一番不安を感じているのは、一橋大学がほかの大学と全部同じような四年制になって、いわゆる予科というものがなくなってしまったことです。そして高等学校で十分な教育もできていない段階の学生を、大学教育するという場合に、本当に専門の学問をどの程度まで教えられるのか。余り深く行けないだろうし、そうかといって、やはり専門の学問をある程度深く行くことによって学問というものがわかってくるので、高等学校程度の教育をしていたのでは学問が何だかわからないし、したがって研究ということもどういうことであるかわからない。そうかといって学問のもう一つ上に、哲学的なというか、もう一つ広い視野を持たないと経済学自体もまたせせこましいものになってしまう。そこらの調整を現在の大学制度でどういうふうにしてやられるだろうか。これは今後一橋大学として特に考えていかなければならない問題ではなかろうかと私は平素から思っているわけでございます。そういうことから、この会にも一橋の学問を考えるというので、初めから関心を持って出てきておるわけでございますが、そういう点についての先生のお考えを聞かせていただければありがたいと思います。

 高橋 
先ほどから実学というお話が出ているのですが、これは私個人だけではなく、たとえば私どもも予科へ入って簿記を習いました。貸借対照表は借方と貸方が合わなければいけないという考え方。これはどうも私などの考え方の中では、借方、貸方というのは―専門のことになって恐縮ですが―物の側と金の側とがつり合わなくてはいけないのだという考え方がいつまでもあります。これは東大では余りそういうことが育たないといいますか、ないことではないか。たとえば、法律のゼミナールを出たにもかかわらず、一流の会社で経理部長をやったり社長になったりするのが何人かおりますけれども、彼がどうして経理部長がやれるのかなどまよく冗談をいったことがありますけれども、やはり旧制のときにはあったと思います。以後はそういうことにはならない。その点も一つ問題はあり得ると思いますが、これから先の問題でございまして、退役してから十年以上たった者がとやかくいうべきことではないかと思いますが、問題はたしかにあり得ると思います。

 もう一つは、ちょうど学長をやっていたころですけれども、ついうっかりといってはおかしいのですけれども、産学協同というようなことを口にしたことがあります。私の考えている中身も聞かずに言葉だけで、ちょうど学園紛争の始まりかけるころだったせいかもしれませんけれども、大反対をされまして閉口したことがあります。これもアメ
リカ流でも困ると思うのですけれども、ある程度考えていいことではないか。ことに新しく如水会館もできて都心に拠点ができることではありますし、何か考えていい問題ではないかと考えています。

 三宅(昭6) 私は、昭和六年に本科を卒業したあと、なお三年間研究科におりました。その後外務省に入り、外交官を三十六年半務めました。

 この会には今回初めてご案内をいただきましたので、まかり出たのでありますが、今後どれだけ出られるかはわかりません。今日はせっかく出席いたしましたので、僭越ながら、高橋先生に対する質問というよりは、私が平素考えている事柄につき、高橋先生のお話や質問者のご質問などに関連して、私の卑見の開陳ということになるかと思うのですが、二、三の点について申し述べさせていただきます。

 高橋泰蔵先生のお話は、簡潔で、かつ、平明なお話でじたけれども、大事な点は、ほとんどすべてカバーされていたと思います。それからまた、質問、あるいは意見を述べられた方かたのお話も、それぞれその取り上げられた問題点に関する限り、一々みなごもっともだと思うのでございます。

 さて、私が一橋在学中に立派な諸先生方からいただいたお教えやご指導のうち、特に印象に残り、また、今日までも自分に対する教訓としている点が幾つかございます。私は、高垣寅次郎先生の貨幣・金融論のゼミナールに入れていただき、高垣先生から、学問研究においてはもちろん、その他、人間形成、そしてなおまた一身上のことについても、いろいろと貴重なご薫陶、ご指導と親身のお世話とにあづかり、今なお深く感謝いたしている次第でありますが、同時に私は、研究科在籍中にも、「商業政策」や「商業学」に対する興味からも、また、外交官試験を受ける関係上も、試験委員をしておられた上田貞次郎先生の講義とゼミナールにも特に出席させていただいたのです。上田先生は、むづかしい学問上の原理や実際問題を自から十分に研究、咀嚼された上で、それらを噛みくだいて、そのエッセンスを、簡明かつ平易に、わかりやすく学生や社会に教えておられました。更に、みんなの基本的心得として、講義の中で上田先生が申されたことの一つに、「世間には、『自分は何々を専攻しているから、ほかのことはよく知りません』などというような、いかにも専門家ぶったことを言う者が往々あるが、そういう『専門』といっても、それほど大したものではなく、そもそも、君たちはいわゆる『専門』 のことを勉強し、研究すると同時に、更にもっと広く、ほかの物事をもあわせて勉強し、研究し、大局的、総合的に考え、判断して、行動することが大切である。」という大へん有益な御説話がありました。上田貞次郎先生は、ものの考え方や学問の仕方とスケールの大きい、また、度量の広い方であったと、それらの点でも敬服いたしております。先生の申された前述の点は学校でも、実社会でも、非常に大事なことであると考えます。

 実社会でのことについて、一、二の例を挙げますと、日本の政治家は、一般に、哲学の素養や自からの 「人生哲学」に欠けているように見受けられます。したがって、スピーチなどをしても、内外の人びとの心を打つものが余り無いのが通例です。また、パーティなどの席で、外国人と会話をする場合に、政治や経済や、まあゴルフくらいのことの話はできても、もっと広く、あるいは深く、歴史、哲学、文化・芸術、社会などの話は余りできないというのが多いようです。そういうことについての自からの話題や、そういう話をする心得や素養が足らないのでしょう。なおそれから、一般的に見て、外国語を本当によく話せる日本人は極く少人数です。ですから、外国人が日本人−−政治家でも実業家などでも―と宴会などの席で隣り同士になると、退屈してしまうということです。殊に、会話の相手が婦人でありますれば、政治上の話などは、宴会の席ではエチケットとしてしてはならないことになっておりますので、やはり、お花やその他自然のこととか、文学・詩歌、音楽、劇、絵画、彫刻、陶磁器等々―文化・芸術の話とか、
歴史、当面の社会問題とか、スポーツその他趣味のこととかについて、話をして、相手に会話をエンジョイさせ、好感を与えるようにする心得が必要であります。その上、さきほども一寸申しましたように、日本人は、長い間鎖国していたせいもあるし、また、はにかみ屋ということなどもあってか、外国語の会話が下手なのです。例えば、会社の社長さんや重役さんたちでも、貿易ミッションなどの用事で外国に行かれても、通訳をつけなければ、実のある重要な話はできない人が多いというのが一般的な情況だそうです。

 先刻、質問者のお一人から、英国の政治家その他の指導者たちがかつてケインブリッジやオックスフォードなどの大学にいたとき専攻した学科についてのお話が出ましたが、私は、外交官の駆け出しで最初の海外任地−英国に参りました時、研修期間中に、オックスフォード大学でも聴講し、また、ケインブリッジでは夏の間カレッジの中に住まわせてもらいましたので、お話に出ましたあそこの学風、雰囲気や学生の専攻する学科等のことについてはよくわかるのです。英国では、大学で数学や物理、化学や哲学言歴史などを専攻した卒業者のうちからも、数多く政治家や外交官その他の官吏等になっておりますが、彼等―少くともエリートの指導層は政治外交のことも、法律のことも、経済や貿易などのことも併せて大体よく知っていて、結構、役目をこなしているように見受けられます。それは、英国の指導者たちは総体的に、広い知識と堅実な総合的判断力とを、身につけているからだと思います。

 先きほど、質問者のお一人が触れられた、いわゆる 「イギリス病」 のことに関連して、私見の一端を申し述べますと、およそ、この種の問題を正解するためには、古代から現代に至るまでの世界の文明史や国際政治史等を研究し、その実相を省察して、歴史的教訓を読みとることが基本的に極めて必要と考えます。すなわち、例えば、英国がどうして今「イギリス病」になるようになったのか、また、米国がどうして国際政治・経済・軍事上、その相対的優越性を失うようになりつつあるのか、他方また、どうしてソ連がポーランド等その衛星諸国の内外の事態にだんだん手を焼くようになってきているのか、などという基本的重要諸問題を的確に解明し、悟得するためには、古代の、あの強大であったギリシアやローマ帝国などが滅亡するに至った経緯や原因等を、現在および将来に対する教訓として、英国や米国等はもちろんのこと、世界の各国、各国民、各民族、特にそれらの指導者たちがこの際もう一度学び直し、よく考えてみる必要があると思うのです。ご承知の通り、古代のギリシアやローマ帝国という、あの高い文化・文明と強大な軍事力をもっていた国家は、それらの影響力と物理的な力とにより、周辺の諸国・諸民族を征服、支配していって、大帝国を築き上げました。しかし、さてそうなると、その後は、ギリシアやローマの文化、文明等がその支配下の国々や諸民族にもだんだん伝播され、普及していきました。つまり、「ギリシア化」や「ローマ化」が進展していったのです。 ― 
哲学、思想、科学・技術、経済、法律制度、軍事の知識、兵器等々において。その結果、時が数十年、数百年経つにつれて、ギリシアやローマ自身の相対的な優越性が漸次低下し、遂にはほとんど失われてしまったのです。そのことが古代ギリシアやローマ帝国滅亡の大きな原因の一つになったと考えられています。これは、わが国の卓越した哲学者で、文明史、世界思想史等の最高権威者である高山岩男博士の予てからの見解です。そこで、次のようなことが言えましょう。若し、古代ギリシアやローマがその固勢が盛んであったうちに、自ら、周辺の被支配国家や被支配民族よりも、更に数歩づつ、思想、科学・技術、産業・経済、法制、遺徳、生活様式、その他文化・文明を進歩させてゆく不断の努力をしていたならば、その絶対的優越性はもとより、相対的優位を維持し、発展させてゆくことができたであろうと思われます。ところが、実際には、そういう創造的、発展的思考や努力を怠り、「太平の夢に耽っていた」から、内部からの崩壊の要因と外部からの援略などとが相まって、遂に滅亡するに至った次第です。
英帝国は、第二次世界大戦の直接的および間接的の結果として、自治領の或るものや植民地を失って「昔日の面影」をとどめなくなったということは確かに事実ですが、いわゆる「イギリス病」という現象は、ただそれだけに因る
のではないと私は考えます。

 英国や米国が国際政治、経済、科学・技術、文化・文明等において、その相対的或いは絶対的優位を回復し、維持しょぅと欲するのであれば、先づ自らが、そして他の諸国と協調して、絶えずそれらの分野における創造的、建設的革新・進歩や、産業構造、貿易構造の再編成等による生産・経営の効率の向上への不断の努力・意欲的な勤労に打ち込むことが歴史的必然的に必要不可欠だということが言えましょう。先きほどの発言者のお話では英国の新しい世代のうちには、そういう革新的意欲や気運が出てきているということでありますが、いずれにしても、私がここで言わんと欲する要点は、学者も、学生も、実際家も、広い知識、深い思索、透徹した洞察力、そしてそれらに基づく総合的、大局的判断力をもつようにベストを尽さなければならないということであります。

 最後に申し上げたいことは、前述の諸点にも関係があるのですが、現在、日本の中等学校はもとより、高校や大学では、上智大学とか、国際基督教大学など極く少数の例外 − そこでは外国人の学者を多数招聘して教授や講師等になってもらっております ー を除いては、全般的に、外図人の教師は甚だ少数であります。私らの時代の方がむしろ遥かに多かったのです。私は、一橋に入る前には神戸高商で勉強していたのですが、外国人の先生は、十人以上おられ、授業の四分の一くらいは、外国人の先生による講義、あるいは日本人の先生の外国語による授業でありました。中等学校であった京都一商でも、英会話の授業のために、英国人の先生がおられました。そういう点で、現在の状況は明治時代、大正時代、戦前の昭和の時代に比して、明らかに「退歩」だと、私は予てから思っております。

 ご承知の通り、そもそも、わが国の学界その他では、一般に学閥意識が強く―尤も、一橋では、その弊は最も少く、結構なことでしたが―先づ、学校内部のことを外部から見て推察しまするに、外国人の有能な教師を多数入れていたのでは、自分たち日本人の教授、助教授らの、それこそ「絶対的または相対的優位」が低下し、或いは失われてしまうようになるのではないかとの危惧の念や、何とはなしにそういった閉鎖的な雰囲気があるのではなかろうかとも憶測されます。私は、そういう狭い了見や閉鎖的な考え方や偏見が速かに払拭され、現代のこの国際化の時代には、むしろ、明治時代、大正時代、昭和の前半よりももっと多数の外国人の学者を、教授、あるいは少くとも講師として、各大学や高校等が招聘して、外国人の先生による講義や日本人の先生の外国語による講義を大々的に増す措置を講ずることが大へん必要であると信じております。

 高橋 私のお話しいたしましたことは、大変漠然としたようなことでございまして、私のお話よりも、きょうご質問なり反論なりでお話しになった方の方がむしろこれからの一橋を考える上で重要であることと思います。どうぞそちらの方に重点を置いた記録を(笑)お願いします。
                                    (昭和五十六年十二月十八日収録)




高橋泰蔵
 明治三十八年生まれ。
        昭和 四 年         東京商科大学卒業
       昭和十七年         東京商科大学教授
       昭和二十四年        一橋大学教授
       昭和三十六年        一橋大学学長
                        (三十九年退任)
       昭和四十四年         定年退職

主な著書 『経済社会観と貨幣制度』(青林書院)
       『国民所得の基本問題』(東洋経済新報社)
       『貨幣経済的循環の理翰』(有斐閣)
       『共編・体系経済学辞典』(東洋経済新報社)