如水会ゝ報
2005・11
No.907
カコーディ博物館の 邦訳『国富論』その後
みずた ひろし
水田 洋
(昭16学後)
二〇〇五年五月にアダム・スミス『法学講義』(岩波文庫)を出し、
スミスの全著作の翻訳に訳者あるいは監訳者としてかかわることができた。
予科一年のとき上田貞次郎学長に「アダム・スミスを読め」といわれて以来の宿題を
七十年かけて終了したことになる。
そこで、前から気になっていた会報八六三号(平成十四年三月) の 「母校を思う」について、
説明を追加しておきたい。
スミスの生まれ故郷であるスコットランドのカコーディ市には、市史の博物館があって、
郷土の偉人スミスのコーナーには 『国富論』 の各国語訳がならべられ、
当然ながら日本語訳もふくまれている。
板垣與一(昭7学)さんの話では、
若き日の武井大助(明42本)中尉がそこに邦訳『国富論』を寄贈したということだが、
これは半分の真実にすぎない。
確かに、博物館には三上正毅抄訳の 『富国論』がある。
だが、この本には長崎高商教授武藤長蔵の名刺がはりつけられており、
英文説明は「一九一二年に日本帝国海軍タケイ・ダイスキ中尉により寄贈」
となっていた。
武藤長蔵は明治三六年東京高商専攻部卒業で長崎高商の名物教授、
武井大助は四二年東京高商卒業で、
ともに福田徳三門下であった。
武井はぼくの学生時代には、海軍主計官(中将)で、官庁会計の講義を担当していたし、
武藤は『国富論』 の日本への導入を追跡した論文などで、
はるかに後輩のぼくにもなじみの名前であった。
武藤が後輩にたのんで寄贈したこの本は、しばらく前から行方不明である。
ぼくは最初の留学のときに存在を確認し、その後も何度か見ていた。
しかし十年ぐらい前に十二月クラブのグループで訪問したときに、
肝心のこの本が見当らないのでがっかりした。
こういう博物館は歴史が進むにつれて陳列物がふえ、
古い陳列物は縮少されるのがつねである。
この 『国富論』がその犠牲になったことはあきらかであり、
残念ながらやむをえないことでもある。
帰国後市長に手紙を書いて、
二人の寄贈者は一橋大学の古い卒業生であり、
一橋大学には社会科学古典資料センターというこの種の研究資料のナショナル・センターがあるので、
陳列できなくなった邦訳『国富論』 はそこに返還したらどうだろうと提案した。
だが、担当者に伝えるという返事をもらったままである。
(日本学士院会員)