明治の写真
まちだひではる
町田秀春
(昭23学)
明治二十三年(一八九〇)に
高等商業学佼本科の第一期生として卒業した祖父が
在学中に学友達と撮影した写真がある。
戦災ですべてが失われた中を
私の母が肌身離さず守った遺品の中から見つかった。
日付と氏名が書かれている。
明治二十一年五月二十七日撮影、
祖父自筆の氏名は向かって右から左へ、
栃木県人 原田定助
鹿児島県人 町田豊千代
静岡県人 藤村義苗
東京府 祖山鐘三
大分県人 石井幾太郎
岐阜県人 平生釟三郎
写真師・丸木利陽 東京新橋内。
日付からみて本科二年生、
親しい学友が揃って「記念写真でも撮ろうか」と新橋の丸木写真館に出かけたらしい。
写真の諸先輩は等しく美形にして尚端然たる武士の気風が感じられ、なにやらハイカラな雰囲気も漂う。
右から三番目が第三代如水会理事長を務めた藤村義苗氏、
左端立ち姿が第六・七代理事長平生釟三郎氏である。
この写真を脳裡に、図書室に飾られている理事長時代の写真をみると、
その厳然たる姿の中に若き日の面影が感じられ微笑ましい。
ほかの方々も国家の発展に多大の貢献をなさったと聞く。
右から二番目の祖父は卒業後、各種事業に従事したが、次第に会社経営の才を認められ、
明治四十五年、当時大赤字に陥っていた浦賀船渠株式会社の再建を依頼され、
爾来造船業の発展に専念した。
努力の甲斐あって同社の再興に成功し、同社社史に「町田社長の改革」と特筆された。
薩摩藩島津家分家に生まれた祖父は維新後も幼名豊千代を末年まで維持した。
なお私事であるが、この写真撮影から十年後の明治三十一年、
私の父町田實秀(大12学・元法学部長、ドイツ語の愛称へルマチ) が豊千代の長男として生まれた。
昭和十五年祖父が死去すると、父は祖父の遺志に従い妙高の町田山荘を大学に寄贈した。
高瀬荘太郎学長の頃である。
明治時代の諸先輩の気宇広大なる活躍と常日頃の愛校の精神に感動するのみである。
如水会々報〇六年新年号に掲載された「平生釟三郎日記」を読み、
明治・大正・昭和の時代に活躍した若き獅子たちの群像の写真があることを急に思い出した次第である。
(元三菱レイヨン)