弔  辞

    

    韮澤 嘉雄 君

   今から70年前の1936年、二・二六事件のありました昭和十一年に、
   私共240名は東京商科大学予科に入学しました。
   当時は大学えの進学率は1パーセントに過ぎませんでしたが、
   一橋の入試は難関でした。
   君は長野県上田中学から四年修了で普通より一年早く合格しました。
  
   1組40名で6組の編成で、1組から4組までは第2外国語ドイツ語、
   5/6組はフランス語の組でした。私共は5組フランス語の組でした。
   
   クラス会の名称を亦楽会と決めました。
   これは論語の劈頭・学而篇に 子日、 学而時習之、不亦説乎。 
   有朋自遠方來、不亦楽乎。 人不知而不慍、不亦君子乎。とある、
   この第二節目からとったものです。

   そして私共は小平寮の第1回生です。
   70年前の17歳に、規則ずくめの中学校の生活から開放され、
   ストルム・ウント・ドランク「自由の砦、自治の城」「いざ雄飛せん五大洲」と
   声高に歌ってストームをかけたりしました。

   君が生涯をかけた寮歌祭の一橋の総隊長の出発点でした。

   教室では三浦新七先生、上田貞次郎先生方の薫陶を受け、高貴な精神、
   ノブレス・オブリージュ、キャプテン・オブ・インダストリー
   の精神を頂きました。

   戦雲は急を告げ、徴兵猶予は取り消されて3ヶ月繰り上げ、
   開戦の昭和十六年(1941)十二月に卒業となりました。
   戦後の卒業20周年記念の同期会で同期会名を
   「十二月クラブ」と名付けた由縁です。
   私共は敢然兵役に服し、学友35名を失いました。

   下って、2000年7月 十二月クラブ月例会において、クラブのホームページ
   作成の提案に対して賛成応援演説をしてくれたのは韮澤君でした。
   また如水会員生涯Eーメール・アドレス設定システムを提供したのも君でした。

   十二月クラブのホームページに君の語り尽くせぬ生涯現役大活躍の関連記事、
   並びに学生時代の記事共、追悼文に多数リンクを張りました。
   広く、末永く、後輩諸君が見てくれます。    

   君の生涯はご立派なご生涯でした。ご冥福を祈ります。合掌

             平成18年(2006)12月18日

              昭和16年12月東京商科大学卒業五組亦楽会 山崎 坦