如水会ゝ報 昭和50年(1975)4月 第540号 p4
橋畔随想
ホイトニー一家のこと
渋沢輝二郎
(昭8学)
「W・C・ホイットネーを想う ― 母校八十周年に際して」
という故上田辰之助先生の随筆(如水会々報、昭和三十年九月号)を、
ふとした機会に読んでから、
ここ二年近くの間、
ホイトニー先生と一橋大学の母体である商法講習所とのかかわり合いや
ホイトニー一家の日本人への貢献について、
関連するいくつかの文書をあさり出した。
ちょうど母校創立百年を迎えるときであり、
加えてNHKの大河ドラマ「勝海舟」の放映にからんで、
ホイトニー先生の孫娘ヒルダさんの来日もあって、
私の関心を一段とかきたてたのであった。
まずホイトニー先生一家来日のいきさつから調べる。
ぼう大な渋沢栄一伝記資料(土屋喬雄博士ら編)のうちの
東京商法講習所の一章はホイトニー先生の雇入れから退職までの経過を教えてくれたし、
吉野俊彦氏の「忘れられた日銀総裁―富田鉄之助伝」は
ホ先生来日についての宮田氏の役割を明らかにしてくれた。
矢野二郎伝(島田二郎編)や日大教授西川孝治郎氏のホイトニー研究の抜書きなどをみたりして、
講習所開校当時の模様も手がかりを得たような気になった。
母校で百年史を作る段取りも進んでいるとの話をきいて、
国立に川崎操氏を訪ねたのは夏のある日だった。
磯野記念館で「一橋学園史を調べている川崎氏は
私の在学時代すでに大学図書館の生き字引のような方で、
数十年ぶりにお会いしてまことに懐かしい思いであった。
そこで貴重な本「ウイリス・ノートン・ホイットニーの思い出」を見せていただいた。
ノートン氏はホイトニー」先生の長男である。
著者はノートン夫人とノートンの妹で海舟の息梅太郎と結婚したクララさんの二人である。
内容の大部分は医学博士であり宣教師として日本につくしたノートン氏の事蹟で占められているが、
ホイトニーー先生来日の動機を知ることができる。
と同時に、ホイトニー先生はもちろん、夫人のアンナさん、ノートン博士をはじめホ先生一家が、
二代にわたって、教育、宗教、医療の分野で日本人にその生涯をささげられたことに
深い感銘を覚えたのであった。
たまたま、文芸春秋十月号で、
「青い目の嫁が見た勝海舟」を読んで、
先生一家と勝家をはじめとする当時の日本の多くの名家とのつながりなどを知ると、
「お雇い外人教師」の日本へ影響は単に教師としての知識伝達だけでなく、
日本人の文化、精神の面にも深く広く及んでいるように思えてくるのである。
ホイトニー「教師」の事績そのものは一橋大学百年史や簿記史の専門の方々の領域である。
むしろ先生一家と当時の日本人へのかかわり合いの部面をもうすこし調べてみたいという気持が、
いま私を捕えはじめてきた。
ノートン医博のこと、アンナ夫人の宗教心と日本人、
来日を決心した使命感など、
ホイトニー先生の本番の業績とは別の角度から問題を見てみたいと思い出して、
まずノートン博士の動きを中心とした年譜カードを作りはじめている。
明治はじめの聖書翻訳やキリスト教宣布に一家がどう結びつくのか。
そんなことで、ヘボン研究の権威高谷道男氏(如水会員、桜美林大学教授)をお訪ねしたのは、
一月はじめのことであった。
いくらかの文献を読みあさり、
W・C・ホイトニー・ノートは書き込みで一杯になった。
これから専門家の方々から基礎資料を教えていただいて、
自分を納得させてゆくことは、万事にあきっぽい私にほ無理なことかも知れない。
しかしいまのところは興味津々といぅところである。
如水会報を読んで妙なことに手を染めだしたものである。
大げさにいえば「奇縁」とでもいうのだろうか。
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