過ぎにし八月。

5組 山崎 坦

八月になると、夏休みも峠を越えた感じになって、

宿題を全然やっていなかったせいもあるけれど、

蝉も、蜩(ひぐらし)が鳴きはじめ、やがて、つくつく法師が鳴きだしたら、
もう夏休みは終わりに近いということで、心細くなった。

海には土用波が立って、波のうねりも大きくなり、くらげが出て来て、刺されると、ひりひりと痛かった。

ビーチパラソルの日陰で、焼けた砂の上に敷いた畳表(茣蓙というんでしょう)に寝転んで、
膚に心地よいそよ風を感じたアンニュイの気持ちは、本当に休息をとっている夏休みの感じだった。
平和でしたね。
昭和のはじめから昭和15年頃までの学生生活です。
満州や上海では軍部が戦闘を始めていましたが。

20日を過ぎると、避暑客も三々五々東京に引き上げて行きます。
避暑地の賑わいはすっかり収まって、
海の鎌倉とか山の軽井沢は景勝な土地だけに、
夏の終わりは反動的に、やけに静かで、
「歓楽尽きて哀愁新たなり」といった寂しさが切なく漂います。

過ぎにし楽しかりし夏を歌った楽曲が沢山つくられました。

♪思い出の渚♪
♪’t was on the isle of Capri♪
♪Summertime in Venice♪
♪Vacation♪
etc・



昭和17年の夏
豊橋予備士官学校
実戦よりも激しく厳しい教練が行われました。
完全軍装での終わりなき行軍
汗が滴り落ちました。
落伍者はいつもT君と決まっていました。
汗が止まって青ざめてきたものは川に放り込んで冷やされました。

ある夜、兵舎で、教練が耐えられないA君が軽機関銃の木の空砲弾で自殺しました。

翌年の4月卒業、見習士官に進級、一個小隊を率いる小隊長となって出征しました。

昭和18年夏。戦地。戦闘。昭和19年夏。戦地。戦闘。
戦地では、昭和20年8月15日の玉音放送は聞き取りがたく、激励放送と思いました。が。
昭和21年夏には復員して焦土東京の焼け残った自宅におりました。