邦訳「経済法則の論理的性質」成るに及むで

 余が家に一の古き小さき色もいと鮮やかな袴を蔵する。余が幼少の折始めて袴着の際用ゐたものだといふ。其の後余の家弟も亦其の児等二人までも之を着用したとのことである。今は空しく筐底に蔵して僅かに年々一度の風入れの際余の愛児が片言いふ頃から余に似合はしからぬ奇麗な縞柄を見て小さな驚きの目を見張るのみである。此の小さな袴に對するときは之を用ゐた頃の
身のまはり、家庭の有様などそれからそれと連想されて余には唯々なつかしさの限りである。今は普通よりは寧ろ大男といふべき余が一度はこんな可愛らしい袴を着けたかと思ふと男一匹我ながら気恥かしいような気もする。更に此の袴が余のみならず余の家弟、余の家弟のみならず其の子等二人までも之を用ゐたといふに至っては、てんでにゑらさうな事はいって居るが誰も一度
は此の袴を着けて得意がったような時代もあったものと思ふと妙に考へさせられるような気もする。

 今、勝本鼎一君の好意と異常な熱誠とによつて余が十数年前滞独中の一旧著を邦語に翻訳せらるゝに至り、目前に立派な邦訳「経済法則の論理的性質」なる本書む見るに及むで、是は勝本君には少し気の毒な申分か知らぬが、余には丁度此の小さな袴に對すると全く同じ感じが喚び起こされる。

 本書邦訳の一言一句読み行くに従つて其の当時如何なる尊崇感激を以て、如何なる人の深き且つ厚き感化の下に、此の章句が綴られつゝあったか、歴然として自分ら目の前に其の常時の有様が浮んで来る。自分は子供の時から教育者即道学者というような気がせられて学校の教授先生は自分の生活の目標でもなかつたが、リッケルト先生の講義む聞いた時には自分も一度はあんな風な講義が出来たらさぞ愉快だらうなどと思ったこともあった。其の影響を強く受けてカントに随喜の涙をこぼし、指も千切れるかとばかりの独逸の厳冬の朝、日もまだあけやらぬ講堂に瓦斯の燈下にアディケス先生がカント第一批判を購読せらるゝときには、研究室の一隅に私かに胸を躍らすことも度々であった。余が少時漢学の素讀を教へらるゝとき読書の始めと終りには必ず一度づゝ其の書物に向つて礼拝する、旧き幼き折の習慣は、洋服着て腰掛け、机に向つた滞独の日にもカントの著書にだけは之を新にしたこともあった。当時朝夕礼拝までしたカントの画像は今猶ほ余の書斎にあるが未だに余は何となしに之を直視するを得ない。 ー  こういつた様な感激の学問的生活を迭つねかと思へば又一方には其の当時始めたばかりの写真道楽にカントも何もかも抛り出して一日朝から晩まで階下の穴倉の中を出たり這入つたりオートクロームの現像に夢中になつたりしたことも丁度其の時分であった。下宿の誰れ彼れ片つ端からモデルにしたり、しまいにはフックス先生御夫婦までカメラの前に立って戴いて遂には奥さんの白い御顔を眞赤に写してしまった様の乙ともあつた。こんな自分以外には何の意味もなきさまざまの事どもまでが本書の一言一句によ
つてそこはかとなく無限に余には聯想せられる。なつかしさの限りといはうか。

 本書に述べた論旨、立論の結構等猶ほ今でも勿論未熟ではあるが、其以来多少は思索を重ぬるに慣れて来た当今の目から見れば、自分とて決して満足し得べきものでないことは茲に改めて言ふまでもない。今之を面前につきつけられて之が正さしく十数年前の自らの而かも成激に満ちた生活を送った当時の著書だといはれては、唯唯気恥かしい思いがするばかりである。穴あらば消えよかしとも思ふ。自ら人に向つて示すなどゝの勇気は夢さらさら起り得ない。

 而かも本書を以て経済学の哲学的認識論的研究に對する橋渡しとする為めに邦訳を企てふとした若き人は必ずしも我が勝本君のみではなかった。既に余に直接邦訳の許可を得んとした人々も二三には止まらなかった。而かもいつも余は之に對して承諾するの勇気を持ち得なかった。余には観念の小さき袴も展覧会に出すほど馬鹿にはなれない。唯だ勝本君の真摯なる殆んど満一年間専念此の小著の邦訳の業に従事せらるゝを見、且つ余の小さき袴が余のみならず余の舎弟及び其の児等にも亦其の時に應じて役立った如く、本書も亦必ずしも若き経済学徒の間には全然無用の書ともいふべきものにあらずとの旨を諭さるる其の熱誠に動ごかされて此の邦訳書は奇しき運命の下に遂に世に出づるに至つた。

 こういふ實用的な考へや又旧著を今更に示されて気恥かしいといふ想ひや、何れもさることではあるが、余には之に増して本書を見ては唯唯懐かしいといふ念に堪えぬ。

 是程の意味しか有たぬ余の旧著を熱心に邦訳に移すに努められたる勝本君の労に向つては著者として余は、深くそうして厚く感謝するといふより以外に術を知らぬ。冀くは本邦訳によって多少でも我が学界を稗益することが出来、近時漸く盛んならんとしつゝある経済学並に経済現象の哲学的考察をどうか
邪道に陥らしめぬように少しでも貢献することを得ぱ庶幾くは訳者甚大の労を犒らひ得るかとも思ふ。

 若し夫れ原著監修者フックス先生夫妻に對つては今現に窮窘の極にある獨乙に於て嘸ぞ不愉快なる生活を続けられつゝあるであらうと思はるゝ時、本書翻訳に関する書肆との交渉等を御依頼した事等によって本書に對する古き記憶を新しく喚び起され際、今日の如く立派に本邦訳が出来上がつたのを御覧になつたら、嘸かし其の昔永年病褥に親しみつゝあった余の亡き母 − 今年は丁度其の二十三回忌に当る ー が常に余の産衣と例の袴とを取り出しては余が成人の後妻帯し、後嗣を得たらぱ之を見せるのだと楽しみにしながら遂に其の日の来るを見るに及ばずして逝つたが、其の時の淋しい併し家庭的笑ひと同様な笑ひをフックス先生御夫婦の唇に見ることを得るでもあらうか。ありし昔を思ひて今の此の念ひに對す、之も余にとって又果敢なきよすがの一つである。

      大正十二年二月二十八日

                                          左右田喜一郎