如水会報 2005・07 No.903
[橋畔随想]
「一橋のリベラリズム」について 葛谷 登 くずや のぼる
(昭55社 ・ 61博社)
如水会々報二月号のゼミナールだよりに、「石田忠先生の米寿を祝う会」 についての報告が掲載されていました。わたくしは小平の前期ゼミで石田先生の講エンに列し、社会学者ロバート・リンドの 「何のための知識か」を原文で読む栄誉にあずかったので、懐かしくまた格別な思いを禁じ得ませんでした。
祝う会で先生は「一橋のリベラリズム」 について触れられたとのことです。
この 「リベラリズム」という語は、分かったようで分かりにくい言葉です。「世界の禅者」と言われた故鈴木大拙翁は、しばしば「フリーダム」とか 「リバティー」 という
を「自由」と訳したことは完全な誤りであると訴えておられました。「自由」とはもと禅家の で、自分が絶対的な主体者となることを意味するのに比べ、「フリーダム」 とか 「リバティー」 は何物かの拘束から脱げ出ることを意味し、これはむしろ「解脱」と訳すべき語だというのです (新潮カセット・鈴木大拙講演「最も東洋的なるもの」)。
確か国立国会図書館だったでしょうか、「真理はあなたを自由にする」という文句が壁に大きく記されていたと記憶します。これはもともと、新約聖書ヨハネ伝八章三十二節の言葉です。 ラテン語聖書には ”veritas liberabit vos.”と、動詞 ’libero’ が用いられています。ルイスのラテン語辞典によれば、’libero’は ’set
free’の意味です。この’set free’の用例として、”Lincoln set the slaves free”なる文が新クラウン英語熟語辞典には掲載されています。「奴隷を解放する」 の「解放」の意味で用いられているわけです。では何から解放するのかということになります。ギリシア語聖書を見ますと、" イ アリスエイア エレンセレオエイ
イマス ” となっています。「真理」に当たる語は、”アリスエイア”ですが、ここに定冠詞の”イ” がついています。この「真理」 は特定の真理で、聖書ではイエス・キリストのことです。「イエス・キリストはあなたがたを解放するであろう」となります。言葉を補って訳せば、「イエス・キリストはあなたがたを罪と死のクビキ軛から解放するであろう」ということになります。果たして国会図書館に掲げられた文句がこの意味で使われているのか大いに疑問です。石田先生は退官されるとき、記憶によれば 「漂流と抵抗」という題で最終講義をなされました。わたくしは 「リベラリズム」という語は石田先生のお言葉を使えば、「抵抗」というように訳せるのではないかと思います。時流に漂って自分の思いのままをするのがリベラリズムではないからです。時流というものはものすごい勢いで人を押し流そうとします。自分の思想と時流とがぶつかり合う、そのとき時流は自分の思想を拘束するものとしてのしかかります。自分はそれに一所懸命抵抗する、この抵抗する営みは即解放の営みでもあります。
一橋が誇る社会科学者の高島善哉先生は戦前、アダム・スミスの研究と並んでマルクス主義研究を続けられました。マルキストは言うに及ばず、自由主義者までも権力者から迫害を受け弾圧されていた時代にです。時流はファシズムと軍国主義でした。これこそ堂々たる抵抗であり、「一橋のリベラリズム」 ではないでしょうか。また、一橋では三者構成自治の原則のもとで、学長選挙の折、学生に除斥権が認められていました。学生による除斥投票で所定の票数を超えた候補者は学長になれなかったのです。文部省が廃止するよう絶えず圧力をかけて来ました。一橋はこれに抵抗し、学生の除斥権を守って来ました。
これもまた 「一橋のリベラリズム」 に他なりません。
この頃、如水会々報と共に、きらびやかな大学のPR誌が送られて来ます。随分とお金もかかっていることでしょう。これは時流に即したものです。少子化で大学の生き残りをかけた全国的な動きです。しかしたとえ生き残ることが出来なくても守らなければならないものがある。それが「一橋のリベラリズム」 であり、石田先生の言われる「抵抗」 の精神ではないでしょうか。
(愛知大学経済学部教員)
(原文 ギリシャ語の部分、編者パソコンでギリシャ語を打てぬため、カタカナで置き換えてみました。ご教示下さい。)