田中完三翁 明治19年(1886)1月20日生
明治41年(1908)7月東京高等商業学校本科卒業(一橋)
8月三菱合資会社入社
大正2年(1912) ロンドン留学
大正5年(1915) ニューヨーク初代出張所長
大正7年(1917) 三菱商事設立に伴い移籍
昭和15年(1940)3月 三菱商事会長
昭和20年(1945)11月1日 三菱本社 社長
昭和61年(1986)1月9日逝去(後11日で満100歳)
牧兼之氏(S16学卒)
編集
田中完三翁遺稿集
九 十 五 歳 の 記
全217頁より第80頁〜83頁
十六、 君 は 神 を 信 ず る か
(昭和五十六年二月二十六日)
それが動機というでもないが、
想い出したのは僕がまだ一橋の学生だった頃、
一日
野上俊夫(東大文学部在学)、渡辺轍(同上)及その弟靭(じん)(東京美術学校在学)
と四人で快談したことがあった。
此四人の父親はいずれも佐渡相川の地侍出身で、
凡(およ)そ 同年配の親友であったらしい。
其時渡辺兄が差し出した記念署名簿に野上が先ず筆を執って
「総ての宗教は迷信なり」 と書いて署名した。
別に宗教問題を論議していた訳でもなし、
何故野上が突然そんなことを書いたか判らないが、
彼は心理学を専攻していたから、
予(かね)て 此種の問題に思を潜めていたのかも知れない。
しかし如何にも大胆な論断で宗教無用論とも取れたが、
何分皆若い連中のことだから、
いくらか痛快に感ずる様子も見れた。
尤も野上自身は、後年、京都大学の先生になった頃は、
宗教無用論者ではないと弁解したかも知れぬ。
*
昨年六月、旧三菱商事時代からの友人新田、筧、神谷の三君と拙宅で会食した際、
筧君が突然 「あなたは神を信じますか」 と質問して来た。
一寸返答に困ったが、
正直に「信じません。然し神を信ずる人を尊敬します。そういう人は悪い事をせぬ人だから。」と答えた。
[其後此問題を考え直して見ても、自分としてはあの時の返事で間違いなかったと思っている。]
[哲学や宗教学から見て何と批評されようと、自分自身の信念はあの通りである。]
思うに縄文の昔から人類は総て神の実在を信じ、
神を手頼(たよ)りとして活(生)きて来た。
神は天災地変を駆使して、人類の生殺与奪を行う権威者と信ぜられていた。
雷鳴が轟き、稲妻が走る度に人々は地に伏して震え上がった。
神に縋(すが)る以外に安心立命を得る途はなかった。
それが其後少し自力で生存、生活に自信ができて来ると段々大胆になり、横着になり、
神を疎略にし始めた。
そこへ十九世紀の革命的な科学の進歩が押し寄せ、
神の威徳も愈(いよいよ)薄らいで来た。
しかし如何に科学が進歩しても人世の不幸は減らず、此世の不安も解消しないので、
一般人としては太古以来の惰性もあって、
科学者が何と言おうとこちらは神仏を手頼りとして幾らかでも幸福を掴み、
不幸を免れる方が近道だという心境になって来た。
多数の若者が毎年大学の入学祈願に湯島の天神さんに殺到するのも其一つの現われであろう。
だが宗教家の立場からすると、
一般人の此動向を傍観して「どうぞ御自由に」では済まされない。
実は宗教家こそ、
世上各界の人々の内で最も「君は神を信ずるか」の賛問に直面して真剣に苦慮する人達でないかと思う。
宗教家の任務は神の実在を世人に信ぜしむる事ではない。
真の任務は一切衆生(しゅじょう)に人の途を示し、俗人を指導して正義正道を履(ふ)ましめ、
此世に安全と幸福を齎(もたら)すことであろう。
幸に人類は太古未開の時代から神を信じ、神を手頼りに活きて来たのであるから、
同じ道を説くにしても宗教家の一家言として説くよりは、
神仏の教訓として説明する方が衆生にも受け入れ易い。
唯宗教には太古以来の黴(かび)臭い部分が残っており、
科学万能の現世には通用せぬ点もかなりある。
そういう点に就いては
科学の力も取り入れ、
宗教と教育の提携により打開して行く外はない。
かくて各人が
自分は今迄の宗教と教育のお陰で如何なる場合にも不正、不義を行わぬという自信が付いたならば、
神を信ぜぬと答えても許さるべきだと思う。
然し神様の方で俗人どもが永々面倒をかけておきながら、
今になって急に神を信ぜぬなど公言して平然たるのは身勝手な奴等だと言われるかも知れないが、
そこは神と人は親と子のようなもの、
まあ大目に見てやって下さい。
日本では昔から「苦しい時の神頼み」 と言います。
今の羅馬法王ならそんな甘い逃口上でも笑って許して下さるかも知れぬ。