謹啓
時下 貴台には、ますます御清栄の御事お慶び申し上げます。
さて、去る六月十日、ホテルオークラで大平記念財団の懸賞論文授賞式が行われましたが、たまたま今年は故大平正芳総理の二十五回忌に当たりました。
その際、私も、一橋の学生時代から大平さんと御縁がありましたので、献花して黙祷を捧げました。
私が大平さんと一橋の学生時代から御縁があったということを、雑誌『財界』の社長兼主幹の村田博文氏にお話しましたところ、ぜひそのことについて一文を草してほしいと言われましたので、まとめてみました。
一文は、『財界』八月二日発行の 「夏季第二特大号」 に載りました。そのコピーを御届けさせて頂きます。御多用のところ恐縮ですが、御高覧賜わりますれば光栄に存じます。
貴台の一層の御多幸と御活躍を御祈りいたしつつ欄筆させて頂きます。
平成十七年八月五日
韮 澤 嘉 雄
(世界経済研究協会専務理事)
大平正芳・元総理の二十五周忌に思う
去る六月十日、ホテルオークラで大平記念財団の懸賞論文授彰式が行われたが、
たまたま今年は故大平正芳総理の二十五周忌に当たった。
そこで、私も一橋の学生時代から大平さんとご縁があったので、献花して黙祷を捧げた。
昭和十四年、私は米谷隆三ゼミの幹事をしていたが、
ある日、先生が「韮澤、大平が蒙古から帰ってくる。将来、大物になる男だから、ゼミの歓迎会を開け」
と仰るので、そのようにしたら、
大平さんは大変喜ばれた。それ以来、私に目をかけて下さった。
大平さんが池田勇人蔵相の秘書官から衆議院議員になられ、総理まで昇られたのは、
ご承知の通りである。
昭和四十五年八月二十四日に、
大平さんが通産大臣をやめて軽井沢の別荘におられたとき、
私の長野県上田中学時代からの親友で当時、
日精樹脂工業の常務をしていた故室賀千秋君が同社を大平さんに視察してほしいと言う。
実は、同社の創設者で社長の青木固氏は、
特許を五十以上も持っているプラスチック成型機械を発明した紫綬褒章受章者。
大平さんはそういう人が大好きなのでお出で頂いたのである。
坂城への途中、私は小諸に実家があるので、そこにお寄り頂いた。
お昼どきなので、大平さんの好物の讃岐のばら寿司に似た五目寿司を、
私の母と家内が作ってお出ししたら、大平さんはニコニコして「おいしい」とお替わりまでして下さった。
母と家内は感激して一段と熱烈な大平ファンになった。
拙宅では、私は大平さんに揮毫をおねだりした。
快く「進退問天 栄辱従命」と色紙にお書き下さった。
総裁選出馬を念頭に置いての心境を表したものと思われる。
この色紙は今も私の小諸の家に掛けてある。
それから大平さんは、日精樹脂に着かれ、青木社長、島喜治専務らの案内で工場を視察、
社員に講演されたのち、六時過ぎ歓迎の宴。
青木社長が「大平さんの眼は、中国では鵬眼といい、天下を取る相だ」と言ったので、
大平さんはご機嫌だった。
帰京して数日したら、『大平会』の創設者、故松本正雄元最高裁判事(弁護士、私どもの御媒酌人)からお電話があり、「韮澤君、有難う。大平君が君のお陰で信州での思いがけない一日の清遊をした、
と今日の『大平会』で披露したよ」とおっしゃる。嬉しかった。
このほかにも、大平総理の思い出は尽きない。
官房長官のとき如水会報で対談して頂いたこと、日本寮歌祭にご出演頂いたこと、
田中角栄内閣の外務大臣のときと幹事長のときの二回も私どもの世界経済研究協会で講演して頂いたこと、
如水会の大平総理祝賀会を私が幹事役になって特に盛大に催したことなどが、走馬燈のように瞼に浮ぶ。
これらの機会に私が接した大平総理は、偉大な政治家であられるとともに、
宗教家、教育者の一面を色濃く持っておられた。
大平総理のように、良心的で読書家で思索する、彫りの深い哲人宰相は、
当分、日本には現れないであろう。
ところで、私は、石原慎太郎がらみで、大平さんに、いいことをして上げたことがある。
自民党総裁選に、田中(角栄)、中曽根、大平が立ったが、
突然、中曽根が角栄と握手してしまった。
そこで、私は親友の石原に電話して、「こうなったら、君は、一橋ということもあり、大平に入れろよ」と言った。石原は、立川談志を連れて、大平に入れた。
当時、大平が百票の大台に乗るかが注目されていたので、この二票は貴重だった。
************************雑誌「財界」 八月五日発行[夏季第2特大号]2005 P165**