送信者: "yamazaki hiroshi"
宛先: 如水会ML
件名 : 陸軍記念日
日時 : 2006年3月10日

                   山崎坦(S16学後)

今日は東京大空襲の日とはご存知でしょうが。
戦前は陸軍記念日でした。
明治38年(1905年)3月10日、日露戦争奉天大会戦でロシヤに勝利した輝かしい日だったのです。
米軍は、それでこの日を選んで東京を襲ったそうです。
昨年5月27日、(戦前、海軍記念日)日本海海戦100周年にみなさんにMLメールを書きました。
海の勝利がとどめでしたが、その前に旅順の要塞を落とし、奉天で勝って、陸の結末をつけました。

先人の悲壮なご苦労を忘れてはならぬと思います。
今の我々の生活があるのは先人のお陰なのです。
司馬遼太郎著「坂の上の雲」を読んでください。

「降る雪や 明治は 遠くなりにけり」昭和6年・中村草田男(松山の俳人、永遠の青春・万緑)



送信者: "taichan"
日時 : 2006年3月11日

                  日下(s59)です。

陸軍記念日のご紹介ありがとうございました。
日本の歴史は、他に誇りうるものと思います。

戦後GHQによる徹底的な思想統制と東京裁判史観による教育により、日本人は自国が悪いことばかりしたと思いこまされたのですが、実際は反対でした。欧米諸国に対してアジア諸国の独立を勝ち取ったのは明らかに日本の行為が基底にあったわけです。

もちろん歴史は単純なものではないため、正邪を簡単に決めることはできません。歴史の評価も史実の発見により年々変わっていきます。
例えばコミンテルンによる世界的な謀略活動など明らかになりつつあります。

これからも歴史についてはイデオロギーではなく、曇りのない目を持ち続けたいと思います。司馬さんの本は、歴史を講談ではなく、生きた人間の姿を通して描いている意味で民族の遺産のひとつです。
もちろん完全ではありませんが、司馬史観は大きな価値を持っていると感じます。



送信者: "Hiroshi Goto"
日時 : 2006年3月11日
                  後藤@シアトル(1967年経)です。

私の記憶に間違いがなければ、司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で、
繰り返し、日露戦争終結を境に日本陸軍が合理的・科学的思考から、
非合理的・精神的思考に大きく変わったということを書いてる筈です。
それは司馬史観のキーポイントだと思いますので、忘れるべきではないでしょう。



送信者: "T.I."
日時 : 2006年3月11日
                   昭和58年法@池です。

司馬遼太郎さんは立派な「作家」ですが、歴史家ではありません。あくまで創作活動に従事した作家です。
氏の歴史観は「司馬史観」ともいわれて、大きな社会的影響を日本に与えましたが、いろいろ本を読んでますと司馬さんは、やや「海軍に甘すぎ、陸軍に厳しすぎる」と思うようになりました。
日本海軍をちょっと美化しすぎていて日本の開戦に当たり海軍の第一委員会、石川信吾、永野修身らが果たした悪い役割については全く触れず「陸軍が悪い、陸軍が悪い」と言い続けてます。
これは公正な評価とはいえないと思います。
陸軍は橋本欣五郎らを中心とする「桜会」が様ざまな謀略、クーデターを計画し暗殺、テロを行い日本の政治システムを破壊したことは間違いありませんが、それは決して陸軍悪者的な善悪論では切り捨てられないものがある
ように思えます。
陸軍にも立派な人はいたし、海軍にも立派な人はいた。逆に海軍にも戦争がやりたくて仕方のない人がいて、陸軍にもそれはいた。
最近では半藤一利さんが盛んに書いたり講演したりしています、このあたりについて。



送信者: "原田 和幸"
日時 : 2006年3月11日
                   原田(S29卒)です。

陸軍記念日について山崎先輩から「日露戦争奉天大会戦でロシアに勝利した輝かしい日」 であると指摘されて、
小学校時代に陸軍記念日の祝典で聞かされ、今まですっかり忘れていた誇らしい事実を思い起こされました。

明治以来、他のアジア人には出来ず、日本人だけが達成した事実は、戦争であれ政治であれ経済であれ、しっかりと記憶に留めるべきだと思います。あの輝かしい明治近代化 が、何故昭和の敗戦に至ったかの反省は真剣に続けなければなりませんが、その場合も 推測や意見を元にするのではなく、歴史の事実に即した判断が重要です。
歴史的事実が生起する背後には色々の経緯がありますが、色々な経緯を知るのには事実から辿って見極める必要があります。

奉天会戦の大勝利は歴史的事実であり、その背後にある明治の人たちの見識と努力を私たちは大いに学ぶべきと思います。戦後教育で教える「軍国主義はすべて悪」とする 単細胞の思考は困りものです。
また、昭和の敗戦の真の原因は、私は2.26事件(昭和11年)にあると考えますが、 それ故、その事件に至る軍部の動きと経緯についてよく調べ、二度と同じ過ちを繰り返さないようすべきだと考えています。

靖国神社参拝をめぐり中国や韓国が騒ぐのを受けて、国内にも日本自身が戦争責任を追求したことがないなどと、反省を迫る意見がありますが、単に表面的に太平洋戦争に至る因果関係を追求していっても日本人として学ぶに足るものは出てこないと思います。

明治政府は、軍事面で他のアジア諸国が真似できない偉業を達成したばかりでなく、政治面でも同時代の西欧に負けないくらいの民主主義を実現しつつありました。戦後、 アメリカに教えられて民主主義が確立したかのような意見には同意しかねます。世に言う大正デモクラシーは2.26事件以降、急速に衰えますが、この辺りの歴史の経緯に
ついても日本人は大いに学び反省すべきでしょう。

有史以来、一度も民主主義を経験したことのない中国や、やっと戦後民主主義を始めた韓国に、軍国主義復活の恐れあるなどと、首相が靖国神社を参拝したくらいで騒がれる 筋合いはないのです。単なる外交手段として言っていることは明らかであり、これををまともに取り上げる必要はないのです。



送信者: "joe_sakurai"
日時 : 2006年3月11日
44社櫻井です。

おっしゃるように、明治、大正の頃の先人の業績には、20−30代で素晴らしく、大人びた刮目すべきものがあります。
台湾総統をはじめ、満蒙の開発、中でも南満州鉄道鰍ノ関わった後藤新平伝などを読んでみますとそのように感じられます。
キラ星のごとく多くの人材が輩出されています。
昭和初期からの満鉄は官僚化し、最後には陸軍の独裁を許しその機能を後退させていったと記されています。
満鉄総裁のポスト自身がサラリーマン化していったようです。

42年前の高校3年生の頃ですが、防衛大学に憧れて、一次試験を突破、空軍を目指しました。
変に子供の頃からアメリカ万歳、自由、空にあこがれのようなものがありました。
見事、2次の身体検査で裸眼視力が足りず、不合格。陸軍を目指していれば、間違いなく軍人になっていたところですが、当時の意識として、陸軍だけは行きたくない、といった認識があったように思います。

今にしてみれば、この平和ぼけ日本、欲ぼけ日本にとって、戦後教育は反面教師の側面があろうかと思います。
日本人論というか、日本はどうあるべきかといったことが、あまり語られないようになったと思います。
戦後、国民が高度成長で頑張った結果かもしれませんが、学校が学校の機能を果たさず、中学生の親殺しなどが
後を絶たないといったいやな世の中にもなりました。ひと言で片づけると、若者が幼児化しています。
これから子を育てる世代は、まず、家族のあり方からしっかりしていかないといけないと思います。
地域・学校・コミュニティーの付き合いの大切さも注目されてくると思います。

靖国参拝問題に関していえば、確かに外交上の争点にされることの方がおかしいのはよく分かります。
しかしながら、尖閣諸島の資源問題に関しても、現在、日本はどうして役人も議員も毅然とした態度がとれないのでしょうか。
実効的な海域での試掘権を試掘会社に与え、海上自衛隊がその支援をするという枠組みが何時になっても整いません。
総理大臣として、次期の総理には外交面で、国益を確保するための攻めの指導力が求められるのではないでしょうか。
テレビ番組で口角泡を飛ばし、言いたい放題の放言番組が受けているだけで、この数年間のこの国の成果は歪な景気回復だけです。
これも平和ボケの影響でしょうか。

ところで、国立の桜の開花予想は4/1(土)で花見は早いでしょうか。昨年は4/9(土)で丁度良かったのですが。お近くの方は教えて下さい。

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送信者: "ono harusato" 6組 大野晴里
件名 : Re: [:0291十二月クラブML] 陸軍記念日
日時 : 2006年3月11日

3月10日の東京空襲を知つたのは4月始めインド洋に浮かぶアンダマン島でした。
4組の樽君と一緒に近歩3連隊行きました、彼はその時スマトラ北部の筈です。
南方軍指令からの将校回覧で通知されましたが、英軍のビラで、解りました。

陸海軍記念日は外交的に先ず有利な応援の元に軍事があつた事が結果したと思います。

Secand War はAnglo−Saxon 相手。しかも経済を無視した陸軍学校の頭と教育の結果かと、悔やんでも悔やみきれません。

私は浅草で生まれ育ち、商業の最高学府を出て家業の材木屋を継ぐべく、親父は私を南洋材の産地の方へ海外旅行をさせてくれました。
関東震災で裸になり、私の父母は祖父母を隠居所に置き、懸命に復興した総てを3月10日で、またもや裸に。

当時を知る家族は世田谷に住む80歳の妹のみで、父母と祖母(当時90歳)の4名の命が助かった事だけを有りがたい事として話をしてくれるだけです。

いま米寿を迎えんとして。感無量です。        大野晴里 (6組)