一橋の学問を考える会  
[橋問叢書 第八号]     一橋の経済学 ― 戦後に重点をおいて ―
                                                成蹊大学教授  篠原三代平   

   戦後も生きる一橋経済学とは

 すでに先輩の先生方が何回か一橋の学問についてお話しになったのですが、私のごとき青二才がこの段階でお話し申し上げることはきわめて僭越だろうとは存じます。ただ一橋の学問の中でも経済学、その中でも実証的な経済学にしぼって考えたとき、やはり先輩の先生方のお話についていささか強い抵抗感が残ります。

 いま新井さんがいわれましたが、一橋の学問を考える場合に、懐古趣味で取り上げられるのでは何にもならない。一橋の学問で、過去には生きていたけれども現在は生きていないものは、場合によっては死んだ学問であるかも知れない。もちろん、しばらくは死んでまた生き返るという「リバイバル」 の現象もしばしば起こります。だがある学派とかある大学の学問が本当に生きているというためには、二十年、三十年、あるいは五十年前にそれが曾って生存していただけではなくて、現在にも生き、現在にも大きな影響を与える学問でなくてはならない。

 そういう見地からすれば、現在に残るものと現在に残らざるものという一つの判断基準が大きく浮かび上ってくるかと思います。これはきわめて厳しい条件であります。戦前にも生きていたけれども、しかも現在の段階においても依然として生存し続けるような、そういう一橋の経済学とは何であるか。実はそういう角度で話しかけることは、先輩の先生方に対してきわめて無礼でございます。

 したがって、そういうことを申し上げることは、後輩の私にとって一見タブーを語らしめることになるので、いさ
さかちゅうちょせざるを得ないのですけれども、しかし話が単に懐古趣味で終わらないためには、その程度の決断が必要だと思われます。

 三浦新七先生の話は非常におもしろかったとか、現在も生きているとか、そういう話はどなたからかなされるだろ
と思いますので、ここでは経済学にしぼらせていただきます。

 戦前の経済学と戦後の経済学を一橋に限らないで申しますと、戦前はいわば日本にとって輸入経済学の段階であった。戦後は、細かいトリビアルな分析がふえたという点があったかもしれないけれど、アメリカやヨーロッパに向けて日本の経済学が輸出される段階に入った。そういった大きな違いがあります。

 戦前は余りたくさんの外国の専門書が出なかった。いい本といえば、これとこれだ。そしてそれを人より早く理解して紹介すれば立派な経済学者になれた。ケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』とか、あるいは遡ってシュムベーターの『経済発展の理論』とか、そういうものをいち早くこなした方が勝ちであった。

 いつまでもわからんと言って三年、四年と時間を費しているような状態では、世の中で尊敬される経済学者とはなれなかった。しかし戦後は物すごくたくさんの書物が出た。だからたくさんの書物の中から手っ取り早くサッと読んで、これはいい、これは悪いと嗅ぎ分ける必要があった。戦後の場合もう一つ困難なことは、小さいことでもいい、自らの独創をそれにつけ加えて英文など外国語で書いて、海外の専門誌に投稿したり、英語で書物を書く必要が出てきた。

 戦前と戦後では、こういう大きな違いをわれわれは意識せざるを得ない。その点で戦前の経済学者はきわめて幸せであったが、戟後の経済学者はその意味では非常にむずかしい位置に置かれています。本を読み理解するだけでは不充分です。自分の独創をそれに追加しなければならない。

 しかし独創といっても、それが壮大な体系として結実することは大変なことです。しかも日本人には、時間のかか
る横文字を読むというハンディキャップがあります。したがってアメリカやヨーロッパの学者以上に雄大な構想力とか、独創力を発揮するには、非常に大きな困難がつきまとうことになります。そういう意味で、ケインズ、ピグー、シユムベーター、ハイエク、そういった人の主だった経済学を、本がぼろぼろになるまで読んで、立派なそしゃく力を示すことで足りた戦前派の経済学者に比べて、戦後派の経済学者たちは非常にアンハッピーだったといわざるをえません。すくなくとも、楽でないという状態に置かれていたと思います。

 私に限って言えば英語の本は、すでに三冊ないし四冊書きました。一冊は半分ほどは自分が書き他の半分は他の人が書いたものですから、いわば三・五冊です。したがって、福田徳三先生の経済学や、左右田喜一郎先生の経済哲学がどうであったかということを飛び越えて、私はまず戦後の経済学、あるいは経済分析に生きている戦前の一橋の経済学、これを拾い上げてみたいと思います。私にそういう印象を与えた経済学は幾つかありますが、いま重点的に三つの経済学を取り上げたいと思います。

 第一は、中山伊知郎先生の中山経済学。第二は、赤松要先生の赤松経済学。第三は、一橋から福田門下として育って一橋大学の外側に出られた大熊信行教授の経済学。これを大熊経済学と呼ばせていただきます。この三つの経済学は、戦前に生き、かつまた戦後に生き残った巨大な経済学体系であったと思われます。
 
  中山経済学

 いま申し述べた順序で、第−に中山経済学から入ります。中山先生は一九八一年四月に亡くなられたのですが、亡くなられた瞬間、私は中山経済学というのは何であったかということをつくづく考えざるを得なかった。私は学生のときに、ケインズの『一般理論』をはじめ、ハイエクや、シュムベーターを乱読いたしました。乱読している学生であったから深いところはわかりませんでしたが、中山先生のケインズ一般理論の理解に抵抗を感じ、中山先生のゼミに入っておりながら、むしろケインズそのものであった鬼頭仁三郎先生の講義の方に惹かれるものがあった。

中山先生はまず第一に古典学派の中でも新しいピグーの考え方や、ワルラスの一般均衡論の影響を受けておられる。
ところが、国民経済における貨幣の役割りを一つ考える場合でも、中山先生のシュムペ−ターあたりの分析の上に立って考えた貨幣の概念は、ケインズの貨幣の概念とは全然違っていた。

 シュムペーターでは、経済発展は企業者の技術革新(ニュー・コンビネーション)と銀行の信用創造から起ると考えたわけです。これは一面従来の成長理論と違って人間不在の発展論に対して、企業者という人間の存在する発展論を提
出したという特色があるわけですが、しかし他面発展過程のオリジネーターとして、銀行の信用創造、貨幣の役割りを非常に強く見た点に特徴があります。

 戦後、「成長通貨」という言葉がありました。成長を支えるため、あるいは成長を促進するための大き役割りを貨幣が演じているということです。シュムペーターの通貨観は、そういう意味では信用創造、あるいは貨幣の創造が経済の発展とじかにつながっているものとして理解されていたといえます。

 ところがケインズでは不況の底で幾ら通貨を出しても経済回復の刺激にならないという観察から全然別の形の通貨観が導き出されました。その辺が中山先生にとっては一つの大きなジレンマでありました。そういうことから中山先生には解決されざる一つの難問が、博士論文を提出されたその当時から戦後に至る間ずっと存在していたように思われます。

 弟子である私は、不遜ながらそう思っていたわけです。つまりシュンペーターとケインズを総合したのが、先生の博士論文だと言われたけれども、こと通貨に関する限りは先生はその問題を解決していないというのが、弟子である私の率直な印象でした。つまり経済発展の促進要因として考えたシュムベーター流の通貨概念と、それから、不況の底で幾ら通貨を出しても経済回復の要因にならないという局面でとらえたケインズの貨幣概念とは全然違います。

 しかしこの問題は戦後再びマネタリズムの復興という形で起こってきました。中山先生は一つのモデルの中でこの二つの考え方を総合するということを、おやりにならなかったけれども、中山体系にはこの相反する二つの貨幣概念が実は共存していたように思われます。たしかに、不況の底ではケインズの貨幣概念は依然として否定すべからぬものである。それにもかかわらず、経済拡張過程に入ったときに、マネタリズム、あるいは貨幣数量説はやはり大きな説明能力を発揮する。「篠原君、貨幣数量説は永遠の真理である。」という一言を私はじかに中山先生から承ったことがあります。

 戦後長い間日本でもケインズが流行し、マネタリズムは軽視されました。しかしそのときにも中山先生は通貨数量説を決して軽視なさりはしなかった。それは程度の問題だったようです。ある局面では通貨数量説は二〇%ほど生きていた。しかしいまでは一〇〇%生きているといったぐあいに直感的に嗅ぎとっておられたようです。通貨数量説は、必要に応じて引き出しから取り出して活用できる重要な武器だと考えておられたように思います。

 資本主義始まって以来の世界経済を私なりに観察すると、ある時期には資源制約に近いところまできた。たとえば、第一次大戦当時は世界中資源制約に近いところまできていた。だから一次産品や、鉄鋼製品などは一般物価に比べて非常に急激に値上がりした。これは最近と同じです。その当時は世界経済は、資源制約に近づいた時期でした。ところが経済が資源制約に近づくような状態になりますと、有効需要と通貨量の関係が強化されて、マネタリズムが生き返ってくるのです。だが世界経済が非常に大きな不況にあえぐような段階になりますと、逆にケインズ主義が生き返ってまいります。その長期のうねりの中である時はケインズ主義が生き、あるときはマネタリズムが生きかえるとみてもよい。

 中山先生はそういう意味で直観的に、マネタリズムは不滅であるという見方をとられたのだと思う。弟子である私

は学生時代心の中でひそかに抵抗していたのですが、亡くなられた後は、やはり先生の通貨数量説には永遠の真理があるという言葉の重みを、ひしひしと感じないわけにはいかないものがあります。

 第二に、中山経済学の中で現代にも生きているというのは、先生の資本理論に対する考え方であったと思います。資本理論はどこからきたか。シュムベーターと、ハイエクからきていると思います。なかんずくハイエクの資本理論が脈々として戦後の中山先生の中にも生きていたと思う。これは多くのケインズ経済学者によって陳腐化された理論として一蹴され、ナンセンスであり、とんでもない時代錯誤的な見解であるということで、無視されてきた考え方です。

 しかしノーベル賞をもらったJ・R・ヒックスは、『資本と時間』という本を一九七三年に書いたのですが、それには「ネオオーストリアン・セオリー」(新オーストリア理論)という副題がついております。ところが、その書物の中で、ヒックスは、世の中ではオーストリア学派の流れを汲む資本理論は経済学の本流からはずれた支流にすぎないと考える向きがあるけれどもそれは間違いである。オーストリア学派の資本理論こそ経済学の本流であり、その他こそが支流であるということをはっきり言っているのです。ところが中山先生はそのヒックスの一九七三年に出た書物と全く同じように、資本理論こそ本流であるという見地を戦後も一貫して踏襲されてこられた。

 最近サーローという人が『ゼロ・サム社会』という本を書きましたが、サーローが意味したことと違った形でいま「ゼロ・サム」や「プラス・サム」という言葉を使いますと、ケインズ主義が風靡した時代というのは、消費がふえれば投資がふえる。投資がふえると消費がふえる。消費と投資が相互にフィードバックしながら成長が加速可能な局面であった。そういうパイがどんどん大きくなる「プラス・サム」の経済を取り上げたのが、ケインズあるいはケインジアンの経済学であったと思います。

 しかしながらハイエクが取り上げた経済は、言ってみればゼロ・サム経済であった。投資がふえるためには消費を減らさなければならない。あるいは消費をふやすためには投資が減らなければならない。ところがそれはどういう時期かといえば、完全雇用近くの状態、あるいは資源制約に近い状態です。あるいはいままで技術革新が急激に進行して生産力がふえはしたけれども、それがある程度頭打ちになった状能です。合計(サム)はまだゼロにはならないかもしれないが、ゼロに近い局面だと思う。

 そういう状態では全産業として生産能力と有効需要のギャップがどうかという問題よりは、産業間のセクトーラル・インバランス(部門間不均衡)こそがもっと重要な問題であるという話になる。古くはシュピートホーフ、そして新しくはハイエク。そこで展開された理論というのは、いわばゼロ・サムの前提を置いて資本構造、産業間の生産構造を大きく問題にした理論であったと思う。

 私は、社会主義国、とくに東欧諸国と中国の統計数字をいじって感じたことですが、これらの国々では重工業化が行き過ぎると産業間不均衡が発生する。ところがこの産業間不均衡が内部で政治対立、権力闘争を呼ぶためにそれがさらに経済の縮小をもたらす。つまり社会主義社会では、経済のサイクルが政治サイクルを誘発するために、それが経済・政治循環という形をとります。

 しかしこれはいささか古風なシュピートホーフ、ハイエク的な循環論を思わせるものがあります。つまりゼロ・サム社会の考え方に立っての産業間不均衡の重視という特徴があります。あるいはケインズとは違った問題が社会主義の経済の揺れの中に見出されるということを、私は最近つくづく考えます。

 いずれにせよ話が長くなって恐縮ですが、戦後は長い間死んだと思われた資本理論が、中山経済学の中では生きていた。少なくとも中山先生の机の引き出しには後生大事に入れられていて、そして必要あれば中山先生はいつでもこれを取り出して、講演をやり、議論をやり、世の中をリードしていく武器に利用したと私は思う。

 中山経済学の第三の重要な柱は労働問題であった。ご承知のごとく福田経済学というのは、ブレンターノの影響もありますが、いわば一種の福祉経済学、厚生経済学であったといえます。それは今日のフリードマンの自由主義論と違いまして、自由競争の過程では、弱者には強者と自由競争をやる場合に何がしかのハンディを認めてやるということが必要であるという見方に立っていたと思うのです。

 したがって集中豪雨型輸出という問題に当面したときに中山先生の議論というのは、すべてを自由放任にした野性的競争を認めるという立場ではなかった。節度のある競争が必要であるという観点をとられた。そういう意味では本当の自由競争は現在行われていない。したがって節度のある野性的でない競争こそが、世界経済にプラスになると考えられた。そのためにはガットの 「セイフ・ガード」というルールも自由貿易の維持のためには認めなければならないという立場に立つ。

 これと同様賃金決定においても、もし労働者の立場が弱ければ、労働力の買い手である独占的な大企業に対抗して、労働者が組合を結成することに中山先生は意義を認める立場にあった。その点で中山経済学はフリードマンとは全然違うわけです。組合の結成は善である。それは労働力の買い手独占に対して、労働力の売り手独占の形成を認める立場です。

 ただ全ての産業で買い手独占、売り手独占がともに成立した双方独占、あるいは団体交渉的なものを認める立場は中山先生はとらなかった。だが明らかに労働者は組合なしでは弱者である。弱者である点を補強する必要があるという点で、中山経済学は福祉の経済学という立場にあった。一切合切そうであって、その他の商品価格の決定においても、売り手ないし買い手が弱ければそれを補強する工事を認めた上で前進していくという立場がとられた。これは生半可な競争概念ではない。

 中山先生が福田雄三先生の学風を継いだその考え方の中に脈々として流れていたのは、こういった弱者補強という観点であったと思う。

 最後に労使関係の経済社会学を書かれた中山先生は、実は一橋の経済学として最も個性的な点を継承された方である。そして自らは労使問題に調停者として乗り込んでいった。恐らく中山先生は労働問題の調停に自ら非常に大きな意義を感じて、生きがいをもって立ち向かっていかれたに相違ないと思う。

 そういう生々しい労働問題だけではない。通貨数量説もケインズ革命華やかなりしころ中山体系の中で生き続けた。ケインズ革命の中で、過去の理論と長い間大多数の人が考えていた資本理論も、中山先生にとってはやはり捨てがたい、いずれは生き返るものとして大事にされていた。以上の三点は一橋の学問の個性を考える場合に無視できない重要性を持つものではなかろうか。

   
   赤松経済学

 第二に取り上げたいのは赤松経済学である。実は私、書物で赤松経済学にぶつかったのは高岡高商にいたときだったと思う。当時は赤松先生の『産業統制論』を読むのは一苦労だった。その前に大熊信行先生の『マルクスのロビンソン物語』とか『経済本質論』を読んだのですが、その後で『産業統制論』という本にぶつかったのです。つまり赤松先生は大熊先生の論敵だそうだが、論敵は一体どんな人かという好奇心で読む気持ちになった。

 マルクスも何も知らない人間の最初にぶつかった書物が『産業統制論』だったので、十七歳の脳裡に映じたファー
スト・スポットは今日まで鮮やかに残っているといわねばなりません。赤松先生の「総合弁証法」は、その当時まだ
いうことの理由は、戦前から赤松先生が問題にされ、強調されたコンドラチェフの長波が現在も生きているということの中にあります。

 そして第二に赤松経済学が現代にもなおかつ生きていると思われる点は、赤松先生には有名な産業発展の雁行形態論があるからです。たとえば綿業という外国から新しく移殖される産業を観察されて、それにはまず大きく輸入のうねりがあり、輸入のうねりが相当程度高まった状態では、輸入された綿製品に対して内需が相当の量に到達します。
しかしこの段階では、その国内生産が有利になり、そこで国内生産のうねりがその次に起ってきます。ところが国内生産が綿紡績について相当な規模に達しますと、こんどは単位コストがダウンする。その結果次に輸出のうねりが発生します。だから産業の発展は、輸入→国内生産→輸出という雁行的展開を示すというのです。

 戦前のわが国の綿紡績業に対して、赤松先生はこのような立派な雁行的発展のプロセスを実証的に描き出されたわけです。しかしこの考え方が戦後も生きていることの理由はどこにあるかといえば、戦後重工業、なかんずく機械工業の分野で雁行的発展が生じたからです。一九六〇年代から七〇年代にかけて、諸成長産業で生産よりは輸出がぐっと伸びるという局面が浮び上りました。たとえば乗用車の輸出依存率は急速に高まり、一九八〇年には五割を超えていると思うのですが、一九六〇年ころには僅か四%に過ぎなかったかと思う。

 同じような傾向は鉄鋼業についても、建設機械についても工作機械についても発生したのです。輸出比率が上昇するということは、その局面で生産の伸びよりも輸出の伸びが高まったということです。したがって赤松理論は、単に戦前軽工業の分析で生きていただけではなくて、戦後重工業の雁行的展開の分析にあっても生きていたということになります。

 MITの経済学者、バーノンという方は、戦後赤松理論に似た分析を展開されたわけです。ただ、赤松さんの産業
発展の雁行形態論を知っていたわけではない。しかし彼の場合は新規商品の国内生産からスタートして、次に輸出が伸びる。その次には海外投資、企業進出が伸びるというところで終ったのです。したがって両者を統合してこれを赤松・バーノンモデルと言ってよろしいかと思います。

 私、英語の書物を最初に書いたのが一九六二年であったと思うんですが、これは ”Growth and Cycles in the Japanese Economy” という本でした。その中で私は私なりに統計を整理したうえで赤松先生の産業発展の雁行形態論を紹介したのです。また経済企画庁に三年間経済研究所長としていたころ、フランスの若い経済学者、クリスチャン・ソーティエという人がやってきまして、一年間日本経済を勉強して帰ったのですが、私は彼に、『経済白書』英訳版があるから全部読めということを言った。同時に、日本経済を理解するには、赤松さんの産業発展の雁行形態論を理解した方が良いといって、私の英語で書いたものとか、キール大学のWeltwirtschaftliches Archivという雑誌に出ている赤松先生の論文をソーティーに見せたりいたしました。

 彼の書物は『ジャポン―その経済力は本物か』という書物になって翻訳されましたが、その第九章第一節が「雁行形態の発展」となっています。それを読みますとー 「重化学工業は大量に赤松理論の第三局面に突入した…‥。
これは一九六六年の日本の経済成長に関する第一回の会議において篠原三代平氏が予測したことであった。われわれは将来を楽観し、生産面の重工業化の後に歴史的過程として輸出面の重工業化が起るだろうということが予測できる」と書かれている。

 そのソーティーからいつかフランスのクリスマス・カードが送られてきました。それには雁が空を飛んでいる絵が描いてありました。それを赤松先生が亡くなられる前にお渡ししたわけですが、純情な赤松先生はそれを見てけたはずれの喜び方をなさったことをいまも記憶しております。

 問題は、両者を結合した赤松・バーン・モデルの示す最後の企業進出の局面のあとには、「ブーメラン効果」が起こるということです。つまり企業進出が行われれば現地で高い技術水準の設備と安い労働力が組み合わさって安いコストで生産され、それが日本に逆輸入され、日本の当該産業に打撃を与えます。また韓国、香港といった国の商品がアメリカやヨーロッパの市場に輸出されて日本の輸出シェアを押し下げます。これが「ブーメラン効果」です。
ブーメラン効果は、繊維工業、造船業、エレクトロニクス、その他印刷業等々、近ごろは若干は鉄鋼業にも多少ともあらわれはじめているとか言われています。企業進出の後には、そういうブーメラン効果が登場いたします。

 しかしこのブーメラン効果には、資本や技術や企業ノーハウを押し出した日本の当該産業にマイナスの効果を与えるだけではなくて、韓国で造船業が起ってくればエンジンを日本から輸入するという形で、日本のエンジン製造業を刺激するプラスの効果も含められます。したがって、ブーメラン効果のために起こるのは、たとえ同一の製造工業たとえば機械工業の中でも「水平分業」が起こるということかと思います。

 したがって赤松理論を現代風に理解していくためには、「企業進出→ブーメラン効果→水平分業化」という新展開をつけ加えねばなりません。ところが、曽ってのイギリス時代、アメリカ時代には植民地を農業国・鉱業国の状態に固定した形の国際分業、つまり「垂直分業」が行われていました。しかしそれとは対照的な水平分業下では、同一の工業内部においても、あるいは機械工業の内部においてさえも相互に色々な品物を輸出し合う形の国際分業体制が成立します。

 赤松理論が現代に生きているということの理由は、環太平洋構想との関連でも強調できます。環太平洋圏二十年後にはどううなるでしょうか。実は中進諸国が先進国日本を追い上げたのですが、その中進諸国を、低開発諸国か追い上げる形になります。現在インドネシア、マレーシア、タイ、フィリピンといった国々が非常に高い繊維製品の輸出成長率を示しております。そして中進諸国を追い1げる発端にきていると私には観察される次第です。

 その結果、アジア大平洋地域の経済はあと二十年の間に非常にダイナミックな構造変化を示すだろうと思います。ダイナミックな構造変化を示すというのは他でもない。戦前のように大国が世界の工場として植民地諸国を農業国の状態に固定するといった型の国際分染ではない。日本がアメリカを追い上げたあと、その日本をまた中進諸国が追い上げ、中進国をまた低開発国が追い上げるからです。

 そういうふうに、ダイナミックな追上げ過程の結果、アジア大平洋諸国の経済的相互依存関係は次第に深められていく。この環太平洋圏の成立とその促進の必要を一早く構想したのが赤松先生の弟子である小島清君であります。
ただ小島君の考え方の中には、低開発国に対する位置づけが弱かったと思うのですが、しかしアメリカ、カナダ、オーストラリア、日本といった国々を含む太平洋経済圏を小島清君は早くから構想していました。

 最近まとめられた小島君の『太平洋圏経済の形成』という大著は、そういう意味では一橋大学の赤松経済学の系譜に添うものだということができます。ただ赤松先生の「総合弁証法」についていえばそれよりは、当時一青年であった私自身は、もっと深遠でメタフィジカルな京都哲学の方に実は惹かれていった。赤松先生の「総合弁証法」はむしろ経済と政策との交渉をとらえる論理として提出され、理性的当為という表現もみられますが、それは経済のザインと政策のゾレンの間の矛盾の相互交渉的な考え方に終始したような印象を私は持ったわけです。「人生とは何か」ということを主題にしがちであった私の若い頭脳は、赤松経済学を好んだけれども赤松哲学を好まなかったといえます。しかし生々しい経済の現実問題の解明についていえば、私は非常に大きな影響を赤松経済学から与えられたと言って差し支えありません。

    
   大熊経済学
 

 第三に重要なのは、一橋の外側に出た大熊信行先生の経済学です。高岡高商に入ったとき直ぐ、高岡高商には独創的な経済学者がおられるということを先輩の学生から聞きました。そん語独創的な講義であるならば一言一言漏らさずに聞いてやろうというわけで、教壇に近いところにいつも座わって拝聴しました。しかもノートはとらないで、講義を聞く前に先生の本をまず読んでから聞くという態度を私はとりました。
残念ながら、使われたマーシャルの『経済学原理』は講義が始まる前に必ず読んだのですが、本当のことを言って全体として何を云っていたかわからなかった。しかしながら先生の「マルクスのロビンソン物語」は私には非常におもしろく思われた。

 当時は大熊経済学は非常に誤解されていた。いまは「資源配分」という表現をだれもが使います。官庁エコノミストも使うし、一般に今の経済学者でこれを用いない人はいない。昭和三十年にアメリカに留学した際にいろいろな大学で講義要項を見ると、Price and Allocation Theories(価格・資源配分論)というのがあった。戦前は大熊先生が「アロケーション」と言うと、何だそれは、所得分配とどこが違うんだと、読まないでこれを無視し、敬遠する学者が圧倒的に多かった。

 ところでそれがなぜ現代に生きているのだろうか。先生の『マルクスのロビンソン物語』が提出した観察によると、マルクスの『資本論』の分析は超歴史的な分析と歴史的な分析に分れる。このうち超歴史的な部分というのは資本主義経済にも、社会主義的計画経済にも妥当するし、さらにロビンソン・クルーソーの孤島経済にさえも妥当する論理なのである。それは自分に与えられた「時間」をどのように効率的に諸用途に配分するかという孤立人ロビンソン・クルーソーの毎日の課題から始まるわけです。

 マルクスにはそういう超歴史的かと思われる章句をあげたあと、この孤島経済のロジックの中にあらゆるタイプの経済に妥当するもっとも本質的な考え方が横たわっていると述べたのです。そして大熊先生はその中にこそ実はマルクスが排したはずの限界効用学派の考え方、限界効用均等法則〜配分理論が、伏在していると述べたのです。つまり資源配分がその根底にあるというのです。他方、社会主義経済でもどのように労働力や資本をいろいろな産業部門に配分するかという資源配分が最大の課題であります。同様に資本主義経済でも、一見無政府状能にあるかに見えますが、自由競争の過程を通じて一国の資源がいろいろな産業部門の間に、どのようにバランスのとれた形で配分されるか、これが非常に大きな問題だというのです。市場メカニズムを通じてその配分が行われるかという差があるだけですが、実はロビンソンの孤島でも全く同様の、共通の超歴史的な問題が存在しており、これが経済分析での一番本質的な共通的な問題である。

 そして大熊先生の到達した結論というのは、いわゆる価値論における、限界効用説と労働価値説というのは、一見対立しあっているかに見えますが、ある条件つまり現代経済学における一般均衡という状態では両者は表裏一体になる。客観価値説である労働価値説と、主観価値説である限界効用説が、そこではインテグレートされて両方とも成立するようになるというのです。

 なるほど現代の経済学の立場からすると、これは当り前のことです。しかし、価値論で大きく混乱状態にあった戦前の経済学界にあって、マルクスの資本論のなかから、これほど透徹した本質的な理解を提出した学者がわが一橋の経済学者から見出されるという事実は銘記されねばならない重要なポイントだと思います。

 ケインズは一般理論の中で、経済学には二つの分野がある。雇用や産出量の水準の変化を動かしている要因をマク
ロ的につかむ分析がその一であり、もう一つは資源配分と所得分配を規定している諸要因を分析する価格論、あるいは企業理論がその二であるとしました。

 この二つの分野を指摘しながらも、ケインズ自身はそれまで憮視されてきた産出量、雇用水準の分析、あるいは有効需要の分析を過度に強調し過ぎたためにケインズの理論は古典派理論に代わるものだと誤解されてきたのです。しかしケインズ自身は死ぬ前に書いた論文の中で、「古典学派の教えの中には永遠の真理がある。」ということをはっきり申しています。その永遠の真理を具体化している古い理論というものを、日本で一番最初に鮮明に描き出したのは大熊信行であると私は思うし、その点は一橋経済学の責重な遺産として数えてもいいと確信します。

 資源配分論は現在ミクロの経済学と呼ばれていますが、ミクロ経済学を日本において一番最初に定型化し、それを独創的しかも立体的に描き出したのが大熊経済学であったといえます。以上で今日申し上げたかった一つのことを終えます。戦前に登場し戦後に生きている三つの重要な経済学のことがこれであります。次に、戦後に生まれ、そしてまた将来も生きるであろう、そういう幾つかの業績に簡単に触れたいと思います。


   戦後の諸分析
 

 一つは山田雄三先生が曽つて『日本国民所得推計資料』として、明治以来戦前の昭和期に至るまでの国民所得のデータを整備されたものがあります。残念ながらこれは山田先生自身が単独でなさったために、必ずしもすべてのデータを駆使しての仕事ではなかったようです。それを受け継いだのが一橋大学の経済研究所の仕事です。それは大川一司さんや私や、その他の多くの人々が共同して、いわゆる『長期経済統計』として刊行したものです。東洋経済新報社から全十四巻として発行され、三巻だけはまだ出ておりません。しかし主要部分はすでに刊行されました。

 『国民所得』とか、『消費支出』とか、『資本形成』とか、『財政支出』といったそれぞれの書物はその半分以上ないし三分の二が推計された統計から成っており、推計は明治初年に遡ります。私自身も、『個人消費支出』『鉱工業』という二つを分担しました。書いたというよりはこれは一つの統計的推計です。
私は個人消費支出の推計で、いまでも思い出すことがあります。それは焼酎の消費量の推計についてです。ところで、明治七年には「全府県物産表」というセンサスともいうべき初めての詳細な調査があります。そのときにはわらじがげで少数の熱心な人々が全国を歩きまわって、精密な調査をやられたのです。それから数年して、農商務省が「農商務統計表」というものを出しました。

 問題は焼酎の生産量ですが、明治七年の「全府県物産表」の焼酎生産量に比べて、それから数年後に行われた「農商務統計表」での焼酎の生産量がどえらく少なくなっているのです。データが新しいにかかわらず数年後の焼酎生産量がなぜ一挙に五分の一に急低下するのか。私それに苦慮いたしました。これを解決することなしには前進することはできません。そこで一橋大学の図書館の中を歩き回ったわけです。どこにこのギャップを埋めるデータがないか。そして最後にぶつかったのは、当時の税務監督局が行った東北地方の密造酒の調査です。それは実に厚い資料です。ところがそのデータにもとずいて東北諸県の密造酒の生産量を集計いたしまして「農商務統計表」の焼酎の生産量にプラスいたしますと、ほぼ明治七年の焼酎生産量に見合う数字になりました。私はそのとき非常にうれしかったのですが、要するに明治以来の個人消費の推計をやるには、そういう密造酒の生産までを調べなければならなかったということを申し添えておきたい気持にかられるのです。

 いずれにせよ、財政支出、国際収支、あるいは鉱工業や、それらにもとずく国民所得系列の推計値をあらゆる面からアプローチし、これを網羅した『長期経済統計』十四巻は、多分あと二年以内には完結するだろうと思います。それを
英語版にまとめたものがOhkawa and Shinohara,ed.,Patterns of Japanese Economic Development:A Quantitative Appraisal,1979という書名の下にエール大学から刊行されましたが、このような仕事は、一橋の戦後における一つの実証的学風を確立し、その国際的声価を高からしめたものといって差支えないと思います。

 南亮進氏が、一九八一年末に『日本の経済発展』という書物を東洋経済から出されました。実は『長期経済統計』十四巻を出す過程で南さんも参加されたのですが、そういう責重な推計資料十四巻の上に乗ってかって、日本の経済発展をもう一度詳しく数量的に分析し直したのがこの南氏の書物だといえます。もちろん、その他の数量分析的な論議もそこに収められていますが、一橋のデータからスタートした実証分析が、総括的にみてどういう結果になっているのかを見るためには、南氏の新著は非常に便利かと思います。

 この『長期経済統計』十四巻にはリーダー格の大川一司先生のほか、私や梅村又次氏、江見康一氏、石弘光氏、塩野谷祐一氏、南亮進氏、藤野正三郎氏、山沢逸平氏、野田孜氏、伊東政吉氏、小野旭氏をはじめとして、学外からもいろいろな人に参加をお願いした次第です。これは一橋が戦後行った誇るにたる仕事であったと思います。

 ついでながら大川一司氏は、日本のクズネッツといわれている人です。私自身はクズネッツの学風がそれほど好きではありません。しかしクズネッツは世界の国民所得の推計の発展に大きな役割りを果たした人であって、ノーベル賞をもらった人です。大川一司氏はリーダーになってこの仕事をしゃにむに推進した重要人物であります。

 忘れないうちに言っておきたいのですが、一橋経済学だから一橋出身でなくてほならないという、そういう古いセンスは戦後の段階ではすでに放棄されています。一橋の経済研究所の最初の所長はハーバード大学出身の都留重人氏でした。大川一司さんは東大出身です。その他数多くの優秀な学者が戦後一橋に入り込んで、一橋の血を新鮮なものにしたといえます。戦後の一橋大学は一橋の人間でかたまってしまうといういわば近親結婚はとらず、絶えず斬新な
血液を外部から注入するという形で、非常に大きな多様化を示してきました。
 「一橋の学問を考える会」というのができたことは結構ですが、仮りにもそれが一橋だけでかたまるという、狭い考え方にとらわれている方があるとすれば、私は残念です。むしろ戦後の一橋経済学はわれわれでもわからないくらいいろいろな分野に多様化しています。しかも血液は絶えず斬新になっているということができます。

 戦後、やはり今後とも残るであろうと思われるものに、そして一橋が一橋らしい一つの分析を提出した中には、例の設備投資の中期循環論があります。これは我田引水になりますけれども、三十六年に「東洋経済統計年鑑」の中に書いた一つの論文に、「経済成長と設備投資急進の評価」というのがあります。

 実は、戦後は中期循環、設備投資の十年周期の波は完全に世界の経済学から忘れられてしまった感がありました。私は戦後の日本経済にはそれがある。GNPに占める設備投資の比重はほぼ十年周期のうねりを示しているということをずっと強調し続けてきました。一番新しくは日本経済新聞の本年一月二十七日号に「生き続ける中期循環」を書いたのでありますが、その中期循環が日本、アメリカだけではなくて、韓国、台湾、中国、ハンガリー、ユーゴスラビア等々にも生存し続けているということを強調したのです。

 ところで私だけではなくて、一橋の経済研究所の私の同僚藤野正三郎氏は『日本の景気循環』という大著を昭和四十年に出しております。私に言わせていただきますと、藤野君のこの大著は、シュムベーターの『ビジネス・サイクル』よりはすばらしい力作であるといってよいと思います。この藤野氏は、『日本の景気循環』に「循環的発展過程の理論的・統計的・歴史的分析」という副題をつけております。実はシュムベーターの『ビジネス・サイクル』の副題もTheoretical,Statistical and HistOrical Analysesというのでした。

 しかし率直に言ってシュムベーターの大著は、理論的、統計的、歴史的分析であったかどうかはむしろ疑問です。
『ビジネス・サイクル』はそうではなかったと思う。彼の統計操作は非常に不備であったと、私は思っています。
またシュムベーターでは、技術革新論が余りに強調されすぎていたので、その他の分野へのつっこみが不充分となり、資本主義過程の分析としては失敗だったのではないかとさえ思っています。

 それに比べると、日本だけを取り上げているけれども、藤野氏の『日本の景気循環』は一橋が生んだ将来とも残る重要な所産だと私は感じています。

 第二に、戦後に生まれ今後とも議論を生みながら残る分野は何か。それには二重構造論・労働市場論を見逃がすことはできません。実はこの点でまず山中篤太郎先生の中小企業論を回顧したい気持ちがいたします。私は日本の中小企業文献をサーベイした百ページに及ぶ長い英文の論文を書いたことがあります。これは、ホゼリッツ編の『経済成長過程における中小企業の役割り』(英文)という書物の中に収められています。

 私はその論文を書くために、日本の沢山の中小企業文献を渉猟したあとで山中篤太郎先生が日本の中小企業論の発展に非常に大きな役割りを果たされたという実感を抱きました。先生は日本に中小企業文献が多すぎるくらいあるけれども、国民経済全体の中での中小企業を「総合理解方式」によって把握したものは少い、「部分理解方式」では中小企業の本質的な姿をとらえることはできない。このことを山中先生は終始強調してきました。そして日本の中小企業学者を戦前・戦後にわたってリードしてこられたように思います。

 つまり、中小企業の問題を国民経済から孤立した形で分析していては、中小企業の実態がわかるはずはない。国民経済全体の中のインテグラル・パートとして中小企業を理解することなしには、つまり日本経済論なしの中小企業論というものは成立しない。これが山中篤太郎先生の主張であったかと思います。残念ながら山中先生は、講義でも書物でも非常にむずかしい言い方をなさったので、われわれ学生は悩まされたですが、しかしそれにもかかわらず戦前・戦後
を通じて中小企業研究に貴重な貢献をなさった方だったと思います。

 第二は、二重構造論、労働市場論で、私だとか、いま学長をやっている宮沢健一氏が、「資本集中仮説」という考え方を提出したということです。宮沢氏の 『資本集中と二重構造』という論文は、エコノミスト賞をもらっております。しかしそういった私や宮沢氏の問題提起に対して、川口弘氏とか、いま神奈川県の知事をやっています長洲一二氏、その他若干の人の共編で、『日本経済の基礎構造』という書物が登場いたしました。その意味では、これは一つ波紋を投じた考え方といえます。

 多分、私あたりの議論には間違いもあっただろうかと思う。しかしながらそれに対して南亮進氏だとか梅村又次氏だとか、寺西重郎氏といった一橋大学に残留している人たちがすでに批判を加えていますが、今後ともこの分野を大きく展開してくれるのではないかと、私は期待している次第です。

 梅村又次氏の 『賃金・雇用・農業』という書物、あるいは『戦後の日本の労働力』という書物、この二冊は当時世の注目をうけた書物でした。『戦後日本の労働力』はエコノミスト賞をもらった書物でした。南亮進君の 『日本経済の転換』という書物。これも日経賞の対象になった書物であります。また成渓大学から一橋大学にかわった一橋出身の小野旭氏の『戦後日本の賃金決定』、これまた日経賞の対象になった書物です。等々、戦後の分析が多様化し多角化しているために一つ一つ挙げていくときりがありません。

 私の関心範囲に限って申しますと、日本の高い貯蓄率の解明に迫った分析も一橋には多かったようです。しかも勤労者の貯蓄率をみると一九五〇年代初めにはわずかに二%にすぎなかったのが、一九七〇年代には二〇%を超えてしまった。しかも石油ショック後、成長率が半減したにかかわらず勤労者の貯蓄率が二〇%以上のレベルを稚持しています。これは世界の経済学者の奇異とするところであります。

 貯蓄率というのは成長率と非常に大きく関連しているというのが・アメリカで提出されたいくつかの有力な仮説の一致した見解でした。フリードマンの恒常所待仮説とか、デューゼンベリーやモディリアーニの相対所得仮説。それからモディリアーニを中心にして展開されたライフ・サイクル仮説といったものの共通の結論は、貯蓄率は成長率が半減すればガクッと落ちるのが当然だということです。

 しかし成長率が落ちたその段階で日本の貯蓄率は依然として高水準を維持しています。しかも、5%で成長率が安定していた時期にも貯蓄率は上昇し続けたのです。したがって一九八一年にイタリアで開催された小さな国際学会で私が日本の貯蓄率について報告した際、モディリアーニ先生がその座長をつとめて、私の報告する前に一言したのですが、「日本人は非常にクレイジーな貯蓄ビヘイビアを示しており、しかも篠原が引用した日本の統計というのは全く信じがたい数字で埋められている。」と申しました。

 実はこういう日本の貯蓄率の特異性に最初にアタックした文献としては、私が昭和三十年代の中ごろ書いた『消費函数』が挙げられます。続いて一橋経済研究所の溝口敏行氏は、いろいろ研究を発表しました。また溝口氏はPersonal Saving and Consumption in Postwar Japan という英書を一九七〇年に出しております。当時はほかの大学ではそれほどまともに取り上げられなかったのですが、一橋グループが真先きにこれを取り上げたといってよいでしょう。

 宮沢健一氏の書物では注目されるのは産業連関分析を利用した『経済構造の連環分析』という書物です。そのの重要な部分が、のちに一九七六年Input and Output Analysis and the Structure of Income Distributionという英書で刊行されましたが、これは日経賞の対象になったわけです。それから氏の『現代経済の制度的機構』という書物は、これは法制度と経済といった、いままであまり取り1げられなかった制度的な問題を、わが一橋で初めて大きく取り上げるに至った一つの重要な文献であります。

 他方商学部の今井賢一氏の力作『現代産業組織』という書物は、一九七六年に出ておりますが、これも日経賞の対象になったものです。このようにして日経賞とかエコノミスト賞を手がかりとして見たときも、戦後一橋の経済学は将来に残すものをかなり生み出しているということができます。

 外部からいささか弱い分野は一橋では数理経済学だといわれることが多いのです。戦前は数理経済学の側面で強いと、一橋経済学は言われたのですが、戦後はその点で少し弱くなっているのではないかということです。しかしその点は二階堂副包氏を招いたりして、外から新しい血液を導入しようとしているようですから、悲観したものではないと思われます。

 ほかに日経賞をもらった書物といえば、たとえば石弘光氏の『租税政策の効果』があります。また堀内昭義民『日本の金融政策』も日経賞の対象になった力作です。高山憲文民の『不平等の経済理論』もたしか日経賞か、エコノミスト賞の対象になった書物です。このように数々の書物がわが一橋でも数え上げられることは、私にとって非常に喜ばしいことです。

 恐らく東大出身だと思うのですが、野口悠紀雄氏も現在は一橋で教えている人ですが、『情報の経済理論』という立派な書物を書いて日経賞を得ており、最近は『財政危機の構造』その他の書物を何冊か世に問うている方でありますが、この方も嘱望されている重要人物の一人でしょう。その他石川滋氏、塩野谷祐一氏、宮川公男氏など一橋でこれまでも注目すべき業績を残し、今後も嘱望されてよい数々の重要な人がいます。

 ただここでは二階堂氏や荒憲治郎がやっている理論物には触れないことにいたします。これは別に適任者があると思うからです。この場合結論的に申し上げたいことは、一橋経済学だということで、われわれは余りに封鎖的に考えてはいけないということです。一橋経済学が発展して行くためには、絶えず血液を新たなものにする必要がある。こ
の経済学が高度に多様化している時代に、一橋経済学を云々することによってあまり一橋特殊的になってはいけないということです。学問は特殊的であると同時に普遍性を持つものでなくてはなりません。これは私の確信であります。

 残念ながらいままで私の先輩の先生方がここで報告された事柄は、どうやら昔の回顧談た終わって、現在に必ずしもつながっていないのです。重要なことは昔と現在をつなげるような理論分析が、今後も生き続けるかどうかです。特殊でありかつ普遍的なもの、いまも生き将来もまた生き続けるもの、こういった学問が一橋の将来に繰りのべられていくかどうかが大事だと思います。

 私はある意味で先輩の先生方からお叱りを受けるようなことをずっとお話し申し上げたのではないかと思いますが、言ってしまえば今はせいせいするという面もないわけではありません。あとは皆様方からお叱りをいただければありがたいと存じます。どうも失礼いたしました。


   [質疑応答]

 伊藤 われわれが学生だった時代には経済価値論が非常にはやっておりまして、マルクス経済学に対決する人として小泉信三さんや、安井琢磨さんが登場していたと思います。マルクス派の方ではたとえば大森義太郎さんとか、いろいろ人が出てきました。これらがしょっちゅう「改造」や「中央公論」の巻頭論文として顔を出していました。われわれも、わからないながらも、それなりに関心を持ってこれらを読んでいたものです。

 その当時価値論は実際にはそんなに役に立たず、すべての経済現象は価格論で説明がつくということをカッセルが言ったという話もありまして、なかなかおもしろいと思ったのですが、世の中に出て実際に経済現象の中で生きてみると、どうも価値論を大まじめになって議論してみても、余り効果がないという気がしますが、その辺先生はどうお考えになりますか。

 篠原 たしかに当時有象無象の人が価値論をめぐって論争をやりましたが、本当に戦後に生き残ったのは何であるかというと、大熊さんの言った「資源配分論」だと思います。なぜなら資源の配分がある意味で均衡状態、あるいは最適資源配分の状態になった点では、実は限界効用と価格が一致し、同時に価格に限界コストが一致します。そこでは労働価値説と限界効用説の両方とも生き残ります。

 現実には価格は変動します。それが上ったり下ったりしながらも、いずれは均衡状態に落ちつく傾向を持たないわけではありません。変動がtendする極限状態で成立すると思われる関係が均衡という概念です。そういう状態というのは諸商品の需給がすべてバランスし、しかも効率という点で一国民経済の資源配分が最適状態に到達した場合です。

 現在の社会主義経済がうまくいかないのは、そういう価格機構をうまく利用しないからです。社会主義経済がうまくいかないのは、価格機構なり、市場機構を活用しないで、価格体系を硬直的なままに放置する傾向があるからです。そのために、産業によって過剰在庫が生じたり、過少在庫になったりして、不均衡が恒常化します。そこでは、価格と価値は当然乖離します。

 むしろ資本主義経済ではこの価値論の重要性を意識していないでいる人が多い。しかし社会主義経済ではその重要性は非常に大きいのです。米なら米、鉄鋼なら鉄鋼の価格が長い間据え置かれたままですと、これが一国の資源配分
を非常にミスリードして、長期的には不均衡が累積して、どうにもこうにもならないようになってしまう。

 そこには構造的・長期的な価格伸縮性がないのです。しかし構造的・長期的な価格伸縮性がある状能を想定いたしますと、長期的には均衡状態に到達した以上は、価格とコストと消費者の効用とが何らかの形で均衡関係を示す状態というものを理論的に推定することは可能です。

 したがって価値論というのは根本的には資源配分論でなくてはならない。しかし戦前行われた経済価値論は、残念ながらそのエッセンスが資源配分論であるということを忘れて、やれ労働価値だ、やれ限界効用だということで、論線を張ったにすぎない。

 従って戦前行われた価値論争は、非常にミスリードされていたと思います。当時の見解の相違をアウフヘーベンするためには、その価値論の裏にある資源配分論まで行きつく必要があると私は思います。その意味で大熊先生の『マルクスのロビンソン物語』は、非常に早い時期に問題の所在を明確に意識し、価値論争をアウフへ1ベンして、世界中に当てはまる形に整理したものだといえます。日本人が自らの独自の思考を辿りながら初めて行った整理だと私は思う。

 もちろんワルラスの『一般均衡理論』は実はすでにその実体は資源配分論であったというふうに私は考えるし、今日はそれに異を唱える人はいない。しかしそれを昭和の初期に明確に意識したのは大熊信行先生だったと思われます。

 中島 先程先生がご紹介になりました赤松先生の雁行形態論と先生のブーメラン効果の議論は、日本経済の長期の過程を説明するのに非常に適切だと感銘した次第です。ところが先程お話しになりましたように、最終段階において垂直分業ではなしに水平分業観に連結されるところで説明が終っています。
しかしいま現在では、重化学工業にそのブーメラン効果が働いて、日本経済の前進に悪影響が出て来はしないか。

 ただ情報産業や、コンピューターや、ICに活路を求める議論もありますが、その辺まで行ったうえ、さらに水平分業まで行き、そこで四海波静かという状態になってしまうのでしようか。それともそれからさらに生成発展する形になっていくのか、この辺の問題について補足的にお話を伺いたいと思います。

 篠原 非常にむずかしい質問です。つまりいま機械工業の分野でメカトロニクスが展開していますが、これを越えてこんごどういう方向が出現してくるだろうか。これには将来の技術革新を見通さなければなりません。たとえばバイオテクノロジーが将来どうなるか。あるいは特殊の金属素材としてどういうものがあらわれてくるか、等々。いろいろな問題がそこに絡んでくるわけです。

 率直隻に言って私には手に負えぬ問題です。平準化されて世界中穏やかになってしまうかは、多分そうではないでしょう。はっきりしていることは、世界経済は、あと二十年以上も長い期間にわたって二つの大きな要因が対立しあいながら、前進していくと思われることです。一方ではいろいろな技術革新が登場してくる。しかし他方では技術革新の成長促進効果を産油国の石油価格引き上げが、どの程度帳消しにするかということです。

 ただ現在は世界の石油在庫がだぶついています。だからいましばらくは石油価格が上らないとしても、しばらくして世界経済がまた浮揚してくるようになれば、また石油価格が上るかもしれない。オイル・サイクルが登場してくるということです。石油価格の上昇はそのときは、世界経済を再び押さえ込むかもしれないからです。

 もちろん脱石油を狙う技術革新が進行するし、また石油に大きく依存しない新しい産業が出てくる可能性があるかもしれません。しかしわからないのは、いろいろな技術革新が出てきたとしても、それは高度成長期にいろいろな産産業の推進力になった程度の広汎な射程範囲を伴った技術革新となって現われるかどうかということです。

 またいま言われているいくつかの技術革新が本当に果実として実を結ぶのは十年後であるか十五年後であるか、そ
れとも二十年後であるか。その辺が私が技術の専門家でないものですから、数量的、かつタイミング的によくわかりません。ただ言えることは、新しい技術革新がたしかにこの世界経済の停滞の中で芽生えつつあるということです。

 シュムベータ1の言うように技術革新は不況の期間で芽生え。そして好況期にアウトプットして姿を現わす傾向があるからです。不況はイノベーションのインプットされる局面です。これに対して好況はアウトプット増大の局面です。

 しかしわからないのは、そういう技術革新を生み出す萌芽があるにしても、それはアウトプットを増大させるには、新しい世紀を迎えなければならないのか、あるいはその前に出てくるのかということです。さらに、日本がここまで伸びてきたのですが、これが他の多くの国によって追い越されるか、またアメリカにどの程度再活性化が可能なのか。その辺は歴史は生き物であって、同じ形で繰り返さないという面があります。ここでは、わからない理由を申し上げてお答えにかえたいと存じます。

 小島 現代に生きる一橋大学の遺産と栄光をめぐって、大変われわれ力強いお話を承ったと思いますが、これは同時に経済学及び経済政策の形成過程に対する篠原経済学の寄与をお話しになったことになるのではないかと思って大変感銘深く伺った次第です。ことに篠原経済学に対する中山理論、赤松理論、大熊理論の影響がはっきり浮かび上ってきて、篠原経済学の全貌を支える秘密の一つがわかったような気がします。

 ちょっとお伺いしたいのは、現在の世界経済の当面している状況には、「制約循環」的な見方が確かに一つあるように思うのですが、たしかに制約循環による一般的な説明ができるとしても、資源制約に対処する個々の国のダイナミズムといったものは一般的な理論だけで説明できるかどうか問題です。たとえば現代日本の社会経済がオイル・ショックにすばらしい適応力を発揮したといわれていますが、それは何か個別的、特殊的なもので説明できるように思うのですが、その辺のところはいかがでしょうか。

 もう一つは、先程大能先生の『ロビンソン物語』が現在生きているというお話をされましたけれども、大能先生の理論の一つの大きな柱として『生命の再生産理論』があると思うのですが、これも現代としては見直していい、引き継がれている理論の一つだと思うのですが、その点についての先生のお考えを伺えれば大変ありがたいと思います。

 篠原 実は『生命再生産の理論』は、大熊先生の中の一番新しい分野に属します。私、非常に不遜な弟子かも知れません。大熊先生には考え方としてかねてからそういう考え方があるということは承知しています。しかしそれを経済学の「体系」として、かためることは困難なところまで踏み込まれたような気がするわけです。

 生命再生産を問題にする場合、どうしても睡眠時間に一定時間を割かなければならないという問題があります。これは現代の世界の経済学の中で、確かに取り上げられています。ランカスターや、ベッカーや、グロナウといったアメリカの経済学者は、時間配分の問題を取り上げ始めているからです。もちろん大熊先生はそれよりはずっと前に昭和初期これを取り上げているわけです。

 ただはっきりいって「経済理論」 の形式を踏まえた形で大熊先生がこれを取り上げたわけではありません。こと時間配分に関する限りは、大熊先生の取り上げ方はジョン・ラスキンやウイリアム・モリスがいろいろなことを論じたのと大同小異です。いわば文芸評論家的な形での取り上げ方であったと思います。

 たしかにラスキンやモリスは思想評論家としては現代も生き残っているかもしれません。しかしそういった方は経済学者としては生き残ってはいないと思うからです。この点では弟子である私の方がシビアです。思想評論家としては大熊先生の生命再生産の理論は残る。しかし経済学者としては残念ながら整理ができていないといわざるを得ません。しかしながらいままでの経済学は、消費者としては個人を仮定しています。

 ところがアメリカで展開された新しい消費理論では家計を生産単位として認めるようになっています。つまり奥さんが台所をやることも生産活動とみなします。外から買ってくるものは「市場財」の購入ですが、奥さんが台所をしたり庭をきれいにしたりすることは「家計財」の生産とみなすのです。また子供を学校にやることは一種の教育投資と考えます。

 こういうふうにして家計を生産単位として認めるのです。この点では大熊先生の見方はすでにアメリカの若干の経済学者の展開のなかにも見出されます。しかし経済学としての展開が非常にむずかしいのは生命の 「再生産」にまで議論を展開することは非常に至難だということです。

 たしかに言葉として言えるが、定式化が難しいのです。意識としては大能先生の方が先である。しかし定式化は大熊先生によってはなされていないと思うのです。私、初めて大熊先生の講義を聞いたとき十七歳でありましたが、そのときのモリスや、ラスキンの話から、大きな刺激を受けました。今日の私は、評論家としての大熊先生の、いろいろなアイデアに刺激されをことが多いのですが、こと経済学的フォーミュレーションというところで大熊先生と分かれざるをえない気がします。

 しかし大熊先生は文芸評論家として非常に尊敬していますが、今日は経済学というカテゴリーをあらかじめ設定したものですから、そういう文芸評論家としての大熊先生には論及しなかったわけです。しかし世界の経済学者が戦後、最近になって当面したものを大熊先生も同時に、生命再生産の理論という形で、もっと幅の広い意識と視野の下でこれを取り上げていたということは、指摘されていい問題だと思う。

 制約循環を一般性を超えて、個別的角度からアプローチしたとき、石油ショック後の日本の良いパフォーマンスが、よりうまく説明できはしないかというご見解は、そうかもしれません。しかしその問題に関するかぎり、特殊性の側面を超えて普遍性の角度からも、もっとつめてみなければならない問題が残っていると私は感じています。
                                         (五十七年一月二十六日収録)

如水会ゝ報   新春号    平成十九年(2007年)一月 第920号 p.11
          篠原三代平名誉教授文化勲章受賞