[橋問叢書 特別第一号] 一橋の学問を考える会
 
 回想の左右田学派・その生涯と学説
     第一部 左右田哲学の展開              一橋大学名誉教授 馬場敬之助 

文化主義の提唱者

 左右田喜一郎博士(一八八一一一九二七年)といえば、大正期において初めて文化主義を提唱し、日本文化の近代化のためには西欧風の個人人格の自律主義をみずからのものとすることが急務であることを強調した哲学者であったことが、なによりもまず思い起こされる。
 博士は文化と人格との相関を哲学的に究明することにその生涯の課題を見出し、その哲学研究をもって大正期日本を特徴づけた思想家であった。
 明治期日本は文明開化の名のもとに西欧の文物の移植に努めたが、パターナリズムに根ざしていた旧来の社会のわく組みには基本的な改編を加えず、このわく組みのなかにインダストリアリズム、とりわけ資本主義の社会技術を注入しようとした。
 「和魂洋才」とか、「東洋の道徳西洋の芸術」とかいうのが、それである。
 左右田博士の文化主義はこの 「和魂」「東洋の道徳」に改革を加え、パターナリズムの社会のわく組みを人格の自律主義の確立によって改造しようとするものであった。
 その文化主義はたしかに、日本の思想史上大正期を特徴づける主張であった。

 左右田博士はその哲学的思索を展開するのに、カントの批判哲学をその方法論の根底においていた。
 博士ほどカントの批判主義の精神を忠実にみずからのうちに生かそうとした哲学者は日本の思想界でめずらしい。カントを「近代文化の哲学者」とあおぎ、その精神を日本文化のうちに生かそうとしたものは、おそらく左右田博士をおいては、その典型的な例を見出すことは難かしいであろう。
 博士は日本がもった数少ない 「近代文化の哲学者」 の一人であり、それもきわ立った一人であった。

 左右田博士の晩年の論文「文化哲学より観たる社会主義の協同体倫理」(大正一四年)の冒頭に次のような文章がある。

 「カント(1724~1804)の永き八十年の生涯は唯だ『頭上にあっては星空、身内にあっては道徳律』 (Der bestirnte Himmel über mir,und das moralische Gesetz in mir)の一句に其の結晶を見出す。吾等は此の一句によりてカントの学問及び人格の偉大と尊厳とに百代の師表とする所以を容易く見出すであらう。余は年と共にカントの偉大さを此の一句の裡に感得するを弥や増すの情を禁じ得ない」。(1)

 左右田博士がその学問的な生涯を通じてカントにたいする傾倒の念をいよいよ強くしていったことが、この引用文からうかがえる。ところで、博士がカントの批判哲学に接して、転心ともいってよいような感動を覚えたのは、フライブルグ大学においてリッケルトのもとで哲学研究をおこなっていた時のことであった。博士は当時を次のように回想している。

 「其の影響を強く受けてカントに随喜の涙をこぼし、指も千切れるかとばかりの独乙の厳冬の朝、目もまだあけやらぬ講堂に瓦斯の燈下にアディケス先生がカント第一批判を講読せらるゝときには、研究室の一隅に私かに胸を躍らすことも度々であった。余が少時漢学の素読を教へらるとき読書の始めと終りには必ず一度づゝ其の書物に向って礼拝する旧るき幼き折の習慣に、洋服着て腰掛け、机に向った滞独の日にもカントの著書にだけは之を新にしたこともあった。当時朝夕礼拝までしたカントの画像は今猶は余の書斉にあるが未だに余は何となしに之を直視するを得ない」。(2)

 左右田博士は日露戦争の勃発を見た一九〇四年(明治三七年)、東京高等商業学校専攻部を卒えると、長い西欧留学の旅にでるが、その留学中博士に最も深い影響をあたえたのはリッケルトであった。リッケルトはヴィンデルバンドを継いて、ドイツ西南学派と呼ばれる新カント派の一流派を確立した哲学者であった。かれはカントの批判哲学に示された認識批判の方法を摂取して、文化科学の方法的基礎を確立しようとした哲学者として知られている。左右田博士はリッケルトに接して、カント哲学への開眼を経験したのである。

 左右田博士の十年に近いドイツ留学は、たまたま第一次世界大戦直前のドイツ文化の華やかな開花期にあたっていた。カントに出発し、フィヒテ、シェリングを経てへーゲルにおいて一応の完成を見るドイツ観念論の哲学は、ドイツ文化の近代化のための精神的支柱を用意したものであったが、その文化を容れる社会的わく組みの改編は行なわれてはいなかった。伝統的社会から産業社会への移行は完了していず、資本主義は十分に根をはってはいなかった。しかし新カント派の哲学が展開していた十九世紀末から二十世紀初頭にかけては、産業社会への移行が行なわれ、ドイツの資本主義は先進国イギリスに対抗しうるほどの充実を示していた。こういった土台のうえに開花した当時のドイツ文化は、強い自信をもち華やかなものがあった。
日清戦争から日露戦争にいたる、資本主義建設がようやく緒につこうとした時期に、その青年期を迎えた左右田博士がこういうドイツ文化の白銀時代の雰囲気のなかに生活することになって、どのような感激を覚えたかは想像するにかたくはない。                   

 左右田博士がカントの批判哲学に接して転心と呼んでよい経験を味わったのも、このドイツ文化の白銀時代の雰囲気のなかにおいてとらえてみると、その意義が明白になる。それは日本でカントの批判哲学を読んで感ずる感銘とは違ったものがあつたろう。ドイツ文化への確信が「論理的な可能を別にしては生活としての可能はありえない」とか、「論理的に不可能なら生活としても不可能だ」とかといったかたちで表明されていたような大学の世界で、カント哲学に傾倒することは、もちろんたんに知識としてそれを学びとることではない。それは生きかたとして感得することであり、またそういう生きかたをする人々の仲間となることでもある。博士は、カントの画像にたいして「未だに余は何となしに之を直視するを得ない」人として、日本へ帰ってくるのである。

 左右田博士は一九一三年(大正二年)長い留学の旅を終えて帰国してくる。ドイツ文化のうちに近代人としての生きかたを味得した博士は、おそらく日本文化の近代化にたいして「文化的使命」を覚えて帰ってきたのであろう。博士は
その『経済哲学の諸問題」(大正六年)の序文で、帰国の感懐を次のように書いている。

 「今猶夢寝忘るゝ能はざる西欧十年の遊学を卒へ花の都を見すてゝ帰る雁の思ひをなし、日に々々文化の中心を遠ざかる憂愁を抱きてシベリヤの平野を東行し、再び故国の土を踏みたりしは、想ひ起せば早や四年の昔なり。爾来思ふところ而して希ふところ、悉く事、志と違ひ、世事紛々、俗事擾々、復曩日の古之学者為己の境地に悠遊するを許さず、余が学問研究の行程に於て、退歩の跡こそあれ、進趨の趣の認むべきなく、日夜懊悩悶々の情に堪へざるものあり」。
(3)

 「花の都を見すてゝ帰」ってきた祖国は、博士に学問研究に専念するを許さない個人的事情があったとしても、博士が「日夜懊悩悶々の情」にさいなまれざるをえなかったのは、たんにこれだけの理由からだけではあるまい。博士は父祖の業、左右田銀行を主宰しないわけにいかなかったので、母校の教授として学問研究に没頭できなかったのは事実である。しかしわずか四年のあいだに論文集『経済哲学の諸問題』をだして、日本の学界に清新の気風を注入している。それにもかかわらず、博士が苦悩を訴えているのは、強い文化的な使命観をもっていたからではあるまいか、またその使命の遂行の困難を痛感していたからではなかろうか。

 博士の日本文化の近代化にたいする対社会的な提言は「『文化主義』の論理(大正八年)となってあらわれる。これは黎明会における講演である。黎明会とは、三宅雪嶺・福田徳三・吉野作造など当時の先覚者が中心となって結成したもので、日本文化の近代化を推進しようとしたものである。左右田博士はこの第一回の講演会(大正八年一月一八日)において「『文化主義』の論理」について語り、文化主義を提唱しているのである。

 博士はこの講演にあたって「黎明運動」の急務なるを感じて講演を引き受けたが、「諸君の燃ゆるが如き青春の血に油を注がんとするような熱弁を揮うことは余の任とする所でないから、余は余の立場から考へて、余が茲に仮に名づけて『文化主義』と称する一個の人生観に対して、氷の如き冷やかなる論理的解剖を加えるを以て満足したいと思ふ」。
(4)と冒頭で断わっている。たしかにこの講演は「氷の如き冷やかなる論理的解剖」に終始している。公開の講演で、しかも一つの「主義」を社会に向って提唱するのに、冷厳な論理に終始しているのは、博士が論理につかれた人であり、「論理の伝教者」であったことを示している。以下に引用される博士の言葉が示すように、講演はまことに調子の高い ― あえていえば、いさゝか調子が高すぎた ― ものであった。

 博士が提唱した「文化主義」は次のような主張からなっていた。

 (イ) 文化主義とは、文化価値の実現をめざして努力することこそ、人生を意義あるものとする道であると主張するものである。ここで文化価値とは「吾等の有する人文史上の諸価値を純化し一方的高昇の過程を極致に導きたる時、其の極限に立って吾等が人文史上の凡ゆる努力に対して其の目標となり得るもの」の意味である。「余は今此の如き論理上の普遍妥当性を具有する文化価値の内容的実現を希図する謂はば形而上学的努力を呼んで茲に『文化主義』と言はふと思ふ」。
(5)

 (ロ) 人間は文化価値の前に平等でなくてはならないが、人間が人格をもつのは文化価値の実現の過程に参画することによってである。人格とは価値であって自然ではない。「一切の人格は此の如き文化価値実現の過程に於て一以て他に代置し得べからざる其自らの価値を保有し得と見らるゝに於て、語を換へて日へば一切の人格は文化の生産、創造にたづさはることによって其自らの重要と価値とを発揚するに於て其自身固有の意義が見出し得らる。人格とは文化価値と相対してのみ意味がある」。
(6)
 
 (ハ) 文化主義と人格主義とは相即するものである。「吾等は文化の帰趣に朝せんとして文化価値の実現を努むる人格として活きんとするのである。各限られたる範囲に於ける文化所産の創造にたづさわる事を透して個人人格の絶対
的主張に普遍妥当性を与へんとするに於て吾等人生の意義は尽く。文化主義とは是である。人格主義とは是である」。(7)

 左右田博士の提唱した「文化主義」は、かれが滞独中に体得した新カント派の理想主義を日本文化のうちに生かそうと試みたものであった。その「文化主義」はほんらい「文化価値主義」とも称すべきものであったが、博士は「冗長の嫌ひあるを恐れて」これをつづめて「文化主義」と呼んだのであった。ところが、博士とは別に桑木厳翼博士も「文化主義」を唱えたし、また他にもこれに同調する思想家もあって、文化主義は第一次世界大戦後の日本でかなり普及していった。当時の流行思想の一つでさえあった。左右田博士の提唱は成功したかに見えた。しかしそれはかならずしも、博士が期待したように、日本文化の近代化を貫徹させる力とはならなかった。それは「形而上学的努力」を呼び起こさず、むしろ西欧的生活の外形の模倣に終ってしまった。そしてやがてこの大正期の文化主義は昭和初期国家主義の台頭の前に消滅していった。この文化主義の挫折は日本文化の近代化にとっては悲しむべき一大事件である。
(8)その原因の究明は日本文化史の重大な課題の一つであるが、いま左右田喜一郎論を展開しているので、この問題に深く立ち入って吟味しているいとまがない。ただこの問題を左右田博士の業績と関連させて取り扱ってみれば、文化主義が博士の提唱とは逆に、人格主義から分離して、西欧文化の外形的輸入に転化していったところに、その短命さの理由があったとも言えよう。

 文化主義はほぼ関東大震災を画期として、たとえば文化住宅をそのよい例とするように、西欧的な生活の外形的模倣を表示する標語と化していった。それは左右田博士の提唱する人格主義とは無縁なかたちで展開していった。このような文化主義の俗流化を見て、博士は文化と人格との乖離の危険を意識して、個人の孤立に悩むようになる。文化の表面に浮びでずに、人に知られずして埋没していく個人の創造がありうることに苦しむようになるのである。その苦悩のうちから左右田博士の独自な哲学思想が展開してくる。あえて言えば、左右田哲学は大正期の文化主義の挫折
の記念碑とも言えようか。

(1)「文化哲学より観たる社会主義の協同体倫理」左右田全集(岩波書店 昭和五年)第四巻 四三五ページ
(2)「邦訳『経済法則の論理的性質』成るに及んで」左右田全集第三巻 二三―二四ページ
(3)「『経済哲学の諸問題』序」左右田全集第三巻 四二一ページ
(4)「文化主義の論理」左右田全集第四巻 五ページ
(5)前掲論文左右田全集第四巻 九ページ
(6)前掲論文左右田全集第四巻 一〇ページ
(7)前掲論文左右田全集第四巻 二二ページ
(8)拙稿「近代化の日本的形態」(『資本主義の逆説』 〔東洋経済新報社、昭和四九年三月刊〕収録)参照

 
   人格主義の主張

 左右田博士は「文化主義」 の提唱をおこなった一九一九年(大正八年)の秋に、「価値の体系」という長大の論文を書いている。これはその 「文化主義」 の理論的根拠を幅広く展開しようとしたものである。ここで文化価値と並んで左右田哲学において重要な意味をもつ 「創造者価値」 
Schöpferwertという新しい概念が提唱されてくる。

 左右田博士は文化価値はその実現の過程に即して見れば歴史的・社会的であるが、その内面的な意味は歴史を超え社会を絶したものであることに注目する。「凡そ如何なる種類の文化価値なるを問はず、‥…凡て皆一様に人類歴史の所産として発展進歩の可能を思ひ、社会万衆及び歴代協力の結晶として其の完成、其の理想の実現を遠き吾等の未来に托せざるべからざる一面あると同時に、如何なる範囲に於ても、如何なる時代、如何なる民族の中に在っても、一個の天才超人あって其の解釈を許さるべき方面の価値に係はりて時処を絶し、人を超えて其自身の内面的意義を端的に発揚し、自足円満完了的に其の統一調和の相を現顕し得べき他の一面ある事は疑ふべくもない。」
(1) 博士は、このよぅに価値の二つの面を区別し、これにつづいて「価値に対する此の一面の解釈を呼ぶに斯学通行の概念『文化価値』を以てすべくんば、他の一面の解釈を名づるに余は『創造者価値』(余に造語を許せ―”Schöpferwert”)を以てしようと思ふ」。博士が「創造者価値」という新しい概念を導入したのは、このような関連においてである。

 この博士の解明の仕方は、その哲学思想の特徴をよく示している。価値をその実現の過程に即してみれば歴史性とか社会性とかが関わってくることは明らかであるが、価値そのものの意味は歴史を超え社会を絶している。価値は「内在的で同時に超越的」である。これは新カント派の価値哲学が一般に説くところである。ところが左右田哲学は、、この「超越的」な側面を「一個の天才超人」と関連させ、これを「個人」と結びつけようとする。なぜ「個人」を価値の実現の過程に関連させるよりむしろこれを価値そのものの意味と結びつけるのか。あるいは「個人」といっても「一個の天才超人」の意味だと言うかも知れないが、博士の論述はつねにこの限定が明確にされているわけではない。そして価値の二つの面の対比は社会と個人の分離の意味をおび、問題の次元の微妙なすりかえがおこなわれていく。わたしはなにも博士を批判しているわけではない。むしろこの点に注目することが、左右田哲学の性格を知り、大正期の文化主義の挫折の原因の一つをさぐる手がかりとなると考えているのである。

 博士は文化価値と創造者価値の対概念を用いて、「社会と個人」の問題を文化哲学の世界で取扱っていこうとする。
たとえば博士は次のように書いている。

 「惟ふに社会の意義は文化に尽き、個人の意義は創造に終る。社会と個人とは同一価値の両面に於て解釈せられたる二つの負担者の謂ひである。両者が如何なる関係に立つべきやは同一価値の両面に於て一は文化価値他は創造者価値と解せられて此の両者が如何なる関係にあるやの解釈に倚属すべきものである」。
(2)

 博士は、このような設問をもって、「『文化主義』の論理」において提唱した文化主義と人格主義の相関関係にたいして理論的な究明を加えようとしたわけであるが、その解明の過程で社会と個人の乖離にかんする懐疑思想がしだいににじみでてくる。

 このような問題の提出そのものが、懐疑主義と結びついていたのではないか、と思わせるような感想を、博士は書き残している。次のようである。

 「余嘗って大平洋を航行して月明の麗かなるに終夜の歓を貪ったことがあるが、島も見ゆるなく鳥さへ飛ばざる太洋の真唯中に吾等が航行する船ありたればこそ其の浪の上に輝く月の光をこそ見たれ、若し船の其処に航することなくば月は見らるヽ人もなく、況んや自ら求むるなく終夜其の光を放げっゝあったであろう。余は幾年後の今日猶ほ此の想ひを忘れ能はぬ。今創造者価値を思ひ而して文化価値実現の過程に没入するに至るまでは又は永久に没入することなくして、其自身の内面的意義を語るに止まるべきものあるを想ふて端なく当時の余の感想を茲に再び喚び起こざるを得ない。」

 博士は文化価値と創造者価値との関係を、世にいれられなかった天才の孤独を思い、その孤高な厳しい姿を念頭に去来させながら、その究明を試みている。それがやがて「社会と個人」の問題を取り扱うかたちになって、博士の人格主義の主張は、文化主義とはなれて、天才者の独白に近い色調を帯びてくるのである。

 「合理性対非合理性の問題を通じて観たる極限概念の哲学」(大正10年)において、左右田博士は、さらに「個人」の存在の問題を見つめ、個人のもつ特殊性の意義を追求していく。余は余であって、汝ではない。これは何人にとっ
ても生活体験上の基本的事実である。天才超人だけが余は余であるわけではない。すべての人間にとって、余は余であって、汝ではない。この事実は、意志自由の問題の根底をなすものである。博士は、この問題をMeinheitないしDeinheit という根源的な非合理性の問題として展開していくのである。

 MeinheitとかDeinheitとかは、一面においてはたしかに単純な特殊性であるが、他面これを「余の」あるいは「汝の」として他にたいして主張しようとするためにはなんらかの媒介がなくてはならない。その媒介の役割をはたすものは、もちろん普遍的なものでなくてはならない。ある普遍的なものを媒介としなくては、「余の」とか「汝の」とかいった特殊性は限定されない。文化価値は明らかにこのような普遍者としての役割をはたすはずである。すでにみたように、「文化主義」の提唱にあたって、左右田博士は文化と人格との相関性を主張した。しかしこの主張に安住できなかった。なぜ安住できなかったを検討する前に、その主張を思い起こしてみよう。そこでは次のようにも説かれていた。

 「一切の人格が、文化価値実現の過程に於て仮令其の中の一個でも其の表面以下に埋没せらるゝ事なく悉く皆其の表面に於て其自身固有の位置を占め、一義的且一律的に配置せられ、而して其の窮極に於て厳として目標たり規範たる文化価値が立」
(4)っていることを求めるのが、左右田博士のいう文化主義の主張であった。

 ところが、博士は、このような文化主義で十分につくせない人格の要請があることを主張するようになる。文化価値実現の過程は、文化価値そのものの実現というよりも、政治・経済・芸術などといった特殊な文化領域に即してその実現が期せられる。これら特殊な文化価値実現の過程において、それぞれの人格が「一義的且一律的に一列に配置」されたとしても、その人格の要請がくまなく満されるわけではない。個性としての人格の要請は特殊な文化価値に即しただけでは十分に満されない。その要請を満すためには、特殊な文化価値をたがいに関連させ、文化価値そのものをほうふつさせようとする「合理化」とは別の方向が考えられなくてはならない。そこに文化目的とは別に人間目的に沿った「合理化」が考えられなくてはならない。博士は、文化価値とは別に創造者価値とかかわらしめた「合理化」を説くようになる。

 人間目的に沿った「合理化」といっても、いかに合理化しても、ついに「余の」「汝の」といった非合理性は脱却できない。その非合理性をそのままとして、しかもたんなる特殊性ではない価値をそなえたものとならなくてはならない。「非合理性たる個体に深く根ざしながら其自身一個の統一せる価値体」といったものを模索し、博士はこれを「超個的個性」と呼んだ。博士はこう説明している。

 「超個的個性は即ち一方非合理其の侭の姿にありながら、他方合理性其の侭の意味に解釈せらるゝものでなければならない。而して合理性其の侭の意味に解釈せらるゝことを得んが為めには非合理性は合理化的過程に入り込みたるものとして解釈せらるゝ外に道はないであろう。即ち静的に見れば非合理性其の侭の姿にあると云ひ得るけれども動的に見れば非合理性其の侭ではあり得ない」。
(5)ここで「動的に見」るといっているのは、「内面的価値に向って精進する」 ことにほかならない。また内面的な価値とみているのは、もちろん「創造者価値」なのである。

 このようにして博士はかって「人格なきの文化価値はなく、文化価値なきの人格はありえない」と主張したのに、外面的に文化価値を目ざしての活動とは別に、内面的に創造者価値に向っての精進を考えるようになる。そして二つの方向は現実の経験世界ではかならずしも合致しない。

 文化価値を目ざして社会的協同を通じて文化創造に努力することは、いわば社会化の方向を意味するが、創造者価値に向って精進を重ねるのは、個人化の方向をたどるものである。二つの方向が合致するためには、社会化することが同時に個人化することでもなければならない。ところが、社会的協同をするには、各人がたがいに相手方の行動を
手段として利用しなくてはならない。その社会的行動の手段化が、個人の人格を目的として取扱うことにならないおそれがあるとして、博士は社会化と個人化の相関的展開といった思考に安易に賛成はできないとする。それは博士がその「文化哲学より観たる社会主義の協同体倫理」(大正一四年)において、ナトルプ説に疑問を提出しているところによっても明らかである。

 ナトルプは、社会と個人はたがいに独立に存在するものではなく、相互に依存しあっていると主張する。社会は個人の内に、また個人は社会のうちにあることを別にしては、成立しがたいものである。社会化をいわば円囲の拡がりと見、個人化をその円心への深まりと考えれば、ちょうど円堆形のばあいのように、円囲の拡大は同時に円心への深さを増大させるはずである。こういうナトルプ説にたいして、かならずしも基本的に反対するわけではないが、左右田博士は「社会に全部を覆はれ尽さゞる個人を考ふることを余は不可能なりとは考えない」
(6)として疑問を提出している。そして社会化は「文化目的」に対応するものであり、個人化は「人間目的」をおおうものであるとして、そこに少なくとも現実の世界では二つの生きかたが区別されると主張している。しかも注目すべきことには、文化主義の意味について限定を加えているのである。

 文化主義は、文化価値の実現という、いわば仕事を中心とした社会的協同を求め、社会の成員として位置づけられるところに人生の意義を認めようとするものである。しかし「創造者価値」に向って精進することは、別の境地を目ざしているのである。博士は次のように書いている。

 「余は文化創造の独自性の内に淋しき乍併崇高なる人格の尊厳を仰ぎ見んと欲する。淋しき ― 何となれば如何なる他のものとの協同、如何なる文化の舞台も其の意味の本質構成に窮極の要素をなさぬからである。― 人間其のものは淋しい独自のものである。人は独り生れ、人は独り死んで行く」。
(7)

 このように、左右田博士はその提唱にかかる文化主義にたいして、「創造者価値」を目ざす精進を強調することによって、みずから懐疑を提出していったように見える。もちろん博士は、文化価値と創造者価値との関係について哲学的な思索を傾け、その総合に努めている。しかしその思索の展開のあいだをぬって、博士の孤独観は生ま生ましい感想として表白されている。文化主義が流行思想として同調者があらわれてきているさいに、その提唱者が「人間其のものは淋しい独自のものである」と述べないわけにいかなかったことは、注目に値するものがあろう。大正期の文化主義は、その提唱者に安住の場所を与えることができなかったのである。


(1)[価値の体系」左右田全集第四巻 九四ページ
(2)前掲論文左右田全集第四巻 九五ページ
(3)前掲論文左右田全集第四巻 一〇八ページ
(4)「文化主義の論理」左右田全集第四巻一一 ページ
(5)「合理性対非合理性の問題を通して観たる『極限概念の哲学』」左右田全集第四巻一九一ページ
(6)「文化哲学より観たる社会主義の協同体倫理」左右田全集第四巻 四四三ページ
(7)前掲論文左右田全集第四巻 四八五ページ

   
   極限概念の哲学

 左右田博士は「文化目的」と「人間目的」との合致しがたいことを認め、懐疑的な感想を述べていた。しかしもちろんこれが左右田哲学の全貌を語るものではない。博士は二つの目的は現実には併行線を描くだけで、たがいに交わらないとしても、極限においては合致すると考えないわけにいかないと説いているからである。そこに「極限概念の哲学」が提唱される。これについては吟味を加えておかなくてはなるまい。

 左右田博士はその「極限概念としての文化価値」
(大正七年)において、文化価値とこれを目ざす行為系列との関係を極限概念を用いて解明しようとした。「極限概念の哲学」を展開しようとしたのである。「極限概念の哲学」はすでに「轗軻不遇の一猶太哲人」マイモンSalomon Maimonあるいは「天賓の大才を抱いて不幸夭折した」ケリーBenno Kerryによって提唱されたものであるが、左右田博士はこれを自己の体系のうちに、これをささえる哲学的方法として摂取しようとした。極限概念そのものは、無限等比級数あるいは円とその内(外)接多角形との関係において示されるように、数理解析においてはめずらしいものではないが、これを哲学的方法として活用したところに、左右田博士の特徴があるのである。

 文化価値を目ざして創造のための行為が積み重ねられていく ― こういう類いの文章をわれわれは左右田博士の文化主義の説明にあたって書いてきた。何気なく受け取れば、わかるような気がするが、じつは哲学上の基本問題が潜んでいる文章なのである。

 文化価値というのは先験的な理念を示しており、一連の創造のための行為はもちろん経験的なものである。この経験的な行為系列のうちに先験的な理念が宿っていると、どうして主張できるのか。いなどうして論証できるのか。この問いに答えることがすでに難かしい。そうだとすれば、文化主義の主張は、その最初の発端から行き詰ってしまう。そこから新しい哲学的方法が要求されてくる。左右田博士は極限概念を活用してその方法的基礎を固めようとしたのである。

 一連の行為系列はバラバラのものではなく、ある種の方向をもっている。ある方向に向って行為が繰り返えされているとすれば、それらの行為は合目的的な関連をもっているというほかはない。この合目的性を反省してみれば、一連の行為系列の極限にある目的が想定されないわけでもない。この目的を博士は「極限概念としての文化価値」としてつかんだのである。しかし極限概念はたんに反省的な概念であるだけではない。

 さらにいくつかの行為系列があるとしよう。それらの系列相互の関係は、それぞれの系列に属している特定の個別の行為を比較してみても、その意味は明らかにならない。系列の極限に想定される目的をたがいに関係させてみるほかに、それを解明する道はない。したがって一つの系列から他の系列への転入とか、あるいは転換とかの意味も、極限概念を媒介としてつかむはかはないことにもなる。その限りにおいて極限概念はそれぞれの系列員を「限定」する意味を多少とも帯びてくるのである。

 左右田博士の極限概念の哲学的方法とは、このようなものであった。ところで、カントは超越的な目的があって、これが経験のありかたを決め、これを「限定」すると考えるのは形而上学的な態度であるとして批判している。形而上学に陥いることなく表明できることは、経験のありかたのうちに示される合目的性から「反省」して目的を偲ぶことである。左右田博士は、このカントの目的論に対比して、その「極限概念の哲学」は反省的な目的論と限定的な目的論との限界をたどろうとするものだと説明しており、まさに形而上学に陥いることを避けうる限界でもあるのだとも述べている。

 このような「極限概念の哲学」にたって、左右田博士は「文化目的」と「人間目的」との極限における合致をも解明しようとする。この問題こそ、博士が最も苦心を傾けたところであった。その努力のあとを顧み、その成否を吟味することによってわれわれは、多少の迂回の後、前節で追求した主題に立ち帰っていくことになろう。
 
 「合理性対非合理性の問題を通じて観たる極限概念の哲学」
(大正一〇年)にいたって、左右田博士は文化価値対創造者価値の問題と関連させて、その極限概念の哲学的方法に新しい意味を付与していく。極限とその系列員との関連にかんして博士は二つの方向を区別する二つは前進的方向であり、他は回顧的な方向である。ここで前進的方向といぅのは、表の行為系列が極限を目ざして「合理化」され、さらには他の行為系列への転入ないし転換の展望をもつことであり、明らかにこれは文化価値と対応するものである。これにたいして、回顧的な方向とは極限から顧みてそれぞれの行為の「非合理性」を位置づけ、さらには行為の主体である個人の意義をさぐる方向であり、これは創造者価値に関連する。前進的な方向はいわば「客観化」を目ざし、回顧的な方向は「主観化」を指さしている。そして「客観化」の方向に向っての意味の拡充は、「主観化」に沿っての意味の充実と相関関係をもち、両者はその極限においては合致しうるのだと説いているのである。ここに「極限において」というのは、無限の努力を通してこれに漸近しうるとしても、この極限を静止的にそれとしてはつかみえないことを意味しており、博士の言葉によれば、「極限概念の哲学が教ふる所は神に於てすら其の最後の休止点を与へ得ぬ」(1)ことになるが、なおかつ文化価値を目ざしての個々人の努力を通して「此の各々の努力、諸々の意味の交叉点としての各人格は超個的個性たるを得るによって底も得知らざる非合理性の深淵より悠々として極限の最後に合理性と連なることを得ということが日ひ得るであろう」(2)と考えるほかはないと説いている。

 このようにして、「前進的」には文化価値、「回顧的」には創造者価値といった二つの方向が区別されるとしても、それは無限な努力といった動的な過程が含む契機にほかならないものであって、その極限においては「価値そのもの」のうちに総合されるのだと、博士は説いているのである。

 「極限概念の哲学」よりみれば、「前進的」と「回顧的」、あるいはまた「客観化」と「主観化」といった二つの方向は、無限追求の動態のうちに流動化され、たがいに相関しあうものとなる。この視点は、前節で触れたナトルプ説といちじるしく類似してはいないであろうか。ナトルプもまた「無限の課題」を目ざす動態過程においては「客観化」と「主観化」とはたがいに相関しあうという認識論的視点をとり、これが実践哲学にあっては、左右田博士が疑問を提出したところの、「社会化」と「個人化」の相関となってあらわれたのである。このナトルプ説は「極限概念の哲学」からみれば、同じ視点にたつものとして肯定されないものであろうか。左右田博士もナトルプ説に疑問を提出してはいるが、これを全面的に拒否しているわけではない。つぎのように書いている。

 「個人と社会とが相互に相覆ふはナトルプも考ふる如く決して現実の境に於て見らるべきでもなく又解せらるべきでもなくして、両者共に無限の課題として考へらるゝときのみに限ると日はなくてはならぬ。此の無限の課題として見られたる境地に於ては ― 社会と個人とは相覆ふであろう」。
(3)

 これに注して、博士が「余が所謂文化価値と創造者価値との二つの並行線が無限の延長に於て合致するとなすもの是である」と書いていることは注目に値する。博士がナトルプ説が「極限概念の哲学」と同じ趣旨の主張をなしていると認めながら、「社会と個人」の問題に関してはナトルプ説はいささか問題を安易に考えすぎているとして、ナトルプの「二元論」に反撥を示している。これは博士があくまで「文化目的」と「人間目的」の二元論に立っていることを語っている。ところでこの二元論が含む問題を「無限の課題」として受け留めるところに「極限概念の哲学」が展開されるのだが、これと相似た道を辿るナトルプに対しその一元論を安易な思考だと批判することは博士自身がその「極限概念の哲学」に安住することを拒否していることにならないであろうか。あるいはこれに安住するを阻止するなにものかがあったことを示唆してはいないだろうか。この問いとともにわれわれはこの論文の核心にようやく達したかの感じをもつ。ところでこの問いにどのように答えられるであろうか。

 この問いに対する答えは、博士の主張をそれぞれ集約していると思われる二つの文章を比較することによって、その手がかりが得られるであろう。その文章の一つは、「極限概念の哲学が教ふる所は神に於てすら其の最後の休止点を与へ得ぬ」であり、他は「人間其のものは淋しい独自のものである。人は独り生れ、人は独り死んで行く」である。
二つは博士の異なった側面を如実に示している。そしてこの二つの側面がしっくり融和していないところに左右田哲学の独特のニュアンスがある。多少の解釈を試みてみよう。

 「独り生れ、独り死んで行く」人間が、博士のいう「価値そのもの」の前にたたされ、その実現に努めるものとして受け取られているならば、博士の説くところは、西欧の近代精神となんら異なるところはない。しかしそうであれば、文化創造の仕事を通して人と人との結合が形づくられ、そこにたくましい社会倫理が培われるはずである。そのことを、ナトルプの実践哲学などは典型的に示している。「神に於てすら其の最後の休止点を与へ得ぬ」と強調する博士は、まさにそのような境地を望んでいるようにみえる。しかしそれなら「人間其のものは淋しい独自のものである」といった感懐をあえて生まのかたちで学術論文のなかに書き記すこともないではないか。そういう感懐が洩されるところに、博士がその「文化主義」の提唱以来つづけた学問的努力にたいしての懐疑があらわれているのではなかろうか。

 左右田博士はその「文化主義」の提唱にあたって、「文化主義」といった人生観を体得したと思われる人の事例を日本社会のうちに求めて、乃木将軍の殉死と松井須磨子の情死をあげている。すなわち「文化の『イデー』に殉じたる意味に於ては乃木将軍の殉死も、之に対する乃木夫人の死も、将又松井須磨子の情死も當さに最高の人生美を発揚したものといふべく、個人人格の絶対的主張として、其の行為自身の天下に及ぼす影響等の批判は別として、― 余は等しく皆此等の行為に対して限りなき尊敬の意を表せざるを得ない」(4)と書いているのである。「文化主義」を実践した事例として、博士が「死」をあげたことはあるいは偶然であるかも知れない。それにしてもこのことは示唆に富んでいるといわないわけにいかない。日本社会では「個人人格の絶対的主張」がただ「死」においてのみ実証されるとすれば、「文化主義」はその挫折が予定されていたとも言えよう。

 文化主義が日本社会に西欧型の生活様式の外形の輸入のかたちで浸透し始めると、左右田博士がこれに反撥を覚え、「個人人格の絶対主張」を強調し、しだいにその孤独観を吐露するようになった。「花の都を見すてゝ帰る雁」は、文化使命を抱いて帰ってきたが、日本の社会の現実のうごきの前に、「孤雁」の淋しさに悩むようになったのだ。なお「極限概念の哲学」の展開のうちにその孤独を乗りこえる道を求めていたが、その「哲学」はしょせん「花の都」 への回想につらなるもので、日本の現実に生きるものではなかった。

 これと関連させて「文化哲学より観たる社会主義の協同体倫理」の結語を読むと示唆するところ大きいと感じないわけにいかない。「結語」は「数千年の昔しの協同体倫理の夢に覚めず、個人主義の確立さへ完全に通過せざる日本に於て此の如き遠き未来の夢を痴人の説くにも類するであろうか。嘆すべきである。恥ずべきである。」と記している。これは一つの論文の結語というより博士の「文化主義」 の提唱以来の哲学研究の総括を示してはいないであろうか。

 こうした左右田博士にとって西田哲学の展開は複雑な感懐を呼び起こしたようである。西田幾多郎博士は、長年にわたる西欧の近代哲学の研究の末、ギリシャ哲学と東洋哲学の総合のうえに、日本人の生きかたになじみ易い哲学体系を建設した。左右田博士はこの西田哲学の成立にたいして「泰西の文物を入れて既に数十年、今にして漸く一西田博士を得た事は我が哲学界の為めに誠に慶事といわねばならない」
(5)としながらも、この西田哲学の主張が近代合理主義の精神と背馳し、とくにみずからがその味得に努力していた人格主義と相容れないものがあると考えてか、「西田哲学の方法に就いて」(大正十五年)という批判論文を書いた。そして西田哲学が許しがたい形而上学的越権を犯したものとして、疑問を呈している。これにたいして西田博士は「左右田博士に答ふ」(昭和二年)をもって応じた。西田博士はその論文を「私の如きは日暮れて途遠さもの、博士の好意に報ずる所以のものを知らないが、希くぱ我学界、千金死馬の骨を買はんとせられる博士の志を空くせざらんことを」(6)と結んで、左右田博士の批判に礼をつくしてはいるが、その批判にたいする回答は痛烈なものがあった。左右田博士の批判は西欧の新カント派の哲学的視点にたったもので、その「質問に対しては、私は答ふる所を知らない」と突きはなしている。西田博士はその哲学体系にたいして揺ぎない確信を示している。左右田博士が日本の文化主義が西欧の文物の輸入に終始しているのに反撥し、人格主義の精神を日本の風土のうちに根づかせようと努力していたのを思うとき、その西田批判のごときも新カント派の哲学に全面的に依存したうえでなされたものだといった反批判を西田博士から聞かされたことは、博士にとっては耐えがたいものがあったろう。

 左右田博士は「西田哲学の方法に就いて」が発表された翌年、この世を去っていった。博士が帰国以来哲学研究に傾けた十五年の精進をもって買いえたものはなんであったか。「死馬の骨」か、それとも孤雁の孤独観か。あえて答えるまでもあるまい。

(1)「合理性対非合理性の問題を通して通して観たる『極限概念の哲学』」左右田全集第四巻 二三九ページ
(2)前掲論文 左右田全集第四巻 二三九ページ
(3)「文化哲学より戟たる社会主義の協同体倫理」左右田全集第四巻 四四五(1)五ページ
(4)「文化主義の論理」左右田全集第四巻 二一ページ
(5)「西田哲学の方法に就いて」左右田全集第四巻 五〇一ページ
(6)西田幾多郎「左右田博士に答ふ」左右田全集第四巻 五六四ページ

〔付記〕本稿は「左右田喜一郎論」(『一橋論叢』第五十三巻 一九六五年〕第四号収録)を加筆訂正のうえ改題したものである。
この改訂稿は『左右田哲学への回想』(左右田博士五十年忌記念会編、創文社参売)のために用意されたものであるが、締め切りにおくれたため、旧稿のまま刊行された。したがってこの改訂稿はこの機会に初めて公刊されるものである。
                                                (昭和59年3月8日 発行)