如水会ゝ報 平成十九年(2007)3月 第922号 p3 [橋畔随想]

如意団の百年

なが いたかひこ
永井孝彦
(昭42法)


全国の大学で最古の坐禅クラブ「一橋如意団」が百周年を迎えた。

なぜ一橋に禅が根付いたのか。

如意団の歴史は明治三十七年福田徳三博士が校長との口論から休職を命ぜられ、
円覚寺に籠もったことに始まる。
当時の円覚寺管長は天下の名僧と言われた釈宗演老師で、
窮鳥のごとき福田博士と心の交流が生まれた。

禅の良さを理解した博士は、
学生の菅礼之助を通じ上野憲一、田崎仁義らに坐禅を勧めた。
彼らは編纂部や端艇部、剣道部の熱血漢であった。
特に上野憲一は禅に心酔し、三十九年六月に食堂に勧誘ビラを大きく掲示した。
「炭に値無し火に値あり」。
これに呼応した学生三十二人が夏休みの二ケ月を円覚寺内の如意庵で坐禅し浩然の気を養った。
「如意団」の名はここから起こった。
これら学生は、
当時縞ズボンの軟弱な学生と言われた東京高商の気質を質実剛健に変える原動力となった。
キャプテンオブインダストリーの精神の担い手となり、
総退学の申酉事件の中核となった。
福田博士らが進めた商科大学への昇格運動にも参画した。

博士は事件後の四十三年に復職、悲願の大学昇格は大正九年に実現した。
震災で母校が国立へ移転した直後の昭和六年、
龍城事件が発生した。
団員はまた牽引車となった。

十年に菅先輩らの努力で小平に如意団道場が建設された。
戦時体制下、学内で文化部が認められなくなる中、如意団は鍛錬部として認められ、
存在を示すことになった。

(十二月クラブHP編者註:十二月クラブHP卒業アルバムより 如 意 團  をクリックしてみてください)

しかし学徒動員でクラブ活動は停止し、先輩学生の多くが戦場に散華した。

戦後小平道場は学生寮に転用されたが、竹本都来生らは復員後、円覚寺や般若道場で坐禅を開始した。
二十九年小平道場が返還され、高橋宏らが道場で坐禅を再開した。
昭和五十三年に道場が類焼で灰塵に帰し、
翌年近藤鉄雄文部政務次官、田中外次、韮澤嘉雄
(註:昭16学後)ら先輩の尽力で再建がなった。
平成八年には一、二年生

が国立に移り、学生は国立への道場移転を熱望した。
難問であったが、新体育施設の用地として立ち退きを迫られたこともあり、
山本武利団長、永井正ら先輩の尽力と寄付により移転が実現した。
平成十年に国立西棟舎の西南の隅に新道場が建設され、
現在は国立を拠点に活動が継続している。

この百年、

学内では
福田徳三、太田哲三、上原専禄、大平善梧、石川滋、山本武利、嶋崎隆らの教授が
団長として
学生を支援して下さった。

禅の指導には
円覚寺の釈宗演、宮路宗海、古川亮道、太田晦巌、朝比奈宗源、足立大進、横田康嶽、
般若道場の苧坂光龍、山本龍廣、那須雲巌寺の林古鑑、高歩院の大森曹玄と
錚々たる老師方があたられ、熱心なご指導をいただいた。

如意団の卒業生は約千人にのぼり、殆どは実業人や教育者となって各方面に雄飛した。

平成十八年十一月十八日、円覚寺で百周年法要を営んだ。
実行委員長は岩松良彦禅友会会長。
ご来賓として江頭理事長、杉山学長にご参列いただいた。

これを一つの区切りに、如意団は将来に向けてどうあるべきなのか。

法要での法話で横田康嶽老
師は「唐代の薬山禅師の無言説法」をとりあげられ、
禅の基本は説法以前にあるというのが無言の教え、
座禅も先輩が後輩に背中で伝えることが大切だと申された。

如意団について故阿部謹也学長は次の言葉を残されている。
「戦前東京商大は (宗教をとりあげる) 人文科学について
金子鷹之助先生とか山内得立先生他の優れた学者を擁していた。
戦後は講座一つのみ。
経済、商学だけでなく仏教あるいは宗教全体に目を配ったところでしか本当の意味での社会科学たりえない。

如意団が坐禅や宗教の奥義を極める活動をしてきたことは
本学の講座体系の不備を十分に補っていただいたものだと感謝している」 (如意団九十年誌)。

この励ましを無にしないように心がけることが次への始まりだろう。

(理研香料工業社長)