如水会ゝ報 平成20年(2008)7月 第937号p.2
百十八年前の一橋群像の写真
こだま すすむ
児玉 進
(昭36法)
提案したい。
如水会員の祖父や曾祖父の中には、
一橋の前身の東京商業学校(明治一七年設立)、高等商業学校(同二〇年設立)、
東京高等商業学佼(同三五年設立)を卒業した大先輩が結構いると思う。
如水会の全国ネットを活用して、これらの方々の学生生活の写真を発掘し、
電子記録として保存してはどうだろうか。
大正九年設立の東京商科大学以降の学生生活については写真もかなり残っている。
だが、明治時代の母校については、
歴代校長や名物教授、関東大震災以前の校舎、図書館風景、教科書などの「公式展示写真」が
如水会ホームページにある程度で、学生生活の点描は少ない。
というか、ほとんど見ることができない。
わが家にセピア色のポロポロになった二葉の写真が伝わっている。
その一枚には「明治廿三年四月五日高等商業学校端艇競漕会ヲ墨水ノ上流ニ催ス。
分科競漕三回挙デ我科全勝タリ。写真ヲ撮シテ之ヲ祝ス」とある。
競漕用のユニフォームと帽子姿の二十一人の若者がマーキュリーの旗を中心に、
ある者は傲然と腕を組み、ある者は胡座姿で眼光鋭く、ポーズを決めている。
「大日本東京浅草公園早取写真師江崎礼二製」とある。
墨田川でクラス対抗戦があり、優勝して浅草になだれ込み、記念写真を撮ったのだろう。
百十八年前の明治二三年に、
すでにマーキュリーの校章と校旗があったことをこの目で確認し、
私は母校の歴史を思い、軽い興奮を覚える。
二十一人の名前も明記してある。
如水会会員名簿と突き合わせて確認できた方々は以下の各氏である。
鵜瀞修一、青柳龍五郎、木村勝、百田礼五郎、原文次郎、河合栓之介、坂本尚五郎、
瀬嶌猪之S、千坂忠、萩原喜三郎、日高驥三郎、松村亀太郎、矢野義弓、山崎麟太郎。
この他に会員名簿では確認できないが、写真説明には森川鍵蔵、田部房次郎、今村直三、
三橋喜之助、河村乕次の各氏の写真と名前がある。
当時は養子縁組で改氏改名が珍しくなかったので、
写真説明と今の如水会会員名簿の名前が必ずしも一致はしない例がある。
氏は同じだが名前が違う、その逆もある。
もう一枚は、凛々しい五人の若者の集合写真で、四人は学生服姿、ひとりは背広姿。
「明治廿四年六月写ス」と添え書きしてある。
何かの記念写真と思うが、説明文はない。
「麹町区飯田町四丁目壱番地小川一眞製」とあるところをみると、
神田一橋の校舎で授業が終わり、仲間五人組が飯田橋の写真屋で撮ったのだろう。
如水会会員名簿で本城一生、松村亀太郎、吉富機一の三氏の顔と名前は確認できたが、
祖父の文字が達筆過ぎてあとの二人は宇都宮、秋本と姓だけしか判読できない。
名簿でも確認できない。
両方の写真に写っている松村亀太郎は五十年前に九二歳で死んだ小生の祖父である。
学生時代にボートの選手だったと聞いていたので、昭和三一年に私が一橋に入った春、
「オレもボートを漕いでみたい」と口走ったら、「無理じゃ」と一笑にふされた記憶がある。
私は卒業して経済記者となり、三菱重工業を担当した時期がある。
その時読んだ三菱重工業社史の中で祖父の名前を見つけた。
それによると、祖父は明治二七年長崎三菱造船所に勘定方として赴任し、
英語による商業簿記程度だった会計組織を改め、
日本語の原価計算や複式簿記、工業簿記の導入に努めた。
指導役の英国人が肝心のポイントになると教えてくれなくて悪戦苦闘したという。
写真に写っているその他の方々も
わが国資本主義の黎明期にそれぞれの分野のパイオニアとして活躍し、
ご苦労されたことであろう。
激増する女子学生、国立大学法人化、四大学連合など母校の変貌と対比して
一世紀以上前の群像写真を眺めていると、
一橋の歴史の重みを改めて実感する。
「古きをたずねて新しきを知る」という。
巷に埋もれている往時の珍しい写真を
今のうちにできるだけ集めておくことができればと思う。
(元朝日新聞社)