一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第九号] 杉村学説の示唆するもの       一橋大学名誉教授 馬場 啓之助

  1   報告の主題

 きょうは、杉村学説につきまして、それがどんな意味を持っているかということをお話しさせていただきたいと思います。私の理解いたしますところでは、杉村学説と申しますのは、昭和十年に出しました『経済哲学の基本問題』、十三年に出しました『経済倫理の構造』、戦後の昭和二十二年に出しました『社会主義の哲学』の三つの著書が中心になって、杉村先生独特の考え方が展開しておりますので、それを仮に杉村学説という名前で呼ばせていただきたいと思います。

 杉村先生は、左右田先生の跡を継ぎまして経済哲学説を展開したわけですけれども、杉村先生の経済哲学というのは、ヨーロッパの資本主義文化を支えておりました社会哲学の体系の一環として経済哲学説を展開したわけでございます。これは、左右田先生が、「文化価値主義の経済哲学』という杉村助教授(当時)の解説書で示されておりますように、文化哲学の一端として経済哲学を展開したわけですけれども、杉村先生の場合は、社会哲学という体系の中で経済哲学をどういうふうに位置づけるかということでご苦労なさったようであります。私は、以下、杉村先生が展開しました社会哲学の考え方を中心にご披露申し上げたいと思います。

 社会哲学と申しますが、杉村先生の書物では、『経済倫理の構造』と、戦後に出しました『社会主義の哲学』の両者で、基本的には同じような考え方が展開しておりますけれども、後者の方が理解しやすいので『社会主義の哲学』を中心にいたしましてお話を申し上げたいと思います。ただ『経済倫理の構造』の中で、杉村先生の基本的な考え方として維持されておりましたもの、それを本日皆様に配布いたしましたレジュメにも書いてございましたような順序で説明していきたいと思います。

     2   『経済倫理の構造』における杉村学説

 経済倫理と申しますのは、社会倫理が、経済中心の時代において展開した倫理であるというふうに理解していただきたいと思います。その社会倫理を構成いたします場合に、構成要素といたしまして杉村先生は三つの要素を常に主張されていたわけです

 
  (1) 経済倫理を構成する三要素

 第一は、そのときの社会組織を支えております基本的な理念でして、これは超合理的なものである。それが第一の要因です。第二の要因としては、その経済組織を―特に資本主義の時代は経済組織が中心になりますが―支えております行動原理と申しますか、そういうことを第二番目の要素として展開しまして、社会組織、あるいは経済組織を展開して合理的な行動を行ったものが全体の理念に適合した場合には、いわゆる主体性を獲得するということです。経済組織で申しますと、いわゆる企業主権が成立するわけです。そういう主体性の確認というのが第三の要素になっております。

 この三つの要素を組み合わせまして、経済倫理とか、あるいは社会倫理というものを展開するのが杉村先生の基本的な考え方のようです。

 戦前、杉村先生がお勤めになっておりました交易営団という組織がございます。私、交易営団に就職しまして、そこで杉村先生を中心にした営団経済を主蓮にした研究会を持ったわけですが、そのとき、杉村先生は自分の考え方を若い方々に説明します場合に、媒介役をする人間がいなければいけないというので、私を媒介にして、おまえを通じ
て若い人にいろいろ話をしてくれということを先生がおっしゃったわけです。私はその当時から、杉村先生の言うことは何でもよくわかると思っていたのですが、この間、新井経済研究所の方から、杉村先生の話をしろということを言われまして、杉村先生の書物を読み返えしたわけです。ところが、昔わかっていたと思っていたことが、よくわからない。何か少し曖昧な点がございます。したがって、いまはもう私は杉村先生の考え方をパラフレーズするというのに適任であるかどうか疑問ですが、若干、私が考えております杉村学説に対する、いわば疑問と申しますか、もう少し違った考え方を展開すべきでなかろうかということを含めまして、お話しをさせていただきたいと思います。

 
  (2) ウェーバー仮説のマキアヴェリー的解釈

 経済哲学の問題で、杉村先生はさっき申しました三つの原理というようなものを中心にしまして展開しております。その中心はいわゆる資本主義の精神ということです。マックス・ウェーバーが三つの要素をうまく組み合わせまして独特の仮説を展開したわけです。皆さんご存じの有名な仮説です。それを杉村先生の『経済倫理の構造』におきましては、いわゆるマキアヴェリズムと申しますか、近代国家の成立を説明いたしました例のマキァヴェリーの理論の方が、どうもマックス・ウェーバーの考え方よりも、より全体の説明に適しているのではなかろうかと言われたわけです。と申しますのは、マックス・ウェーバーの仮説は三つの要素として、全体性の理念としましては、いわゆる神の予定説をとっています。これは非常に超合理的なものでして、神がそれぞれの人に対しましてどんな人生の行路をたどるか神の意志によって予定しているが、その内容は、もとより個人にとってはよくわからない。そこで神の栄光を地上にあらわすために現世的な精進を行いまして、つまり企業を起こし、企業で利潤を重ねて、その利潤をうまく活用しまして、資本主義なら資本主義の組織のいっそうの展開を可能にするようになった
場合、すなわち成功した場合には、神の恩寵が下っていたんだということを確認することができる。神の予定がどういうものであるかよくわかりませんけれども現世で成功するということによって、神の恩寵が自分に下っているということを確認することができる。こういう考え方が、ウェーバーの仮設の中心ですけれども、資本主義を説明するのに神の予定説といったような宗教的な信仰を表面に出しまして、信仰と企業における成功というもの、直接は関係がないように普通の人には思われますものを、そういう仮説として取り出しているわけです。これは資本主義がヨーロッパで起こりました勃興期の、つまり特殊事情におきましてそういうことが結びつけられたのでしょうけれども、経済倫理と信仰というものとは即に結びつくものではない。そういう結びつきがたい仮説を出して説明しておりますけれども、むしろマキアヴェリーが近代国家の成立を説明いたしましたときに展開した論理の方がよりわかりやすいということが一つの理由ではなかろうか。それで杉村先生はマックス・ウェーバーを余り表面に出さないで、いわゆるマキアヴェリズムを中心にしまして、資本主義の説明をしようとしたのではなかろうかと思うわけです。このマキアヴェリーの理論の方が、ウエーバー仮説よりもより理解しやすいということが一点です。

 もう一つは、いわゆる自由主義で自由主義で自由に行動いた全体の生産力の拡大、あるいは組織の存続というようなことが自然に起こっていた時代が過ぎていって、ただ自由に考えに従って展開しただけではだめだということになりまして、いわゆる自由主義の終焉という時期を二十世紀の初めに迎えましてから以降は、いわゆるマキアヴェリズムの方がより説明が容易であるというふうに考えられたのではないかと思うわけです。ついで『経済倫理の構造』の中で、いわゆる経済倫理の形態変化ということにつきまして説明されておるわけです。


  (3) 経済倫理の形態変化

 初めは、いわゆる社会功利主義と申しますか、最大多数の最大幸福を基調にいたしましたベンサムの説を杉村先生は、功利主義だけれども社会功利主義だと、社会という点に非常に力点を置きまして社会功利主義という説明をされておるわけです。なぜ、普通の功利主義ではなくて社会功利主義であるという形で説明されているかというと、私たちは最大多数の最大幸福ということを指標として持ってくるけれども、最大多数というのは「より多数」 ではない、最大多数、一番多いということです。一番多いということ、最大ということがはっきりいたしますためには、ただ人数がふえるということではなくて、全体社会の中で最大ということを決めるような全体の構図がなければならない。だから、それは社会功利主義であるという説明をされたようです。だから全体、社会的な構図がはっきりしませんと、何が―「より多い」だけでなくて、最大ということが言えるか言えないかということを議論するわけにはいかないというので社会功利主義であるという性格づげをされたのではないかと思うわけです。

 社会功利主義という考え方は、いわゆる自由主義の終焉をうたいましたケインズの初期の論文の中でも、いわゆるベンサムの考え方というのは社会功利主義だ。一種の社会主義に類するものだということを言っておいでになるわけです。しかしケインズは後のゼネラルセオリーを展開いたしました場合には、いわゆるベンサムの考え方を、むしろそれを否定するような考え方を出されてきたわけですが、必ずしも首尾一貫をしておらないというふうに読む者は感ずるわけです。杉村先生の場合は、社会功利主義というのを、社会を非常にべトウネン(強調)して、そういう説明をずっとされていたわけです。

 社会功利主義ということですけれども、十九世紀のイギリスで、いわゆる権力主義の国家を民主化するための社会改良、教育から選挙からいろいろな面にわたりまして、十九世紀の前半から後半にかけて改良が行われたわけですけ
れども、イギリスの十九世紀の社会改良の中心の役割を果たしましたのはベンサム主義者です。民主化のためにベンサム主義者は社会改良的な仕事をいろいろ展開したわけです。しかし受け取り方といたしましては、個人の幸福を手段といたしまして、それが累積されまして全体としての社会福祉の向上につながっていくんだという考え方が基本にございまして、自由主義ということをかなり強調されたわけです。ベンサム主義者たちは自由主義を強調したわけです。それが個人個人が自由にやって自由に幸福を追求する。それを手段にして集計いたしますと社会福祉が展開するんだという考え方。ところが、結果として社会福祉が向上するんだという考え方にだんだん安住できなくなってきたわけです。

 それと申しますのも、いわゆる資本主義におきまして、金融資本の勢力がだんだんに増大してまいりまして、金融資本供給の消長によりまして景気変動が起こってくる。その場合に景気変動に伴いまして失業が起こってくる。そういう状態になりますと、ただ各人が自由に幸福を追求すればよろしいということでは済まなくなってきまして、二十世紀に入りまして第一次世界大戦の前後に起こりました、いわゆるリベラル・リホームズが行われまして、福祉政策が政府によって展開されてくるわけです。そういうことになりますと、ただ自由にやっていて、各人を自由に働かして、ただ秩序さえ守ってくれればよろしいということでは済まなくなってきまして、社会福祉なら社会福祉を追究するために、社会保障とか相続税の設定とかということが非常に重要な眼目になってまいりますと、権力国家から、いわゆる国民国家に移行するわけです。

 国民国家という考え方について杉村先生がおっしゃるところによりますと、国民国家というのは国民といういわば共同体を中心にした国家である。社会福祉を目標にして共同体を活用しまして、社会福祉の向上を計っていくということが国民国家というものの本来の意味だ。権力国家から国民国家に変わっていきますために、社会保障、その他の福祉政策がきわめて重要になってくるわけですけれども、これに関連いたしまして、どうも資本主義もそのままの形でやっていたのでは目標が達成することがむずかしくなって、いわゆるベンサムの社会功利主義からアルフレッド・マーシャルの 「経済騎士道」に変わっていったと言うのです。

 先生は「経済騎士道」につきまして『経済倫理の構造』の第五章で、それを「経済における理想国家」というかこうで展開されておるわけです。経済倫理の方は先生の学位論文です。あれが出ましたときに、いろいろ批評をする人もあったようですが、三浦先生が言われたんだということを漏れ承ったところによりますと、アルフレッド・マーシャルのいわゆるフラグメント〔断章〕を自由に解釈して、「経済における理想国家」というような考え方を打ち出してきたけれども、果たしてそれでいいのかどうか。材料が少し不足じゃなかろうかということを三浦先生がおっしゃったということを漏れ承ったわけです。確かに、アルフレッド・マーシャルの 「経済騎士道」という論文を読みましても、杉村先生が展開されている経済の理想国家があれで示されているんだという解釈は、少し解釈が強過ぎるんじゃなかろうかと思うわけです。

 ご存じのとおり、経済騎士遠ということを言っておりますのは、経済文化はそのはかの文化と比較いたしまして、結果がそのまま個人の所有に帰するという点で特殊な性格がある。たとえば、政治なら政治で、ある業績を挙げましたときに、その業績は私物化されないわけです。それから、芸術の場合におきましても、よい業績を挙げましたときに業績は公共的なものになりまして、個人はそれに付随して若干の収入を確保するかもしれませんけれども、資本主義的な経済の場合においては、利潤を挙げますと、税金はもちろん付くと思いますけれども、大半は個人の所有に帰してしまう。そういうことで、どんなやり方で利潤を獲得するかということの是非を問わずに、とにかく大半は懐に入ってしまうという点が、経済文化がはかの文化に比べて非常に違う点である。それを企業が非常に大企業化いた
しまして、役所に官吏として勤めておりますのと大企業に勤めておりますものとある意味ではほとんど似通った仕事をするわけです。そういうことで、どんな方法で利潤を獲得するかということが非常に重要な問題になってくるので、適当な人々に集まってもらいまして公共的な名誉審判所をつくりまして、そして利潤を獲得する行為そのものにつきましての評価をして、″よろしい″というときにだけ名誉を与える、ということを経済騎士道ということで、アルフレッド・マーシャルが主張したわけです。それはちょっと杉村先生のお考え方、そう明示されておりませんけれども、名誉審判所に当たるものが公正取引委員会としてできております。さらに労働委員会等の第三者機関ができておりまして、それでいろんな審判と申しますか、そういうことを行っております。それを杉村先生の場合は、プラトンの考え方をとりまして理想国家という考え方を展開されたわけです。そういうことが 『経済倫理の構造』でうたわれているわけです。


     3 杉村博士の社会哲学説の主要な点

 ところが視点を変えまして、戦後に出ました『社会主義の哲学』によりますと、若干ニュアンスが変わってきております。戦後間もなく、昭和二十二年に出た本です。あのときは敗戦の結果、自由主義と社会主義を同時に導入しなければいけないという世論が出たわけです。自由主義と社会主義を一緒に導入して摂取しなければいかん。そういうことが問題になっておりましたときに、『社会主義の哲学』という書物を書かれたわけです。『社会主義の哲学』は、後に昭和三十八年に私たちが再版をさしていただきまして角川書店から出ております。重野吉雄さんは今日お見えになっておらないようですけれども、あれを学校で売ってくれと言われまして、大いに宣伝しろと言われたんですが、余りたくさんは売れなかったようです。

   (1) 杉村博士の社会主義観

 『社会主義の哲学』の内容に移りたいと思います。『社会王義の哲学』の結論的な部分で、杉村先生がこういう逆説的表現をとっております。社会主義というのは資本主義の行くべき方向を与えたものであって、だから社会主義というのは資本主義の文化のいわば目標を与えたものである。それは社会主義によって資本主義を修正する方向を与えたものだというのが、先生が『社会主義の哲学』の中で言われておる結論です。その結論は、先生が言う社会主義というもの1やっぱり独特の考え方、解釈があるわけですが ー 先生の言う意味の社会主義ならばなるほどそういうことになるかもしれないけれども、当時日本の場合は、現在もそうですが、社会主義というのは資本主義に対立するものとして、マルクス主義者によって宣伝されてきているわけです。
社会主義がなぜ資本主義文化の目標を与えることになったか。昭和になる前、確か大正十四年だと思いますけれども、『新カント派の社会主義観』という書物を横浜社会問題研究所で刊行しております。これは左右田先生がスポンサーになって、横浜社会問題研究所というのをつくられたわけですが、ここで本を二冊はど出しております。一つは、インフレ問題を取り上げており、もう一つが『新カント派の社会主義観』。『新カント派の社会主義観』の中で、杉村先生が若いときに論文を書かれておるわけですが、カール・フォールレンダーー ヘルマン・コーエンを頭領にいたしました、いわゆるマーブルガー・シューレーで育った哲学者―という人の社会主義説を杉村先生が紹介しております。カール・フォールレンダーの考え方を説明いたしますために、カール・フォールレンダーの師匠でありましたヘルマン・コーエンの考えた社会主義観に杉村先生もだいぶ同感していたようです。

 と申しますのは、カント流の理想主義の中に社会主義観を置いて考えれば、社会主義というのは非常に立派な考え方であるけれども、唯物主義と結びつけて社会主義というものを出した場合には、それは矛盾に陥っていって大
して推奨に値しないということをヘルマン・コーエンの先生に当たるんだと思いますが、オスカー・ランゲという人が唯物論の歴史を書いた書物、確か二冊本だと思いますが、それにヘルマン・コーエンが注釈をつけております。その解説の中で、カントを社会主義の思想のいわば想源になった人だということを言っております。しかしその考え方を、果たして歴史的なカントが社会主義を主張したかどうかということになりますと危しいわけです。カントは資本主義の前の時代、資本主義がまだ本当に成立していなかった段階に、職人と申しますか、そういう人たちが中心になっておりました時代の人です。だから資本主義に対して、かなり反発をしておりましたけれども、カントが社会主義を本当に説いたかどうかということは危しい。しかしヘルマン・コーエンは社会主義のいわば考え方のもとをつくったのはカントだと言っているわけですが、ところがカントの倫理学を読みましても、本当に社会主義と結びつくような考え方が十分に展開しておりません。それでカントの倫理学説の中に社会性の主張を色濃く取り込んで社会主義との結びつきをあらわそうとしたのが、ヘルマン・コーエンの弟子たちの仕事であったわけです。

 ナトルプという有名な学者がおりますが、ナトルプの社会哲学というものがカント流の考え方と社会主義を結合して理論を展開して、いわゆる社会哲学の休系をつくったのではなかろうかと思うわけです。杉村先生が三十ぐらいのとき、カール・フォールレンダーの解説をされておりました。そのときにはもちろん、まだナトルプの大著は出ておりませんでした。先生の社会主義について、カントと結びつけた社会主義の考え方というのは生涯変わらなかったのではないかと思います。そういう意味の社会主義ならば、資本主義文化の目標を明らかにし、修正の方向づけを展関するのが、社会主義を中心にした社会哲学だということが言えるように思うのですが、そういう考え方を『社会主義の哲学』 の中で杉村先生は展開をされているわけです。現在のマルクス主義の考え方も大分実証性を重んじるように変わってまいりましたので、杉村先生の言ったことがそんなに突飛な考え方ではないように思うわけですが、そ
の書物が出ましたときには、私どもは、先生は思い切ったことを言うなと感じたわけです。


  (2) 杉村博士の三段階説

 それから、『社会主義の哲学』の中でもう一つ新しいことを言っておいでです。これは、私、必ずしも賛成する立場で申し上げているわけではない。先生の考え方には、実証性の不足と申しますか、そういうことがあるんじゃなかろうかと思うのです。ところで先生は三段階説という図式を展開しております。いわゆる封建社会と経済社会、それから、第三の段階として産業社会。この三段階の図式を展開されておるわけですが、ずいぶん妙な考え方で、経済社会というようなことがどうしてそういうことを言われるのかとお思いになるかと思いますけれども、これは有名なローレンツ・フォン・シュタィンというドイツの哲学者が書いた書物がございますが、ローレンツ・フォン・シュタインの考え方を杉村先生は非常に高く評価されていたようです。ご存じあるかないかわかりませんけれども、昭和七年か八年ごろ、杉村先生が社会学という講義をお持ちになったことがございます。経済学史とか経済哲学という講義を一橋大学におきまして杉村先生が主として担当された科目ですけれども、七年か八年に社会学という講義を持たれたわけです。
社会学はフランスを中心にいたしまして展開した学問ですが、ドイツを中心にしてドイツ的な社会学を講義の眼目にいたしまして、ローレンツ・フォン・シュタインの考え方をかなり強調して、一年間講義をされたことがございます。皆様のなかにお聞きになった方々がいられるかどうかわかりませんけれども。

 その中でローレンツ・フォン・シュタインが「経済社会」という言葉を使っているんですが、封建時代の身分的な不平等を平等化するため些経済社会ということが起こった。経済社会の段階の次に産業社会という段階がきた。産業社会は資本主義的な経営がかなり根付いてきてから、封建的な身分制度による不平等と違って、再生産過程そのもの
に基づいた不平等が展開していった。封建社会の不平等というのは静態的な性格のものでありますけれども、産業社会の不平等というのはもっと動態的なものであって、非常に深刻な不平等が展開する。そのために何らかの修正を加えなければいけないというので社会主義運動が展開した。杉村先生は、封建社会、経済社会、産業社会、それから社会主義の段階だというふうに図式を展開されたわけです。これは余りいただけない考え方ではないかと思います。先生のお話をして先生の批判をするのはよくないのですが、多少強調点が違っているのではなかろうかという点を後で申し上げたいと思います。

  
   4 日本文化に関する示唆

 もう一つ、杉村先生の重要な考え方といたしまして、日本文化について、日本文化というのをヨーロッパと比較いたしまして、どんな特徴を持っているかということを若干のペーパーに書いておいでになります。昭和十一年(一九三六年) 『中央公論』九月号に 「不連続性の思想様式」というエッセイを出されております。これは後に 『経済倫理の構造』の中に補論として収録されております。それから、昭和十二年(一九三七年) 『政界往来』四月号に 「現代日本の政治心理」というペーパーを書いております。これは『支那の現実と日本』 のなかに収録されています。それから、昭和十二年の【中央公論』七月号に「日本文化認識論への感想」というエッセイを書いておられます。これも『経済倫理の構造』の中に補論としてつけ加えられております。これで日本の文化のあり方ということにつきまして若干の考え方を展開されております。その内容につきまして一々詳しく申し上げませんが、力点といたしまして、日本文化というのはどういう性格を持っているかという杉村先生の考え方を申し上げますと、日本文化というのは「典型主義の文化」である。あるお手本に従いまして深く考えつめまして、いわゆる前進的な考え方ではなくて、典型に向かって回顧的になっていく、後退的である。そのかわりお手本につきまして深く考え抜くので、深みのある考え方と申しますか、そういうものをよく示している。だから、もし外からよいお手本がたくさん与えられますと、次々にお手本に従いまして考えていきますので、進歩に近いような外形があらわれるけれども、お手本というものは動かないものであって、そのお手本に向かって掘り下げていくという考え方が日本の文化の特徴だということを、杉村先生は「典型主義の文化」だと説明しています。

 そういう考え方に従いまして、明治以来の日本の資本主義の文化を含めましての展開の後、『社会主義の哲学』の中でこういうような言葉で表現しております。

 ― 明治の開国よりこの方、西欧の文化に接触して自由主義の社会原理を取り入れて、各般の社会革新が行われたにもかかわらず、いわゆる封建主義の払拭は容易には行われなかった。民主的経済社会を確立されない間に近代資本主義の世界的波濤に押し流されて、日本経済は資本主義的な擬装をせざるを得なくなってきた。かくて旧来の封建主義と外来の資本主義とに囲まれて動きのとれないような状態になってきて、いわば封建的産業社会が出来上ったのだ
 ― ここから脱却しなければならないということを『社会主義の哲学』の中で言っているわけです。

  
   5 杉村学説についての判断

 この考え方は正しい考え方だと思うわけです。ただ封建社会、産業社会、それから社会主義という図式は、私、どうも余りいただけないと思います。ここで自分の考え方を申し上げて恐縮ですが、五分ほど時間をいただきまして横道に入らせていただきます。

 私、『資本主義の逆説』という書物を東洋経済新報社から出しておりますが、その中で言っているのですが、いわ
ゆる産業社会というのは、フランスのサン・シモニストがアダム・スミスのコンマーシャル・ソサェティ〔商業社会〕を導入するときに産業社会という言葉を使ったわけです。だから、アダム・スミスの言うコンマーシャル・ソサェティと、いわゆる産業社会というのは実質は同じなわけです。ただ経済的な後進性がありますので、後進性を打破いたしますためには組織的な活動をしなければならないというので、産業社会ということを言ったわけです。これはガーセンクロンというアメリカの歴史学者が、資本主義の展開をしています場合に、経済的な後進性、つまり伝統社会の抵抗の強弱を示す経済的後進性のあり方によりまして、資本主義を導入するときに、企業、銀行、国家、あるいは政府と申しますか、ファーム、バンク、ステート、そういう三つの図式を出しまして、イギリスはファームが中心になって資本主義が導入されたわけです。フランスと西ドイツは銀行が中心になりまして、銀行の活動によって資本主義を国に植えつけた。ところがもっと経済後進性の強かった戦前のロシアの場合は、資本主義を導入するのにマルクス主義をてこにいたしまして、いわゆるマルキシズムをてこにして政府がロシアの資本主義を導入した。ファーム、バンク、ステートという三つのタイプがあるんだということをガーセンクロンが書いておるわけです。ガーセンクロンは経済的後進性を中心にした理論を展開したのです。これは日本で翻訳が出ておりますが、日本版の序文の中でガーセンクロンが、日本の資本主義の導入と資本主義の成立につきまして自分は事情をよく知らないので、もし日本の資本主義導入のプロセスについて自分がもっとよく知っていれば、自分の仮説はあるいは修正されるかもしれないけれども、いま自分が勉強した範囲で、イギリスとフランスと西独、イタリア、ソ連、これをずっと研究した結果、ファーム、バンク、ステートという仮説を提唱した。もし日本のことをよく知っていれば、自分の考え方はもっと変わったかもしれないということを言っているのです。これは、日本から翻訳が出ましたので翻訳につけたガーセンクロンの挨拶だと思います。

 それで杉村先生の言う、いわゆる封建社会、それから産業社会、社会主義というのは、ガーセンクロン仮説によって ― もし先生が生きているときにガーセンクロンの本を読んでおれば、もっと変わったのではないかと思うのです。

 それから、もう一つ。封建時代よりも産業社会になった方が不平等が激しくなったのだという考え方。果たして実証的に裏付けられるかどうかということです。不平等になったかどうかということを、国民所得の分配の不平等を手がかりにすることがもしできるとすれば、各国が推計しました国民所得データをサイモン・クズネッツが集計いたしました書物がありますが、それによりますと、どうも産業社会になってから不平等が激しくなったということは言えないようです。

 産業社会がいつヨーロッパに根付いたかということになりますと、これは国によって違いますけれども、イギリスで十九世紀の中ごろ、五十年代に博覧会をやりました。あの博覧会は産業社会を謳歌するというか、産業社会を是認するためにやった博覧会だとよく言われているわけですが、いわゆる世界の工場と言われましたイギリスは、十九世紀の中ごろにはすでに産業社会が成立していた。それから、フランス、ドイツが十九世紀の後学にはすでに産業社会が成立していた。そしてロシアの場合は十九世紀の九〇年代に産業社会が成立したということができると思うのです。
産業社会というのは、結局アダム・スミスがコンマーシャル・ソサェティと言っていたのを、産業社会ということを
フランスのサンシモニストの考え方が、フランスにそのコンマーシャル・ソサェティを導入するためにそういうこと
を言ったのではなかろうか。だからそれを余り段階として強調するのはどうかと思うわけです。そういう考え方を持っているわけです。

 そこで杉村先生の言う、いわゆる社会主義とは何だろうかということ。社会主義というのは、先生の言う社会主義。
つまりマルクス主義者の言う社会主義、資本主義に対立する意味での社会主義ではなくて、資本主義文化の行く先を明示する、資本主義文化の進む道を示すような意味での社会主義だということを申しますと、現在、杉村先生の言っているような社会主義に当たるようなものは、私は、福祉社会だと思うのです。だから杉村先生の言う社会主義の考え方を展開いたしますためには、福祉社会論でこれを受けとめることができるのではなかろうかと思うわけです。

 そして、これはまた非常に妙なことを言うなとおっしゃるかと思うのですけれども、社会主義と資本主義ということを経済学の歴史の中で、経済学のいわゆる体系書の中で資本主義という言葉をだれが初めて使ったのか。イギリスの場合は、マーシャルの場合も資本主義という言葉は使っておりません。ジョン・スチュアート・ミルはもちろん言っておりません。結局資本主義という言葉を初めて言い出しましたのは、歴史学派の人たちが初めてでした。資本主義という考え方が初めて経済学の分野で言われるようになりましたのが歴史学派でした。歴史学派が資本主義という言葉を言うと同時に社会主義という考え方も出したわけです。

 それから、産業社会をもたらすことを近代化という言葉を使っておりますが、近代化というのは結局産業社会をつくることが近代化の目標ですが、その近代化に二つの道があるということを最近のアメリカの学者が言っております。
近代化の二つの道というのは、資本主義的な近代化の方向と、社会主義を通じての近代化の方向。いわゆる社会主義と資本主義というのは近代化の二つのタイプであるというふうに考えます。ですから私は、封建社会、経済社会、産業社会、社会主義という杉村先生の言う図式というのは戦後出ましたいろいろな書物を読みますと、どうも少し実証研究が不足しているのではなかろうかという感じを持っているわけです。それは『資本主義の逆説』という書物でそういう仮説を展開させていただきました。それですから、先生の言う社会主義というのは結局福祉社会で受けとめることが.できるのではないかと思うのであります。

 中国との戦争がございましたあの段階で、先生は上海に行っていろいろお仕事をされております。中国と日本の社会のタイプの違いを、『支那の現実と日本』という本の中で非常にうまく説明しております。この本はいまはもう市販されていないと思います。ご存じのように日中戦争が展開しておりましたときに現地報告をずいぶん出しております。先生のお出しになりましたいろんな予想、あれをいま読みますと、読む人によってはこんなとんでもないありもしないことを言っているようだという感じがするわけでしょうが、私が読んで不田議だと思う点ですが、先生の予測が間違っていたというふうな感じが全然しないんです。日本が中国とトラブルを起こしておりまして、先行きこうなるんだということを言っておりますが、その中に、先生の主張しているようなことをやればこうなるんだということ、ところが先生の言うようにやらなかったから日本が敗けることになったんだという感触を読む私に与えるわけです。

 と申しますことは、さっき申しました杉村先生の出した図式が、その後実証の過程で違った仮説が出ておりますが、そちらの方がもっと実証性があるんじゃなかろうかということを申し上げましたように、先生は実証的なことをおっしゃることの中に、いわゆるゾレンと申しますか、何々すべきだという考え方がかなり中に入っておりまして、それが先生のお話を聞く人たちを引きつけている。本当に中国との争いの中で上海を中心にいたしまして大変なインフレが起こっておりまして、戦局は思わしくなかった。ああいうときに先生のお話を聞いておりますと、何か勇気が出るような感じがするわけなんでしょう。その感じというのが、実証的なお話の中に実証的なデーターを材料にして、あるべき姿ということを先生がいつも念頭に置いてお話しされていたのではなかろうかと思うわけです。

 私ども、東亜研究所で中国の実態調査をいろいろやっておりました。そのときに先生は上海で、そちらの中心で東亜研究所のいろいろなお仕事をしていただいたわけですが、先生はそのときに、統計というのはシンボルとして見な
ければいけない。シンボルとして見て、そのシンボルの中にサジェストしておりますもの―いわば本質を読みとって思索しなければいけないということをよく言われたわけです。私ども、中国のいろんな統計データを検討いたしまして、統計データをシンボルとして見て、その背後に潜んでいる本態的なものを探り出すという仕事は、ちょっと普通の頭ではできない。そういう意味で、実際現実を見ているようでありながら、その現実を見ながらあるべき姿というものを見ておいでになったのではなかろうかというふうに感ずるわけです。

 私、ちょっと個人的なことがいろいろ念頭に浮かぶわけですが、これは皆さんの前で発表すべきかどうかわかりませんので、非常にまとまらない話をいたしまして恐縮でございますが、この程度でお話をやめさせていただきまして、後、ご懇談の時間がありましたら申し上げたいと思います。


     質 疑 応 答]

 小島 どうもありがとうございました。いまの杉村先生のお考え方の中の社会主義というものは、理想像といいますか、あるいは資本主義の行き着く先ということであったという話を承ったのでございますが、たとえば、資本主義から社会主義に移行する移行のルー卜、そのための条件については触れておられないんでしょうか。
 たとえば、シュンペーターの『資本主義、社会主義、民主王義』の中には四つばかりの柱があったかと思うのです。企業の変質であるとか、あるいはミドルクラスの消滅、あるいは経営者層の内蔵、知識人の役割であるとか、そういぅものが資本主義の中から生まれて、それが社会主義に移行するのだと。現実はそうでないと思うのですけれども
そういう面もあるいはあるかと思います。そういった点の移行のロジック。そういうものは杉村先生のお考えの中にはなかったのでございましょうか。あくまでもゾレンということだけでございましょうか。

 馬場 『社会主義の哲学』は、ご存じだと思いますけれども、文部省の委託を受けまして、そういう近代社会の問題を取り上げたパンフレットを出されたわけでございます。そのパンフレットの中にそれが中心になりまして出たので、いわゆる方法論がないんです。つまり、現代の資本主義から社会主義にどうして移行するんだという移行論、それがないのです。あれほどメトウデということを強調された先生の書物ですけれども、どうもないのです。非常に惜しいと思うんですが。

 それで、こんなことを申し上げてよろしいかどうかわかりませんけれども、晩年 − といってもまだお若いときにお亡くなりになったんですが―よく東京駅から歩きまして、いまの三井の本社などの向う側にあります地下鉄ビルの中に事務所がありまして、先生はときどき通っていたのです。常盤橋の公園をよく一緒に歩いたのですが、交易営団をおやめになった段階ですが、よく講演を頼まれまして講演に歩いておいでになった。講演が済んでから、地下鉄ビルの事務所にお見えになっていたのですが、帰りによく、先生、あっちこっち講演されるのはもちろんいいかもしれないけれども、弟子として考えますと、いま大事なときだから経済哲学の書物をおまとめになられるいい時期じゃなかろうかということを申し上げたんです。そうしたら先生が、おれは朝起きると、非常に繊細な神経があれまして、疲れないと原稿が書けないのだとおっしゃる。あんまり頭がクリアーなときだとよくできない。だから私は講演などして適度に疲れて帰って、そのとき初めて原稿をまとめたりなんかが、できるんだということをおっしゃったのです。先生独特な微妙な神経が非常にあれまして、物を書いたりするのは、疲れて家へ帰ってからがちょうどいい。適度に疲れるために講演して歩いているとおっしゃった。ちょっと独特な―もっともご病気がすでに進行して
いたのかもしれませんけれども。ですから、いわゆる方法=理想主義というナトルプの考え方、杉村先生の基本問題を出しますときに、あれが非常に大きなサジェストを与えたように思うのです。『経済倫理の構造』というのは、そのメトウデに当たるものが社会=社会理想主義という考え方を出されたのです。その社会=理想主義の場合に、どういうルートを通って、どういうふうな積み重ねを行えば、先生の考えているような社会主義が起こるのかということは全然触れていないんです。非常に残念だと思います。そういうことを後に残った人たちがやることではないかと思うのですが・‥‥・。

 韮澤 私は昭和十一年に予科に入りました。白票事件が半分以上片付きかけているところでありましたけれども、寮に入って上級生から、杉村先生は神様のような方であり、白票を投じた連中はけしからんやつだというような教育を受けまして、杉村先生をずっと尊敬申し上げてきておるわけですが、先生のお宅にもお伺いしたこともございます。

 先ほど、後で時間があったらとおっしゃいましたが、杉村先生についての馬場先生のいろいろ個人的なご感想、お話しいただければありがたいと思います。

 馬場 ちょっと申し上げましたように、交易営団でいろいろな若い人を集めまして、営団経済ということを研究のテーマにされました。営団経済というのは、私は、サジェスティブな考え方だと思います。統制会と違いまして、経済統制をやるのだけではなくて、営団というときには統制の実態に当たりますようなことを実行する実施機関を含めまして営団という考え方を出されたわけです。

 それは、たとえば戦後の経済の中で営団に当たるようなものというのは、たとえば食糧管理制度というのが先生が考えた営団の一つに当たるのではないか。管理制度というのは、食糧を統制するだけではなくて、実施主体になってやるわけです。だからそういう意味で、戦後農林省の研究所で米の管理制度の問題を扱ったわけでございますが、米の管理制度というのが米の統制じゃないのだということで、先生の言っている営団経済だということを強く感じました。非常にサジェスティブな考え方ではないかと思うのです。

 先ほど申し上げましたように、若い人を集めましていろいろ研究会をやられたわけですが、直接自分が言うというのは必ずしも納得を得られるかどうかわからんから、おまえが中へ入っておまえの口を通じて言った方が理解してもらえるんじゃなかろうかということを言われたわけです。
私、非常にスランプになりましたときに、手元に書物も何も置かずに書けるのは杉村先生のことです。杉村先生が亡くなったときにみんなで本を出そうということで、『経済哲学の諸問題』というのを出しました。そのときに杉村学説という言葉を初めて使ったのですが、杉村学説について原稿用紙百枚ぐらい書いたのです。そのときも参考書一冊も机の上に置かずに書けたわけです。もう一度杉村先生のことを書いたことがあるんです。「一橋論叢」に。私は杉村さんの考え方というのはよくわかるような感じを持っていたのです。某教官、一橋の教官じゃないんですが、その人が、おれは杉村さんのところに行ったらこっぴどく怒られた。何で怒られたのかよくわからない。おまえならわかるだろう。何でおれが怒られたかよく説明してくれと言うんです。私が説明すると、ああそうですか、怒るのはもっともだということになるわけです。(笑)そのくらい私は杉村先生の言うことはよくわかっていたと思うのです。
ところがどうもこのごろは、少し杉村先生の言うことがわからなくなってきた。

 と申しますのは、さっき申しました実証的な裏付けがないものは戦後の学界の中で余り意味がなくなってくる恐れがあるわけです。杉村先生の実証という言葉は、統計データというものはシンボルとしてつかめ、本質は別なところでいろいろ考えなければだめだという考え方です。それがちょっと引っかかってきたのじゃなかろうかと思うわけです。さっき申しましたように、サイモン・クズネックの国民所得の分析データだとか、ガーセンクロンの仮説だとか、
あるいは例のタルコット・パーソンズなど、先生の理論を展開するために参照しなければならない書物というのは戦後たくさん出ているわけです。それを見ますと、四段階説、三段階説というのがあるが、あれはちょっと形式主義じゃないかという感じがするわけです。

 と申しますのは、個人的なことで時間をとって恐縮ですが、私、中央労働委員会の仕事をずっとやっております。あれは命令を出さなければいけないわけです。命令を出すときに 「べき論」はだめなのです。やっぱり本当に実証的な裏付けがないといけません。審問をいたしましていろいろおっしゃることはシンボルとして受け取って、本質は別なところで考えなくちゃいけないという考え方、それはちょっと通らないのです。やはり実証したデータに即して、もちろん命令の中には多少推論があります。その推論というのが、どうも戦後の推論のやり方というのが、あれはアメリカの影響かもしれません。だから、うっかり引き受けたけれども、杉村さんはこういう人だということを、前だったらいろんなものがなくてもやれたんですけれども、少し何か違うんじゃないか。
と申しますことは、帰納法という考え方ですが、現在出ております帰納法というのは、いわゆる公理を置いて仮説をたてる、その仮説がいろんなデータによって実証されるかどうかということをやって検証されたときに、その仮説で言っていることもごもっともだということを言うのがせいぜいである。絶対の真理というものは帰納法を幾ら駆使しても出てこない。帰納法で言えることは、仮説が間違っておりますよということは言えるけれども、これは真理だということをポジティブに主張できないというのが、戦後のいわゆるストカスティックな考え方というのは、仮説は仮説にとどまって ー ただ仮説がだんだんに実証的なデータによって検証いたしまして、この仮説は棄却しなきゃいかんということだけは言えるんですけれども、棄却した後に残ったものが絶対の真理だということは言えないというのが最近の考え方ではないんでしょうか。だから、データをシンボルにして、シンボルを通じて本質をつかむという考え方というのは、いわば古典的な考え方じゃないですか。そういう古典的な考え方というのは、いまはもう・・・・・。
だから、もっともだと思われる仮説というのは、それが真理だということは言えないわけです。それは間違いだということは言える。おまえの言う仮説は間違いだということは言えるわけです。そういう検証を経て残った仮説というのがあるわけです。ポジティブにそれが真理だということが言えないという、いわばスケプティシステムと申しますか、懐疑主義と申しますか、そういうものがこのごろは中心になってきた。ちょっとそんな感じもいたします。
                                       (昭和五十七年五月二十一日収録