韮 澤 氏
世界経済評論 8月号(2006)
世界経済研究協会の韮澤専務理事、
上島重二会長より表彰状を授与さる。
社団法人世界経済研究協会の韮澤嘉雄専務理事は、七月四日、上島重ニ同協会会長(三井物産特別顧問・前社長) より、多年にわたる同協会に対する貢献により、表彰状を授与された。
韮澤氏は昭和四十五年から右協会の理事、同五十四年から専務理事となり、水上達三会長、八尋俊邦会長そして現在の上島会長と歴代の協会会長を三十六年間にわたり補佐して来た。その功績が認められたものである。
世界経済研究協会は、産官学全体を活動の拠点にしてきたが、韮澤専審理事のこの仕事に対する情熱は並々ならぬものがあった。
いや、韮澤氏は、協会の仕事に入る前からすでに国家、社会のために尽くしていた。
韮澤氏は、昭和二十一年六月、日本経済新聞社編集局に一番で入社し、外務省とGHQ(連合軍総司令部) を担当したが、その直後に、ある全国紙の小さな記事で、国が財政難を理由に、東京商科大学 (現在の一橋大学)、北海道帝国大学、広島師範大学などの予科を廃止する計画であることを知った。激怒した韮澤氏は、当時の上原専禄一橋大学学長とともに、親交のあったGHQのティルトン地方行政課長(日本の内務大臣より強い権限を持っていた)のところに訪れて、前記予科廃止案は、戦後、民主主義国になった日本の動きに逆行するものだと直訴した。
これに対し、ティルトン課長は、韮澤氏の言うことによく耳を傾けて、「この書類はマッカーサー総司令官には回さないで、自分がholdしておくから、その間に日本の有力新聞に反対の社説を書かせよ」と言った。
歓喜雀躍した韮澤氏は、前記の上原学長とともに、朝日の笠信太郎氏、毎日の佐倉潤吾氏、読売の山口道吾氏らを歴訪して頼んだところ、三氏はいずれも一橋出身であり、また他紙も同調してくれ、各紙、筆を揃えて反対の社説を書いてくれた。このため東京商科大学、北海道帝国大学などの予科は存続できたのであっ
て、もしあの時、予科が廃止されていたとしたら、今日の一橋大学などの隆盛は考えられない。
ところで、世界経済研究協会の方は、赤松要教授・名和統一教授の共同編集で始まったが、韮澤氏は当初からこれに助言している。
それに関連して、韮澤氏は前記のように日経の外務省詰めをしていたが、その間、日本外交の発展に多大の貢献をしたとの功を以って、昭和五十八年初の外務大臣表彰、次いで一年おいて二回目の外務大臣表彰を受け、さらに平成元年十一月には、勲四等旭日小緩章に叙せられた。
また、韮澤氏は、郷里の長野県小諸市長からも二回の小諸市長表彰を受けた。
韮澤氏は、昭和三十七年六月に、乞われて世界経済研究協会事務局次長に就任、以来、常務理事をへて、昭和五十四年七月、専務理事に昇進した。その間、前記のように協会のために尽力したため、今回の表彰になったのである。
今回の表彰状授与について、韮澤専務理事は、「上島会長から表彰状を頂き、無上の光栄に思っています。これもひとえに、上島会長、堀晋一三井物産秘書室次長はじめ、関係者の皆様のご支援、ご協力の賜物でして、この上なく有難く、深く感謝しております。また、平成十四年四月二十三日には、妻陽子とともに、赤坂御苑で行われた天皇・皇后両陛下の園遊会にお招きを受け無上の光栄に思っております。その時、妻陽子は、畏くも皇后陛下からお言葉を賜わりました。」と語った。
なお、韮澤氏の活動は、世界経済研究協会だけではなく、多方面にわたって展開されており、(財)日本国際問題研究所評議員会長を初め、(株)日・豪・ニュージーランド協会(lANZ)理事、(財)世界の動き社、(財)貿易奨励会、(社)国際交流サービス協会等の理事を努めている。また、(株)日本経済新聞社社友、(有)日本経済研究センター特別会員のほか、(株)日本記者クラブ、(株)日本評論家協会、国際経済学会などでも活動している。
また、韮澤氏は母校一橋大学の同窓会である如水会でも多年、理事、常務理事、監事、編集委員などとして如水会に貢献した功を以って如水会で初の表彰を受けた。
このほか、韮澤氏は郷里の関係で長野県人会連合会相談役、東京小諸会会長を努めている。
韮澤嘉雄氏経歴
大正八年八月三一日生まれ。
(学歴) 昭和元年三月、長野県小諸町 (現在の小諸市) の町立小諸尋常高等小学校尋常科入学。長野県立上田中学校に一番で合格、さらに同校四年修了で東京商科大学予科 (現在の一橋大学)に入学、第一回学徒出陣で応召 (昭和一六年一二月同大本科卒業)、金沢の東部五十五部隊 (輸重兵隊) に入隊、四年間、内地勤務の後、昭和二〇年八月三一日小諸に帰る。
(職歴) 昭和二一年、上京、同年六月日本経済新聞社編集局の入社試験に一位で合格、GHQ(連合軍総司令部) と外務省を担当。昭和二七年初代ロンドン特派員を命ぜられ英国に駐在、その間、欧州諸国を視察、昭和二九年二月帰国、論説委員となり、外務省を担当。昭和三六年一〇月、豪州・二ュージーランド両政府の招待で両国を視察。
昭和三七年一月、経済同友会事務局次長に就任、同六月、経済同友会と米経済開発委員会とのサンフランシスコ会議に出席する。昭和三八年三月、経済同友会第三次欧州経済統合調査団幹事として欧州諸国を視察。続く同一〇月外務省の委嘱により再度、欧州諸国を視察。その後も度々、海外視察の機会を得ることになり、昭和五九年一一月には豪州ウエスタン・マイニング社パーポー会長の招待で豪州を視察。平成二年九月には日本記者クラブ視察団員としてソ連・東欧を視察、さらに、平成六年九月には王武龍南京市人民政府市長の招待で中国を視察。
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韮澤専務理事は病気のため辞任、協会顧問に就任。
後任は市川周・市川アソシエイツ代表 (1975年一橋大卒)