如水会ゝ報
2006・2月号NO.910
母校を思う
生誕期の一橋寮と
一橋の名歌をめぐって
にらさわよしお
韮澤嘉雄
(昭16学後)
よりみつよしか
一橋の”寮歌の神様”依光良馨(昭15学)先輩が、
如水会々報昨年六月号に寄稿されてから、
一橋寮と一橋の名歌についての関心が強くなっている。
私は一橋寮開寮以来、三年をそこで生活したので、
満八十六歳になったのを機に、
生誕期の一橋寮の寮生の生活や人生に対する考え方などについてまとめてみることにしたい。
私の同期生は、昭和十一年四月、難関を突破して、東京商科大学予科(現一橋大学)に入学したが、
この年、小平に初めて予科の寄宿寮ができて、「一橋寮」と命名された。
我々は、この一橋寮に入ることになった。
一橋寮は、北寮、中寮、南寮に分れ、それぞれ六人、四人、二人の部屋になっていた。
各部屋に三年生か二年生の部屋長がおり、一年生の部屋っ子を指導した。
もっとも、上級生にとっても初めての寮生活なので、試行錯誤を繰返すことが少なくなかった。
上級生の下級生指導の基本的な考え方は、「バカになれ、ハダカになれ」であった。
これは、今から見ると妙に思えるかもしれないが、
何しろ旧制高校、大学予科の新入生は、
同じ年齢の青年層のうち進学率〇・四%という秀才ぞろいである。
元来、旧制高校は、
イギリスのイートン、ハローなどのパブリック・スクール(実際には私立だが)を模範として作ったもので、
次の世代の指導者を養成することを目的としていた。
私は、長野県の小諸に生まれ、上田中学に汽車通学した。
四年で東京商科大学予科を受け、まぐれで合格したが、
同期で上級学校へ進んだのは五人だった。
だから、上級学校に進学した者は、天下の英才だという自負心を持っていた。
しかし、親や中学の先生から教えられたことをう呑みにしているだけでは、
国家、社会の指導者にはなれない。
教えられたことを一旦捨て去り、
裸になって自己本然の姿に立ち還り、
国家、社会の指導者になれ、という含意が、
寮のストームでの「バカになれ、ハダカになれ」の合言葉になったのである。
だから、上級生は、ストームなどやって勉強の邪魔をしておきながら、
新人生歓迎会などでは、先輩は次ぎ次ぎに立って、
「時間をムダにするんじゃないぞ、哲学を読め、文学を読め」と教える。
当時は、西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三の『愛と認識の出発』、
河合栄治郎の『学生生活』が学生必読の書であった。
部屋の本棚に、このうちどれかが抜けていれば恥とされた。
上級生の指導は、激しくなり、ついには「学校の授業はくだらぬから、出るな。
特に一橋の場合は、簿記やソロバンや習字なんて大学で学ぶものではない」と言い出し、
私などは「そうだ、そうだ」とそれに共鳴して
簿記、ソロバン、習字は、学校に一番近い寮に住んでいながら出席しなくなり、
いまだに簿記は右も左もわからない。
もっとも、これはある意味では正しかったので、
我々は毎年、学園の革新のための学制改革の第一に
簿記、ソロバン、習字を挙げ、うちソロバンと習字は廃止された。
ところで、寮が出来たからには、寮歌がなければならないというので、
昭和十一年、寮歌を募集した。
応募作三十数篇のうち、一等に当選したのが、
冒頭にふれた依光良馨先輩の『紫紺の闇』であった。
日本は「大正デモクラシー」を経験しているので、
特に旧制高校の教育では、理想主義、人格主義、自由主義が強調された。
しかし、教授の中には、行ったこともないソ連に憧憬れて左翼思想を持っている者も少なくなかった。
それが学生に伝わった。
だから、旧制高枚の寮歌の中には、左翼思想が入っているものもあった。
一橋の依光先輩の 『紫紺の闇』は、その最たるものである。
依光先輩は、左翼思想を持っていると治安維持法にひっかかり、休学になり、
四、五年監獄に入っておられた。
のちの学長、上田貞次郎先生らの尽力で、昭和十二年に復学を許されたが、
そのため依光先輩は東京商大学部は昭和十五年卒業となっている。
そういうわけで、依光先輩は、獄中で『紫紺の闇』を作ったのであって、
そこには左翼思想が溢れんばかりに入っている。
まず、「紫紺の闇の原頭に」という出だしが、旧制高校の寮歌としては暗い。
「オリオンゆれて」のオリオンは「天王星」つまり「天皇制」を含意しており、
それがゆれて希望の朝がくるというのである。
まだ、当時は、軍部の力、全体主義が物凄く強かったのであるが、
それにもかかわらず、
「橋人うまず築きゆく自由の砦自治の城」とか、
「思想の空の乱れては行くすべ知らぬ仇し世に
あゝ伝統の舵を取り 濁流ルビコン渡らんと
トモズナときし三寮よ 自由は死もて守るべし」
で結んでいる。
我々一年生は、依光先輩は、志操を曲げなかったえらい人だとささやき合って尊敬していた。
他方、依光先輩が、翌昭和十二年に作詞された寮歌『離別の悲歌』も名歌である。
これには思想性が入っておらず、この方が芸術的にはすぐれているという評価もある。
歌詞略、左欄緑バナー「一橋歌集」をクリックしてください。
○
依光先輩は、私たちと同様、一橋寮で生活されたが、
しかし、監獄におられたので、
前述のように、一橋を正規に卒業したのは遅れられたので、
今年九十五歳になられるのではないかと思われるが、
それにもかかわらず、老人ホームには入っておられるが、
冒頭にふれたように如水会々報に寄稿しておられるくらいで、今なお健康であられる。
昭和十一年から十三年にかけては、『故郷の春』。(3番)
これは石原慎太郎(昭31法)東京都知事の愛唱歌である。
歌名略、上記「一橋歌集」クリック。
このように、一橋には名歌が多いのである。
これを応援部員だけではなく、一般の学生も母校の教授も、機会あるごとに唱うべきである。
歌名略、上記「一橋歌集」クリック。
先輩も学生も教授も、一緒に唱い、一橋のDNA (遺伝子)を末永く伝えなければならない。
([社]世界経済研究協会専務理事)
如水会日本寮歌祭総隊長
日本寮歌振興会常任委員・報道渉外部長