如水会ゝ報 平成3年(1991)3月 No.731 p.4 [橋畔随想]より
忘れえぬ おばあさん逝く
―ある一橋外史―
山 口 惇
(昭29商)
国立の駅を降りて左手の大通り即ち旭通りを行くと右手に
『志田そば店』
があるのを、ご存知の方も多いと思います。
その店主であった志田次子さんが、
昨年六月二十日、九十三歳の天寿を全とうされました。
葬儀も終り、四十九日も過ぎた頃、
おばあさんを偲ぶ会を催したらどうかと、
ご縁のあった方々から声がおこり、
去る十一月二日の夕方、
一橋祭の前夜祭で賑わう国立で相集うことになりました。
小さな中国料理店の二階を借り切り、
総勢十三名、
生花で飾られた遺影を囲みながら、
志田さんとの最初のご縁をはじめ、
その後のおばあさんとのおつきあいやら、
国立市に於ける志田さんのご活躍振りなど、
なつかしく語りあい、お話は尽きませんでした。
志田さんご一家が国立に居を構えましたのが昭和二年(一九二七年)とのことで、
以来六十余年、国立の変遷を目のあたりに見てこられたわけですが、
丁度亡くなられる二年程前に息子さんと共著で
『くにたちに時は流れて』
という表題で、思い出の記を自費出版され、それに詳しく記されておりますが、
昭和二年といえば、その四月に専門部が神田一ツ橋から国立移転の先陣を切って移った年であり、
その後昭和五年に学部が移転してきたのですから、
一橋大学の国立での歴史を外から総て見てきたわけです。
その偲ぶ会に集った方々は、初対面の方も多かったのですが、
志田さんと何らかのご縁で繋がっている方々で、
昭和四年専門部卒の幸島礼吉氏は、
茫漠たる武蔵野の原野に、ぽつんぽつんと建物が散見される中、
専門部の洋館が一際きわ立って遠くから見られた様子を語られ、
今日の住宅街や商店街の繁栄など想像も出来なかったこと
を感慨を込めて話されました。
昭和九年に東京高等音楽学院(現在の国立音大)を卒業された本田フミ様は、
当時志田さんが『たからや』の店名でミルクホールを開いていた頃、
同じ音楽学院に通っていたお姉様とよくお寄りになり、
それ以来のご交際とのことです。
また昭和十三年学部卒の坂元栄五郎氏は当時志田さん宅に下宿させていただき、
現在そば店を営んでいる末っ子の勝亮さんとお風呂によく一緒に入ったとの思い出など、
小生は中和寮に寄宿していましたので、アルバイトでお店の帳簿を整理した関係でよく出入りし、
その後田舎から東京へ出て来た弟や妹も大変お世話になりました。
昭和二十八年卒の沢田浩氏(日本製粉専務)、斎藤栄氏(野村貿易会長)、田中健次郎氏(ホットマン社長)の諸氏は、戦後空腹をかかえて図書館へ通った後の一杯のおそばのおいしかった思い出など語られ、
お話は尽きることなく、大変なごやかな雰囲気の会でした。
おばあさんはまた大変お世話好きでもありました。
江川操さんは弁護士を開業されている江川洋氏(昭28法)を志田さんに紹介され結ばれた由、
当夜は海外出張のご主人は出席されませんでしたが、奥様お一人でかけつけてくれました。
また沢田浩氏のお話によれば、
昭和六十一年に惜しくも若くして他界された
一橋大学経済学部長であった深沢宏教授の奥様智子様とのご縁も志田さんのご紹介とのこと、
当日は所要があって欠席されましたが、大変残念でした。
中でも感銘をうけましたのは国立市内で深いおつきあいのあった
三田正治氏(国立倉庫社長)と応善寺住職のご令室松岡きく様のお話でした。
お二人は昭和二十五・六年頃起きた国立文教地区指定運動に共に関った仲間だそうです。
前述の『くにたちに時は流れて』に松岡さんが寄稿された文章に、その間の模様がよく記されている
と思いますので、ここに掲載させていただきます。
「私が国立へ越してきたのは今から五十数年前で、
二面の雑木林で道幅は広く出来ているのに通る人が殆んどないので草ぼうぼうで、
わずか一尺くらいの道幅でした。
戦後急に家が建ち始め、村が国立町になったのは昭和二十六年四月でした。
その頃の国立は朝鮮南北戦争に働いたアメリカの兵隊さんの骨休めの場所になり、
ラブホテルが繁盛して大学生の寮も減り、
風紀も乱れて衛生的にもいけない町になりつつありました。
そこで市民の中から「文教地区指定運動」がおこりましたが、
実現すると街がさびれると誤解された商店の方々、
ホテル業者が立川の無頼漢と一緒になって反対運動をおこしました。
その時志田さん一家が敢然と文教地区に賛成され、
商店側から色々と意地悪をされながら、
例えば商店街の売り出しに参加されない等々の辛い仕打ちをうけられたようです。
この運動は後に成功して有名な文教都市といわれるようになりました。
志田さん、その他の御苦労を忘れず感謝しております。」
おばあさんの霊は府中市片町、高安寺に安置されております。
(ニッコー製油(株)副社長)