如水会ゝ報 平成3年(1991)7月 No.735 p.123
事務局より
▼母校のルーツと福沢諭吉
一橋大学の学園史刊行事業は、
戦前を如水会、戦後を大学、がそれぞれ分担することでスタートし、
昨年度末に、如水会担当部分のうちの最後の未了分、
すなわち、母校のルーツにかかわる「明治八年九月〜明治二十年九月」が、
細谷新治君(昭16学) の筆により「商業教育の曙」上下二巻の大著として上梓された。
同書のなかから、慶應義塾の創立者福沢諭吉との関係について少し紹介してみたい。
何故ならば、本学の歴史にくわしいごく少数の会員を除いた
大部分の会員にとっては新鮮な事実かと思われるからである。
本学の前身「商法講習所」が明治八年九月、
森有礼(後の初代文部大臣)によって創立されたことは周知の事実だが、
福沢が創立に重要な役割を果していることは余り知られていない。
例えば、福沢は明治七年十一月、
森と富田鉄之助(後の初代日銀総裁) の求めに応じて、
商業学校設立基金募集の趣意書「商学校ヲ建ルノ主意」
(「福沢諭吉全集第二〇巻」 一二二 ― 一二七ページ)を執筆している。
これは、いわば商法講習所の「企画書」に相当する極めて重要な文書である。
設立の目的にあたる部分について、前掲書の要約を引用する。
『……しかし、貿易が始まった今日では、
「外国ヲ相手二取テ商法ノ鋒ヲ争ハントスル」のが「今ノ商人ノ公務」である。
ところが「今ノ日本ノ商人ハ外国ノ品物ヲ買フニ其来ル処ヲ知ラズ、
自国ノ物ヲ売ルニ其行ク処ヲ知ラズ」、
その上「今ノ学問ノ有様ニテハ外国人ト文通モ不自由ナリ、
其帳合ノ法モ解シ難キモノ多キヲヤ。
百方ヨリ之ヲ観テ、
商売ノ事二就テハ我国二勝利ノ見込甚ダ少ナシト云ハザルヲ得ズ。
田舎ノ万屋二及パザルコト遠シ」。
もちろん、日本の文明は何事も後れているから、
ひとり「商法ノ拙」をとがめるわけにはいかない。
しかし、維新以来、学問、芸術、兵制、工業は進歩改正をつとめ、
すこぶる見るべきものがあるのに、
「今日二至ルマデ全日本国中二一所ノ商学校ナキヤ何ゾヤ」。
「剣ヲ以テ戦フノ時代ニハ剣術ヲ学パザレバ戦場二向フ可ラズ。
商売ヲ以テ戦フノ世ニハ商法ヲ研究セザレパ外国人二敵対ス可ラズ。……』。
(「商業教育の曙上巻」一七一ページ)
右の引用文は説明を要さないであろう。
「貿易は国の独立を守るための戦争であり、
そのためには外国人の武器である商法をわがものにしなければならない」
(同一八一ページ)
というのが福沢の思想であり、わが建学の目的でもあったのである。
また、同書では、わが建学の精神といわれる「実学」という語が福澤の造語であり、
その意味するものは、皮相的な実用主義学問ではないことも明らかにしている
(一八二― 一八五ページ)。
(T)