続亦楽 この人を見よ(7) Native American のように
小池 真登 君
いつの頃からか気が着いてみると名簿の小池君の名前が「真澄」になっているではないか。
クラスメイトであれば彼の名前を間違えることはない。
クラスには真登 敏登 幸登 と3人の ○登 君がいた。
小池君は殆どアメリカの2世のようで、本当の米語が話せた。
その代わり漢文は出来ず、入学試験をどうやってパスしたのか不思議に思うのだが、
当時の試験官の目が高かったと思わずにいられない。
予科では漢文の試験に苦労したようで、答案に 私はアメリカ生活が長く漢文は駄目ですと
書いて提出したという話があります。
体格が良かったから入学早々ボート部にマークされ入部した。
クラスメートの天谷君 仲山君 松井君 と共に入部したのだが、奇しくも 4人とも戦死している。
もう一人入部した大友君のことは既に亦楽(4)に書いたが、19歳最年少で入学した彼は小柄で、コックス要員で
ボート部に入部したが、3年の秋に身体を壊して、療養生活に入り、2年後退学、戦後27歳最高齢で再入学、卒業後は三菱信託に就職していた。昭和59年亡くなった。
戦死した学友の感想文は卒業アルバムに残った短いものしかない。
「一橋六ケ年、その生活は實に豐かだつた。得たるもの、友また端艇道。」(小池 眞登)
亦樂會クリック 写真左端で腕組みをしている。
奇しくも小池君の出征先は亦楽(6)に書いた小林君と同じビルマの、小林君の部隊の隣の部隊の士官であった。
英空軍の襲撃を、小林君は避けることが出来たが、小池君は打たれて戦死した。
戦没学友名簿(クリック)昭和19年7月9日インパール作戦において。
「アルバム」をクリック、最後まで繰っていただくとセピヤ色の記念写真が出る。三越百貨店の写真部を経営していた小池君の父君に撮っていただいた最後の卒業記念写真である。前列右から二人目が小池君である。
ビルマなどで戦死しないで生き残れば戦後の彼の役割はきわめて大きかったと口惜しい。