四 度 目 の 九 州
一組 鈴木貞夫
最初の九州旅行は、昭和55年11月だった。亡き級友塩見英次君と2人で行った。
大分県臼杵(うすき)の石仏と磨崖仏を見て、国東(くにさき)半島を巡る旅だった。思えば28年前のこと。2人とも若かったし、かなりの坂道も石段の道も平気で登った。
(註)熊野磨崖仏 鬼が一夜で積んだという荒い石段は200m登ると、左手の崖に、高さ 6.7mの大日如来と、8mの不動明王が現れる。我国最大級の磨崖仏である。
第2回は平成4年11月の鹿児島、宮崎。これは私が前に勤務した東芝機械のグループと旅をした。事務系は私だけ、他の11名は皆技術系で、東京大学機械工学科をトップで卒業した秀才あり、東工大出身が3名、他に、神戸高工、名古屋高工、浜松高工、明治専門卒とか優秀な連中が揃っていた。この旅での想い出は鹿児島県知覧で見た特攻兵達の宿舎のあり様だった。あまりにひどいもので暗澹たる気持におそはれたのだった。
第3回は平成16年5月の長崎県五島列島だ。単独でのツアー参加だったが、海の水の綺麗なこと、そして本当に鄙びた山間(やまあい)というか、ちょっとした谷間(たにあい)の処に、小(こ)ぶりな古びた教会がひっそりと建っているを見、その裏手の崖に穴をうがって、小さなマリア像が安置されているのを見て、なんとも言えない風景、風情(ふぜい)だった想い出がある。
今回の九州旅行は阿蘇、熊本、長崎がお目当(めあて)だ。5月14日より17日までの3泊4日の旅で、自分なりに少々疲労を懸念しての出発だった。
初日は羽田発の飛行機で福岡空港着。待っていたバス「JALライナー福岡、由布院、別府号」に乗り、先づ西行。
佐賀県の「吉野ヶ里(よしのがり)歴史公園」に行く。これは弥生時代の遺跡で−集落約3万坪の広さで、所々に、往時の住居、貯蔵庫、物見などが建っている。環濠など浅いものだが、住居の一かたまりに、めぐらされ掘られている。逆茂木(さかもぎ)などもおかれている。当時は乗馬などの戦闘はなかったと思うし、逆茂木の高さ、長さには少々首をかしげてしまった。
(註)吉野ヶ里(よ しのがり) 昭和5 6年唐津の菜畑遺跡から26 00年前の炭化した米と農耕用具が発見され、日本最古の農耕遺跡と騒がれた。それから8年後、佐賀県吉野ヶ里で、日本最大級の環濠集落が発掘された。濠の外には高床倉庫群、丘陵部には数百基の甕棺墓が並んでいて「魂志倭人伝」を目の前にする思いである。
ここで大失敗。次々に出てくる住居跡などの写真撮影に夢中になって、集合場所への帰り道が判らなくなってしまったのだ。汗だくになりながら清掃をしている小母さんに尋ね、かなり歩いた処で次の小母さんに教えられて、漸くバスが待機している処に着いてホッとした。ドッと汗を流したことだった。
バスは反転して佐賀から福岡を抜け大分県の由布院(別府)に廻る。金鱗湖を見たり、民芸村をのぞいて第1日の行程を終る。
(註)由布院 40 0年前、豪族奴留湯主人正(ぬるゆもんどのかみ)はキリシタンの洗礼を受け、住民2千名も信者となった。伝道所が置かれ、教会も築かれた。ここは奥別府の温泉郷である。
(註)金鱗湖 かつて由布盆地は大きな湖だったといい、その名残り と伝えられる。湖の西半分には温泉が、東半分には冷泉が湧いていて鯉がよく育っ。湖の名は鯉の鱗からつけられた。
(註)民芸村 入口の門は福岡秋月藩の家老屋敷の門である。酒蔵を移築した民芸民具館には中門(なかかど)久雄氏が収集した古民具、民芸品が並んでいる。古い両替屋を移した銭屋あり。
第2日 バスは「JALダイナー別府、阿蘇、熊本号」だった。やまなみハイウェー(阿蘇噴火跡の高原を横切る九州横断道路)を走り大観峰(だいかんほう)で一休み。ついで阿蘇の草千里で昼食。牛馬の放牧が途中いくつも見られた。次が阿蘇噴火口の見物だが、何分噴煙の中にはC02は勿論、硫化水素など毒性ガスも含まれているので、風向きによっては噴火口に近づけないことになる、などとおどかされていたが、運よく風向きOKとの連絡があり、勇躍ロープウェイに乗って頂上に向かった。左右にミヤマキリシマの真盛りを見ながら行く。ロープウェイを降りて見渡すと避難小屋がいくつか目に入る。いざという時はその小屋に逃げ込めというわけである。噴火口に着いて驚いた。その広大なこと、そして削られた荒々しい岩の壁、急斜面の火口だ。火口の底の方に見えるブルー色は火口湖か? 表面温度は70度と説明があったが、その美しいこと。ただし、この色は、その日、その時間で違うとのこと。それは空の色、火口の熱度の変化で色が変るとのことだった。
なにか引き込まれそうな気になって、急いで離れてロープウェイの乗り場に戻った。
(註)阿蘇山 瀬戸内海と有明海とを結ぶ阿蘇水道という低地帯に噴出した火山である。阿蘇溶岩の分布は、東は70粁離れた大分県の臼杵まで、北は100粁離れた筑豊炭田まで、南は70粁離れた五家荘の下流や、95粁離れた天草半島の本渡まで延びている。火口丘群は、東から根子(ねこ)岳、高岳、中岳、烏帽子(えぼし)岳、杵島(きじま)岳の並びで、この五岳の全称が阿蘇山である。五岳中、唯一の活火山は中岳(標高1323米、火口の周囲は4千米、五つの噴火口があり最大の第一火口は直径600m、深さ130m、熱泥が沸とうしている。
阿蘇の語源は、燃える噴火口のあるところをアソオマイ という ところからといわれる。同じ火山の浅間山、吾妻山も同例らしい。
けふもう一つの見どころ熊本城に急いだ。
本丸御殿が本年3月に修復完成したとのこと、ボランタリーの年配者ガイドに案内された。
中奥の謁見の間の襖(ふすま)絵など、武辺者(ぶへんLや)の清正も矢張り安土桃山の派手やかな文化の影響を受け継いでいたのかと納得させられた。ただ加藤家がとりつぶされ、あとを継いだ細川家が有名な文化人大名であっただけに、私としては、細川家になってからこの様なきらびやかな襖絵が描かれたのかと思ったのだづたが、ガイドの話では、清正以来のものとのこと。加藤家から細川家に引き継がれた折のエピソードがある。最初に入城した細川忠利が、大手門の前で土下座して亡き清正に挨拶をしてから大手門をくぐったとのこと。そしてまた、以後、細川の家臣達は自分達の主君が透った大手門の中央の部分は絶対に通らなかったという話を聞かされた。天守閣は修復されたものだが五層になっているので敬遠して上らなかった。ガイドの話では内部はコンクリートで修復されているとのことだったので、「それなら何故エレベーターをつけなかったのか」と言ったら、ガイドを苦笑して黙って了った。
(註)熊本城 初めて築城されたのは室町時代で「千葉城」と呼ばれた。のち鹿子木(かのこぎ)氏がその横に「隈本(くまもと)城」を造り、1588(天正16)年加藤清正が城主となった。清正は7年の歳月をかけて1607(慶長12)年完成させ「熊本城」と名づけた。籠城用の食料と して多数のイチョ ウを植えたため銀杏城とも呼ばれている。清正の死後、細川忠利が入城、以来明治まで240年間細川54万石の居城だった。西南の役1877(明治10年)で大部分を焼失した。1960(昭和35)年以来天守閣をはじめ再建修復が進められている。
第3日は「JALライナー熊本、雲仙、ハウステンボス号」と云うバスに乗る。熊本から島原までフェリーでバスごと運んで貰う。この間約30分。仁田(にた)峠からロープウェイで普賢岳(ふげんだけ)(1360m)に上る。但し、ロープウェイ迄(まで)長い坂道を歩かされ、正に息も絶えだえと云う状況だったし、ロープウェイを降りてから展望台まで再びかなり歩いたので、それ以上は、頂上が見えているのに敬遠させて貰った。しかし、ロープウェイで下る途中眼にした土石流の流れ下った跡のすさまじさには怖気(おじけ)をふるったことだった。
(註)普腎(ふげん)岳 島原半島の中央高地にある最高峰が普賢岳である。国見(くにみ)岳、妙見岳、野岳、絹笠山などの山々が群をなしている。そのまん中に雲仙温泉が湧き出している。
下界に降りてから雲仙地獄めぐりをした。
至る処濛々たる白煙が立ち昇っている処をぶらついた。その途中、年配の小母様から「失礼ですがお歳はおいくつですか」と訊ねられ、本当の年令を言ったら、「エエツ」と驚いて−緒にいたお仲間に吹聴したので、パッとあたり一面の人達に知れ渡り、驚き呆られて了った。90才での一人旅、結構皆さんと一緒に行動しているのだから驚かれても仕方ないかとあきらめた。
(註)雲仙地獄 硫気で荒れて白変した山肌の間から 30ほどの地獄がふきだす。熱湯と水蒸気を噴出する賽(さい)の河原、二つの湯玉が並ぶ兄弟地獄、ごう音をたてて10mもの湯けむりをあげる叫喚(きょうかん)地獄、噴泥の清七(せいひち)地獄、音のないのが立聞(たちぎき)地獄、島原の毒婦お糸の処刑のとき噴き出したのがお糸地獄などで、一周約40分ぐらい。
ここで私だけバスを降ろされた。旅の当初からその様に予定が組まれていたので仕方がない。ただ、バスを降りた私一人に、バスに残った全員が手を振って別れを惜しんで呉れたので少々感動した。
降ろされた九州ホテル(裏手一帯が地獄地帯。大正6年外人専用ホテルとして発足した。和風の感じが漂う)は宿泊の予定ではないので荷物をフロントに預け、食事をしてから近辺をぶらつき「雲仙お山の情報館」で展示品を見てから時間をつぶし、2時半すぎにホテルの車で今夜の宿に送って貰った。
第4日 旅行最終日、12時頃に昨日の九州ホテルまで送って貰い、12時半頃に来た「JALライナー熊本、雲仙、ハウステンボス号」に乗る。ドライバー、ガイドとも昨日までの顔触れとは違っている。小浜(おばま)で昼食は「小浜ちゃんぽんとにぎり寿司」をとって、そのあと一路長崎に向う。長崎は「出島」1636(寛永13)年徳川幕府はカトリックが領土的野心を持っていることを警戒し、扇形の人工島出島を造ってポルトガル商人を集めた。5年後にはポルトガルとの通商を禁じて、平戸のオランダ商館をここに移した。オランダだけが通商を許されたのは彼らが新教徒だったからだ)の跡が復原されてをり、車窓からだが珍しく見せて貰った。ポルトガル人の夢の跡だ。
次に下車した処は大浦天守堂は1865(慶応元)年居留民のために造られた日本最古の木造ゴシック建築である。長崎はとにかく小山に囲(かこ)まれていて坂の多い処だということは知っていたが、この天主堂も近づいてみれば数十段の石段の上で、私の一番の苦(にが)手の道なので敬遠して、下から写真を2〜3枚撮って終りとした。
そして次に大浦天主堂の丘の横のグラバー園に向う。ここも坂道と石段が多いのだが、途中を何ども区分してくれてエスカレーターが設けられているので大助かり。ここは旧グラバー邸のみならず数軒の外人邸を買収して観覧に供している。やみくもに上まで上って帰りブラブラと降りてくる途中にグラバー邸があった。やはり貫禄がある。下まで降りてきた処に三浦 環のオペラ「蝶々夫人」の像があった。
(註)旧グラバー邸 トーマス・グラバーは1858(安政6)21才の時来日 して、商会を設立した。彼は薩摩、長州、肥前などの尊皇派に武器を売って巨利を得た。明治44年長崎で死去。この邸は1863(文久3)年に建てられたものだが、現存する木造洋館ではもっとも古い。彼の夫人つるは芸妓出身だったといい、その家紋が蝶であったところからグラバー邸が喋々夫人と結びつけられたという。
ガリバー園の頂上から眺めた長崎の町と云うか、長崎の湾の景色は素晴しかった。山にかこまれ狭い町だっただけに広島と比較して原爆の被害も限定されたとのことだった。長崎での最後は平和公園である。テレビなどで何度か見ているあの巨大な平和の像の裸像が右手を上に、左手を横に真っすぐ伸ばして安座している。たくましい素敵な像だ。しかしこれが何故平和のシンボルなのか判らない。
(註)平和公園 公園中央に建つブロンズ像は高さ9.8m、重さ30 t。島原出身の彫刻家北村西望氏の名作。 天を指す右手は原爆の脅威を、閉じた眼は原爆犠犠牲者の冥福を祈る姿という。
これで一路長崎空港に向う。バスから2〜3人降りただけで、あとの人達はハウステンボスに向った。空港で軽い夕食をとる。羽田行の飛行機は満席だった。かくして4度目の九州旅行も終り、羽田から帰宅したのは夜10時だった。まずまずの旅行だった。
国内旅行は機会があればあと2〜3ヶ所行きたい処が残っている。残された生命力とご相談申上げてのことだろうが、ぜひ行ってみたい。
註其の他水田正二氏の加筆をいただいた。われながら文章がしまったかんじがする。
一筆して謝意を表したい。(鈴木)