[一橋の学問を考える会]
橋問叢書 第七号
一橋の法学を考える 一橋大学名誉教授 吉永 栄助
1 伝統の意義について
本日はお忙しいところをおいでいただきまして、日ごろ私が考えておりますことをお話し申し上げる光栄を得ましたことを大変うれしく思っております。たくさんのお話し申し上げたいことがございますが、なるべく固いことは申しませんで、砕けたことだけを申し上げたいと思っております。
ただ、最初の「伝統の意義」 につきましては、これはちょっと学問的のことになりまして、最初の五分間ほどは少しかたい話をさせていただきたいと思います。
最初に伝統の意義でございますが、私がここで一つ引用しましたのはトインビーの、「本能がある危機に際して自分を防御する」、これが伝統であるという考え方です。それから、伝統の意義は実はこれだけではなく、本来は伝統はキリスト教的神学的なものから始まり哲学的の思考を経て現代的社会的の意味に到達しました。
神学では「キリストの箴言の言い伝え」をいいますが、伝統というものを哲学的な形で取り上げましたのは、日本、特に一橋でも西南学派の巨匠として紹介されているご存じのヴィンデルバンドでございます。彼は伝統とは「伝わったもの、伝来によって神聖化された道徳及び実践の行動の原則」 であると(一八七六年)いっています。
しかし今時の定義では、動的のもので、文化所有と道徳観を次代に引き渡すことからして進歩の理念のための緊張した関係が生起する、つまり伝統は単にこれを伝えるだけでなく、次代の緊張を促す関係からして、進歩の理念に向うものがあることに意義があります。何れにせよ、危機だとか緊張した関係において自己つまりここでは一橋の伝統を守り、進歩をもたらす所の伝統というものを考えてみたいと思います。
もう皆さんの方がよくご存じの通り、一橋にとって危機とか、あるいは緊張関係というのは、創立から歴史的に見ますと、主なものだけでもまず申酉事件がございます。その次は龍城事件でございます。その次が白票事件もあり、一番私どもが身にしみたのは敗戦による大学の改革でありました。そのときに一橋が、従って学問の伝統がどうなるかと、新制大学の発足に当り本当に心配しました。
予科専門部から六年通して在学した人達は勿論専門部において学んだ人々も、高商から一橋を慕ってきた人々も等しく「危機」もしくは「緊張関係」を強く感じたのでございます。そのときに、伝統というものをどの程度文部当局の人が認識していたのか、しかし懸命の説得によってある程度は切り抜けることができたのでございます。良い大学程結果においてはその大学の伝統が残されました。
以上が大変かたい話でございますが、次に砕けた話で、あることはオフレコになるかもしれません。白票事件が終わった後、私が米谷隆三先生のところに訪ねて行きました。先生は当時、ある人を名指しで、「あの男は伝統を汚し、方々に出しゃばってのれんを下げる男だ」と、米谷さん特有のもっと強い言葉をもってある後輩(私には先輩)の人を槍玉にあげました。そのときに、私は初めて「伝統」というものを米谷隆三先生から強烈に印象づけられました。それが今日まで私の頭の奥底にあって只今のお話しの元にいたっております。これらの「伝統」を手がかりに、一橋の現在の法学部の歴史というものをたどって見たいのでございます。
ここで法学関係だけにしぼります。それは経済学とか商学・経営学とかそのはかの学問領域については、それぞれりっぱな権威のある方がおられますので、すべてその方に譲ります。私は、法学の立場からこれまでの歴史を三期に分けたのでございます。お配りしたレジュメ表をご覧下さい。第一期は商法講習所の発祥から旧制商科大学の発足まで、第二期が旧制商科大学の隆盛 ― まことに隆盛であったと思うのでございます ― から戦争突入を経て、敗戦とアメリカ占領当局による新制大学の強行と一橋の法学社会学部の発足、第三期が、もう既定の事実として新制大学の法学部であります。その現在及び将来については率直な私の考えを簡単に申し上げたいと思っております。
レジュメを見ますと、左側四分の三の欄で「一橋」の法学の歴史を述べ、その右側は帝大法科大学の歴史です。
― これは昔は東京帝国大学法科大学と称した ― これが今の東大法学部の前身でございます。その主な学風をあげます。それから一番右欄に一橋の学問史の特徴を時代的に示すとも言うべきその時代時代の海外の学界の主潮を示す学者の名をあげて関連させました。西欧のこの英独仏の大学者の影響は東大よりも一橋が強く受けるのでございます。
そこでお断りしたいのですが、海外の学界の潮流の参考は、大変粗いことになりましたが、これだけでもご説明すれば大変な分量になりますので、ここでは単にこういう学説の潮流が一橋の学問史において、全般に亙って並行しているという点、つまり私のいう学説継受がなされていたことに目を注いで頂くだけにとどめたいと思います。
2 第一期―実業・実利の目的
まず法律の方から申しますと、やはり商法講習所というものは実業、実利、実習という目的意識の上で設けられました。この「目的」が東京帝国大学の「目的」と違うのでございます。東京帝国大学は初めから天皇の権威の下に設けられました。ですから卒業式には行幸を仰ぐというような天皇の権威を後ろ立てに持った大学に対して、商法講習所は木挽町の鯛味曽屋の二階で生徒は前掛けを締めて講習を受ける。それは学ぶ目的が実利、実習即ち勤倹節約(今月の経営性原則)にあったからであります。
その他のことはもう私が繰り返すまでもございません。要するに商・通商つまり外国貿易によって国と国民を富ます(日本式メルカンティリズム)。こちらの東大の方は維新政府の御用学府を兼ね不平等条約を撤廃させるべく形式的な近代国家を目指す。中身がどうあろうと、六法を備えてさえいれば治外法権の撤廃をして領事裁判は解消する近代法治国家になるであろう。それ以外に外交儀礼の洋風化に及ぶまで、政治目的としたことは周知の通りでございます。
せっかく形だけ国家ができても、国を行政する、あるいは管理(裁判も広義では含まれる)する高級役人というものがなければ運用できません。このエリートの養成が必要であるというので、東京帝大の法科大学は最初から高級役人つまり官僚の養成を目指しました。これが現在まで東大法学部の伝統として続いております。高文の試験の受験率、特に行政科上級行政職は東京(帝国) 大学が圧倒的であります。司法試験についても一、二位にあります。そのまねを一橋がそのままする必要があるかどうかというと、かつて経済官僚の進出を企てた私としてこのことは最後に申し上げたいと思っております。
<英語教育の重視>
それから英語です。この英語の教育というのに大変力を入れてきました。私どもも予科で学んだものでございますが、リーダー以外に原文、原典の講読から英文の小説、論文集(エッセイ類)を手当り次第読める力をつけられました。
ここで英語を通じて実は国際性(どこにでも話が通じる)とか普遍性(外国人との共通な思い)とか世界性への手がかりを得たと思うのでございます。いわば「いざ雄飛せん五大州」への心構へを生涯学習の基本としてたたきこまれました。これは東京帝国大学にはございません。というのは、東京帝国大学は当時から日本語による六法を始め法令の解説と立法の作成でございます。元々は、これら立法解説は先進国たるドイツ・フランスの法典草案をお手本にしました。右の東大の欄にございます。一方の一橋における商の普遍性というのは、最右欄の所に書きましたレヴィンゴールドシュミットの名著 ― これは 『商法の普遍世界史』とも訳しうる ― この書物(一八九一年) が学問的に裏付けてくれます。私は何回も読みました。
つまり古代・ローマ・中世の世界で商法が普遍性を示した史実を、遡って丹念に描いた学術書でございます。空前絶後の名著といわれます。私は一橋大学でも読みましたし、現在専修大学のものを私は借り出しております。また今日でも商・通商・貿易の普遍・世界性が新聞でもよく分ります。
他方、東京帝国大学法学部の方は日本語でなければ行政も裁判もできない。そのためにさき程のドイツ・フランスの民法草案・学説、商法草案・法典、六法などの骨子を殆ど全部日本語に直訳する作業に全精力を尽くしたわけであります。これが今日でも日本語の法律の解釈は事実上の立法者、立案者である東京帝国大学、東京大学、京都大学の諸先生方によらねばならないことになりました。裁判官・行政官がほとんどが東京帝国大学、京都帝国大学系の出身者によって大部分占められておりましたが、そういう高級官僚は日本語で行政と裁判を行うという制約を受けたのに対して、一橋の出身者は海外において英語をもって舌尖三寸でビジネスを行う、非常な自由さがあります。
高級官僚は日本文の諸法律と日本人を相手とするから、従って日本語だけが妥当する国内政治と行政に奉公する。
日本語は昔も今も世界に通じないのです。私は法学についてこれを国内的専断的法律論もしくは方法と言っております。国内だけしか通用しない法律論がここで確立されたのでございます。しかし遡ればその根源はギリシャ以来の西欧文化・文明と特にローマ法にあります。
ところが、先程申した通り一橋の立場には英語という、その当時の世界語を何よりも先づ学んだものでございますから、海外に目を向け「商」を通して世界の到る所に活躍します。国際的、普遍的で、その上先程も申しました「商法」というのが、元来はユニバーサルのものでございますので、これと引き合せますと大変面白く、ここが東大に対して、はっきりした、いわば著しい特色であり伝統の始源と思っております。
<出身者によるイギリス会社法の講義>
東京高商時代の当時の法学というのは、商実習と通商のための最低限度でございました。スタッフは東京帝大出身者で占められ、民商法だけだったとかいうふうにも私は聞いております。その後に本学出身者で大学に残った方は村上秀三郎さん(大二卒大四専攻)で、一橋でこの方が何と日本の会社法でなくてイギリス会社法の講義をされたとか。英法も何も知らない学生にイギリス会社法を教えたのは・当時外国での商売で最も役立つとされたからでしょうか。しかし村上さんは、第一次大戦の好景気に乗りまして、安い大学の給与を捨てて、格段の高給を得て実際界に入ったと聞いております。その後再び弁護士を開業され明治大学の教授になり、「商号」の研究で学位をとられました。村上さんがイギリス会社法を講義したというのも一橋の法学の特色ではないかと思っております。
<最近の外国学説の紹介紹介>
それで、このころからか、それ以前からか分りませんが、一橋では原書・原典によって直接外国の卓れた学説を知る。特に最近の外国学説というものに関心を払う。有名なのは福田徳三先生。アインシュタインが講演すればアインシュタインの相対性理論を入れた講義をするとか―。とにかく最近の学説・思想というものを一橋の学者は逸早く取り入れる。これはお家芸の一つと言えます。
これに対して東大の方は法学部の講座は細分化されどんどん増加していきます。講座が一橋に比べて圧倒的に多く、片や大学法学部、片や高商では、そもそも比較になりません。専問的で細かな、たとえば憲法だけでも三つございます。民法だけで梅、富井、穂積から始まり、三つ以上あります。そのたくさんの専門科目で専門的に大勢がやるということは、われわれはアダム・スミスで習った効率的な分業の利に当ることで外国学外国文化をとり入れるときに大変便利であります。
たとえば私が民法、商法経済法を全部一人でやりますのと民法二人、商法三人、経済法一人と別人でやりますのと比べると、いわば分業の利、ディバイド・アンド・ルール式に狭い部門というところで深く究められるので、東大の諸先生は各々他の専門家の入りこめない自分の領分の権威を持ちます。そういう専門家による教育、これが実はある本を見ましても、これが外国の文化・文明を取り入れるときに最も効率的な方法であるとされています。
<海外の学界の動向1自然法思想>
海外の学界の方を見ますと、このころはいわゆる実定法主義といって法典の解説が主流で、法典以外に法を求める自然法思想というものが衰退しているのでございます。いわば法典の概念の解説で十分といったところです。ところが一橋の場合には、世界のどこにも通ずるという普遍を意図する思想で一種の自然法思想でございます。で講義する日本の六法その他の法律は実定法という国家権力をもって強制しうるものです。権力の行使を正義からはずれないよぅにするため、六法全書の条文のいわば重箱の隅をつつくような解釈をしているのに対して一橋はその時代の地球の宇宙全部にわたる自然法というものを各法分野において求めておるのでございまして、この点がやはり東大とはっきりした違いの一つでございます。
<哲学への憧憬>
そして、その普遍的原理の探求ということから、もう私の学生時代も、その前の時代も、哲学に何となくあこがれるのでございます。私のときは川村豊郎先生はもう亡くなりまして、本多謙三先生が予科で読書会を開きました。私
も参加したのでございますが、そのときはディルタイの哲学でございました。ディルタイの日本訳の本を読むと
いうのですが、私はドイツ語が多少読めたものですから、原文を私はドイツ語のディルタイの全集第五巻をある店から買いました。この本は今でも私の手元にございます(追記、第五巻『生の哲学入門Lの中の「哲学の本質」 ― 一九〇七 ―であったかと記憶します.この部分に栞が入っています).
この哲学的なものへのあこがれと申しますのが、当時の学生の気風でしたが、これがなければ後に申します経済と法律は総合できないのです。哲学といっても難かしいことばかりではございませんで、この点私共の仲間では杉村広蔵先生を私淑しておる者が多いのは、先生の文章は難解ですが、口頭の説明では分るような気にされるからだと思います。後でまた杉村広蔵先生のことも出てまいります。
ここで話が少し飛びます。哲学が何故法学にとって必要か、いやしくも法学と名のつくものを勉強するのには哲学は欠くことができません。哲学と歴史とに無関係なのは実定法主義に徹し、特に現行日本語の六法に自らの研究を限局するからです。日本民法も遡ればローマ法に由来します。そして現在のヨーロッパ法というのはローマ法の継受でございます。日本は過去も現在も恐らく将来もヨーロッパ法を通じてローマ法理の影響を受けましたし、受けましょう。
そのローマ法が何故このようにヨーロッパ全体にわたったかは、それは一にギリシャ哲学と結びついたからでございます。もし実際的のローマの法、つまりその法令、告示、判決、学説だけであったならば、狭いローマの国の法律文化に終わったのでございます。哲学はギリシャに始る。一橋でも山内得立先生を始めその門下生は勿論、またおよそ哲学をやる人はみんなギリシャから始める。そのギリシャ哲学とローマ法が結び合ったから、その法理、普遍性というものを得たのです。そういう意味で一橋で学問をする人にとって法学を含めて私どもは本能的に哲学にあこがれるのです。
この中の方々もご聴講されたことと思いますが、私どもの予科のときは紀平正美先生がおられまして学生の人気を集めておりました。紀平先生の講義は土曜の朝早いのでございますが、朝早いにもかかわらず、寝坊の私も、みんな紀平先生の講義を聞きにいったものでございます。先生はへーゲリアンでございますが、あのヘーゲルの哲学を日本精神とよく合わせておりました。筧先生がやはり予科で修身の講義をされておりましたそうで、筧先生の講義と紀平先生の講義は、やはり予科で大変影響が大きかったのでございます。
この哲学的な考え、普遍を求める学問的欲求というものは、やはり一橋の法学部でも、どうしても伝統として保持したいと思います。本当に自分で哲学することで哲学書の翻訳語を無雑作に並べただけでは哲学とはいえません。またいまの法律は経済を知らなくては理解できない時代になっているので、経済と法律をそれぞれ自分なりに関係づけるためにも哲学と歴史を共に学ばねばならなくなっております。シュタムラー形式と内容でも結構ですが、それを満たすためには、一橋の先覚者の特有の哲学的思想、例えば経済哲学などの伝統をたどって学習する必要があると思っております。そしてまたここで初めて哲学・経済・商学・法学・社会学を綜合した大学になります。つまり東京商科大学はカレッジではなくてユニバーシティー、TOKYO University
of Commerce と訳されて海外に通ってきた伝統が活かされます。
<村瀬学派の存在>
もう少しやわらかく話したいのに、つい講義口調になって申しわけございません。ここでもう一つ保険の村瀬学派に触れます。村瀬春雄先生の、保険というのは経済と法律の両面がなければできない、保険の経済論だけでは足りず、どうしても法律まで立入って説明する。経済と法律とが表裏一体に進む。本学で保険を講ずる先生はこの村瀬学派と
いうのが現在まで続き、すべてこの傾向にあります。加藤先生と米谷隆三先生もこの傾向に商法から同調しております。
この保険の村瀬学派の存在は、やはり一橋の誇るべきものであると思っております。(藤本、加藤、大林、木村(栄))。
3 第二期 ― 岩田・孫田・本間・田中(誠)先生の学問的業績
その次に岩田・孫田・本間・田中誠二の諸先生の時代でございます。私の学問の経歴はここから始まります。その時代になりますと既に東大では民事法の判例評釈が始っております。つまり末広厳太郎さんが独逸に行けずアメリカに偶々留学して、いわゆるケース・メソッドというものを日本に持って来ました。いまの東京大学の民事法研究会ができ、判例評釈を法協に載せました。その当時最初の参加者で現在生存されておられるのは、田中誠二先生だけだそうです。ついこの間、田中先生にいろいろお話を伺いましたが、その東大方式というのは今日の判例評釈のモデルで、私も直接田中先生から手ほどきを受け指導を今でも受けております。成文法国の判例という特殊の法環境の下でのケース・メソッドとして注目されることと、もう一つは、裁判官が東大の先生方の学説どおり忠実に判決しているかどうか、東大教授からは自説の効用のテストです。変った、自説から見てとんでもない判決を下すと、その判決をぼろくそに批評して間接に裁判官に反省を促す結果になります。
いまでも密かに聞きますと、東大出の若い裁判官は、民事判例研究会であんまり酷評しないで欲しいという。といいますのは、つまり東大の民事法判例評釈を非常に気にしている。現在は主な大学で判例批評をしておりますので賛否分かれるためこの点は中和されましょう。つまり、アメリカのケース・メソッドを取り入れながら、成文法の解釈適用の批判により判決の画一性、行政の画一性をも結果として生じます。極端な例ですと、東大の先生の教科書の文句をそっくり理由にいたしまして判決を下しておるのであります。これが私のケース・メソッドの長所と認めると共に少しばかりの忌憚なき批評でございます。
<岩田占有理論>
そういうときに、一橋は東大出身の教授すら学問に専念しました。まず私の先生の岩田新先生の大著『占有理論』です。上総の書斎応龍窟に文字通り閉じ籠の七年を費した大力作で、序文を読んだだけでも学問の崇高さに打たれます。こんな部厚い本で、卓れた学術書はその当時ちっとも売れませんでした。私共が岩田先生に、何か卒業の記念の品を差し上げたいと申し出ましたら、先生は「岩波の二階に山と積んである占有理論を五冊買って、関係筋に寄贈してほしい」と申されました。そういうことで岩田先生の本は全然売れないのでございます。ある先生は巨弾を投じたが不発だったといって教室で笑わせました。
同じくうずたかく積んであったと言われるのが左右田先生の本だそうでございます。これは私は見たわけではございません。左右田先生の哲学もやはり決して売れる本ではなかったと想像しております。およそ一橋で学問書を出すことの険しさを今もって感じます。
それから、岩田先生の占有理論の要諦は、イエーリングの本を読みイエーリングに捧げながら、実はイエーリングの学説(客観説)に飽き足らないで、その前のサヴィニーの主観説即ち意思を重視する占有理論に戻れとでもいいますか、これは私が岩田先生から何回も聞いた話でございます。そういうことでサヴィニーの主観説に戻って意思を主とし、占有の事実は意思の表われとします。いうまでもなくイエーリングの功績の一つは目的法学でございますので関連して申しますと「目的は法の創造者である」、これは牧野英一先生もよく言われますし、私もこの原書をよく読みました。
さて岩田先生からローマ法をよく読めといわれたことにより、「意思」を高く評価することで民法を学ぶコツを教わり、牧野先生から「目的は法の創造者」と教えられたことで、商法、企業・経営法学へと私を走らせます。つまり、われわれ一橋人から見れば、建学の最初から目的意識をもって法の解釈を試みるのに、条文の定義の注解には目的意識がないのであります。そのかわり法主体の意思論、つまり法律行為の意思の探求とその効果を考えます。ここで価格、価値などの先入意識ある一橋人が法律を覚えるコツは何かと言ったら、法律上の意思論でございます。民法ではこの意思論が法律行為に関してはすべて徹底しております。(例、契約・準契約・故意・過失など)。
<孫田先生の労働法>
それからその次に、孫田秀春先生が、ご存じのドイツに留学して労働法を日本にもたらしました。実は内容はジンッハイマーに近いのでございますが、カスケルに個人教授を受けております。このジンツハイマーの書物の翻訳(共訳)は、一橋の前の学長蓼沼謙一君が若いときになされております。
<本間先生の手形法>
それから本間喜一先生は、ご存じの通り私のときも商法・商行為と手形法講義でございます。私は先生の講義のときに初めて有価証券の目的論的解釈ということを知ったのです。本間先生が目的論的解釈と言ったときは、私は何だかわからなかったのです。また先生は「田中耕太郎君と講義しても負けないが、しかし文章のうまいのにはもう負ける」、と先生自身言っておりましたのも印象として残っております。その頃に東大を始め多くの大学では法文の術語の解説いわば訓詁の学が主で各条文、法律の目的なんていうことに重きをおかなかったわけです。目的論的に解しますと有価証券の目的は流通性にある、つまり英米のネゴーシャブル・インスツルメント、流通証券と共通のものを探るのが、本間先生の 「有価証券の概念に就いて」という青山衆司博士還暦記念論文(昭和六年)と法学研究3の要旨でございます。本間先生は、ご存じのとおり、戦災で書物を全部焼きまして、その学位論文はとうとう出されないでしまいました。私は、手形法の講義を致しますときには、今日でも本間先生の有価証券の概念目的論的解釈を受け継いでおります。
<田中先生の会社法・海商法>
その次は田中誠二先生でございます。田中先生は「商大法学の地位」 につきまして、昭和八年六月に一橋講堂と兼松講堂で講演しました。その根拠は矢張り目的論的法発見、さらに重要なことは万物自然の性質に適した法の存在を説きます。そして海商法学者のヴェステンドエルファーの説を掲げて商大法学の特色を強調します。
東大出身の先生方もよく一橋の伝統から法学の存在理由を求め、特色を出そうとしてきました。東大側からすれば面白くないことでしょう。こういうことで、ただ言えることは、岩田、孫田両先生は東大から大変冷遇、冷視を受けました。岩田先生の債権法新論を我妻さんがこっぴどく評しております。それから、孫田先生の民法総論は末弘厳太郎さんがこれまた劣らずこっぴどく評しています。
私は「継受比較法的方法から追求した社会化思想」なる一文を草して、孫田学説と末弘さんの説を紹介しております。あの頭のいい秀才と称される末弘厳太郎さんが、ローマ法の所有権概念とゲルマン法の所有権概念を、太郎と次郎の取りっこをするおもちゃで孫田先生が教科書の序文で解説したものを、われわれのような頭の悪い者にはとんとわからないと ― これが権威ある法学協会雑誌に載せられた、孫田先生の右の本の、評言です。つまり東京大学法学部を一番で卒業した末弘さんが、われわれ頭が悪い者はとんとわからんと言うことは、東大の秀才全体がわからないということになります。孫田先生が教場で激怒された模様は今でも浮びます。どういうわけか右の本の後半は出版されませんでした。
岩田先生の占有理論が学位論文として東大の教授会を漸く通ったときにも、原田慶吉さんというローマ法の専攻の人が、ギリシャ語のスペルが間違いだらけ、ラテン語の訳が変だと同じく法協で批評しております。岩田先生はかんかんに怒りまして、原田がこういうことをいってる、ぼくは目が悪いので、ギリシャ語を虫めがねで見て書き校正した、ラテン語も自分で苦労して訳したので、多少のものは間違うのがあたりまえだ、最も力を入れた肝心なところを批評して欲しいミスプリントと誤訳を指摘するのは実にけしからんと、私は岩田先生から何回もその趣旨の話を聞きました。
少し前まではジュリスト辺りの書評を見ると内輪に甘く外部に辛いといわれる批判がときどきありましたが、今は変ってきました。私なんかもある論文に大分けちをつけられましたけど、すぐ反駁いたしました。やはり東大の批判には聴くべきものは無論聴くべく、反駁しなければならぬものは遠慮してはいけないのであります。私は専修大学に移ってから、東大に目をつけてもらうには、さよう、しからばごもっともと言ったのでは東大は振り向きもしない、骨もあり筋も通っている、手応え歯応えのあるものを発表するように申しております。
<久保・町田・米谷・常盤先生の学風>
それから、久保岩太郎さん、町田、米谷、常盤さんの時代であります。ご存じのとおり一橋で学んだ方々で、クラスメートに如水会員が沢山おられます。この四人の方が、いままでの東大出の、教授と替りつつあるわけであります。
山口弘一先生の後継が久保さん、青山衆司先生の後継が米谷さん、町田さんは三浦新七先生のゼミだと覚えておりますが、ドイツに長い間私費留学されました。常盤さんは予科一年で京都帝国大学に移られました。久保岩太郎さんは専攻は国際私法でありますが、山口弘一先生の後継でありますので親族相続法ももたれました。これも一橋の国際性の一端を示しております。つまり法性決定論で江川英文さんと論争をしました。その当時、久保岩太郎さんは山口高商の先生でありましたが、東京帝国大学の権威者である江川英文さんと論争をいたしまして、これが機縁で江川先生と親しくなりました。久保先生だけが東京帝国大学から学位をもらっておりますのは、江川さんという、江川太郎左衛門のお孫さんとかでございますが、この人の大変良い立派なお人柄によるものでございます。私も江川先生と少々おっき合いがございました。なお国際私法学会は、日本で最小の数の学会で、当時七−八人ぐらいしかおりませんようでした。
<町田先生の法制史>
それから、町田さんの功績はそのドイツ語の薀蓄とラテン語の素養を傾けての多数決原理の研究で、これで京大で学位をとりました。私は実は、卒業してすぐに町田先生と一緒に御自宅でローマ法の事典 ― 正確には「羅馬法関係羅旬語試訳抄」 ― をつくりました。住込で余り猛烈に勉強させられてひどい神経衰弱になりました。私は、ラテン語を知っているといっても、町田先生と比べれば格段に劣るのです。それにもかかわらず、若いくせに町田先生に読み方について随分食ってかかる、やられる。例の町田先生の、いまは神戸製鋼所の寮になっております、新竜土町十一番地の三階建てのうちです。うちへ帰さないのです。夜中までローマ法を読まされまして、それで寝ましたら、こちらのふすまに描かれている鶏が動くのです。こっちを向いたりあっちを向いたりする。何で動くんだろうとびっくりしました。それくらいに町田先生にいじめられました。今の特訓でしょう。これを載せた法学研究 (4) はラートブルック先生に捧げられております。ラートブルック先生から私までに御丁重なドイツ文の御礼状が届きました。
その後現在に至るまで、この種の訳語集は出ておりませんようです。従っていまだにこのラテン語訳は引用されておるようでございます。
<米谷先生の企業法体系>
それから米谷先生は外国留学中ドイツ語で企業法体系 (Syatem des Unternehungsrecht 1935)を公表され、一九三七年に有斐閣から同名の書が公刊され、この中には日本の計画経済法(後の統制経済法)の紹介もあります。現在では新興法学としてドイツでは商法にとって代りつつあり経済法が圧倒的の名称となっているのです。つまり商法というのは、人的な合名、合資会社、匿名組合など個人商人的なものだけの法でありまして、あとは有限会社、株式会社、コンツェルン、共同決定すべて企業法に入るのでございます。
ドイツの法律雑誌を見れば、もう八割位までが企業法の論文であります。それを先きがけて米谷さんが一つの体系として発表したことは、一橋の法学史上特筆すべきであります。
そのときのドイツ語の作文について序文を見ると、大変メラー(Moller)さんの助力を得ていると書いてあります。
そのメラーさんはハンブルク大学の教授になり、一橋の招きを受けて二十年ぐらい前に日本にきまして、無論米谷さんの話もいたしました。
それから米谷さんは制度法学の解説とこの制度法理論を企業法について展開させ、最後は、制度法理論による『約款法の理論』の大著を公刊し、これで学士院賞を受けたのでございます。
それから常盤さんは全く独特の経済法学説でありまして、これは要するにエネルギー論で、光波説ともいいましょうか、物理の光の波から経済法を説明するという、まことに独特な物理の説をもって経済法の存在と特性を明らかにしたのであります。最終的には京都大学から学位をもらっております。なお常盤さんは牧野英一先生に対して最後まで弟子の礼を尽されたことで有名であります。
<東京帝大の人々>
そのころ準戦時から戦時のいわゆる統制経済となり、ここに一橋の経済法時代が始まります。 その前にレジュメの右側の欄の東大を見ますと東大では商法の松本烝治さんの論理主義の盛んな頃で、先生はある事件の批評で自分の説を出します。みんなが賛成する顔をする。君達はぼくに賛成するのか、ではぼくは今度は反対の学説をとってみるといって自分と正反対の説をとっても、やっぱり相手を心服させる。つまり一方が正しければ他方は正しくない。それなりにどっちも主張できるのは、論理主義でなければとてもできません。概念法学はこの論理主義と不可分であります。
その松本烝治さんと同じ位に論理的議論に強かったのは鳩山秀夫さんといわれます。鳩山民法は私が高文を受けるときの教科書でございました。また井藤半弥先生が、法律の本で一番よく分ったのは鳩山民法であると私にいわれたのは井藤先生も論理の整然を尊ぶからと思います。この民法教科書はドイツのドイツ語の概念法学の日本語化であり、当時の通説的教科書エネッツェルスによりました。
私が岩田先生から最初に勉強しろと言われたのは、何とこのエネッツェルスの『民法総則』であります。学生のとき(二年のとき)でしたが、エネッツェルスの本を見ると、何か読んだことのあるものだと思ったら鳩山さんの説明でした。
田中耕太郎さんも一橋の学風に影響を与えました。これはカトリックに基づく普遍的な原理によるのでしょうが、国内法を越えて世界法にまで及んだからでありましょう。田中耕太郎さんは社会学と商法との接触・相互影響を好みました。皆さんご存じかもしれませんが、まず行為法と組織法とを区別し、民法に対して商的色彩をもってその特別法の存在理由としておりました。制度法学はカトリックの思想を受けております。
牧野先生は、ご存じかもしれませんが、イエーリングの目的論を講義でも強調されておりましたが、リスト・シュミットのいわゆる目的刑・教育刑を受け継いでおります。因果応報で罰するという小野先生の応報刑主義に対します。
先生は自身が、おれと「福徳」の講義が一番学生が多い。福田徳三先生の講義と牧野の講義を取らない奴は一橋の学生じゃないと、私どもはさんざん聞かされました。「福徳、福徳」と。初め福徳というのはわからなかったのです。
そうしたら後で福田徳三先生だということがわかりました。その名講義は『法律思想史』 でございます。私どものときはもうありませんでした。
<美濃部達吉先生と一橋>
それから美濃部先生が憲法を講義されておりました。美濃部先生は兼任教授でございました。もう皆さんの方がよくご存じかもしれませんが、福田先生を博士に推薦いたしましたのは美濃部先生でございまして、福田先生はドイツから美濃部先生あてにお礼の電報を打っております。東京高商の先生のために、美濃部先生は東大教授会で非常にがんばってくれた方だったそうです。美濃部先生の憲法講義は初期は一橋だけにありました。
私の学生の時、例の天皇機関説の弁明のための責族院議院の演説がたたり世論が沸騰した年で、この年が最後の行政法の講義となりました。
レジュメの右の東大の欄には、海外の学界の主流の学者の名を列ねました。サレイユ、ジェニー、 オーリユー、ルナール、ラートブルフと書いてございます。この中でサレイユ、ジェニーは牧野先生が絶えず、有斐閣で出しております著書の中で紹介・引用しております。それから、オーリユー、 ルナールは、米谷さんの制度法学建設の泰斗でございます。ラートブルフは常盤さんの先生であります。
<経済法の時代 ― 日本経済法学会創立>
昭和十三、 四年頃から経済法時代に入るのです。全国的な日本経済法学会が始めて一橋の学者のイニシアチヴで成立いたしました。このときには東大法学部からは、牧野先生を除いては全員不参加であります。いわゆるボイコットを食いました。だから、全国的の学会でないというのが東京帝国大学の例の言い分で、全国的の学会は日本私法学会が始まりであるといっております。それ以前に、どういう大学の学者の報告であれ、全国的な大会が開催された歴史的事実は、厳たるものがあります。この学会を動かした学者は決してアンチ東大の人ばかりではありませんでした。
さて、この日本経済法時代に入る前に「法と経済」との関係・ふれ合いにつき申します。私どもはこの点について、やっぱりマルキシズムが刺激的であり、熱意をかりたてられ、唯物史観が支配的でした。あのむずかしい日本語を一生懸命読んだけどさっぱりわからない。まず原語はHistorische
Materialismusでしょうか。あるいはMaterialistische Geschtsautfassung でしょうか。これを福田先生がなぜ「唯物史観」と訳したか、私にはわからないのです。
マテリアリスムというのは、その前の神学的伝説の時代または形而上学時代に比べてマテリーつまり材料・資料・資物から考え方をつくる。マテリー(資料)なしの神学・形而上学や聖書から考えてはいけないというのでしょう。その上に対立弁証的dialektischがつくのでいよいよ難解で、日本語だけでは分る筈がありません。ご存じのとおりマルクスは、死ぬまで大英博物館でコツコツと資料を集めていたのでございます。これらの厖大な資料知識を纏めるのが「方法」であり「見方、史観」であり、「弁証」でもあります。
統制経済法時代は最早マルキシズムは廃れております。「経済と法」についての助手のときはシュタムラーに関心をもちました。「Wirtschaft und Recht」 の部厚いものを私も拾い読みしました。ご存じかもしれませんが、同じことを繰り返し繰り返し言うのでいやになってしまいました。要は法律は形式、経済はマテリー、マルクスのマテリァリズムと同じマテリーで、これは「資物」とでも訳しましょうか。 私も翻訳に取りかかって、高島先生、山田雄三先生が編集する日本評論社からの叢書の一つに入れるつもりが、余り同じことを繰り返すので、私はシュタムラーの唯物史観の批判の分だけを訳したり研究いたしました。これは九州大学に出しました学位論文の一部にしてありますが、この部分は『経済法の基礎理論』では未発表であります。
その次はマックス・ヴェーバーでございました。彼は初めに述べました大商法学者レヴィン・ゴールドシュミットの弟子であります。ヴェーバーの本の表現のむずかしさは、あれを読むと私は必ず病気をしてしまう程でしたけれど、いま読んでみるとそれほどでもないのです。
それから最も新しい経済と法の関係の取り上げ方は、各個別的な専門部門において経済と法との総合を試みるのでございます。経営学とか会計学と法とか、商法とか企業法という個別的な部門の中での経済と法の相互影響と総合時代に入るのです。これにはドイツの一九六二年の経済及び社会学協会の会議の報告と議論でございます。その後も「経済と法」との関係ではドイツ、アメリカでどんどん新しい文献が出ております。
4 第三期 ― 新制大学の発足と伝統
このようなところで両方対照されますと、いかに一橋のそれと東大とは違った伝統であり、先ほど申しましたとおり双方がこの相違を味わい緊張した関係に立つときに進歩をもたらす。これが第三期になりますと、新制大学で他の大学の人がたくさん入ってきまして、一橋でも新たな伝統、考え方の間で相剋が始まりました。
<伝統と断絶>
そのために最初は敗戦後の虚脱についで新しいアメリカイズムを前にして伝統との断絶が起りました。イギリスと違って伝統のないアメリカイズムの影響です。まず如水会との縁が薄くなります。そして先輩方から貴重なお話を聞く機会が他の大学からきた学者には殆どございません。その人たちはそれぞれの自分の母校との関係と伝統に無意識に依拠しております。早く言えば例えば東大式の概念法学、国内的専断的方法をほぼ骨子としてそのまま一橋に持ってきているのでございます。しかしこれは法曹家と高級官僚の養成に大変に役立ちます。学部によっては妙な左傾思想を振り廻します人もきたようです。まさにその人事が伝統に無頓着で行われました。
<継受比較的方法の提唱>
さて、これから私のことにふれて多少手前みそになります。テレ屋の私には面映ゆく、また何となく言いづらいのですが、ひとつお聞き苦しい所を曲げてお聞き願いたいと存じます。
私が学問的伝統にそって考えたのは継受比較的方法(Receptive Comparative Methode)といいます。その元は三浦新七先生の東西文明史の比較にあります。先生はご存じのとおり、ドイツ人が読めないのは日本語と漢文であるので、東の文明との対照比較ならばドイツの史家も歯が立たないであろうと、留学中三浦先生が先生のランブレヒトの下で悟ったことは、自分がいくら励んだ所で到底ランブレヒトの歴史的学問を超えることはできない。これを超えるものは東西文明を比較することにあるということを聞きました。(町田先生から)。
私は、東西文明の比較から、進んで現行の法律がどういう経過で明治時代に日本に継受されたかを究めたい。これを六法で申しますと、フランスの民法、ドイツ民法(草案)がどういう形で誰が、どこで、いつ、学んで継受されたか、同じく終戦後占領下においてアメリカの法律・判例法、例えば現行独禁法をはじめ改正商法、証券取引法、民法改正、新憲法などというものがどういう形で日本に強制的に継受させられたか。さらに劣らず重要なことは、ヨーロッパ先進国とアメリカ法から日本に継受されなかったことは何か。その理由は?という「体系」比較があります。この後の考え方は私の最近のものであります。
もう一つは比較法的方法であります。これは諸外国の法令判例の比較によって、初めて商法講習所以来の普遍的な法原理が経験的に発見できるという考え方であります。それで私は、ほかの人がいっていない継受比較法的方法と言っております。これをまず経済法を対象として展開しました。
<商法の学位論文への影響>
それで、新制大学になってからの商法の学位論文はすべてこの方法によっていると見られるのでございます。私の方法というのは、言わず語らずして、商法の私のゼミの者によって実行されております。ここに、新制のときの第一回の学位をもらった久保欣哉君が来ておりますが、この久保君の学位論文もそうでありますし、その当時出した福岡君やその後、商法だけでも全部で六人、中川、山村、原茂、喜多の諸教授が出しております。ほとんどがこの継受比較法的方法によっているのでございます。
<経済法学会の創立>
さてこのころの東大の学風を見ますと、ポツダム民主主義体制の具体的実現のための新立法、改正立法に全部、主力を注いでいるわけです。あの当時の立法で、東大系の先生の筆の加わらないものはほとんどないといってもよいでしょう。
昭和二十七年、経済法学会というものを東大のイニシアチヴでつくりました。このときは東大のイニシアチヴでございますので、全員参加しております。そのとき、前の日本経済法学会は認めないという考えでおります。全国的でないからというので否認されております。東大に言わせれば、経済法学会、これが経済法に関する初めての全国的な学会である、ということであります。それから、そのころ、各審議会にほとんど東大の先生が参加しております。
<個別的部門の研究に力を注ぐ ― 根底には経済と法学の関係重視は世界的>
さて一橋の方は、経済学と法学、経営学と法学、会計学と法学とか、銀行取引とかそういう個別的部門にわたって主力を注ぎました。亡くなった会計学の岩田巌さんと私はどのくらい会計に関する法律論をたたかわしたかもわかりません。そのときに岩田巌先生は、某東大の現名誉教授を名指して会計への無理解を指摘しておりました。
現在、企業会計審議会等で一橋系の人が出ておりますが、東大系は一人か二人しか出ておりません。時間がなくなりましたので再び経済と法の関係にもどります。ここで法制史家コーイングの説を引きます。「経済の知識は法律の理解に不可欠である」と。こういう関係で、現在は、経済の知識なくしては法律は深く理解できない時代であります。
そら暗記である定義の解説からこれで一歩踏み出るのです。
アメリカでも同じ傾向であります。ここに本を持ってまいりましたが、これは反トラスト法と経済学(経済論)といぅ表題です。最近ボスナーという学者が盛んに書物を出しており、私はこういうものを書棚に二列になるだけ集めてございます。
すべてアメリカだけではなく西ドイツでも同じであります。日本だけは独禁法を始めるのに、終戦のときつくった独占禁止法の条文の解説から始める。先進国と全く逆であるのは日本では権力的に押しっけられた条文が「始めにありき」であります。独占禁止法の解説は、まずこれを運用する官庁に役立たせるための御用的作業であります。私ども一橋人は世界に普遍する経済と法の関係を取り上げ、これから普遍的共通の原理を求めているのでございます。
現在は、商法から企業法・経済法た移りつつあります。企業法にとっては経営学は不可欠の知識であります。ドイッの本を見ますと、必ず経営学の成果をとり入れて企業法を説明する。これ以上に経済法にとっては経済学と経済政策が必要なのでございます。独禁法のもとになる経済現象は「競争」であります。そういうコンペティションというものは、ドイツのカチカチの実定法学者のコンメンタールでさえも、その冒頭に、かなりの厚い分量になるページを費やして、「競争」の経済的意義について説明を加えております(パウムバッハ・へファメール)。これほど西ドイツの法律学者が経済の知識を知ってるかと驚くくらいに基本的の経済の説明が序論(アインライトゥンク)に詳しく書いてあります。そのほかの競争制限、不正競争の本を見ましても、同じであります。
実は、いまはもう経済の進行・発展の方が急速に進みまして、刻々の経済現象の発展が法学の方にインパクトを加えているのであります。公害問題(環境汚染)にしろ、ヤミ協定にしろ、系列の下請け、弱少企業への圧力など独禁法の条文違反になる。皆さん方から言えばこれはみんな業界がやっている慣行だ。それを全部、取締官の考え一つで狙われるなら経済の混乱になるだけだ。もっと当局の自由な裁量にかせとおもしをつけられないものか、協定でもしなければ値下がりする。申請して認可を持っていたのでは企業がつぶれる。
この業界の通念には半面賛成ですが、半面賛成できません。特に最近談合について新聞が盛んにとり上げます。刑事上の犯罪と独禁法違反になるということでしょう。イギリスの制限慣行法では、公益に反しないある条件の下に(合理的)公正と見れば談合を認めております。
<正義の理念による経済のコントロール>
私が業界の通念には半面賛成しかねると申したのは倫理・道徳・正義の理念による経済の統制についてでございます。まず、統制の理念の正義であります。これはもうすでに福田先生がその晩年の著(逝去の年)厚生経済学においてはアリストテレスの正義論から説き始めております。これが今もこれからも大事でございます。さすが福田先生でございます。
正義以外にも一つ、現在では理念、規準があります。それはきれいな、公正(フェア)ということであります。フェアな理念・規準による統制、これが経済(統制)法においての正義(エコノミック・ジャスティス)と並んでの第二の重要な原理であります。
現行法制度の下では正義は裁判所・裁判官(Justice)が宣言する。フェアは業界の倫理の一つであり、別に審議されます。業界の団体自らが宣言することが理想であります。裁判官は、フェアであるかどうかということまでは、通常は裁判によって判決はできません。ただ「著しき」 アンフェア、「著しい」という形容がつきませんと本来は裁判官の判断の対象にはなりません。そんな汚いことをやったらみんなが迷惑じゃないか、とか、そういう非良心的行動が大手をふったら業界は良い方向に発展しない、とか、そんな汚いことやめろ、これは業界が自主的にやるべきことで、他から強いらるべきものではありません。これは新たなる経済倫理の生成と意識的遵奉、実践でございます。
<新たなる経済倫理の生成と実践>
杉村広蔵先生の経済倫理の一節をここで読み上げますと、それは「従来のような超越的、倫理的目的観の後塵を拝するごときものではなく、経済社会の現実に即して、それの倫理的意味を明らかにせんとする内在性を多分に備えているもので、そこに科学的経済学の塁を摩して、その権威を脅かすに至ったゆえんが横たわっている。」と杉村先生の四九ページで述べています。科学的経済学(メンガー一派を指す) は倫理を無関係とするのに対して、ゾンバルトの言う規制経済は倫理的方向づげを重視することが対比させてあります。ゾンバルトは規制経済の中で、「規制」とはリヒテング(richtende)が原語で、つまり正しい方向に向けることで、「正しい方向に向ける経済の中」では、自分の社会の中から生れるあるいは存在する内在的な倫理を備えたものを持たなければいけない、というまことに当時として炯眼・警鐘をしています。私はもうとてもそうそうたる実業家の皆さん方に申し上げる資格はございませんが、いまの実業社会において高い常識から要望されるところは、この変わった、あるいは変りつつある変革的な経済体制、経済秩序の社会において、もう実定法の統制力の限界というのは目に見えております。かつて大平正芳君が言ったように、政府に過度に期待してはいけない。極端にいえばほとんど皆の願望を果すことはできないんだ。警察・公正取引委員会は全部の違反事実をあげようと思っても挙げ切れません。
そのような実定法のコントロールの限界が見えているところで、このような自らの内在的な経済倫理というものを業界の指導的な皆さんが特にお考えいただきたいと私は希望いたします。
大変不遜なことを申し上げて申しわけございませんが、ちようど時間もきたようでございますので、ここで私のつたない話をやめさせていただきます。
ご清聴ありがとうございました。
[質疑応答]
韮澤 (十六年) 吉永先生、ありがとうございました。私は米谷先生のゼミナールでございまして、昭和十六年と思いますけれども、日本経済法学会の創立総会のときに、先生に叱られながら会場の椅子を並べたり受け付けをしたことをいま思い出しまして感慨無量のものがございました。
米谷先生の言われたように戦後は東大などの他の大学出身者が入ってきて伝統が破れたということは米谷先生が予言して的中したことですね。先を見ておられたと思いますけれども、残念ながら先生のお話しを承っておりますと、戦後はそういう一橋法学というものがどこかに行っちゃったみたいなふうで、本日ここに吉永先生の後継者である喜多先生とか久保先生もいらっしゃると思うんですが、先生お書きになっていてお話しにならなかった部分ですね。いまは一体どうなってしまっているんでしょうか。
最近、法学は経済学と違いまして派手な学問ではなく、ジャーナリズムに余り出ないし、新聞の本の広告にも余り出ませんのでわかりませんけれども、いま一橋の法学部は先生も非常に優秀であり、そして国家公務員試験でも司法試験とか、外交官試験も前に比べまして受ける者が多くなり、合格者もふえたとか、また先生方も、ゼミナールの業績もいいということも私は聞いておるのでございますけれども、現状はいかがでございますか。
吉永 ご質問の点は、実は私が最後の「法学部のあり方」 でちょっと説明しようかと思ったところです。疲れたもので座ってしまいました。一橋の法学部の場合に、いまやどういうことに重きを置くべきかといいますと、種々の方向・要求・目的とかをいわばシステム化、時代にふさわしく総合して組織的に適応する。この中で中核をなすのが矢張り経済に強いということだと思います。コーイングが言っているとおり、もし法律家が法と経済と総合しようと思えば、まず法律のシステムをもって応えるべきであると。
そこで私は今後の法学部の在り方を、やはり目的別に見ますというと三つに分かれると思うのでございます。
一つは職業としての法曹家、これと高級官吏への資格取得その他「士」サムライ業の試験制度の合格を希望するグループとその教育であります。このうち司法試験をもってその大学の法学部の鼎の軽量をはかる慣行が、今でも行われております。このためには実定法、条文が、日本法典としてある限りは、この解釈法論と権威主義による学説は不可欠であり、東大から来た人はこれに貢献しています。試験官に反対する学説を書いたので普通は通りません。自分の意に反してもそら暗記をします。主に裁判官、弁護士、検事、その三つの資格試験のためにはこの方法と東大民事法判例批評の方式が必要でございます。
しかし、その全体の者のパーセンテージたるやまことに微々たるものです。昔は一割位あった在学中合格するという人はさらにグンと下がります。あとはそのために卒業後憂き身をやつして平均的に四、五年かけてようやく通る。もはや裁判官になる年齢ではございません。しかし、私のゼミで一遍で通った人が一、二人おります二人は弁護士、一人は裁判官になって、最高裁の調査官を経て、いま司法研修所の教官をしているのがおります。これらの秀才は法学部全体からいっても法学部学生総数からすれば微々たるものです。むしろ中途であきらめる人が圧倒的で、私は早く見切りをつける方が一橋の人ではないかと思っています。
私が主力を置きましたのは米谷さんと一緒で、行政官、特に経済官僚の養成でございました。が経済官僚のために主力を注ぎましたのはあの当時は統制経済だったからです。そして日本一の高文の合格率を誇ったわけです。これは旧制時代の経済学の強さと法律知識の訓練の賜でこの人達の話をきくと入省してからは勉強したのも経済学、役立っためも経済学だそうです。実は官吏というのは目的的に動くもので、経済政策を実行する合目的判断を法の枠の範囲内でなすというのでございます。
その高文合格の行政官も、旧制までは私は毎年必ず一人以上入れたのでございます。例えば大蔵省がそうであります。終戦後、旧制の終わりまではそうでしたが、残念なことには新制大学に改変されてからは全く大蔵省への入省はゼロであります。五〇年の私の停年まで全くゼロという記録が残っております。しかし今迄入省してなかった建設省、郵政省には各一人づつ入っております。新制大学の法学部の制度自身が反省見直しをすべきではないかと思うのでございます。
そのかわりに経済学部の荒憲次郎君のゼミナールから経済専門職の合格者というのが毎年一名以上大蔵省に入っております。その他の経済学部のゼ、、、からも入省しております。これらの人々は法律を特に専攻しておりません。いわば昔の経済官僚に当るものとして入省しておるのであります。これは増田四郎君(当時学長)にも言ったら「ショックだった」と驚いた様子でした。ただ一人法学部から大蔵省に入りましたのは、社会学部から法学部に転学した人です。その代りに法学部からは司法試験合格者がふえており、前述のランクづけでは旧制帝大系に追いつこうとしております。しかし不合格者と初めから司法試験、上級行政職を希望しない学生はどこへ行くのか、この人達は全体の圧倒的の数であります。ベーコンが海難に救われた人の絵馬を数えて、然らば海難で命を失った人の絵馬はどこにあるかといったようなもので、物事の他の半面をも考えることが必要だと思うんです。この人達の将来を考えればそれはかつてのCaptain of industryに代る、新しい倫理をつくるこれからの時代の経営者の養成であります。
現在の経営者にとっては、もし法律知識なくしては手が後ろへ回ります。それ程今日では法律というのは細かな根を各経済分野に張っております。しかしこの法律の全部を知ることは私共の専門家でさえも不可能であります。そこで積極的に西欧社会の「正しい」ことを理解することであります。つまりヨーロッパ社会の人々はなぜ厖大な法令判例という実定法を知らなくても済むかというと、「正義と善」、「衡平と平等」とが術語としてではなくて日常の世間の会話の中で鍛えられているからです。「グッドモーニング」「グーテンモルゲン」「ボンジュール」という、そのような「グッド」から始まるあいさつから始まり、「グッドナイト」などの「グッド」で終わるあいさつ、それから会話でも「ジャスト」からは「ジャスティス」(正義)がでてきます。「イットイズジャストトゥオクロック」などは会話です。「オールライト」のライトは「権利」と同じです。日本では「オーライオーライ」と車掌さんまで言いますが、「ライト」が「正しい」・「権利」と同じ意味とは車掌さんは夢にも思いません。また「ジャスティス」は「正義」とまた「判事・裁判官」(上級の)でもありますが・これらは日常の話題の語感と共通のものとして通るのに対して、日本の場合は、全く共通の語感はありません。それは継受法として始めから法律術語として東大で講義されてきたからであります。
自由経済時代は法律を無視してきました。特に商法などはそうであったことは、亡くなった三菱倉庫の故大住さんからじかに伺いました。裁判になったり、判決が出るとオヤオヤと思ったのです。今日ではこれが通りません。それで法律・判例を理解する前に新しい時代の経営者の方には、「経済倫理と「経営哲学」を具備したいわゆる達見を持って頂きたいのであります。その上で「正義」「公平」、「フェア」「アンフェア」、「イコーリティ」といった社会通念を知ることであります。法律を一方からだけ学ぶのは法曹界の人達だけで結構であります。
私が『経営法学』(一部既刊改訂中)、『企業法論』(現在執筆中) というのはまさにそういうものを構想しているのでございます。米谷隆三先生の「制度法学」というのも「協益善」「ビアン・コマン」「コモングッド」「協同善」を目指すのであります。「コモン・グッド」という言葉がどうもこれに当る日本語としてなっておりませんが意味が深長であります。
そういうわけで米谷先生も経営者の養成のため努力されてきたのであります。牧野先生のかつての法律思想に当るものを復活するか、一橋の出身者で実際に鍛えてきた方で哲学・倫理を実践してきた方々の特別講義が必要ではないかと考えるのであります。ですから私が前にも言ったとおり、実際界の方にぜひ一橋に来て、自分が苦境を乗りこえた哲学、倫理の話をしていただく、これが開放された大学ではないかと思います。それなしではとても新しい経営者の血の通った養成は不可能でございます。
第三番目が一橋出身の法学者の育成。これは、先ほど申しました方法論的意識・最新の学説の吸収、経済学等と共に法学の知識のシステム化、少なくとも経済学の知識と法学の知識の対等的理解が不可欠で、これがなければとてもこれからの一橋の法学の特色は発揮できません。日刊新聞にいかに思いつきを書き続けても一橋の学問的業績にはなりません。
なおレジュメの経営者のところにもどり、国際的・世界的知識と先見性の具備も強調してあります。つまり将来どぅなるか、これは、外国へ行っておられる方はおわかりのとおり、外国で先に進んでいるものが多く、その中からどの部分を日本に取り入れたならば日本という経済的土穣の中で文化と経済、企業と経営も育つか、ここに進歩もありリスクもあります。これが成功すれば先見性ありということになり、それ自体はそんなにむずかしい話ではありません。神頼みで拝んだりおさい銭をあげたりすることよりも、科学的、歴史的洞察と商売ですからリスクを覚悟で先を見ようとするのであります。
私のいうこれが、継受比較的方法も、これと一脈通ずるのであります。けれども経験的には試行錯誤はさけられないのでございます。ここで昔予科で紀平先生の直比霊と「何くそ魂」という日本精神を聴いた方は思い出して下されば一層一橋の伝統が生きて参ります。この終りの部分は質問と関係のない、いわば話しのつけ足しでございます。ここでもう一度一橋の学問の伝統は進歩を齎すものであり、緊張関係・危機において一層然りであることを繰り返させて頂きたいのでございます。
大変勝手なことを申して恐縮でございます。
(五十七年二月十六日収録)
吉永 栄助 (よしなが えいすけ)
明治四十五年三月、東京生まれ.
昭和四年東京商科大学予科入学、
昭和九年十一月高等文官試験法科合格、
昭和十年東京商科大学卒業(商学士)、
同年七月同大学助手、
昭和十五年同大学助教授、
昭和二十六年一橋大学東京商科大学教授.
昭和三十六年法学博士、
昭和五十年定年により退官、同大学名誉教授、専修大学教授、
昭和五十六年二月同大学退職、
同年四月大東文化大学法学部教授(現在).
主要著書
『経済法学の基礎』(第一巻、第二巻、中央経済社)、
共編著『会社の計算上下』(絶版)
「経営法学」(丸善)
執筆中、経済法学の基礎理解第三巻、
商法総論講義準備。